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講演記録「釈迦三尊」はなかった 古田武彦(『古代に真実を求めて』第9集)


『松前史談まさきしだん』第27号(平成23年3月 愛媛県伊予郡松前町松前史談会編)から転載
平成22年7月10日 松前町東公民館に於いての講演録

聖徳太子の虚像

道後来湯説の真実

合田洋一

一、聖徳太子とは一体何者なのか

 わが国の歴史上の人物で、聖徳太子(厩戸皇子、573?~621年)ほど人口に膾炙かいしゃしている人はいないのではないか。聖徳太子は昭和5年の百円札以来、一万円札や五千円札の「顔」として長い間国民に親しまれてきた。そして、その肖像画は教科書を飾り、わが国古代史の中で、最重要人物と位置付けられてきたのである。すなわち彼こそは日本の権威を一手に担ってきた人物と言っても過言ではない。
 しかし、聖徳太子とあらば誰でも頭に描くその肖像画は、こんにち紙幣や一部の教科書から、国民には何の説明もなしに、静かに消えてしまっている。その理由については、結論だけ述べると、この肖像画は中国の官人のものとみられ聖徳太子ではなかったのである。1
また、高校の歴史教科書の一部でも、聖徳太子に関する記述に微妙な変化がある。例えば、「厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子)」として、以前とは異なり聖徳太子の名が前面ではなくカッコ書きになっている。
 それは何故なのか。道後温泉を飾った“珠玉の伝承”「聖徳太子道後来湯説」と併せて、本日ここにその真実を述べさせて戴く。
 そこで、その具体的論証に入る前に、通説による聖徳太子の略歴を記しておきたい。
 聖徳太子は31代用明ようめい天皇の皇子で幼名を厩戸王うまやどのおう、叔母の33代推古すいこ天皇の皇太子となり摂政となった。十七条憲法や冠位十二階を制定し、遣隋使けんずいしを送り、「日出ずる処の天子」の国書を隋の皇帝に呈し、法隆寺や四天王寺を建立したー等々。これらの事跡からわが国の偉大なる大政治家・大思想家とされて来たのである。そして、“太子信仰”というべきものが全国津々浦々に浸透していることは、世人の知るところとなっている。
 その一例に、聖徳太子道後来湯説がある。これは『伊予国風土記』 2 に収録されていた「温湯碑」(湯ノ岡ノ石碑いしぶみ)、これに刻まれていた人物「法王大王」が聖徳太子であるという。それを根拠に、『愛媛県史』を初めとする郷土史は、これを愛媛県の輝ける史実或いは伝承として扱っている。また、聖徳太子は実在か否かについても、次のような諸説がある。
 先ず、大山誠一氏(中部大学教授)は『〈聖徳太子〉の誕生』や『聖徳太子の真実』で、厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない架空の人物である。そして、厩戸王が登場する時代は、蘇我王朝であり、聖徳太子は蘇我馬子であったーー 」という。大山説のあと拙書『聖徳太子の虚像』初版 3 とほぼ同時期に谷沢永一氏(関西大学名誉教授)の『聖徳太子はいなかった』が世に出、その一方でこれらの説に反論するものとして田中英道氏(東北大学大学院教授)の『聖徳太子虚構説を排す』など、百家争鳴の観を呈している。
 ところが、それにも増していち早く、古代史の泰斗古田武彦氏(元・昭和薬科大学教授)が『法隆寺の中の九州王朝』 4 で、聖徳太子の虚偽を精微に論証している。そこには、

 この「法王大王」は聖徳太子にあらず、それは歴史上太子よりも格上の人物、『隋書』「イ妥国伝」に登場する日本列島を代表する時の最高権力者、九州王朝倭国王・多利思北孤たりしほこであった。そして、当時の中国を支配していた隋の皇帝“煬帝ようだい”と対等に渡り合った「日出ずる処の天子」その人である。

と述べておられる。そこで、古田氏の先学の労を範としつつ、愛媛県民にとって“悠久かつ珠玉”の「聖徳太子道後来湯説」は果たして真実なのか。その聖徳太子の実像とは如何に。頁数の関係上要点のみの論述となるが、詳しくは拙書『新説伊予の古代』 5 をご覧戴きたい。


1,『聖徳太子の謎』阿部誠一著(『今治手帳』所収 1994年春号 -- 肖像画について詳述)
2、「風土記」は和銅六年(713)元明天皇の「風土記撰上の詔」によって編纂された。『伊予国風土記』は逸文として『釈日本紀』巻14に所収されている。 --日本史文献解題辞典 吉川弘文館
3、『聖徳太子の虚像』合田洋一著 2004年7月 創風社出版
4、『法隆寺の中の九州王朝 -- 古代は輝いていたIII』古田武彦著 1985年 朝日新聞社 1988年 朝日文庫
5、『新説 伊予の古代』合田洋一著 2008年11月 創風社出版

 

二、『隋書ずいしょ』「イ妥国伝たいこくでん」が物語る真実

 中国の史書に『隋書』「イ妥国伝」1 がある。これに記された中心人物の通説が聖徳太子とされているので、先ずこれについて述べることにしたい。
この「イ妥国伝」に、隋の使者「裴世清はいせいせい」が、先のイ妥国(倭国)使者の答礼としてやって来て、イ妥国までの行路、その国の王や家族について、また政治状況を克明に記していた。それらを次に示す。

1,イ妥国は何処いずこにありや

 まず、イ妥国は何処にあるのか、そこまでの使者の行路を記している。詳細は省くが、そこは漢の光武帝より金印を賜った国「委奴国いどこく・いぬこく」(『後漢書』)、次いで女王・卑弥呼ひみかの国「邪馬壹国やまいちこく」(『三国志』「魏志倭人伝」)、「倭の五王」の「倭国」(『宋書』「倭伝」など)、これらの王朝の所在地は九州北部を示している。
 「イ妥国」の通説は近畿の大和である。しかしながら同書(『隋書』)には、大和への行路、つまりその途中の瀬戸内海や大阪湾・近畿を特定するような記事が一切ない。そこに記載されていたのは、

  「阿蘇山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って[示壽]祭を行う。」
     イ妥国のイ妥たいは、人偏に妥。ユニコード番号4FCO。
     [示壽]は、示編に壽。JIS第3水準ユニコード79B1

とあって、そこは阿蘇山下の王朝を示している。言うまでもなく阿蘇山は近畿にあらず九州にあるので、舞台は九州北部だったのである。結論は「イ妥国は博多湾岸を中心とする筑紫にあった」。そこは、古田氏提唱の「九州王朝」そのものだったのである。

 

2,イ妥王“阿毎多利思北孤あまたりひほこ”今に甦る

 次に、イ妥国王“阿毎多利思北孤”とその家族、そして政治状況について、『隋書』「イ妥国伝」の主要部分を論述する。2 (語尾の丸数字は筆者、インターネット上は(1).など表示)

開皇二十年(600)、イ妥王、姓は阿毎あま、字あざなは多利思北孤たりしほこ、阿輩あはいの鶏弥きみと号す。 (1).
王の妻、鶏弥きみと号す。後宮に女六・七百人有り。太子を名づけて利と為す。歌弥多弗かみたふの利なり (2).
内官に十二等有り(詳細は後述)。(3).
大業三年(607)、其の王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す」、と。其の国書に曰く「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙つつが無しや云云」と (4).
帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂いて曰く「蛮夷の書無礼なる者有り、復また以て聞ぶんする勿なかれ」と。明年、文林郎裴清ぶんりんろうはいせいを遣わしてイ妥王に使せしむ (5).

とあり、これらを語尾の数字に従い解説する。
(1).「開皇二十年」の記事について論証すると、
 「イ妥たい」は「大倭たいゐ」の卑字。「姓は阿毎あま」は、「天あま・あめ」であり「天照大神あまてらすおおみかみの天」、神話に頻出している「天の何がしの命」で、天族(海人族・あまぞく)の天である。通説論者は、天皇家には「姓」がないため、そこから多利思北孤を姓のある蘇我馬子に比定したりするのである。字あざなは多利思北孤たりしほこ、通説の「北」は「比」の誤りとして、大和王家に数多く見られる名前「帯彦たらしひこ」に合わせて“多利思比孤たりしひこ”と原文改定している。「阿輩鶏弥」は、」「吾が君」の意。

(2).「王の妻、鶏弥きみと号す」 ーーイ妥王には鶏弥と言う妻がいると記している。多利思北孤は「男帝」であり、時の大和の大王おおきみは女性の推古天皇である。使節(裴世清)が王に会って、女性を男性に見間違えるはずはないので、そこで中国に対して女帝では失礼だから、聖徳太子を大王に仕立てたとか、或いは、聖徳太子は初めから大王であったとか、または蘇我馬子が大王だったとしてしまうのである。

  「太子を名付けて利となす。歌弥多弗かみたふの利なり。」

 「歌弥多弗」は「上塔かみたふ」であり、博多の字地名(旧、九州大学の地帯)にある「上塔かみとう」「下塔しもとう」と関連する在所名と考えられ、「利」は中国風一字名称と思われる。
 いずれにしても、王の名「多利思北孤」、王后の名「鶏弥」(君か)、皇太子の名「歌弥多弗の利」など、大和関連の史書には、一切現れない名前である。つまり、それは大和には全く関係のない人物であったことを意味している。

(3).「内官に十二等有り」 ーー冠位十二階の登場である。
 「徳・仁・義・礼・智・信」を大・小に分けて十二階。『日本書紀』推古十一年(603)十二月条に、「徳・仁・禮(礼)・信・義・智」とあり、これが大・小に別れている。これは、イ妥国の冠位とは、順序が違うだけで全く同じである。イ妥国の使節は開皇二〇年(600)であり、それに基づいて記載されているので、『日本書紀』の記述は3年あとのことになる。従って、これは明らかに『日本書紀』が聖徳太子の業績を創りあげるために九州王朝倭国の史書(『日本書紀』の割注にある『日本旧記』『日本世記』「一書」など。これらの書は九州王朝が大和王朝に滅ぼされた段階で、没収・廃棄処分された。 ーー和銅元年〈708〉正月、元明天皇「禁書の令」『続日本紀』)から「盗用」したものと考えざるを得ない。

(4).「大業三年(607)」、イ妥王・多利思北孤が隋に使節を送った。その国書の文言「日出ずる処の天子、云云。」は、あまりにも有名、格調高く、わが国の尊厳を見事なまでに表現している。通説は、聖徳太子が推古一五年(607)に遣隋使・小野妹子おののいもこを派遣して、隋の皇帝煬帝ようだいにこの国書を呈した、となっている。しかし、『日本書紀』は大和王朝と中国との国交(朝貢)記事については、この推古十五年が初見。即ち、「大禮たいらい小野臣妹子を大唐に遣わした」と、「隋」ではなく「大唐」となっており、以後も「遣隋使」は一度も出現せず、全て「唐」または「大唐」の「遣唐使」と記されている。しかも、『日本書紀』には不思議なことに、隋の皇帝と対等の立場に立つ「天子」と自らを位置付けた誇り高い国書であるにもかかわらず、この記事内容は一切書かれていない。

(5).「帝(煬帝)これを覧て悦ばず」「蛮夷の書無礼なる者有り」 ーーつまりこの国書を見て大変立腹したとある。これは、自分達が世界の中心であるという「中華思想」の中国の天子からみたら当然のことで、周辺の国々は全て蛮族とみなしていた。そして、それらの国々は中国の王朝を冊封体制下の宗主国として、敬仰しなければならなかった。九州王朝を代表する国で、中国や朝鮮半島の史書に散見する「委(倭)奴国」「イ妥奴国」「邪馬壹国」「倭国」「大倭国」などは、中国の皇帝より王位や将軍位(爵号)をもらい、中国を宗主国として朝貢し、敬仰してきた経緯がある。従って、対等の天子を名乗ることなどもってのほか、許されないことであった。しかしながら、当時「隋」は隣国の「高句麗」と戦争の真最中、朝鮮半島南部にいた倭人に協力・援護を必要としたので、怒りはしたけれど、裴世清を使わすことになるのである。

 従って、これらのことから小野臣妹子の「遣隋使」、そしてこの「国書」も、「冠位十二階の制定」も、聖徳太子とは一切関係がなかったことの証左である。
 なお、「十七条憲法」も太子の手によるものではないと考えている。その政治は仏教を根幹に据えており、既に「法治国家」であった九州王朝倭国の天子・多利思北孤が制定したものと思わざるを得ない。
 つまり、これらは聖徳太子の事績ではなく、九州王朝倭国王・多利思北孤の事績を“換骨奪胎”したものだった。九州王朝倭国(イ妥国)は、この後、風雲急を告げる朝鮮半島情勢、任那みまなの回復・百済くだらの救援に没頭して行く。そして、中国でも隋が滅び唐に代わる(618年)。このような状況下で、倭国は国力を消耗させ、衰退の道を歩み、遂に「白村江の戦い」で決定的な敗北を帰し、滅亡へと突き進む。そのような状況下に台頭してくるのが大和王朝である。


1,隋が滅び次の唐代の621~636に、魏微らにより編纂・成立をみた隋朝に関する史書。
2、『九州王朝の論理 -- 「日出ずる処の天子」の地』古田武彦・福永晋三・古賀達也共著 2000年5月明石書店より引用。

 

三、釈迦三尊像の微笑み -- 光背銘が示すもの

 聖徳太子信仰の原点の一つになっているものに、法隆寺の本尊・釈迦三尊像(国宝)がある。
 この三尊像の光背に、196文字の金石文が遺されている。この銘文にある「上宮法皇」、そして三尊像の中央に坐しているのが聖徳太子だとされている。頁数の関係上、銘文の掲載は省略させて戴くとして、これが聖徳太子であるのか否か、聖徳太子でないならば何人であるかが明らかになることにより、「伊予の湯の岡」に建てられた「温湯碑」の「法王大王」もまた聖徳太子であるかないかの確かな証明となるのである。他に銘文に刻まれていた鬼前太后きぜんたいごうの通説が穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのこうごう・太子の母、三一代用明天皇皇后)、また干食王后かんじきおうごうが膳部郎女かしわでのいらつめとなっている。
 この「鬼前太后」や「干食王后」という不思議な名前は他の同時代史料からは一切出現せず、それに加えて、この銘文には時の推古女帝の名はない。
 そして、太子の妃のうち正妻格は蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ・山背大兄王?やましろおうえのおうの母)であり、他の妻は、推古の娘と推古の孫、最後の一番身分の低い膳部郎女は、王后の称号をもらえる立場のものではない。
次に、「上宮法皇」について。聖徳太子は『日本書紀』では上宮太子かみつみやのひつぎのみこ・上宮皇太子かみつみやのひつぎのみこと記されていて、上宮法皇とは記されていない。天子(天皇)が僧籍に入って「法皇(王)」となるのであって、太子は終生ナンバーツーの皇太子なので、法皇になる資格はあり得ない。通説は、聖徳太子の「上宮太子」を銘文の「上宮法皇」に無理やり当てはめたのである。古田氏は前掲書1で次のように述べておられる。

上宮法皇は上宮に住んでいたから上宮法皇であり、その地で死んだと解すべきで、聖徳太子は『日本書紀』に、「宮室を斑鳩いかるがに興す。斑鳩宮に薨ず。」とあるので重大な差異がある。この「上宮法皇」は聖徳太子ではない。次に、太子の没年であるが、通説は、この銘文に合わせて六二二年となっている。しかし、その太子が建立したという法隆寺、その本尊の釈迦三尊像の中心人物が聖徳太子であるというのであれば、銘文の没年(622年2月22日)と、国史である『日本書紀』の没年(621年2月5日)が違うことは到底考えられない。つまり、同一人物ではあり得ない。

と。結論として、上宮法皇とは法興年間における当時の日本列島を代表する最高権力者、九州王朝倭(イ妥)国王・多利思北孤その人だった。また、「鬼前太后」は多利思北孤の母親、「干食王后」はイ妥国伝に登場する妻「鶏弥」と考えられる。
 なお『日本書紀』天智九年(670)の条に、「夜半之後、法隆寺に災あり。一屋余す無し」とあり、火災で「何一つ残らず焼けた」、と書かれている。これが近年、若草伽藍跡の発掘と焼けた瓦などにより最初の法隆寺焼失が確認され、また五重塔の心柱の伐採年及び釈迦三尊像の真上の天蓋てんがいに使用していた木材の「年輪年代測定法」の結果 2 、再建ではなく「移築」だったのである。それも九州太宰府にあった寺を移築したとする説が濃厚である。3 そして、この時最初の本尊も焼けたと思われので、現存の釈迦三尊像は初めから法隆寺の本尊としてあったものではなく、移築時に移されたものと考える。ところが、その本尊・釈迦三尊像の光背銘にある三名の没年が、厩戸皇子・穴穂部間人皇后・膳部郎女の没年と近かったこともあり、厩戸皇子いわゆる上宮太子を上宮法皇とする恰好の仏像となったのである。
 翻ひるがえって今ここに、釈迦三尊像の光背銘がわが国古代史の歪みを正し、真実の道へと導いてくれた。
 こうして論証していくと私には、かの釈迦三尊像の慈愛に満ちた微笑みが、約1300年に亘る欺瞞ぎまんの歴史から今まさに解放されたことへの喜びと感じられてならない。


1,前掲『法隆寺の中の九州王朝』より引用。
2,五重塔の心柱の伐採年が594年、また釈迦三尊像の真上の天蓋に使用していた木材が「年輪年代測定法」の結果606年に伐採したものと判明した。
3、観世音寺か ーー米田良三氏説、他の移築説もあり。「法隆寺移築問題」シンポジウム 2004年9月4日 東京全逓会館

 

四、伊予の古代を飾る“珠玉の伝承”

 “珠玉の伝承”とは、聖徳太子道後来湯説の唯一の根拠、即ち『伊予国風土記』逸文に遺されていた
「温湯碑(おんとうひ・湯ノ岡ノ石碑)」建立の地や「伊社邇波いざにはの岡」、また『日本書紀』記載の舒明じょめい天皇の「温湯宮」、斉明さいみょう天皇の「熟田津石湯行宮にぎたついわゆのかりみや」、そして『万葉集』を彩る額田王ぬかたのおおきみの「万葉八番歌」や、山部赤人やまべのあかひとの「飽田津」・「射狭庭いさにはの岡」・「伊予の高嶺たかね」などのことである。
 これらは古より今日に至るまで、その比定地とされた道後温泉や道後平野を飾る珠玉の伝承として、伊予の古代史上に燦然と輝いていた。
 そのようなことになった要因は、『伊予国風土記』収録の「幸干伊豫温湯宮。」の記事にある。
その冒頭にある「湯郡」が、後の温泉郡のことであったがために「温湯碑」建立の地は道後温泉であると見做されることになった。そして、そのほかの「いさにはの岡」・「熟田津石湯行宮」・「伊予の高嶺」望見の地も、同じ温泉郡という土俵内で論じられるようになったのである。
 しかしながら、今まで見てきた通り、聖徳太子は“創られた虚像”だったことがはっきりしたので、そのような人物が来るはずはないし、それに替わる人物が来ていても「風土記」を徹底検証した結果、登場する舞台は違うと考えるに至ったのである。
 そこで、「湯郡」における最初の記事、大己貴命おおなむちのみこと・少彦名命すくなひこなのみことによる「温泉開発説話」は、道後平野の対岸にある大分県国東くにさき半島の「速見の湯」との関連説話と考えると、これは「湯郡」にまつわる伝承であると思われる。
ところが、その次に記載された「天皇等の行幸五度」の記事、そしてその間に挿入された「温湯碑」の碑文については、人物も場所も通説とは違っていた。これら “珠玉の伝承”の比定地は、「万葉八番歌」(比定地は佐賀県諸富町新北)以外“一体”で論証できる地で、そこは越智国が舞台だった。詳細は拙書をご覧戴くとして、概略を以下に論述する。


1,前掲『新説伊予の古代』及び『「越智国の実像」考察の新展開』合田洋一論稿 古田史学論集『古代に真実を求めて』第13集所収 古田史学の会編 2010年4月 明石書店 

 

五、『伊予国風土記』の検証

1,「湯郡」が物語るもの

 それでは、『伊予国風土記』に収録されている「幸干伊豫温湯宮。」の記事を次に掲げる。

 「幸干伊豫温湯宮。」
 「伊豫國風土記曰。湯郡。大穴持命見悔*耻。而宿奈[田比]古那命欲活。而大分速見湯自下樋持度来。(中略)天皇等於湯幸行降座五度也。以大帶日子天皇與大后八坂入姫命二[身區]一度一也。以帶中日子天皇與大后息長帶姫命二[身區]一度一也。以上宮聖徳皇・爲一度也。及侍高麗恵總[イ曾]葛城臣等也。干時立湯岡側碑文記云。
(続いて「温湯碑」が記されている ーー後に碑文を記す)
岡本天皇并皇后二[身區]一度。以後岡本天皇。近江大津宮御宇天皇。浄御原宮御宇天皇三[身區]爲一度。此謂幸行五度也。
     悔*は、悔の異体字。JIS第3水準ユニコードFA3D
     [田比]は、JIS第3水準ユニコード6BD7
     [身區]は、JIS第3水準ユニコード8EC0
     [イ曾]は、人偏に曾。僧の別字。JIS第3水準ユニコードFA31

 そこで、問題の天皇等行幸五度の記事を整理すると次のようになる。

1,大帶日子天皇(景行天皇)・大后八坂入姫命
2,帶中日子天皇(仲哀天皇)・大后息長帶姫命(神功皇后)
3,上宮聖徳皇(聖徳太子)・高麗恵總[イ曾]・葛城臣
4,岡本天皇(舒明天皇)・皇后(宝皇女 ーー後の皇極・斉明天皇)
5,後岡本天皇(斉明天皇)・近江大津宮御宇天皇(中大兄皇子 -- 後の天智天皇)・浄御原宮御宇天皇(大海人皇子 ーー後の天武天皇)
 一番目の、景行天皇来湯の記事は、おそらく「熊襲くまそ征伐」(『日本書紀』記載、『古事記』にはない)の途次道後温泉に立ち寄ったという想定だと思うが、この「熊襲征伐」の真実は、九州王朝の大王であった“景行”の『九州統一譚を盗用したものであり事実ではない。 1 この当時の大和王朝の勢力範囲は、大和国のごく一部と考えている。
 二番目の、神功皇后来湯の記事は、神功皇后とは『日本書紀』により邪馬壹国の女王「卑彌呼」とその跡を継いだ「壹与」の事績を併せて、「倭の女王」として『三国志』「魏志倭人伝」の記事に当てはめ特立した人物であったのである。 2
 三番目の聖徳太子は、既に論述している通り“創られた虚像”であった。
 四番目・五番目の行幸地は、通説と違って越智国であった(後述。この中で大海人皇子については、斉明帝と一緒に来予した形跡は見いだせない)。
 従って、風土記は時の権力である大和朝廷の意向を大きく反映しており、「天皇等五人来湯」の実態は、真実ではなかったのである。そして、第一次史料の「温湯碑」は法興六年(596)の建立、第二次史料の『伊予国風土記』の成立は和銅六年(713)以降であり、その開きは117年以上となる。そこで、郷土資料・遺構・伝承などを徹底検証した結果、「風土記」の記事は道後及び道後平野には当てはまらず、その比定地は越智国の朝倉・西条であつたのである。
 そこで思うに、「幸干伊豫温湯宮。」の記事は、三段構成の説話を一所にまとめたものであった、と。
 即ち、一段目は温泉開発説話。二段目は天皇等五度行幸の記事。三段目は二段目の記事を挟んでの「温湯碑」の話だったのである。私は、それを一段目の温泉開発説話にあとの説話を道後に当てはめる舞台設定をしたと考えた。それ故に「熟田津石湯行宮」・「射狭庭岡」や「伊予ノ高嶺」望見の地までも道後平野や道後温泉になってしまったのである。


1,『盗まれた神話-- 記・紀の秘密』 古田武彦著 1993年 朝日新聞社のち朝日文庫 この書では「前つ君=ニニギノ尊」説であったが、最近の古田氏の見解は、ニニギノ尊ではなく九州王朝景行大王説を唱えている -- 2010年11月6日八王子における古田氏講演会。
2,『「風土記」にいた卑彌呼』「古代は輝いていた I」古田武彦著 1984年 朝日新聞社のち朝日文庫

2,九州年号の実在性 -- 「法興」年号とは

 法興六年は、大和王朝では推古四年(596)にあたる。前述の「釈迦三尊像の光背銘」にも法興三十一年とある。
 この年号は国内の神社・仏閣・史書などから数多発見されている年号の一つで、通説では大和朝廷の年号ではないことから、神社・仏閣・豪族などが勝手に作った「私年号」(「逸年号」とも言う)として処理されていた。ところが、これは「私年号」にあらず、当時、日本列島を代表する九州王朝倭国の制定による「九州年号」だった。言うまでもなく、年号の制定は天子のみに許された特権である。
 「九州年号」は九州王朝の倭王“磐井”が西暦517年に中国の冊封体制から解放され、天子として「継体」年号を制定したのに始まる。この時、大和王朝の天皇代は継体天皇十一年に当たる(天皇諡号は後世の命名)。以来、途切れることなく「大化」七年(701)3月31日まで連綿と続く。その翌日、大和王朝に政権が委譲し、大和年号「大宝」元年となるのである。なお、この後も九州王朝の残党が薩摩・大隅国で抵抗し「大長」年号を712年まで建てていた(世に言う「隼人の乱」)。そして、その中の一つに「法興」(591・兄弟年号・天皇代祟峻四年)がある。

3,法王大王の正体

 「法王大王」の通説は聖徳太子とされている。しかし、法王(法皇)は天子が僧籍に入って法王となるのであって、聖徳太子こと厩戸皇子は終生皇太子である。また、時の大和王朝の大王は女性の推古であり、「この時聖徳太子は23才、とても法王大王と呼ばれる年齢ではない」(古田氏)のである。
 このことからも、「温湯碑」の主人公「法王大王」は、『隋書』イ妥国伝に記された九州王朝の“日出ずる処の天子”阿毎多利思北孤であり、釈迦三尊像の上宮法皇その人だったのである。

4,恵總法師

 聖徳太子の随行者とされた「恵總法師」について述べると、『釈日本紀』に収録されている「温湯碑」の原文は「恵總」であるが、『愛媛県史』や他の郷土史は一様に「恵慈」としている。何故なのか。
 それは、『日本書記』の崇峻紀に百済くだらの僧「恵聰えそう」、推古二年の条に高麗こまの僧「恵慈えじ」とあって、ほぼ同時期に2人の僧がわが国にやって来た。ところで、厩戸皇子の師となったのが「恵慈」である。一方の「恵聰」と厩戸皇子との関係は『日本書紀』に於いては認められない。『伊予国風土記』の前半部分の編者のコメントは「高麗の恵總僧」となっている。
 ところが、「大和朝廷一元史観」でみている人達は、「法王大王」を聖徳太子にするためには「恵總」ではダメで、厩戸皇子の師「恵慈」でなければならなかったのである。それ故に「恵總」を「恵慈」に、「原文改訂」をせざるを得なかった。これにより、法王大王を聖徳太子にしてしまったのである。

5,葛城臣

 次いで、同じく聖徳太子来湯の随行者とされた「葛城臣」の通説は、『日本書紀』崇崚即位前紀に出現する「葛城臣鳥那羅かつらぎのおみうなら」である。蘇我馬子と物部守屋との戦争、所謂「崇仏戦争」で馬子側の将として参戦している。また、崇崚四年条に「大将軍葛城鳥奈良臣」が2万余りの軍勢を率いて新羅しらぎ攻めのため筑紫に派遣された記事が出ている。この大将軍が太子の湯治のために、供として来湯したという。しかしながら、この人物がこの頃存命していたとしても、かなりの老齢であり、遠国の伊予まで供をしたとは到底考えられない。随行者は同姓の別人である。

6、「温湯碑」が示すものは湯ではなく水である

次に「温湯碑」全文の読み下し文 1 を掲げる。
法興ほうこう六年十月。歳ほし丙辰に在やどる、我法王大王と恵慈えじの法師及また葛城の臣と、夷與いよの村に逍遙いでまし、正まさ神の井を観、世の妙験を歎かひたまふ。意こころのうちを叙べまく欲り、聊いささかに碑文一首を作る。惟おもひふれば夫れ日月上うえに照りて私わたくしせず。神井したに出でて給かずといふことなし。万機所以ゆえに妙くはしく応(あたり、百姓所以に潜とほく扇あおぐ。若もしすなはち照給せうきふに偏私へんし無し。何ぞ寿国に異ならむ。華台に随ひて開け合ひ。神井に沐ゆるみて疹やまひを癒いやす。[言巨なに]ぞ花池に落ちて化羽くわうすることに升たがはむ。窺うかがひて山岳の[山嚴][山咢]やまざしを望み。反まさに平子 2 が能く往きしことを冀ねがふ。椿樹相[广/陰]つばきあひおほひて穹窿まがる。実まことに五百いほつ盖きぬがさを張れるかと想おもふ。臨朝あさされば鳥啼きて戯たはふれ吐さへづる。何ぞ乱さわく音こえの耳に聒かこしきことを暁さとらむ。丹花葉を巻きて映え照らひ、王菓葩はなびらに彌ちてに垂る。其の下に経過よきれば、優に遊ぶべし。豈し洪灌霄庭意こころを悟らむか。才さいつたなくして、実に七歩に慚づ。後の君子、幸ねがはくは蚩咲あざわらふことなからむことを(~の原文は惠總、太字筆者、インターネット上は赤色表示)。
     [言巨なに]は、言編に巨。JIS第3水準ユニコード8A4E
     [山嚴][山咢]やまざしの[山嚴]は、山編に嚴。JIS第4水準ユニコード5DD7、[山咢]は、山編に咢。
     椿樹相[广/陰]つばきあひおほの[广/陰おほ]は、广の下に陰。

 ここで注目すべきは、「温湯碑」には“神井”が三ヶ所“井”が一ヵ所記されている。3
 神井は「しんせい」と読み、“不思議な井戸”の意(『諸橋大漢和辞典』)。中国での用法は、温泉の場合もあるというが、日本では神道での用法として井戸を指すようである。4
 ところで、「温湯碑」と言われているのに、この碑文には「温泉」または「湯」の文字がない。よく見ると、ここで称えたかったことは、温泉ではなく“不思議な井戸”を愛でることにあったのである。
 ところが、その「神井」と思われる泉が西条の氷見にあった。それは「芝井の泉(芝井加持水)」である。5 石碑には「天の井」「加持水」と彫られており、また案内板には「長寿水」とも書かれていた。「天の井」は天多利思北孤を思わせる。「加持水」とは加持祈祷の水であり、正に“病気も沐む水”となるであろう。この泉は彼の弘法大師も愛でたとの伝承があるとのこと。このような「神井」は、遺跡としても伝承としても道後温泉にはない。この有無だけでも道後温泉には比定できないのである。


1,読み下し文は『愛媛県史 資料編 文学』より。
2、底本の「子平」は「平子」の誤りとする小島憲之氏の説による。
3、古田史学の会四国・今井久氏よりご教唆を得た。
4,古田史学の会四国・山田裕氏よりご教唆を得た。
5,西条史談会の前会長三木秋男氏のご案内による。

 

六,「温湯碑」建立地と「湯ノ岡」の考察

 「芝井の泉」が「温湯碑」の“神井”であるならば、この近くにかつて温泉が出ていなければならないであろう。そして、その側らに「温湯碑」の建立地“湯ノ岡”があるはずである。この氷見地区は岡だらけの地形であり、詳細は省くが、中でも芝井の泉の隣りにある “高尾神社の岡”が「温湯碑」の建立地だった可能性が極めて高いと考えている。
 ところで、この辺りは、岡村断層があることから温泉が出ても不思議はない、と複数の地質学の専門家は言っている。また、六七八年・西日本を襲った大地震でこの辺りの温泉が壊滅したとも言う(『朝倉村誌』他)。  
 確かにこのことを裏付ける地名に、芝井の泉から三キロメートルほど山に入った所に「湯久保」・「湯山城」があり、氷見の隣り西田地区には「石湯山」があった。しかしながら、肝心の「芝井の泉」からは少し離れており、この泉のある氷見地区からは古代における温泉湧出の痕跡がまだ見つかっていない。これが判れば、「いさにはの岡」に比定しうる橘島の石岡神社、芝井の泉の「神井」、そして「温湯碑の建立地」と、側らの「湯ノ岡」という四ヶ所が近接している構図となり、確かな論証となり得るのである。
 この他に、「温湯碑」建立の比定地を探る別の論点を次に記す。
 その一、『源氏物語河海抄』所収の『温泉記』 1 、に「予州温泉」が登場する。そこには、「予州温泉は海を辞すること二、三里」とある。ところで、奈良時代の「里」は一説として一里・545メートルであり、「二、三里」ならば1~2キロメートル程である。因みに松山市考古館によると、道後平野の弥生時代の海岸線は現在とほぼ同じと言っている。そうなると、古代の海岸線から見て、「温湯碑」や「熟田津石湯行宮」が建立された地は、海岸から遠く離れた道後温泉では無理がある。また、これにより道後平野にあったという全ての熟田津説は論外となる。
 ところが、西条市氷見・西田地区ならば正に適合している。その故は、かつて温泉があったと考えられる岡村断層付近は、古代の海岸線から近い所で1~2キロメートルであり、この辺りに現在「湯の谷温泉・猪狩温泉・石鎚温泉」などがあることからもそれは充分窺えるのである。

 その二、最近判ったことであるが、旧・壬生川町明理川にゅうがわちょうあかりがわの字地名に「紫宸殿ししんでん」があった(初見は明治22年の「地積登記台帳」にあり、縦340メートル、横220メートル、面積は74800平方メートルの長方形)。2 紫宸殿とは中国唐朝に始まる天子の御殿のことであり、わが国で現在までに同じ地名遺存が確認されている所は、太宰府(九州王朝の首都)と平安京のみである。このような畏れ多い地名が存在することからみて、ここは由緒ある特別な地と言わざるを得ない。言うまでもなく、このような地名は地元の人が勝手に付けられるものではない。そこで、地名があるということは、ここに紫宸殿が在ったということになるであろう。これは『日本書紀』天武一二年(683)に出現する「副都の詔」(都を二・三ヵ所造れ)に起因している可能性がある。3 そうなると誰のための宮殿か、いつ建てられたのか。という大きな課題が充ち満ちて来た。
 何分にもこの越智国には、舒明じょめい天皇や斉明さいみょう天皇(九州王朝の天子であった可能性大、越智天皇・朝倉天皇ともいわれた)の行幸・行宮伝承が数多あり、また「伝・斉明天皇陵」(今治市朝倉字斉明)もあることから、この地が一時期日本列島の副都(首都?)だった可能性が急浮上して来た。それにしても、大変なテーマに遭遇し、ロマン溢れる驚愕の大発見となった。

注 
1,『源氏物語』の注釈書である『源氏物語河海抄』(四辻善成著、室町時代初期成立)所収の『温泉記』は著者・成立年代不明、山本信哉博士は古代の書と断定している。
2、地名の発見は今井久氏・眞鍋達夫氏・玉井三山氏による。
3,正木裕氏説として、この記事は34年ずれているので、事実は683年マイナス34年で649年のこととなる。

 

む す び

 『伊予国風土記』の「温湯碑」に刻まれた“法王大王”が、風土記編者の思惑により聖徳太子とされたことから、「聖徳太子道後来湯説」が生まれた。
 しかしながら、「温湯碑」に刻まれていたのは、誇り高く、崇高で徳のある天子、日出ずる処の天子、中国の王朝「隋」と対等に渡り合った天子、日本列島を代表する時の最高権力者、九州王朝倭国王・上宮法王・阿毎多利思北孤 ーーという素晴らしい人物が、「湯治」と支配圏の「巡察」のためであろうか遠く伊予の越智国(瀬戸内海航路の中心地。領国からは島嶼部で塩の生産、地下資源として銅・鉄・硫黄・マンガン・朱・丹・などが産出され<『朝倉村誌』>、国力は伊予国一)に来遊していたのである。
 「大和朝廷一元史観」に立脚して古代史を観る限り、わが国古代史の謎は解けないと考える。矛盾だらけのまま辻褄合わせをしても、綻ほころびがあちこちに出るが、「多元史観」の「古田史学」で「九州王朝」の存在を認めると、曖昧模糊の靄もやが晴れてくるのである。古代史学者や作家の通説論者は、『隋書』イ妥国伝を「大和朝廷一元史観」で読み解くことによって、その地が大和になり、多利思北孤が聖徳太子や蘇我馬子になってしまうのである。そして、自分の都合のいいように原文を「改定」したり、推理・想像で論述することにより、いたずらに混乱に拍車をかけている。史料は忠実に扱われなければならない。特に中国の史書は、他国のことを記すのに「うそ」を書く必要はないわけであるから、わが国の「勝者(大和朝廷)の歴史書」よりむしろ事実を有りのままに伝えていると考える。
 九州王朝倭国王・多利思北孤を歴史上抹殺し、その事績を厩戸皇子に“換骨奪胎”して、「九州年号」の「聖徳」(692年)を“聖号”として冠し、聖徳太子としてデッチ挙げたのである。
 「完全抹殺を計ったと思っていたら、さにあらず『隋書』に“証拠”が遺っていた。」ということであろうか。この『隋書』の存在が、九州王朝をより“真実リアル”なものとし、矛盾の屋上屋を重ねてきたわが国の古代史を真実の道に導きだしてくれた。正に聖徳太子は“創られた虚像”だった。「世の常“勝者の論理”により、敗者は抹殺されていた」のである。
 それにしても、“時のうつろい”に亡びぬ真実こそが、万世最大のロマンなのではないだろうか。


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