『市民の古代第11集』


市民の古代第11集 1989年 市民の古代研究会編
  ▼論考ーーよみがえる古代

よみがえる壹與

佐賀県「與止姫伝説」の分析

古賀達也

 1よみがえった卑弥呼

 邪馬壹国の女王、卑弥呼が『風土記」に甕依姫として現われていたことを、古田武彦氏が論証された。(1) それにより、『風土記』は古代の真実を解きあかす上で多元史観による再検討を求められることとなった。また、卑弥呼と甕依姫を同定した手法を参考にして、地方伝承の再検討を試みたのが、『市民の古代」第十集の私の論文「最後の九州王朝(2) 」であった。そして本稿では『風土記』と地方伝承の多元史観による分析で、ある人物の同定を試みた。
 その人物は『肥前国風土記』に「世田姫」と記され、同逸文では「與止姫(よとひめ)」あるいは「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」とも記されている。現在も佐賀県では與止姫伝説として語り継がれ、肥前国一宮として有名な河上神社(與止日女神社)の祭神でもある。ちなみに、近畿の大河淀川の名はこの與止姫神を平安初期に勧請(3) したことに由来しているという。
 このように、『肥前国風土記』や地方伝承に現われた與止姫に比定した人物は、卑弥呼の宗女で邪馬壹国の女王に即位した壹與、その人である。『魏志倭人伝』に記された倭国の二人の女王。その一人、卑弥呼が『風土記』に甕依姫として伝えられているのなら、今一人の女王壹與が『風土記』に記されていたとしても不思議ではない。幸いなことに、今回壹與に比定を試みた與止姫は現在も地方伝承として、あるいは後代史料に少なからず登場する。これらの史料批判を通して論証をすすめたのが本稿である。

註1 古田武彦著『古代は輝いていたI』『よみがえる卑弥呼』
 2 鹿児島県に伝わる「大宮姫」が『続日本紀』の文武四年条にある「薩摩比売」と同人物であることを論証した。なお、藤井綏子(やすこ)氏がその著書『九州ノート』において、大宮姫伝説を九州王朝系の伝承であるかもしれないと既に示唆しておられた。論文発表後、藤井氏からのお手紙によりこのことを知った。
 3 藤井綏子著『東背振村三津』に與止姫神勧請のことが触れられている。

 

 2『風土記』の世田姫

 與止姫伝説の文献上の初見は先にあげた『肥前国風土記』であるが、それには「世田姫」とある。その部分を抜粋する。

佐嘉の郡
(前略)郡の西に川あり。名を佐嘉川といふ。年魚あり。其の源は郡の北の山より出て、南に流れて海に入る。此の川上に荒ぶる神ありて、往来の人、半ばを生かし、半ばを殺しき。ここに、縣主等の祖大荒田占問ひき。時に、土蜘蛛、大山田女・狭山田女といふものあり。二の女子云ひしく、「下田の村の土を取りて、人形・馬形を作りて、此の神を祭祀らば、必ず應和ぎなむ」といひき。大荒田、即ち其の辭の随に、此の神を祭るに、神、此の祭りをうけて、逐に應和ぎき。ここに、大荒田いひしく「此の婦は、如是、實に賢女(さかしめ)なり。故、賢女を以ちて、國の名と為むと欲ふ」といひき。因りて賢女の郡といひき。今、佐嘉の郡と謂ふは、訛れるなり。又、此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神・・・鰐魚を謂ふ・・・年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従う。或は、人、其の魚を畏めば殃なく、或は、人、捕り食へば死ぬることもあり。凡て、此の魚等、二三日住まり、還りて海に入る。(『風土記』日本古典文学大系2より)

 『肥前国風土記』のこの一節は大変興味深い。前半にある荒ぶる神が往来の人々を半ば生かし半ば殺すというパターンは例の甕依姫の説話に酷似している。しかも縣、王等の祖「大荒田」という人物が大山田女・狭山田女という二人の女性の助言に従って、この神を祭るという点も類似したパターンと言える。
 更に注目すべき事は、その祭り方である。人形と馬形で祭るといった風習で思い起こされるのが、筑紫の君・磐井の墓、岩戸山古墳の石人・石馬である。又、縣主等の祖という肩書きをも示唆的である。九州王朝の行政単位「縣」の代表者たちの祖というのだから、大荒田は九州王朝の中心的人物の一員と見るべきであろう。そして、その大荒田が祭った神ならば、更に古い九州王朝始源の人物と推定できる。この荒ぶる神が後半の石神、世田姫と同一神かは文面からは定かではないが、共に佐嘉川の川上にあることや、荒ぶる神が過去の説話として記され、世田姫は『風土記』編纂時点の記事であることから、過去の荒ぶる神が『風土記』編纂時点には世田姫として祭られていたのかもしれない。いずれにしてもこれらが九州王朝の説話である可能性は濃厚である。この世田姫が海神を従えていると記されていることも重要な問題を含んでいるが、このことについては後に触れる。
 さて次に、「風土記逸文」にある與止姫について見てみることにする。『延喜式神名帳頭註』(一五〇三年成立)に記された次の文である。

 風土記に曰く、人皇卅代欽明天皇の廿五年、甲申のとし、冬一一月朔日、甲子のひ、肥前の國佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座あり。一の名は豊姫、一の名は淀姫なり。
(『風土記』日本古典文学大系2より)

 日本古典文学大系『風土記』の解説では、風土記にはこの種の鎮座は記さない、後代の記事とすべきである、として信憑性に疑問を投げかけている。しかし注意しなければならないことだが、九州には二種類の『風土記』が存在しており、古田武彦氏の研究(4) によれば、行政単位を「郡」とするものと「縣」とするものとに分けられる。そして、「縣」風土記こそ九州王朝が大和朝廷の「郡」風土記に先立って編纂したものであることを考慮すれば、「風土記にはこの種の鎮座は記さない」とする見解も問題があると言えよう。「郡」風土記にはなくても「縣」風土記になかったとは断言できないのである。それでは多元史観により逸文の内容を検討してみよう。
 「逸文」の構成は鎮座記事と神名記事とからなっている。欽明天皇二五年(五六四)と言えば、筑紫の君・磐井が継体に倒されて約三十年後であるが、先の『肥前国風土記』にある「人形・馬形」による祭祀と磐井の墓の石人・石馬との関連が年代的にも一致してきそうである。更に、この鎮座記事を裏付ける史料がある。『太宰管内志』の次の記事だ。

佐嘉郡 本荘大明神
「肥陽古跡記」に佐嘉郡〔與賀上郷十村ノ内〕本荘妙見山淀姫大明神〔本地十一面観世音菩薩也〕云云「知僧元〔甲申〕年九月廿八日夜於大塚妙見社来現垂跡給之神霊也(後略)。
(〔〕内は細注)

 九州年号「知僧」を持つ神社の縁起譚が記載されているのだが、同じ與止姫を祭神とし、しかも場所も同じ佐嘉郡である。知僧元年(五六五)の千支は乙酉であり、甲申は師安元年(五六四)であるが、これが欽明天皇二五年と一致する。(5) とすれば、この時期この地域に與止姫を祭った伝承が「風土記逸文」や神社縁起に残されていたと考えられる。更に言及するならば、九州王朝が編纂した「縣」風土記には九州年号が使用され、九州王朝による神社勧請あるいは鎮座記事が記されていた可能性もあろう。ならば、疑問有りとされた先の「風土記逸文」の史料価値は高いと言える。
 次に神名記事であるが、「與止姫」「豊姫」「淀姫」と混乱が見られる。『風土記』編纂時点において、既に祭神の名が、あるいは発音に数種の伝承が存在していたものと思える。「よと」「ゆた」「よど」と混乱していたため、『肥前国風土記』では「よた」といった名を記したに違いない。
以上、『風土記』に現われた與止姫について考察を続けたが、まとめれば次のようになる。
1). 世田姫は與止姫、淀姫と同一人物であること。
2). 九州王朝始源の人物であること。
3). 甕依姫(卑弥呼)の説話と類似した現われ方をすること。
4). 海神を従えた人物であること。

 以上であるが、『風土記』に登場する「世田姫」あるいは「與止姫」が壹與であるとしても矛盾はないようだ。次章では、もう一つの與止姫伝説「神功皇后の三韓征伐」説話について分析してみることにしよう。

註4 古田武彦著『古代は輝いていたIII』
 5 九州年号の干支のずれについては丸山晋司氏と平野雅曠氏、石川信吉氏との間で論争が展開されている。興味深い問題であるが、本稿の論旨には直接関わらないので、ここでは言及しない。


 3「神功皇后の三韓征伐」譚と輿止姫

 『古事記』『日本書紀』にある「神功皇后の三韓征伐」譚は史実としては疑問視されているが、多元史観によれば、これも本来九州王朝の伝承であったものを大和朝廷側が盗作した可能性が強い。ところが『記紀』とは少し異なった「干珠満珠型三韓征伐」譚というものが存在する。そこでは、神功皇后に二人の妹、宝満と河上(與止姫)がいて皇后を助け、その際に海神からもらった干珠と満珠により海を干上がらせたり、潮を満ちさせたりして敵兵を溺れさせるといった説話である。文献としての初見は十二世紀に成立した『水鏡(前田家本)』が最も古いようであるが、他にも十四世紀の『八幡愚童訓』や『河上神社文書』にも記されている。
 この説話で注目されるのが神功の二人の妹、宝満と河上(與止姫)の存在である(ただし、『水鏡』では香椎と河上となっている)。中でも河上は海神から干珠・満珠をもらう時の使者であり、戦闘場面では珠を海に投げ入れて活躍している。そして干珠・満珠は河上神社に納められたとあり、この説話の中心人物的存在とさえ言えるのである。この説話が指し示すことは次のような点である。まず、この説話は本来、宝満・河上とされた二人の女性の活躍説話であったものを、『記紀』の「神功皇后の三韓征伐」譚に結びつけたものと考えられる。更に論究するならば、神功皇后と同時代の説話としてとらえられている可能性があろう。たとえば『日本書紀』の神功紀に『魏志倭人伝』の卑弥呼と壹與の記事が神功皇后の事績として記されていることは有名である。要するに、神功皇后と卑弥呼等とが同時代の人物であったと、『日本書紀』の編者達には理解されていたのである。(6) とすれば、同様に、宝満・河上なる人物も神功皇后と同時代に活躍していたという認識の上で、この説話は語られていることになる。このことはとりもなおさず、宝満と河上(與止姫)は卑弥呼と同時代の人物であることをも指し示す。
 こうして、もう一つの與止姫伝説「干珠満珠型三韓征伐」から支持する説話であることが明らかとなったのである。また、この論証は宝満=卑弥呼の可能性をも暗示するのだが、こちらは今後の課題としておきたい。(7)
 さて、宝満・河上の戦闘譚との関連で浮かび上がってくるのが、『魏志倭人伝』に記された邪馬壹国と狗奴国との戦争記事である。この戦争の伝承が「三韓征伐」譚と結びついたのかもしれない。次章では『魏志倭人伝』との関わりについて分析する。

註6 もちろん両者は別の時代の人物である。卑弥呼は三世紀前半ないし中葉、神功は四世紀前半ないし中葉。『書紀』の紀年が二倍年暦により大きくずれているため、たとえば『三正綜覧』では神功皇后の在位期間が西暦201〜269年とされている。

 7 甕依姫説話の「麁猛神」は「ソタケルノカミ」と訓じ、筑紫神社(筑紫郡筑紫野町)の祭神「八十猛尊」のことではないかと、古田武彦氏は『よみがえる卑弥呼』で指摘しておられる。甕依姫(卑弥呼)を「祝」として祭った「麁猛神」が、氏の指摘通り筑紫神社の祭神「八十猛尊」であれば、筑紫神社には祭神として「宝満大神」も祭られていることが注目される。祭る側が後に祭られる側に入ることは十分考えられるし、そうであれば宝満=卑弥呼の傍証とも言えよう。


 4「干珠」「満珠」の謎

  「干珠満珠」で思い浮かぶのは、山幸・海幸説話だが、與止姫と干珠満珠が何故つながっているのかについて検討してみよう。おそらく山幸・海幸説話がバックボーンにあっての説話であろうが、藤井綏子氏が興味深い説を述べられている。それは、干珠満珠説話の発祥の地は潮の干満の差が激しい有明海ではないか、というものである。(8) 有明海の干満の差は最高六メートルにもおよび、その影響で筑後川の流れが私の故郷の久留米市まで逆流するほどである。したがって佐賀県の興止姫伝説に干珠満珠が登場しても不思議ではない。ちなみに、河上神社には文化財として今も干珠と満珠があるという。 (9)
 それでは干珠満珠とはいったい何なのだろうか。『八幡愚童訓』『河上文書』には干珠は白珠、満珠を青珠と記している。そして、それに対応するかのように『魏志倭人伝』には倭国の産物として「真珠」「青玉」をあげ、次のような記事をのせている。

壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送りて還らしむ。因りて臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す(『倭人伝を徹底して読む』古田武彦著より)。

 ここに倭国からの献上品として「白珠」と「青大句珠」が登場するのである。壹與と白珠・青大句珠、そして與止姫と干珠(白珠)・満珠(青珠)。ここでも壹與=與止姫を示唆する物的証拠の存在が明らかとなったのである。
 さて、ここで先にあげた與止姫と海神との関係について検討してみよう。『風土記』では海神が毎年訪れるとあるが、「三韓征伐」譚では干珠満珠を海神からもらったことになっているので、與止姫への献上品として海神がもたらしたのかもしれない。とりわけ、『魏志倭人伝』にある「白珠」は真珠のことなので、海神すなわち海の民の王からの献上品にふさわしい。となれば、この海神と記された者は、例の海幸の系統を引く人物と思われてならない。そして、邪馬壹国の女王壹與こそ、その国名が暗示するように山幸の系統をひく王と考えれば、『風土記』の記事がリアリティーを帯びてくるのである。それでは海神の国はどこか。それは海幸の子孫と伝えられている隼人の国、鹿児島県地方ではないだろうか。そしてその地は『魏志倭人伝』に言う「投馬国」であろう。(10) この問題については今後更に論証を深めたい。

註8 藤井綏子著『東背振村三津』
 9 同右。
 10古田武彦著『ここに古代王朝ありき』に投馬国の所在地が鹿児島県指宿市付近であることを考古学的事実により論証されている。

 

 5共通する個有名「與」

 いよいよ最後の論証に入ろう。人物を同定する場合、最も重要かつ基本的な論点、それは名前である。安易な人名比定による同定は危険であるが、同一人物であるからには名前がまったく違うとすれば、これもまた問題である。したがって、他の論証を十分につくした上で人名比定の作業に入る方法をとったのは論証に慎重を期したいがためである。
 すでに読者はお気付きであろうが、壹與と與止姫の共通項、それは「與」の一字である。壹與の壹は国名(邪馬壹国の壹)を姓としたもので、固有名部分は「與」である。古田武彦氏の論証によれば、「與」は中国風一字名称と考えられ、国号を姓とし、中国風一字名称を付して、倭王は中国の天子への上表文の自署名としていたとされる。(11) 與止姫の場合はどうだろうか。たとえば『日本書紀』景行紀に登場する「八女津媛」などの場合は地名(八女)プラス称号(媛)とも考えられ、「八女」が固有名かどうか判別できない。しかし、與止姫の場合はその心配はないようだ。なぜなら『肥前国風土記』には、石神の名が世田姫であると記しており、またこの地方に「よた」あるいは「よと」と呼ばれた地域は見当らない。したがって、與止姫の「與止」は固有名と見て間違いないであろう。壹與の固有名「與」、そして與止姫の「與止」。この「與」の一致は同定作業の大きな根拠となりえる。

註11 古田武彦著『古代は輝いていた I』

 

 6よみがえる壹與

 八世紀中葉に成立した『肥前国風土記』に現われた世田姫は、十二世紀成立の『水鏡』では河上大明神と記され神功皇后の妹として活躍し、現在も淀姫様として佐賀県で語りつがれている。その與止姫伝説が邪馬壹国の壹與の伝承であったことを論証してきたが、ここで整理してみよう。

1). 『肥前国風土記』の分析により、世田姫は九州王朝始源の人物であり、「風土記逸文」では與止姫として記されている。また、説話自体が甕依姫(卑弥呼)記事と酷似しており、卑弥呼との関係がうかがえる。
2). 與止姫を祭った神社縁起に九州年号が現われ、六世紀には九州王朝が自らの祭神とした形跡があること。
3). 神功皇后の「干珠満珠型三韓征伐」説話に登場し、同説話では中心的人物として活躍している。そして、そのことが卑弥呼・壹與と同時代の人物であることを示唆している。
4). 「干珠満珠型三韓征伐」説話に現われる二つの珠の色が青と白であり、『魏志倭人伝』に伝える壹與の貢献品、白珠と青大句珠に対応していること。
5). 名前にそれぞれ「與」の字を持っていること。

 以上の通り、時代・名前が共通しており、ともに九州王朝始源の女性であることからして、與止姫が壹與であると同定してもよいと思われる。とりわけ、干珠満珠の色と、名前の「與」の件は偶然とは言いがたい一致を示している。ここに、古田武彦氏が論証された、卑弥呼=甕依姫説に加えて、壹與=與止姫説を提起したいと思う。そして、この仮説は邪馬壹国の領域が佐賀県にも及んでいたことを示唆する。このことを裏付けるかのごとく、本稿執筆中に佐賀県から大規模な弥生時代遺跡発掘(12) のニュースが届いた。まさに、邪馬壹国が、壹與がよみがえったのである。

註12 佐賀県神崎郡吉野ケ里遺跡。本年二月二三日の新聞によると、佐賀県神崎町と三田川町に袴がって周濠と城柵を持つわが国最大規模の弥生集落遣跡が発見された。それは『魏志倭人伝』に記された邪馬壹国の描写に酷似していると言う。

 

 7『高良記』系図の「世斗命」

 最後に、読者に不思議な系図の存在を紹介したい。それは、福岡県久留米市の高良大社にある『高良記」に記された系図である。この『高良記』も「千珠満珠型三韓征伐」説話を載せている縁起であるが、その「三韓征伐」に参加した神々として「異国征伐之時三百七十五人ノ神立」と題した系図が記されている。その一部分に今まで聞いたことのないような名前の一群があるのだ。
 そこには「稚日女命」から「天日神命」まで四十四代の名前が並んでいる。しかも二十五代目にあたる「五櫛彦命」から分岐して近畿天皇家の祖先ウガヤフキアエズヘと続いているのだ。古田武彦氏はこのことに注目して、この系図は九州王朝のものであり、近畿天皇家は傍流であると主張している系図ではないかと述べられている。(13) もし、氏の仮説が正しければ、九州王朝の歴代の王名が記された画期的な系図となる。そして、その中には当然のこととして卑弥呼や壹與の名前が記されているはずである。そして、その痕跡があるのだ。
 『魏志倭人伝」によれば、長らく男王が続いた後、卑弥呼が擁立されたとあるので、系図の中で男性名が続いた後の女性が卑弥呼にあたる可能性が強い。二十一代目の「天造日女命」がそれに相当するようだ。他にも何人かの女性と思われる名前があるが、その前に男性名が九人も並んでいるのは「天造日女命」だけである。そしてその次の名前が「天世斗命」であり、與止姫の「よと」と「世斗」とが共通するのである。ただ、「天世斗命」が女性名と判断できないことに問題が残るが、名前が一致することから壹與のことである可能性は十分である。いずれにしても『高良記』系図の研究は今後の重要課題であろう。最後に、與止姫伝説は長崎県にも残っており、これらの分析も今後の課題である。まずは與止姫と壹與の同定を論証しえたことで、読者の御批判を期待しつつ筆を置きたいと思う。

註13 一九八八年一一月二七日大阪府茨木市での講演会(市民の古代研究会主催)で発表された。

(一九八九年二月二七日脱稿)


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