九州年号総覧 27白雉


原村小史(はらむら しょうし)

第十章 民俗・風習 第二節 神社・仏閣

『原村小史』及び第十章は、デジタルブック(電子書籍)です。

原村郷土史調査研究会

1 原村神社

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2 白山神社

 分限者(ぶげんしゃ)で荒神様と異名のある白山神社は「白山様」とよばれ、七瀬川を隔てた氏子の住む尾平、宮園を眼下に見降ろす高い位置に鎮座していた。
 この白山様が、いつ頃この地に祀(まつ)られたかはさだかではないが、明治四十三年に伐採された神社の杉(原村神社に掲示)の年輪から察しても優に四、五百年以上は経過しているものと思われる。
 また、後述の江戸期(安政以前)に書かれたと見られる奈須家文書「奈須家先祖附」の一節には、この白山神社の由来について「白雉(はくち)年中に祝った」と記述されている。白雉年代とは、西暦六五〇から六五四年で、今から一三四〇年前の年号である。
 尾平の向かいの山の天辺(てっぺん)には、御座石(ございし)という大きな楔形の岩があるが、伝説によると、「その昔、この御座石に白馬に乗った神様が、閃光一瞬降臨し、昼夜を分かたず輝き続けた。前後して、この神は後藤家の祖先の枕上(まくらがみ)に立ち『われは五十三人の伴を従える白山大権現なり』と告げた。これを聞いた村人たちは協力してこの地に社をつくり 『白山神社』としてお祀りした。」と伝えられる。これ以来、後藤家では昭和の初め頃まで、霜月には大きな鏡餅と、伴の五十三人には小さな小判形の餅(一〇六個)を鏡餅の周囲に飾り奉納していたという。
 一方、この白山様には「荒神(あらがみ)さま」に纏(まつ)わる次のような神話もある。
 馬に乗った者が白山様の向いの道(広戸)付近を通り掛かると、必ず馬が狂ったように暴れだし騎手もろとも谷底に転落する事故が重なった。中でも白馬のときは特にはげしく、村人は「白山様のさわりだ」「白山様が高すぎる、お社を低い場所に移そう」と山の天辺から村里に近い三合目付近に遷宮した。その後こうした事故はまったく起こらなくなったという。また白山神社の御神体は高さ四〇センチほどの男女一対の御神体で木の箱に納められ原村神社に合祀されている。
 白山神社の周囲には、宮園(みやぞの)、宮畑(みやばたけ)、幣殿(ひいでん)などお宮に纏(まつ)わる地名が残っている。宮園はお宮の政をする拠点。宮畑はご神領としての土地。幣殿は「御幣(ごへい)」を作る屋敷があったと伝えられている。幣殿河原は、この河原で身を清め御幣を作製したという伝説もある。また、森英利家を向(むかい)と呼ぶが、これらも白山の真向いにあることから出たものであろう。
 一方、長野の後藤家の先祖は白山神社と深い因縁を持つようで、古くから白山の主宰役として故事来歴を伝える多くの古文書を所蔵していたが、安政元年(一八四五)の火災で悉(ことごと)く焼失した。奈須千代馬家所蔵の奈須家先祖附の中に、この内山神社の来歴について、次のような件(くだり)が記されている。

 「原村宮園本家遠祖之産神(うぶがみ)、白山大権現、前山ノ嶺ノ御座石ニ白雉(はくち)年中に、薩洲白嶽ト申所ヨリ遠飛来出現在シ夜々光ヲ放チ長野村之先祖、斎藤杢ノ頭ト申ス者ニ告ゲ、曰ク、我ヲ以テ、白山妙理大権現ト祝候ラヘ、末世ニ至迄汝ラノ家之産神ト奈利、永々ニ汝ラノ家ヲ守ルペシト告タモフ、是ニ依斎藤杢頭、御座石ニ勧請志候ヒ壱祝主ト奈利、杢ノ頭ヨリ三代目ニ當テ宮本右内ト申者、宮園ニ分住イタシ産神附之社地ヲ請持、二ノ祝主トナリ年中弐季之祭禮之内、其祭リヲ勤メ来り候由、右宮系圖並ニ由来書ハ、長野弐祝主之家ニ今ニ傅エ来り候、然處奈須野本家、奈須四郎左衛門時代ニ、宮園ノ二ノ祝主之家退轉ニオヨビ候、依リテ同人次男奈須学次(治)郎、家督ノ養子ト成シ、相続イタシ候由、是ヨリ奈煩ト名義改之者也」

 以上を要約すると、「原村宮園の本家の遠い先担がおまつりした白山大権現は、宮園の前の山の嶺にある御座石という岩に、薩州(鹿児島)の白獄という遠方から度々飛んで来て夜毎先を放っていた。ある夜、白山大権現が長野村の先祖の斎藤杢頭の枕がみにたち『われは、白山妙理大権現なり、われを祭れば当家の産神となり、末代に至るまで永々と汝らの家の守り神となろう』とのお告げがあった。このため斎藤杢ノ頭は、尾平の由の御座石にこの神を祭り、初代の祭り主となった。その後、杢ノ頭より三代目にあたる長野村から宮園に分家していた宮本右内という者が、お宮の社地を請持って、二代目の祝主となり、年二回の祭礼をしていた。」というものである。また、追記として「これらの由来を記した由来書や宮系図は長野(宮園から長野に帰住カ)の祝主の家に今も伝え残されている。しかし奈須家の本家、奈須四郎左衛門時代に、宮園の祝い主の家が退転(衰退)したため、四郎左衛門の次男、奈須学治郎が宮本家の養子となり、家督を継ぎ家名も奈須に改めた。」とある。

 [後藤家への伝承]
 長野の後藤家にも、白山神社に纏わる口伝書など数多くの古文書を所蔵していたが、安政時代に起こった火災によって、ことごとく焼失し、これらの史実を明らかにし得ないが、内山神社の故事について、後藤家に次のような話が伝承されて
いる.(明治四三年生・後藤勝氏の談)
 「白山大権現が薩州から尾平の御座石に来るとき五十三人の伴を従えて来たと言い伝えられ、春四月秋九月の二回行う祭典のうち、秋の祭りには六升三合のモチ米で「お沓形」という草履の形をした小餅を一〇六個作り神殿に供えていた.一〇六個という数字は、お伴に一足分(二個)あてがった数で、お供えしたこのお餅は祭典の終了時に氏子一戸に二個ずつ配られていた」と言う。
 その費用は奈須家の古文書に記載の通り、一祝主であった後藤家が総てを負担し毎年行われていた。この行事も昭和二十五年の神社合併以後途絶えていた。何かの因縁だろうか一〇六個という数は原村の現在の戸数である。
 平成四年の元旦、原村神社の初詣ででこの伝統行事が復活した。神社総代さんたちの手で紅白の餅をつき参拝者全員に「御沓餅」としてくばられた。


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原村小史

 大分市と合併した旧野津原 町のほぼ中央に位置する原村は、七瀬川のせせらぎに添う平和で豊な農村。その原村の関係者たちが、手弁当でまとめ上げた郷土史。 第10章「民俗・風習(下)」で完結しました。

(『原村小史』のデジタルブックはNAN-NANライブラリーから読むことができます。)

 

 


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