2016年12月12日

古田史学会報

137号

1,筑紫なる「日向三代」
 の陵墓を探る
 正木裕

2,九州王朝説に
 刺さった三本の矢(後編)
 古賀達也

3,盗まれた天皇陵
 服部静尚

4,神功の出自
 今井俊圀

5,トラベルレポート
熊野三山へのチョイ巡り行
二千十五年八月八日~八月十日
 萩野秀公

6,「壹」から始める古田史学Ⅷ 倭国通史私案③
 九州王朝の九州平定
―筑後から九州一円に
 正木 裕

7,お知らせ
古田史学会論集編集中

 

古田史学会報一覧

 


トラベルレポート

熊野三山へのチョイ巡り行

二千十五年八月八日~八月十日

東大阪市 萩野秀公

 十三時十七分JR天王寺駅発(くろしお十三号)十七時三十分JR新宮駅着
 「天の磐盾」を眼前に仰ぎ見て、壮大なスケールに圧倒され、しばし息せき切りながら滴る汗を拭くのも忘れ、ただ荒い呼吸をするのみの時。「無心」とはこのような事かなどと後になって思い起こしたりしていた訳ですが、この「天の磐盾」とはゴトビキ岩とも言われる熊野灘からの新宮への玄関、屏風のように聳え立つ神倉山の頂上付近にある大岩で、ここが今回の熊野詣でのスタート地点に選んだ場所でした。(注一)
 ゴトビキとは熊野地方の言葉でヒキガエルを意味するそうで、山上付近の地上六十メートルに屹立する大岩です。見様によっては熊野灘に向かいデンと構えた大ガマ蛙のようにも見えなくもない。大昔、ゴジラが熊野灘から上陸しようとしたときはそう見えたに違いありません。もちろん敵の軍船をも威圧したのではないでしょうか。御燈祭り(注二)の舞台にもなっているとの事で、神倉山の麓の神倉神社から登り口に用意された杖を拝借し、急斜面に不揃いな小岩で組まれた石段を、やっとの思いでこの大岩の足元に到着した時のことでした。
 さて、今回の「熊野詣で」の、メンバーを紹介します。いつもの浪花のサブちゃんこと杉本さんに、小林さんと西井さんにお付き合い頂き、四人連れとなりました。杉本さんは当会の会計監査役、小林さんは当会副代表、西井さんは全国世話人で、いつも反省会などの幹事を務めて頂くなど、いつもお世話になっています。
 そして、ここに来るまでの話で、私がJRの格安往復切符三人分を手配し、それぞれに配布したのですが(小林さんは串本の実家から現地集合)、その配布された切符は、出発予定時刻より二時間も速いものでした。出発日の一週間前の事でしたが、気づかなければ大惨事になる所かも。しかし、さすが当会の大監査様サブちゃんから連絡を受け、JRの窓口へ行って確認をすると、駅販売員のミスが発覚。かろうじて事なきを得たのでしたが、購入時の確認不足を猛省した次第でした。結果はJRの職員が待ち合わせ場所の天王寺駅のホームまで、差し替え切符と詫びの品(JRタオル人数分)を副えて届けに来てくれましたので、私の面目も少しだけ保たれました。
 先回の出雲旅行では運転免許証を忘れてレンタカーの使用ができませんでしたので、今回は肌身離さずと言う状態で注意してきました。と言うのもここはレンタカー移動を軸に組立てましたから、もし先回同様であれば今執筆している原稿がトラベルから「トラブル」レポートになってしまいます。
 初日の予定は、新宮駅への移動のみです。JR特急くろしおで四時間強、今どきの便利な時代の人間が「遠いなー」と感じる熊野行、『蟻の熊野詣で』とか「法皇たちの御幸」の回数など信じられない事ばかりです。宿泊先は駅前の新宮ステーションホテル。夕刻五時半にチェックイン。小林さんが迎えてくれて、四人で宿前の串カツ屋で夕食を兼ねての勉強会(串カツ屋ですがご当地名物「めはり寿司」(注三)がありました)。
 二日目、先ずは新宮駅前の徐福公園を散策後、レンタカーにて出立です。冒頭の神倉神社にて体力を使いましたが、滑り出しは順調で、メインの一つ「熊野速玉大社」参拝です。御由緒を見てみると「熊野速玉大社は、悠久の彼方、熊野信仰の原点、神倉山の霊石ゴトビキ岩(天の磐盾)をご神体とする自然崇拝を源として云々」としてあり、神倉神社は摂社と言う事で、意識せぬまま先に参拝してきたことになりました。神倉山を元宮、こちらを新宮と呼ぶようになったそうである。
 ここには、「熊野御幸の碑」が有り、第五十九代天皇・宇多上皇の九百七年から千三百三年までの三百九十六年に上皇、女院、親王を合わせて二十三人、百四十回に及ぶ皇室の参詣があったことが刻まれている。御幸の往復のコースや所要日数(二十数日)など説明されていた。なかでも最高回数は後白河上皇の三十三度である。食いつくほどの事ではないかも知れないが冒頭に記載した通り、時間的に不可能ではないにしても信じられない。
 次に、神倉山に降臨した熊野の神様が最初に移ったと言われる阿須賀神社と新宮市立歴史民俗資料館へ立ち寄り、熊野市の花窟神社に向かいました。速玉大社は和歌山県の最東端に位置し、県境を為す熊野川を渡ればそこは三重県で、熊野市は和歌山県ではなかったことを知らされる訳です。
 さて、花窟(はなのいわや)神社ですが、メインの他で、どうしてもコースに入れて置きたかったところです。県境から東北方へ海沿いに凡そ真直ぐの平坦な道をしばらく走ると到着です。伊弉冉尊と軻遇突智尊が祭神です。「日本最古の神社」とさほど長くもない参道に立ち並ぶ「のぼり」に書いてありました。古来社殿は無く、石巌壁立高さ四十五米。
 そこから更に東北方に車を進め、鬼が城と獅子岩を見学。
 緯度は下がりますが海風の影響か、大阪より気温が二、三度は低く、夏は過ごしやすそうに感じました。ただ降雨量が多いのもこの地方の特徴で、実はこの原稿の執筆中、JRの那智勝浦と新宮間が災害のため不通になっており、我々の旅行は晴れ続きの天候にもめぐまれ、列車トラブルをもすり抜け、後から思えば快適に順調すぎる程スムースに進行したことになります。メンバーの日頃の行いに感謝です。
 熊野は古くから「伊勢へ七度、熊野へ三度」と謳われてきた聖地だそうですが、私は還暦を少し過ぎてからの初めての参詣である。昔の人は電車でも車でもなく、道も今の様ではなかった。我々が三重県熊野町から車で向かった本宮への「伊勢路」といわれる道も、途中からは車でさえ困難に思えるほどの林道を越して行かねばならなかった。昨年の豪雨災害の復旧と整備を兼ねた工事中の箇所が随所に有り、一車線片側通行で待たされたりしながら、一時間半程かけて漸く到着しました。レンタカーにはカーナビが装着されていてこれも昔では思いも及ばぬことだったでしょう。また、本宮に入るには、奈良から十津川を経てくる「小辺路」と紀伊半島西岸の紀伊田辺から東へ進む「中辺路」での入り方がありますが、いずれも二、三日前に降った大雨のために走行が相当困難であったらしい。
 ここで熊野三山の御祭神についてです。本稿では熊野の神仏習合以前、所謂権現様になる前について触れたいと思います。熊野三山の起源はそれぞれ違い、本宮大社は森や熊野川をご神体とし、那智大社は那智滝をご神体として祀り、速玉大社は神倉山のゴトビキ岩をご神体として崇めている。原初の速玉大神はここ「ゴトビキ岩」に降臨し、先ず阿須賀神邑、現財の阿須賀神社に移り、そして景行天皇の御代に現新宮の地に移されたと言われている。
 本宮は崇神天皇の御代の創建と伝えられ、古来熊野の神と言えば本宮の神の事を指し、大斎原にあったイチイの木に三神が月になって降臨したと伝わる。かつては大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中州に鎮座していたが、明治二十二年の洪水で社殿が流失したため、現在の山手に移築再建された。本宮の主祭神は家都御子大神で素戔嗚尊の別名とされる。古名を熊野坐神といい、熊野加武呂乃命とも呼ばれたそうである。ここで私は念願の「牛黄神符」を手に入れました。もちろんレプリカで金五百円也。高いのか安いのか、つい考えてしまいますが、そういうことは考えてはいけないそうです。

 百五十八段の階段を往復しての本宮参拝後、徒歩で熊野川の中州であった大斎原の旧社地へ。現在は中四社と下四社の神々を合祀する石祠が鎮座するのみで、黒っぽい巨大な鳥居だけが、異様に目立ち、にょっきり突き立っている感じでした。
 二日目の予定を終了し、本宮近くの川湯温泉で一泊です。宿は亀屋旅館で、建物はいかにも歴史を感じさせ、気分は最高でした。旅館前の河原にところどころに手掘りのような穴が有り、高温の源泉が湧き出しているのです。川の水を引き込んでぬるめてここにつかるのですが、夏休み中の日曜日とあってバーベキューや川遊びを楽しんだ家族連れがたくさん利用していました。私は、ここでは足湯だけを楽しむことにし、帰って宿の温泉を心行くまで堪能したのでした。
 次の日、最終予定地の那智の滝と熊野那智大社参拝です。旅館を出発して一時間強、熊野川沿いを緩やかに下りていくのですが、このまま降れば出発地点の神倉山の裏手に出て、速玉大社です。この間は川船を使えば昔の人もそんなに苦労はしなかったのではないでしょうか。現在でも川船観光が大変盛んです。
 車は熊野川の流れとジェット船の行き来を左下に観ながら、途中を右に折れ、あとは新開通のバイパスを通り那智大社の駐車場へ一目散です。とにかく一番上の拝殿に最も近い駐車場へ向けて一車線の蛇行した山道を駆け上ります。メンバーの切なる希望を乗せて、何人ものハイカーを追い抜いて楽々登山をはたしました。
 本来の順序は那智滝(飛瀧神社)から参拝をするのですが、逆に那智大社を先にしました。ここでメンバーの西井さんが牛黄神符を買い求めているのを見かけましたが、この時私は、私の買った牛黄神符と同じものだとばかり思っていたのでしたが、各大社それぞれ違う物だったのです。帰ってから資料をよく見ると、烏の数もデザインも違うではありませんか。後の祭りです。さて、次に隣接する青岸渡寺に寄り、いよいよ那智の滝を参拝です。最初距離を置いて写真撮影を済ましてから滝壺へと移動、長寿効果の高い御滝の飛沫をたっぷりと浴びてきました。
 あとはレンタカーを返すだけとなりましたが、最後の最後に補陀洛(ふだらく)山寺に立ち寄りました。そこには熊野三所大神社(補陀洛神社)と言うのが有り、祭神はやはりあの三神でした。
 帰途のため新宮駅に戻ってきましたが、予定の列車「くろしお特急」まで二時間余りありましたので、駅近くのお好み焼き屋にて十分な反省会もできました。車の運転から解放された私は、ここぞとばかり冷えたビールを堪能しまし、ここで小林さんとはお別れです。帰りの車中の事はあまり憶えていませんが、この列車には別料金を払っていないのに四十分も長く乗ることができお得でした。そんなこんなで最後まで順調な熊野三山の旅でした。おしまい。

 経費内訳 二泊三日熊野三山の旅行費用合算一人分
交通費(JR往復、レンタカー、ガソリン、駐車場)一万三千円
宿泊費(新宮ステーションホテル、亀屋旅館)一万六千四百円
その他(打ち合わせ、反省会、入場料等)六千円     総計三万五千四百円也

注一、ここではタニググでもタンガクでもありません。地方によっていろんな呼び方があるものですね。

注二、御燈祭 熊野地方に春を告げる神事毎年二月六日の夜、神倉山が松明の灯りに染まる。松明を手にした男たちが、急峻な五三八段の石段を一気に駆け下る。

注三、「めはり寿司」高菜の浅漬けの葉ご飯を包んだお弁当用のおにぎり

 


 これは会報の公開です。新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから


古田史学会報一覧

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"