平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の事実を求めて(『新・古代学』第3集)へ
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古田史学会報
1995年10月30日 No.10

『平成・諸翁聞取帳』

天の神石(隕石)編 

京都市 古賀達也

     一
 九月十六日、五回目の津軽旅行の初日。もちろん目的は和田家文書調査だ。夜行列車「日本海」で早朝の弘前駅に着いた私は朝食を済ませると弘前図書館へ直行した。 今回の弘前図書館での調査は主に東奥日報の閲覧、それも私が生まれる以前、昭和二六年頃の記事だ。和田元市・喜八郎父子が山中の洞窟から仏像などを発見した昭和二四年以降の状況を把握するためである。その結果 、いくつかの興味深い発見があったが、本編ではイシカの神石(隕石)についてのエピソードを紹介する。

   二
 昨今でこそ和田家文書偽作キャンペーンに荷担した報道姿勢をとり続けている東奥日報だが、昭和二六年当時は比較的公正な記事を掲載しているようだ。たとえば、同年八月二八日の紙面 に「八百年前の隕石 飯詰村和田君保存」という見出しで次の様な記事が見える。
「北郡飯詰村の史跡を調査中の考古学者中道等氏は、古墳並に佛像、佛具、舎利坪を発見、保管している飯詰村民和田喜八郎君(二四)の宅から日本には珍しい流れ星の破片である隕石を見附けた。この隕石は重さ二百匁、高さ二寸五分、底辺三寸の三角形で約八百年位 以前に落下して風化したもので隕石としてはやや軽くなっている。
 和田君の語るところでは古墳の祭壇に安置されていたもので古代人も不思議に思って神としていたものであるといわれている。」

 この記事に並んで、隕石の写真が掲載されている。翌二九日にも、「山岳神教の遺跡発見 飯詰村山中に三つの古墳」という見出しで、和田家が発見した佛像・佛具などについての中道氏の見解などが掲載されている。その記事によれば、当時和田家が発見保管している物として、佛像十六体、木皮に書かれた経文百二十五枚、唐国渡来の佛具、青銅製舎利壷二個が紹介され、「国宝級」と評している。
 こうした遺物を和田家が昭和二四年頃から集蔵している事実を見ても、昨今の偽作説がいかに成立困難なものであるかは明白だ。

   三
 図書館での調査を終え、和田喜八郎氏へ電話で隕石の記事のことを話すと、
「その隕石ならあるよ。見せるから明日来てくれ」
とのこと。四十年以上も昔のことなので、今では紛失しているのではと心配していたが、和田家で大切に保管されていたのだった。
 翌朝、古田先生や札幌の吉森政博さん(古田史学の会・北海道)と合流し、和田氏が待つ石塔山へ向かった。相変わらずサービス精神旺盛な喜八郎氏は遠来の私たちにその隕石をはじめ様々な遺物を提示された(隕石はその重さなどから隕鉄のように思われた)。更に『護国女太平記・巻之十二』や『東日流外三郡誌・附書』『丑寅日本国史絵巻』など計七点の和田家文書を貸していただいた。これら文書の詳細な調査報告は別の機会にしたいが、紙は未使用の大福帳のものが多く、反故紙は表紙(『護国女太平記』)に使用されているぐらいで、ブラックライト検査でも戦後開発された蛍光増白剤使用の痕跡は認められなかった。筆跡は『東日流外三郡誌』は末吉、絵巻五巻は長作、『護国女太平記』は江戸期のもので秋田孝季の可能性を有している。

     四
 今回借用した文書の一つ『丑寅日本史繪巻・十之巻』に収録されている「神像之事」に隕石のことが次のように記されている。

 神像之事
イオマンテに奉済せる神像とは石神なり。
宇宙より落下さる流星石をイシカ神、山に木の石となるヽをホノリ神、海や川に魚貝の石となれるをガコ神とせるは、古来よりの神像たり。
此の神像たるは柱六本の三階高楼を築き、地階に水神、二階に地神、三階に天神を祀りて祭事せり。是の高楼は大王オテナの住むる處に築きたるは古きハララヤ跡に遺りけり。 
是の高楼に祀れるは石神にして、人の造れるは祀ることなし。
是れをカムイヌササンとて、そのイオマンテは大なるあり。三年毎にコタンを挙して祭事し、神招行事七日七夜を通 して行ず。
祭事終りての夜はイシカの神石、ホノリ神石、ガコ神石を掌に拝頂せし者は神の全能神通 力に依りて、死すとも速やかに人身をして世に甦えると曰ふ程に人はこぞりて終祭の宵に神石を掌に拝頂せり。
此の神石は東日流中山なる石塔山荒覇吐神社に秘蔵し、毎年仲秋の満月に各々のコタンより参詣せる老若男女に拝頂さる習あり。人々各々、己が諸願を此の神石に祈らむと曰ふなり。
この神石を水に入れにして、その水を神水とて病にかヽれる者に飲ましめては必ず難病も心に悩めるも安心立命に達すと曰ふ。   
石塔山に降臨せし流星は鐵石にして重し。また地神なる木石塊も亦然なり。水神たる神石は今は世になき古代の生物の神石なり。  
(「、」「。」は古賀による)

 ここで注目されることは、石神を祭る高楼が六本の柱とされている点であろう。これなどあの三内丸山遺跡の六本の大柱穴と無関係とは思えない。偽作論者らはまた「三内丸山を見てから喜八郎氏が書いた」と言うに違いないが、今やそうした低レベルの中傷を相手にするよりも、和田家文書の内容の分析研究が必要な段階である。現に隕石(隕鉄)や三葉虫・アンモナイトの化石などが石塔山に集蔵されていることは、参詣した多くの人が知るところでもある(本年の例祭でも隕石が公開された)。

     五
 以上紹介したように、昭和二四年に発見された隕石が和田家文書では「イシカ(天)の神石」とされ、六本柱の高楼の三階に祭られていたとする伝承は貴重だ。三内丸山で同類の高楼跡が出土している以上、天地水の三神石を祭った六本柱の高楼跡が他の遺跡からも出土する可能性は高いのではあるまいか。そして同時に木や魚貝の化石が出土すれば、和田家文書に記された伝承が極めて正確であった証拠となろう。
 このように私が見た範囲だけでも和田家文書には貴重な伝承が数多く記されている。しかし、明治大正写 本だけでも推定二千点はあるとされており、それらの多くは学問的にも未調査の状態である。一日も早く和田家文書が公的機関で保管研究されることが望まれるのだが、そのためにも昨今の偽作キャンペーンや虚偽情報を暴露していかなければならないと痛感している。読者諸賢のご支援、ご指導を願いつつ本編を筆了する。

   補筆

 隕石を天からの神石とすることは、『東日流外三郡誌』にも見える。たとえば、八幡書店版第一巻五八七頁の「天地之明覚荒吐神之大要」には次のように記されてい 
「荒吐族が石を神せるは、この諸神いづれも石化に通ずる故なり。天よりの流星石、山なる大岩石、海なる海底岩石、諸生物なる化石、これ荒吐なる化神とて祀るなり。」


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集~第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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