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寛政宝剣額の「再利用」についてーー史料批判 古田武彦(『新・古代学』第1集)

寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)


『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社
特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊

鉄検査のルール違反

谷野満教授への切言

古田武彦

   一
 わたしは今、仙台から東京に帰る新幹線の車中にいます。敬愛する先輩、原田隆吉さんの御葬儀に参列しての帰りです。そうです、最初に貴方にお会いしたとき、研究室まで御一緒して下さった、あの原田さんです。
 奥さんの夏子さんも、わたしの先輩、東北大学の国文科の御出身ですが、そのやつれられたお顔を見たとき、全身から悲しみがふき上げてきました。
 原田さんは日本思想史科の先輩、一級下のわたしをいつも弟のように可愛がって下さいました。今回の「寛政宝剣額」の科学検査の件を、西澤潤一東北大学学長を通じて貴方に御紹介いただいたのも、原田さんでした。
 その原田さんの御霊を悲しませないためにも、わたしはわたしの「被依頼者」である、貴方と「争う」つもりは一切ありません。
 ただ、原田さんの御霊に誓って、事実を事実として申しのべるだけにとどめます。

 

   二
 昨年の六月上旬、原田さんと共に貴研究室におうかがいしたとき、貴方との歓談のひとときの中で、わたしはすでに「訪問の目的」を達成することができたのでした。
 なぜなら、わたしの持参した「寛政宝剣額」を前にして、貴方は、

 「このようなもの(鉄剣)は、江戸時代には当然作ることができましたよ。何しろ、正宗の銘刀がこれよりずっと前に作られているんですから。」

と言われたからです。貴方のような鉄の専門家には、「常識」に属する見解だったのでしょうが、わたしに必要だったのは、まさにその「常識」だったのでした。
 「この宝剣額の中の鉄剣は、この時期(江戸時代の後半、寛政期)に造り得る。」
 これが分かれば、それでよかったのです。ザッツ・オーライだったのです。それ以上を望むつもりは全くありませんでした。

 

   三
 この点、六月末、検査がすみ、現物をお返しいただけるということで、再び貴方の研究室を訪れたとき、歓談の中で貴方は同じ見解をしめされました。そのときも、
 「正宗の銘刀が・・・」
という、同じせりふが再び貴方の口から出たことをハッキリと覚えています。
 そこで、わたしたちの歓談を、そばでじーっと聞いていた、共同通信の斎藤(泰行)記者が、わたしたちの話が一段落したところで、念を押されたのです。
 「では、もう一回お聞きしますが、この鉄剣は、寛政元年に作られたものと考えても、問題はない、ということですね。」
 ノートをとりながら、貴方の見解について、念を押して「駄目」を押す斎藤さんを見て、わたしは心ひそかに驚嘆しました。貴方とわたしとの、さっきからの話の中で、そのことはもうハッキリしているのに、もう一度、念を入れて「駄目」を押す、その記者としてのイロハ、それを忘れぬ姿勢に感銘したのです。“慎重な方だな”そう思い、心ひそかに賛嘆したのです。
 この「駄目押し」に対する、貴方の答、それは次のようでした。
 「そうです。」
 この、貴方の返答を、今もハッキリと覚えています。忘れることはできません。

 

   四
 貴方は『季刊邪馬台国』五五号において、次のようにのべておられます。
「『東日流外三郡誌』の名前だけは知っていたが、それをめぐる真贋論争のことなど何も知らなかった筆者にとっては思いもかけぬ成り行きであった。」(四八頁)
 わたしが貴方に最初にお会いしたとき、貴方は東日流外三郡誌の名前を知っておられ、若干の関心をもっている旨、のべられました。しかしわたしは、その真贋論争の経緯を立ち入って御説明することは、敢えていたしませんでした。
 なぜなら、わたしの要望は、そのような論争のさ中に、貴方に立ち入っていただくことではなかったからです。そのような論争に対しては、ただ自然科学者として、中正公平の立場に立ち、

 「自然科学的な検査結果は、この通りです。これに対する、解釈は各自御自由に。」

と、スッキリした姿勢をとられる、その一事を望んでいたのです。
 この立場に、厳正に立つ科学者ならば、いずれの側から、何を言われようと、馬耳東風、サラリと聞き流すことができたはずです。
 このように考えた、今も考えているわたしにとって、昨年以来の貴方の言動を見ると、「遺憾」の二字しかありません。
 これが現代の自然科学者か。 ーーこれが率直な、わたしの感懐です。

 

   五
 貴方は同上誌において、次のようにのべておられます。
 「なお、ことのついでに、古田氏に和田喜八郎氏のことをどう評価しているのかを聞いてみた。同氏によると“和田喜八郎氏は立派な人格者で一部の人達が喧伝しているようないかがわしい人物ではない。自分は和田氏を全面的に信頼している。”」(次は、筆跡問題。略)
 読んで唖然としました。なぜなら、わたしの発言とは全くちがっているからです。わたしは次のように言ったのです。
 「あの人(和田喜八郎氏)は、確かに長所と短所をもった人です。しかし、自分の家に伝えられた文書などに対しては、これを大事に守るという、その点は立派な人格の方だと思っています。」
 和田氏は、圭角(けいかく)の著しい人です。もう七〇歳近くなった今でも、それは変りません。この点、何回か和田氏に会ったことのある人なら、恐らく誰人にも異論はないでしょう。ましてわたしなど、何十回のもの接触の中で、この一〇年前後、“悩まされ”つづけてきた、と言っても、過言ではありません。そのわたしが、どうして「立派な人格者」というような言葉で表現できましょう。貴方も、もし氏と何回か接触する日があれば、右のわたしの感懐を直ちに納得されることでしょう。
 わたしがわざわざ「長所と短所」と言ったのは、この思いがあったからです。
 もちろん「長所」もあります。行動力、耐久力など、わたしのような「都会生活者」には及びもつかぬ、数々の「長所」のあること、わたしも熟知するところです。
 けれども、和田氏とわたしとを結びつけている、唯一といっていい「きずな」、それは氏の抱く、強烈な「祖先伝来の文書・宝物等に対する、畏敬の心」です。
 氏は言いました。
 「おれにとっては、祖先の文書はただの文書じゃない、信仰だよ。」
 その「信仰」の一語には、ドキッとするような響きがありました。この一点を指してわたしは「立派な人格の方」と言ったのです。それ以外の何物でもありません。
 ところが貴方の文章で、
 「立派な人格者」
と言うとき、“円満で常識豊かな、圭角のとれた人”という、通常の日本語の用語に“変え”られています。「似て非なる文面」です。
 問題は、次の一点にあります。
 貴方は、御自分の文章を公表する前に、現在も(後述の通り依頼事項が完成していないので)「依頼者」である、わたしに対し、一言「確認」を求め、チェックされれば、直ちに貴方の文章の「あやまり」は訂正されたはずです。だのに、あなたはそのチェックを怠り、自分の「誤認」のまま、公表されたのです。わたしから見て“うかつ”としか言いようがありません。
 それなのに貴方は、斎藤記者に対しては、新聞記事にする前に「チェック」がなされなかったことをとがめ(六三頁)、「とりわけ取材した相手に対して記事の妥当性を確認することなく発信した」(六六頁)と、何回もくりかえしてその罪をのべておられます。では、
 「新聞記者には、チェックや確認が必要だが、大学教授である自分にはその必要はない。」
と言われるのでしょうか。とんでもないことです。
 まして次の二点が大切ではないでしょうか。
 第一、斎藤記者は、ノートをとりながら「駄目」を押し、そばには別人(古田)の同席があった。しかし、貴方の場合はそんな「駄目」押しやノート取材は一切なく、二人だけでした。もし「確認」が大事、「チェック」が大切、と言われるなら、御自身にこそ斎藤さんのケース以上に必要なのではないでしょうか。
 第二、貴方とわたしとは「依頼者」と「被依頼者」の関係であり、貴方はわたしに「確認」を求めるに、何のさしさわりもありません。また新聞報道のように「時をいそぐ」こともない関係です。
 ですから、貴方の「チェック・確認」論に対しては、わたしは「争う」ことなく、ただ静かに、
 「谷野さん、貴方は人間の守るべきすじが狂っていますよ。」
 そう申し上げる他はありません。

 

   六
 貴方がわたしに対する「確認」と「チェック」を怠ったため、貴方の公表された文面に現われた「誤認」は、右だけではありません。
 貴方に次の文章があります。
 「(一九九四年六月三〇日付けの“古田史学会報創刊号”について)ここに引用した古田武彦氏の小論文から明らかなこと、それは氏が木質部分および金属部分の調査結果を待つことなく当該“額”を本物であると断定し、ひいては『東日流外三郡誌」そのものが本物であるということを強弁しようとしていることに他ならない。このような論理の展開は自然科学・工学の分野では成りたちにくいものである。」
 この貴方の文章には、いくつかの重大な「学問」に対する誤認があります。
 第一、中世ないし近世の文書や奉納額等に対する研究は、当然ながら、日本史や日本思想史等の専門的研究者の行うところであり、その立場からの学問的判断が可能です。
 これに対し、史料科学的立場の研究が近年開拓されつつあり、電子顕微鏡写真やデンシトメーター、さらに関連諸科学からのアプローチがさかんになってきつつあります。わたし自身、早くからこの方面の研究の重要性について警鐘を鳴らしつづけてきた一人であり、その立場に立つ研究論文も少なくありません(『親鸞思想 ーーその史料批判』冨山房、一九七五年、等)。
 しかしながら、史料科学的研究の重要性を強調することと、歴史学的研究の「独自性」を否定することとは、全く別の話です。なぜなら、もし史料科学的研究「以前」に歴史学上の学問的判断がなしえないとしたら、すでに原本(自筆本等)の失われている書籍(『古事記』『日本書紀』『源氏物語』等)に関する文献学的・国文学的・歴史学的判断の一切が「否定」されざるをえなくなりましょう。
 また現存している、室町期や江戸期の写本に対して、一方の史学的・国文学的・文献学的判断と、他方の史料科学的研究分野とが、それぞれ「固有」の「両立」する独自の分野であること、学問研究上の常識です。
 この点、わたしには、五〇年間、いわば“考え抜かれ”てきたテーマなのですが、文科的諸物に対する研究を「専門」とされてきたのではない、貴方にはあまり「常識」とはなっていなかったのではないでしょうか。
 最初にお会いしたとき、申しましたように、わたしの義兄(井上嘉亀)は、東大理学部出身の自然科学者であり、貴方の(同じ大学での)先輩に当る人でしたが、同時に文科系の研究に対しても関心深く、くりかえし討論しつつ(井上家に寄宿していましたので)、学問の方法について、微に入り細をうがつ議論を重ねつつ、右の「常識」を得てきたのです。
 以上のような、歴史学と史料科学との「併存」のあり方については、貴方がもし「依頼者」たるわたしに電話ででも何等かの「確認」を求め、「チェック」されれば、すぐ判明したことです。しかし、残念にも、それを怠って、そのまま「誤認」を公表されたようです。
 第二、右の「古田史学会報創刊号」の発刊日付けは、「六月三〇日」となっています。これは、貴方と第二回目にお会いし、宝剣額の調査結果をお聞きし、現物をお返しいただいた日と一致」する日付けです。この点から、貴方が「古田はわたしの検査結果を見ずに」勝手に判断を下した、と思われたとすれば、残念ながら全くの錯覚です。これには理由があります。右の創刊号の大体はすでに早くから出来上がっていました。しかしわたしは、貴方からの御返答を重視し、その日まで発行を延期していただくことを、事務局長(古賀達也氏)にお願いし、了解をえていたのです。
 最初、貴方とお会いする日は、(六月下句の中で)もつと早い予定でしたが、貴方の御都合により若干日がずれ、当の三〇日になったこと、御承知の通りです。
 一方、事務局の方では「六月中に発行したい」という要望があり、その結果、ギリギリの「六月三〇日」発行日付けとなったのです。実際の発送などは、もちろん七月に入ってからだったろうと思います。わたしが七月四日にお持ちしたのは、いわば“出来たてのほやほや”会報創刊号だったわけです。
 先に書きましたように、わたしとしては六月上句、貴方にお会いしたとき、「正宗の銘刀云々」の発言を得、すでに「目的」を達していたとも言えるのですが、なお念を入れ、調査結果を待ったのです。そして当の六月三〇日、調査結果をお聞きした上、再び「正宗の銘刀云々」の発言をお聞きしたため、右の発刊延期を解除させていただいたのです。
 もちろん、より十分な科学的調査が今後くりかえし行われるべきこと、わたし自身が力説し、強調している通りです。それは「長期」にわたる年月を必要とすると考えます。
 しかしそのことと、当史料に対する文献学・思想史学等の史料批判的研究の必要とは、学問として別領域に属すること、すでにのべた通りです。
 以上の経緯は、貴方が「依頼者」であるわたしへの「確認」と「チェック」を行われれば、直ちに判明したことです。しかし貴方はそれを怠られたようです。
 貴方がわたしへの「確認」を省略されたため生じた「誤認」や「不正確」は、この他にも多く、貴方の御文章を拝見して“目をおおいたくなる”思いでした。「被依頼者」である貴方と「争う」つもりはありません。ただ、残念と申し上げる他ないのです。

 

   七
 貴方の「学問」に対する認識において、重大なあやまりが現われています。それは右の「古田史学会報創刊号」のわたしの一文に対する、貴方の次の一文です。
 「その内容は、奉納額の形状、二本の矛状鉄剣のこと、その周辺に書かれている文字についての所見、また額発見の経緯などに触れ、この奉納額がある程度古いものであるらしいこと、戦前、この奉納額が日枝神社の絵馬堂に掲示されていたと証言する土地の古老が居ることなどの、いわば古田氏の主観的判断のみであり、客観的な証拠は何ら認められない。」(六二頁)
 奉納額の全体についての観察は、文献批判・史料批判の立場からの研究を、自己の中心的研究領域とするわたしの学問上の判断です。これを「古田氏の主観的判断」として、一言にして斥(しりぞ)けられるのは、自然科学者としての貴方の「越権」ではないでしょうか。
 もちろん、自然科学的調査の結果によって、当宝剣(鉄部分)が「明治以降でなければ、製作不可能」であると判明した、というのなら、全く話は別ですが、「そうではない」(江戸時代に「製作可能」である)という一点を、貴方は再度にわたって明言されたこと、前述の通りだからです。
 より重大な問題は、土地の古老の証言をもまた、この「主観的判断」に入れて斥け、「客観的な証拠は何ら認められない」として一蹴している、この一点です。
 確かに、自然科学的研究において、いきなり「土地の古老の証言」など持ち出したら、“お笑い草”でしょう。しかし、文科系の学問となると、話はちがいます。現在七〇歳台の方が、“子供の頃(昭和初年)、日吉神社の拝殿でこの宝剣額を見た”と証言されていることの意義は、重大です。
 “この宝剣額は、昭和四〇年代に、和田喜八郎氏(現存)が偽造したものである。”というたぐいの、「宝剣額偽造説」を一掃すべき証言なのです。しかも、一老人の思い出話というだけではなく、現在でも土地測量や文書作製関係の仕事を業としている方で、右の記憶を明確に記録化して下さったのです(ビデオにも、証言を収録)。これをもし、単なる「主観的判断」として斥けるとしたら、裁判における「証人の証言」を求める審理方法も、すべてナンセンスということとなりましょう。
 もし自然科学者が“自然科学的提起以外は、すべて主観的であり、客観的証拠とはなりえない”などと主張したとしたら、 ーー貴方がまさかそんな法外な主張をしているのでないことを祈りますがーー とんでもない“うぬぼれ”と言う他ないでしょう。
 ましてこの方(青山兼四郎さん)は、昭和二八年頃、村から依頼された土地測量事業のさい、ハッキリとこの宝剣額を見、そこに書かれた文字まで認識し、それは現存の宝剣額にまちがいなかった、と証言しておられるのです。
 これを「無視」したり、「軽視」したりする権限は、どんな大学教授(の肩書の持主)にも、あろうはずはありません。
 その上、当日吉神社の現宮司、松橋徳夫さんは、現在六〇歳台後半の方ですが、当神社の宮司に就任した昭和二四年に、当宝剣額が拝殿にあったことを明瞭に記憶し、証言しておられるのです。文章にも明記していただき、ビデオにも証言を収録させていただきました。
 その上、村の人々から“かかわり合いにならぬように”と、暗に「証言拒否」をすすめられたさいにも、「神に仕える身に、うそは申せません。」と、キッパリおことわりになったとのことです。わたしはこの話を、八月と九月、直接お会いしたとき、松橋さんから再度にわたりお聞きしました。
 松橋さんも、青山さんも、そしてわたしも、何十年か後にはこの世に生きていないでしょう。否、その日は明日かもしれません。ですが、右の証言の存在した事実を、ここにシッカリと書きとどめておきます。
 しかし貴方は、これらをすべて「単なる主観的判断」で、全く「客観的な証拠ではない」と称されるのですか。
 わたしには、真の科学者、真蟄な科学者の言とは思えません。わたしの敬愛する西沢潤一学長にお聞きしてみたい。そう思います。

 

   八
 学問の本質論について、もう一回「駄目押し」させていただきます。これが貴方にわたしの立論を御理解いただく上で、もっとも大切な一点なのですから。その上で「反対」も、「賛成」も、もちろん御自由です。
 この宝剣額の研究においては、わたしの側、つまり歴史学の方が「中心学」であり、金属検査等の方は「補助学」である、ということが肝心の点です。
 今、「歴史学」と言いましたが、これは通例の表現に従ったものです。わたしの立場を、より厳格に申し上げれば、「フィロロギイ=“Philology”」の立場です。これは、一言で定義すれば、「認識されたものの、再認識」の学です。すなわち、“かつて人間が認識したもの(文書・建造物・芸術品等のすべてを含む)を、もう一度、正確に認識し直す”ための学間です。ドイツの学者、アウグスト・ベェク(August Baekh 1795〜1867)の提唱で、わたしの恩師村岡典嗣先生の創唱された「日本思想史学」とは、この学問概念の継承です(貴方の勤務される東北大学の文学部に「日本思想史学科」があるのが、それです)。フランス風に表現すれば、「記憶の学」と言い得るかもしれません。
 今問題の「宝剣額」も、“人間の所造物”であることは明らかですから、わたしにとって、まさに学問的興味の対象となっているのです。
 次に、今申した「補助学」の意味です。これは決して自然科学を「軽視」している呼び方ではありません。ただ、このような研究対象の場合、「主役」の立場にはない、その事実を言っているだけなのです。
 しかし、このような「補助学」の役割は、時として決定的な威力を発揮します。今の宝剣額の問題について言えば、もしこの鉄部分(宝剣)が、「江戸時代には製作不可能である」という検査結果が出た場合、一切の他の研究は、いわば“ふっ飛んでしまう”のです。しかし、逆に「江戸時代にも製作可能」という場合には、それまで。「補助学」の役割終了です。つまり、「否定的」な力は強い。しかし「肯定的」な場合、“それでよし”なのです。
 以上の論理的関係、学問としての筋道は、わたしにとってはすでに三〇代、否、義兄の井上と毎日討論していた(教示を受けていた)当時から、自明すぎることでした。
 けれども、貴方の文章を見ると、何かその点、“筋道の混乱”があるようにも思われますが、そうでないことを祈ります。
 ここで念のために、キイ・ポイントを念押しさせていただきます。
 わたしは“文字の記入のない鉄製品”の年代鑑定をお願いしたわけではありません。そんなことは“無理”と思っていました。
そうではなく、“文字の記入”それも“年代記入(寛政元年)”のある鉄製品の検査をお願いしたのです。
 ですから、もしこの「鉄製品」に対して、貴方の側から“この鉄製品は、とても江戸時代の技術水準では製作不可能”という検査結果が出た、とすれば、その結果は文句なく尊重さるべきです。つまり、“文字(年代)”の「価値」はゼロとなるのです。
 しかしこれに反し、“この鉄製品は江戸時代の技術で可能”となったとすれば、俄然「文字(年代)」が本来の役割を回復する。すなわち、「寛政元年成立の宝剣額」であることが確認されるのです。
 貴方が「自分は鉄製品の年代鑑定を依頼された」と、万一お思いでしたら、全くの“勘ちがい”と言う他はありません。
 この点は、昨年六月三〇日、共同通信の斎藤記者と共に貴研究室に向うさい、東京〜仙台間の新幹線の中で、くりかえしレクチュアさせていただきました。それが正当な「学問の方法」と「学間の認識」に関する常識なのですから。学問から逸脱した「鑑定」など、全くお願いすべき筋合いは、皆無です。
 なお、わたしを貴方の研究室にお連れいただいた原田さんは、同じ日本思想史学科の出身、一緒に村岡典嗣先生のお話をうかがっていた、もっとも身近の先輩でした。わたしが学問の本筋を、当時のまま、いささかも“たがえて”いないこと、それを誇りを以て御霊の前に報告したいと思います。

 

  九
 以上の学問の筋道は、真剣に学問の方法について考えたことのある人には、およそ自明のことです。
 それなのに、なぜ貴方は今回のような文章を書かれたのか。すなわち、
「“明らかに信頼度が低い”と考えられる真書派の片棒を担いだ形になったまま事態を放置しておくわけには行かない。」(四八頁)
 右のような一文を(わたしの研究の進行中に)なぜ、公表されたのか。この点が問題です。なぜなら、貴方の文章の末尾は、
 「今回の鉄剣調査結果は、真書派にとって有利な証拠とはならなかったのと同時に、偽書派にとっても有利な証拠とはなりえなかった。」(六四頁)とあり、貴方の“研究”そのものから、わたしの立場が“明らかに信頼度が低い”という結果が出たわけではありません。
 とすれば、それ以外の「他」(偽書派)の情報に“動かされた”という可能性が高い、と思われます。そこで、“信頼度が高い”方に「舟を乗り変え」ようとした、これが貴方の今回の文章執筆の動機、“そんな馬鹿な”と思いますが、そうでないことを祈ります。他ならぬ、貴方御自身のために。
 ここで、もし貴方に「誤解」があるといけませんので、次の三点を明確に申しのべさせていただきます。
 第一は、「再利用(赤外線写真)」の件です。これは、先に申しました「フィロロギー」の立場からすれば、何も驚く問題でばありまぜん。,なぜなら人間が自然物を利用して「加工」を加えるとき、一回用がすんだあと、「再加工」して「再利用」すること、これがナチュラルな姿です。現代日本の“使い捨て”といった発想は、入類史の中ではむしろ「新規の風」であり、「自然乱用」をまねきかねぬ“軽薄”の風潮なのですから。もちろん、それを“軽薄ならず”とする立論も可能ですが、「使い捨て」をよしとする気風が、比較的新規の風であること、疑いようもありません。
 このような人類史の実態に立つとき、「元、使用者名の出現」から直ちに「偽作説の裏づけ」と考えるとすれば、学問精神を欠如した人々と言う他はありません。真に学問的な批判精神を失っているのです。
 第二は、筆跡鑑定の件です。この問題も、「再利用」問題と同じく、別に論じましたから、御覧下さい(より詳細には次号)。筆跡鑑定も、「補助学」の一であり、わたし自身、ながくこの問題にかかわる研究経験をもっています。
 第三は、偽書類(念書)、偽証人問題です。「偽書プロパガンダ」の源泉をなす人から、電話でささやかれて仰天し、偽書派へ「転向」した輩もいるようですが、わたしから見ると、笑止千万の一語に尽きます。
 このようなこと(偽文書作り)「決してせぬ」、この一事こそ学問の生命ではないでしょうか。少なくとも、私が原田さんと共に学んだ村岡先生の精神は、この一事なしにはなり立ちません。
 貴方は、東北大学の「教授」を名乗りながら、その大学を築いてこられた先輩方を“軽侮”されてはなりません。その先輩からうけついだ学問の精神を、自己の生命より大切と見なす後継者(原田さんやわたし)のいることを“見失われる”としたら、これ以上の不幸はありません。
 わたしに対して、全く無根の虚妄を押しつけている雑誌(『季刊邪馬台国』)に麗々しく名を連ねて長文を物しておられる貴方を見て、村岡先生や本多光太郎先生は、どれほど悲しんでおられることでしょう。

 

  一〇
 最後に、貴方にとってもっとも辛い問題について、申し上げねばなりません。
 貴方は、六月三〇日、貴方の研究室でわたしに分析結果の表をお渡しになり、
 「まだSiとPの分析値が出ていませんので、七月になったら、お送りします。」
と言われました。そこでお待ちしていたのですが、来ないまま、夏休みに入りました。
 そして九月になって、「催促」のお手紙を出したのですが、やはり(現在まで)そのままでした。そして今回、何と『季刊邪馬台国』五五号に、その「全分析表」が掲載されているではありませんか。「表1鉄剣の化学分析値(wt・%)」(五四頁)が、それです。
 これが決して、貴方の「ウッカリ、ミス」ではないことを、この表の注記が証明しています。
 「※ただし六月三〇日の時点ではSiとPの分析値はいまだ判明しておらず、古田氏には報告していない。」
 これは、一体何でしょう。
 “わたしは「依頼者」である古田には、検査の最終結果を報告せぬまま、その「依頼者」と対立する立場の、この雑誌に掲載する。”
 というのです。何のために。「舟の乗り変え」のための“忠誠宣言”なのでしょうか。あきれた所業です。
 このような所業が「大学教授」の名において許されるのでしょうか。 ーー否、です。
 「大学教授」といえども、人間であり、人間の倫理を踏みにじる権利など、ないはずです。もし「東北大学教授」という肩書によって、こんな非道が許される、と思っておられるのでしたら、とんでもない錯覚です。逆に、世間一般の人々は「一般の世間人以上に、人間の通常のルールに厳格である」ことを、大学教授に期待している、と言ってもいいすぎではありますまい。大学という、最高学府の教育者ですから、当然のことです。
 しかし、貴方は「人間のルール」の基本を踏みにじって、平気。そういう方なのでしょうか。悲しまざるをえません。
 わたしは貴方が、「真作説」と「偽作説」のいずれにも加担せず、あくまで中立厳正の立場を貫かれるよう、期待してきました。
 「自然科学上の検査結果は、これこれでした。これに対する各自の『解釈」や『判断』は、当方の関知することではありません。」
 そういう立場を貫いていただきたい。そう願っていました。
 しかし貴方は、わたしとの「人間の約束」を平然と破り、その破ったことを「誇示」するような注記を書かれたのでした。
 わたしはかつて父に問うたことがあります。
「約束が破られたときは、どうしたらいいのか。」
と。父は答えました。
 「高知(父の故郷)では、そういう時は“笑ってやる”ことにしている。」
と。
 父も今、あの世で大笑いしていることでしょう。わたしも、この地上で笑いつづけます。
 貴方と「争う」つもりはありません。貴方は、わたしがかつて松本深志高校(長野県)で教えた、その最末の教え子の年齢です。貴方の場合、「人間の倫理」を習わず、少なくとも身につけず、“大きく”なられたということでしょう。大変お気の毒に存じます。それだけです。
 以上、敬愛する、故原田隆吉さんの御霊の前につつしんで御報告申し上げました。当然ながら一言も、いつわりはありません。


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