『古代に真実を求めて』 (明石書店)第9集 へ

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東北(青森県を中心とした)弥生稲作は

朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

封印された早生品種と和田家文書の真実

佐々木 広堂

  一 なにを明らかにするのか?

 次の三項目を中心に論じます。

 一 「東北(青森県を中心とした)弥生文化は西日本弥生文化から伝わったのではなく、朝鮮半島東北部・ロシア沿海州から伝わった」という仮説を論証します。
  青森県水稲「早生品種」・遠賀川系土器・石包丁の伝播を中心に考古学資料を分析することによって明らかにします。

 二 上記論証により通説(大和朝廷一元史観)の虚構性と古代東北が独自の文化を持ち独自に発展したことを明らかにします。

 三 和田家文書に書かれている稲作関連記事の正当であることと、日本書紀の東北古代農耕に関する記事が不当であることを論じます。

 

  二 青森県の弥生時代の稲は「早生品種」であった

 水稲稲作が北九州から濃尾平野まで、濃尾平野から青森県に伝わったスピードを計算しますと、「エー、信じられない!」と驚かざるを得ません。
 中村慎一氏は

   「さて、弥生時代の暦年代を細かく論じるのは未だ多くの不確定要素が残されているが、いま仮に、弥生時代早期の開始期を前(紀元前以下同 ー 筆者)四五〇年、早期/前期の境界を前三〇〇年、青森への到達時期を前二〇〇年とすると、突帯文土器段階(北九州稲作開始後初めて使われた土器形式 ー 筆者)の一五〇年で五〇〇キロメートル近く拡散した」(約三キロメートル/年)のに対して、その後の一〇〇年間では八〇〇キロメートルほどを移動した(約八キロメートル/年)ことになる。
   同じ稲作でありながら、年平均〇・一五〜〇・二キロメートルと算定される中国での拡散速度の数十倍に当たる。日本ではどうしてこれほどまでの驚異的なスピードが達成可能であったのか。」 (『稲の考古学』)

と述べています。要約すると次の通りになります。
 
                     拡散距離    移動期間     年平均移動距離
   北九州〜濃尾平野   五〇〇キロメートル  一五〇年    三キロメートル/年
   濃尾平野〜青森     八〇〇キロメートル  一〇〇年    八キロメートル/年
   中国                            〇・一五〜〇・二キロメートル/年

 稲作に適した北九州〜濃尾平野の拡散より、寒冷で稲作に適さない濃尾平野〜青森の拡散の方が三倍近くも早かったのです。常識を覆す驚くべきことです。誰も予想出来なかったでしょう。
 中村慎一氏が年平均移動拡散距離に注目した卓見に、私は眼から鱗が落ちる感じがしました。しかし、私は、中村真一氏の波動的拡大と移民が組合わさった結果という分析はもっとも重要な検討要素を見逃したために、真の理由を追及できなかったと判断しました。
 私のいう重要な検討要素とは、農学者や諸々の古代史学者が絶対に表に出したくない、また表に出ると稲作伝播において「北九州から青森に伝わった」という通説が、成り立たなくなる「早生品種」という皆さんが初めて聞く言葉なのです。
 稲には、北九州で栽培されている晩生品種と青森で栽培されている「早生品種」があります。晩生品種は暖地に適した品種で、日が短くなると稔ります。晩生品種は寒冷地である青森では稔ることができません。青森では「早生品種」でなければ稔りません。「早生品種」は寒地に適した品種で気温に感応して稔ります。稲の開花は青森では多くの品種は、七月上旬から七月下旬に、九州の品種は、平均的でいえば八月末から九月上旬です。九州の晩生品種と東北北部の「早生品種」では、平均値で六十日近い隔たりがあります。このことは農学界では常識です。稲は、作物学的に現せば自家受粉により交配します。自分の花の中で雌しべと雄しべが交配するのです。従って、他の稲株と交配する確率は非常に低く、晩生品種から「早生品種」が生まれる確率も、極端に低いのです。
 佐藤洋一郎氏は、一九八一年頃東北地方での稲作の開始は八世紀(その前は一四世紀)頃のことと考えられていたと述べています(『稲の日本史』)。それ以前は、晩生品種から早生品種ができて青森まで伝播するのに一〇〇〇年かかると、農学者は考えていました。
 作物学的には極めて正しい判断と思います。
 一九五六年、伊東信雄氏が、青森県田舎館村垂柳遺跡で籾痕土器を発掘して、弥生時代に青森県に稲作ありと発表しました(『古代の日本』第八巻 東北)が、農学者・通説派学者は無視しました。理由は二つあったと思います。一つの理由は、前述の「早生品種」の性質から青森県に到達する筈はないと言う判断です。もう一つの理由は、日本書紀斉明天皇五年(六五九年 ー 筆者)七月の条に、遣唐使坂合部連石布が陸奥の蝦夷をつれて行き、唐の高宗の「その国に五穀ありや」という質問に、「なし。肉を食して活く」と答えた(『古代の日本』第八巻 東北)と書かれていることです。特に通説派にとって、「神聖にして犯してはならない日本書紀に、七世紀に東北地方(正確には蝦夷国)では農耕を知らなかった」と書かれていることから、当然の結論と思います。
 伊東信雄氏は、それにもめげず発掘を続け、焼米もしくは籾痕のある土器を出した遺跡を三四ヶ所発掘しました(東北地方全体、内青森県六ケ所 一九七〇年現在)(『古代の日本』第八巻 東北)。それでも、通説派は頑なに拒否し続けました。しかし、二五年後(一九八一年 四分の一世紀後)に青森県垂柳遺跡で、九州地方・近畿地方に劣らない立派な水田跡が発掘され、東北地方の弥生時代稲作を認めざるを得ない結果になりました。このように、正しい学説を無視する体質は、通説派学者の、考古学資料よりも文献(古事記・日本書紀)を重要視する歴史観の現れであり、今以て、変わりません。その間の状況を、農学者である佐藤洋一郎氏は、次のようにわかりやすく述ています。

   「垂柳遺跡の発見はよそで栽培された稲が東北に運ばれたものという仮説(それまでの通説 ー 筆者)を根底からくつがえしてしまった。プラントオパール(稲の珪酸体、一九七三年発見 ー 筆者)の発見によって稲作はそれまでの常識をはるかに越えて、紀元前後には津軽半島にまで達していたと考えられるようになった。要するに稲はかなり長い時間をかけて徐々に北進したのではなく日本にやってきてわずか二、三〇〇年の間に津軽にまで達したと考えざるを得なくなった。これが私の聞いたおもしろい話のあらましである。その後の考古学の努力によって垂柳は決して特別な遺跡でないことが分かってきた。弘前市の砂沢遺跡などは垂柳遺跡よりさらに古い時代のものといわれている。稲は、文字どおり、あっという間に本州を縦断してしまったのです。でもちょっと待っていただきたい。今の話には、生物屋としては、ああそうですかとあっさりと首をたてにふれないところがある。
   東北の稲は早生である。それも津軽ともなると北の果てである。かなり早生でないと収穫はおぼつかない。日本に稲が最初にやってきたのが九州だとすると、それはかなり晩生の品種だったと考えるのが自然だろう。だから、早生品種だけが別にやってきたのでなければ、東北の早生は西南暖地の晩生品種から分かれて生じたものということになる。ところが早生品種が晩生品種から突然変異によって生まれたと考えるのは、稲が急速に北進したというさっきのおもしろい話とつじつまがあわない。早生品種が都合よく、そんなに簡単に晩生品種から生まれたとは考えにくいからである」
   「早生の出生にはなにか隠された謎がありそうである。」     (『稲のきた道』)。

 このように、「早生品種」は、青森稲作の解明に大きな鍵を握っていることが分かったと思います。「早生品種」ついて率直に取り上げたのは、佐藤洋一郎氏だけです。通説派は、水田跡が発掘され青森に弥生時代に稲作があったと認めましたが、作物学的には、一〇〇〇年かかる筈なのにどうして伝播したか、その理由付けができませんでした。困惑したまま「封印」したのです。北九州から青森に伝播したという定説を、前提にしている限り正しい結論がでることはありません。正しい方法論は、発掘された遺跡の出土品を分析して、その結果に基づき仮説を出すことなのに、通説のように結論が先にあって、発掘された出土品の解釈を合わせるという逆転した方法論が、「封印」せざるを得なくなったのです。

表1 青森県・縄文・弥生遺跡稲作遺跡と遺物

No.  時代  遺跡名 水田跡 炭化米  焼米  籾殻  籾痕土器   雑穀(参考)
オオムギ コムギ アワ ヒエ キビ
 1 縄文後期 八戸市風張1   ○(7)            
 2 縄文晩期 木造町亀ヶ岡     ○(2) ○(10)            
 3   名川町剣吉荒町         ○(1)          
 4   弘前市砂沢         ○(2)          
 5 弥生前期 弘前市砂沢                  
 6   八戸市是川堀田         ○(1)          
 7   八戸市是川中居         ○(1)          
 8   尾上町丑森                  
 9   八戸市八幡   ○(129)      
10   三沢市小山田2   ○(500)              
11   三沢市天狗森貝塚         ○(1)          
12 弥生中期 六ヶ所村馬門         ○(1)          
13   大間町二枚橋         ○(1)          
14   川内町宿野部                  
15   川内町[木品]ノ木平                  
16   脇野沢町瀬野黒岩         ○(2)          
17   田舎館村垂柳   ○(200)   ○(4)          
18   田舎館村高樋            
19   田舎館村田舎館         ○(1)          
20   平賀町伊沢         ○(1)          
21   平賀町駒泊         ○(1)          
22   平賀町滝沢3         ○(1)          
23   三厩村宇鉄2                  
  ()内・粒数 ()内・土器数    

     [木品]は、木編に品。JIS第3水準ユニコード6980

次の参考文献より合成した
.1、鈴木克彦『日本の古代遺跡29 青森』保育社
2、、伊東信雄「東北地方における稲作農耕の成立」『日本の黎明 -- 八幡一郎先生公寿記念考古学論集』 六興出版社
3、黒尾和久・高瀬克範「縄文時代の雑穀栽培」「雑穀・畑作農耕倫の地平」青木書店
4、『八戸市埋蔵文化財調査報告書第四十七集』八戸市教育委員会
5、青森県立郷土館『青森県立郷土館調査報告書第十七集、考古−6、亀ヶ岡石器時代遺跡』
6、八戸市博物館『国重要文化財指定特別展 風張遺跡の縄文社会』
7、特別展「弥生時代の青森 -- 北限の稲作を求めて」、青森県立郷土館、渡部計三

 

 

  三 西日本弥生稲作に「早生品種」は存在しなかった。

         -- 佐藤洋一郎氏の仮説への挑戦

 ここで、私は正しい方法論にもとづき、封印された「早生品種」の実態解明に挑戦したいと思います。
 ただ一人、「早生品種」問題に果敢に挑戦した佐藤洋一郎氏は、次の仮説を打ち出しました。(この仮説が成立しないことを証明すれば、「早生品種」は謎のままになります。)
一 温帯ジャポニカ晩生品種と熱帯ジャポニカ晩生品種を交配すると、「早生品種」ができる。実験により証明した(温帯ジャポニカ、熱帯ジャポニカ・・・・日本で栽培された稲は、遺伝子学的にこの二種類に分類される ー 筆者)(『稲のきた道』)。

二 北進の過程について述べ、「中国から日本にやってきた一群の稲と、南方からやってきたもう一群の稲は、日本のどこかで互いにあいまみえたことだろう。やがてどこかで自然交配を起こし、後代の中から出てきた早生が急速に北日本に広がった。これがここまでのところ描けているストーリーである。(『稲のきた道』)」。このような西日本のどこかで「早生品種」ができて、急速に北日本に伝播したという仮説をうち立てたのです。これで、通説派は、理論的根拠を得て一安心しているのではないかと思います。

 しかしながら、私は、いろいろ調べた結果、「早生品種」が出来る可能性は認めますが、急速に北日本に伝播したという説には、無理があるという結論に達しました。理由を述べます。
 一 濃尾平野から青森までの移動速度は八キロメートル/年、北九州から濃尾平野までの移動速度は三キロメートル/年であると先に述べましたが、できたての「早生品種」が稲作に著しく条件の悪い東北地方を、稲作に適した西日本より早いスピードで波及するとは、常識では考えられないこと。

 二 東海地方・関東地方では中晩生品種の方が気候的に適していて、早生品種をとりあげる必要がないこと。従って、早生品種を栽培する可能性がないこと。

 三 縄文・弥生時代水田遺跡(完全な水田状の遺跡)の出現時期を掲げると次の通りです。         
         北九州     菜畑遺跡    縄文晩期 
         近畿      服部遺跡    弥生前期  I 期
         関東      日高遺跡    弥生中期 V 期
         東北南部   岩下A遺跡   弥生前期 II 期   
         東北北部   砂沢遺跡     弥生前期  I 期
 何れも、各地方で一番古い遺跡だけを載せました。古い順序は縄文晩期→弥生前期→弥生中期の順です。皆さん驚いたでしょう。なんと、稲作は関東には青森より約二五〇年遅く(弥生中期V期と弥生前期I期との差)伝わっているのにです。遅く伝わったところから早く伝わったところに伝播することは誰が考えても有り得ません。

 四 佐藤洋一郎氏は、青森県高樋III遺跡(弥生中期IV期)から発掘した炭化米をDNA分析したところ、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの二種類が検出されたと書いています。それで大変に驚いたともいっています(『稲の日本史』)。このことは、私は、佐藤洋一郎氏が早生品種が西日本でできて青森に波及したという説を、自ら否定しているものと考えます。何故かというと、高樋III遺跡の炭化米からは理論的に熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカとの交配であるからその中間の遺伝子をもった炭化米が出なければならないのに、二種類が出たことは、自然交配していなかった何よりの証拠になります。

 五 国立歴史民族博物館は、二〇〇四年十二月二十五日に開いた国際研究集会で、東北地方に水田稲作が伝わったことを示す「砂沢式」土器の実年代について、定説より約二〇〇年古くし「紀元前四〇〇年ごろ」とする放射性炭素年代測定の結果を公表しました。(是川遺跡・丸子舘遺跡より発掘された砂沢式土器を測定。河北新報二〇〇四年十二月二十六日)。この発表により、北九州から青森への波及はものすごいスピードで進んだことになります。前述の中村慎一氏の稲作拡散速度計算から、北九州の開始時期を前四五〇年とすると五〇年で砂沢遺跡に到達し、濃尾平野への到達より、一〇〇年早く到達したことになります。熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの交配する期間もなく、また、交配したとしても伝播する時間がなっかたと思います。(弥生稲作開始時期が五〇〇年遡るという新説も話題になっていますが、未だ証明は全くされていません。したがって、影響はありません、 ー 筆者)。

 六 佐藤洋一郎氏は、中国長江流域の河姆渡遺跡(七〇〇〇年前の遺跡 ー 筆者)の出土した米の種子をDNA分析し、熱帯ジャポニカであることを突きとめ、次のように述べています。

   「想像をたくましくすれば長江流域に起源したジャポニカは熱帯ジャポニカだったとも考えられる。では温帯ジャポニカはいつどこで生まれたのだろうか。今のところこの疑問に答えるよいアプローチは見つかっていないが、私は『水田稲作は、黄河文明が育んだ畑作の影響を受けてうまれ、それに適応するかたちで熱帯ジャポニカの一部が温帯ジャポニカ化した』という仮説をもっている。この仮説が正しければ温帯ジャポニカは長江の下流からその北側の地域で、熱帯ジャポニカのなかから分化して生じたと考えることができる。」
         (『日本人はるかな旅』第四巻 イネ、知られざる一万年の旅 DNAからみたイネの道)

 この仮説は、北の環境(寒さ・太陽の日長)への適応のために温帯ジャポニカが生まれたと述べているのです。日本では、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの交配により生まれた品種により北進したという仮説をだしていることと、全く矛盾しています。ここでも、佐藤洋一郎氏は自ら自説を否定してくれたのです。
 以上の理由から佐藤洋一郎氏の仮説が成り立たないことを証明できたものと理解していただけるものと思います。
 同時に、私が先に掲げた北九州・近畿地方から「早生品種」は伝わらなかったという前提条件が成り立つことになります。従って、「早生品種」がどこで発生したかについての仮説は、一つも存在せず証明不可能な状態のままなのです。
 そうであれば、「稲作が北九州から青森に伝播したという仮説が成り立たない」と結論づけるのが正しい学問のありかたではないでしょうか。

 

  四 東北弥生稲作は大陸東北部より渡来した

 ここで一歩進めて、「早生品種」は現実に存在するのですから、青森県にどこから来たかを突き止めなければなりません。先ず、その前に「水田稲作」は、北九州以外のどこから来たかを追求しなければならないと思います。
 寺沢薫氏は次のように述べています。

   「ところで遠賀川系土器(弥生稲作伝播の最も重要な指標になっている土器 ー 筆者)の分布は、濃尾平野から東に行けば行くほど希薄になるのに、東北には広く分布して北部まで達している。それは後で述べる磨製石包丁(写真1参照 ー 筆者)の分布とも同じ現象だ。実際、前期の水田跡だって、最北端の砂沢遺跡を除けば山梨と静岡までしか見つかっていないし、東北では砂沢遺跡を除けば、中期中頃になってようやく仙台平野にたどり着いたとというのが実状だ(関東最古の遺跡は、中期V期の日高遺跡で、東北の前期II期岩下A遺跡よりはるかに遅い。理論的にも物理的にも、関東から東北に伝わることは有り得ない。 ー 筆者)。はたして東北の遠賀川系土器は本当に北部九州の水田稲作文化に起源をもつ「遠賀川系」なのだろうか。私は東北の『遠賀川系』とされた土器の多くは、弥生土器誕生の淵源となった大陸東北部からの直接の影響下で誕生したもので、西日本の遠賀川系土器とは親子の関係でなく、兄弟の関係にあるのではないか、と考えている。」と述べています。
           (『日本の歴史』 第二巻 王権誕生)

図1 日本への水稲伝播の二つの経路
寺沢薫「日本の歴史第2巻・王権誕生」(講談社)より転載

図1日本への水稲伝播の二つの経路 東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

   「文様や形態からすれば、沿海州南部のピョートル大帝(第彼得)湾沿岸や島嶼部、例えばザイサノフカ遺跡第二号住居跡(貝塚)の土器群などは、甕が如意状・L字状口縁をもち、口唇部の刻目列点、頸部の二〜八条の平行沈線、沈線間列点文、山形沈線文をもつ例が多いこと、壺は西日本遠賀川系壺のようにしっかりとした外傾ないし外反した独立した口縁部をもつのではなく、短く外反した口縁がそのまま肩の張った胴部へと移行するタイプであることなど、より東北の“遠賀川系”土器に類似している。その年代は、第一段階貝塚でBC一二〜一一から七〜六世紀、第二段階貝塚はひき続きBC三〜二世紀のものとされているからまさに東北の“遠賀川系”土器の前段階の様相を呈している。」
          (『東アジアの稲作起源と古代稲作文化 -- 中国古代収穫具の基礎的研究』)。

   「だが、日本海を越えた北の交流を裏付ける資料は多い。驚くことに銀製品が出土しているし(北海道羅臼町植別町遺跡)、中国の殷代中期頃と考えられる内反り の青銅製刀子(写真3参照 ー 筆者)が、縄文後期末〜晩期初めの土器とともに採集されている(山形県遊佐町三崎山遺跡)。東北北部の縄文後期にみられる鐸形の土製品や亀ヶ岡文化の内反りの石刀が、大陸の銅鈴や青銅刀の影響だとの考えもある。中国で鬲(底が三つの房に分かれ液体を温めるのに適した容器)と呼ばれる形の土器の影響が考えられる、「鬲形三足土器」(写真2参照 ー 筆者)が、青森県平舘村今津遺跡など、大洞C2〜A式(前4〜前3世紀)の青森県内四ヶ所で発掘されている。年代的にも形態的にも似たものは、吉林省の西団山文化にある。また、山形県羽黒町中川代遺跡では、縄文中期の土器と一緒に中国の有孔石斧が出土したという。弥生時代の石包丁の形と大きさからも、北方ルートの存在が推定できる(図5参照)。朝鮮半島南部から伝来した水稲農耕にともなう石包丁は外湾刃の半月形が主流で、九州ではしだいに小型化はするものの、弥生時代を通じてそのタイプが一般的だ。だが、水稲農耕が東進するにしたがって石包丁は各地の環境に順応して変容していき、端とされた濃尾平野を越えると大陸的なタイプはなくなり、退化し、矮小化して量も極端に少なくなるのだ。関東の石包丁はまさに弥生農耕の辺境という感すら我々に与える(前述の水田跡遺跡の出現時期と一致する ー 筆者)。
    ところが、東北地方に入ると、秀麗な横長の紡錘形や弓形の石包丁の独壇場となる。しかも、長さが二〇センチに及ぶ長大なものまである。こうした石包丁は、朝鮮半島の北部から中国吉林省、遼寧省の前一〇〜前三世紀頃の西団山文化にともなうもので、大きく重いため穂摘みには適さない。だからコウリャンやアワやキビなどの根刈り用の石刀だろう、と私は考えている。」
   「水田稲作がもたされるはるか以前、日本列島には畑作農耕が、かたや対馬海峡を越えて西日本に、かたや断片的といえ、日本海を横断して北日本に渡来した。」
            (『日本の歴史』第二巻 王権誕生)。

図5 日本への初期稲作・米の伝播ルートと石包丁の形式分布
「季刊考古学56号・稲作と弥生文化」(雄山閣)より掲載

図5日本への初期稲作・米の伝播ルートと石包丁の形式分布 東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

 

写真1 下ノ内浦遺跡SK土壙出土石包丁
「仙台市文化財調査報告書第60集 仙台市高速鉄道関係遺跡調査概報III」より転載

写真1 下ノ内浦遺跡SK土壙出土石包丁 東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

写真2 鬲殷周 琉璃河出土
「中国考古学三十年」より掲載

写真2 鬲 殷周 琉璃河出土 東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

 寺沢薫氏の説を要約します。
 一 東北の遠賀川系土器は、大陸東北部からの直接の影響下で誕生したもので、西日本の遠賀川系土器とは親子の関係ではなく、兄弟の関係にある。

 二 東北の遠賀川系土器は西日本の遠賀川系土器とは似て非なるもので、沿海州南部の土器と形態・模様が非常に似ている。

 三 水田稲作がもたらされるはるか以前、日本列島には畑作農耕が、かたや対馬海峡を越えて西日本に、かたや断片的とはいえ、日本海を横断して北日本に渡来した。
   日本海を越えた北の交流を裏付ける資料は多い(銀製品、内反りの青銅刀子、鬲形三足土器など)。

 四 石刀は各地域毎に特徴があり、北部九州から連続的に東北に伝播した形跡はない。特に東海・南関東、中部山岳・北関東地域との共通性は全くなく、東北の方が普及した時期も早い。

 五 東北の石刀は、長大優美で西日本とは異質である。最も、端的な例は北部九州には逆三角形のものがあるが東北にはない(図7参照)。

 六 東北地方のこうした石包丁は、朝鮮半島北部から中国吉林省,遼寧省の前一〇〜前三世紀頃の西団山文化にともなうもである。

 寺沢薫氏の説は、考古学の裏付けがあり大筋で正しいと考えます。
 私は、寺沢薫氏の説を発展させ、青森県の水田稲作は朝鮮半島東北部・中国吉林省・遼寧省から伝播したと考えました。

図6 石刀の長幅値分布(カッコ内はN値)
「季刊考古学56号・ 稲作と弥生文化」(雄山閣)より掲載

図6石刀の長幅値分布(カッコ内はN値) 東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

図7 朝鮮の石包丁
『稲のアジア史(復旧版)第三巻』「アジアの中の日本稲作文化」より掲載

図7朝鮮の石包丁 東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

 

  五 「早生品種」のルート起点は中国遼東半島大嘴子遺跡である

 さらに発展させて、今まで日本国内からの伝播説では説明の付かなかった「早生品種」が朝鮮半島東北部・中国吉林省・遼寧省から伝播したことを証明できれば、私の仮説が成立することになると考えました。
 通説が封印している「早生品種」の謎をうち破らなくては、真の仮説とは認められません。
 それでは、いよいよ核心への入口となる中国稲作と日本への伝播について述べたいと思います。(図1図2図3 ー 参照)
 中国稲作の起源については諸説有りますが、長江(揚子江)中下流説が有力です。日本の北九州への伝播についても同様に諸説有りますが、私は、長江中下流→山東半島→遼東半島→朝鮮半島→日本(北九州)という説が正しいと考えます。
 伝播経路は、年代順につぎのとおりになります。

長江中流          彭頭山遺跡  紀元前七〇〇〇年
   下流           河姆渡遺跡   ”  五〇〇〇年
山東半島          楊家圏遺跡    ”  二〇〇〇年
遼東半島          大嘴子遺跡    ”  一〇〇〇年
朝鮮半島(平壌付近)   南京遺跡     ”  一〇〇〇年(紀元前一〇世紀頃)
 ”   (南漢江)     欣岩里遺跡    ”  八〇〇年〜三〇〇年(紀元前八世紀〜四世紀頃)
 ”  (錦江流域)     松菊里遺跡    ”  五〇〇年〜二〇〇年(紀元前五〜三世紀頃)
日本  (北部九州)               紀元前五世紀頃

 

図2 稲作の拡大
「アジアの中の日本稲作文化」(渡部忠世ほか著『稲のアジア史』 普及版第三巻、小学館)より転載

図2 稲作の拡大 東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

図3 自然植生と遺跡位置図
「古代文化 第41巻 第4号 東北アジア石製農具」(古代学協会)より転載

図3 自然植生と遺跡位置図 東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

 西谷正氏は「稲ばかりでなく、さらに農業文化等の全体が一種の総合的な文化の体系をなしており、日本の北九州と朝鮮南部は非常に類似している。」(林華東氏 中国稲作の起源と日本への伝播 第30回埋蔵文化財研究集会)「各地における米づくりの開始」第III分冊所収)と指摘しています。従って、総合的に判断して、上記のルートの伝播は、きわめて説得性があるものと思われます。日本・中国の相当数の学者(町田章氏・文明氏)が支持しています。次に、北九州への伝播はさておき、青森で栽培された早生品種の起源について、朝鮮半島東北部・中国吉林省・遼寧省から伝播したとする私の仮説のキーポイントになる、大嘴子遺跡について説明します。大嘴子遺跡は、紀元前一〇〇〇年頃において中国最北の稲作遺跡であり、しかも早生品種を栽培していました。大嘴子遺跡の発掘調査報告書を報告します。(呉青雲『東アジアの稲作起源と古代稲作文化』「大嘴子遺跡出土炭化米の考察と研究」)。

所在  遼寧省大連市
緯度  北緯39度2分2秒(日本の山形県酒田市とほぼ同緯度 ー 筆者)  
  ・気候  温帯湿潤気候
    四季の区分が明らかで、冬は寒からず、夏は暑からず、降雨量が多い。年間の降雨には明確な季節的変動があり、四月から九月に集中する。
    年平均降雨量は五五〇ミリメートルで、平均日照時間は一三〇〇〜一四〇〇時間、平均無霜日は二一〇日である。
    地理的位置や今日の自然環境から、古代の大嘴子遺跡周辺では水稲栽培を行い得る条件を備えていた可能性が高い。
  ・出土炭化米  土器三缶に塊状の炭化米が相当量入っていた。出土時には塊状に固まっていたが顆粒の残りは比較的良好であった。同じ住居跡の床面からコウリャンの入ったものが土器一個発掘されている(筆者要約)。
  ・発掘時期  一九八七年三月
  ・炭化米の年代  コウリャンの放射性炭素法による年代測定の結果、紀元前九一〇年となった。従って炭化米の年代も、大略紀元前一〇〇〇年前後頃となる(商末周初の時期)。

 まず、大嘴子遺跡で栽培されていた稲は早生品種であることを証明するために、中国における「早生品種」の発生の歴史について述べ、あわせて遼東半島より北九州に伝播したという論証を補強します。丁頴氏は、

   「我国(中国のこと ー 筆者)における早生品種の栽培は古い。戦国時代の『山海経』には華南一帯に冬夏播種する早生品種が記載されている。楊孚(一〜二世紀)の『異物志』にも交趾稲は夏も冬も熟し農民は一年に二回栽培すると述べている。しかし『詩経』「風」の「七月」(紀元前八世紀)には稲は一〇月収穫とある。周代の一〇月は現在の九月であり、穂の分化は七月である。この時の日長は約一四時間であり、これ以前に花芽分化を終わるのは早生に属する。紀元前八世紀以前に黄河中流に栽培されたのも早生である。」
      (『中国古代遺跡が語る稲作の起源 -- 中国における栽培稲の起源』)

と述べています。このことから、大嘴子遺跡で栽培されていた稲は早生品種であることが明確であります。次に、問題となるのは大嘴子遺跡で栽培されていた稲は,水稲か陸稲かということとおもいます。中国の学者のうちで日本への稲作伝来遼東半島経由説を支持する学者は、水稲であると主張しています。
 次に遼東半島に伝播する以前の遺跡である楊家圏遺跡(山東半島)の稲は、どんな稲であったかを追求したいと思います。王錫平・王春起両氏は「山東半島と遼東半島とは九〇海里の距離(仙台 ーー 平泉・東京 ーー 熱海間の距離)があり、その間を三〇余りの島々からなる廟島群島が横に並んでいる。遠い島でも二〇海里以内、近い島はわずかに数海里しか離れておらず、晴天の日には、北隍城島から遼東半島の老鉄山を望むことができる。このような自然条件は、生産力が十分に発達していない古代の人々が文化交流を行う上で、大きく役立ち、一艘の船が往復する間にも、両半島の頻繁な文化交流と水稲栽培を促進したのである。遼東半島と朝鮮半島の古代における密接な文化関係からみても、水稲栽培が、遼東半島に伝えれた後、直ちに朝鮮半島に至り、その後朝鮮海峡を通って日本列島に達することは、もはや難しいことではなっかたのである。」(『東アジアの稲作起源と古代稲作文化 -- 山東省栖霞県楊家圏遺跡出土の水稲遺物』)と述べています。

 要約しますと
一 山東半島と遼東半島は廟島群島で結ばれ文化的に密接な関係にあり、気候的にも同じだった。
二 遼東半島では水稲「早生品種」が栽培されていた。
三 水稲稲作は遼東半島より朝鮮半島経由で北九州に伝播した。

ながながと、説明しましたが、これで、中国・日本の学者が遼東半島の水稲「早生品種」栽培を認めていることを理解していただけるとおもいます。これで私の核となる「早生品種」の謎は明らかになり論証されたことになります。

 

  六 大嘴子遺跡から東北(青森県を中心とした)へのルート 
       -- 沿海州南部・吉林東部・咸境北道は水田稲作が可能だった

 次に、遼東半島から青森を含む東北地方(青森県を中心とした)にどのように伝わったかについて述べたいとおもいます。
 先ず、日本への伝播経路を図示します(図1日本への水稲伝播の2つの経路 参照)。次に、《東北コース》が成り立つことを、文献・他を加えて、掘り下げて証明したいと思います。
 南京遺跡(平壌市)から咸鏡北道・沿海州間には稲作遺跡は発掘されていず、稲作が栽培されていた直接的証拠はありません。しかし、中国東北部を含めて同一文化圏であったこと、および、咸鏡北道・沿海州において、前三世紀頃には気候が温暖化し水田稲作が可能であったことが、つぎの資料からわかります。
 中村嘉雄氏は次のように書いています。

   「アンドレエフ(旧ソ連考古学者 ー 筆者)はこの時期のソコリチ下層を戦国(中国の戦国時代。前四〇三年〜前二二一年。 ー 筆者)平行としている。この時期に、沿海州南部と吉林東部、咸鏡北道は全く同一の文化圏に入り、恐らく,原沃沮族の原型はこの時期に形成されたものと思う。」
   「この燕国(中国。始期不詳〜前二二二年 ー 筆者)の商人ばかりでなく、古朝鮮の階級社会の成立により、古朝鮮の商人も鴨緑江をさかのぼり、東満江を下り、日本海沿岸にテンやトラの毛皮を求めて現れたであろう。これらの商人は沿海州から、テンやトラの毛皮、その他の物産を、燕や古朝鮮に運び込んだのだろう。」

 ポリツェ文化についての説明の中で、

   「秦、前漢には現在より気候がずっと温暖であり(竺可[木貞]一九七二年、二一頁)、これはペルト湖の氷縞粘土でもはっきり現れている。これより当時の水田の可能な北限は、相当北にあったのではないかと思われ、少なくとも朝鮮半島全体は水田耕作可能な地帯であったらしい。」
     [木貞]は、木偏に貞。JIS第3水準ユニコード6968
       (『シベリア極東の考古学』二 沿海州編 解説)

図4 ヤンコフスキー文化とクロノフスキー文化
森浩一編『シンポジウム東アジアと日本海文化』(小学館)より転載

図4ヤンコフスキー文化とクロノフスキー文化 東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

要約しますと次のようになります。
一 沿海州、中国吉林省、朝鮮半島咸鏡北道は同一文化圏であった。
二 燕の時代、鴨緑江と東満江を通じて、朝鮮西北部と沿海州は交易があった。
三 朝鮮半島全体を通じて、水田稲作が可能な地帯であった(前三世紀頃)。

 東北弥生文化は、北九州から伝播したのではなく、朝鮮半島東北部・ロシア沿海州・アムール流域(中国吉林省)から伝播したのであって、考古学的に証明されたものと考えます。さらに、気候条件を考えると、弥生式土器そのものといえる土器が出土していることからも、やはり、水稲栽培がされていたと考えざるを得ません(通説では遠賀川系土器の出現が水稲栽培普及の指標となっています)。もちろん、その水稲は、緯度から考えて早生品種以外に考えられません。遼東半島(大嘴子遺跡)⇒平壌付近(南京遺跡)⇒朝鮮半島東北部の順に伝播したと考えざるをえません。

 

  七 東日本弥生社会の三地域の特徴

 寺沢薫氏の説を裏付ける、国内の弥生式文化を地域毎に分析した考古学的研究がないと、完全な仮説にならないと思い探しました。そうしましたら、石川日出志氏の「東北日本の人びとの暮らし」という研究がありました。石川日出志氏は東日本弥生社会を三地区に分け、その違いを次のように述べています(図8参照)。

   「以上、述べた三つの地域の広がりは一定不変なのでなく、その内容の移行と合わせるかのようにその分布が変化する。弥生前期から中期初めまでは第二(群馬県・長野県 ー 筆者)・第三(東海から南関東までと北陸 ー 筆者)の地域はよく似た内容であったが、中期中頃に第二の地域から第三の地域が分離し、西日本弥生社会との連動性を強めていく。一方、同じ頃、第一(仙台以北の東北地方中〜北部 ー 筆者)の地域は東北地方南部や関東地方東部にまでその文化領域を拡大する。」
   「第一の地域である東北地方は、弥生前期に西日本から稲作や遠賀川系土器を受け入れながらも(西日本から受け入れたのではなく朝鮮半島北部・沿海州から受け入れた ー 筆者)、集落形態、稲作以外の生業、墓制のいずれも縄文時代以来の伝統を大きく変更することはない。それどころか弥生時代後期になると、北海道の続縄文土器である恵山式土器と共通要素を一部備えた天王山式土器という土器形式が、広く東北地方一円に分布することになり、さらに後期後半から古墳前期には、日本海側では秋田県北部、太平洋側では宮城県北部まで続縄文土器である後北C2ーD式土器や続縄文的墓制が分布するように、続縄文集団がその領域を南に拡大することになる。」(『歴博フォーラム 倭人をとりまく世界 -- 二〇〇〇年前の多様な暮らし 東北日本の人びとの暮らし』)。

図8 東日本弥生文化の3地域とその推移
国立歴史民俗博物館編『歴博フォーラム 倭人をとりまく世界 -- 2000年前の多様な暮らし』(山川出版社)より掲載

図8東日本弥生文化の3地域とその推移東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

 驚くことに、寺沢薫氏の説とほとんと一致します。東北の遠賀川式土器は、関東経由では伝播していなかったことが、二重に証明されたことになります。そうしますと、道は只一つ、「朝鮮半島東北部・ロシア沿海州の道」しか、物理的に考えられません。

 

  八 沿日本海の人の移動について

 次に、遼東半島〜朝鮮半島東北部〜日本海〜東北・北海道への人の移動について、触れていませんので、その可能性を追求したいと思います。
 次のように、紀元前一〇〇〇年前後、それ以前から人の移動はありました。
一 アムール下流の前一千年紀初頭と思われる岩絵に、二〇〜三〇人も乗れる大型船が描かれており、これら大形船でもって河川や海洋を航行しており、このような航海術の伝統も 婁をバイキング化する前提条件となった。(『シベリア極東の考古学』二 沿海州編 解説)

二 アンドレエフはセヂェミ文化の沿海州到来を、前一〇五九年の殷の滅亡と関係がある見ている。殷の滅亡は東アジアにとって激動の歴史の幕開けであるが、これは何も黄河流域だけの問題だけでなく、中国東北部、朝鮮半島沿海州の諸部族の中でも前一三世紀以後、原始共同体の解体がこの時期に進行していた。その過程の運動の中で当然大きな変革が前十一世紀前後に準備されていた。つまり、内的な歴史運動過程と外的な歴史運動過程とが相互にからみあい、ダイナミックな歴史の流れが動き出し、黄河流域から沿海州までの諸国家や諸部族の間に、その内的発展の結果、連鎖反応的に歴史の変動が開始したのである。この頃朝鮮半島では土器の無紋化が進行しつつあった。(『シベリア極東の考古学』二 沿海州編 解説)。

三 燕国商人・古朝鮮商人の鴨緑江・豆満江を利用した交易があったこと(前述六項参照)。

四 中国は春秋(前七七〇〜前四〇三年)・戦国(前四〇三年〜前二二一年)・秦(前二二一年〜前二〇二年)・前漢(前二〇二年〜後八年)時代にたびたび戦乱が起こり、そのたびに人の大移動が発生した。当然、日本にも、いろいろなルートで流入してきたと思われます。中国の古典(史記など)にいろいろ出ています(表2参照)。(筆者)。

五 江上波夫氏は、中国の古典について、「後漢ごろの伝えによると、『周の時、天下大いに平らぐ。越は白雉を献じ、倭人は 草を貢ず』(『論衡』)とあるように、倭人は越人と並んで華北の周にいって朝貢した、」と述べています。(シンポジウム 『東アジアと日本海文化』講演 日本海をめぐる民族の交流)。

 以上のことから、日本海を囲んで人の移動は長期に渡ってダイナミックに続いていたと考えられます。なにしろ、日本海は地中海の約半分の面積ですから、航行は容易であったと思います。

表2 春秋有力諸候の盛衰
「ブリタニカ国際大百科事典 中国史」(ブリタニカ・ジャパン)より掲載

表2春秋有力諸候の盛衰,「ブリタニカ国際大百科事典 中国史」(ブリタニカ・ジャパン)より掲載 東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

 

  九 山形県三崎山遺跡の青銅刀の所有者の子孫が、周に暢草を献じた倭人である

 ここで私は、突然ひらめきました。周に朝貢した倭人は、東北の縄文人ではないだろうか、と思いついたのです。これまで、周に朝貢した倭人も、前述した山形県三崎山遺跡の青銅刀(写真3参照)も謎とされていて、誰も解釈できなかったのです。いろいろ、試行錯誤のうえに、前述した寺沢薫氏の論文の考古学資料(山形県三崎山遺跡の青銅刀、青森県平館村今津遺跡の鬲形土器・他)から「周と交流した倭人は、三崎山遺跡の青銅刀の所有者を代表とする東北の縄文人である」と、ほぼ確信をもたざるを得なくなりました。この説が成立するとすれば、遼東半島・沿海州ルート説は強化されることになります。

写真3 山形県遊佐町の三崎山遺跡から出土した青銅刀

写真3山形県遊佐町の三崎山遺跡から出土した青銅刀 東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった

 

   まとめ

 青森県弥生稲作は、朝鮮半島東北部・ロシア沿海州経由で伝わったという私の仮説が、十分証明されたと思います。私の仮説で問題になるのは、朝鮮半島東北部・ロシア沿海州で、水田稲作遺跡が発掘されていないことことです。しかし、論理的に考えれば、その先の青森県の砂沢・垂柳遺跡が発掘されているのですから、考古学的証拠となり、解決されたことになります。逆に、朝鮮半島東北部・ロシア沿海州で発掘され、青森県で発掘されなければ、青森に伝播した証明にはならないことを考えれば、分かると思います。「早生品種」が西日本弥生文化圏には存在せず、遠賀川式土器も、東北のものは北九州のものとは系列が異なり、ロシア沿海州のポリツェ文化と同じ系列であることが加わりますので、十分条件になると思います。通説派(大和朝廷一元史観派)は、遠賀川式土器のみに焦点を絞ることによって、西日本弥生文化が青森県に伝播したと、信じ込ませてきました。私は今回の分析を通して、そのことに気がつきました。催眠術から覚めたのです。催眠術にかからないためには、考古学資料を総合的に分析することです。そうすれば、自ずから正しい結果が出るのです。この総合的に分析する方法論が、正しい学問のあり方と思います。(通説派の役目は、国民を催眠術にかけることにあります。)
 青森県、さらに東北全体が、西日本弥生文化の影響を受けずに発展したのですから、東北の古代史を根本から書き直さなければなりません。亀ケ岡文化・縄文農耕・漆の栽培技術と工芸技術・古墳(前方後円墳・横穴古墳)・蕨手刀・トンボ玉・・・・多賀城と見直すべき事が一杯あります。今後、研究を進めて、正しい東北の古代史を築きたいと思います。

 

・和田家文書の真実と、日本書紀の虚構を明らかにする

 まとめのあとに、また書き足すのはおかしいのですが、大変重要な発見なので書かせてもらいます。
 和田家文書については、東日流外三郡誌論争で有名になりましたのでご存じとと思います。和田家文書には、東日流外三群誌以外に多数の発行されている資料があります。古田史学の会・仙台の会員である前田準氏は、和田家文書の研究を精力的にやっていて、ほとんと内容を諳んじています。同氏より、私が今回証明した青森県の稲作に関する事は、すべて和田家文書に書かれていると指摘されました。私は考古学資料によって解明したのですから、そんな筈がないと反論しました。後日同氏から、和田家文書の抜き書き一覧表を見せられ、私の結論とほぼ同じ内容なので仰天しました。
 その内容を、五二箇所出てくるうちの三箇所のみ紹介します。


一 東日流六郡誌大要(八幡書店)〈ヤマタイタミ〉〈ホツマ文字〉 ーー 五五四頁[安日彦]

  「耶馬台族が東日流に落着せしは、支那君公子一族より三年後の年にて、いまより二千四百年前のことなり。〜彼等また稲作を覚りし民なれど持来る稲種稔らず。支那民より得て稔らしむ。」
  ・解説 ーー 耶馬台族とは、邪馬台国(北九州または大和の国)の人と推定され、この人たちの持ってきた稲は稔らず、中国人の持ってきた稲は稔ったと言っています。このことは、私の「北九州の晩生品種は青森県では稔らない」という説に一致しています。

二 東日流六郡誌大要(八幡書店) 稲作今昔史 ーー 五五八頁[群公子]

  「太古の稲作事の候は、田地に種蒔き候て稲と為す候。依て鴨らに喰いつくされ候事多く、草に丈を負われ、秋なる稔少なしと候。東日流に稲作の渡り候事の史は古けく、二千年前に候。支那國に戦乱起こり候砌り、晋の群公子一族大船一七艘にて東日流上磯に漂着候て定着為し、茲の水利よき水温む地を選び候乍ら拓田仕り候。早生種に候へば、八月一五夜に至り候とき稔り得刈入仕り候。 ーー 中略 ーー 巖鬼山の爆墳治まり候後をして、稲架の郷稲田起り候てより、苗代なる苗を以て植ゆる耕作と相成り、稲種は早稲にていがとう、中早稲にてほこねと称ける、と今に伝え候。語部の史談に伝ふる東日流稲作の候は、太古に東日流より西方に耕作を渡し候事、史実に候。〜右稲作の事如件。」
  ・解説 ーー 中国の春秋戦国時代の晋からの群公子一族が伝えたと書いています(表2参照)。このことは、私の仮説とちがいますが大陸から来た述べています。重要なことは、「早稲品種」・「中早稲品種」を栽培したと述べていることです。私の軽い頭をさんざんに悩まして解明したことが、あっさりと出てくるのに心の底から驚きました。

三 東日流外三郡誌第二巻(北方新社) 古代編 葦原談義 ーー 一三二頁[安日彦]

  「〜太古にひと[才國]の稲穂を持って、日の国(南蛮)より吾が国の筑紫に来る一族あり。是を迎ひたるは猿田彦なり。〜安日彦は〜一族のものを倶に北に落忍びて一族東日流に来たるや、〜を以て拓せり。米、麦、ひえ、豆、あわ、いもなど冬季に保つ食を収したり。稲作はホコネと曰う稲種なり。遠く韓国より来たる種なり。この稲は寒きに強く亦寒冷の水にも強き故に東日流はまたたくまに拓田の盛んならしむる兆しとなれり。〜」
  解説 ーー ここでは、私の仮説とおり「稲は韓国から来た」と述べています。それから「早稲品種の特徴である寒さに強い」ことを強調しています。現代の農学書を読んでいるような気がします。
     [才國]は、手偏に國。JIS第三水準ユニコード6451

 

四 和田家文書のまとめ

  私が、考古学資料から導き出した仮説と和田家文書の内容が一致することは、和田家文書が極めて正しい内容を含んでいることを証明しています。秋田孝季氏の歴史家としての優れた能力に敬意を表したいと思います。私は、浅学にて和田家文書に関しては、ほんの一部しか読んでいませんので、このような大発見ができるとは、全然考えていませんでした。前田準氏は、私の論敵で、会えば論争を繰り返していますが、今回は感謝あるのみです。

 

五 日本書紀の虚構について、批判を簡単にします

 『日本書紀』は七二〇年に完成したとされていますが、東北の農耕に関して、「斉明天皇五年(六五九年)の条に、遣唐使板合部連石布が陸奥の蝦夷をつれて行き、唐の高宗の『その国に五穀ありや』という質問に『なし。肉を食して活く』と答えた」と書いています。
 和田家文書と内容が全く違い、古代東北の農耕を全く知らなかったのではと考えます。通説によれば、六五〇年以降(七世紀後半)には、大和朝廷が宮城県北(古川市名生館官衙遺跡が大和朝廷の役所とされている)まで支配したとされています。蝦夷と境界を接しているのに不思議なことです。考古学資料から判断すれば、当時北三県では稲作を含めて雑穀の栽培をしていました。実際に知らずに『日本書紀』に書いたとすれば、東北を本当に支配していたのか疑われるし、知っていて書いたとすれば、歴史書としての価値が問われます。北三県は縄文時代から雑穀を栽培していて、農耕の先進地だったので、それを否定して大和朝廷の権威を高めるために書いたのかもしれません。これで、『日本書紀』の歴史書としての価値の低さが分かったと思います。東北古代史を研究する場合は、日本書紀を本棚から除きましょう。その代わりに和田家文書を備えましょう。       以上
     (二〇〇五年一〇月八日)

参考文献
『稲の考古学』中村慎一 同成社 二〇〇二年
『稲の日本史』 佐藤洋一郎 角川書店 二〇〇二年
『古代の日本』第八巻 東北 伊東信雄・高橋富雄編 角川書店 一九七〇年
『稲のきた道』 佐藤洋一郎 裳華房 一九九二年
『日本人はるかな旅』第四巻 イネ、知られざる一万年の旅 NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編 日本放送出版協会 二〇〇一年
『日本の歴史』第二巻 王権誕生 寺沢薫 講談社 二〇〇〇年
『東アジアの稲作起源と古代稲作文化』 佐賀大学農学部・和久野喜久生(編集・発行)
『中国古代遺跡が語る稲作の起源』 岡彦一(編訳) 八坂書房 一九九七年
『シベリア極東の考古学1』極東編  ア・ペ・オクラドニコフ他 河出書房出版社 一九七五年
『シベリア極東の考古学2』沿海州編  ア・ペ・オクラドニコフ他 河出書房出版社 一九八二年
『歴博フォーラム 倭人をとりまく世界 -- 二〇〇〇年前の多様な暮らし』国立民族博物館 山川出版社


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