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市民の古代・古田武彦とともに 第5集 1983年
「市民の古代」編集委員会

  特集1 ◇九州王朝の文化

法隆寺と九州王朝

古田武彦

 本稿は一九八二年一〇月二三日、福岡・中央市民センターにおいてもたれました「古田武彦古代史講演会」の内容を原稿化したものです。テープ起こしは前稿同様、三木が担当しました。

筑紫舞その後

 古田でございます。好天気の土曜日に私の話を聞きにおいでいただき喜んでいます。
 昨日、宮地嶽神社で『筑紫舞と九州王朝』の題で午前十時から十二時まで講演させていただきました。この時も地元の方始め多くの方、古代史について本を読んだことのない方にも御熱心にお聞きいただき非常に嬉しゅうございました。午後一時から「筑紫舞」の「五人立」を本殿で奉納され、私達一同で拝観したわけでございます。二十二日に私は京都から、西山村さん一行は姫路から同じ列車に乗りまして一絡に博多に着き、この講演会をお世話いただいてます橋田さん、宮地嶽神社の方の御案内で宮地嶽神社にまいりました。宮司さんに御挨拶し、本殿で神前に御挨拶いたしましてから洞窟にまいりました。これは私にとりまして恐いような期待するような一瞬だったわけです。何故かといいますと、前回の講演会でお聞きいただきましたように、私は「十三人立」が舞われた洞窟は朝倉の柿原古噴であるというふうに、西山村さんからお聞きしていたわけです。最初西日本新聞の座談会が博多で武智鉄二さんを囲んでもたれたあと、新聞社のある方が少年時代過した所に洞窟があった、馬鉄も当時通っていたようだという話で、朝倉の柿原古墳で「十三人立」が舞われたのだというふうに聞いていて、私もそう思っていたわけです。ところが博多の講演会の前に、私は馬鉄というものを全然知らないので永井彰子さん(東北大学社会学科で学ばれた、私の後輩に当る方)に調査をお願いしました。その調査によりますと馬鉄は最初福岡県は、北九州、朝倉方面、津屋崎と三つあったけれど、昭和十一年当時は津屋崎一本であったということでした。私はこの時“青くなった”わけです。ですからどの洞窟か分りませんと講演会でお話しした覚えがあります。その後津屋崎線を辿って宮地嶽古墳ではないかということになったわけです。
 実は、宮地嶽の近くにはもう一つ、逆の方向ですが、手光(てぴか)古墳というのがあります。ここの前面には、もと竹林があったそうですが、宮地嶽の方にはありません。これがわたしの疑問でした。
 というのは、西山村さんから竹薮を通って洞窟に行ったと聞いていたからです。私は京都桂川の西のほとりに住んでおります。家の二面が竹ばっかりの純粋の竹の林です。だから竹薮というのもそのイメージで受けとっておりましたのですが、他の木が生えている中に何本か竹があるのを竹薮といわれたのなら宮地嶽に合うのだがと思い、東京へ行っておられた西山村さんの泊っておられたホテル(新宿)でお会いしてお聞きしましたところ、「灌木があって色んな木が生えていて竹の生えているの、ですよ。」とおっしゃったわけです。その時おもわず「それなら宮地嶽古墳ですよ。」と叫んだ記憶があります。また柿原古墳は小さく十三人は入るが、それだけで満員という感じですが、宮地嶽の場合は開口されたものとして日本列島抜群の奥行きをもっております。測り方の違いで考古学者は二十一メートル、神社側は三十二〜三十三メートルといっています。高さが約三・三メートル、横が二・七メートルのすごい大きさですので、ここなら文句なしに「十三人立」が行われると考えていたのです。西山村さんに写真をお見せしたりしてここだと思いますと申しましたら、「ここだと思います。」ということになったのです。しかし御本人が見ていない内に宮地嶽神社の百年祭にぜひ「筑紫舞」を奉納して欲しいという話があって宮地嶽神社に行ったわけです。だから打ち明け話をしますと、前もって西山村さんと二人だけで見てきませんか、とわたしの方から言っていたのです。しかし私の話をお聞きになって西山村さんは「九十九パーセント宮地嶽に間違いないと思います。」とキッパリおっしゃったので、奉納舞をお引受けする段取りになったのです。
 以上のようなことがありまして二十一日に宮地嶽にお連れしたのです。入口には五、六年前には無かったのですが、コンクリートで造られた拝殿ができていまして外から見たら洞窟があるとは思えないようになっていました。だから西山村さんも内心は、「これは違う。」と思われたらしいのです。ところが中に入ってみると、「アッ」というわけです。特に入口の両側の大きな岩と、中にできているかなり大きな両側の窪み(高さ一メートル、幅二メートル、奥行六十センチぐらい)を覚えておられました。人が二、三人並んで坐れるくらいの大きさの窪みが両側にある古墳は珍らしいですね。それを覚えておられ、「この窪みに菊邑検校とケイさんが坐られました。私は十代の女の子だから、というので、岩のゴツゴツのない所に坐りなさいと言われてここに坐りました。」と説明されたのです。そして入口の所の岩の不揃いもよく覚えておられました。西山村さんは「ここに間違いがありません。」とおっしゃいました。そのとき倒れそうにブルブル震えられ、思わず二回も私が西山村さんの肩を支えたほどの感動をしめされました。ということで、西山村さんにとっても、私にとってもなんとも言えない一瞬でした。翌日のわたしの講演も、また舞われる西山村さんの一行の方々にとりましても、晴々とした一日でした。これで昭和十一年の「十三人立」の舞台が宮地嶽古墳であるということは確定したわけですが、筑紫のくぐつの本拠地は何処であるかとか、それはどういう集団であるか等まだまだ不明の点が多いわけです。昨日の舞を御覧になっに方はお分りでしょうが、単に村々の踊りといったものではなく、まことに荘厳な舞であるという印象をうけます。菊邑検校は「宮中で舞われたものです。」と言われたそうですが、「宮中」とは筑紫太宰府を都とする「宮中」ですね。それが何故くぐつに伝承されたのか、(都府楼という言葉が生きて使われた八世紀以前からのものです。)現在まで千年以上延々とどのようにして伝わってきたのか、 ーー奇蹟としか言いようのないものです。この辺のことは現地の皆様方の中で、これは面白い、調べてやろうという方が出て初めて明らかになりはじめるだろうと思いますので、ぜひとも皆様によろしくお願いしたいと思うわけです。
 私はこの頃読者の方々のおかげを大変深くこうむっています。『「邪馬台国」はなかった』を書く時は全く一人ぼっちでした。現在も一人ぼっちであることには変りないのですが、日本列局各地に実に多くの読者の方に思いがけない御支援をいただき、重要な情報をいただき、研究が思わぬところに進展してまいりました。考えてみますと西山村さんも読者だったわけです。どうか博多の方々には特によろしくお願いしたいと思っているわけでございます。本日の主題とは別の話になりましたけれど、前置きのようにして話させていただきました。御関係の皆様には本当にあつくお礼申しあげます。
 小倉駅まで会の方にお送りいただいて本当に嬉しかったと、今朝西山村さんからお電話をいただきました。

 

九州王朝とその年号

 咋日宮地嶽神社での講演、「筑紫舞と九州王朝」の話の時、前半に何故九州王朝ということをいうか、何故九州年号というのかということをじっくりと話しました。橋田さんはプリントを見られた時「全然古代史を知らない人にこんな話をして分りますかね。」と電話で心配されたのです。私は「資料として詳しいプリントを持っていていただきたいが、話はわかりやすく話させていただきます。」とお答えしました。というのはいきなり九州王朝がどうの、筑紫舞がどうかと話しても、聞く方は九州王朝なんて初めてですから、「九州王朝と筑紫舞は関係がある。」と言っても、九州王朝も初めて筑紫舞も初めての人は「ああそうですか、そうかもわかりませんね。」となるわけです。ところが九州王朝というものがこういうことで出てきて、こういう意味として考えないとおかしいのだというところを納得していただきますと、そういう王朝に舞があっても不思議ではないな、となるわけでございます。
 今日もこれと同じでして、突然法隆寺と九州王朝の関係を言います前に、九州王朝という存在それ自身、又九州年号の実在ということを改めて確認していただくと、おのずから答の出てくる性格のものでございます。しかし今日は古代史に関して興味が深い、御造詣も深いという方々にお集まりいただいておりますので、くだくだしくお話しする必要はないと思います。今までお読みいただいた『失われた九州王朝』等を思いだしていただく意味で、核心を手短かに話させていただいた上で肝心の法隆寺の問題に触れたいと思っております。
 九州王朝について私が最近書いた論文があります。「多元的古代の成立」(『史学雑誌』一九八一・七)です。三世紀から七世紀までの中国の文献を私の方法(邪馬一国を調べたのと同じ方法)で分析した場合、どうしても九州に倭国なるものが存在し、三世紀から七世紀まで中国との国交対象であり続けたと考えざるをえないということを論文の支柱にしております。それに対して中国と国交のあった倭の五王、日出づる処の天子は近畿天皇家であるという代表的論文を取りあげて一つ一つ批判していったのです。その中には東大の名誉教授の井上光貞さんの論文(お若い頃の代表的論文)がありまして、この論文の基本的な考え方は駄目なんだとのべているのです。もちろん名前も本も文章も書きましてね。又弟子にあたる佐伯有清さんの論文もハッキリ批判させていただいております。倭の五王の専門家とみられている坂元義種さんの論文で、倭の五王を近畿天皇家にするために出てくる矛盾点に対してこれを補強する論文がありますが、それもやはり駄目だと書いたのです。しかしこの論文を審査する人達は批判された人達の同僚かお弟子さんたちでしょうから、今度の掲載は駄目だろうと思っていたところ、意外にも「掲載します。」と言ってこられました。私は今回は、ことのほか嬉しく、感銘いたしました。
 この論文、もしこの、渾身の力を込めた論文がボツになりっぱなしになると、困るので学術書(単行本)として出版したいと思っていたところ、駿々堂(紀伊国屋のような大きな書店で最近美術書、学術書出版に力を入れている)から話があり、今年(一九八二年)の末か来年に『多元的古代の成立』の題名の本が出る予定です。結局『史学雑誌』の方にも、少しおくれてこちらの方にも出ることになったわけです。
 九州王朝論というものを文献の上から、特に中国の歴史書の分析から的確に論証したものでごぎいます。そこには書けなかったのですが、これに対して私にとって非常に重要だと思われる問題があります。九州年号の間題でございます。御承知のように『失われた九州王朝』で論じましたのですが、江戸時代には今日の邪馬台国論争のように、人気のあったのが、この年号論争だったのです。つまり天皇家の年号として我々が知っている年号以外に、いろんな年号が文書に散見して出てくるわけです。中でも一番大物というのですか、それが九州年号といわれるものであったわけです。鶴峯戊申が『襲国偽僣考』で九州年号というものがあると詳しく紹介しているわけでございます。鶴峯戊申は江戸時代後半の人ですから『九州年号』という写本を見て『襲国偽僣考』を書いたのですから、『九州年号』という題の写本が何処かにあるのではないでしょうか。鶴峯は大分の人ですし、九州年号というのですから、やはり九州にあるというのが一番可能性がありますね。だから九州の何処かに図書館か古書収蔵家の所にでも眠っているのではないでしょうか。鶴峯は「〜に有り」とか「自分が持っている。」とか書いてはいないのですから、誰かから借りて写した感じなのです。恐らく「〜所蔵」と書いていないのは、所蔵している人が名前を出されることをいろんな事情でいやがって、「本は見せるけれど私の所に有ると言わないで下さい。」とかの事情で「〜所蔵」と書いてないのだと思います。写本は一冊ではないと思います。再写本もあるでしょうしね。これを皆様方にお捜しいただければ、本当にありがたいと思うのです。
 この内容が何故本物かを申します。六世紀前半、継体天皇の途中から始まって、七世紀の終りまで、年号がビッシリと詰っている。グループで隙間なく詰っているということが一つ。もう一つは天皇家の連続年号(大宝元年)が始まる年(八世紀初め)の前年が、九州年号が終る年であるということです。九州年号は六世紀前半からズーと天皇家の年号が始まるまで続いている。ということは、天皇家より早く年号を連続して作っているということです。
 後の鎌倉や室町の段階で、関東の足利氏等が年号を作って使っていたのがあります。これは大事な事だと思います。関東一円でこれが現実に使われていたということです。これは年号なのです。これも調べてみると面白いと思いますよ。皆さんが年表を見られても、足利氏が作った年号で関東一円で使われた年号なんて出てこないでしょう。これはイデオロギーなんです。つまり天皇家が作った年号だけが本物であって、あとは誰が作っても贋物だ、年表に載せるような価値は無いという、こういう姿勢で年表が作られているのです。こんなのはひどいですよ。現にある権力者が年号を作って、自分の支配圏で使わせたのですから。文書に出てくるのですよ。壷に書いてあったり、石に刻んであったりするわけですよ。しかしそんなものは贋物だ、と年表には登場させていないのです。天皇家独尊のイデオロギーからは当然です。しかし歴史学は天皇家のイデオロギーに従う必要はないのです。天皇家を排斥するつもりは別にありません。天皇家の残した記録を我々が大事に扱うのは当然ですが、それ以外に年号を作った存在があれば、年表に載せてこういうのがある、と年表に載せないといけないと思います。私は歴史学の年表ならあるのが当り前だと思うのです。ところが皆さんの持っている年表のどれにだって無いでしょう。学校の教科書ももちろん無いですよ。ここのところなど、日本の歴史の教科書がかなり“歪んでいる”ところなんですよ。
 今までは室町とか鎌倉の話なのですが、九州号の場合は、天皇家より早いわけです。しかもビッシリと連続しているわけです。するとこれを全く無視するというのはおかしいわけです。事実江戸時代には古代史の学者であれば、年号問題は半分は楽しみ、半分は学問的関心でやっているんですよ。ところがこれが明治以後ピタッと後を絶ったわけです。学界からも教科書からも。論争が学問的に決着がついたからでは全くなくて、専らイデオロギーの問題からです。例えば水戸学は朱子学の影響をうけて日本的にウルトラ過激派の天皇家中心の歴史学というものをたてたのです。“天皇家以外に年号のあるべき道理なし。”(道理というのはイデオロギーでして、年号があってはけしからん、いかがわしいものか贋物にきまっているから、相手にする必要なし)という、学問的意見というより、一つの思想的攻撃運動が始まったのです。この水戸学の学者が東京帝国大学の国史学科の教授になるわけです。だから初期の東京帝国大学国史科は水戸学の学者などが始めているのです。彼等は年号なんかは東京帝国大学で扱うものではないとしたわけです。そのお弟子さんが各地で同じことをするわけです。本人が意識するかしないかにかかわらず、いわゆる水戸学の有り様が、日本の明治以後の学者の有り様なのです。こういう形になって学問の世界から九州年号などは追放されたのです。
 又文部省(当時は教部省)を、本居宣長の弟子、いわゆる没後の門人の平田篤胤の弟子たち(若い二十才代)がにぎるわけです。本居宣長は広い豊かな文献学者としての要素と、非常に狂信的ともいうべき愛国主義者の要素の両面がありまして、両方がミックスしているところが彼の面白味であったわけです。この狂信的なところを一番受け継いだのが平田篤胤でございます。その弟子が教部省をにぎつたのです。
 明治政府というのは簡単に言ってしまえばキューバのカストロ政府みたいなものです。要するに三十をちょっと超えたらボス、政府の首相クラス、大臣クラスは二十代後半前後です。伊藤博文が県知事になっにのは二十七才前後ですね。だからやることは思い切ってやるわけです。私はそのやった仕事は敬意に値する素晴らしい仕事だと思うのです。学校を作ったり鉄道・通信をひいたり等、今までの幕府の家老級ではそこまで一遍にやれなかったのを、果敢にやっているのです。反面若いから過激な、識見のないこともしているのです。例えば廃仏毀釈。この影響は大きいですよ。調べていくと、ゾッとするほど大きな影響です。それは仏教だけではございません。神道でも平田篤胤がえがいた神道に合わない神道は皆弾圧されているのです。それで大変多くの古い由緒のある神社・伝承が亡ぼされていったのです。この頃つくづく各地で感じます。同時に教部省(文部省)では狂信的な平田神道の教科書も作られるわけです。だから明治の教科書の何処を捜しましても、天皇家の年号以外の年号は出てこないのです。
 明治以後は、小学校で習った人も東京帝国大学で習った人も皆、天皇家の年号しか習っていないのです。「天皇家にあらずば、年号にあらず。」とこういう形でやられてきたわけです。大変な洗脳ですね。国家という装置が総がかりで百年近くかけた洗脳でございます。
 私が思いますに「明治以後、敗戦までは仕方がない」と、あるいは言えるかもしれない。しかし敗戦後何故その続きのままで来たのだろうと私は不思議なんです。もう水戸学の亜流である必要はないのです。ですから、新しい歴史学の立場でおおいに年号論争をすればいいのに、「邪馬台国」論争のようにすればいいのに、年号諭争はスッカリ忘れきられたままだったのです。
 私が鶴峯戊申『襲国偽僣考』等から年号問題を調べ始めますと、結論としてこれはどうも贋物ではない。本物だという結論に達せざるを得なかったわけです。
 『失われた九州王朝』に書いたのですが、要点を幾つか挙げます。
 第一点。もし後世(鎌倉か室町あたり)の坊さんが作ったのなら、つまり後世の偽作なら、何故神武天皇から作らないのか。私なら作りますよ。継体からなら一晩あれば作れますし、神武からだって三日もあれば十分作れます。それを継体の途中からというような中途半端な作り方は、私はおかしいと思います。おかしくないという説明があればして下さい。『失われた九州王朝』を出してから誰も反論してくれません。
 次の点。年号は天子や天皇が変れば変わるというのが通り相場です。もちろん天子や天皇が生きている途中でも変わります。ちょっといい事があった、ちょっと、悪い事があったといって昔は変わりました。明治以後は一代一元になり、変わらないことにしましたけれど、江戸末期より前は遠慮なく変わっています。
 ところが天皇が死ぬ、ということは一番悪いこと、一番不吉な例ですね。だから当然変わるわけです。先輩の中国の年号のどれを見たって、天子が死んで変わらない年号なんてないわけです。その時の状況で一年か半年遅れて改元されるケースもございますが、それはそれだけのことであって、原則として次の天子になれば、進った年号をたてるということです。ところがこの九州年号は継体以後、遠慮なく別の天皇にまたがっているわけです。偽作者が天皇の在位に全く無関心に作り続けたということになるわけです。こんな馬鹿な話はありえないと思うのです。『日本書紀』が信用できないというのは最近の話ですから、室町や鎌倉時代の人が『日本書紀』に出ている天皇の在位年と無関係に作るなんて、あるはずがないのです。
 第三点。大化改新というのがあります。六四五年の大化元年は「命長(めいちょう)六年」になっております。「大化」という年号を無視して別の年号を作っているわけです。
 先ほどの偽作者説は、大化改新を知らない人間が偽作をしたということになるわけです。年号を作ろうという人が大化改新を知らないなんて、私の常識ではとうてい理解できないのです。
第四点。「僧聴(五三六年)」という年号がございます。「僧聴」という年号は明らかに仏教に関係のある年号であります。恐らく“権力者が僧から仏法を聴く”、“僧侶を尊重する”ということを表現したように思われる年号でございます。これが仏教に関係があるということはどなたも否定されないと思います。
 ところがこれは『日本書紀』で有名な欽明天皇の時代、百済の聖明王の仏教伝来(五五二年)より早いわけでございます。戦前は五五二年で習いましたが、戦後は奈良の仏教寺院の金石文で、もう少し早い五三八年であるとほとんどの教科書に書いてあります。両方書いているのもありますが、五三八年が本当であると先生が教えているはずでございます。この五三八年より僧聴は二年早いわけです。
 年号に仏教の影響が現われるというのは、その年にすぐ年号にするというのはありえないわけです。当然仏教が入ってきてかなり普及をみて、それを権力者が、国家統治に仏教を役立てよう、という時になって初めて、僧聴という年号が登場すると考えるのが常識、たいへん自然な考え方だと思うのです。仏教が入ってきた途端に年号にするなどということは、まあありえないことです。すると五三六年より前(どのくらい前か分りませんが、かなり前)に仏教が入っていた。権力者のところにも浸透してきつつあり、ようやく年号にまで現われてきにと考えるのが自然です。欽明天皇が百済聖明王の時、仏教に接して「こんな珍しいものがあるのか」と言って、殿の中を走り回って、跳び回って喜んだと『書紀』に書いてあります。そういう記事を知らずに、百済聖明王の仏教渡来の記事を知らずに、いわゆる偽作者は年号作りに没頭していたということになる。しかも仏教関係の年号はかなり出てきます。偽作者は仏教の素養のある人でしょう、その人物が『書紀』の記事を知らず、うっかり作ってしまったなどという、こんな馬鹿げたことを私は想像できません。
 以上の観点から見ますと偽作ではありえない。やはり実在した年号である。 ーーこう私は結論せさるをえなかったのです。これは『失われた九州王朝』に書いたので、それは読んだことがあると思いながらお聞きいただいたと思いますが、これに対して今まで全く反論がございません。
 私の一人よがりかも知れませんが、恐らくいま申しました論点については、反諭しにくいのではないでしょうか。
 一人の権力者がある一定の文明圏を配下にもっていて、その権力者が年号を作って自分の勢力範囲の中で年号を使わせる。これが年号の定義といっていいと思います。とすれば九州年号が存在した(「九州年号」として伝えられています)ということは、九州に権力者が存在して、彼らは六世紀の初め頃から年号を作りだしたということがいえます。
 年号を作る、というのは大変なことで、年号を作るのは天子なんです。天子が年号を作るのです。だから年号を作り始めたというのは原則的に自らを天子もしくはそれに準ずる存在として自負しはじめた、ということと、ほぼイコール(全くイコールとは言えませんが)なのです。中国では年号を作るのは当然天子なのですから。こういう大変な問題を意味しているのです。
 七世紀前半に多利思北孤という男王が「日出づるところの天子」といい、自分を天子と称していた。その国には「阿蘇山あり、火起りて天に接す。」といい、阿蘇という文字を使った上、火山であることをはっきり描写しています。すなわち阿蘇山を中心領域にもった国が多利思北孤の国である。彼はみずから天子と称していた。のみならず九州というのは、中国の四書五経、後の漢書や史記に盛んにでてくる言葉でして(中国の天子が支配する直轄領域、中国本土直轄領域を九つに分けて統治した)“全天下”という意味で「九州」と名付けているわけでございます。政治的な術語でございます。古代術語でございます。九州の外が東夷・西戎・南蛮・北狄でございます。こういう仕組みになっているのです。
 この島に九州とつけたのは誰か。国が九つあるから九州とつけたというのは嘘です。それなら四国と同じように九国にすればいいのです。九州とは古代東アジアのインテリなら、知らぬ者とてない、政治上の有名な術語なのです。それをつけたというのは、この島を天下(天子の統治する世界)とみなしているわけです。近畿とか畿内とかいうのは、天皇の都の周辺の地という意味で、これも中国語の真似です。これと同じ様にこの島(九州)は日出づるところの天子の直轄領である。瀬戸内海からむこうは夷蛮の地になるわけです。というような仕組みの言葉なのです。
 我々の知っていることとあまりにもピックリあうのです。だから九州年号をめぐる議論を、どの学者にもして欲しいのです。古代史に関心があるという学者、研究者がありますなら、どの人にも九州年号についての意見を聞きたいわけです。九州年号が実在ということになりましたら、“日出づる処の天子”はどっちか、なんて決まりです。九州に決まりです。近畿の推古朝ではないわけです。聖徳太子などと関係はないわけです。倭の五王も決まりです。倭の五王だけ近畿の天皇家で、それからあと天子が九州に出てきたなんておかしいですからね。かねがね私が主張していますように、倭の五王も九州の王者である。それ以前の邪馬一国いわゆる「邪馬台国」も九州ですよ。九州の何処かまでは精密に言えませんが、九州の何処かだということは決まりです。
 問題が非常に整備されてくるのです、ゴチャゴチャやっていなくても。ということですから、私は九州年号という問題をぜひ古代史に関心のある方に議論していただきたい、と思うわけです。
 しかもこの年号は『襲国偽僣考』『如是院年代記』『麗気記私抄』、朝鮮側の正史にも準ずる、申叔舟が作った『海東諸国記』だけではなくて、日本側の文書の中にもしょっちゅう出てくるのです。熊本市に住んでおられる平野雅廣さん(非常に篤学の方)が、熊本県で江戸時代に学者が作ったものを集大成した『肥後国誌』の中に何回も何回も九州年号が出てくるのを見つけられたのです。例えば神社が何時から始まったとかいう、絶対年代を示したい時に、九州年号を使って示しているわけです。この御報告を聞いて、私も平野さんのお宅を訪れて、『肥後国誌』をお借りして帰り、必要な所を検討させていただきました。
 その後、最近ですが、今日も来ておられます高山利之さんから貴重な資料をお届けいただいたわけです。それは久留米藩で作った史料でございまして『久留米史料叢書第六集』です。久留米藩が江戸時代(寛文年間)に領内の各神社等に、それぞれの由緒を書き出すようにと通達を出し、各神社等が来歴を書いた手紙、公式文書を収録したものなのです。こういうのを日本列島の各藩がしてくれていたらありがたいのですが、なかなかそうもいかないようです。この中に九州年号が次々使われているのを高山さんが発見され、それをお知らせいただいたわけです。

(御井郡東鰺坂両村)若宮大菩薩、古来より当村之氏神と致崇敬候。開元建立欽明天王之御字、貴楽弐年立始申候承伝申候。
                   (本山民部)
 近畿天皇家でいえば欽明天皇の時に、我々が使っている年号でいえば貴楽弐年に建立されたと書かれているわけです。貴楽(九州年号)弐年は五五三年でございます。

筑後国山本郡蜷川村荒五郎大明神、・・・龍宮神知僧二年十一月廿三日此界上給候。
               (酒見次大夫、安重)

 知僧は写本により違いがございまして和僧(如是院年代記、麗気記私抄)とあるのもあります。知僧二年は五六六年でございます。『肥後国誌』とか『久留米史料』を読む人は、教科書やいろんな出版社の出している年表を横に置いて読んでも読めないのです。私の『失われた九州王朝』を持ってくれば読めるのです。九州年号の年表を置かないと意味が分らないわけです。『歴史年表』として出版しているのに、これだけでは役立たない年表を平気で出しているのです。読者もおとなしいせいか、何も言わないのです。恐らく洗脳の結果でしょうね。天皇家の年号以外は何かあやしげな、インチキなものだ。そんなインチキな年号で書いてある由緒書なんかあったら恥しいとかで引きさがるのでしょう。「こんな年表はおかしい。」と出版社に言ってお咎めを受ける時代ではないのですから、言って当り前だと思うのです。そういうことで、このように実用されている年号でございます。
 最近面白い情報を丸山晋司さん(大阪「古田武彦を囲む会」幹事)に教えていただきました。兵庫県神戸市(三木市との境)に丹生(たんじょう)山明要寺(みょうようじ)がございます。杜山悠さんという郷土史研究の方が『はりま風土記の旅』を書かれております。その中で明要寺は百済から来た人によって開かれたと、土地で言い伝えられているので百済の年号だろうと紹介されておられたのです。
 百済の年号は今のところほとんど残っていないのです。ところが隣の新羅は年号が六世紀の半ばくらいから始まって、七世紀半ばくらいまで続いているのです。『三国史記』という朝鮮半島側の『日本書紀』にあたる中に、新羅の年号が次々書いてございます。何故七世紀の半ばで年号が終ったか言いいますと、唐に叱られるのです。白村江前夜新羅は唐に接近しますね、その時恐らく年号を書いた国書かなにかを持って行ったのでしょう。「年号を作るのは天子だけだ。お前のところは私のところに臣従を誓ってきているのに、自分で年号を作るとはなんだ。」ときつく叱られて、以後年号を作らないことにした、と書かれているのです。
 『失われた九州王朝』で御紹介しましたので御存知の方もあると思いますが、十二世紀頃『三国史記』を作った学者が、著者としての意見をそこに書いているのです。「我々は中国の天子の恩恵のもとに国を維持しているのに、年号を作るというのは実にけしからんことであった。」という意見を加えているのです。後の高麗の学者が自分の昔の国新羅に対してまだ怒っているわけです。よく中国との関係が現われているわけです。
 これは『失われた九州王朝』では述べなかったけれど、九州年号問題に重要なサジェッションを与えているのです。七世紀前半、近畿では推古朝、新羅では自前の年号を使用している真最中なのです。ところがその真最中に多利思北孤は、「日出づる処の天子」と言ったわけです。“中国が天子なら私も天子だ。海東の菩薩天子だ。”と言っているわけです。
 多利思北孤はすぐお隣りの新羅王が年号を作っているのを知っているわけです。「王」でも年号を作っていることを知っている、それを天子と称している自分のところで年号を作らなければおかしいですよ。当然「日出づる処の天子」も年号を作っていたはずなのです。近畿の聖徳太子は大化よりズーと前、だから七世紀前半に近畿天皇家は年号を作っていないことが明らかです。この面からも推古天皇か聖徳太子が「日出づる処の天子」と言ったとするのはおかしいのです。ところが九州王朝だとすると、新羅より十四年前(九州年号は善化(記)元年が五二二、新羅年号は建元元年が五三六年。)に年号を作っているわけです。これから言っても、「日出づる処の天子」は九州王朝と考えなくては辻褄が合わないと思いました。
 元にかえりまして、丸山さんは百済の年号を調べてみても、「明要」はない。ところが九州年号にはちゃんとあるんです。明要(海東諸国記では「同要」)元年(五四一年)、これではないかと手紙でおっしゃってこられたのです。私もそうでしょう、とお答えし、現地に飛んで行ったのです。
 絵図がありまして、比叡山のように非常に栄えた山だったのですね。それを秀吉が三木城を取り囲んだ時に焼き払ってしまったのです。信長が比叡山を焼き払ったのはよく知られていますが、秀吉も同じことをしているのです。全山華やかに連なっていた寺院群を全部焼き払ってしまった。それ以後中心に当る本堂だけが再興されて、江戸末期まで続いていた。ところが例の明治維新で絶滅させられてしまったわけです。室町期(焼き払われる前)に座主にあたる人が、より大きくしたいと寄付(勧進)の許可を求める文書を書いているのです。この中に明要寺の来歴が書いてありまして「明要元年三月三日にこの寺が建てられた。」干支も「辛酉」と書いてありまして九州年号の明要と全く同じなんです。
 丸山さんは明要という名前だけを見て、「どっかにあった、あっ九州年号にあった。九州年号ではないか。」と、こう勘を働かされたのですが、その勘はズバリ当っていたわけです。
 「明要元年」というのは年号ですね。しかもその年号は千支によって九州年号の明要とピタリ当てはまりますから、間違いなく九州年号で播暦のお寺の記録が書かれている。この場合は寺の寺号に九州年号がなって、現在まで残っている。現在は廃墟の遺跡として残っていまして、何年か前に兵庫県知事が「丹生山明要寺跡」という大きな石碑を中心の所に建て、今それがあります。
 きらに滋賀県にも九州年号らしいのがございます。近江国大津(三重県境近く)に鬼室集斯(『日本書紀』に百済の滅亡以後、亡命してくる話がでてきます)の墓があるわけです。六角の石の塔です。これを私は見てまいりまして、この六面にいろいろ字が彫ってあるわけです。かなりうすれていますが、この中に鬼室集斯が死んだ年として、「朱鳥三年」と書かれています。もちろん「朱鳥」は『日本書紀』にもあるわけです。天武天皇が最後の年に朱鳥という年号を作った、と書いてありまして、その年の内に天武天皇は亡くなります。つまり「朱鳥」は一年、「朱鳥元年」(六八六)しかない、ということになっているわけです。
 場所が近江国だから、近畿天皇家の「朱鳥」だろう、というふうに考えやすいのですが、実は『日本書紀』には「朱鳥三年」はないのです。次の「持統元年」に移っていますから。
 ところが面白いことに“天武天皇の朱鳥”にダブッて、九州年号にも朱鳥がありまして六八六年から六九五年まで続いているわけです。こちらの朱鳥は十年まであるわけです。同時代に朱鳥があるので不思議なのです。私は『失われた九州王朝』でこれを論じまして、九州王朝側の資料を近畿天皇家がここに挿入したものであろうという考え方を示しました。
 同じく「白雉」も九州王朝側の年号記事を挿入させたものであろうと論じました。
 年号は“時のものきし”ですから、連続して作らないと意味がないのです。だから年号をチョロチョロと断続的に作るのはおかしいのです。この点からも連続して作られる大宝以前はあやしいと『失われた九州王朝』でいったのです。あやしいと言ったのは「白雉」と「朱鳥」の二つです。
 今日重大な問題を初めて申します。但し私の意見ではありません。十月三日に大阪の古田武彦を囲む会で講演会「法隆寺と九州王朝」が終ったあと、喫茶店で懇親会をしました。そこに丸山晋司さんも来られて、いろんな議論で沸いたのですが、その時「大化もおかしいんじゃないですか。」とおっしゃったのです。「えっ」「大化というのは九州年号にありますね。」そうなんです。九州年号に大化(如是院年代記、麗気記私抄)があるのです。「大化改新」が実際にあったとしたら、それより後の時代に出てくる同じ年号ということになるのです。近畿天皇家でつけたのを知らずに、同じ年号を九州王朝がつけたなんて、なんとなくしっくりしませんね。結局これは近畿天皇家側で大化元年とした、という『日本書紀』の記事自身が誤入(あるいは偽入 ーー以下同じ。)ではないかというのが、丸山晋司さんのアイデアなんです。恐いですよ、これは。「これは大変な問題です。後でよく考えてみます。丸山さんがお考えになったことですから後で調べて言いますよ。」と申したのです。どんな小さなことでもそうですが、初めて思いついた人のものを、自分の意見のように言うというのは「盗用」です。おっしゃっていただいた方の名前を出す。繰り返し出すことが必要であると思っているのです。
 考古学の出土物の場合も同じだと思います。最初に見つけたのが少年であろうと少女であろうと、発見者は発見者なのです。後で学者が見たら、この人が発見したものを教えてもらったと言うのが当り前です。改めて言うのが馬鹿々々しい程当り前のことです。しかし当り前に守られているかどうか知りません。
 『日本書紀』の大化の年号は誤入ではないかということです。事件そのものではありません。事件そのものも誤入だという話がでるかもしれませんが、今のところ年号が誤入ではないかということです。
 私も大化に気がついていたのですが、そこまで手をつけなかったのは、時間帯が違っていたからです。同じ時期に大化があるなら先ほどの朱鳥のようにおかしいです。しかし九州年号の方が前ならまだしも、後でしょう。だからこれも九州年号だと言う勇気がなかったんですよ。だから『失われた九州王朝』に書かなかったんですよ。
 そこに丸山さんは素人の純粋な目で見られて、問題提起をされたんです。重要な問題ですから、ここから考えてゆかなくてはなりません。これが結論で間違いありません、というものではありませんが、こういう重大な問題提起がされていますことを、博多の皆様に御紹介して考えてもらいたいと思います。ということで前半の話はこれで終りたいと思います。

 

中国側の「邪馬一国」論

 後半の話に入ります前に少し報告させていただきます。今年(一九八二年)十一月二十日、東京の太平洋学会で「中国の考古学界に答える ーー王仲殊・汪向栄説への再批判」という題で二時間の講演をさせていただくことになっています。
 壱岐一郎さんは以前から中国との応答が大事なことだと考えておられ、中国といろいろコンタクトをとっておられましたが、充分実現せずにきたわけです。ところが幸いなことに昨年北京の社会科学院の考古学研究所副所長の王仲殊さんが、三角縁神獣鏡に関する論文を『考古』(一九八一〜四)に発表されました。この問題について私も述べさせていただいたことがございます。
 又今年に入り汪向栄さんが『邪馬台国』(中国社会科学出版社刊)という単行本を三月に出されました。そして五月にこの本の内容の一番エキスのところを集約して論文にして、社会科学院で刊行している学術雑誌『中国社会科学』(一九八二ー三)に発表されたわけです。先の単行本の方の中で私のことが出てまいります。古田武彦説というの、二回にわたってかなりのページをさいて紹介し、批判をされているわけです。これ等も早くから壱岐さんからお知らせいただき、コピーもいただいていたのです。その後全体を手に入れましたので、それに対する再批判というものを講演の形でやらせていただくことになったわけです。そしてできれば中国に講演の内容を送りたいな、と思っているわけです。あるいは論文の形として『多元的古代の成立』(一九八三・三駿々堂刊)の「跋文にかえて」として「王仲殊・汪向栄説への再批判」を書かせてもらう予定ですので、それを送らせていただくつもりです。この問題は「邪馬台国研究会」の皆様にとって一番興味のおありのところだと思いますので、講演の後御質問がございましたら、お答えさせていただくことにいたしまして、まず御報告させていただきました。
 最近は学生も関心が深くて、立命館大学の学生が最近の邪馬一国論争についてというテーマと共に、最近の中国の王仲殊さん等に対する考えも聞きたいと言ってこられまして、十一月五日立命館存心館で午後一時から講演するのです。その時「題」はどうしましょうということになって「『最近の“邪馬台国”についての論争』でいいでしょう」と言ったら、「すみませんが邪馬台国ではなくて邪馬一国を使ってもいいでしょうか。」と言われまして、「ああそれは大変結構です。」とお答えしたんです。学生諸君も活発な反応を示してくださってありがたいと思っています。

 

法隆寺釈迦三尊像光背銘文の史料批判

 いよいよ本日の主題に入ってまいります。法隆寺につきましては明治以後だけをとりましても、たいへん多くの論文が出ております。なかんずく、法隆寺に存在する金石文等については『日本書紀』以上の第一史料として、敗戦後の史学では特に基礎的なものにされております。だから古代史学、美術史学その他に基本的なものとなっております。ある意味では津田左右吉の批判以来『日本書紀』は信用できないというのが、戦後定着しておりますので、金石文こそ信頼できるとして法隆寺その他の金石文は日本古代史の一等史料の位置を占めていると言って過言ではないと思います。
 法隆寺につきまして梅原猛さんの『隠された十字架法隆寺論』がございます。興味深い本でございますが、私の立場から遠慮なく言わせてもらえば、論の基本的骨組みは従来説通り、とみているわけでございます。なぜそうみえるかは、これから一時間程お聞きいただけたら分ると思います。定説と全く同じ骨組に立ったうえで、俗っぽい言い方ですが解釈といいますか、味付けを梅原さん独特の形でされた、というのが私の読後印象でした。
 私は法隆寺に対して、今までの定説とは全く違った疑問をもっていたのでございます。しかし事があまりに大きすぎて恐くて、今まで公にせずにきたのです。しかし私の頭がおかしくなっているのでなければ、こう考えざるをえないのではないかと思うので、今日皆様に報告させていただくわけでございます。
 法隆寺には本尊がございます。釈迦三尊といわれるものが法隆寺の主をなす本尊であるというのは皆様御承知の通りでございます。この釈迦三尊の光背に銘が書かれてございます。かなりの長文でございます。要点をまとめますとこの文には三人の人物が出てきている。鬼前太后が法興元三十一年に死んだ。翌年法興元三十二年正月二十二日、上宮法皇が病気になった。王后と王子や諸臣等が心配して、上宮法皇と同じ背丈の釈迦像を作るのを思いたった。ところが思いたった本人といっていい王后が、心配と看病づかれからか、病気になって、旦那さんにあたる上宮法皇より前に二月二十一日になくなった。その翌日、后に亡くなられてガックリきたのか上宮法皇が死んだ。三人がつぎつぎと死んだ。後に残ったのは王子や諸臣でしょうね。そこで王后が生きている時願っていた釈迦像を中心とする両側の侠侍(わきじ)、つまり釈迦三尊像を造ろうということになって、翌年(法興とは書いてないので、法興ではなくなったんでしょう)癸未年三月にこの三尊像を造った。造ったのは司馬鞍首止利仏師であると書いてある。
 私以外の人すべて(すべてでない例があればぜひ教えて欲しいのです)が、これは聖徳太子が亡くなった時のことであると考えられ、教科書などにも書かれているわけです。この上宮法皇が聖徳太子であるというわけです。鬼前太后が間人皇后(はしひとのおおきさき)である。間人皇后には残念ながら鬼前太后なんて名前が無いのです。『日本書紀』その他を見ましても全く無いのです。絶無なのだが、ともあれ間人皇后ということです。
 王后の名前は干食王后とありますが、聖徳太子の后にはこの名前の人はいないのです。しかし何人かいる后の一人である膳夫人(かしわでのきさき)のことであろう。干食を「かしはで」とは読みにくいけれど、そう読んだのだろう、というふうに従来考えられてきたわけです。
 多くの学者が色々苦心してなんとかつじつまを合わせようとしたのですが、うまく合わないので別案がでました。十二月で切らないで「・・・十二月鬼前。」で切るのです。文章としておかしいけれど、「太后」が死んだことにする。これなら誰でもいいわけですから。同様に干食王后も「・・・干食。」で切る。「弗[余/心]干食」として、食べ物も上手く食べられなかったことにする。王后だけなら誰でもいいわけですから。というふうにした人があるのです。

[余/心]は、余の下に心です。

 これは、理論的には一応成り立ち得るのです。武寧王の墓誌には、武寧王は『日本書紀』の中の『百済新撰』の「斯麻」と同じ字で書かれていたのです。しかし后は名前が無いのです。書いてあるとたすかるのですがね。「百済国王大(太か)妃」とあるだけなのです。考えてみると武寧王のことははっきりと書いてあるのですから、「寧東大将軍百済斯麻王」と特定された人の后ですから一人に決まっている。だから「大(太)妃」でいいわけです。
 現在も手紙等で旦那様の名前を書いて、あと「奥様」としますね。奥さんの名前を知らない、というのはよくありますね。しかし旦那さんの名前をはっきり書いているのだから、奥様と書けばそれだけで分りますね。なにか男性優位みたいな変な習慣ですね。その良し悪しは別として、ともかく上宮法皇がはっきりしていれば、「太后」「王后」でいいわけです。しかし聖徳太子みたいにたくさん后がいたりすると困るのですがね。后が一人にはっきり決まっていないと、このやり方はあまり上手く適用できないのですが、ともあれ、その手もある、ということですね。
 しかし文章としては成立しないですよ。文章として成立しなくってよろしいというなら、いける、ということです。しかし「上宮法皇」があるから聖徳太子としていいだろうというのが、皆のよりどころなんです。ここで注意いただきたいのは「上宮」は普通名詞であるということです。宮殿が二つありましたら上宮、下宮になるわけです。三っありましたら上宮、中宮、下宮になるわけです。当り前のことですね。だから昔から上宮に住んだ人はたくさんいるわけです。しかし上宮太子というのは聖徳太子だというのが有名ですから、そんな風に思うだけのことです。例えば関白です。関白になった人は大勢いますね。しかしただ関白とだけ言えば秀吉だろう。特に大阪の人などは絶対にそうですね。これは慣例の問題でして、文書を読む時出てくる関白を全部秀吉として読んでいると、えらいことになります。当然のことです。上宮の場合も同じ性格のものだと思います。客観的な話としてとらえていただきたいと思います。だから上宮自身には特定力はないということです。可能性はあっても特定力はないということです。
 問題は法皇なのです。法皇の法はおそらく仏法の法ですね。皇は天皇の皇、皇帝の皇ですね。はっきりいいますと天子を指すものなのです。つまり王子には「〜皇」とはつかわないのです。王子というのを皇子と書いたのがありますね。あれは「皇の子」なんです。「皇」は天皇であって、本人が「皇」ではないのです。これも考えてみれば当り前のことです。天皇の位に就いてない、最高権力に就いてない人間を皇と呼ばないのがルールです。『日本書紀』でも聖徳太子を「皇」と呼んだ例は一例もございません。『日本書紀』だけの特色ではなくて、中国の歴史書のすべてがそうなのです。
 そうしますとこの「法皇」は本当に聖徳太子なのかという疑間が浮かんでくるわけでございます。そのうえにこの上宮法皇の死んだ年月日、法興三十二年二月二十二日、千支でいいますと歳次辛巳の翌年です。推古三十年になるわけでございます。だからこの上宮法皇は推古朝にあてはめると推古三十年の二月二十二日死んだと書かれているわけです。
 聖徳太子は『日本書紀』では何時死んだと書かれているか。「推古二十九年春二月己丑朔癸巳」つまり推古二十九年二月五日に死んだと書かれているのです。
 つまり釈迦三尊の上宮法皇と聖徳太子は死んだ年と日が違うわけです。月だけが同じ二月なのです。皆さんどうでしょう。二つの記事がありまして、死んだ年が違う、死んだ日が違う、死んだ月だけが一緒である。だから同一人物の記事だと言えますかね。そんなことをしたら、大抵の人が同じになって同一人物がふえて困ってしまいますよ。月が同じだけで同一人物だとする道理は私にはまず考えられないわけでございます。月だけ同じで、年日が違う人物があれば両者は別人とするしか、私のように単純な頭の持主には他に考えようがない話です。
 では従来はどう考えてきたかを申します。従来といいましても戦前は『日本書紀』が正しいと教科書等にはあったと思いますね。学者の世界は別ですがね。戦後は津田史学の洗礼を受けましたので、釈迦三尊の方が本当である。つまり聖徳太子の死んだ正しい年月日は推古三十年二月二十二日であると戦後史学の教科書ではなっているはずでございます。『日本書紀』は嘘をついたか、知らないで出鱈目を書いた、あるいはおだやかにいえば「異伝」である、という処置になるわけです。
 しかし私は『日本書紀』が信用できないといいましても事によりけりだと思われるのです。神武のところや、仁徳の説話がおかしいと言うなら、耳を傾ける値打ちは当然あるわけでございましょう。しかし聖徳太子といえば『日本書紀』が成立したときからさかのぼって、百年経つか、経たないかの時の人ですよ。聖徳太子は七世紀前半の人、『日本書紀』の成立は八世紀の初めでございます。百年たっていないのです。しかも聖徳太子は『日本書紀』の中で、天皇を除けばナンバー1の人気者といいますか、筆をついやして特筆大書していることは、『日本書紀』をお読みになった皆様はお分りだと思います。端々の少しだけ書かれている人が間違われているのなら、まだ話は分りますが、これだけの重要人物、天皇を除けば他に例をみない重要人物、しかも最近の重要人物、その死んだ年月日を間進うなんてことがあるでしょうか。『日本書紀』がうっかりした慌て者の歴史家が、チョコチョコと書いた覚え書であれば、死んだ年月日を間違うことはありうると思います。しかし、『日本書紀』は舎人親王を中心としました当時の学者、貴族のフルメンバーで編纂した正史でございます。そのフルメンバー全員がついこの間の聖徳太子の死んだ年月日を忘れて、“大嘘”を書いてしまったという想定は私のような単純な人間には納得できないのです。そんなことがあろうとは思えないのです。
 今から明治の初めよりもっと近い話なのです。明治から百年経ちましたよ。それよりもっと近い時代の事で、普通の皇太子よりズーと重要な、皆に注目され、あがめられている人物の死亡年月日を間違って書く、そういう想定をするなんて、言葉は悪いですが“正気の沙汰”とは思えないのです。
 そうしますと『日本書紀』の史料は間違っているものとはみえない。死亡年月日を変えにから、聖徳太子に有利になる、天皇家が得をするということが全くないのです。私は“利害のフィルター”によって『日本書紀』は書かれた。天皇家内郎の史官によって、天皇家の為に、天皇家の支配下のインテリ、民衆に見せる為に書かれた本であるというのが『日本書紀』を考える上で基本的な問題だと思っています。だからそういうフィルターがかかっていると考えて読まなくてはいけない。客観的な史学の上に立とうとするならば、天皇家に有利に書いてある場合、有利な形に書いた可能性を考慮しなければいけないという、問題が出てくるのは碓かだと思うのです。
 しかし有利であろうが不利であろうが、なんせ出鱗目を書いたりするのですというのは、ちょっとひどすぎるのではないでしょうか。
 次に、私はこれは!と気がついた問題があるのです。もしこの上宮法皇が聖徳太子だとすると大変重要な人物が書かれていないわけです。お分りですか、一番重要な人物、推古天皇の影も形もここに現われていない。こんなことってあるでしょうかね。天皇家の中で造っているのですよ。聖徳太子が生きていても推古天皇はナンバー1ですよ。聖徳太子が亡くなったら、推古天皇の双肩にかかるものは一段と増しているわけです。この推古天皇のことを、「まあいいじゃありませんか。カットしましょう。」と言える人がいるでしょうか。言って通るでしょうか。言う必要が誰にどうしてあるんでしょうか。私にはこんなことは全く想像できない。この一点を考えてみるだけでも、今までの人が聖徳太子と疑わずにきたのが分りませんね。狐につままれたような気になったのですが、私の言うとはオーバーでしょうか。推古天皇なき推古朝のど真中でこういうものを造ったとは、とうてい信じられないという、結論に迷わざるをえなかったのです。
 その他、やればやるだけ幾つも問題が出てきました。
 例えば「王后」です。これは当然ながら中国語です。辞書をおひきになると「王后」の意味がでてまいりますが、“天子の妻”でございます。周王朝におきましては、天子のことを「皇」とか「帝」とかを使いませんで、専ら「○○王」と呼んだわけです。前代の殷は「帝」を使っていたのですが周は一新しまして「王」を使ったわけです。だから周代にできた単語は、天子のことを「王」と呼ぶ単語になっているわけです。
 例をあげましょう。「王道」です。後世の話ですが天子の配下に「○○王」「○○王」という諸侯があるとします。それでも諸侯のそれぞれのやり方を皆「王道」なんて言いはしないのです。「王道」というのは“天子の道”なんです。覇道に対して天子のとる道が「王道」なのだというところからできた熟語でございます。要するに周代に成立した熟語は天子を「王」としているということです。周代にできた熟語は多いです。論語も周代にできています。「王后」も周代にできた言葉ですから“天子の后”をさします。後世の「王」が沢山できた時代でも、“王の奥さん”なら皆「王后」と呼べるものではないのです。唯一人なのです。
 すると「法皇」は最大の権力者だから一人、天子の后(名前は「干食王后」だか、ただの「王后」だか分りませんが)も一人。こういう仕組みになっています。この光背銘は漢文です。和風漢文ではなく見事な漢文で書かれています。
 これを先入観なく見つめてみますと、この中の中心人物は明らかに「上宮法皇」一人です。中心人物のお母さんが「鬼前太后」、奥さんが「干食王后」だか、ただの「王后」なんです。こういう配置になるのです。その他に次の世代の王子や家来がいるだけです。こういう見取図になっている。そして先頭に年号がある。ということはこの年号は上宮法皇という最高権力者が作った年号であるという仕組みの文章なのです。先入観や、あれこれにくっつけようと思わず、文章そのものを読めば、そうなっているのです。
 ところで前半の問題と関連してまいりますが、天皇家には「法興」という年号はございません。
 年号についてよく“私年号”ということが言われます。『失われた九州王朝』で述べたので、御存知と思いますが、“私年号”は奇妙な言葉でございます。つまり実際に作られ、使われた年号であっても、天皇家が作って『日本書紀』等に載せている年号だけが“公年号”本物の年号である、それ以外は“私年号”である。だから後世の“偽物”とは言わないのです。“偽物”と言うど光背銘全部が偽物になり困りますから、鎌倉時代の偽物等とは言わないわけですよ。年号は先程も言いましたように、一人の人が勝手に作って、日記か何かに使っていたのが流布するなどという道理はございません、そんなものではございません。しかもこれは天皇家のお膝元でしょう。聖徳太子はナンバー2、ウルトラナンバー2です。その人が亡くなった直後に作った、そこで作られたものに使っている年号を“私年号”なんて言っては何のことかわからないですね。
 つまり“私年号”の論理性というのは『失われた九州王朝』で述べましたように、天皇家の年号だけが公的年号で、他の権力中心で作られた年号が実在しても“私年号”だということです。本人がひそかに使っていただけのもので本物ではない、遠慮せよという意味の言葉が“私年号”なのです。
 この場合その“私年号”が天皇家の真ただ中、一番中心部で使われているのですから、それを“私年号”といったのでは、言葉だけ当てておけばいい、実体までは聞かないでくれと、辛辣かもしれませんが私にはそう思われるのです。
 それから一つ解決しておかなくてはならない問題があります。それは「法興元」の「元」です。私はこれは何だろうかなと思っていましたが、解決がつきました。中国の年号は漢代に始まるのですけれど、始元とか中元とか後元とか「元」がついているのです。二字の形になっています。それをつけて年表にしてあります。中国の年号表にもつけて書いてあります。しかし実際は、あれは年号ではございませんで“元”は元号の“元”で、元号ですよというサイン、シンボルなのです。だから「後元〜年」とあれば、「後〜年」というのが本来なのです。「後〜年」だけでは、皆に馴染みがない、知らないので、元号ですよという意味で「後元〜年」と書いたものです。最初の頃は「〜元」というのが、やたらに並んでおります。この「元」なのです。
 法興は元号ですよ、という意味の法興元三十一年。これでこの問題は解決がついたと考えました。
 法興が天皇家内部で、私年号かなんだか知らないが使われたとしますと、もう一つおかしいことがあります。
 法興三十一年の干支が書いてあります。法興元年が計算できるわけです。計算しますと崇峻の四年になるわけです。とすると崇峻天皇の時に、法興元年が作られたということになるわけです。そしてその翌年十一月に崇峻天皇が亡くなります。しかし法興は変わらず延々と使い続けられて三十一年になった。こういうことになるわけです。
 年号をつけるということは、中国の真似をして作っているのに決まっているでしょう。“年号というものは、「天子が死んだら改めるものだ」なんて、そこまでは知りませんでした。ただ年号を作ればいい、と思っていました。”などというのは、ちょっとありうる話ではないと思うのです。
 しかも崇峻天皇はただの死に方ではないですね。馬子に殺されたんですね。日本の天皇の歴史の中では極めて稀な例の一つでございます。殺された、葬りさられた天皇なんです。不吉なことといったら、これだけ不吉なことはないわけです。これをそんな不吉なことは関係ございませんといって使い続けるなんていうことがあるでしょうか。私には考えられないのです。このことからも法興という年号は、天皇家の中で作られ使われた年号とは、とうてい思えないと私は考えるわけでございます。
 さてそれなら法興という年号は何処にあるのかという前に、確認しておきたいのは、この釈迦三尊という仏像は、法興という年号が使われていた文明圏の中心(上宮法皇の王朝)で造られた、という答が今までの検証から出てくるわけです。
 じゃあ法興という年号が使われていた所は実際にあるのかと聞きますと、あるわけでございます。『襲国偽僣考』に出てまいります。
 初め私は感違いをしておりまして、「喜楽 ー 端正 ー 始尖 ー 始大 ー 法興」が、「従貴」(海東諸国記)のあとに続くと思っていました。すると釈迦三尊と年代が合わないわけです。
 その後フッと気がつきました。初めから八つ日に「兄弟」という年号があります。海東諸国記も如是院年代も麓気記私抄も襲国偽僣考も皆「兄弟」でございます。これは兄弟が同じく権力者であって、互に手を取り合って仲良く統治しているのを記念した年号、としかちょっと思えない。他にうまい解釈がみつからない。一番自然な解釈がそういう解釈でしょうね。
 この兄弟の後、年号が二つに分れて、二系列並列して年号が使われ、先程の「従貴」あたりまでに至った。こう理解しますと非常によく分ります。この場合年号の数が同一である必要はないわけです。片方の年号は何かめでたい事で止めた等があったからといって、もう片方が同じように止める必要はないですから。又「兄弟」の後すぐ二つに別れたのか、しばらくして分れたのか、それは分らないのですから、とに角「兄弟元年」以後二つに分れ、「従貴」くらいまで二系列並列して続いていた。その後は又一系列に戻ったという形で理解するのが一番自然であるということに気がついたわけでございます。

イ妥*(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO。

 それでは兄弟が相伴って、権力を分与しながら共同統治しているというようなことが何処かにあるだろうか、といいますと『隋書イ妥たい国伝』の「日出づる処の天子」の記事でございます。西暦六〇〇年、多利思北孤が隋の文帝(煬帝の前代)に使いを送った。その使いの言うのには“我国では天を兄とし、日を弟としている。”そして兄の方が多利思北孤なんです。“天がまだ明けない時には多利思北孤が統治(か宗教的儀式かしれません)をやる。日出るとこれを停め、わたしの弟に委ねる”こういうふうに支配をしていますと多利思北孤の使いが言った。すると文帝が「此れ大いに義理なし(それは道理に合わない)是において訓(おし)へて之を改めしむ(それはやめろ。)」と言った。やめろと言われて「はいやめます。」と言ったかどうかは書いていない。隋書はただ「改めしむ」つまり指導した、と断定して書いているだけです。ということはこの多利思北孤の国は「兄弟統治」という、非常に特異な政治形態をとっていたという証言が、ほとんど同時代(七世紀前半)の史書に記されているわけでございます。
 この所は従来の学者にとって、難問だったのです。推古朝の推古天皇は女ですから、「兄弟」になりようがないのです。聖徳太子に弟がいて、弟と一結に政治を行った、なんて話は聞きませんしね。どうにも説明がつきかねて、要するに分らないとにげていたのです。
 ところが先程から論じてきましたように九州年号が実在としますと、まさにドンピシャリ「兄弟統治」なのですね。「日出づる処の天子」に多利思北孤、やはり聖徳太子ではなくて九州王朝の王なのです。
 しかも多利思北孤が中国からの使者斐世清に会う時、「結跏趺坐」しているのです。仏像で有名な「結跏趺坐」です。男は「結跏趺坐」、女は「半跏扶坐」。「結跏趺坐」だから男ですよ。推古天皇なら「半跏扶坐」です。これを岩波文庫は「あぐら」とかなをふっているのですよ。私はだから初め“だらしない野蛮人”と思って読んでいた記憶がございます。これは仏法の正式な坐り方、つまり修業の形式であるわけです。「あぐら」なんて、とんでもないことです。これによってみても、多利思北孤が“仏法を厚く奉ずる天子”をもって自認していたことが分ります。また多利思北孤の使者が隋に行って煬帝に言っている言葉があります。「我聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと、(私が聞くところによると、あなたは海の西にあたる菩薩天子であるそうだ。重ねてあなたは仏法を輿していると私は聞いた。)」多利思北孤は「日出づる処の天子」と言って、煬帝を「日没する処の天子」と言っているのです。相手を「海西の菩薩天子」と言っているというのは、自分の方は「海東の菩薩天子」である、という自負が前提になっているわけです。恐らく実際に使者は「海東の菩薩天子」という形で言っているかも知れませんね。もちろん言おうと言うまいと、話の文脈はそうです。
 自分は「海東の菩薩天子」である。「結跏趺坐。」しかも「天子」を称している。
 「重興仏法。」この「重」を辞書で調べてみますと、中国語では“二回目に深い”“二回目に濃い”というときは「重」を使うのです。ということは第一回に仏法を興した者がいるわけです。誰か、自分なのです。「私は海東の菩薩天子として、海東において仏法を興した。聞くところによると、あなたも、私に相次いで仏法を重ねて興している、と聞く。」大変な意気込みというか自信ですね。
 ところがこの「仏法を興す」を熟語にしてみるとどうなりますか。「法興」なんです。仏法を興した権力者が作った年号だから「法興」です。「私は仏法を興した。」
 ところが「あなたも仏法を興した。これはいいじゃないか。感心だ。」と言っているわけです。するといよいよもって多利思北孤が九州年号で「法興」を使っていた。弟の方が「従貴」もしくは「告貴」の年号を使っていた、ということになってきます。
 しかも恐いような一致があります。この銘文では「法興三十二年」まで書いてあります。次の年は三十三年とはぶいてなくていきなり「癸未年」となっています、ということは「法興」は止(や)まったということなのです。「法興三十二年」にあたるところで弟の方の年号が変っているわけです。それまでの「倭京」が「仁王」にかわっています。この「仁王元年、癸未」があの「釈迦三尊像」が作られた年です。兄さん(多利思北孤)といっても、ウルトラワンマンみたいな感じの人物が死んだ翌年に、弟の方の年号も変った。不吉な事があったので改元。これはピシャリと合います。そしてこれ以後「兄弟年号」は出てこないわけです。
 年号を二つ作るというのは、ウルトラワンマンの(あるいは先代からの)かなり変ったアイデアだったわけで、中国側におかしいと言われているが、彼は聞こうとしなかった。それが死んだ。中国に言われなくても、内部でも二重年号なんておかしいので、彼の死以後は無くなった。ということで上宮法皇が死んで「釈迦三尊像」ができたという年と、年号が変った、兄弟年号が無くなった、という年とピシャッと合っているわけです。
 以上のようなことでこの「釈迦三尊像」はどうも九州王朝の中で作られた、それは意外にも「日出づる処の天子」といったあの多利思北孤のことである可能性が大へん強い。もう一度申しますと、多利思北孤は自分で「天子」といっている。「菩薩天子」「結跏趺坐」「仏教天子」です。
 ぞれなら「法興」はドンピシャリの表現なのです。私は恐いような結論、しかしあくまでも論理的に導かれてここに至ったわけです。言いたい事は多くありますが、ここでいったん話を終りまして次の問題にいきます。

 

法隆寺再建論争と釈迦三尊像の来歴

 これから話す問題が、私が最初にぶつかった間題です。法隆寺に関しまして、有名な法隆寺再建論争と申すものがあることは、皆様御承知のとおりでございます。戦前に喜田貞吉氏が再建説をとなえました。『日本書紀』の持統紀に「夜半に火が出て法隆寺が焼けた。一屋余すなし。」こういう文章がでてまいります。“だから現在の法隆寺は焼けた後に建てられた”これだけのことなのです。熾烈な論争があったのですが、ポイントはこれです。反対者は建築家、美術史家等多数でありまして、非再建であるという最大の論拠は、現物の法隆寺を調べてみると飛鳥様式である。天平や奈良様式ではない。これが第一の理由です。
 もう一つ、屈強の根強い証拠と考えられましたのは、現在の法隆寺を測ってみると高麗尺で割りきれる。もし天平や奈良以後の再建であるならば、当然唐尺によっていなければならない。今の法隆寺は唐尺で測ると余りが出て割りきれない。高麗尺でできているということは、飛鳥時代にできていなければ話が合わない。物差しの問題だから、法隆寺を主観的に見てどうこうという話ではない。従って説得力があったわけです。
 ところが敗戦直前から直後にかけて、石田茂作さんを団長に発掘が行われ、現在の法隆寺の下から、前の法隆寺(若草伽藍)が出てきたのです。だから現在は学問的に再建説が正しいとなっているわけです。
 最近法隆寺に行きましたら、解説員の方がいまして、外国人や修学旅行の人が来ていましたけれど、非再建説で「今から一三七五年前に建てられたものです。」と言っていました。まだここには再建説は採用されていない、と思いました。まあこれは観光的な問題、いわばお寺の政策的なことでありまして、学問上は再建説に確定しているわけです。
 しかし私は本当は、この再建説はまだ終結をみていないと思っているわけでございます。真の終結はまだであると思うわけです。『日本書紀』のあの文章を、私以外のほとんどの人は次のように解釈していると思うのです。“法隆寺は焼けた。「一屋余すなし」だ。ただし本尊は無事。”と解釈するのです。どの学者も、論文では何処にもそうは書いていないのですよ。しかし私以外の人はそう解釈している、としか、わたしにはみえない。この釈迦三尊が聖徳太子のことを言っていて、太子の死んだ翌年に造られて、それを飛鳥時代から本尊としている、と解釈しているとしかみえないのです。誰もそう言わないだけで、建物は焼けたが本尊は無事だ、そう解釈しているのです。
 尤も再建後に持ってこられたと言う人もあります。上原和さんが『斑鳩の白い道のうえに ーー聖徳太子論』から持ってこられたんだろうと、特別に論証はないのですが、書いておられます。“焼けたので再建の時に橘寺から持ってきたのだろう、最初からの本尊ではない。”と言っておられるものと解釈したのです。私はこれは“焼けたあと、来た”という点では正しいと思います。
 私の国語のセンス、日本語の感覚では、法隆寺が焼けて、馬小屋が一つ残った、ゴミ箱が一つ残ったという時、「一屋余すなし、但し馬屋は無事。」なんて、正史には書きません。正史なんですから書く方がおかしいですよ。しかし話が本尊となれば、違うと思うのです。本尊は寺の生命だと私は思うのです。誰でも皆そう思いますよ。本尊以外は皆“付属品”です。いかに立派な三重塔、五重塔であっても金堂に講堂やたとえ国宝級の宝物がぎっしり詰っていても、あくまで付属品、あくまでプラスαです。何の付属品か?本尊の付属品です。こう答えても誰も反対できないと思います。間違いとは言えないと思います。
 としますと、私の日本語の感覚からしますと、もし本尊が無事なら、「一屋余すなし。幸いなるかな、木尊は無事。」そう書くのが、普通の日本語だと思うのです。本尊が無事なのに、そんなこと問題ではない。「一屋余すなし」だけでいいなんて文章は私には書けません。喜田貞吉があの文草を読んで、焼けたと書いてあるから、焼けたんだ、と言うのが、いわば論拠の総てだったのです。そしてそれが正しかったのです。他の人は『日本書紀』が書きもらしたとか、その記事はあてにならないとか言っていたのですが、それは間違いだった。
 後日談ですが、飛烏様式、高麗尺はどうなったかと言いますと、若草伽藍の発掘後すぐ、再建するとき元(もと)の様式、高麗尺で作ったのだと、話が決まってしまったのです。岡目八目の私から見ればそんな可能性くらい、初めから考えていいのに、と思うのです。私の理解は喜田貞吉の立場と同じく、あの文章は「本尊を初め、一屋余すなし」という文章にしかみえない。本尊は焼けたわけです。だから本尊は後から持ってこられたものではないか、そういう疑問が私に生じたわけです。その疑問を出発点とした研究をすすめてゆく中で、先にのべた、釈迦三尊像は「法興」という作号を使った文明囲の中枢で造られたもの、という結論になってきたのです。この点になると上原和さんのでは駄目なんです。橘寺では「法興」の出てくるいわれはないのです。聖徳太子とする点では今までと同一なのです。
 これに関連して私は非常に興味深い体験をしたことがございます。
 京都の妙心寺の鐘(観世音寺の鐘と並んで日本最古の鐘として教科書にも載っている)を、『ここに古代王朝ありき』で扱いました。この鐘は銘文がありまして、造った場所が書いてあります。「糟屋評」で造ったと書かれてあります。糟屋というのは皆様御承知の博多の東隣りでございます。日本最古の鐘が博多の東隣りと、南隣りといいますか観世音寺で造られて、あるいは使われているわけでございます。
 最古の鐘だけを造って、野原に置いといたということではなくて、当然“寺があるから鐘を造った。”と想像するのは、「必然の想像」だと思うのです。とすると、最古の鐘だけあって最古の寺だけあって、最古の本尊が無い、そんな寺を作った、というのはおかしいですよ。当然本尊はあったでしょう。ということは最古の本尊をもつ最古の寺が、博多近辺に存在した、ということを意味しているのです。そして従来の欽明天皇の仏教伝来、或いはそれよりやや早いとは称しながらも、いつも近畿中心に考えてきた仏教史というものは、根本的におかしいのではないかという間題提起が出てきたわけです。
 つまり九州王朝で近畿天皇家より早く、仏教が公伝していて当然だということになるわけです。公伝は欽明天皇の時だが、私伝はもっと早いのだと、学者や教科書は使うのです。これも考えてみればおかしいのですよ。やはり天皇家だけが「公」であって、他はどのような権力者であれ、何であれ皆「私」である。これは江戸時代の水戸学です。天皇家のみが「公」である、という大義名分論を根本として水戸学はできているわけです。
 だから“私伝”“公伝”の評価はきておくとしても、何処に伝わってきたのかが問題なのです。九州の方が近畿より中国、朝鮮半島に近いのです。すると仏教が近畿に入るより前に、九州に入るのは当り前のことなのです。飛び越して近畿に入ったら、おかしいのです。まして九州王朝が存在すれば、そこに入って当然なのです。
 以上のことを『ここに古代王朝ありき』で述べたわけですが、この時うっかりとした一文を書いたわけです。京都の妙心寺の鐘には糟屋評で造られたと書かれている。この鐘は糟屋から天皇家に献上され、その天皇家から何時代かに妙心寺へと奉納されたのだろうと、書いたのです。何故そう思ったかと言いますと、“磐井の反乱”(私は最近「継体の反乱」と書いています)以来、糟屋は天皇家の直轄領(もしくは収納権利地)になっていた。これは事実です。この糟屋で造られた鐘だから、当然天皇家に献上され、天皇家と妙心寺は関係があるから、奉納されたと想像で類推したのです。それを(つけ足しながら)書いてしまったのです。
 書いた後、気になりまして、妙心寺の鐘をもう一度くわしく見ようと、紹介状を持って行ったのです。長老の方とお会いしますと、長老の方が私の名刺を見て「あんた古田か。わしも古田だ。お前さん何処の古田だ。わしは岐阜の古田だ、今『古田家物語』を書いたところだ。」とえらく調子がよい。それから国宝の鐘を拝見したのです。帰りに庫裏(くり)ですか塔頭(たっちゅう)ですかに寄りまして、聞きたいことを聞いたわけです。
「あの鐘は何時天皇家から奉納されたのでしょう。」
「ああ、あれは買うたんじゃ。」
「えっ」
「大八車に乗せて、寺の門の前に引いてきたのを呼び止めて買うたんだ。買うた住職の名前も分っとる。買うた金も分っとる。安いもんじゃ。」

 私は唖然としました。愕然としました。しかしこれは内部では何の隠れもないことだったんです。私はその時、物事は、知識は、足で確かめ確かめしなくてはいけない。類推でこうであろうと、自分の知ったかぶりの知識を基にして行動してはいけないと、本当に思い知らされました。これが第一です。
 二番目にいきます。私が考えましたように天皇家から奉納されたのであれば、絶対に観光案内であれ、教科書であれ、書くわけですよ。ところが何も書いてない。ということは天皇から奉納されたのなら、他のことはきておいて、これだけは、寺としては忘れてもらっては困る、と特筆してP・Rするはずなのです。それが一切無いということは、天皇家からの奉納はもちろん、あんまり表だってPRする程の“手に入れ方”ではないのだということを逆に意味していたんですね。この当然の道理を私の独断的な頭の為に見逃していたわけです。
 ということを考えてみますと、これは妙心寺だけの問題ではないのではないでしょうか。例えば法隆寺の仏像が橘寺から来たということなら、別に隠すことはないですね。何も恥しい事とちがいますね。「〜天皇からの下賜か奉納」でも、絶対書くわけです。法隆寺再建後に何処かから来た仏像としか思えないのに、全然書いてないでしょう。観光案内にも美術史にも、一切書いてないでしょう。高校の教科書等には「釈迦三尊像」が出てきます。でも「〜天皇奉納」とか「橘寺から来た」とか一切書いてありません。ということは、「釈迦三尊像」の入ってきかたが誇らしいものなら、「こういう所から、こういう特殊な方が、こういう意志をもって法隆寺に献納された。」と第一番のP・R事項にするはずなのです。それが一切無いということは、あまり自慢できる入り方ではなかった。門前を大八車で通ったのを買ったか、九州に行って買ってきたのか知りませんけれど、あまりP・Rすべきものではなかった、だから伝わっていない。或いはP・Rしない筋合いのものだったのです。
 これと直接ではないですが、関連するような意味あいの記事がございます。『日本書紀』の持統天皇六年のところです。持統天皇が筑紫の太宰府に対して詔勅をだしているのです。“お前のところに阿弥陀像がある、中国の人(唐の使者郭務宗*)が来た時に造ったものだが、天智天皇の冥福を祈る為に造ったものであるから、こちらに差し出すように。”という詔勅が出されたと書いてあるのです。

郭務宗*(かくむそう)、宗*(そう)は立心編に宗。JIS第4水準ユニコード68D5

 筑紫太宰府に天皇家が欲しがるような立派な仏像があったのですね。何処のお寺かは知りませんがね。ところがその仏像が天智天皇の冥福を祈ることを本旨とするもので本当にあるならば、言われなくても大和もしくは近江に送るわけですよ。送らずに自分で持っているのを、寄こせ、と言ってるわけです。そして“寄こせ。”という理由が、「天智天皇云々」です。
 仏像を造っている時に、天智天皇が亡くなって天智天皇の冥福を祈ってこの仏像を造りましたと言う、ということも有りうることです。ところがそれを理由に“寄こせ。”となっているわけです。本来は筑紫の太宰府に置く為に造った仏像であるようです。唐の使者が作り、天皇家が欲しがる仏像なのです。天皇家はそれが欲しいのです。天智天皇の冥福を祈ったのだから寄こせと、無理難題と言うとおかしいですが、“こじつけ”を言っているわけです。ひどい言い方ですが、実態はそう違わないのではないかと思います。そう思わないと、私には理解できないのです。筑紫近辺にあった貴重な仏像が、近畿に持ち去られた証拠が歴然とここにもあるわけです。これは状況証拠です。
 最後に一つ、面白い問題が残されております。光背銘の最後のところに「使司馬鞍首止利仏帥造」があります。これは普通「鞍作りの鳥」が造ったと解釈されています。私以外には、これに異論なしですね。『日本書紀』では「鳥」を書いてあります。果してこの「止利」を「トリ」と読むかどうかは検討を要する、と思います。「トリ」とも読めないことはないし、「シリ」とも読めます。「トマリ」と読むかもしれませんね。ということで「トリ」かどうか若干不定の要素があるということを、先ず知っておく必要があると思います。
 それから不思議なことがあります。鞍作の鳥のおじいさんが「司馬達等」というのだと、『書紀』推古14年条に書いてあるのです。敏達条には「鞍部村主司馬達等」と書いてあります。ところが釈迦三驚像の光背には「鞍」となっています。姓が違っています。「村主」が「首」にかわったという記事が『日本書紀』にはないのです。天武紀の「朱鳥元年四月と六月」の項に「村主」を改め、姓(かばね)を「連」にしたという記事が出ている例があります。(四月は桑原村主訶都、六月は槻本村主勝麻呂。)わざわざ書いてある人物より「鞍作りの鳥」の方が出色の逸話があってズーと重要人物なのです。ところが「鳥」のお祖父さんは「村主」であるから、子も孫も「村主」なのです。途中で変わったと書いていないのですから姓は「村主」なのです。光背銘とは違っています。これがまずおかしい。
 又おかしいことがあります。元興寺(又は法興寺)の本尊を造ったが、仏像が大き過ぎて入らなかった。それを鞍作りの鳥が上手に入れたという逸話が『日本書紀』に出てきます。左甚五郎みたいな名人として『日本書紀』に名人伝のピカ一みたいな人物として書かれています。この功績によって官位「大仁位」(推古条)をもらっています。これは聖徳太子の官位十二階の第三番にあたる、なかなかいい官位「大仁」になっているわけでございます。これは推古十四年でございます。
 聖徳太子が亡くなったのは釈迦三尊で当てれば、推古三十年、『日本書紀』では推古二十九年です。だから「大仁」になってから十四年か十五年経っています。少なくとも「大仁」なわけです。「大徳」「小徳」にあがる可能性はあっても、余程の失敗がない限り、「大仁」なわけです。釈迦三尊像の光背には肩書つきで、肩書を重んじて書いてあります。だから「鞍作りの鳥」であれば「大仁」と書かれていなければいけないのに、書いていない。「大仁」なしの「止利」なのです。おかしいですね。
 「止利」と「鳥」が同一人物であるなら、もう一つおかしいことがあります。「使司馬」です。「使」を“司馬をして造らしむ”と助動詞に使う使い方もあります。“しむ”と読んだ場合、誰々がという主語がなければならないのですが、それがないのです。
 この中に主になる人が三人(鬼前太后、上宮法皇、干食王后)出てきますが、次々死んで王子と諸臣が残ったから、その人達が主語でしょう、という解釈が一応はできるのですが、これは内容的に判断したもので、文章自身として主語になっているわけではないのです。前の段階のところで上宮法皇の病気を心配したと出てくるだけです。それを文章の改まったところにもってきて、主語にするのは意味からいうとそれしかないけれど、文章としてはおかしい、スッキリしないのです。
 だから「使司馬」という官職名にするとドンピシャリでいいわけです。「司馬」という官職名は天皇家にはありません。『古事記』『日本書紀』にも載っていません。「司馬達等」とあるのは渡来人で、かつて「司馬」の姓であったか「司馬」の職にあったかで「司馬」となっていると理解されていて、天皇が直接与えた官職名ではございません。
 しかし日本列島に「司馬」という官職名がないかと言うと ーーあるのです。『宋書・倭国伝』の記事で、最初に出てくる倭王讃の項で「司馬曹達を遣(つかわ)す」という記事が出てきます。この「司馬曹達」の「司馬」が姓で、「曹達」が名前なのか、「司馬」が官職名で「曹」が姓で「達」が名前なのか、これが分らなかったのです。ところが中国の『宋書・百官志』(宋代の官職名が全部書いてある)をみますと、将軍号、大将軍号を貰った人が配下に置くべき官として「司馬」がでてまいります。
 高句麗王は四世紀段階に「司馬」の官を置いている記事が出てまいります。倭王は何時も高句麗王と張り合っていたわけで、高句麗王が「〜大将軍」を貰うと、自分もせびって、貰えたり、貰えなかったりしているわけです。倭王は「〜将軍」になっているでしょう。とすれば、なりっぱなしで終りではなく、配下に「司馬」の官を置かなければいけないのです。「司馬」なしの「〜将軍」では格好がつかないわけです。倭王が将軍号を貰ったら当然「司馬」の官はあるべきなのです。だから配下に「司馬」という官職名があるのです。「司馬曹達」の「司馬」が宮職名、「曹」は『三国志』の曹操などの有名な姓で、「達」が名前です。中国人ですね。楽浪か帯方郡あたりに来ていた人かもしれませんね。それが倭王讃の配下になって「司馬」の官に就いているのです。倭王武の上表文が見事な漢文である、その秘密の一端が分るような気がしますね。
 倭の五王には「司馬」という官があった。倭の五王は先程からの筋からみて九州王朝ですね。すると九州王朝には「司馬」の官があった。これが第一です。
 次は「使云々」です。これは「倭人伝」に面白い例がございます。『「邪馬台国」はなかった』をお読みになった方は、御存知だと思いますが、難升米を派遣するとき「大夫難升米」として派遣しております。倭国は古(いにし)えより使者が「大夫」と称しておった。「大夫」は周代の称号です。「大夫」は「郷(けい)」の下にあたるわけです。ところが二回目に行く時には「使大夫」という形で書かれている。「使云々」という官職名が『三国志」の魏にあるわけです。それを逸速く取り入れて「使大夫」としたわけです。「大夫」は周代ですから、魏には「使大夫」はありません。周代の「大夫」と魏の「使〜」とで合成語を作って「使大夫」と称しているわけです。なかなかの造語力ですね。
 ということで、「司馬」の官がございますので、「使司馬」という官職名が現われても何ら不思議はない、こうなってくるわけです。
 そうしますとこの人物(止利)は、九州王朝の人物のようであるということになってきます。
 「止利」が「鳥」でない、何よりの証拠と思われるのは『日本書紀』の聖徳太子の死んだ時の記事です。非常にこまかく書いてあります。(推古23年)ここに聖徳太子のために「釈迦三尊像」を造ったという記事が全くないわけです。この像が法隆寺に現存していたすれば、『日本書紀』を作った入は皆知っているはずですよ。法隆寺の他の仏像を忘れても、本尊を忘れる、ということはないですよ。大和のど真中のことですからね。それが全然書かれていない。しかも造られた側の聖徳太子は天皇を除けばナンバー1の人物、造ったはずの「止利」は、左甚五郎、ナンバー1のわざし。これだけ絵になる記事はありません。それが一切書かれていない。
 「一屋余す無し」と書いてあるから“焼けたんだ”というのを、そのまま裏返しますと、釈迦三尊のことは“書いてない”だから聖徳太子や鞍作りの鳥とは“違うのだ”となるのです。当り前ですね。
 だから聖徳太子とみなす余地はない。こうなるわけでございます。

 

飛鳥仏教のルーツ

 最後に一言つけ加えます。
 欽明天皇の時、仏教が入ってきて走りまわって喜んだ。次に蘇我馬子が仏教を宣揚しようと思ったのだが、具体的にどうしてよいか分らない。(敏達13年)それで使者を四方に使わしたところ、播磨国に、高麗人で元僧侶だったのをみつけ、そこに派遣して習わした。その結果建てられたのが飛鳥寺(元興寺ともいう)であると書かれている。
 播磨の明要寺は九州年号を使っているのです。播磨仏教を学んだのが、飛鳥仏教である。『日本書紀』にそう書いてあるのです。もし飛烏仏教が大陸直輸入であったとしたら、わざわざ播暦から学んだ、なんて嘘をつく必要はないですからね。
 すでに播磨仏教は九州年号を使って、寺号を作っている。一方、法興寺(飛鳥寺、元興寺、三寺とも同じ)が成立したのは、法興六年(推古四年)です。
 寺の名前にのっとって、年号を作るということなど、私はありえないと思うのです。明治大学にちなんで、明治という年号を作りました。大正大学があるから、大正という年号を思いつきました。そんな話はないわけです。逆に、明治の間にできたから、明治という年号にちなんで、明治大学。大正の間にできたから、大正大学。当り前ですね。
 論より証拠は、明要です。九州年号の明要年間にできたから明要寺。法興年間に造ったから法興寺という別名をつけた、それが自然な関係、少なくとも可能性があるのです。恐いような話です。証拠はないのですよ。播磨仏教を受け継いだ飛鳥仏教だから、可能性があるのです。これは今後の課題でございます。こういう恐いようなテーマを課題といたしまして、今日の話を一応終らせていただきます。(拍手)

 この講演は、『多元的古代古代の成立』 (史学雑誌一九八一・七)の解説です。同名の本『多元的古代古代の成立 上』(駿々堂)の見出し案内は古田武彦著作索引にございます。


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