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市民の古代 第10集 1988年 市民の古代研究会編
 特集1■金石文を問う

金石文再検討について

 

編集部

 

 一、金石文とは

 金石文とは、属やなどに文字が刻(きざ)みつけられたものを意味する。記述せられた文字や記述内容、及び対象素材などを研究する学問を金石学、金石史という。この学問は中国から起こり、文学の一ジャンルとして芸術、とりわけ書道の重要な科目ともなり、さらに歴史学、美術史、文学のそれぞれの有力な一分野を形成してきた。
 金石学の歴史は、中国の南北朝時代の梁の元帝の『碑英』に始まるとされるが、現在伝わっていない佚書(いつしょ)であるから確認出来ない。宋代に応陽脩(おうようしゆう)、李公麟(りこうりん)、劉敝(りゅうしょう)らが輩出し、徽宗(きそう)の『宣和博古図(せんなはくこず)』などによって、金石学の礎(いしずえ)ができたと言えよう。
 しかし、元や明代にはあまり発展を見ることは出来なかった。清代になって考証学の発展によって、これまで文献上によってのみ考えてきた学者に、考証の素材として金石文(鐘鼎文しようていぶん や石刻文字)の研究を迫ったのである。
 中国に比して我国においては、金石学及び金石文研究は遅れていたが、江戸時代の中期以後になって、金石文の収集、研究書の刊行が見られ始める。周知の徳川光圀が那須国造碑の調査や保存を行っている。伊藤東涯の『盍簪録(がいせんろく)』、沢田東江の『上毛多胡郡碑帖』は多胡碑にふれており、藤原貞幹の『金石遺文』や、屋代弘賢(やしろひろかた)の『金石記』は金石文を広く紹介し、又、為政者の松平定信も『集古十種』を刊行するなど金石文への注目が始まっている。狩谷[木夜]斎(かりやえきさい)の『古京遺文』はよくまとまったものとして知られる。

狩谷[木夜]斎の[木夜]は、木編に夜。JIS第3水準ユニコード68DE

 金石文の紹介当初は紀行文(例えば多胡碑の初出は、連歌師の宗長の「東路の津登」であるように)であったり、一部の好事家達のものであった。寛政年間に入って、系統的に研究が始められた。ただ、好古的な傾向を主としているという江戸考証学の制約がある。狩谷[木夜]斎という民間学者の登場によって、学問的研究としてようやく本格的に確立され始めたと思われる。

 二 再検討を要する金石文

 金石文は歴史研究の上で重要な位置を占める。それ故、個々の金石文一つ一つを丁寧に調査し、文字の判読や読解を厳密になさなければならない。今日まで、古田武彦氏や市民の古代研究会会員が問題とし、再検討をしてきた主な金石文とその論拠を以下に簡約に示そう。

(1).金印「漢委奴国王」
 一七八四(天明四)年、博多湾の志賀(しかの)島から発見された金印には、「漢委奴国王」と刻まれていた。『後漢書』東夷伝に、光武帝が倭奴国王に印綬を与えたとある記事に符合する。通説は三宅米吉が「漢委奴国王印考」(『史学雑誌』三 ー 三七、一八九二《明治二五》年)において、奴国を儺県(なのあがた)に比定して、「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と読むところに源流をもってきた。
 しかし、この読解は「AのBのC」という三段国名表記となり、あまりにも細切れの読み方である。実際に中国の印文の国名表記法のルールにかなうのかどうか、この点の疑問から再検討を始めたのが古田武彦氏であり、氏によって厳密で科学的な史料批判が加えられた。その結果、「漢の委奴イド(ヌ)の国王」という読解法が得られたのである(詳細は、古田武彦『「邪馬台国」はなかった』、『失われた九州王朝』、藤田友治「金印『漢委奴国王』について」『市民の古代』第二集を参照されたい)。

(2).三角縁神獣鏡
 邪馬壹国の論争とかかわって、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏朝から下賜された鏡か否かが問われてきた。その際、鏡が中国製(舶載鏡はくさいきよう)か日本製([イ方]製鏡ほうせいきよう)かを判別するのに、富岡謙蔵『日本製古鏡に就いて』が基準となっていた。富岡が[イ方]製鏡、即ち日本製と判断する根拠は次のようだ。

[イ方]製鏡の[イ方]は、人偏に方。JIS第3水準ユニコード4EFF

 1.鋳上がりが悪いため、文様・図像・線などがあいまいになっていること。2.したがって、図様(文様・図像)本来の姿が失われていること。3.文字がないこと。もしくは、“文字に似て文字に非ざる”文様めいたものにくずされていること。4.鈴鏡は中国にないから日本製である。
 この富岡の判定基準は、鏡に関して日本考古学の基礎となっていたものである。しかし、この判定基準は“日本製は文字がないかあいまい”という前提条件に立脚している。これが果して、そうであろうか。
 古田武彦氏は、日本列島内の文字認識を問い(「日本の古代史界に問う」『倭人も太平洋を渡った』所収)、三世紀には既に、倭国では文字が知られていたということを、倭国が魏朝に送った上表文によって論証した。これによれば、“文字がないから”等による判別は真の基準たり得ないのである。
 さらに、決定的に重要なポイントがある。三角縁神獣鏡は中国、朝鮮半島から出土せず、ほぼ日本列島だけに大量に出土するという分布状況がある。この点からも、古田氏は一貫して日本製であると提起している(『ここに古代王朝ありき』、『多元的古代の成立』、『よみがえる九州王朝』、『倭人伝を徹底して読む』等)。
 従来の通説に対するこの古田氏の提起は黙殺されていたかに思われたが、一九八一年になって中国の鏡専門家の王仲殊氏が「日本の三角縁神獣鏡の問題について」(『考古』一九八一、第四期)を発表すると様相が一変し始めた。
 王論文の核心は、「三角縁神獣鏡は中国から出土しない。すなわちこの鏡は中国製の鏡ではなく、日本製である。従って卑弥呼が魏朝から贈られた魏鏡ではありえない」ということである。この点、既に発表していた古田氏の説と同じ趣旨である。ただし、王氏は「邪馬台国」ととらえ、その所在地については、「今後の継続的な研究をまつべきである」として断定は避けている。
 三角縁神獣鏡問題は「邪馬台国」近畿説論者の最大の依り処であったから、これが「魏鏡に非ず」とする王論文の帰結によって、近畿説はその命脈を断つかに思われたが、実は王氏自身は近畿説といってよい(この点への鋭い批判は古田武彦『よみがえる九州王朝』に詳しい)。
 三角縁神獣鏡国産説の方は一層詳細な研究が進み、最近、千歳竜彦氏によって「銘文からみた銅鏡の製作」(『関西大学考古学等資料室紀要』第五号、昭和六十三年三月)がまとめられ、銅鏡の製作技術の変遷や銘文の分析によって国産説を明確にしている。今後の論争の進展が期待される。

(3).稲荷山鉄剣銘
 十年前の毎日新聞(一九七八年九月一九日付)は、「世紀の発見」として、一面トップに「日本統一は雄略天皇ーー埼玉・熊本で出土の剣に“ワカタケル”の銘」という大きな活字が躍らせていた。X線でさびた鉄剣から文字を読みとる方法が有効性をもちはじめた画期的な出来事となった。
 だが、銘文一一五文字は貴重な史料であることは言うまでもないが、その解読は「ワカタケル」と読んで「雄略天皇」ととらえ、さらに「倭王武」とつなげて、日本統一を五世紀にするなど問題は多い。
 この点に対して、古田武彦氏は『関東に大王あり』(新泉社)において、まず「ワカタケル」という読みは正しくないことを指摘し、「加多支カタシロ大王カタシロ大王」と読み、関東の大王とした。この解読は埋葬状態を含め、考古学的な事実とよく一致する。つまり、鉄剣は主棺の粘土槨らではなく、「左治、天下」する形で礫床の副葬となって出土している。さらに雄略天皇の宮は「長谷の朝倉宮」であって「磯城宮」ではない。しかも、肝心の現地、稲荷山の近くに「磯城宮」(栃木県藤岡町大前神社の古称ーー延喜式以前)があったのである(今井久順氏の指摘を古田氏が現地で確認したことによる)。
 古田氏によるこの有力な反論に、一部ジャーナリズムによってあわただしく作られた「ワカタケル大王=雄略天皇=倭王武」という説は「定説」とはなり得ていない。高校日本史教科書の現行十八種類を全て調査したが、この等式を「〜と考えられる」(二点)、「〜と推定される」(二点)「さすらしい」(一点)と慎重であり、せいぜい「有力である」(二点)となっている。さらに、「これに疑いをもつ説もある」(一点)と問題点を提起しているものさえある。
 ところが、本年の大学入試共通試験において、「(獲)加多支璽歯)大王』は、倭の五王の一人と考えられている」(第一問・問4)と出題されるにいたり、良識ある、人々の疑問をおこしている。学問は真理追求のためにありそのため当然異説を含め仮説を公平に扱わねばならない。受験生の若い探求心を一枚のテストで通説のみ強要することは「魂の公害」をもたらすであろう。
 さて千葉県市原市稲荷台一号墳出土の鉄剣銘の解読がレントゲン写真によってすすみ、「王賜」など「12文字」の銀象嵌銘文があることが報道され(一九八八年一月十一日付毎日新聞、読売新聞等)。この銘文については、金井塚良一氏と古田武彦氏の対談(『歴史読本』一九八八年四月号)及び、本号の古田氏の記念講演、同じく本号の小野沢真氏「『房総の王』と稲荷台の銘文鉄剣」を参照されたい。

(4).好太王碑
 従来、日本古代史の史料とし重視されてきた高句麗の好太王碑に対して、一九七一年以降から根本的な再検討が始められた中塚明、佐伯有清、李進煕各氏による一連の問題提起である。これらの各氏の研究は、好太王碑文の「拓本」各本にもたらした人物は、参謀本部の酒匂景信(誰が拓本をもってきたかは中塚氏、人名を正しく景信としたのは佐伯氏)であること、そして酒匂が好太王碑の改ざんを行ったという説(李氏)に帰結し、学界、思想界、教育界に大いに覚醒(かくせい)をもたらした。
 これらの提起に対して、古田武彦氏は東大で開かれた史学会大会(一九七二年一一月一二日)で、「好太王碑文『改削』説の批判」を行い、精緻(せいち)な批判論文を発表した(「好太王碑文『改削』説の批判 ー李進煕氏『広開土王陵碑の研究』について『史学雑誌』第八二編八号、『失われた九州王朝』等)。
 本誌は系統的にこの問題の解明に貢献し得た。まず第二集において、現場の高校教師三名(徳野、藤田、山口各氏)により、「好太王碑にみる日朝関係」で、教育現場における好太王碑及び論争のもつ意義を扱い、さらに第四集において古田武彦氏の「画期に立つ好太王碑」、藤田友治氏の「好太王碑の解放を求めて」で、北京、長春各市において文物管理局に好太王碑の公開を求める運動の報告を行う。第五集では、特集II「好太王碑文研究の新視点」で、藤田氏の「好太王碑改削説への反証」によって従来注目されていなかった大東急記念文庫拓本の復原により、古田氏の論点とは別に明確に改ざん説を否定した。
 第六集では、中国の王健群氏(吉林省文物考古研究所所長)の研究を踏まえて、藤田氏は「好太王碑論争の決着 ーー中国側現地調査、王論文の意義と古田説についてー」で、王氏の改ざん否定は既に古田氏の論点の追認であること、拓工による文字の仮面字こそが「改ざん」といわれていることの正体であること等を明らかにした。
 第七集では、本誌や私たちの研究会が中心になって組織した好太王碑現地調査の報告を特集した。長春市で王健群氏と古田武彦氏らとの対談を行えたこと、好太王碑の直接の管理者である集安県博物館の副館長耿鉄華氏の論文を発表し得たこと等、他誌にない特徴をもっている。
 さらに第八集では、朝鮮民主主義人民共和国の社会科学院・歴史学研究室室長の孫永鐘氏と古田氏の対談、講演を報告し、いずれも改ざん否定に立って新たな研究へ進展を得た。第九集では、藤田友治著『好太王碑論争の解明』に対して山田宗睦氏が書評をされている。
 本号においても、耿鉄華氏の「好太王碑発見時期についての新たな検討」・「好太王碑は火で焼かれる以前に完全な拓本はなかった」の二本の未発表、本邦初訳論文の掲載を行った。さらに中小路駿逸氏の「好太王碑文私見」が新たな問題を提起している。
 これらの一連の論究において、古田武彦氏の好太王碑論が国の内外で、実証的に確認されていったと言えるであろう。
 なお、古田氏は好太王碑に関する論考を、『古代の霧の中から』、『古代は輝いていた』(II)、『古代史を疑う』、『邪馬壹国から九州王朝へ』、『よみがえる卑弥呼』において具体的に展開している。

(5) 日本古代碑について
 好太王碑論争の決着後、古田武彦氏及び本会会員は日本古代碑の再検討に入った。那須国造碑について、古田氏は『古代は輝いていた』(III)、多賀城碑については、本誌第八集及び本号の記念講演、多胡碑については藤田氏の「削られた多胡碑」(第八集)、古田氏「多元史観の新発見」(第九集)で、多胡碑の現在残っている一面の他の三面は過去において削られたのではないかという問題を提起している。本号において増田修氏が「多胡碑の『羊』と羊太夫伝承」として羊太夫の伝承を追跡している。本誌巻末に「多胡碑と羊太夫伝説に関する文献目録」を掲載した。今日までのところ、最も詳しい研究文献目録であろう。
 鬼室集斯墓碑については、九州年号論との関連で注目され、丸山晋司氏が「『朱鳥=九州年号』論批判」(第九集)で史料をあげて論述している。同碑は文化二(一八〇五)年以前に同碑に文字が見えないことを証言する史料(司馬江漢『江漢西遊日記』 ー 天明八・一七八八年、坂本林平『平安記録 楓亭雑話』 ー 文政一三・一八三〇年以前)があり、同碑偽作論(湖口靖夫、満田良順、岡田精夫、瀬川欣一、喜田貞吉、内藤湖南各氏等)も多く、現在では厳密な意味での真作論は存在しないが、今後の検討も必要であろう。
 宇治橋断碑については、碑に「大化二年」とあるところから大化年号の実在と考えられていたが、九州年号論の研究から丸山晋司氏が「『大化』年号への疑問」(第五集)において『日本書紀』中の「乙巳(六四五)大化」の実在性こそ疑われると説いた。本号では、宇治橋断碑の現地調査を踏まえた二論文を掲載した。中村幸雄氏「宇治橋に関する考察」、藤田友治氏「日本古代碑の再検討 ー宇治橋断碑についてー」で、それぞれ論旨は異なるものの、いずれも宇治橋断碑を大化二年=六四六年創造とする従来説に対して根本的にこれを否定していることが共通していよう。
 一集〜十集まで、金石文に対して継続的に問題にしてきたのは、歴史研究上の根本史料であるからに他ならない。私たちは、この作業を今後も古田武彦氏や読者諸氏とともに一歩ずつ、つづけていきたい。

〔インターネット事務局注記〕2008.6.30
 鬼室集斯墓碑については、古賀達也氏が「二つの試金石 ー九州年号金石文の再検討」(『古代に真実を求めて』 第二集 一九九八年十月)で、新しい論理を展開しています。


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