『古代に真実を求めて』第七集
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神の運命』 古代の論理と神話の未来 へ


<講演記録> 二〇〇三年一月十八日 於:北市民教養ルーム

歴史のまがり角と出雲弁1

人類の古典批判

古田武彦

 古田でございます。皆様の元気なお顔を拝見でき、たいへん喜んでいます。今年も一月五日から福岡県久留米市で講演を致しました。その次の一月七日、同じ久留米市の大善寺玉垂(たまたれ)宮、名前からして神仏習合を表していますが、そこで行われた鬼夜(おによ)という火祭を見に行きました。日本列島と言いますのは火祭の多いところです。わたしの予想では火山列島だからと思いますが、久留米のこの火祭はその中でも最大級の一つである。わたしの見学は三回目ですが、ようやく三回目にして、この鬼夜の持つ意義を理解することができ、たいへん喜んでいるところです。また二月六日から十二日までアメリカに行きまして、ワシントンDCにあるアメリカ最大の博物館であるスミソニアン博物館にある、厖大なペルー・エクアドルの土器を見学いたします。わたしは二回目で以前二日間に渡って見せていただきました。今回はわたしもメガーズ博士と講演を行います。述べたい課題がたくさんあるときは、いつも早口になりますので、ゆっくりと要点を述べたいと思います。

 

 一 鬼夜(おによ)のお祭り

 初めに福岡県久留米市大善寺玉垂(たまたれ)宮鬼夜(おによ)という行事、ようやく三回目にして、以前から懐いていた疑問が解けてきました。その件については大きなお祭りであっても、なぜ三回も同じ祭りを見学に行かなければならないのか、疑問をもたれるところであると思います。ですが、このお祭りは壮大なスケールで行われていることと同時に、神社の正面に由緒書きとして描かれている看板と、内容がまったく違う。このお祭りの縁起を描いた文書としては、中近世文書として書かれた唯一の史料である『吉山旧記』があります。これを見ますと、由緒は率直簡明です。善玉である藤大臣(とうのだいじん)と悪玉である桃梅沈淪(うすらちんりん)がいます。何が悪いかと言いますと桃梅沈淪が新羅と結託して反抗した。そこで藤大臣が軍勢を差し向けて、そして彼を捕らえて首をはねた。その首をはねたところに、今でも首塚がある。めでたし、めでたし、というお話になっている。それが祭の由来である。そのような主旨の説明を看板に書いてある。この説明を聞いている限りは、何の疑問も生じない。しかし祭りそのものを見てみると疑問百質。
 この祭は七日の昼の午後一時からと言いましたが、始まりは本殿のほうから御神体を鬼殿(おにどの)のほうへ移す。御神体は「鬼面尊きめんそん」と言いまして、説明は鬼の面が木の箱に入っているということでした。その箱を本殿においてあったものを、鬼殿に移すという行事です。宮司さんがうやうやしく先導して、後に氏子(総代)さんらがその御神体が入った木の箱を持ちまして鬼殿のほうへ移す。鬼殿は本殿から右手のほうにあり、距離は二十から十五メートルぐらいです。それを本殿をゆっくり降りて、ゆっくりと迂回して鬼殿に向かう。また鬼殿をゆっくり昇殿する。ゆっくりと回りますが、それでも時間は大してかからない。
 それで鬼殿に移し終わると、それで宮司さんの役目は一応終わる。ですから御神体を移した後は、宮司さんは一切関知しない。その後、この祭を取り仕切るのは氏子総代を中心とした氏子さんらで、周辺の広い地域の各町内の関係者である。それも初めから決められた複雑なドラマのシナリオに従って進行する。しかも各町内の組が分かれて行いますが、役割があらかじめ決まっているようです。
 境内には十六メートルぐらいの長さの藁や竹を編んだ大きな炬火(たいまつ)を用意して置いてあります。暗くなると、みんな竹や藁で編んだ小さな炬火を持って動いていく。最後になりますと先ほどの一番大きな炬火、これに火が付けられて延々と燃え盛る壮大な光景です。最後に正門を出たところに川がある。そこへ火を持った一団が到着して、そこでお祭は終わる。それが夜の十一時半。そこまで火が絶えることはない。この中にいろいろな取り決めがあり、筋書きが決まっている。しかも決められた筋書きどおり神事を行うのに、初めから家柄が決まっている。正確には二・三軒の家が決まっていて、その中の誰かが行う。この部分は○○家が行う。この部分は××家が行う。先祖代々決まっている。大変ご苦労なことです。
 それから「とった、とった! 鉾取った。とった、とった! 面取った。」とかけ声がかかる一幕がある。それから鬼と称するものが、落ち延びるシーンがある。その時に「しゃぐま」と称する箕をまとった子供達たちが十数人表れ、鬼と称する者を取り巻いて落ち延びさせるシーンがある。なかなか意味深いというか、意味不明というか、
 それから今度は、明石家という家が一番偉い家であると聞きました。その家が「鬼面尊」を代々保持している役目を担っている。しかしだれも箱の中を見たことがない。明石家の人も見たことがない。明石家の人に尋ねますと、誰も見たことがない。明石家の人も見たことがないので、箱の中を他の家に見たことがあるか確認して頂きました。しかし見た人は誰もいない。見たことがないがどうして箱の中が分かるのか。そういう素朴な疑問を持ちましたが、とにかく現在は誰も見たことがない。もちろん宮司さんも箱の中を見たことがない。
 今のたいへん荒っぽいアウトラインをお聞きになっただけでも、これだけでも『吉山旧記』の内容や表の看板とずいぶん違う。それで思い出すことは、昨年の事件というかトラブルのことです。このお祭りが終わった七日夜のことです。「たいへんすばらしいお祭りです。わたしの独断の考えですが、このお祭りは、どうも縄文にさかのぼるような古い伝統をもったお祭りだと思います。」と、わたしが光山さんに感想を言いました。光山さんは、にこにこしながら、うなづいて聞いておられた。その時に光山さんから、始めて史料として『吉山旧記』のコピーをいただいていた。それを読んでいた福永さんが「古田さん、それは違います。この祭りは藤大臣の討伐の話です。時代はだいたい西暦の五世紀ぐらいの頃ですよ。そのようなお祭です。」と、わたしの述べたことを親切に訂正して下さった。この問答に光山さんは、困惑のお顔をされた。それで話が中座し白けた場面となり、夜も遅いのでお別れしたということがありました。
 しかし考えてみると二回目見学後の、このトラブルは意味があった。三回目の見学を終えて、今まで感じたことをまとめると、要するに『吉山旧記』の藤大臣の討伐の話や表の看板に書かれてある内容は、わたしが言う九州王朝向けに、あるいは大和朝廷向けに書いた内容の話である。九州王朝や大和朝廷にお祭りの内容を書いて差し出すのに、このような謂(いわ)れを持つお祭りであるという説明に、書いて差し出した公(おおやけ)文書の内容書きである。それはあくまで大和朝廷向けの内容であり、自分たちが行っている祭りと実際は違う。実際、わたしが今お話ししたことと『吉山旧記』の内容とは、ずいぶん違うでしょう。
 それで一回目見させていただいたとき、直感としてこの祭りは縄文時代にさかのぼると考えましたが、現在再検討した結果は、それが正しかったようです。
 たとえば北陸石川県能登半島に御陣乗(ごじんじょ)太鼓というお祭りがあります。鬼の面を付けて荒れ狂うぐらい乱打する太鼓。わたしは、これにはたいへん心引かれて注目している大好きなお祭りです。ところがこの祭の現地の解説では、ほとんど上杉謙信が攻めてきた時、頭から海藻を垂らし鬼の面をかぶって太鼓を打ちならし夜襲をかけたので、上杉方はかなわないと考えて引きあげて逃げて行った。これが御陣乗(ごじんじょ)太鼓という祭の起源であると書かれてある。しかし、独断ですけれども、わたしはそうは思えなかった。際限なく単調にして複雑なリズムにして描き鳴らす太鼓の音。独断ですがわたしの感覚では、縄文時代にさかのぼる海の神のお祭。その血潮が流れているとしか思えなかった。それで現地にも何度か行きました。
 ところが幸いにして、このお祭が縄文時代にさかのぼる、というわたしの考えを裏付ける遺物が、遺跡から出てきました。真脇遺跡というところです。能登湾の東側の中程。この遺跡は単純な経過から見つかりました。その村で、丘の上に新設の中学校を作ろうと計画し、海に向かって排水溝を掘ろうとしたら遺跡にぶつかりました。そこからは環状の巨大木柱列根が何本も出てきました。中に三本が二列に並んだ非常に大きい六本の、おそらく高さが四十から三十メートルあるような見張り台のような巨大な建物が建っていたことが分かりました。これは木の太さを逆算すれば高さが分かります。普通日本では木がすぐに腐ってしまうが、そこは水分は豊富なので腐らずに残った。水に浸されて縄文時代そのままの形で残っていたことに値打ちがあります。その遺跡の二次の発掘で、鬼の面(土製)が出てきました。土製で耳のところに穴がありますから、人間の顔に付けたようです。これで従来の地元の解説や、加えて学者の解説もダメになりました。なぜかと言いますと、従来の学者の解説は、これらのお祭は中国の仮面劇の影響を受け、取り入れたものです。中国文明伝播の証拠である。そのように解説していました。しかし縄文時代以前から、すでに鬼の面(土製)が存在した。そうなりますと中国の仮面劇の影響ではなくて、縄文時代からの伝統ある仮面劇となります。ですから直感的に御陣乗(ごじんじょ)太鼓は縄文時代からの伝統をもった仮面劇であるという、わたしの考えは裏付けられたことになります。
 この場合も今考えてみますと、上杉謙信以来の始まりという解説や中国の仮面劇の影響であるという解説も、ぜんぜん嘘だった。縄文時代にさかのぼるという解説はまったくなかった。それに上杉謙信の軍勢を追い返したということ。仮にそういうことがあっても、それは戦国時代の一エピソードにすぎない。あるいは「御陣乗ごじんじょ太鼓」という名前が始まったのにすぎない。
 元に戻り、大善寺玉垂宮の御神体の「鬼面尊」も真脇遺跡の鬼の面(土製)と関係があるのではないか。「鬼面尊」と言われる御神体も、あの真脇遺跡の鬼の面も、共に縄文時代は「御神体」ではなかったか。もちろん鬼の面(めん)も、穴が開いていますからお祭の時は、顔に付けて人間が舞ったのでしょうが。土面ですから走ったり暴れたり出来ませんが、幕の中からそっと静かに立ち表れて舞ったのでしょう。普段は 「御神体」として神社に存在した。そのように考えています。
 この鬼夜(おによ)の祭の特徴は、一言で言いますと、始めから終わりまで何時までも「鬼面尊」がおはします。存在している。つまり「鬼面尊」を攻撃して辱める。足で踏んづけたり、ぞんざいに扱う光景はまったくない。むしろ鬼が落ち延びた。その回りを「しゃぐま」に扮する子供たちが取り巻いている。この「くま」は、神様の意味だと考えますが。神を名乗る子供たちが、鬼を護って、護衛して無事に落ち延びさせる。だから鬼は無事に落ち延びました。ばんざい!ばんざい!という形で終わる。だからわれわれは、今も「鬼面尊」を奉じています。
 鬼を攻めたのではなくて、鬼は攻めることは出来ませんでした。そのような話です。
 この点は、近くにある太宰府天満宮の一月六日行なわれる火祭とは、まったく違います。天満宮のお祭は、天神さまが鬼を攻めて降伏させる。日本では、鬼はいつも出てきてなかなか人気者です。しかし形の上では、この天満宮のように、鬼が攻撃され降伏して大団円を迎えるという形が、日本では一般的であると思います。
 ところがここ大善寺玉垂宮の祭では違う。鬼は降伏しませんでした。鬼をお守りしました。無事お逃げになりました。それでわれわれは「鬼面尊」をお守りしています。このメッセージを発する行事を毎年行っている。この行事には宮司さんは無関係。おそらく元は宮司さんは太宰府なり大和朝廷から派遣された人であろう。初めの「鬼面尊」(御神体)を移す行事を行えば、お帰り下さい。後はわたしたちが祭を行います。
 お分かりのように縁起と祭の実態は別である。そのような二重構造を持っている。このような目で見ないと、このお祭は理解できない。このような二重構造を持っているという考えが分からなかったから、両方のメッセージが混線して分からなかった。
 今の話をまとめ、これを形式化しますと、
  祭の二重構造(征服者A・被征服者Bとする)
   A型 (A中心) 天満宮
   B型 (B中心) 大善寺玉垂宮
   AB型(対等型)
   O型 (単独型)

 A型は征服者中心のお祭で、天満宮などのお祭です。鬼を攻撃しています。今申しました大善寺玉垂宮のお祭はB型です。鬼の立場からお祭が行われている。ですがここには明らかに征服者(A)の顔も少し出ています。「とった、とった! 鉾取った。とった、とった!面取った。」というかけ声は、明らかに征服者(A)の声です。鬼を大事にしている者のかけ声ではない。そのような征服者(A)の声も一部入っているけれども、全体の進行としては被征服者(B)中心の祭が行われている。AB型(対等型)というタイプは、わたしが考えたものですが、AB対等というか、征服者・被征服者両方とも入っていると考えたものです。そうしますとO型(単独型)も欲しくなってきましてので、仮に名付けたものです。アイヌ人のお祭、熊祭などを想定しています。一応征服・被征服関係なしに、このような祭がもし存在すれば、一応単独型と呼んでも良いと思います。ですが、われわれが今見てアイヌ単独型と見えているだけで、本当は繰り返し見てみれば、アイヌの成立も単純ではないので、そこに征服・被征服が含まれている可能性はある。本当に単独型かどうかは分からない。O型(単独型)が本当に存在するか、わたしは自信がありません。一応、このように呼んでおきます。
 今このように見出した問題は、もしかしたら大変な発見かも知れない。なぜかと言いますと、『高良記こうらき』でも、明らかに九州王朝系の系図と思われます。『記・紀』には存在しない神様の名前がたくさん出てきます。ですが先頭はへんな具合に孝元天皇から始まっています。初めから読めば天皇家と関係があるように見えるが、良く見ていくと中身はまったく違って、天皇家とまったく関係のない系図や記録です。先頭のところに大和朝廷の天皇をはめ込んでいる。変な気がしておりましたが、これを二重構造であるという目でとらえれば問題なく理解できる。たとえばアイルランドへ行ったとき、各地でおもしろい問題を見ました。その一つ、アイルランドでは王家の紋章にカブトエビが存在します。それが付いている墓が、王家の筋の墓なのです。研究者にうかがいますと、地球の中で現在カブトエビ(甲海老)は北米と日本しかいない。不思議なのはアイルランド島には、カブトエビ(甲海老)はいない。それなのになぜ王家の紋章にカブトエビがあるのか。
 そこから先はわたしの想像で補えば、アイルランドの王家の先祖の人々は、足を延ばして古くはアメリカ大陸に侵略したのか、あるいは訪れたものだと思います。先祖の人々にとっては英雄的行動です。それを誇りにして、アイルランドにはいないカブトエビを自分たちの紋章に使ったものだと思います。今言ったことは特別に研究したわけではありません。とにかくその話は想像ですが、想像として置いておいても、事実としては王家のお墓には必ずカブトエビの紋章が付いています。ところが、ある段階から変わります。どう変わるかと言いますと十字架がそこに加わる。カブトエビ(甲海老)に十字架が加わった紋章は、われわれから見れば複雑で変わった紋章に見えます。それに変わっていく。つまりキリスト教の影響が加わって、支配的な地位を占めるようになる。そのとき混用というか、従来のカブトエビのシンボルを全部消すのではなくて、そこに十字架が加わったデザインになる。その十字架が加わった時間帯も分かるし、そのときの王家の姿も分かる。このように二つのタイプが混用されている、AB型ではないですが、対応させているスタイルを持っています。そのように考えますと、世界の歴史書の場合も、このような問題がたくさんあるのではないか。むしろ先ほどのO型(単独型)も、わたしの偏見でなければ、みせかけ単独型。われわれがよく知らないからO型に見えているだけで、本当は深く見ていけば、A型、B型、AB型(対等型)であるという問題を、いかなる歴史書も含んでいるのではないか。
 もう一方の見方から言えば、権力者が語る伝承は、ほんらい二重構造の原理を持つ。英語で言えば、Double Construction Principleとなります。
 この二重構造の原理は、世界のいかなるいかなる権力者が語る伝承、いかなる宗教の聖典も、ほんらいは二重構造の原理を持つ。そういう基本的な視点を提供するのではないか。本当にそのような二重構造の原理を持つのかは、今後の検証の課題です。

二 出雲弁と東北弁

三 『論語』の史料批判


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制作 古田史学の会
著作  古田武彦