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和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判 、 <補(追補)>

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 特別寄稿

和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判 <補(追補)>

筆跡学から「偽鑑定」を正す

古田武彦

〈補〉

 (一) 齋藤隆一氏「筆跡論争」(『季刊邪馬台国』61号)について。
 かなりの長文であるが、学問的な論述としての「態」をなしていないようである。たとえば、その「表示」には
  「東北各地の教育委員会に保管されている『東日流誌』原書のコピー文字」
  「東北各地の教育委員会に贈られた、和田喜八郎氏名儀の原稿のコピーの文字」
 といった「形」の分類がなされ、その上で、「字形」が羅列されているが、はなはだ「不分明」である。
 たとえば、こんな“指定”で、「東北各地の教育委員会」に当文献の「所在」を問い合わせたとすれば、各教育委員会を「当惑」させ、「苦笑」させるだけであろう。失礼ながら齋藤氏はこの種の学問上の論文を書かれたことのない「アマチュア」なのであろう。だからこそ、当編集部は、最低限の学術的用意を齋藤氏に求めるべきではあるまいか。それが「責任編集」を名乗る者の義務であろう。(その編集部もまた『東日流外三郡誌』に関して「特定性なき『表示方法』」に依存している。本稿所載「写真2」「写真3」〈『季刊邪馬台国』51号〉。61号にも同じ写真が「補充」の上、また再録されている)。この点、61号の安本論文「写真2・3・4」においてはじめて巻数・ぺージの「特定」がなされている。(「いわゆる『自筆』」にも、各表題が記された)。
 なお「『東日流誌』の記述の混乱」などの齋藤氏の論述に関しては、別稿で反論した。(仙台高裁提出「陳述書」)。和田家文書の「和田喜八郎氏、偽作」を前提とした具体的な各個の論点に関する「控訴」はことごとくしりぞけられた。当然であるが、当高裁の判決に深く敬意を表する。

 (二) 和田末吉・長作及び喜八郎氏の「筆跡」について。
 和田家文書中の末吉・長作の筆跡及び秋田孝季・和田長三郎吉次の「筆跡」については、『新・古代学」第2集、100〜106ぺージにしめした。またその末尾に、喜八郎氏の筆跡三例掲載。さらに同書、第1集、15ぺージに「平成七年一月十八日」付けの喜八郎氏の「筆跡」が掲載されている。
 なお本稿所載の和田喜八郎氏筆跡(資料No.4-①〜⑥)は

和田喜八郎氏筆跡(資料No.4-①〜⑥)和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判<補(追補)> 筆跡学から「偽鑑定」を正す 古田武彦
〈資料No.4-①〉
   平成六年六月二八日到着(郵便物)
     〔自己確認、時点〕
   平成六年七月十八日
 〈資料No.4-②〉
  平成七年一月七日到着(郵便物)
   〔自己確認、時点〕
    平成七年二月十六日
   〈資料No.4-⑤〉
    平成七年一月十九日到着
    (郵便物)〔自己確認、時点〕
     平成七年二月十六日
 〈資料No.4-④〉
    平成七年一月十七日到着(郵便物)
 〈資料No.4-⑤〉
     平成四年二月十七日到着(郵便物)
 右は「平成四年〜七年」間の各自署名であり、「同一筆跡」である。
 〈資料No.4-⑥〉
 平成八年二月二十八日(受領書)
     末尾二行は喜八郎氏の自筆と指紋押捺。
   (それより前は、古田の筆跡)

 これに対し、「三氏等」が“和田喜八郎氏の「確認」を得ぬまま”でいわゆる「和田喜八郎氏の自筆」と称し、「基準筆跡」としたものは

 (1) 東日流六郡誌大要』について」
         昭和六十年十二月一日
      〈山上笙介氏、提供〉
 (2) 「知られざる聖域、日本国は丑寅に誕生した」
       平成四年二月一日〜四日
         〈岩手県水沢市公民館、高齢者大学「臥牛館」講演用〉
      (『季刊邪馬台国』一六九〜七〇ぺージ)
 以上の「時日」を対比してみると、
 〈A〉資料No.4-①〜⑤
       ーーわたしの提供した資料
 〈B〉(1) (2)
       ーー安本氏が「和田喜八郎氏の自筆」と“誤認”した資料ー

は、いずれも、喜八郎氏が「五十才代末から六十才代末」の十年間内、すなわち、筆跡上「同一期間」と見られる時期の執筆である。特に「資料No.4-①〜⑤」と「(2)」とは、「同年同月(平成四年二月)」内だ。「比較筆跡」として、これほど「適切」なものは少ないであう。
 ところが、本稿における「郎」字の対比検証で詳密に検証したように、全く「別人」の「異なった個癖」をもつ。この一事ほど、「喜八郎氏『偽作』説」の虚妄を明証するものはない。当然ながら、この「平成四年二月」の時点においては、“(喜八郎氏に無断で持ち出された)「原稿「コピー」”にもとづく、この「筆跡鑑定」問題は、未だ生じていなかったのであるから。
          以上

      一九九七・五月七日
 神奈川県相模原市田名塩田遺跡群に、旧石器時代(一万五千年前)の石器「工房跡」発見の報に接しつつ。
                      古 田 武 彦
                              記了

 

〈追補〉

 本文中に引用させていただいた『芭蕉自筆・奥の細道』(岩波書店刊、解説、櫻井武次郎・上野洋三氏)に対し、注目すべき批判論稿二篇が出された。

表A 新出『奥の細道』における「は」(盤)の筆法の比較 和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判<補(追補)> 筆跡学から「偽鑑定」を正す 古田武彦
 第一は、増田孝氏の「新出本『奥の細道』の書について」(「日本古書通信」第62巻第5号、平成9年5月15日発行)である。氏は表(A)について、次のように論ぜられた。
 「(「は」〈盤〉について)全体を通して眺めてみて、書としてのまとまりを持つのは①くらいであって、あとはどれもがひどくだらしのない形になっている。ことに②⑫⑬などはこれだけ出てくると、二字に読んでしまいそうである。⑮〜⑲になるともうすっかり別な字に変わっているようにすら見える。」(13ぺージ2段)
 「(「夏草や」の句について)『夏草や兵共か」までは普通に書いてきたが、この調子では下があいてしまうので、『夢の跡』は必要以上の空間をとり、とても不自然な筆線になってしまった。」(14ぺージ2〜3段)
 「(「岩歩院々」について)新出の該部分(貼布紙の上の文字を指す)は、やはり『岩上の』ではなくて㉔『岩院々』と読めるのである。これが私の眼のせいでないことはそのしばらく後に㉖『行を』の『歩』が全く同じ筆法で書かれているので裏付けることができる。」(14ぺージ3段)
 以上、いずれも書家としての鋭い眼識を感じさせよう。要するに、この本(岩波書店コロタイプ本)は、芭蕉自筆ではなく、他者による「再写本」だというのである。(1)
       ×    ×

 第二は、山本唯一氏の「『奥の細道』自筆本を疑う」(『歴史と旅』平成9年7月号)である。氏は先ず、「中尾本」(岩波書店コロタイプ本、「中尾」は所蔵者)と他本(「曾良本」「西村本」)との対比表をしめした(訂正前後を(1)(2)として表示)上、「舎身」(正しくは「捨身」)「方寸を漬(く)」(正しくは「責(セム)」)といったような、芭蕉本人としては、考えられない性格の「ミス」が「中尾本」に出現していることを指摘された。

表B『奥の細道』中尾本と芭蕉自筆 和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判<補(追補)> 筆跡学から「偽鑑定」を正す 古田武彦

 その上、表(B)を挙げ、この「中尾本」には、芭蕉自筆として従来から知られているものとは、全く異質・異例の表現が出現している事実を指摘する。
 「『細道』では『開基』の語は二度出てくる。中尾本では二度とも『開記』と書く。(事例略す古田、以下同じ。)ところが、芭蕉が東北行脚のとき書いた自筆の『天宥法印追悼」の句文懐紙では『・・・・羽山開基にひとし』と記している。まさしく『開基』とする。」(180ぺージー段)
 「そして中尾本では『出づ』を二回『出ズ』と表記する。(事例略す)芭蕉には『出ズ』と表記する癖はない。(中略)みな『いづ』である。『出ズ』とするのは芭蕉ではなかろう。」(180ぺージ1〜2段)
 「そして中尾本では、松島からの道について『人跡稀に雉兎蒭蕘の往(き)かふ道そこ共わかず、終に道ふみたがへて」としてから、貼紙などして『雉兎蒭蕘ちとすうじょう』とする。『稚兎』『蒭遶』と誤って書いた人物は、その語の意味を解していなかったのだろう。『雉兎蒭蕘』は貞享元年九月筆の『綿弓や』の句文懐紙に、芭蕉は『心は高きに遊んで、身ハ芻蕘雉兎の交をなし(芻は蒭の古字)」と、正確に書いている。」(180ぺージ2段)
 「『世に賞せらる』を中尾本では『世に棠せらる』とする。(事例略す)芭蕉は、書簡(元禄五年閏五月五日付・氷固宛など)では『賞翫』の語をときに使うが、『賞』を『棠』と誤ることはなかった。」(180ページ3段)
 いずれも、歴年の芭蕉研究の碩学としての氏の面目躍如たる、的確なる指摘である。氏はこの「中尾本」の筆者を、芭蕉の“秘書”というべき場所(同居及び近隣住)にいた、甥の桃印に(可能性として)擬している。
 わたしは芭蕉筆跡の研究者ではない。それ故、この「自筆」と「非自筆」を“論定”する立場にいない。その心算も、一切ない。しかし、増田説から山本説へと読み至ると、俄然、親鸞の教行信証自筆本(坂東本)から直弟子本(専修寺本)・孫弟子本(西本願寺本)へと至る、筆跡変転、その類同と異同に関する筆跡研究史を彷佛(ほうふつ)として想起せざるをえなかった。
 先日(平成九年六月十日)、大谷大学に山本氏をおたずねしたところ(氏は同大学名誉教授)、果して氏も右の筆跡研究史については、恩師の教授から学ばれたところ、わたしが親鸞・蓮如筆跡研究にいささか寄与した諸点(デンシトメーターの利用等)などについても、よく御存知であった。
 要するに、今回の増田・山本両氏の説は、「それほど、芭蕉自筆と当中尾本筆者の筆跡は、(誤字問題もふくみ)両者に類似性(「流癖」)をもちながら、やはり「個癖」を両者異にしている」ことの指摘だったのである。
 この点、芭蕉筆跡に無知だったわたしは、先ず第一に、櫻井・上野両氏の学殖深き御教示をえた上、次いで綿密な増田・山本両氏の蘊蓄(うんちく)にふれ、いよいよ、本稿の論述するところ、「流癖」と「個癖」の差異の重要性を確信するところとなったのである。
 さらに、芭蕉における「桃印」、和田喜八郎氏における章子(ふみこ)さん、といった秘書役の存在に留意すべきこと、いわば筆跡研究上不可欠の「秘書学」の重要性を痛感することとなったのである。つつしんで上記四氏に感謝したい。(2)

(注)
 (1) 増田孝氏「書の真贋」(「書の美」10号、平成6年5月、淡交社刊)参照
 (2) 週刊新潮21、平成9年6月5日号参照
 なおこの問題に関して、「新・古代学」第三集(新泉社刊)所載の対談「『奥の細道』芭蕉自筆本の真偽をめぐって」(山本唯一氏及び櫻井武次郎氏と古田。)参照。また同誌には特集として、「和田家文書をめぐる裁判経過」の詳細が掲載されている。

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