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古田武彦講演録2 『日本書紀』の史料批判『古代の霧の中から』(徳間書店)第二章 卑弥呼と蝦夷2

関東と蝦夷

古田武彦

津田学説とその批判説の展開

 今日は、「関東と蝦夷(えみし)」の問題と、これも、新しい局面の発端部でございますが、それと九州王朝の関係、これを述べさえていただこうと思います。
 実はこの問題の発端はどこにあるかと申しますと、『日本書紀』の中に蝦夷問題というのが、かなり、まとまってとは言えませんけれど、何回となく出てくるわけでございます。
 で、その蝦夷なるものの実体が充分につかめない、ということで、明治以来、あるいは本居宣長も含めていいんでしょうけども、明治以後においても繰返し論争になってきている。喜田(きだ)貞吉なんかも、この問題に非常に力を致した学者の一人でございます。
 で、これはまた同時にですね、戦後になりましても新しく、意匠(いしょう)を新たにして、といいますか、蝦夷問題は非常に重要な一つのテーマになってまいりました。
 と言いますのは、例の津田左右吉によって、『古事記』『日本書紀』の神話・説話が否定された。あれは七・八世紀、早くても六世紀段階位の大和朝廷の史官がデッチあげたものにすぎないと、だからあそこに書いてあるから、それを歴史事実とみてはいけない、という有名なテーゼをだしまして、戦後史学はそれを基本において受け入れたんでありますが、受け入れたけれども、それだけじゃ何もわからない。『古事記』、『日本書紀』を全く無視、といいますか、使えないとなったら手も足も出ないじゃないか。という時に、“いや、その中で使える間題もあるんじゃないか”という研究が、井上光貞さんとか、その他の昭和二十年代の若手の研究者によって次々出されてきたわけでございます。直木孝次郎さんとかいろいろ、もう今や大家になられた人達が、学界に登場してきた時の業績が、津田命題によって否定された『古事記』・『日本書紀』の記事を、いかに再建するか、というのが、いかに史料として使えるか、というのがテーマであったわけです。
 その中で、この蝦夷問題も非常に重要な位置を占めてきたんてす。つまり天皇家が蝦夷を支配 ーーこの時期にはもう支配したとみていいだろう、と。ならば統一は、この頃にはどういう風になっていたという、つまり天皇家の東側の統一がいつ頃、どこまで進んでいたかという跡付けとして蝦夷問題があるということ。西は有名な朝鮮出兵ですね、あれが一つの手掛かりと見ていいわけですね。朝鮮出兵は、あっただろう、大和朝廷が、例の仁徳陵の出来た前後の頃は、もう九州までも支配は及んでいた、という形で。目見当といえば目見当ですが、大筋をおさえると。東では蝦夷問題で大筋をおさえるというような形で、大和朝廷ーー 近畿の天皇家の東西統一、東西支配をですね、もう一回骨組を立て直していったわけです。
 その時の一方の大事な要素として蝦夷問題が使われた。しかも蝦夷問題というのは、『古事記』では非常に少ないんです。限られた形でしか出ていない。『日本書紀』はバラバラですけども、かなり出てくるわけですね。それを史料に使った。
 そういう使われた史料の中で最も有名な、これはプロの学者にとっては、古代史をやってる学者にとっては非常に有名な史料がございます。それは景行天皇の景行五十一年八月に出てきている記事でございます。あら筋を申しますと、倭建命(やまとたけるのみこと)が東国へ征伐に行ったと。ところが『古事記』では、倭建命は東京湾辺の話で終っているわけです。例の有名な弟橘媛(おとたちばなひめ)が犠牲になって入水していく、自殺といいますか、投身していくあの美しい話で終っているわけですね。だから当然その入水によって竜神の怒りをなぐさめ得て、対岸につけたわけですから、千葉県には行ってるわけでしようけれど。しかし千葉県から後、どこへ行ったか全然書いていないわけです。渡るには渡ったけど、後はさしたることも出来ずに引返したという感じの物語りになっているわけです、『古事記』では。
 ところが、一つ例外ともいうべきものは、今の山梨県、甲斐の酒折宮(さかおりのみや)で老人と歌をかわす話に、“新治(にいばり)・筑波(つくは)を過ぎて、幾夜か寝つる”とあります。新治というと常陸(ひたち)ですが、ここに行ったのかなあ、という感じですね。しかし、あれも理屈で考えると、歌をうたっているだけだから、そういう歌がすでにあったのをそこでうたって、歌のやりとりをしたというふうにもとれるわけです。
 とにかく、倭建命自身の行動範囲としては、全然今の常陸国に入ったり、まして東国まで蝦夷征伐をしたとか、そんな話は全く『古事記』には書かれていないわけです。行動によってみる限りは、東京湾を渡ったどまり、という感じの表現でございます。
 ところがですね、『日本書紀』の方はそうじゃなくて、非常に勇ましく、といいますか、ドンドン、ドンドン行ってるわけです。常陸あたり、さかんに行ってですね、たまには、解釈に違いがありますけれど、東北まで征伐に行ったと、いうふうに読みとる人もあるくらい。とにかくそこまで蝦夷をさかんにやっつけてるというか征伐してるように書かれているのが『日本書紀』なんです。だからこの点、先ず『古事記』のえがく所と、『日本書紀』のえがくところでは非常に違っている、ということが考慮すべき第一点なんです。

蝦夷の捕虜に対する処置

 第二点としましては、『日本書紀』における帰路についての問題なんです。『古事記』は帰りについて、別に蝦夷にかかわる特別な話はないんです。
 ところが『日本書紀』では非常に変った話が書かれている。蝦夷を捕虜にして沢山、かなり大勢連れて帰ったようなんです。そう考えないとその後が理解できないんですが。というのは、伊勢の皇大神宮におびただしく連れて帰った蝦夷を全部奉納した、というんですね。奉納って、生きた人間ですから、要するに神社の賎民的な仕事でしょうかね、そういうものに従事させるというか、そういう役民(えきみん)として奉納した、というようなことが書かれている。
 ところが奉納された方では大変迷惑するんですね。その時、伊勢の皇大神宮には倭建命の姨(おば)さんの倭姫命(やまとひめのみこと)というのがいたというのは有名な話でございます。倭姫命自身は『古事記』白本書紀に共通して書かれている、そして出発の時に彼女が激励する話は有名でございます。その倭姫命が“非常に騒いで迷惑して困る”と、“だからここには置いてもらいたくない”と、“せっかく貰ったけれど、もうごめんこうむりたい”と、いうわけで朝廷に、この場合は大和ですが、朝廷に蝦夷を全部おくってしまった。
 で、おくられた朝廷の方では、御諸山(みもろやま)、つまり三輪山だっていうんですが、その三輪山のそばに置いといた。ところがその蝦夷達が三輪山の木を全部ことごとく伐り倒してしまったと、そして騒ぎに騒いだというんですね。それで土地の人民が蝦夷達の勝手気ままな横行ぶりに業をにやして“もうこれはけしからん、何とかしてもらいたい”という事を天皇に言ったというわけですね。
 そこで天皇はこれを聞いて、詔勅を出して言うには“この神山のほとりに置いたところの蝦夷は、人間の恰好をしているけれども、実は獣の心を持っている連中だ”まあ差別的な表現ですが、そう言っているんですね。で「中国(なかくに)」は「うちつくに」と『岩波古典大系』なんかでは仮名をふって、ありますが、この「うちつくに」は、大和国のことらしく三輪山近辺のことらしいのですが、“ここへもう置くわけにはいかん”と。そこでその「情願(じょうがん)に随(したが)い」、これは岩波古典大系の「読み」で読みますと、「その情の願いのまにまに」つまり“彼等の望む通りにしてやれ”、そして「邦畿(ほうき)の外に班(はべ)らしむ」、すなわち“この都の地の外にやってやれ”という詔勅が出て、その結果、蝦夷を播磨・讃岐・伊豫・安芸・阿波、この五国に配置し、それで現在、ここで佐伯部(さえきべ)という連中がいるが、彼等の祖先となった。つまりその蝦夷の子孫が現在の佐伯部である、と、こういう文章がある。
 これをですね、戦後史学がはなばなしく取りあげて、“これはどうもこの記事は正しいんじゃないか。津田左右吉は全部否定すると言ったけれども、一応全部否定したとしても、それは原則論である。具体的にはウソばかりではないんであって、例えば、この記事なんかは、かなり信憑性があるんじゃないか”。何故かと言えば、和名抄その他でみますと、佐伯氏というのが瀬戸内海沿岸におると。たしかにいるといえばいっぱいいますよ。わたしが子供の時分にいた広島県に佐伯郡なんてありますしね、淡路島の一村全部、佐伯なんてとこあるようですね。
 これは今の話ですが、学問上の議論の場合は、和名抄とか、そういう古い時代の佐伯氏の分布が、この五国にほぼ一致している。全部ピッタリではないけれど、ほぼ一致している、こういうところをみても“この話は大体信用できるんじゃないか”。ということになると、“この段階で、天皇家が蝦夷を討伐したということ、このことは大体承認していいんじゃないか” ーーこういうふうな議論に使われていくわけですね。
 そうすると当然、古墳時代に、天皇家は東は関東、おそらくは東北にかけて位のところを支配し、一方では、朝鮮半島に出兵して、九州までも統一下に入ったんだと。だから四・五・六世紀、古墳時代というのは、近畿天皇家は日本列島の大半を、東北地方の北半分位と北海道は別にしましても、関東から東北の南端位のところは支配下においた、こう見ていいという形で国家統一論の骨組、建築がなされていたわけです。
 もちろんこれだけじゃありませんけれどね。この話も重要なひとこまとして使われた説話なんです。だからプロの学者は、あぁ、あの話か、あんな誰でも使用済みの手垢のついた話を、何でそんな新しい話みたいに、古田は持ちだすのかと、もし聞いたら思われるだろうと思います。わたしはそんなに新しい、手垢のつかない史料なんてのは抜き出す能力はないわけですけど、そういう古い史料を、わたしの極めて、岡目八目の素人の目で、率直に疑い直す、というしか能はないわけでございますが、わたしはこの話を読んで、ハテナと疑いを持ったんです。この話自身、わたしには率直に言って非常にへんてこなものに感じられたんです。
 と言いますのは、第一倭建命が征伐をして、何人かの捕虜を連れて帰った、という話ならわかりますけどね、瀬戸内海周辺にぐるっとバラまくといったらかなりの分量ですね。そういうのをゾロゾロおびただしく連れて帰るというような、そういう感じじゃないですね。あの倭建命の物語みましてもね。それが大群衆を、ゾロゾロ捕虜にして引張って帰ったのかって、これが素朴な最初の疑問ですよ。


“瀬戸内海定住”への疑問

 次にはもっとはっきりした疑問としましては、倭建命は能褒野(のぼの)という所で死にますわね、三重県の辺で死にます。でその後、伊勢の皇大神宮までは帰りついてはいないわけです。それだのに、伊勢の皇大神宮へ奉納したってのは、そりゃ代理に頼んで奉納さしたっていえば理屈はつくけどですね、何となくピンとこない感じがわたしにはしました。
 次に、そんな沢山の蝦夷を置いといたら迷惑したってのは、そりゃ迷惑するだろうと思いますけども、それで全部を大和へ連れていったというのも、これもまた大変な話だと思いますけれどね。そりゃ連れていくのはいいとしましても、三輪山のそばにいさせ、彼等が自由勝手に三輪山の木をことごとく伐り到した、と。多少の誇張があるにしましても、あの辺の木を全部伐り倒して騒いだというわけなんですね。これ、果してそんなことが出来るだろうか。わたしなんか近畿で大和の周辺におりまして、三輪山近辺にも行くことがよくあるんですが、なんか、そんなことか出来るような気がしないんですよ、古くから大和の中でも最も神聖な山の一つですからね。
 そりゃ神聖なもののそばに、賎しい者を置いて何とかさせる、というのは、これは有り得ることですよ。神宮といえ、陵墓といえ、これは有り得ることですがね。しかしそれは、あくまで彼らは捕虜として、役民としているはずであってね、それが神聖な、山自体が神になっている、その神自身をね、勝手に全部、木を伐り倒してしまったという、そんなことが果してできるものか。ちょっとわたしには出来るような気がしないんです。そりゃ今の“そんな気がしない”というのは、現代の人間の愚かしい主観にすぎない、本当は昔は出来たんだと、ま、おっしゃる方がいるかも知れませんけど。ま、これも決定は出来ませんけど、何となく奇妙だナ、という感じを持ったこと位は、皆さんも御理解いただけると思うんです。
 それから一番おかしいのはね、天皇が、“もう仕様がない”と、“もうお手上げだ”と、で“彼らの ーーつまり蝦夷のーー 願いのまにまに”ですね、つまり漢文を正確に読んでも意味はちがいませんが「其の情願に随い」つまり“彼らの希望通りに、もう彼等の行きたい所に行かしてやれ、ここの都の地にいなくてよろしい”と、そういうことを言ったというんです。そりゃ手をやいて、こういうことを言うってことはわかりますよ。その結果がおかしいんです。その結果、瀬戸内海へ彼等が住むようになったと。蝦らは彼等の希望で“瀬戸内海へ住みたい、あそこへ一回住んでみたかったんだ”と、皆希望をだして、全員がそこへ住みついたっていうことになるんですよね。
 わたしは、これは、なんぼ昔と今と人間の人情が違うったって、あり得ることじゃないと思うんです。もし彼らが思うところに行けと言われたら、彼らは当然、故郷へ帰りたいですよ。それが関東であれ、東北であれ、当然故郷へ帰りたいと言うのが当り前で、それが彼らがこぞって、“もうわしらは故郷はいやです、どこか暖かい所で暮したいです”なんていってね、みんなが瀬戸内海に住みついた、なんてね。これはオトギ話にしても、あんまり出来のいいオトギ話ではないと、わたし思うんです。人間の人情をね、人間の心を無視しすぎている。
 大体日本人なんて、何十年日本列島を離れていても、晩年にどこへ行くかっていうと、イデオロギーは別にしても、日本へ帰りたいっていう、そういう人種みたいですからね。それを蝦夷がそんなことを、全員が全員、言うなんて、わたしにはユメ・マボロシとしか思えないんです。率直に言いまして。これは岡目八目、素人だと、学者に言われればしようがないが、わたしにはどうもそういう疑いが生じて仕方がなかったんです。

「中国」とはどこを指すのか

 なお、もう一つの実体をもった疑いを申しますとね、ここで天皇が、もうこんなに騒ぐんなら「中国(なかくに)」に住まわし難し、と「住まわしめ難し」といってもいいんですか、こう言っている中国(ちゅうごく)というのを「うちつくに」とよんでいる。これが、おかしいんです。
 わたし、『日本書紀』をみてて、チラチラ出てきたのを記憶してまして、そして調べてみますと、たしかに他にも「中国(ちゅうごく)」という表現は出てきます。「葦原(あしわら)の中国(なかくに)」というのは、これは神話時代で、話がちがいます。「葦原の中国」だから、ただの「中国(なかくに)」とはちがいますからね、これは別だと。それは例の博多湾岸近辺だとわたしは思ってるんですが。これは表現も別です。
 ズバリ「中国(なかくに)」というのが、他に若干出てきます。一つは文字通り、中国(ちゅうごく)の事を言っている。チャイナの中国のこと。これは要するに、中国(ちゅうごく)の故事をひくところで、これは文字通りチャイナの中国、これは本来の用法ですね。三国志でも出てきます、中国(ちゅうごく)という表現でね。夷蛮の地に対して中国、これは全然別の用法です。
 あと二つ出てくるのが、これは雄略紀だったと思いますか、朝鮮半島との関係のところで出てくるんです。任那日本府とか、ああいう類の前後のところですがね、出てくるんです。そこでは、“新羅なんかが、中国(ちゅうごく)に対して、こういう態度をとっている”という、その中国とは、自分の国のことを天皇が、言っているわけですね。
 ところが、わたしの立場から言うと、朝鮮半島関係の記事ってのは、実は九州王朝と百済・新羅との関係の記事を、全部移しかえて近畿天皇家のものにしているんだ、という、『失われた九州王朝』で論じた、それに当る史料のところなんです。これは、それ自身として非常に面白い問題を含んでまして、と言うのは、ここでは明らかに、この「中国(ちゅうごく)」はメイド・イン・ジャパンの用法なんです。つまり日本側のことを「中国」といっているんです。ところがこの場合大事なことは、日本側のことってのは、日本側の天皇の支配下、全体を「中国」と言っているわけです。
 ということはですね、例えば、本場の中国(ちゅうごく)で使う場合も、「中国(ちゅうごく)」といったら、夷蛮の地ではない、あの中国本土全体です。ま、中国本土自身は時代によって広い、狭いあるでしようけど、大体において、中華の領域全体が「中国」でして、例えば、洛陽近辺だけを「中国」と呼ぶ用法はないんです。
 同じく、雄略紀に出てくる朝鮮半島関係で使っている場合も、同じことで、その都の部分だけを「中国(ちゅうごく)」と言っているわけではなくて、「我が国」という意味で中国を使っているわけです。これは中国における「中国」の用法と同じ用法、メイド・イン・ジャパンの用法なんです。
 わたしは、これは面白いと思うのは、わたしの考える「九州王朝」では「九州」という言い方を使っているわけです。中国では「九州」というと、まさに天子の支配する直接の支配地、といいますか、夷蛮の地ではない領域を「九州」と呼んでいるわけですね。それであの島を「九州」と呼んでいるんですから。近畿天皇家があの島を「九州」なんて名をつけるはずがないわけです。国が九つだけなら「九国」でも「九邦」でも何でもいいんですからね。「九州」という、中国古典でも有名な天子を原点にする大義名分用語を、あの島につけるわけがない。あれをつけたのは、やっぱり、中心に天子をおく用語ですからね、あれは、それのメイド・イン・ジャパン版ですから。だから、天子はあの「九州」の中にいる、というわたしの一つの論証、補足的な論証になっている間題なんです。
 それと同じ考えからいきますと、やはりこのメイド・イン・ジャパンの「中国」という用語を使っていて当り前なんですね。ということで、この点は、この点で面白いんですが、面白い話はそれだけでおきまして、今大事なことはこの雄略紀の二つの例でも、天皇の領域全体を「中国(ちゅうごく)」と言っているのであって、ーー 「なかくに」と読むにしても、 ーー大和なら大和だけを「中国」という用例では全くない、と。これは『日本書紀』の雄略紀をごらんになったらわかりますが、それ以外には考えようがないわけです。
 ところが、それに対して、ここの場合は全然違うわけです.天皇家の支配領域全体が「中国」だったら、瀬戸内海も「中国」になりますからね。「中国に住まわし難し」と言って、瀬戸内海へ置くってのは話がおかしいですわな。だからせいぜい大和か、三輪山の近所だけを「中国」と言っていることになるわけです。
 こんな用例は他にないわけです。だから、「用例」という実証的な ーー単語と意味をきめるには、やはり用例からいかなきゃいけないわけですが、ーー それからみてもおかしい。だから素人の感覚としておかしい、というだけじゃないんですね。
 なおこれを、より厳密に言っておきますと、「中洲(ちゅうしゅう)」「中区(ちゅうく)」という表現は、また別です。「うちつくに」とか何とか、仮名をふって従来読んでますからね、振仮名で読んでいくと、皆一緒だ、なんてやっていると駄目ですがね。漢字の、字の表現を厳密におさえていきますと、「中国」という表現は、大和をさす用例としては出てこない。ということが、わたしの得た結論なんです。
 そうすると今の、この話がおかしくなってくるわけですね。
 ということで、わたしは、これはどうかなァと、いろいろ考えあぐねた時期があったわけでございます。そこで一つ、皆さん御承知の問題を出してみたいと思います。

『古事記』と『日本書紀』の違い

 『日本書紀』の景行紀ってのは、これはかなり用心しなけりゃいかん。『日本書紀』全体が用心しなけりゃいかんということが言えるわけですがね、景行紀ってのは特にはっきりしている巻なんですね。それはわたしの『失われた九州王朝』をごらんの方はご存じだと思いますが、そのことを思い出していただけたらいいわけでございます。
 例の、西の方の話として、景行天皇が九州遠征をやった、という話が大きく書いてあるんです。周芳の娑麼(さば)から出発しまして、今の豊前から豊後、そして鹿児島湾のそばへ行きまして、そこを討伐すると、日向まで一回帰って、それから今の有明湾のそばを帰りまして筑後の浮羽まで来てストップ。そういう形で書いてある。で後、日向から舟で帰り給う、というふうになっているわけですね。ところが、これがわたしには非常におかしいものにみえたわけです。しかし、これもいったんを筑紫を原点として考えると矛盾がことごとく解消する(『盗まれた神話』参照)。つまり、筑前の前つ君が「筑紫と肥後」を“安定した領域”として、九州の東岸・南岸を平定する、九州一円平定譚だったわけです。それを「景行天皇」を主格にして“すりかえた”もの、それが景行紀の記事だったわけです。
 ということで、『日本書紀』は信用しがたいと、ま、全部が全部信用しがたいわけじゃないでしようけども、少なくとも信用しがたい。こう倫理的にっていうんですかね、書物を書く人間として許されない手口、特に歴史家としてなおさら許されない手口が、手法が、行われている、ということを指摘したわけでございます。
 こういうような経験がございました。で、この場合特に大事なのは、『古事記』には全く、これはない、ということです。神功の場合もないし、景行の場合もない、その、ない方が正当であった、と。で、『日本書紀』がウソ、というか、資料を盗んできてというか、糊と鋏みたいなもんで、つけ足していた、ということになってきたわけです。これについても現在まで、反論はまだございません。
 と、やっぱり、わたしの史料批判の経験からしますと、東の場合も、同じような問題があるのじゃないか。
 つまり、最初に申しましたように、『古事記』と『日本書紀』で非常に違う。『日本書紀』では、常陸から、場合によったら東北あたりまで蝦夷を討伐してまわったように書かれている。ところが『古事記』ではそうではない。たしかに東京湾を渡ったけれども、後、書いてないということは、常識的に考えると、あんまりうまくいかなかったんじゃないか。そこから先、うまく進めなかったんじゃないかと。進んで、うんと勢いよく征伐したり、うんと歓待されたりしたら、それを書かない、ということの方がおかしい。だから、そこから先はあまり進むことは出来なかった、『古事記』では理解すべきもの。それに対して『日本書紀』では、非常に調子よく、ぐるぐるまわっているのは、はたして本当だろうか。先程の、西の教訓からすれば、東もですね、同じことがあるのじゃなかろうか、ということがわたしの第一の問題点であったわけです。
 そして、それにひっかかってきたのが、さっきの蝦夷を捕虜にして帰って、瀬戸内海へくばったという奇妙な話。これを一体、どう考えたらいいかと、ああでもない、こうでもない、考えあぐねていたわけでございます。途中のごちゃごちゃしたわたし自身の内部の経過は、ここでお話する必要はございませんけれどもーーーー。

伊勢神宮と鹿島神宮

 そのうちに、ふと気がついたことがございます。神宮に蝦夷を献上した、とあるけれども、この神宮というのは、伊勢の皇大神宮だというのが、従来の通り相場。たしかに『日本書紀』をみれば、何となく、そこであるように出来上っているわけです。「倭姫命」なんて出てくると、やはり伊勢神宮。これが伊勢神宮ではないのではないか、こう考えましてね、関東あたりに神宮はないかな、とみてみますと、御承知のようにございますね。二つございまして、鹿島(かしま)神宮と香取(かとり)神宮かある。神社名鑑を繰ってて ーー神社関係の方なんかは常識なんてしょうがーー わたしなんか、やっと気がついたんですけども、神宮ってのはめずらしいんですね。神社が勝手に、神宮って言えばいいってものじゃないらしいですね。神宮といえる神社はきまってるんです。関東では鹿島、香取、それから熱田神宮でありますね。伊勢神宮、それから住吉大社も神宮というというんですが、現在はあまりいいませんけどね。そのくらいで、非常に限定されているんですね。あとはみんな神社なんです。細かく言うといろいろ問題はあるでしょうけど、神宮というのは案外少ない、ということに気がついたわけです。(石上神宮も。)


 そして関東では、鹿島、香取。そこでですね、その鹿島か、香取かに関係することではないのか、というふうに考えてみたわけでございます。そこで例の常陸風土記というのが出てきました。これは分析すると面白いのですが、今日は全体にはまいりませんけれども、そこに、いくつか、ヒントをなす話が出てまいりました。
 というのは、そこに建借間命(たけかしまのみこと)というのがいまして、これは常陸の国造の先祖だというので、水戸市内にその墓だといわれている前方後円墳がございますね。この間も行って見てきたんですが。
 その建借間命(たけかしまのみこと)の話としまして、土地の蛮族 ーー蛮族は佐伯、っていうのはどうも蝦夷に関係するようですが、それからクズと呼ばれているんですが、土蜘蛛とか、ーー そういう連中を討伐して、今の行方郡 ーーこれは鹿島神宮のすぐ隣になるのですが、ーー そこへ凱旋してくる話が、常陸風土記にでてまいります。要するに、常陸の国造の、元祖である建借間命が、常陸一円を統一する、その話の一端が出てきている、それが鹿島神宮の近くへ凱旋してきているわけです。
 鹿島神宮は、御存知のように建借間命が関連しているわけですね。「かしま」という同じ名前を持っておりまして、字はえらい違いますがね、これは当て字でございますのでね。で、その常陸の国造などの豪族、英雄たちが、鹿島神宮のところまで支配を及ぼしていた、ということが知られているわけです。だから、そこのところに凱旋してきているわけです。そういうことが、一つあります。
 それからですね、もう一つは、建借間命の本拠地は、現在の水戸市近辺でございます。そこは昔、何と呼ばれていたか、というと「なかくに」と呼ばれていた。「那珂郡(なかぐん)」というのが現在ございまして、万葉なんかでは「仲国」と出てまいります。「なかくに」なんです。だから、建借間命の中心地は「なかくに」なんです。その「なかくに」が鹿島神宮のところまで、支配を及ぼしていたということが知られているわけですね。で、その鹿島神宮は、本来、建借間命と関係があるのではないかと、こう考えられているわけです。
 そうしますと、「なかくに」という言葉が出てきた、更に、もう一つ、これに関連する資料としましては、意外なところから出てきましたが、『三代実録』これの清和天皇の貞観八年の正月に ーーこれは、かなり有名な記事なのですけどもーー 出てまいります。
 それは、鹿島神宮の宮司が、 ーーこの場合、もう当然、大和朝廷なのですがーー 言上したと。陸奥の国、つまり東北地方ですね、大体、東北地方南部でしょうけども、“陸奥の国には、我が神宮の分社が沢山ある。で、その分社側に自分のところの奉納物を、お祓(はら)いでもして、分け与える、ということに代々なっていた。ところが近年 ーー近年というのは、平安時代ですがーー 近年、彼らがそれを断っている、受けつけないようになった。つい最近も、こちらが、そういう奉幣物を持って、東北、つまり福島県の方へ向った。と彼らは、国の境で頑張って、その使いを入れない、そこでしようがないから、その使いは、その持っていった奉幣物を川に流して帰ってきた。だから、こういうことじゃ困るから何とかしてほしい。”ということを訴えているわけでございます。
 この史料は何を意味するか。わたし、考えますと、結局、鹿島神宮の分社が、東北地方の南半分に沢山あった、というわけです。これは何を意味するかと言いますと、はっきり言いまして、鹿島神宮を支えていた権力者が、東北地方の南半分、今で言えば福島県あたりですね、そこを征服、支配したってことですね。その征服、支配した証(あかし)として、鹿島神宮の分社をつくって押付けた。押付けたって、言葉は悪いですが、現地の人からみれば、押付けられた。現地の人ってのは、これは当然、蝦夷ですよね、この蝦夷に押付けた。
 で、蝦夷たちは押付けられた鹿島神宮のお供えを貰ってきて祀る、祀るだけなら、簡単だと思うんですが、お代か何か取られるわけでしょうからね、やっぱり。で、それをやっていたんだが、鹿島神宮のバックをなした権力者が、力を失ってきた ーー大和朝廷の時代になってーー そうしてくると、福島県あたりの部族が、その人達が、もういやだ、こんな鹿島神宮の下に入るいわれはない、と、こう拒否し始めている、というふうに、わたしは考えたわけです。
 つまり、鹿島神宮をバックアップしていた常陸の権力者は、東北地方の蝦夷、当然、常陸国内にも蝦夷とか、そういう関係の部族も討伐もするでしょうけれども、今の東北あたりにも支配の手をのばす。そうすると蝦夷が支配の対象になってくるわけです。そして支配した結果、鹿島神宮の神々を押付ける、そういう状態が続いていた、ということですね。
 現在でも福島県には鹿島神宮の分社が非常に多いようですね。栃木県に次いで多いようです。千葉県なんかよりずっと多いです。不思議ですけどね。神社の資料で、統計も出ているんですがね、ずっと多いです。現在でも、福島県だけじゃないと思いますが、東北南半に、かなり鹿島神宮の勢力があったとおぼしき神社が多いわけです。ま、そういうことを背景に語られている。


常陸の話を換骨奪胎か

 それからまた、もう一つの史料がありました。『三代実録』の引き続いてですが、嘉祥(かしよう)元年、鹿島神宮の宮司が、こう言うわけなんです。“元々我が神宮は遷宮をする時に、那賀(なか)郡の木を伐って運んできて、神社の材木にする習わしであった”と。“那賀郡には神領があって、神山があった、ところがそこまでは非常に距離が長い、宮を去る二百余里もある、だから鹿島神宮の近所に木を植えて、そこのを伐ることにしたい。”ということを、大和朝廷に、文書を送っているわけですね。その意味するところは、那賀郡というのは、例の常陸の国造の建借間命の本拠地です。その勢力の一端に、鹿島神宮はつかえているわけですから、鹿島神宮の木材は、本拠地の「なかくに」から持ってきて、それを使わせるという、そういうしきたりであった。ところがその後、勢力の変動があって、鹿島神宮と那賀郡との関係があまりなかった。現在、あまり直接ないようです。この前、鹿島神宮へ行って宮司さんにいろいろ親切に教えていただきましたが、もう現在、それはなくなって、近所の材木を使っているようですね。
 そうなってくると、距離が遠いから、というのは名目であって、そういう勢力変動の結果、近所に林を作りたい、とこう言っている史料なんですね。でこれは、平安時代の話ですが、それまでは、わざわざ遠くから木を運んでいたわけですね。
 ということは、伐る人夫が必要、運搬する人夫も必要だ、ということなんですね。そうすると皆さん、わたしが言いたいことは、おわかりになるでしょう。この話はどうも、常陸の国造権力者を中心にした話なんですね。常陸における統一権力を有するためには、蝦夷との戦いが必要になってくる。そして鹿島神宮をバックにして、武器とイデオロギーとで支配したわけでしよう。その話を換骨奪胎して、天皇家を主語にして取替えたのではないか、ということなのです。
 蝦夷と「なかくに」の権力者と戦う。で、連れて帰って鹿島神宮に奉納する。ところがここに置いちゃうるさくてかなわん、で、「なかくに」へ連れていく。その連れていったのは、ちゃんと目的があるので、この神山の木を伐るために連れていってるわけですね。だから別に、勝手気ままに山の木を伐ってまわったというんじゃなくて、ちゃんと目的のために伐らされた。だからその意味じゃ非常に役に立っているんですが。しかし現地の人達は、差別、というか馴染まない。それで文句が出た。そこでこんどは、もうこの「なかくに」には住まわせることは出来ない、だから彼等の願いに応じて帰らせてやれ、と。で当然、自分達の国に帰らせてやっている。そういう話としますと、非常にスパッとはまるわけなんです。
 しかも、御諸山(みもろやま)というのがありますが、これは御存じのように、御諸山は全国に沢山あるわけです。言ってみれば、固有名詞ではなくて普通名詞。早い話が、大和の場合でも、固有名詞は「三輪山」ですね。それを神の山だという人で御諸山といった。岡山県にもみもろ山はありますしね、各地にみもろ山という山はあります。要する神聖な山ということです。
 ところがですね、水戸のすぐそばに、朝房山(あさぼうやま)というのがありまして、これは『常陸風土記』に出てくる有名な話で、哺時臥山(くれふしやま)ということですね。そこに、ヌカヒコ、ヌカヒメという兄、妹がいた。で妹はある客人と交わって子供を生んだ。その兄、妹は室(むろ)に住んでいた。その室で子供を生んだ、子供は蛇であった、この蛇が非常に変った能力を発揮する話、 ーー最後に地域の人が蛇のいる室を祀って、今でも伝えているという話が、『常陸風土記』に非常に印象的な話として出てまいります。これは室があって、神の山として祀っているんですから、当然、「みむろ山」であるわけですね。
 で、今のようにこの蝦夷を、「御諸山」のそばに置いた。この水戸の「御諸山」のそばに置いたと考えられないか。で神の山、御諸山自身が神の山であってもいいわけですし、この辺の神領・神山と考えてもいいんですが、この材木を伐らした。しかし騒いで困るから、もう帰らしてやれ、というんでね、何も無理もない、コンバクトな話になっているわけです。
 ですから、これも証拠、というとなかなかむずかしいわけですが、わたしには常陸における話としたら、非常にナチュラルで無理なく理解できる。しかし、天皇家を原点に考えた場合には、あまりにも無理が多すぎると、第一、『古事記』にそれが全くないではないか。『日本書紀』がつけ加えたと考えるべきではないかと、こういうふうに考えるわけです。


『日本書紀』の編み方

 なお、もう一つ言いますと、戦後史学でされたんですが、瀬戸内海に佐伯氏がちゃんといると。そういうところからみると、今の話は本当じゃないか、という形の論証。といいますか、しかし、わたしは、これはちょっと、盲点があるんじゃないかと思います。
 と言いますのは、五つの国をみて、何かお感じになりませんか。播磨・讃岐・伊像・安芸・阿波、どこか、肝心のある国が抜けてませんか。つまり、吉備が抜けているんですね。これはおかしいわけですね。瀬戸内海へ配るのに、吉備を忘れて配るなんて、ちょっとわたしには考えにくいんです。わたしは、むしろこの瀬戸内海の佐伯氏というのは吉備を原点とする佐伯氏ではないかと思う。
 弥生時代においては、平剣(ひらけん)が、瀬戸内海領域に分布しておりますが、あれの中心が、不思議なことにといいますか、始めわたしは、吉備が中心かと思っておりましたら、分布図を書いてみましたら、全然違うんですね。あれは讃岐が中心なんですね。で鉄も、讃岐に出てきますね、弥生時代の鉄が。というんで、弥生時代の平剣は、どうも讃岐が中心のようなんですね。
 ところが、その後、古墳時代になりますと、これはもう文句なしに、吉備が、あの巨大な古墳がありますのをみても、吉備が中心でございます。この十一月に、朝日旅行会で、吉備・安芸の旅をいたしますがね、それを巡ってみれば一段とおわかりになると思いますが、もう、これはなんたって、瀬戸内海領域で、古墳時代においては、吉備が一大中心である。
 そうすると結局、吉備は吉備だけを支配しておった時代の中心ではなくて、瀬戸内海領域を支配していた、その中心が吉備である、とこう考えなくてはならないと思うんです、古墳時代には。その支配された方に、佐伯氏がいるわけです。それは吉備に支配された、佐伯氏。だから、かつては讃岐の平剣の神かも知れませんね。そういう形で理解されるべきものだと思うのです。そう考えれば、これも非常に無理がないと思うんです。
 その話を両方くっつけたのが、『日本書紀』のお話の作り方です。吉備中心の話に、常陸の話を持ってきて、糊と鋏でくっつけて、天皇家がズーっと始めから支配したような話に仕組んでるんですね。
 これは、全部を松本清張さんや、司馬遼太郎さんみたいな作家がいて、幸いなことに、頭で全部作って書かれたら、これはもう、なんにも、こちらが反証もあげようもないんですが。そこに独特な手口、というと言葉は悪いんですが、別に悪しき意味で使うんじゃないんですけどね。わたしにも、わたしのやり方の手口がございますね。今お聞きいただきましたように。やっぱり人間にはいろいろ手口がある。『日本書紀』の編者にも、やっぱり手口があるんですね。
 自分が勝手気ままに、お話をフィクションで作るというやり方は、どうもしてないようですね。それぞれに現地にあった話を持ってきて、入れ替えたり、何かして作りあげるという、そういう手口を示しているようでございます。ま、そのために、こちらが分析して、より自然な形における、という幸せがあるわけでございます。
 この問題は、先程も申しましたように、こういう類の問題の入口でございます。といいますのは、今の様な分析にたちますと、『日本書紀』の中で、他の蝦夷の話、例えば、上毛野君(かみつけぬのきみ)の蝦夷討伐譚なんでございますが、これも天皇家が命じたような形で書いてありますけれども、やはり一度切りはなして、上毛野君が、関東において支配権を拡大していく場合、当然、蝦夷との関係が問題になるわけでして、その場合の対象としての話を、天皇家が命じてやらせたように作り直しているんではないか。というようなことで、そういう目でみてみると、『日本書紀』の中に、かなりいろいろ資料が含まれているんではないか、ということになってくるわけでございます。
 さて、そういう手口がわかった上で、もう一回、西の九州をみると、ということになりますと、とても面白い九州王朝の実体論みたいなものが、できつつあるのでありますが、これはまた来年春、内容を充実して御報告できれば、うれしいと思っております。どうもありがとうございました。


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