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古田武彦講演  1998年10月 8日  於:豊中市立生活情報センター「くらしかん」独創古代 ー未来への視点

釈迦三尊の光背銘に、聖徳太子はいなかった

六 釈迦三尊の光背銘

 写真は、タイトルをクリック
 『法隆寺の中の九州王朝』(古代は輝いていた3 朝日文庫)
 『聖徳太子論争』(市民の古代別巻1新泉社)


 後半の最初に述べさせていただくのは、ごぞんじ法隆寺のご本尊である釈迦三尊の後ろの銘板でございます。黒く真四角なコピーです。この銘板は、聖徳太子とそのお妃、そしてお母さんが亡くなったときに作られた銘板だという説、法隆寺の中での解説はもちろんそうなっています。また学者のなかでも、わたし以外の学者もぜんぶそう言っている。しかしわたしは、これをどう見てもおかしいと考えています。
 それは最近韓国へ行きまして、百済の武寧王陵へ行きその石碑の銘文を見ました。これ自身でもいろいろ発見がありましたが、今回あらためて思い起こして、釈迦三尊の銘板を見直して見ました。この銘板は日本では、最初と言って良い時期の七世紀前半の金石文ですから歴史研究の原点となります。文字自身なら先ほどの志賀島の金印がひじょうに早いですが、日本側で作られてものとしては、早い段階のものとして貴重なものであることは疑いない。

釈迦三尊の光背銘 原文
法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼
前太后崩明年正月廿二日上宮法
皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願
       仰依三寶當造釋
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
住世間若是定業以背世者往登浄
土早昇妙果
     二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇登遐癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳
具竟
  乗斯微福信道知識現在安穏
出生入死随奉三主紹隆三寶遂共
彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
同趣菩提
    使司馬鞍首止利仏師造
(『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編による)

対比するためにずらしてあります。


まず内容を読みますと、
1 法興元三一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩
   法興元三十一年、歳次辛巳十二月、鬼前太后崩ず。

2 明年正月二二日上宮法皇枕弗病[余/心](干食)
   同年正月二十二日上宮法皇、枕病し[余/心](よか)らず。
         (食を干かす。)(喉に食が通らず)

3 干食王后仍以労疾並
   干食王后仍りて以って深く勞疾し、並びに、床に著く。
  (こう読んで良いか論じますが、従来はこのように読みます。)

4 時王后王子等及與諸臣深懐愁毒共相發願。
   時に王后王子等及び、諸臣と与(とも)に深く愁毒を懐き、共に相発願す。

5 略(当時の決まり文句なので、四字十句省略)

6 二月二一日癸酉王后即世
   二月二十一日癸酉王后、即世す(死去する)

7 翌日法皇登遐
   翌日、法皇登遐す。
    (上宮法皇死去する。身分によって使い分ける。)

8 癸未年三月中如願敬造釈釋迦尊像并侠侍及荘厳具竟
        癸未年、三月中、願の如く、釈迦尊像并びに、
            
侠侍及び荘厳の具を敬造し竟(おわ)

9 略(四字十一句)

10 使司馬・鞍首・止利仏師造る。

インターネット事務局注記2004.9.1
[余/心]は、余の下に心です。

(読み解説)
 法興元三十一年十二月鬼前太后が崩ず。「崩」は亡くなること。周代は天子を王と言いましたから天子のお母さんを「太后」と言います。同じく天子の妃を「王后」と言います。正月二十二日上宮法皇、枕病して[余/心]らず。母親が亡くなってその一ヶ月足らずで看病していた上宮法皇も(干食 喉に食が通らず)病気に成って調子が良くない。この解釈のほうが良いと思います。(干食)王后よりて以って深く勞疾し、並びに床に著く。(干食)王后と読んで良いかは別に論じ、一応そう読みまして看病していた(干食)王后も疲れはてて寝たきりになる。同二月二十一日看病していた王后が先に亡くなる。「即世」は亡くなること。亡くなった翌日、その看病されていた上宮法皇も亡くなる。「登遐」も亡くなること。身分によって使い分けていますが「即世」と「登遐」の実体は同じ、死んだことです。三月中、発願の如く釈迦尊像及び荘厳の具を備え終わる。もちろん天子や王后が死んだわけですから王子や諸臣が作った。(吉祥文句である四字十一句は省略)仏像は止利(しり、あるいはとり)仏師が造った。

 この銘板を、従来はどう解釈しているか。言いますと廐戸豊聰耳皇子と『日本書紀』に書いてある。それで上宮法皇が聖徳太子(豊聰耳法王大王)、穴穂部間人皇女が、用明天皇の皇后で、聖徳太子のお母さん。これが鬼前太后である。それで、推古二十九年二月五日聖徳太子が、『日本書紀』推古紀では亡くなっている。太后というのは、中国では天子の妻のことです。周代で天子を王と言ったので、それで天子の妻を王后という。あるいは莵道貝鮹皇(うじかいだこ)女が干食王后である。

 ところが内容を見ますと問題は、この銘板が聖徳太子に関するものと考えた場合、一番おかしいのは推古天皇(豊御食炊屋姫天皇)が出てこない。登場するのは、上宮法皇(聖徳太子)御本人、「鬼前(きぜん)太后」というのは聖徳太子のお母さん、次が「干食王后」ですが「干食」を切り放して別の読みを考え「王后」とだけ読むほうが良いと考えますが。とにかく「干食」を入れて読んでみても、具体的に登場するのはこの三名、「上宮法皇」、「鬼前太后」、「(干食)王后」である。
 肝心の上宮法皇の時の天皇である推古天皇がまったく姿を現わさない。そんなことがあるんですか。法隆寺は官寺ではなく私寺だから、別に推古天皇が出てこなくともよいと言われた方がいる。わたしと論争した家永三郎さんもそう言っているが、私寺だから天皇のことはカットしても良いとは言えない。大和のど真ん中では考えられない。それで私寺だからと言ってみても、天皇というだけでなくプライベートに言っても、推古天皇は聖徳太子の四人いる奥さんの正妃のお母さん、中心の奥さん、正妃である莵道貝鮹皇女のお母さん。お父さんが敏達天皇。お母さんが推古天皇。関係ないよとは言えない。常識的に私寺であっても推古天皇は関係ないよとは言えない。入れないほうが不自然。わたしは、そのように考える。これにたいして、だれも答えてくれない。

 わたしの古代史における大きな論争は、三例ばかりあるが、榎木一雄さん、三木太郎さん、家永三郎さん、いろいろ論争したが、答えないから、それで良いというわけではない。家永三郎さんとは、市民の古代別巻にあるように往復書簡として「聖徳太子」論争、「法隆寺」論争を行ったが、それなりに意味のある論争と思います。この場合も一生懸命論争したけれども、お答えはなかった。答えないから、それで良いというわけではない。今回読みなおし考え直してみても、推古天皇が出てこないのは、やはりおかしい。

 次の問題は上宮法皇の「法皇」とは、明らかに仏教の僧籍に入った天子の意味である。この人は、明らかに自分は天子である。仏教の僧籍に入ってはいるが、いぜん天子である。聖徳太子が、「自分は天子である。」と、そのようなことを言うのでしょうか。聖徳太子はとんでもない人だ。摂政でかつ太子でありながら、推古天皇という奥さんのお母さんを押しのけて、天子と名乗った。そんなことを言えば、聖徳太子は経歴詐称となる。とんでもない人物だとなりませんかね。私にはそうなると思います。「太后」は天子のお母さん。「王后」は天子の奥さん。中国の漢文としては、それしかない。

 それから「三者鼎亡(ていぼう)問題」と今回新たに名付けましたが、もし「上宮法皇」が聖徳太子とすれば、まず聖徳太子のお母さんが亡くなり、翌年御本人が病気になって、次に看病していた奥さんが亡くなった。そして翌日に御本人が亡くなった。これは大変な事件である。
 この大変な事件が、『日本書紀推古紀』には何も書いていない。『推古紀』には、聖徳太子のことがいっぱい出ている。死んだことも出ている。死んだこと自体も『推古紀』に出ています。しかし今言ったドラマチックな出来事が、その悲劇的な事件が、『日本書紀』にはその気もない。『日本書紀』に書くのを忘れたのですか。この事件は『日本書紀』を書いた時から百年も経っていない。『日本書紀』を書いたご本人は知らなくても、関係者のお爺さんやお婆さんはこの時期の一人ですよ。こんなドラマチックな話を知らないはずがない。しかし『日本書紀』にはその気もない。率直に言って、マトモな神経では、おかしいと思わない方がおかしい。いや、かまわん。「『日本書紀』は信用できないから、かまわんよ。」と言うほうが強引だと思います。しかし私以外の学者は、強引にみんなそう処理している。

 これは家永三郎さんと論争した問題ですが、なによりも『日本書紀』には「天智九年法隆寺は一屋余さず焼けた。」と書いてある。法隆寺は焼けてしまっている。「一屋余さず。」という意味は、これは建物及び中の物が全部焼けたという意味であって、本尊だけが残っているはずがない。本尊だけが残っているなら、「一屋余さず。されど本尊は無事。」そう書けばよい。書いても失礼ではない。書かずに「一屋余さず。」と書いてあることは、本尊も含め全部焼けたということです。
 この「法隆寺は一屋余さず。」の問題は、別の観点から論争に決着が着いている。法隆寺は焼けて再建されたのか、あるいは焼けずに昔から今のままなのか、という 法隆寺再建・非再建論争が戦前華やかに行われた。喜田貞吉、この人はなかなか気骨のある人で、再建説を唱えた。この再建説の理由は簡単。『日本書紀』に書いてある。焼けてもいないのに、書く理由はどこにもない。この事を何回も強調する。これに対して美術評論家や建築史家など多くの学者は非再建説。出来た当時のままだと主張した。『日本書紀』は信用できないという形で非再建説。しかしけっきょく発掘されると、前の遺構が出てきた。前の遺構と今の形は少しずれてはいるが、同じような遺構が出てきた。そういうことが分かって、喜田貞吉の見解が正しかった。喜田貞吉の根拠は『日本書紀』の「一屋余さず。」だけである。こういう経験がある。

 今の私の場合は、同じように本尊の存続問題。「一屋余さず。」と書いてあるのに、本尊があるということは、他から持ってきた。非常に簡単明瞭な論拠である。これに対して家永三郎さんからは、お寺は焼けたけれども本尊は焼けたとは書いていない。そういう感じで反論された。わたしは、それでは反論になっていないと考える。

 さらに「干食王后」については、やはり私は「干食王后」と読まずに考え、切り放して前の文章につなげ、「上宮法皇、枕病して[余/心]らずして食を干かす」と考える。同じ意見の人ももちろんいる。これは「食物がのどに通らない。薬石甲斐なし。薬を用いても効果がない。」という意味に採るべきだ。中国にもそういう詩があり、それをバックにした文言であると論じた。ですから、前につなげるほうがよい。(市民の古代別巻1 『聖徳太子論争』新泉社)

 これについては百済の武寧王の銘板でも、武寧王(志摩王)のことは二重に固有名詞が書いてあるが、三年に志摩王が亡くなり六年王の妃が亡くなったという記録がある。三年後亡くなった奥さんの実名がない。志摩王の表現だけしかない。これは我々の年代は、お手紙に奥様の名前を知っていても書かない。「○○さんの奥様と書くべきだ。」と教えられた。名前を知っていても書くのは失礼に当たるという考えを持っている。若い人は「そんな馬鹿な、奥様という名前はない。名前は知っていれば書くべきだ。奥様は失礼だ。」と言うかもしれない。われわれの年代は、奥さんの名前は書かない。それと同じように百済の武寧王(志摩王)の銘板でも奥さんの名前が書いていない。他にも百済の銘文にも同じ例がある。だから釈迦三尊の銘板の場合も「干食王后」ではなく、「干食」は切って前につなげ、「王后」だけで良いのではないか。

 それというのも、解釈の中には「干食王后」は別の妃だという説もある。法隆寺の資料から、聖徳太子の奥さんは四人いる。(『日本書紀』は正妃だけ。)「干食王后」を、膳部加多夫古臣の娘である菩岐々美郎女である考える説である。なぜ、そう言えるかというと「干食」は食に関することだ。膳部(かしはでべ)も、御膳の「膳」で食に関することである。だから膳部(かしはでべ)出身の王后だと解釈する。私はずいぶん強引な、こじつけた解釈であると思う。

 聖徳太子の妃一覧
正妃 敏達天皇が父、推古天皇が母   莵道貝鮹(うじかいだこ)皇女
   父は蘇我馬子、子は山背大兄皇子 刀自古郎女(とじこのいらつめ)
   父は尾治王           位奈部橘(いなべのたちばな)
   父は膳部加多夫古臣       菩岐々美郎女(ほききみいらつめ)

 そういう解釈だと、具合が悪いのはお妃は四人もいるが、正妃の莵道貝鮹皇女がいるのに、ぜんぜん触れない。ノータッチ。それから当時勢力がいちばん強かったのは蘇我馬子です。その娘もカット。それに王子とあるが、山背大兄皇子いがいは考えられない。そうすると山背大兄皇子が、この銘板を造ったはずだ。山背大兄皇子が作ったのなら、自分のお母さんもカットするのでしょうか。そして一番身分の低い膳部の娘だけを王后として書いたことになる。私の頭では付いていけない。有力な豪族の娘である尾治王の妃もカットする。なによりも「正妃」もカット。それでは山背大兄皇子の頭が少しおかしいと思う状況です。ところが、いまはそれが通っている。わたし以外の学者は、ぜんぶそのように解釈している。しかしこの学者の意見は、一般の常識のある人からみたら、この解釈で、なるほどとおもう人はいないと思う。

 以上、いろいろ不審な理由を挙げましたが、そんなことを言わなくとも推古天皇が出てこない。この一言だけでも、おかしいと分かります。つぎに、三人がつぎつぎと亡くなった。このドラマチックな事件が、『日本書紀』推古紀に影も形もない。これをおかしいと思うのが常識です。おかしくないと言う人が、どんな弁明をしてみても苦し紛れとしか言えない。

 しかし、これを聖徳太子ではないと言ってしまったら大変である。銘板が実在する。なによりも証拠の釈迦三尊が実在する。噂の話とか、写しが残っているという問題ではなく実在する。それでは金石文で実在したのは、「どこの王朝の誰のことか。」とならざるを得ない。
 ところが、わたしのほうの理解であると、隋書の多利思北孤を上宮法皇と考える。この人物は隋に送った国書の中で仏教を尊崇し、中国の天子を「海西の菩薩天子」だと誉めてはいる。しかしこれは自分は「日の出づる所の菩薩天子」だと、暗に主張していることになる。単なる謙遜や人をほめているだけではない。とにかくそういう菩薩天子の立場をとった人物がいる。この隋書の人物は非常に銘板の人物とイメージが重なってくる。ですから「阿蘇山有り」の九州の「日の出づる所の天子」だとすると無理がない。

 しかも「干食」とならんで、従来学者が解釈に悩んできた言葉がある。それは 鬼前太后の「鬼前(きぜん、おにのまえ)」である。これはどうみても太后にかかる「鬼前」である。今までの解釈は、どう解釈しても“こじつけ”に成ってしまう言葉である。落ちつきが悪い。ところが北部九州に、糸島に持っていけばどうなるか。先ほど説明した桜谷神社。その右上。そこから車で行けば十分ぐらいで櫻井(さくらい)があり、鬼という地名があり、鬼ノ内という地名があり、そして鬼ノ前がある。ここの出身の人ならば、鬼前(おにのまえ)太后である。そのようなことは思いもしなかったが、このことは多元的古代九州の会の会員であった故鬼塚氏に教えていただいた。ご本人の名前も「鬼」が付いていて、教えられて現地に行きました。

 それで補足しておきますが、その時は、鬼(おに)は先住民のことだと 理解していたが、今のわたしの理解は違っている。鬼というのは、尾丹(鬼 ヲニ)と考えます。尾(ヲ オ)は山の尾で、山の尾根の端。そういう地形だと解釈している。丹(ニ)は赤い土のことで、赤い土は貴重な物だった。朱はもっと大切だが、そればかり使うわけにはいかないから、赤い土をお墓に盛んに使っている。古墳時代になっても、朱は装飾古墳などに盛んに使っている。それが出る場所を、地形を含めて尾丹(鬼 おに)と言っていたのだろうと考えています。漢字表記を当てにすると具合が悪い。あれは後の当て字ですから。尾丹(ヲニ)というとワ行とア行が交じっているが、この地名に関しては問題ないと考えます。とにかく現地を訪れて、もう一度調べ確認したい。

 そのことはいちおう別にしても、そこが鬼ノ前であることは疑いがない。糸島鬼前(おにのまえ)出身の太后というか、九州の太后と考える。大体子供を生むときは実家にかえって生む。そこから地名で皇后の名前を呼ぶ。それから先はまったくの想像ですが、あの「君が代」の我が君が、隋書の多利思北孤であり上宮法皇という立場に立つとすれば、お母さんは、鬼前出身。そうすると我が君は大分具合が悪い。ピンチが続いている。お母さんが鬼前出身の太后ならば、もし、そこの有名な御利益のある女神のコケムスヒメガミのところへ延命のお願いに行っても、なんの不思議もない。そこまでは想像の領域だが、非常に話が会う。とにかく鬼前(おにのまえ)というのは、九州の地名である。先ほどの「利(リ)」もそうであるように。とにかく九州に原点を置けば皆すんなりと解釈できる。みんな解けてくる。全部リアルに解釈できる。それを近畿大和に持ってゆけば、何重にも屁理屈を重ねなければならない。聖徳太子が偉いから、中国人に嘘を付いて煙に巻いた。中国人は馬鹿だから、だまされて嘘を歴史書に書いたとか、本当の意味で「お話」になってしまう。
 やはり中国の歴史書にあるように、倭国は志賀島の金印いらいの国である。それで七百一年まで続いた。そう考えれば、それなりに理解できる。当たり前のことだが、それを受け入れたら、今までの明治いらいの体制は、がらりと崩れる。そういうことでございます。


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