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1994年8月18日 No.2

古田史学会報 二号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫


仙台・札幌で「古田講演会」開催される

 さる七月三十日(仙台)、三十一日(札幌)と古田武彦講演会が開催され、いずれも盛況でした。特に札幌講演は北海道初の古田講演会であり、記念すべき講演となりました。また、仙台講演に呼応して「古田史学の会・仙台」が設立されるなど、古史学の輪が着実に広がっています。それぞれの報告が届きましたので掲載します。
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初めての「古田講演会」盛況 岩見沢市 鈴木成行

  古田史学の会・北海道の主催による、はじめての「古田武彦氏講演会」は七月三十一日午後二時から、札幌市中央区のかでる2・7で開かれた。まず、吉森世話人がこの六月に発足した北海道の会の活動状況と、講演会を開くに至った経緯を説明、古田先生のこれまでの足跡を簡単に紹介した後、講演会に移った。
 講演の内容は---1 アイヌ神話について 2 東日流外三郡誌について 3 後漢書倭伝の「也」をめぐる新しい解釈について 4 青龍三年鏡をめぐって ---などでいずれも最近の研究成果に基づいたもの。
そのうち
1 では宇宙と人間の創造譚をもったアイヌ神話のすばらしさを語り、金田一・知里両氏が築いた研究の糸口を今後、新たな観点から発展させていくことが課題と述べられた。
2 では東日流外三郡誌成立の経緯とその大まかな内容を説明、とくに津保化族伝説のなかに、青森三内遺跡で発見された巨大木造建造物が示唆されている可能性があると述べ注目された。また、同誌の真贋論争に触れ、この五月の「寛政奉納額」発見と、それに続く宝剣銘の発見により真作説が決定的となったことを報告されたが、「偽作論者が和田喜田郎氏とそのご一族にまで、いわれない誹謗、中傷を強めている現状は嘆かわしく、もはや彼らの偽作説が学問の名に値しないことを証明している」と語気を強められた。
3 では「也」を終止の「なり」ではなく、問いかけ、疑問を表す「や」とすることで空間的な広がりを持つことができ、「光武賜印綬」の理由も充分に説明できるとして、新たな説を展開された。
4 の青龍三年鏡は、実際に現地で鏡を熟視 し続けた結果、「舶載」ではなく「国産」であるとして、その理由を詳細に述べられた。そして、方格規矩鏡の中心地は前原市周辺、つまり邪馬壹国首都圏を動いていず、ここを基本軸として今回の「鏡」への伝播・再製を考えるのが客観的な学問の方法だと主張された。
 講演会には準備不足にもかかわらず、中学生から年配者まで会場一杯の人々が詰めかけた。内容もたっぷり三時間、その後の質疑時間と合わせ四時間にも及んだが、先生は全国を飛び回っておられる疲れも見せず、生き生きと楽しそうに話されていた。
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古田史学の会・仙台 設立総会開催

事務局佐々木広堂

 古田先生を応援する会を仙台に於いて設立しましたので、報告します。
 会の目的は、貴『古田史学の会』と全く同じです。今、争点となっている東日流外三郡誌の舞台でありますこの東北で、古田先生の研究活動を支援協力する会を設立出来ました事は、大変意義があると自負しております。 設立総会は、七月三〇日(土)午後四時三〇八分より、仙台市一番町市民センターで行われました。入会者は、岩手・宮城・福島県の方々で二二名です。設立の経過・目的事項につきまして世話人より説明し承認を得ました。尚、十一月下旬に臨時総会を開催し、会則及び今後の運営などにつき討議する予定です。
 総会に先立ち、一時より古田先生が『東流外三郡誌と歴史の真実』をテーマとし、三六名の参加者を得て、記念講演をしました。
 新発見の『奉納額』及び、秋田孝季、和田長三郎、和田喜八郎氏の筆跡を中心に、分り易くお話しされました。その他、丹後出土青龍三年青銅鏡・韓国光州市出土埴輪他についても述べられました。今回初めて古田先生の講演を聴く方も多数参加しておりましたが、古田先生の熱弁に大変感銘を受けた様子でした。
 私としましては、歴史の真実を追及するには、古田先生の多元史観の発展のみしか無いと強く考えておりますので、今回の一元史観・皇国史観中心派による『古代研究会乗っ取られ』の事態を、絶対に許す事が出来ないと思っております。『古田史学の会・仙台』設立に当たり、貴『古田史学の会』古賀事務局長及び、『多元的古代研究会・関東』高田会長に大変な協力を得ました事に、紙面 を借りましてお礼申し上げます。今後ともご協力お願い致します。
『古田史学の会・仙台』役員は、次の通り決定しました。

会長  庄司俊夫(仙台市)
事務局 佐々木広堂(仙台市)
    青田勝彦(福島県原町市)
監事未定
会計外里富佐江(岩手県盛岡市)
(庄司会長は『仙台古代研究会』会長でしたが、今回の設立までの経緯を理解願い就任して頂きました。)

以上


探求道々 古田武彦


寛政奉納額鉄剣に銘文勇気ある証言と新発見 古賀達也


□□本の紹介□□□□□□□□□□□□

『和田家資料2』

藤本光幸編

 本会会員、藤本光幸氏が編集された『和田家資料2』が北方新社より刊行されました。
長年、和田家文書の刊行に取り組んで来られた編者が、「万粒の砂の中から、一粒の真実を」と、世に問われたものです。『丑寅日本記』全十一巻、『丑寅日本紀』全十一巻、『日之本史探証』一・二巻より構成されており、和田家文書研究にとって貴重な資料集となっています。
最新の研究では、和田家文書は明治・大正期の和田末吉による写本のみでなく、その子息、長作による大正以後の写本も存在することが判明しつつあり、書き継ぎ文書としての和田家文書の全体像がようやくつかめようとしています。そうした観点からも、本書は研究者にとっても、読物としてもまことに重宝な一冊です。(古賀)
■定価二千円(税込み)
■送料一冊三百円
■申込先北方新社弘前市元大工町一六|
〒036 TEL0172-36-2821


「奉納額発見」のビデオに感動

北海道・第二回例会開く

 六月十九日、古田先生と古賀事務局長からの温かい祝福のメッセージを贈られ、船出した古田史学の会・北海道の第二回例会は七月九日、札幌市内の「かでる2・7」に全会員が出席して開かれた。
 年会は吉森・代表世話人の司会で、今後の例会の進め方などを中心に話し合った後、古賀務局長からこの日のために送られたビデオテープ『秋田孝季奉納額の発見』を観賞した。これは古田、古賀両氏が今年五月五日から八日にかけて五所川原市を訪れ実施した和田家文書現地調査の模様を撮影したものだが、その際発見された奉納額は「孝季実在」を証明する確実な証拠となった。(詳細は古田史学会報創刊号)「三郡誌真書説」を裏付ける第一級の資料として注目を集めている。
 ビデオは二時間に及んだが、従来までお名前だけだった和田喜八郎氏や藤本光幸氏らのき生きとした映像を目の当たりにすると、そのお人柄がうかがえ、感動もひとしおのものがあった。特に喜八郎氏は、いわれなく偽作者と決め付けられ、人格的非難まで浴びる攻撃にさらされており、言葉の端々に憤慨やるかたないご様子。失礼ながら、怒られれば怒られるだけ、かえって微笑ましく、純朴な気質とお見受けした。そんな氏が現在でも『三郡誌』を生産されているなんて、理不尽にも程がある。氏を攻撃する側の人間としての品性さえ疑われるというものだ。
 いずれにしても古田、古賀両氏の現地調査による画期的な成果で、古代東北王朝の新たな展望が開かれてきたといえよう。学問の大道を歩むその地道なご努力には敬服するばかりだ。
 会は今後の例会の進め方として

1 古田史学の通史とされる『古代は輝いていた』(全三巻)と、『真実の東北王朝』の読書会を隔月で行う。
2 九月例会は当会会員で、遺跡発掘のエキスパート・千葉英一氏(北海道埋蔵文化財センター勤務)の基礎的レクチャーを受ける(以後も継続)

……の二点を決め、合わせて七月三十一日来札される古田先生の講演会と現地調査に関わる会の役割を話し合った。
大半の会員が設立例会に次いで二度目の顔合わせのため、話は尽きず、三時間と限られた例会の後も場所を変えて、遅くまで話を続けた。

 


冠「古田」が消える時

古田史学の会・関西、第一回例会に参加して

     奈良市 太田斎二郎

 七月二十三日、待ちに待った「古田史学の会・関西」がスタートしました。
 藤田さんは「古田史学の魅力と課題」と題しし、「広太王碑論争」の過去の経過をまじえ古田史学の根元を為す「九州王朝」実在の論証過程をわかりやすく説明されました。
 注目は、古賀さんの「和田家文書」真贋問題の核心に触れるとも言うべき、新しい発見に関する現地調査報告でありました。
 「古田史学の会」の発足の直接原因については色々言われておりますが、以下私なりに本会の存在意義を考えてみました。

(前略)しかし同時に、この様な文化系学問における知の技術性の側面強調する事のうちには、悪くすると「独りよがり」な知識の集約に終わる危険性もない訳でもない文化系学問全体に、開かれたはっきりした共通基盤を与え、(後略)
『知の技法』(東京大学・九四年三月)

 いきなり、今評判の『知の技法』を引用したのは、文系学問の特徴(古代史学界の場合、むしろ問題点と言うべきかもしれません。)がこの文章に集約され、それに対し警告してるからです。
 それにしても、ほかの例えば哲学とか文学論等に比較したら、まだ「客観的」に恵まれているにもかかわらず、多くの古代史学者がこの「独りよがり」に、はまりこんでいるのは、いったい何故なのでしょうか。
  そこで登場するのが、「古田史学」なのです。一般に、「古田史学」は「多元説」である、と、簡単に思っている人は多いのではないでしょうか。しかし、私は「古田史学」の本髄は、多くの「古田史学者」と同じようにそれはその研究方法にあるのだと思っています。つまり、理系学問のように古代史研究のその方法にも「客観性」、「再現性」を持たせねばならない。「科学的研究方法」を採用しなかったら理系の学界から笑われますよ、と心配された訳です。
 古田武彦のこの提唱は、彼の日本古代史学界における最も大きな業績の一つとして明記すべき事だと考えます。これによって先生は日本の古代史研究を正常な姿にしようと努力されました。
しかし、理系の学問では当り前のこの事がこの学界では、それが尚、在野研究者からの提案だからなのか、そう簡単には受け入れてくれません。もう二十年以上にもなるのに、「古田史学」を依然無視したままです。
 さて、本会の名称に「古田」を冠する事にいては色々と、次元の低い非難があったと聞いております。しかし本会の最終的な目的は今の学界、教育界に「古田史学」の方法とその結果 の正しさを認識させる事です。それを思えば、「古田」を冠する事が、今一番ふさわしいのではないでしょうか。
 非難者はこの事が判っていないようです。むしろ、この「冠」が消える時、その時こそ「日本古代史学界」が正常な姿に生まれ変わ時であり、喜ぶべき事ではないでしょうか

「偽書説を継続する論者は、あの圧倒的な史資料な文書のボリュームをこなす明治の紙、書き手、製本する人、そして、もし現代紙を変造したと言うならばその具体的方法等に関する、納得のいく説明を避ける事はできない。」

 と断言する古賀さんの紅潮した顔が印象的でした。古賀さんは八月初旬、調査の為、再び古田先生と共に「東日流」に向かいます。
 私たち会員一人一人の、この様な調査や広報、そして研究活動によって、一日も早く「古田史学の会」から発展的に「古田」の名前が消える日が来ることを願わずにはおれません。恐らく、先生もその日が来るのを一日千秋の想いで待っておられることでしょう。
 皆さん方とお話しもでき、胸のつかえが降りて、久しぶりに楽しい一日でした


わたしはウソつきか

論文無断掲載事件と野村証言に関して

奈良市 水野孝夫

 『市民の古代ニユース』一九九四年五月一日号にわたしは「わたしの論文は無断掲載された」と題する一文を投稿し、掲載された。
 わたしの論文(私信)が無断で『季刊邪馬台国』五二号に掲載され「私としても代理人をお願いせざるを得ず、時効(六ケ月)に達する前に、告発の手を打った。なお斎藤隆一氏が論文写しを野村孝彦氏に渡され、野村氏がこれを雑誌編集部へ送られたことが明らかになっており、斎藤氏からは詫びる御挨拶をいただいているが(引用終わり)」と書いた。
 この文面を、和田喜八郎氏と野村孝彦氏の間で争われている裁判で、和田氏の弁護人・五戸氏が引用されたとのことである。(九四年七月)これに対して、野村孝彦氏は、「水野の文章はウソである。」「水野氏への手紙で述べたが、わたしは水野論文を斎藤氏から受け取ったという正確な記憶はないし、雑誌編集部へ送ったという正確な記憶もない。ただ多数の書類を受け取り、複写送付したので、受け取ってないともいえないし、送付しなかったとも言えない」との主旨の発言をされたそうである。
 水野が「野村氏がこれを雑誌編集部へ送られたことが明らかになっており」としたのはつぎに基づいており、野村氏からの手紙のみで判断しているわけではないので裁判の場で「ウソである」といわれることは解し難い。

1. 水野は論文を、古田氏と斎藤氏以外へ送っていない。このことは引用事件のおこる三ケ月まえにパソコン通信ニフティー・サーブの会議室発言に930715付で水野本人によって記録されていて、現在でも通信会員なら誰でも参照できる。
2. 斎藤氏は野村氏へ問い合せをされており渡されたことは明らか。
3. 古田武彦氏は「誰にも渡していない」と水野宛電話で言われた。また古田氏のもとで論文をみる機会があったかもしれない原田実氏は「見ていない」むね九三年六月に水野に話された。
4. 野村氏は水野宛書簡中で、ハッキリした記憶はなく、コピーも見当たらないので編集部へ送った証拠はないむね述べられる一方で、斎藤氏が渡したといわれるなら受け取って送付したのでしょうとも表現されている。
5. 安本美典氏は梓書院の社長印のある水野あて文書(九三年十月)において「論文は大分の方から御送りいただきました」とのべられており、大分在住の関係者は野村氏以外に考えられない。また安本氏は水野宛の電話では「裁判で争っている野村さんから送られた」と述べられた。
6. 梓書院側代理人の中川弁護士から水野宛に送られた内容証明付きの文書(九四年三月)で「野村氏から本件論文を入手した安本氏」という表現がされている。
以上。

 


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜二集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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