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これらをより良く理解するには『好太王碑論争の解明』(藤田友治著 新泉社)をご覧ください。


『市民の古代』古田武彦とともに 第6集 1984年
「市民の古代」編集委員会

好太王碑諭争の決着

中国側現地調査・王論文の意義と古田説について

茨木市 藤田友治

最近の中国側現地調査からの研究成果

 私達は読売、毎日新聞の報道注1 により、中国の理論誌「社会科学戦線」(一九八三年四期、歴史学)において、「好太王碑の発見と拓本」(「好太王碑的発現和捶拓」)と題する吉林省文物研究所の王健群所長の論文が発表されたのを知った。この論文は、現地調査の結果、「李説が主張する酒勾改削は行われていない。石灰塗付及び誤鈎は拓工の手によってなされた」という趣旨の研究成果がまとめられているという。長年念願していた中国側の現地調査をまとめた研究論文を早速入手して翻訳し、その意義の重大性についてここで論じたい。論文の構成は次の様である。
 一、好太王碑の建立 二、好太王碑の発見 三、好太王碑の拓本 (一)拓製人員と拓本経過 ーー三度の現地調査の報告 (二)拓本が誤って描かれるに到った原因、(1)早期の双鈎加墨本に出現した誤字の原因、(1)20世紀の初年以後に拓本に出現した誤字の原因、四、所謂「石灰塗付作戦」について
 この研究論文の特徴は、三度にわたって行った現地調査を踏まえて、李仮説の検証をした結果、所謂改削説は成立しないことを明らかとするだけでなく、何故に李説は成立しないかという根拠を、拓工による誤鈎とし、かつ初天富(一八四七年〜一九一八年)、初均徳(一八六五年?〜一九四六年)の拓工父子を具体的に割りだしたことにある。
 次に、王論文のポイントとなっている現地調査の報告と、「石灰塗付作戦」についての二点を中心にして、より詳しく考察してみよう。現地調査は、第一回(一九八一年六月八日午前)、第二回(七月一日午後)、第三回(七日三日午後と七月四日午前)と三回にわたっておこなわれた。調査したのは吉林省文物研究所の王健群所長と吉林省博物館研究員方起東氏である。方起東氏は、これまでにも「吉林輯安高句覇王朝山城」(『考古』一九六二年第一期)の論文を発表している。古田武彦氏と私は、好太王碑の現地調査の目的及びその交渉で中国に行った一九八一年に、中国吉林省博物館の研究員武国員力*氏と対談したが、武氏とともに古代の高句麗及び碑文の研究者である方起東氏が現地で調査にあたっておられることを既に知らされていた。注2
 王氏らの調査方法は好太王碑文だけでなく、現地の好太王碑の周辺に住む住民に対して徹底した聞き込み調査をおこなうというものであった。訪問対象とされたのは次の三名である。

揚維財(男79才、好太王碑西南側約二百mに住む。)
辛文厚(男、83才、好太王碑北側約五十mに住む。)
初元英(女、59才、黄柏公社の社員)

 この調査の結果、次のことが判明したという。一八八三年ごろから約五十年間、地方行政官の命を受けて、碑の拓本を取り続けた拓工初天富、初均徳父子が、苔むした碑に牛の糞を塗って乾かしてから燃やし、拓本をとりやすい状態にして、更に碑文の不明確な個所や凹凸のある個所に石灰を塗り、欠けた字を補った。
 拓工が石灰を塗り、欠字を補ったということについては、好太王碑研究史上、既に自明となっていることの確認である。即ち、一九一三年九月から関野貞氏や今西龍氏らによって高句麗古墳の調査がなされ、とくに十月には十一日間にわたって、輯安の高句麗遺蹟を本格的に調査している。関野貞氏は「満州輯安県及び平壌付近における高句麗の遺蹟 注3」において、「初鵬度」という拓工が、当時「六六才」で三十年前よりこの地に住んで、「当時知県の命により拓本を作らんとせしに、石面に長華(苔)あり、火を以て之を焚きしに石の隅角欠損せり、石面粗に過ぎ拓本の文字分明を闕くを以て十年許前より文字の周囲の間地に石灰を塗りたり。爾後毎年石灰を以て処々補修をなすと。就て詳細に調査するに文字の間地は石灰を以て塗りしのみならず、往々字画を補ひ、又全く新たに石灰上に文字を刻せる者もあり、而も此等の補足は大抵原字を誤らざるが如しされども絶対の信は措き難し」(同上書。但し傍点は引用者。インターネットでは赤色表示)と報告している。「初鵬度」という拓工は当時六十六才であったというから、生年は一八四七年となり、初天富と生年がピタリと一致し、初も同姓であり、好太王碑の周辺に住んで拓業に就いているところから、恐らく同一人物であると考えられる。更に、碑面の現状については、今西龍氏は、次の様に詳細に報告している。

 此碑欠落せし部分少からず、碑面風雨に浸蝕せられ小凸凹を生じ且つ刻字浅露となれり。第一面・第二面最も甚しく第三面は欠落せし部分少からざれども残余の碑面は第二面のそれに比して稍々平なり。第四面は比軟的良好に遺存せり、如上の状なるを以て原碑面のまま拓本を作りては不鮮明甚しく字形も明瞭ならざるもの多数なるが故に、碑面の深く欠落せる第一面の一部の如きは泥土を以て之を填充し、尚ほ四面ともに全面に石灰を塗り字形のみを現はし、字外の面の小凸凹を填めて之を平にし、唯拓本を鮮明にすることをのみ務めたり、されば文字中全く工人の手に成るものあり、一部分の修補せるものに至りては甚だ多し。拓本作成者は鮮明に文字を現出せば彼には充分なるが故に一切他を顧みざるを以て第三面第一行の如きは之を拓せず、修補の際原字の字劃にも多くの注意を払ひしとは思はれざるに因りて此碑文を史料として史を考証せんとするものは深き警戒を要す。注4

 ここから判明するように、拓工は「唯拓本を鮮明にすることのみ務め」るが故に、「四面ともに全面に石灰を塗り字形のみを現はし」たのであって、李氏のいう「石灰塗付作戦」ではない。しかも、今西氏は「深く警戒」を要請するといい研究者としての注意深さを示している。碑面についても、等一面・等二面の欠落は著しいが、第三面から第四面では「比軽的良好に遺存」していることをも、現地調査によって明確にしている。このことは、私達が、拓本、釈文の信頼度を調査した際、論争点や疑義の多い箇所を除外し、第三面から第四面の比較的良好な部分に制限した方法の正しさを教えてくれている。注5
 漆喰が好太王碑に塗られていること、及びそれが拓工の手によってなされていることは多くの現地調査が既に指摘している。一九一八(大正七)年調査をした黒板勝美氏は「大王碑の前に百姓屋あり、此家の老人商売の為め多く拓本を取るが、其墨悪しき為め悪臭鼻をつく、又拓本を鮮明にする為め漆喰を施せり。併し此漆喰に由りて明にせられたる文字は、果して皆な原字の儘なるか 注6」と重大な事実と疑問を提していた。黒板氏の報告にある「其墨悪しき為、悪臭鼻をつく」とは、王論文の中で、「鍋底の灰から墨をとり、これに膠(にかわ)を混じて煮沸させるときの」(辛文厚氏の証言)臭いであろう。状況の一致は、きわめてリアルである。「此家の老人」とは恐らく、王論文が明確にした初天富であるとすると、当時七十一才で間もなく没することとなる。更に、一九三五(昭和十)年と三六(昭和十一)年に二度にわたり現地調査をした池内宏氏は「拓碑を業とするものは、墨客騒人を喜ばせるが為めに漆喰を以て字画の欠損を補ひ、域は全く不分明なる文字を補填することさへ敢てしてゐる」(『通溝』上巻)とハッキリと記している。
 王論文は、今西龍氏、関野貞氏、黒板勝美氏、そして池内宏氏らの現地調査と基本的に一致しているが、それでは王論文の根本的特徴はどこにあるのだろうか。前記の各氏による調査報告でのべられていることの「むし返しに過ぎないのではないか」ということなのだろうか。そうではなくて、事実は一つであることを意味し、碑文の拓工達の事実経過を、周辺住民の調査から、“改ざん”(意図的なものではなく)者の具体名を特定し、かつ初均徳の写真を入手したばかりか、彼のおいの初文泰から初均徳が自ら手書きした碑文を入手し物証を提供したことにある。この碑文は縦63cm、横27cmの紙四枚を使って、四面が毛筆で書かれているという。注7 恐らく、拓工達が拓本をとる時の参考にし、持運びやすいサイズにしたもので、これと従来の双鈎加墨本や釈文、更に碑文そのものと比較研究すれば、誤鉤はどれであるか一層判明するに違いないことであろう。
 さて、王論文は、日本の参謀本部による“改ざん”がもし行われていたとすれば、その事実を好太王碑付近に住む住民が、一切それを知らずにいることはできないとし、まして李説が主張する全面的でかつ三回にわたる「石灰塗付作戦」を住民に一切気づかわれずにおこなわれたとは考えられないという説得力のある結論を導いている。
 ここでは、李説の根本動機となっているイデオロギー論は全く無効である。何故ならば、関野氏や今西氏らの調査では、李氏は総督府の地方局の管轄下におかれていたという事実を指摘し、「土地略奪のために進められた土地調査事業と緊密な提携のもとに行われたことを見逃がすわけにはいかない 注8」と主張することによってその状況を批判することができたが、今回の調査主体である中国は、元来日本軍国主義を批判しているから李氏のイデオロギー批判は適用できない。
 王論文は、四章、「所謂石灰塗付作戦」について李説を徹底的に分析し、かつ丁寧に李説をまとめた上で、日本の明治維新以後の軍国主義、拡張主義、日韓併合、中国の東北(旧満州)占領という歴史的事実を侵略行為として批判し、赤裸々な弱肉強食であり、「八紘一宇」、「日朝同祖」、「満鮮一家」、「満蒙一家」論等のイデオロギー批判をおこなっており、更に日本の陸軍参謀本部の動向を追跡している。しかし、上記のようなイデオロギー批判と「実事求是」とは厳密に峻別しあくまでも何が歴史における客観存在であるかを求めている。王論文は、「歴史是客観存在、研究歴史必須実事求是」とする。この立場で、王論文は酒勾景信による「改削」及び参謀本部の「石灰塗付作戦」を明確に否定している。次に王論文の主張と従来説との比較をしてみよう。

二、王論文と従来説の比較

 王論文は酒勾景信の双鉤加墨本の性格について、拓工から入手したものであり、酒勾本人が拓出したものではないという事実を指摘する。理由は、次の点にある。好太王碑のような巨大な碑から四面にわたって拓本をとるのは一人の熟練した拓工を使っても、半月以上の時間を要するし、又、酒勾は間諜(スパイ)であったことからして、時間的にも能力的にも到底これをなし得ないからである。
 この点については、拙論「好太王碑改削論への反証」(『市民の古代』第五集)でのべた様に、古田武彦氏が酒勾の碑文由来記をとりあげ参謀本部の内部文書なのでウソをいう必要のないところから、「現地人を脅迫して入手した」と書いてあるのを真実とし、“すりかえ”は行われていなく、双鉤したのは清朝の拓工であると主張していたのと合致する(『史学雑誌』第八十二編第八号「好太王碑文『改削』説の批判」参照)。
 次に王論文は酒勾の双鉤加墨本の状況を詳細に分析する。一八八三(明治十六)年、酒勾は双鉤墨本を入手し、翌八四(明治十七)年参謀本部で解読作業がはじまり、青江秀や横井忠直等の漢学者の手で解読されたが、碑文四面一三二紙の大小の不ぞろいを配列する際、酒勾本人が立合っていたにもかかわらず錯誤している。例えば「第三面右下角」(即ち第一行は第四一字「潰」を残してほとんど剥落しているので、これを第二行の最末字ととり違えている事実をさしているのであろう)や第四面の三八字から四十一字の全ての位が上に置かれるべき(第一字から第四字)ものであるのに誤っている。この誤りは好太王碑文の最後の字となっている「え」(第四面第九行四一字)が第一字へと移し変えられている事実から、“改ざん”を加えた程の酒勾が碑文を実見しているにもかかわらず、碑面を熟読していないことからおこるという。


 

 現在保存されている酒勾本を用いて、碑文と対象するとわずかに字の誤鉤があるが、字体、部位等において忠実に原碑を写しており、改ざんの痕跡の蓄意を見ることはできないとし、論争のポイントである「倭以辛卯年来、渡海破百残、□□新羅以為臣民」の字を原碑そのものであると調査から判読している。しかも、厳密な分析を加えていることは、次の事を明確にしていることからも解る。「立/木」の字、即ち「辛(しん)」卯年を当時の常識では当然に「」につくるが、酒勾のもたらした双鉤加墨本は、これを「来」という字につくっていることから原碑を忠実に写そうとしている事を説明できる。即ち、「立/木」は「辛」の字の古字であり、双鉤者はこれを知らず、「ハ」を碑文に見えるままに写していたのであるからだ。この問題は、たった一字であるが極めて重要な事柄を意味している。
 従来から、「立/木」は拓本において「未」(酒勾本、大東急記念文庫本)、「来」(内藤虎次郎旧蔵本)、「立/木」(東洋文化拓本)、「来」(シャバンヌ拓本)等に分れ、更に釈文では「耒」(横井忠直、三宅米吉)、「辛」(栄禧、前間恭作、金敏敝、水谷悌二郎、末松保和、朴時亨)、「立/木*」(今西龍)、そして「立/木」(羅振玉、劉承幹)に分れていたものである。
(インタネット事務局注。内容は、画像で確認して下さい。なお [立/木]は、立の下に木。辛の異体字。)
 私は王論文以前に、一九八一年の夏、碑文を現地調査していた中国吉林省博物館武国員力*氏によって「立/木」が現碑文であることを教えられていた。(『市民の古代』第四集「好太王碑の開放を求めて」)釈文や双鉤加墨本における様々な字は、碑面の風化の中で、「立/木」の古字の意味が解らずに「耒*」「辛」「来」等に作字をしたものであるが、意図的な改削ではなかったのである。李氏はこれを酒勾の“すりかえ”字(第一次)とし、「卯年」としたが本来は□であったとされる。しかし、シャバンヌ拓本にみられるように「」であっても□ではない。つまり、不鮮明ではあるが、「耒」の字と読みとれるのであるから、空白とする根拠は拓本から到底でてこないのである。李氏は一体何を根拠にしたのであろうか。

武国員力*(ぶこくしゅん)氏の[員力](しゅん)は、JIS第三水準ユニコード番号52DB

 李氏は一見、酒勾本の「耒」字を「辛」ではないとすることから“改削”と判断したのであろうが、「立/木」字が「辛」の意味の古字であることに思念されながったが故に、再び「第三次加工」というあり得ない場面を想定して、「このことは、『石灰塗付作戦』のとき、酒勾讐鉤本に『耒』字とあるのを「来」に書きこんでしまったことの誤りに気づき、さっそく酒勾讐鉤本どおり「耒」に書き替えたことを示している」(李前掲書、一六五頁)とわざわざ手のこんだ説明をせざるを得なくしている。李氏は「第三次加工」でわずかに三例しか改削を主張していないにもかかわらず、「それらの文字が初期朝日関係史を歪曲する上で、きわめて重要な位置にあることはいうまでもない」(同上書、一六五頁)と断定し、この三例がどのように日朝関係史を「歪曲」したか根拠を一切指摘していない。このことは、厳密性を欠くだけでなく、李仮説の根本的主張であるはずの「石灰塗付作戦」なるものの正体を極めて矛盾に満ちたものにしてしまっている。李氏自らも、「完壁」を期したはずの「石灰塗付作戦」は「いくつかのボロ」を出してしまったと表現せざるを得なくさせている。このように李仮説は矛盾に満ちたもので、到底首肯できない。

三、好太王碑論争の決着と今後の課題

 ある一つの仮説が成立するための必要にして十分なる条件は、現象の根本にある事実や本質を、一つ一つ説明でき、かつ整合性がなければならないのは自明である。李仮説は果してどうか、次に検証しょう。
 おびただしい釈文間の異字の出現、同一の碑文からこれだけ異なる解釈の巾を示す他の金石文はない中で、あえて李仮説は限定した数例(第一次加工において李氏自ら六例とする)のみを酒勾らの参謀本部の全面的でかつ三次にわたる「石灰塗付作戦」とする。しかも、“改ざん”とする箇所は「立/木」が「来」であったり、「□」が「海」であったり、倭にとってイデオロギー上重要な意味を欠くことができない場所ではなく、逆に“改ざん”を主張しない箇所に倭にとって極めて不利と考えられる「倭賊」「倭寇」「倭潰」が双鉤されている。ここから双鉤者はイデオロギー上、不利か不利でないかを思惟したものではないと結論づけられる。この事実は、既に古田氏の前掲『史学雑誌』論文に展開されていることに合致する。
 更に李氏は豊富な文献資料やおびただしい拓本、写真等を駆使されながら、史料操作は極めて主観的であることは、これまでに論述した通りである。しかも李氏は、従来までの研究史及び現地調査を重視せず、イデオロギーによる批判を加えているだけである。仮に関野氏や今西氏らの調査を「土地略奪のために進められた土地調査事業との提携」と批判し得たとしても、一九六三年の朝鮮民主主義人民共和国の社会科学院の調査や、最近発表された一九八一年の中華人民共和国の吉林省文物考古研究所の王氏らによる調査とも合致しない。しかも、李氏のイデオロギー批判は今回の二国の場合は全く無効である。即ち、両国は何ら日本軍国主義を擁護する立場をとる必要がないばかりか、むしろ両国はアジアにおける日本軍国主義の侵略行為を批判し、最近においても日本の教科書問題として問題提起をおこなった国家及び人民であることは記憶に新らしい(拙論「歴史教育における『侵略』論争と皇国史観について」一九八三年大阪府社会科研究会誌参照)。
 論争点のポイントとなっている「倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民」の箇所においても、李仮説は結局は、「海」の一字のみしか疑えず、これも「来渡海破」という文脈でのみ意味をもつのであるから、イデオロギー性をもたない。王論文で明確になった様に、「立/木」の字は「辛」の古字であったということは、従来の拓本が碑文をほぼ正確に反映していることを意味する。このことを認識できなかった李氏は、第一次と第三次の「石灰塗付作戦」という仮説を想定されたのであった。勿論、あらゆる学問において、仮説を設定することは必要である。しかし、肝要なことは仮説の提起だけでなく、厳密な論証による実証が問題なのである。
 李仮説が成立するかどうか、私達は徹底的な調査を行った。まず碑文の論争部分や解釈上疑わしい碑文を作業仮説として判断保留して除外し、拓本や釈文の信頼度を調査した。この作業は、碑文の比較的安定している第三面及び第四面の守墓人、とりわけ国畑が合計「三十」になる史料が基礎調査において正確であることを判明させた。更に、一般的には正確といわれる写真判定も問題を含む場合があることも発見した。李氏の『広開士王陵碑の研究』の資料編にある写真では、碑文の第三面第十四行三九字は「」(同上書六一頁、内藤旧蔵写真による)であるが、一九一三年撮影の写真では「」となっている。このたった違う問題はわずかな差として無視し得ない重要な意味をもつ。それは、この数値は国姻の三十家の内(碑文中に国姻は二十ケ所出現する)で最も数値が異なっているところであった。釈文中も「七」、「六」、「四」「一」、「□」と分れたところで、何が正しいのか写真判定による読解を期待した。しかしながら、奇妙なことに写真でさえ数値が異なっていたのである。碑面中、従来これについては論争もなく、イデオロギーに全く関連せず、しかも客観的に如何なる数値であるか確定できる文字(碑文中に国姻の合計数が「三十」であると明確に示されており、国姻数が三十に合致するには、この数値は「一」以外にはない)においてさえ、異なった姿で現われるのは何を意味するのであろうか。ここでも、李仮説では説明不能になっている。新たに見落としがあったとして、「酒勾らによる石灰塗付による例」として追加するのであろうか。だがそうすれば、イデオロギー論からは整合性を欠くであろう。

 私達はこの問題について、最近新しい史料を得て解明することができた。中国吉林省博物館蔵拓本(日本では未発表、一九八一年に訪中して写真、八ミリにして藤田保存)を映像化して、編集機にかけて一コマづつ分析したところ、問題の文字が次の様に拓出されており、現碑文の状況が判明した。この文字は図3 であった。図3 の文字をどう解読するか。碑面の風化は碑面隅角に著しく、この文字もその結果である。「四」と読むには無理があるが、「七」「六」には読みとれなくはない。これに拓工が字画を明瞭にせんとして作字をおこない仮面字をつくったのであろう。「-/」をキズと見なして石灰を埋めれば、「七」となり、「ノ」を埋めれば「六」となる。写真という最も確実に思われる資料においてさえ、光線や撮影の角度によって凹凸が変化し、数値でさえ異なって判読される場合もあろう。ここから、如何に六m 大の碑文の拓本作業が困難を極めるか、釈文の異字の多さということにより好太王碑は如何に金石学の常識を疑わせていたか解る。「六/」は風化によるキズであり、正しくは「一」以外にはないが、何故に「七」「六」「四」「一」に分れたか、この拓本は教えてくれたのである。
(この部分は、近似表示。画像で確認して下さい。)

 今や好太王碑の「改削」論争は「結着」を迎えた様である。金石学の常識を破る好太王碑の状況は、釈文は勿論のこと、拓本や碑面の写真においてさえ異字を出現させるにいたったのは、風化という自然現象のみならず、拓工を中心とした文字の補填と漆喰等による字画の仮面字によるものである。ここに李仮説は否定され、古田説を中心とした李説批判の正しさが証明された。従来、拓工によるとされた点について、王論文によれば、この拓工は初天富、初均徳父子であると現地調査の結果判明したものである。

三、好太王碑研究の今後の課題

 今後、私達に残されている課題は何か明確にしなければならない。
 まず李氏も自らの著書の最後に述べている様に、「広開土王陵碑にたいする朝・日・中三国研究者の共同調査は、日本近代史学における朝鮮史研究、朝・日関係史研究の歪みを正すためにも、四、五世紀の東アジア史研究の正しい位置づけのためにも、三国研究者間の真の連帯関係をふかめるためにも緊急な課題といわねばならない」(前掲書、二四〇頁)し、私は現地調査だけでなく、論争者の対談(李〜古田両氏と中国側研究者)が碑文の事実と解釈を一層解明するのに役立つと確信するが故に、合同シンポジュウムが必要と考える。
 又、研究史上、新たに判明した史料性格をもつ大東急記念文庫本(李氏はこれを酒勾本のコピーと断定したが、復元作業の結果、コピーではないことが私達の調査で判明した。)も、双鉤加墨本であり、酒勾本とルーツを同じくする種本があるものと思われる。この分野の研究も、碑文の研究史上欠かすことができないであろう。更に、国姻、看姻等の高句麗の墓制と古墳との関連等、数多くの課題があるが、やはり最大の課題となるのは、碑文中九回出現する倭が近畿天皇家か九州王朝かという点である。
 ともあれ、私達は好太王碑文研究史上、ようやく新しい課題にむかってすすまねばならない地平に到達したと言いうるであろう。注9

注1、一九八三年、十一月三十日、読売新聞、毎日新聞。

注2、『市民の古代』第四集、拙論「好太王碑の開放を求めて」を参照。
注3、『考古学雑誌』第五巻、第三・四号、一九一四年。

注4、今西龍「広開土境好太王陵碑に就て」『訂正増補大日本時代史』古代、下巻、一九一五年。

注5、この調査については、『市民の古代』第五集、拙論「好太王碑文研究の新視点 ーー好太王碑改削説への反証」を参照されたい。

注6、黒板勝美『歴史地理』第三二巻第五号の彙報欄、一九一八年。

注7、読売新聞、北京発、荒井特派員による。一九八三年十一月二九日。

注8、李進照『広開土王陵碑の研究』吉川弘文館、三一頁。

注9、この課題については、古田氏は斬新で根本的な視点を提起している(読売新聞、一九八三年十二月二四日付)。
 主要な四点は、第一に碑文第二面の第七行一八字〜二〇字の「其国境」で其のが前後の文脈から「倭と新羅の国境」が朝鮮半島内に「倭」が存在することを意味している。従来の通説である近畿天皇家一元史観からは判読できないであろう。九州と朝鮮南部に海峡を越えて存在した「倭」とする古田説の正しさが、好太王碑文からも証明される。
 第二に「守墓人」について碑文、第三面から第四面についてのべるところ、高句麗は、いずれも自国民を“墓守り”とせずに、むしろ新しく征服した「韓・穢人」を隷属化して国姻や看姻としている。これは、近畿に“巨大な”「天皇陵」古墳群とその墓制を考察する上で、大きな問題提起を含む。今後の古田氏の論述が期待されるところである。
 第三に、第一面第八行の三四字から四一字「百残新羅、旧是れ属民」とする高句麗(騎馬民族)の叙述の背後にある論理即ち「分流」とする大義名分論である。碑文は、倭についてこのように言わず、むしろ「倭」「倭」として敵視しているところから、民族視している。即ち、倭=騎馬民族説の否定となるのである。この点、重要ななる指摘であり、倭の源流をさぐるのに欠くことができない史料となろう。
 第四に、碑文第三面一行で、風化が著しいため、従来四一字「辞」「潰」のみ拓出、解読できずにいたが、更に李仮説で、研究史上、王志修や栄禧本の第一行の文字を疑ったが、李仮説否定後、18字〜22字の「五尺珊瑚樹」問題は、百済と南海との「使献」を伝え、『隋書・百済伝』との関連を古田氏は読解された上で、「南海に、百済と政治関係を結んでいた国があった。この国(身再*牟羅国 ーー引用者)は一体何処であろうか。(『市民の古代』第4集「画期に立つ好太王碑」参照)と新たな問題を提起している。

身冉*牟羅(たんむら)国の[身冉](たん)は、身に冉。


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