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 本講演は『古代史の十字路 ーー万葉批判』『壬申大乱』(リンクは見出しのみ)の解説です。
(後に出版された書籍に沿って、電子書籍の歌などを改訂しています。)


古田武彦講演 2000年1月22日 大阪市北市民教養ルーム

壬申の乱の大道

古田武彦

一 初めに

 古田でございます。新年には少し経っておりますが、今日は曇りといわれ雪がちらつくと言われました。それが意外に暖かく晴れた天気になり、皆様とお会いできて講演が出来ることを幸せに思っております。この前お話しさせて頂いたのは十一月二十日です。「歴史学の生と死」という講演ですが、二カ月しか経っておりません。普通なら無理な時間の間隔なのですが、今回は逆でして、その後非常に大きな問題が続々進展して、本当ならこの四時という時間内では無理な内容を含んでおります。限られた時間の中でキーポイントだけでも、お話しさせて頂きたい。特に今回は主要な眼目である壬申の乱について報告させていただきます。
 実は壬申の乱につきましては、私の永年の懸案であった。永年の懸案というのは、私はこれに触れずに私の内面で永年の懸案にしてきた問題を、私の立場でどのように明らかに出来るに至ったかを、お話ししたいと思います。それで前段階の史料批判があったわけでございます。そこからお話ししませんと、いきなり壬申の乱について、お話ししても、とてもご理解いただけないだろうと思いますので、まず前段階からお話ししたいと思います。
 ところが詳しくお話しすると、それだけで四時になります。それが幸いにも新年早々博多の講演会では短時間でお話ししても良く分からない。それを心配しまして壬申の乱にたどり着く経緯を書かして頂いた。博多の時は二枚ぐらいの資料を手書きで作ったのです。
 それを今回水野さんが読みやすくワープロで打たれた。それをお付けします。これを今見なくとも良いので、私の話はキーポイントだけお話しますので、それを後で振り返って、あの時話したのはこういうことだったのか。いわばノート代わりに、私の言いたい主旨を、結論をまとめたものでございます。それでじっくりとお聞き頂ければ幸いです。


 二 郡評論争と北魏

 私にとっては昨年の八月から九月、大きな研究上の進展を見て参りました。その最たる問題が郡評論争。ちょうど私が昭和46年『「邪馬台国」はなかった』を出す三年前に郡評論争は終結しました。なぜ終結したかというと奈良県藤原宮や静岡県浜松市の伊場の木簡が出てきて、その木簡において井上光貞さん側が言っていた通り七世紀末まで「評」で、八世紀初めから「郡」という姿を示していた。
 それで『日本書紀』はおかしい。大化改新以来「郡司」「郡」等の言葉が出てくるがあれはおかしいのではないか。少なくとも七世紀末までは「評」という行政制度の時代だった。それが若き日の井上光貞さんの問題提起だった。
 それに対して井上光貞さんの恩師であり東大の主任教授であった坂本太郎さんは、これには反対である。やはり正史である『日本書紀』に「郡」と書いてある。それは「郡」と見るべきが基本である。金石文でも系図などその他の史料でもちらちら「評」が出てきているが、これはやはり例外であって基本は『日本書紀』が書いたとおり「郡」でなければならない。そういう論陣が張られ、その結果日本の学界にしては珍しく意見が二分して、二大対立に陥って十数年論争が行われた。
 その結果結論が今言いましたとおり、木簡により井上光貞さん側が正しい。七世紀後半の「評」が正しい歴史事実としての行政制度である。そこで現在の学界では「郡評」論争は一応決着した。言い換えれば大学の授業で教えていることは一応解決している。しかし私はこれは決着していないと思う。坂本太郎さんもそう思ったらしい。
 坂本太郎さんが書かれた事に、「確かに結論としては(お弟子さんでしたから)井上君の言う通りだったということは、認めざるを得ない。しかし私はなお不審である。『日本書紀』が、事実に反して「郡」と書き直していたのか、私には疑問が残る。」と。
 坂本太郎さんは非常に率直な方ですから、その感想は問題提起として正しい。しかし「負け犬の遠吠え」というと、ひどすぎますが学界はあまり相手にしてくれなかった。しかし私はこの言葉は非常に重要であると思った。
 さて以上のことは皆さんご存知のとおりですが、それに対して去年の八・九月私としては答えが出た。結論から言いますと、「郡」というのは唐を含む北朝側の行政制度である。それに対し「評」というのは、ご存じ評督というのが長官である。さらに関東や九州までの各地に評督が居た。その統括者は都督である。何処に居たかというと、九州の太宰府、いわゆる都府楼跡に居た。太宰府を「太府」と中世文書で言うように、都督府を「都府」と略す。都府楼というのは都督府の建物を指す言葉である。だから都督府はそこにしかない。近江都督府や飛鳥都督府というのはない。記録にも伝承にもない。難波都督府もない。ところが筑紫都督府は『日本書紀』天智紀にも出てくるし、現地の伝承でも明らかに残っている。ここに都督府があるという事は、すなわち都督が居たという事である。日本ではたった一人しか倭王はいない。代々の倭の五王のように一人のみ代々で五人、同じ倭王。その同じ倭王でしか都督ではあり得なかった。すなわち倭王は九州の太宰府に居た。当たり前の論理だと考えますが。そのことを書いたり発言しても、日本の学界は知らない顔をしている。知らない顔をするのもつらいと思うのですが。評督の上に立つのが都督である。その都督というのは、南朝劉宋の歴史書に出てくる。ということは南朝から任命された都督である。唐は北朝。その唐が倭国に大勝して、唐の進駐軍が筑紫に来たことは再三『日本書紀』に出てくる。もちろん北朝の完勝は、中国本土では、五八九年にすでに北朝は南朝に完勝している。その南朝の一の家来である倭国が、南朝が滅びてから「日出ずる処の天子」を称し始めた。その天子が白村江で唐と戦って完敗して滅ぼされるに至った。
 ですから北朝から見れば、この「日出ずる処の天子」は、偽りの天子である。同様に天子だけではなくて、その前に南朝から任命された都督も偽りの都督である。その筑紫に残った都督府は、偽りの都督府である。その都督に任命された評督も偽りの評督である。関東から九州まで居る評督も偽りの評督である。ちらちら痕跡が残っているけれども、実は偽りの評督が残ったに過ぎない。その評督の下の行政単位が「評」ですから、その評督の下の「評」という制度も偽りの「評」制である。
 これが八世紀初め七二〇年『日本書紀』が作られた時点の大義名分論である。だから『日本書紀』は「評」という制度を一切消してしまった。初めから「郡」であるという顔をした。初めからというと何時(いつ)であるか。『日本書紀』の神功紀。その『日本書紀』の神功紀に、「魏志に曰く。」という形で『三国志』の倭国の女王という形で三回引用されているのは、ご存じの通りだ。その二回目に「郡から洛陽に詣でる。」とある。これは非常に重要な言葉だった。

『日本書紀』上 神功紀(岩波古典大系に準拠)
 三十九年。是年。太歳己未。魏志に云はく。明帝の景初三年の六月、倭の女王、太夫難斗米を遣して、郡(こおり)に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝獻す。太守登*夏、吏を遣して、将て送りて、京都(けいと)に詣らしむ。
 ・・・
 四十年。魏志に云はく。正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて倭國に詣らしむ。
 四十三年。魏志に云はく。正始の四年、倭王、復(また)使太夫伊聲者掖耶訳等を遣して上獻す。
 ・・・
 ・・・
 六十六年。是年。晋の武帝の泰初二年なり。晋の起居の注に云はく。武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、譯を重ねて貢せしむといふ。

      登*は、登に阜偏。JIS第3水準ユニコード9127

 これはさほど郡評論争でも議論にならなかったようだが、そこが重要である。なぜなら中国の正当な制度は「郡」であることを、すでに『日本書紀』神功紀で宣言した。だから『日本書紀』はその系列の「郡」しか書かない。逆賊南朝で使われた偽りの行政制度である「評」は一切書くことはしない。
 それで『日本書紀』の全体像が説明可能なわけです。
 考えてみれば分かるのですが七二〇年『日本書紀』が出来たとき、二十五歳の青年は出生届というか、身分は「評」の中で表していた。四十歳の人は二十年間は「評」の中で生活している。「評」という制度があるとはあるとは思いませんでした。そんなことは絶対あり得ない。書く方も読む方も「評」であったことは百も承知。しかし一切(いっさい)「郡」と書いてある。これは「評」と書いてはいけないのだ。『日本書紀』を読んだ方はそう受け取った。それは「評」が南朝系の偽りの「評」だからである。言ってみれば当たり前の話である。ここ迄来て、私にとっての郡評論争がやっと終結しました。
 さらにこの問題は大きな問題に進展しました。『日本書紀』が神功紀を編年の年代合わせの原点にされていることで有名である。中国の『魏志』が三回引用されている。ところが先ほど言いました問題とは別に、さらに(西)晋の武帝の泰始二年四月の記事が特記され、しかも二回も出てきています。これは一体なんだろう。
 九十九年九月に講演会後、皆さんとお別れして、その事が頭に残り、その事ばかり考えていた。これも、もしかすれば北朝系の唐へのはばかりではないか。その関係で、ここも書かれているのではないか。そういう疑問を持った。
 まず三世紀の魏が四世紀の北朝系の一番目の王朝である(北)魏に、つながっていることは当然である。三世紀の魏が滅亡して百二十年目に、道武帝が天子を称して魏を名乗り(北)魏が成立した。百二十年といえば、現在から明治の半ば迄の年代である。三世紀に魏があることを知らないで、うっかりミスで同じ国名を名乗りました。そういうことはあり得ない。当然三世紀の魏を受け継ぐのは、われわれ(北)魏である。(北)魏というのは我々が言っている言葉ですが、当時は魏である。逆に言うと(北)魏にとっては、当然洛陽から逃れた(西)晋の一派が健康に建てた(東)晋の王朝は、偽りの王朝である。そういう立場に立っていたと考えられる。

北『魏書』抜粋
 六月丙午詔有司議定國号。羣曰..「昔周秦以前, 世居所生之土, ・・・宣仍先号、以為魏焉。布告天下, 威知朕意。」

 北朝の元祖である北魏の最初の天子である道武帝という人が、天子を称して即位した二年後の詔勅にその事を言っている。「宣仍先号、以為魏焉」と書いてあり、(北)魏は(曹)魏を受け継いで国号とする。博多でそう考えたのですが、帰って(北)『魏書』を見ればその通りだった。
 それだけではありません。(北)『魏書』を見ますと文帝という人物が居る。この人物は天子にならなかったのですが、(北)『魏書』では天子扱いにして、その人物を中心にして、三世紀の魏とこれを受け継いだ西晋の武帝との交流が大変詳しく書かれている。つまり魏と西晋の武帝と深く交流を持っていたのは我が鮮卑族である。我が始祖の頃である。そういうことを強調している。もう一度言いますと(北)『魏書』で強調していることは、わが(北)魏は三世紀の魏と同じく西晋の武帝とは深い関わりを持っていた。そのことを特筆大書している。その(北)魏が特筆大書した三世紀の魏と西晋の武帝を、同じく『日本書紀』の神功紀で特筆大書した。いづれも無理な特筆対処の方法で、魏の三回は、倭国の女王として卑弥呼(ひみか)。さらに西晋のところは泰始二年が特記され、倭国の女王として壱与(いちよ)をあげて(西)晋の武帝を特に強調しています。。
 (これは事実は「泰初二年」です。忌避して字を「泰始二」年と変えたものと考えます。)
 もちろん前後関係は明確である。(北)『魏書』が出来たのは、六世紀北斉(西暦五百五〜五百七十二)の時。『日本書紀』が出来たのは八世紀七百十二年。(北)『魏書』の方が『日本書紀』よりずっと早く出来ている。両者が共通したテーマを持っている。つまり三世紀の西晋の武帝を特筆大書している。つまり(北)『魏書』が『日本書紀』に影響する可能性はあっても、逆の可能性はない。『日本書紀』が(北)『魏書』を真似している。卑弥呼(ひみか)・壱与(いちよ)の二人の女王を一人の神功皇后に結びつけるというそんな無茶をやってまで関係を強調している。二人が一人になっていると言うことは、読む方は倭国の女王と書いてあるからは、神功皇后一人と読める形になっている。また八世紀の読者というのは、『三国志』『晋書』などを読んでいる読者はほとんど居ない。現代ではもう倭人伝はだれも岩波文庫は簡単に買える。しかし八世紀という時代はそんな時代ではない。今でも北朝側の『魏書』になるとそう簡単に手に入らない。中華書局など中国書店に行けばある。八世紀はそういう時代ではない。つまり読者を見くびっている。読者はそんなことは分からない。みくびって『日本書紀』の編者は、倭国の女王という言葉で二人の人をひとりにして、神功皇后一人に結びつけている。私にとって我慢が成らないのは二人が一人でないことは『日本書紀』を編集した人はよく分かっている。二人が一人でないことは、現在でも八世紀でも一緒である。それを知って嘘の歴史書を作るという誠にやりきれない思いがした。しかしそんな事は別にして『日本書紀』が、(北)『魏書』に従って書かれている。そのことを一回発見したらプロの学者が総掛かりになっても否定することは無理である。つまり北朝側への大義名分、現時点では唐です。その北朝側へのオベンチャラというか、我々も北朝側と深く関係を持ってきました。そんな嘘のピーアールを行うために、『日本書紀』の根本の編年が行われている。残念ながらと言って良いと想うが、言わざるを得なかった。
 中国の史書を問題にしなくとも良い。我々は『古事記』『日本書紀』を元にすればよい。そういうことを書いている学者がいるが、とんでもない。

 

 三 『万葉集』中皇命に奉る歌1 やすみしし 我が大君の 朝には

 次にこれこそ日本の古典と皆さん思っておりますが、その『万葉集』が九州王朝という概念無しで理解できないことが続々分かってきた。

  『万葉集』巻一 三番(岩波古典文学大系に準拠)

 天皇、宇智の野に、遊獵(みかり)したまふ時、中皇命(なかつすめらみこと)の間人連(はしひとむらじ)老をして獻(たてまつ)らしめたまふ歌

やすみしし,わごおほきみの,あしたには,とりなでたまひ,ゆふべには,いよりたたしし,みとらしの,あづさのゆみの,かなはずの,おとすなり,あさがりに,いまたたすらし,ゆふがりに,いまたたすらし,みとらしの,あづさのゆみの,かなはずの,おとすなり

たまきはる,うちのおほのに,うまなめて,あさふますらむ,そのくさふかの

(読み下し文)
やすみしし わご大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕(ゆうべ)には い倚り立たしし 御執らしの 梓の弓の 金弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし 御執らしの 梓の弓の 金弭の音すなり
  反歌
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野

(原文)
天皇遊猟*内野之時中皇命使間人連老獻
八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立 之 御執乃 梓弓之 加奈弭乃 音為奈利 朝猟*尓 今立須良思 暮猟*尓* 今他田渚良之 御執<能> <梓>弓之 加奈弭乃 音爲奈里
反歌
玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野


校異
※加奈(吉永登氏 説)->奈加
 梓能->能梓 [元]
 尅(塙)(楓)剋
猟*は、獣偏に葛。JIS第3水準ユニコード7366
尓*は、尓の別字。やね編に小。JIS第3水準ユニコード5C12


 皆さんご存じの三番目の歌です。斉藤茂吉がこの歌を『万葉集』最高の秀歌であると評価した歌です。ところがこの歌には問題が多い。まず三つばかり問題点を挙げますと、一番目はまえおきの「中皇命なかつすめらみこと」が何者か分からない。間人(はしひと)の后や斉明天皇であるとか、色々な説が出ているけれども決め手がない。推定するだけ。しかも誰に当たるかが分からないだけでなく、中皇命の役割が分からない。中皇命(なかつすめらみこと)が間人連(はしひと むらじ)に歌を献上させるためだけに登場する感じだ。天皇というのは舒明天皇。彼が狩りを行った。『万葉集』の他の歌には歌を献上させるだけに登場する人物は他では登場しない。これもおかしい。
 それで実は前置きばかりではなく、歌の内容にも不思議なことがある。
 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし

 「我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 朝大君は弓矢を撫でている」、これは良いと考えます。大君は狩が好きで朝に弓矢が好きだから撫でる。これは男のタイプとしては非常に分かり易い。ところが「夕には い寄り立たしし」という言葉、この言葉は『万葉集』の中では女性の表現なのです。女性が、男の人や男の人の持っているものに寄りそう。そういう女性の表現にしか出てこない表現です。ところがこの人物は、朝は男性的な行動をし夜は女性的な行動をする。両性兼備の人物である。このようになる。このような両性兼備の人物は『万葉集』では、他では出てこない。今までの専門家が変だと言ったことがないのがおかしい。仙覚、契沖、真淵や最近の学者である澤潟久孝さん当たりまで異論がない。異論が出ないということが私にはおかしい。
 それから実証的にもう一つおかしいのは、「梓の弓の 金弭の 音すなり」の「金弭」が二回出てくる。これは原文に全くない。まさかと思われるが、旧岩波古典大系の注を見て頂くと米印がついています。下を御覧になると「金弭」は吉永登氏説と書いてあり、ここで原文は「奈加弭 中弭」と成っています。『万葉集』は写本が多く、しかも良い写本に恵まれている。平安末期の元暦校本、鎌倉末期の西本願寺本等、写本に恵まれています。我々研究者は非常に恵まれている。ところがどの写本を取っても「金弭」という言葉はない。全写本、早い時期の写本もあるが「金弭」はない。全部「中弭」なのです。ところが「中弭」では困る。なぜ困るかと言えば、ご存知だと思いますが弓の上と下の端を「弭(ハズ)」という。だから端弭(ハシハズ)なら良いけれども「中弭」では意味不明である。ですから仙覚や真淵等いろいろ考えてきたけれども、とにかく私から見るとうまく説明出来ていない。
 それで私から見ると抜本的に説明したのが現在の万葉学者である吉永登氏である。これは要するに全写本間違っていた。「金弭(カナハズ)」の間違いだと、「ナ」と「カ」を、ひっくり返した。それで解決。「金弭カナハズ」なら金属だから、金属製の部品が上と下の端についている。それで一挙解決。それで旧岩波古典大系で採用された。しかし私はこれは無茶であると思う。何故かというと写本群に恵まれている『万葉集』、どの写本を取っても「加奈弭 金弭」と書いた写本はない。みんな「奈加弭 中弭」である。全写本とぼけた奴ばかりで間違えたのだ。私が正しい解釈を教えてあげる。ひっくり返せ。原文改訂の最たるものです。
 私はこれには反対である。当たり前ですが全写本の事実を尊重すべきであり、これが万葉解読の最初でもあり最後の決着点でもある。
その考えから見ますと「中皇命なかつすめらみこと」は私が見たところ、どう見ても天子である。「皇」は皇帝の「皇」である。第一権力者、天子を意味する。「命 みこと」は大国主命等亡くなった人には使いますが、生きている人に「命みこと」と使うのは最高の倭語である。「皇命」と揃えば最高の権力者、最高の天子の呼び名としか私には見えない。
そうすると「中 なか」は何か。これは地名である。額田(ぬかた)王が額田出身と同じように、本人の生まれた所の地名を取って呼ぶことは珍しくない。すると「中 なか」はどこか。博多に那珂(なか)川があり、有名な中州があり、那珂(なか)郡那珂(なか)村もある。博多のど真ん中から北にかけて「中」という地名があることは疑い得ない。
 そこの出身であるから「中皇命なかつすめらみこと」である。弓矢も、彼は弓矢が好きらしいですが「中」で作られた弓矢。当時の先進地帯である「那珂 中 なか」で作られた弓矢ではないか。つまり今の博多ラーメン等のように地名を付けて「奈加弭 中弭」と呼びます。そうすると専門家が悩んでいたことが一挙に解決する。
 それだけではありません。次の読み方が違うのではないか。本当はこの解釈への疑問から入った。
 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし
 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之

 初めの「朝には 朝庭 あしたには」は解釈が違うのではないか。 わたしの理解では「朝庭ちょうてい」である。わたしは『人麻呂の運命』(原書房)の「ありかよう、とおの・・」でという歌で、論じましたように、大王が居るところを朝庭(ちょうてい)とは言わない。天子が居るところを朝庭という。天子のいるという特別な場所のことを朝庭(ちょうてい)という。その特別な場所を単なる表音で使うとは考えない。使ったから仕方がないと言う声もあるが「には」には色々ある。「には 尓破」等を使って書けばよいし他にもいろいろある。それをわざわざ古代において、うっかり大それた「朝庭」という字を使いました。私のミスです。そういうことは許されない。「朝庭ちょうてい」という字を使っている以上、天子の居るところを指している。こう見なければならない。
 するとこれを私は「朝庭 みかど には」と読むと考えます。「朝」一字を、「みかど」と読んでいる例もある。「帝 朝庭 みかど」とは当然天子のことである。
 次に「夕庭」という言葉が出てきていますが、私はこれを「夕庭 后(きさき)には」と読むことを提案する。これは奥さんと考えるわたしの新案特許です。
 「朝庭(みかど)には 帝には」は男の方である。
 これに対して「夕庭 后(きさき)には」、后のことを洒落(しゃれ)て、そう表現をした。
 そうすると旦那の帝の方は、弓好きの天子で
 「朝(みかど)には 取り撫でたまひ」
 帝は(弓矢が大好きで)立てて撫でて喜んでいる。
すると
 「夕(きさき)には い寄り立たしし」
 后はそういうりりしい帝(旦那さん)に寄り添っておられる
 夫婦相和して、男は男らしく、女は女らしく、朝にも夕べにも、仲むつまじく居られる。そういうオベンチャラ。そういうオベンチャラの歌を作ったのは間人連(はしひとのむらじ)
 この歌を作らせたのは中皇命(なかつすめらみこと)。この歌の主人公も中皇命。
 「やすみしし 我が大君の 朝には」と言ったのは、「我が大王の仕え奉る帝(みかど)には」という意味です。「我が大王」と言ったのは舒明天皇。舒明天皇は大和から来た一の家来。どこへ来た。もちろん太宰府です。「紫宸殿」という字(あざ)地名があり、「大(内)裏跡」という字地名があり、太宰府跡に立って真正面に見える低い丘が「大(内)裏丘」という字地名もある。「朱雀門」もある。繰り返し言ってもプロの学者がみんな嫌な顔をしてソッポを向いている。いくらソッポを向いていても事実は変えられない。そこに紫宸殿があった。そこに居たのが倭国・九州王朝の天子、中皇命(なかつすめらみこと)である。そこへ大和から舒明天皇が間人連を連れて来た。この歌は舒明天皇のことを歌ったのではなくて、中皇命のことを歌っている。我が舒明天皇のお仕えする中皇命は夫婦合和して仲睦まじくおられる。そういう歌と理解できる。

たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野

 そうしますと地名関係も非常によく分かる。なぜなら岩波古典大系では「宇智」を当ているが原文はそうではありません。「内乃」とある。ところが太宰府の東側の山一つ越したところに「内野うちの」がある。JR筑豊本線「筑前内野」駅が現在でもある。その近くに「大野」もある。太宰府の側の大野城の「大野」も有名ですが、それ以外に大野城の山一つ越えたところに「大野」がある。その間に「馬敷ましき」がある。「馬敷」をバックにしていると想う。「内野大野に馬並めて・・・」は全部揃っている。奈良県には「宇智うち」という所だけあった。それに大きな野と見れば「内野」と言えるだろうと万葉の専門家は解釈していた。ところが九州太宰府と考えると、「内野」「大野」「馬敷ましき」そして「那珂なか」と全部地名が並んでいる。これだけ揃っていて、わたしが屁理屈で会わせられるはずはない。実体がここで作られたからである。そう考えるのが筋ではないか。奈良県で作ったと考えると、中皇命を女性の名俳優にして、両性具備の人物を演じなければ成らない。また「中弭」をひっくり返して「金弭」と原文改訂を行わなければならない。そして中皇命は歌だけ献上させる役という変な出方。『万葉集』の他の例にないような変な役割を割り当てなければならなかった。そのようなことが全部一掃されるのが、わたしの理解でございます。
(この歌の理解は『古代史の十字路ー万葉批判ー』(東洋書林をご覧ください。)


 四 『万葉集』中皇命の作った歌2 我が欲りし 野島は見せつ  玉ぞ拾はぬ

 以上述べたことに対し、古田の言うことは理屈はその通りだが、ちょっと付いていけない。そういう意見もあると思う。とくに頭の中に深く入った知識からは付いていけない。頭の良い方は特にそうであると思う。頭の中に今までの知識が深く入っています。ところが先ほどの論証を確定的に示しますのが、この歌群の論証です。「中皇命、紀温泉に往いでまししし時の御歌」とあり、もう一回「中皇命」が出てきて、中皇命自身が作ったような歌のような形で出てくる。

『万葉集』巻一の九・十・十一・十二、番目の歌
(読み下し文)
中皇命(なかつすめらみこと)、紀の温泉(ゆ)に往(いでま)しし時の御歌
きみがよも,わがよもしるや,いはしろの,をかのくさねを,いざむすびてな
わがせこは,はりほつくらす,かやなくは,こまつがしたの,かやをからさね
わがほりし,のしまはみせつ,そこふかき,あごねのうらの,たまぞひりはぬ

( 九番)君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな
(一〇番)我が背子は仮廬作らす草なくば小松が下の草を刈らさね
(十一番)我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ
或は頭に云く
(十二番)我が欲りし子島は見しを(底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ)

右 山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむが)ふるに曰はく、 天皇の御製歌云々

(原文 東本願寺本準拠)
徃于紀温泉之時御歌
君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名
吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核
吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾
[或頭云]
[吾欲 子嶋羽見遠]
右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 天皇御製歌[云々]
(校異)
謁 [元][類][紀] 湯
磐 [元][冷][古] 盤

 この歌も専門家には悩みの種の歌だった。一番の悩みの種は敬語の問題である。
一〇番「我が背子は仮廬作らす草なくば小松が下の草を刈らさね」
 ここには敬語が二回出てくる。「仮廬作らす」の「す」が尊敬の助動詞。「草を刈らさね」の「さね」が尊敬の助動詞。二回尊敬の助動詞が二回出てくる。
(「さ」が尊敬の助動詞。「ね」は接尾語と考えても良い。)
九番「君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな」
十一番「我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ」
 ところが九番・十一番には尊敬の助動詞がない。
 九番「知るや」「結びてな」、十一番「見せつ」「拾はぬ」には敬語がない。
 通説による従来の解釈では、中皇命が舒明天皇の奥さん・間人皇后など女性であったとすれば、相手方は旦那さんの舒明天皇となる。ですから自分より目上と考えられる旦那さんに対して敬語抜きで歌を作るのはおかしいとなるしかない。十一番には二回も敬語を使っているのに、その前後では敬語の使用を忘れてしまったとなる。専門家としてはたまらない。だから斉明天皇が天皇の代作をしたという「代作説」。代作にして敬語抜きを美化する。姑息な解決を試みている。
 しかし現実は三つの歌があって、一つの歌だけ敬語があって他はない。それが事実であり説明に困る。
 もう一つ困ることがある。ここに出てくる地名に困る。「紀温泉」というのは和歌山の白浜温泉だろう。これはよい。次の十番目の歌の「磐代」は、白浜からちょっと西よりに寄ったところに有馬皇子が作った有名な歌に出てくる「磐代」がある。それで前書きと十番の歌は良いわけです。
 十一番は地名がない。
 問題は十二番目の「我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ」の「野島」。これは白浜温泉の近く和歌山県御坊市の字地名に「野島」というのがあり、そこだろうと言われている。残念なことに海岸に面していない。「野島」はすごいところだったというが、そんな名所旧跡でもない。ところが何故か作者は「野島」を「どうしても私は見せたい!」と言っている場所である。
 さらに「阿胡根の浦」。「阿胡根あごね」という地名がない。本居宣長がアコヤ貝が取れた所を、そう言うのではないかと言ったので、時折その説を採用する人がある程度です。
 さらに次の「我が欲りし子島は見しを・・・」で歌っているように、私が「見たい。見たい!」と思った子島はもう見た。この歌も敬語抜きです。この「子島」も所在地不明。和歌山県ではない。
この歌の中に出てくる地名は四つ有るのですが、「磐代」「野島」「阿胡根」、「子島」の内、分かっているのは「磐代」、「野島」。その内「野島」は何となく印象が深くない。それで地名に対して専門家は非常に説明に困っている。皆さんはお手持ちの『万葉集』解説を見られれば分かると思う。
 ところが「中皇命」は誰であるか何年かに一度いろいろの説が出ている。私の「中皇命」論はこうであるという論文が出る。しかし一向に解決できない。
 しかし「中皇命」を誰に当てても、大和飛鳥の人物であるという一点については、従来説は全く変わりはない。「中皇命」を間人皇后であれ誰であれ、全て近畿大和の人と考えることでは全員一致だった。ところが私の立場は違う。中皇命は九州王朝の天子である。当然中皇命の出発地は博多太宰府です。出発点が違いますので、船で出発すれば、当然瀬戸内海を通って来る。
 まず「子島」というのは当然各地にある。数ある有名な「子島」の中で最も有名なのは「吉備の児島こじま」である。そこにすぐ近いところに吉備津神社や吉備の大宰(たいさい)が居る。中皇命は吉備の大宰に会いたかった。この人物は自分は吉備に用事があった。しかしもう会った。これで「子島」は解決する。
 次のポイントは「野島」、明石海峡を人麻呂が歌った歌がある。
『万葉集』第三巻 二百四十九・二百五十・二百五十一番目の歌
(岩波古典文学大系に準拠)
  柿本朝臣人麻呂の覊旅(たび)の歌八首
玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ
一本云 処女を過ぎて夏草の野島が崎に廬りすわれは
淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す
(「柿本朝臣人麿の羇旅の歌八首の」の第二、三歌)
 ーーこれらの歌は、史料批判に直接関係しないので原文・校異は略

 これで「野島」が、三つ出てきます。「野島」というのは明石海峡の淡路島の北端である。淡路島の北淡町、そこの字地名にも野島がある。中皇命は明石海峡ファンで、ぜひ奥さんに「明石海峡を見せたい。」と思って、太宰府を出発して来た。私も中皇命と同じくして、独身時代神戸の須磨離宮道に住んでいた時期があるのですが、明石海峡に通って飽きることなく、何時間も夕日の落ちる姿を眺めていた記憶があります。
 その次は白浜へ行きます。磐代へ行ったりしている。そのあと「阿胡根の浦」というのは三重県の英虞(あご)湾に行きます。この人は「岩代の岡の草根をいざ結びてな」と表現している。「草根」に「根」という接尾語を付けている。そうすると「底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ」も「阿胡根」にも「根」という接尾語を付けている。固有名詞部分は「阿胡あご」であり、三重県の英虞(あご)湾です。
 出発点は太宰府博多湾。有明海かも知れませんが、一応博多湾。到着点は三重県の英虞(あご)湾。こうなってきますと、所在地不明といわずに地名関係は非常にスムースに理解できる。進行関係も非常にスムースに理解できる。


 五 『(朱鳥)日本紀』の史料批判

 ここからいよいよ本日の問題に入っていきます。『万葉集』に注釈がございます。
 旧岩波古典大系、『万葉集』の巻一の四四番のところ(三三頁)、『日本書紀』下持統紀、持統六年(五一三頁)をご覧下さい。
  『万葉集』の巻一の四四番
右、日本紀に曰く、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の戌辰、浄廣肆広瀬王等を以ちて、留守の官(つかさ)となす。ここに中納言大三輪朝臣高市麻呂、その冠位を脱ぎて、朝(みかど)に[敬/手]上(ささ)げて、重ねて諫(あは)めて曰さく、農作の前に、車駕未だ以て動ふべからず。辛未に、天皇諫(あはめ)に従はず、遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔の庚午阿児の仮宮に御すといえり。
  (参考)『日本書紀』下 持統紀
 持統六年(五一三頁)
三月丙寅の朔戊辰に、浄広肆広瀬王・直広参当摩真人智徳・直広肆紀朝臣弓張等を以て、留守官とす。是に、中納言大三輪朝臣高市麻呂、其の冠位を脱ぎて、朝(みかど)に[敬/手]上(ささ)げて、重ねて諫(あは)めて曰く、農作の節、車駕、未だ以て動きたまふべからず」とまうす。辛未に、天皇諫(あはめ)に従ひたまはず、遂に伊勢に幸す。
[敬/手]は、敬の手に手。JIS第3水準ユニコード64CE

 これは広瀬王を留守の官にして出かけようとした。すると大三輪朝臣高市麻呂が反対した。しかも官位をなげうつという思い切った行動で「止(や)めて下さい。」と言った。繰り返すと天皇が出かけようとして、三月三日高市麻呂が反対した。天皇はそれに従わず、振り切って三月六日に遂に伊勢に行った。そして五月六日に三重県の阿胡(あご)の仮宮に着いた。三月六日に出発して五月六日に三重県の英虞(あご)湾に到着した。こうなっている。
 そうすると近畿の人なら直ぐにお分かりのように、大和飛鳥から三重県英虞湾まで二カ月も掛かるのか。掛かるはずがない。どんなに遊んで途中で寄り道しても、かかり過ぎである。ところが私のように出発点を筑紫太宰府と考え、二カ月かかって三重県の阿胡(あご)の仮宮に着いたとします。その間吉備の大宰に会ったように表面は観光旅行のように見えて政治的な目的を持った旅行です。そう寄り道しながら行くのなら、二カ月は決して掛かり過ぎではない。太宰府の九州王朝となりますと、時期はもちろん白村江の以前です。白村江六百六十三年以前の記事を切り取って『日本書紀』に、はめ込んでいる。ここで万葉集にあるものを『(朱鳥)日本紀』と言いますが、これは現在の私たちが見ている前段階。簡単に言いますと、我々の見ている『日本書紀』を完成本としますと、初稿本に当たるのが『(朱鳥)日本紀』です。その『(朱鳥)日本紀』では、白村江以前の九州王朝の中皇命大旅行を、そのまま切り取って持統六年のところにはめ込んでいる。朱鳥という九州年号は、これも一応別ですが、白村江以前以前の記事をはめ込んでいる。そういうことが分かる。
 それに対して現在の『日本書紀』ではどうなっているか。初めは同じですが持統天皇と関係の深い二人「直広参当摩真人智徳・直広肆紀朝臣弓張」をプラスしている。そして留守の官となる。次は『(朱鳥)日本紀』と同じ凄い諌言が続き、最後に「伊勢に幸す。」と書いて、「阿児の仮宮」をカットしている。これなら二カ月も掛からなくて良いですね。ちょっと伊勢まで行って還ってきた。そういう感じの記事に変えている。そういうことで「阿児の仮宮」をカットし、持統天皇のお付きの二人をプラスし、現在我々が見ている『日本書紀』の完成本の形にした。
 つまり九州王朝の史料をはめ込んで『日本書紀』を作っている。お馴染みの神功紀もそうでしたが、私が『盗まれた神話』で論じたように『日本書紀』景行紀。『古事記』では全く九州へ行ったことがないのに『日本書紀』では景行天皇の九州遠征を麗々(れいれい)しく論じている。これは前ツ君・九州王朝の統一譚を主語を取り替えている。景行紀というあの時代の話だけだと思っていたら、なんと『日本書紀』の最後段階、持統紀の文章も九州王朝の時間帯の違う中皇命の行幸を、持ってきてはめ込んでいる。一旦はめ込んで矛盾があると言われたので、問題のあるところをカットしたり付け加えたりして現在の私たちの見ている『日本書紀』の形に改編した。私にとって重大な事件である。
 私は家永さんと論争したときに、家永さんが終始言っておられたことに『日本書紀』持統・天武紀の三巻は、繰り返し信頼できると言われた。私は『日本書紀』全部信用できませんと言った。私の理論的な立場から言えば、当然九州王朝が七世紀末まで有るのだから、『日本書紀』が本当であるはずがないという立場だった。しかしその具体的な証拠が出てきた。持統天皇のところまで、あやしかった。
 となりますと持統天皇の他の記事まで怪しいとなる。

 六 持統天皇の吉野行幸記事は、九州王朝天子の佐賀県吉野行きである

 それで一昨年の三月新庄智恵子さんという私より七つぐらい年上の方から、お手紙を頂きました。その方は私の説に立って色々書いておられる。その中で私を仰天させたのは、持統天皇が繰り返し三十一回吉野へ行幸している。あれはおかしいのではないか。新庄さんは京都の出身でそんなに吉野へ行ったことはないけれども、そんなに吉野が繰り返し行く所のようには、私はどうも思えない。あれは九州王朝の天子が、紫宸殿のある太宰府から「吉野よしの」へ行ったのではないか。新庄さんの場合には「美野よしの」と呼んだのは福岡県香椎の宮ではないか。「美野よしの」という地名が山川出版の歴史と地理という本に出ていたので、そう考えられた。結論として九州王朝の天子が太宰府から香椎の宮へ行かれたのでないか。お手紙にそう書かれていた。私はそれを読んでビックリした。持統天皇の時吉野へ繰り返し行っている。そういうことは知っていたが余り関心がなかった。政治的な事件ではないので行ったとしても持統天皇の個人的な趣味のように感じ、歴史学には直接関係しないのではないか。意識したことはなかったが、そのように捕らえていたのでしょうね。直接問題にしたことはなかった。それで新庄さんのお手紙にビックリした。
 ところがその後昨年八月に古田史学の会北海道の講演会後の懇親会で、新庄智恵子さんの話を披露した。その時私の隣に座られた和田高明さんから、その吉野は佐賀県吉野ヶ里ではないか。そう言われた。それで吉野へ行ったのは卑弥呼(ひみか)でしょうか。そんな話となり、とにかくその話はそれで終わりになった。
 ところがそれが非常に現実性を帯び始めてきた。
 まず表をご覧下さい。
 持統天皇の吉野行き、三十一回。
 この表は奈良県の『吉野町史』から写したものです。
 『吉野町史』
 『紀』・『続紀』に示された、持統天皇吉野宮行幸の年表
 持統天皇
 ◎三年二回、一月十八日 ー 二十一日(前後四日間)・八月四日ー不明(還御の日)
 ◎四年五回、二月十七日 ー 不明・五月三日 ー 不明・八月四日 ー 不明・十月五日 ー 不明・十二月十二日 ー 十四日(四日間)
 ◎五年四回、一月十六日 ー 二十三日(八日間)・四月十六日 ー 二十二日(七日間)・七月三日 ー 十二日(十日間)・十月十三日 ー 二十日(八日間)
 ◎六年三回、五月十二日 ー 十六日(五日間)・七月九日 ー 二十八日(二十日間)・十月十二日 ー 十九日(八日間)
 ◎七年五回、三月六日 ー 十三日(八日間)・五月一日 ー 七日(七日)・七月七日 ー 十六日(十日間)・八月17日 ー 二十一日(五日間)・十一月五日 ー 十日(五日間)
 ◎八年三回、一月二十四日 ー 不明・四月七日 ー 十四日(八日間)・九月四日ー不明
 ◎九年五回、潤二月八日 ー 十五日(八日間)・三月十二日 ー 十五日(四日間)・六月十八日 ー 二十六日(九日間)・八月二十四日 ー 九月一日(七日間)・十二月五日 ー 十三日(九日間)
 ◎十年三回、七月三日 ー 十三日(十一日間)・四月二十八日 ー 五月四日(七日間)・六月十八日 ー 二十六日(九日間)
 ◎十一年一回、四月七日 ー 十四日(十三日間)
 八月一日禅位
 大宝元年一回、六月二十九日ー七月十日(十二日間)(太上天皇)
 行幸の目的についての示唆を得るため、行幸の季節についての回数を求めると、
一月三回、二月二回、潤二月一回(二月、計三回)、三月二回、四月四回、五月三回、六月三回、七月三回、八月四回、九月一回、十月三回、十一月一回、十二月二回
   (吉野町役場 吉野町史上巻 昭和四十七年一月十五日)

 これの表を見て問題はまず桜の季節がほとんどない。吉野と言えば桜と思っていますが、桜のシーズンは年によって違いますが、四月中旬から下旬までです。下の千本、中の千本、上の千本、奧の千本と次々に移っていきますが、それらを含めて四月の終わりまでです。旧暦で言えば三月の中旬から下旬となる。ところが三十一回の中で、三月に行っているのは二回しかない。後の行幸は桜のない季節に行っている。これも持統天皇は桜が嫌いだったと言えば、説明できますが何となくおかしい。それと滝を見に行ったという考えもありますが、行って初めて知ったのですが、宮滝には滝がない。立派な歴史資料館がある宮滝が中心ですが、「宮滝」と言いますから、私も滝があると思って行った。行ってみたら滝がない。もっとも万葉学者の本を見ると滝はあると書いてある。また写真も出ている象(きさ)の滝(夢のわだ)がある。しかしこの写真にはトリックがあって滝の側に人が立ったら困る。人が立てば高さの半分以上を占める、三メートルの大きさの落差である。これを滝というのでしょうか。その大きさの滝と言われるものしかない。他にないですかと訊ねると、無いと歴史資料館の方も困って居られた。つまりない。行ってみないと分からないものですね。秋田孝季先生の言うとおり歴史は足にて知るべきものなりというとおり、行って見るべきですね。行かなくともどうせ分かっていると、行かないで知ったふりをするのが一番いけない。もっとも宮滝から車で十五分ぐらいの山一つ越したところに蜻蛉の滝と名付けれた滝があり、そうめんを流したような滝ですが、幅は狭いけれど一応滝の形をしている。
 ところが滝を見に行ったとしても十二月や一月にも結構行っている。十二月や一月に滝を見に行くというのは、いくら本人の趣味と言えばそれ迄だが、十二月や一月に滝を見に行くのですか。日本人の感覚としてはおかしい。
 さらにおかしいのは、その中で七回、帰りが書いていない。不明となっていますが、持統三年一回、四年四回。八年二回。これも変です。常識的には、行きだけが書いてあって帰りが書いてないと言うことは、その日に行って還ってきたということです。まさか何日か後に還ってきたのを書き忘れた。そういうことは考えられない。常識的に考えれば、持統天皇が藤原宮から吉野へ日帰り出来ないことはない。私は行っていないが、山崎さんが山道を通って歩かれたことがある。行って又還ることは不可能ではない。ハイキングなら。
 しかし持統天皇はハイキングに行くわけではない。無理して行って行宮もあるのに、その日の内に引き返す必要はない。どうにもおかしい。だから『吉野町史』では真面目にとって、何日か滞在して帰られたのだろうけれども、帰られた日時は不明となっている。大変御厚情にあふれる理解方法である。『日本書紀』をみれば日帰りと見るのが常識である。しかし持統天皇が藤原宮から吉野まで日帰りするのは、ちょっと急ぎ過ぎではないですか。
 このように持統天皇の吉野行きは謎に満ちている。はっきりいえば、非常におかしい。
 しかもこの問題に本気で入っていった入り口になりましたのは、『万葉集』のこの記事である。
旧岩波古典大系、『万葉集』巻一 三十四番・三十九番・四十四番
巻一の三十四番
日本紀に曰く、朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊國に幸すといえり。
巻一の三十九番
右、日本紀に曰く、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸(いでま)す。八月吉野宮に幸す。四年庚寅の二月、吉野宮に幸す。五月、吉野宮に幸す。五年辛卯の正月、吉野宮に幸す。四月吉野宮に幸すといへれば、未だ詳らかに何月の従駕に作る歌なるかを知らずといへり。
巻一の四四番
右、日本紀に曰く、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の辰、浄廣肆広瀬王等を以ちて、留守の官(つかさ)となす。ここに中納言大三輪朝臣高市麻呂、その冠位を脱ぎて、朝(みかど)に[敬/手](ささ)上げて、重ねて諫(あは)めて曰さく、農作の前に、車駕未だ以て動ふべからず。辛未に、天皇諫(あはめ)に従はず、遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔の庚午阿児の仮宮に御すといえり。

 巻一の四十四番の記事、これは先ほど揚げたものです。二カ月掛かったという記事です。三十四番、これも『(朱鳥)日本紀』の記事です。朱鳥四年と書いてあります。その間にあるのが、問題の巻一の三十九番の記事です。
 巻一の三十九番の記事、文章からは『(朱鳥)日本紀』の記事とは直接には年号が書いていないから分かりません。けれども直前にあるのが朱鳥二年の記事であり、後に朱鳥六年の記事がある。ですからこの三・四年の記事も一応『(朱鳥)日本紀』この記事と考えても良いと考える。この巻一の三十九番の記事も『(朱鳥)日本紀』の記事である。そうすると、この記事は「○月吉野宮に幸す」と六回ばかり書いてあり、『日本書紀』三十一回のごく一部である。これは『(朱鳥)日本紀』の吉野行幸の記事である。先ほどの史料批判で朱鳥六年の『(朱鳥)日本紀』は、九州王朝の史料を持ってきて、はめ込んでいた。そうすると持統の吉野行きも九州王朝の史料を持ってきて、はめ込んでいたのではないか。
 史料処理の問題としてそう考えてきた。順序は少し逆に成りますが実はこの問題から入ってきた。
 それで新庄さんに言われたときはまさかと思ったけれども、本気にこれに取り組まなければと思って調べたら、持統天皇の吉野行はおかしなことが多い。矛盾がいっぱい出てきた。そういう順序になる。
 さてそれでは九州の吉野は何処か。こう考えてみますと、いろいろ考え悩んだあげくですが、どうも結論としては和田高明さんが提唱された佐賀県の吉野ヶ理の「吉野」ではないか。もちろん「ヶ理」と付いていますが、佐賀県では町々に「ヶ理」が付いていますので、固有名詞は「吉野」。この辺り一帯を「吉野」と言ったことは間違いがない。この「吉野」ではないか。そういうことになって参りました。
 しかし皆さんは吉野ヶ理と言えば弥生時代の話ではないか。三世紀の終わりには環濠が埋められていると。そう聞いているが。そういうお考えだと思う。わたしもそう思ってきた。ところが、わたしの頭に変な光景を、ふと気にかかっていた光景を思い出した。やはり人間は頭の中で、はてな?と思う光景は消えずに残っている。それが問題になった。
わたしは吉野ヶ理を繰返し見に行きました。その後初期の古代史のバスツアーで案内したときは、まだ道路が整備されていず六〇人近くを載せた大型バスが当時直接吉野ヶ理まで行けなかった。かなり東寄りの所で「ここで降りて下さい。」と言われて歩いた。そうすると大きな土手があり道路が切り通しになって吉野ヶ理に向かっている。それで先頭を歩いた方が「すごいですね。これが吉野ヶ理ですか。大変なものですね。」と叫んだ。私は「待てよ。初めてきたときはこのようなものは見たことがない。」と迷っていた。そうすると地元の説明員の方が追いついて来て、「これは違います。郡衛(ぐんが)時代のものです」と言われた。郡衛時代とは律令制の八世紀。私もそれからは、そう申し上げた。
 その土手の問題を思い出した。その土手は一体何か。それで佐賀県教育委員会に電話すると幸いなことに徳富さんという方が出られた。この方は、この土手の問題について論文を書かれた専門の研究者だった。さっそく御自分の論文「肥前国三根郡の交通路と集落」(古代交通研究六号、一九九七年六月、徳富則久)と佐賀県教育委員会の資料を送って頂いた。
堤土塁跡               県指定遺跡
 指定年月日/平成三年三月三十日
 所 在 地/(佐賀県)三養基郡上峰町大字堤字迎原2391-1
 鎮西山から南に延びる八藤(やとう)丘陵と二塚山丘陵との谷間をふさぐように築かれた土塁である。築成当時は両丘陵を東西につないでいたと思われるが、現在では中央部に切通(きりとおし)川が流れ、東西に分断された格好で残存している。
 規模は東西長約三百メートル。東側で幅が十〜十五メートル。高さが一・五〜二メートル。西側で幅三十四〜四十メートル、高さ四〜五メートルである。砂黄土と黒色土を交互に積んで叩き締める「版築(はんちく)技法」で築かれており、西側の切り通し断面でその状況がよく観察できる。時期については出土遺物が少ないため断定できないが、版築の技術が基山町関屋土塁や佐賀市帯熊山(おぶくまやま)神護石の土塁のそれと類似している点等から七〜八世紀と考えられる。
 築成目的に関しては、切り通し川を塞ぎ止めていることから、農業用水を蓄えるための潅漑(かんがい)施設説、外敵の侵入を防ぐための防衛施設説、及び両者をの併用説などがあるが謎が多い。いずれにしても古代においてこのような大規模かつ高度な土木技術が存在したことを示すとともに、その歴史的背景を研究する上でも非常に重要な位置を占める遺跡である。
最新版 佐賀県の文化財
 平成六年参月三十一日発行
編集:佐賀県教育委員会
発行:佐賀新聞社
   佐賀市天神三ー二ー二十三
印刷:誠文堂印刷
   佐賀市兵庫町大字藤木三百九十六番地一
         定価三千五百円
 ここでは堤土塁跡となっています。説明が書いてありますが、規模が東西で長さ三百メートル。東側で幅が十から十五メートル。高さが一・五から二メートル。西側では幅三十四から四十メートル、高さ四・五メートル。凄いでしょう。私が初めて見たのは吉野ヶ理に近い方の西側の方ですから高さ五メートルがあるここを通った。叩き締める「版築(はんちく)技法」で築かれており、西側の切り通し断面でその状況がよく観察できる。それで先日行ったときには、その切り通し断面の「版築(はんちく)技法」をしっかり観察して来ました。時期については判別できないが、版築の技術が基山町関屋土塁や佐賀市帯熊山神護石の土塁のそれと類似している点等から七〜八世紀と考えられる。つまり神護石と同じ技術で作られている。いわば神護石と神護石を結ぶ性格を持っている。それで時期については七・八世紀とありますが、先ほど述べた年輪年代測定法というのが出て来まして、どうも考古学の編年はおかしい。初めは五十年、後の方では百年ぐらい遡らなければ年輪の示す実体と合わない。そういう報告が出された。もちろん年輪年代測定法自身は今後も精密に検討し、試料を集めて精度を高める必要がありますが、基本として従来の考古学の編年では駄目だ。やはり百年ぐらい遡らせなければ年輪の示す実体と会わない。(考古学の編年は)そういう提言を免れることは出来ないし、私はその見解が正しいと思う。
 その考えが正しいというレッキたる証拠というか、誰でも気がつかなかなければ成らない証拠がある。
 なぜかというと『日本書紀』の中の天智三年の問題です。白村江の戦いは六六二年天智二年に書いてありますから、その次の年の天智三年の有名な記事の問題です。
『日本書紀』(天智三年、四年)(岩波古典文学大系に準拠) p362,p363
 三年の春二月の己卯朔丁亥に
 ・・ ・ 是歳、対嶋・壱岐嶋・筑紫國等に、防(ぼう)と烽(ほう)とを置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名(なづ)けて水城(みずき)と曰ふ。

 四年の春二月の癸酉の朔丁酉に 
 ・・・ 
 秋八月に、達率答[火本]春初を遣して、城を長門の國に築かしむ。達率憶禮福留・率憶四比福夫を筑紫國に遣して、大野及び椽(き)、二城を築かしむ。耽羅、遣して來朝り。

 防(ぼう)は、防人の立てこもる拠点です。烽(ほう)は狼煙(のろし)を挙げる所です。この記事は全くインチキな記録であり、おかしな記事である。何故かというと、これは明らかに軍事的な目的を持っているものです。対馬と壱岐の防(ぼう)と烽(ほう)を置くという目的は、明らかに朝鮮半島・大陸に仮想敵国が居るという前提に立っての軍事的要塞です。又水城(みずき)を作るというのも攻め込まれたときの備えです。それが白村江の戦いで明らかに大敗して、唐の占領軍か進駐軍が筑紫に来ている。その占領軍が来た後に、唐や新羅を仮想敵国にする軍事要塞を作るという馬鹿なことが出来ますか。これが我々だったら直ぐ分かるではありませんか。
 マッカーサーが東京に進駐して後、直ぐ南太平洋の諸島に対米軍事要塞を築きましたという話、誰が信じますが。これ自身が出来るはずがないではありませんか。それ自身を見ても、白村江の一〇〇年前ぐらいに築かれたことは明からである。白村江の戦いが、水城も何も築かず防と烽も築かなかった。そしていきなり白村江の海で戦いました。そんな馬鹿なことがありますでしょうか。当然海上での戦いは、色々な軍事的措置を取ったうえでの最後の戦い・決着である。そう考えるのが常識である。何もせずにいて海で負けました。負けた後に軍事要塞を作りました。そんな馬鹿な話、誰が信じたのでしょうか。従来の報告書は、全てこのような報告で出来ていますから、笑ってしまいますね。だから年輪年代測定が出ようと出まいと、やはり一〇〇年ぐらい遡らさせるべき記事である。白村江以前の記事である。そう見ない方がおかしかった。それを考古学者はずいぶん調べて『日本書紀』と合う、合うと称していますが。もっとも対馬金田城山城跡自身の放射能測定も、七世紀から六世紀になるという記事が現地の新聞に出ました。しかし東京や近畿の新聞は無視した。やばいというか『日本書紀』と合わないから。それで朝日新聞の内倉さんが、水城の放射能測定がどうも『日本書紀』の言っているような七世紀後半ではない。放射能測定が六世紀前半から七世紀前半となる記事を書いて最後にデスクに止められてアウトにされた。そういう悔しがっている話を何回も聞きましたが。とにかくデスクとしては水城の成立年代が、『日本書紀』と合うと教育委員会を初め今まで全部書いてきたのに、合わないと言われる記事は都合が悪い。想像するに思ったのだろう。
 とにかく私から見ると、今までのしがらみや関わりを持っていない私としては、『日本書紀』の神護石や水城の記事は、本来から白村江以前に持ち上げなければ成り立ち得ない記事である。あれを白村江以後に、はめ込んでいることこそ大きな嘘だった。この記事を見ても天智紀が嘘であることは、この問題一つ取っても疑い得ないのではないでしょうか。それが最近の年輪年代測定や放射能測定で、科学的裏付けを得てきた。やはりそうでしたね。そういうことなのです。
 そうすると今言いますこの土塁跡も七・八世紀と書いてあるけれども、白村江で負けて唐の軍隊が筑紫に乗り込んできた時に、何も改めて軍事的な目的を持ったものを築くはずがない。やはり白村江以前のものである。そして神護石を結んでいた。
 それでこの問題は単純な事実から気がついた。
 白村江で闘って四百隻沈んだと言われる倭国の船は、白村江に行く前にどこに居たのか。合計六百隻あるいは八百隻といわれる船は、白村江に行く前に日本列島の中のどこに居たのか。
 博多湾はまずあり得ない。何故かというと、博多湾には鴻廬館(こうろかん)がある。(これも天智天皇の時と言っていたが、最近発掘して調べると六・七世紀になる。)
 外国の使者が何時も来ている。そんなところに四・五百隻が終結すれば、いっぺんに秘密がばれてしまう。最近の戦争でも戦艦大和は東京湾にいなかった。東京湾は地形自身は便利な所ですが、そこに居れば、ばれてしまう。だから瀬戸内海だった。
 もう一つ理由が有りまして、博多湾から済州島までが大変である。対馬海流を逆流しなければならない。済州島から後はよい。一隻や二隻なら行けないことはないが、五・六百隻の船が一斉に海流を逆流して行ける。そういう行動をとるのは夢物語だ。現代の船とは違う。そういう機能的な面でも博多湾はあり得ない。そうすると何処かと言いますと有明海ですよ。
 有明海から洋上に出て行けば、目の前が対馬海流。さっと済州島まで行ける。済州島まで行けば、そこから別れて真っ直ぐ進めば北のソウルにも行ける。大村湾・長崎湾・左世保湾でも出れば真っ直ぐ(北に)行ける。伊万里湾でも何とか行ける。
 そうすると神護石の西の端おつぼ山神護石が武雄温泉。この位置にあるのは非常によく分かる。武雄は北に行けば伊万里湾へ、東へ行けば左世保湾へ、南へ行けば大村湾・長崎湾、そして西に行けば吉野(ヶ里)。三つの湾をにらむところが神護石の西の端。今まで神護石については何回も論じてきたが、神護石は近江や大和や難波を囲んでいるのではないですよ。太宰府・筑後を囲んでいる。そればかり書いてきた。他の学者が嫌なことを言う奴だとばかり無視されていた。反論できない分、それだけにいい気になって具体的な姿について見落としてきた。この神護石山城郡は幾つかのグループに分かれている。その軍事的な意味について追求することを怠けていた。ところが今になって、やっとこのおつぼ山神護石がこの神護石山城群の西の端にあることが非常に意味があることが分かってきた。帯隈(おぶくま)山というのが佐賀市。その東が吉野ヶ理。そして高良山。女山(ぞやま)。有明海を取り巻いている一群が有ることは明らかである。その有明海を取り巻いている一群の結節点になっているのがところが吉野ヶ理。その吉野ヶ理に白村江以前に高速道路(堤土塁)が付けられている。軍船が居る。軍船と言っても、そこには人間が居る。そして神護石と言っても、祭祀跡か山城跡かという議論に対して、佐賀県教育委員会の発掘調査により山城跡であることが明瞭になった。しかも二重の城柵に囲まれていることが分かった。山城と言ってもそこには防人が居る。陸上には峰峰に防人がおり、何百艘の船にも防人が居る。その結節点が佐賀県の吉野。陸上には峰々に神護石に防人が居る。船にも防人が居る。全国から防人が集まってくる。そこへ再三九州王朝の天子が行かなければおかしい。防人として来た人々は、勝手に軍船に乗ってくれ。好きな神護石山城に行ってくれ。そんな馬鹿げたことは有り得ない。当然集まった防人は一定の所で閲兵を受けて、それから防人に着く。当然ご苦労をねぎらって、それからあなたはあそこへ行ってくれ。そういう指示を受けていくことになる。その高速道路の終点が佐賀県の吉野。そうしたことがやっと分かってきた。言ってみれば何でもないことですが。
 しかもその吉野に対する出発点は太宰府でも高良山でも良いが、一番近い所は久留米。曲水の宴があった久留米。久留米から吉野(ヶ里)へは直線距離十キロ。計り方で十五キロぐらいにも成りますが。それぐらいです。これなら日帰り出来ると思いませんか。しかも高速道路もついている。水野さんに教えて貰ったのですが、船で行っても行けますね。吉野(ヶ里)が海に面していたというのは、資料の六枚目に『「港町・吉野ヶ理」を確認』(西日本新聞1999.11.11)と記事がある。佐賀大学農学部の半田駿教授が地質の電気抵抗調査によって、吉野ヶ理の間際まで海であったことを解明した。吉野ヶ理は港湾都市であった。吉野ヶ理から船で来ても筑後川の所に行ける。権力者から見れば船で行くのが一番楽かも知れませんね。。とにかく日帰りは十分可能である。しかもこれは閲兵(えっぺい)に行くわけです。閲兵に行って、直ぐ帰ることも十分有り得る。これで日帰りが三十一回の内七回あります件が、佐賀県吉野なら何の問題もなくなる。
 ということで吉野へ、九州王朝の天子が佐賀県吉野に閲兵に行っていたという史料をそっくり操作して考えられないことですが、『日本書紀』持統紀にはめ込んでいた。そう考えるに至った。
 持統天皇の吉野行問題。これが奈良県吉野ではないという一つの面白い論証がございます。
 まず持統天皇の吉野行きにもう一つ問題点がある。持統天皇が十一年に退位してから吉野へは、ほとんど行っていない。大宝元年に一回行っただけである。後がない。一説によると持統天皇が天武天皇と一緒に吉野へ行ったことに対し思い入れがある。そういう説明をする人もいますが、だからそれだけ天武天皇と一緒に吉野へ行ったことに対し思い入れがあるというのならば、退位すればそれだけ時間が出来ることになる。何時でも行けることになる。年に三回行っていたから年に五回ぐらい行っても不思議ではない。ところがほとんど行っていない。これも非常に矛盾があります。唯一行っているのは大宝元年一回。六月二十九日ー七月十日(十二日間)。これは分かるんです。旧暦ですから現在で言えば八月です。八月に滝を見に行くというのは。これは川遊びというか素直に理解できる。非常にリアリティがあるのが『続日本紀』に、一回出ているだけです。しかしそれ以外に行った形跡がないというのも妙なものです。
 それ以外に、今までこれと違ったきわどい矛盾というか、鋭い問題を見せているところがある。それは持統八年の夏三回の中です。

『日本書紀』(持統八年)(岩波古典文学大系に準拠)
夏四月の甲寅の朔戊午に、淨大肆を以て、筑紫大宰率河内王に贈ふ。并せて、賻物賜ふ。庚申に、吉野宮に幸(いでま)す。丙寅に、使者を遣して、広瀬大忌神と龍田風神を祀らしむ。*33)丁亥に天皇、吉野宮より至(かえりおは)します。庚午に律師道光に贈物贈ふ。

注、*33)丁亥
 底本は丁未。北野本・閣本に丁亥。丁未・丁亥、いずれも四月にはない。集解は丁卯十四日とする。丁亥を活かすとすれば、九月丁亥六日の誤入と考えられよう。なお還宮の日を記さないのは、三年から四年にかけての四回の行幸の他、本年正月・九月の二回のみである。

 ここの中に「*33)丁亥に天皇、吉野宮より至します。」とある。ところが困ったことに、この年の持統八年の四月という年に「丁亥」という干支はない。
 注釈を御覧になりますと注釈者は困っている。どうにもない。一説に別の写本には「丁未」とあるが、「丁未」という干支もない。北野本という古い方の写本にある「丁亥」、これを本文に採用しているが、それもない。月を間違ったのか、何かを間違ったのだろう。そのように書いてある。
 しかし私はこれは重要なポイントである。『日本書紀』は干支で書いてありますから。この場合は、ありもしない「丁亥」という干支が、何故持統八年の四月に出てきたのか。先ほどの私の考え方から言いますと、この記事は九州王朝の史料を頂いてきた。その史料に「丁亥」とあった。それがそのまま、うかっりミスで生き残った。後は全部持統天皇の干支に、年・月・日、共に合っている。ここだけ違っているというのは、うっかりミスで元あった正しい干支がここに姿を現した。そう考えてみた。
 そこで白村江の前に、これに当たる干支が存在しないかどうか捜してみた。もちろん唯一ではありませんが、白村江以前の適切と思われるところを求めて捜しました。そして有りました。
 『三正綜覧』(内務省地理局編纂)により顕慶五年(六六〇年)に有りました。六六〇年、この年の四月が、大の月で「辛未」が一日です。それを『大日本百科辞典小学館(ジャポニカ)の干支五行配合表』で見てみますと、「辛未(八番目)」が一日ならば、十七日(二四番目)が「丁亥ひのとい」となる。そこに「丁亥」が出てくる。ここだと問題なくあり得る。無くて困っていたものが決まってきた。
 それで顕慶五年(六六〇年)を持統八年に当てはめて、九年・一〇年・十一年と年を追って持統天皇吉野宮行幸の記事を当てはめていきますと、最後の吉野宮行幸が持統十一年四月十四日に成っていました。それが龍朔三年(六百六十三年)四月に当たるわけです。つまり「丁亥」を顕慶五年(六六〇年)という定点にしますと、後同じバランスで見ていきますと、最後の持統十一年四月十四日は、実際は龍朔三年四月十四日ということに成るわけです。ところがその年の八月か九月のところで、白村江の戦いが行われる。逆に言うと白村江の戦いが行われたその年の三・四カ月前までは、吉野へ行っている。ところが白村江の戦い以後は行っていない。そういう形になる。これは分かりますよね。花の吉野と違いますから。吉野へ行った目的が軍事目的で、神護石や軍船に来る防人を閲兵する為に行っているわけです。白村江の戦い以後も行っていたらおかしいわけです。ところが白村江の戦いの四カ月前でストップしている。非常にリアリティがある。それでやはり、この吉野行きは、本来の姿は佐賀県吉野である。そういうことを実は確信したのは、この丁亥問題である。
 以上、初めて聞かされた方でまさかと思われたかも知れませんが、そこまで言われれば、そうかも知れないと考える方も居られるだろう。
 しかしなお残る疑問は、なぜ『日本書紀』がそんなつまらないことをしたのか。そういう疑問を持たれるかも知れない。元の形はつまらない問題ではない。元の記録そのものは、九州王朝の天子の吉野閲兵という絶対に必要な条件である。しかし『日本書紀』では、持統天皇が奈良県吉野へ何回行こうが、そんなことは大したことではない。それを三十一回も吉野へ行くという大嘘をなぜ吐(つ)いたのか。『日本書紀』持統紀が、分量的にはかなりの部分が、大嘘ということになると大問題です。先ほどの阿児の仮宮行きが、一つ嘘でも大変な問題です。持統紀・天武紀は大丈夫というのが家永さんなど日本史の学者の共通の認識です。それが壊れたとなると大変な問題です。ですがそれだけでなく、時間帯も違い、しかも主人公の違う記事をはめ込んだということになると大変なことです。そんな大変なことを、しかも藤原宮から持統天皇の吉野宮行幸は、私が永らく思ってきたように個人の趣味のような記事を、そんな嘘をなぜ大量に入れなければならないか。そういう素朴な疑問を生じると思う。しかしその疑問は、私は重要な疑問だと思う。
 そうするとここで浮かび上がってくる問題は、天武天皇の壬申の乱における吉野行きです。ここで天武天皇の吉野行きと言っているけれども、もちろん持統天皇も一緒の吉野行きです。天智天皇が亡くなった後、その前に既に吉野へ仏道修行のため行ったという話があります。それはさておき、天智天皇が亡くなったとき大友皇子とトラブルが生じて、結局奈良県吉野から岐阜へ抜ける山道を抜けて東国に行き、そして近江大和美濃の三角地帯で壬申の乱の戦闘が行われた。そういうことになっています。天武天皇にとって重要なターニングポイントになったのが奈良県吉野である。その奈良県吉野の重要な記事があって、壬申の乱のターニングポイントの記事があって、それに附属して三十一回の持統天皇の吉野宮行の記事が出てくる。
 だから持統天皇が天武天皇のことをお偲びになったのであろう。そう麗々(れいれい)しく書いている人がいる。説明としては分かり易いですが、よく考えたらおかしい。それでは定年退職して太上天皇になれば、お偲びになられ無くなったのですか。そういう疑問を出せば、出せない事もない。話にならない。それで水の祭りに吉野へ行くことが必要だったと考える説を、地元の教育委員会などでは説明に困ったと見えて、仕方なく出された人もいる。その説明では在位中に意味があるということなら、それではそれを受け継いだ文部天皇が在位中に替わって吉野へ行かなければならないが、行った形跡はない。あるものを説明する立場に立てば説明できるようだが、いったん疑問を投げかければ、説明できないという姿を持っている。
 それで今までの『日本書紀』の三十一回の持統天皇吉野宮行幸の記事の原点をなすものが、壬申の乱前夜の持統・天武天皇の吉野行きである。この事は間違いない。ところがこの三十一回の持統天皇吉野宮行幸の記事が大嘘であるという事になると、原点を成す壬申の乱の吉野行きもおかしいのではないか。そういう問題が出てくる。それで「天武天皇の吉野行き」という問題、これは一体何か。そういう本日の本題に入ってくる。

 七 壬申の乱について

 わたしは先ほどの司会の古賀さんのご紹介にありましたように、一回も「壬申の乱」を正面から扱ったことはありません。それはうっかり壬申の乱に手を出すと大やけどする。やばい!。警戒心を深くずっと持っていた。その理由は大きく言って二つある。
 一つは『日本書紀』天武紀の壬申の乱の記事が異常に詳しい。
 何月何日どういう行動をした。日記みたいに詳しく書いてある。あれは歴史を書く人間に非常に有り難い。それに基づいて書いておられる歴史家や、また小説家もおられる。しかし私の目から見ると、全部『日本書紀』が日記みたいに詳しく書いてあれば良いが。また全部とは言いませんが、天武紀や持統紀が全部日記で詳しく書いてあれば良いのですが、壬申の乱だけが異常に詳しいと思いませんか。壬申の乱だけが異常に詳しい。私はそのように感じた。そういうことは壬申の乱だけ、何か別史料をはめ込んだような違和感を覚えた。うっかりそれをまともに信用して扱うと大やけどする。史料を扱う人間の警戒心。私はそのような人間の警戒心を拭(ぬぐ)うことは出来なかった。これが第一の理由です。
 もう一つ、第二の理由はもっと大きな理由です。白村江で敗れて、郭務宗*が唐の軍隊を連れてきた。郭務宗*以外の人も来ていますが、二千人、二千人と書いてある。同じ記事の重複だ。そういう事を言う人もいるが、私から見るとそういう馬鹿なことを言わないで貰いたい。『日本書紀』を作るのに、あわてて一夜で作ったものではない。我々のように締め切りに追われて出した本ではない。我々は締め切りに追われてうっかりミスをしますけれども、『日本書紀』は正史で、たくさんの人数の者が関わって皆で検査し作った本です。それをうっかりミスで同じことを二回書けば分かります。だからうっかりミスで同じことを二回書いた。そういう説もあると言っている人もあるが、そういう馬鹿なことは有り得ない。そういう考えは危ない。やはり二回二千人来ている。少なくとも四千人筑紫に来ている。そうすると『日本書紀』ように壬申の乱が、近江と大和吉野と美濃の三角地帯で行われたとします。そこで天下の中心権力が一変した。革命か維新かは知りませんけれども日本の中心権力が一変した。そうするとその時唐の軍隊は何をしていたのか。何をとぼけていたのか。
 あるいはその時唐の軍隊が帰っていたという説を成す人がいます。壬申の乱直前に「郭務宗*等が帰った」と書いてある記事はあります。それを根拠にそういう説を唱える人がいます。しかし天智紀などで表記される「等」の説明は、注釈に表記されているように、あるところでは一人であると書いてある。また他のところでは三人であると書いてある。つまりこの辺りでの「等」は一人とか三人のことである。それを「郭務宗*等が帰った」を四千人が帰ったという意味に理解するのは、史料処理として非常に乱暴だ。甘い。私はそう考える。
郭務宗*(かくむそう)の宗*(そう)は立心編に宗。JIS第4水準ユニコード68D5

 それで現代に住んでいる人間の特権として、あるいは不幸と言っても幸いと言っても同じですが、アメリカ軍は日本に進駐して占領して、五十五年帰っていない。これは名前は色々替わりました。政治家や行政官から言えば、「敗戦後は進駐軍で、講和後は駐留軍です。」と、そのように分けるだろう。彼らは分けるのが商売ですから分ければよい。しかし私は歴史が商売ですので、その目で見れば名分が替わっただけで、実体は変わっていない。その実体は厳然と現在まで、超一流の軍隊アメリカ軍の駐留が五十五年間続いている。その事は疑いがない。私などの歴史の感覚はそうである。そういう事はある意味では当然である。戦争に勝った。そしてその国の真中へ。また大事なところへ。他国へ自分の国の軍隊を置かせる。凄(すご)いことです。そんなことを普通の時にしたら大問題になり、外交問題になります。それが大威張りで出来るのは戦争に勝った国の特権なのです。それによって得る利益は当然ある。それを失うバカはいません。理由無く失うお人好しはいない。私はやはりその特権を守り続けるのは、勝った国のルールである。そう言っても過言ではないと思う。それを止(やめ)るのは、やはり他に何か止めざるを得ない理由が出来て止める。お人好しで止める戦勝国はいない。私の独断かも知れませんが、私はそういう感覚を持っている。現代に生きている人間の理解です。戦前の人には分からないでしょうし、戦後も時間が経てば分からなくなります。私などのように敗戦の時に青春を迎えた人間の目から見るとよく分かる。そういう目から見ると、唐が白村江の戦いで勝って、二千人そして二千人と筑紫に来た。これは二千人・二千人が、多いか少ないかの問題もある。しかしこの四千人は単独と見てはいけない。四千人で全部だったら攻撃して撃破出来ないことはない。しかしその背景の新羅や百済には唐の軍隊が何十万人いる。また中国本土には背景として何百万人の軍隊がいる。何百万人バックの中の何十万、その又何十万バックの中の四千人。四千人と戦い撃破しようと思ったら、その後ろの軍隊と戦わなければならない。四千人ぐらいなら撃破できるという話ではない。
 これもまだ調べずに言い、東京目黒の防衛庁戦史室に問い合わせを行う必要があるがマッカーサーは初め何名を連れてきたのか。こんな簡単なこと聞けば分かると思う。しかしどうせ大した数ではないと思う。何万人連れてきたという話は聞いていない。大した数ではないと思う。しかし大した数ではないからマッカーサーを攻撃せよ。そういう言うことには成らない。東京湾にアメリカ海軍が居り、沖縄・フィリッピンに陸軍がいる。さらにアメリカ本土に何百万の軍隊がいる。それをバックにした中のマッカーサーが引き連れたX名の軍隊である。
 そういう目から見ると、同じことだと思う。郭務宗*は、天智天皇が亡くなったという報告で帰っていたかも知れないが、唐の軍隊が簡単に帰ったとは思えない。そういう立場で見ますと唐の軍隊が居るのに、近畿の三角地帯で革命か維新が起こって政権が交代して、それに唐の軍隊が全くタッチしなかった。その話はおとぎ話ではないか。私にはそうとしか見えない。そんなおとぎ話は私はあり得ないと思う。唐が壬申の乱に無関心でいたはずがない。「はずがない。」という議論をするなと言う人があるかもしれんが、私はどうしてもそうとしか思えない。簡単に言えば、あの壬申の乱の勝敗を左右したのは唐であろう。私はそう想う。しかし『日本書紀』を読んだらそうは書いてはいない。近畿の三角地帯で戦闘が行われて政権が変わりました。そうとしか受け取れないように書いてある。この記事は何か嘘がある。やばい! この嘘に乗っかって書いたら大やけどする。それが今まで私が壬申の乱を扱わなかった第二番目の最も大きな理由です。
 ところが、そういう立場から見ますと、突破口が開けてきた。それは天武が行ったという吉野は、はたして奈良県吉野かどうか。そういうテーマになります。『日本書紀』を見る限りでは直ぐ答えは出ませんが幸いなことに、ここでも『万葉集』がある。

 『万葉集』第一巻 二十五・二十六・二十七番目
 (岩波古典文学大系に準拠)
(二十五)
みよしのの,みみがのみねに,ときなくそ,ゆきはふりける,まなくぞ,あめはふりける,そのゆきの,ときなきがごと,そのあめの,まなきがごと,くまもおちず,おもひつつぞこし,そのやまみちを
(二十六)
みよしのの,みみがのやまに,ときじくぞ,ゆきはふるとふ,まなくそ,あめはふるといふ,そのゆきの,ときじきがごと,そのあめの,まなきがごと,くまもおちず,おもひつつぞくし,そのやまみちを
(二十七)
よきひとの,よしとよくみて,よしといひし,よしのよくみよ,よきひとよくみ

天皇の御製(おほみ)の歌
(二十五)
み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くそ 雨は振りける その雪の 時じきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を

或る本の歌
(二十六)
み吉野の 耳我の山に 時じくそ 雪は降るといふ 間なくぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきが如 その雨の 間なきが如 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を

 右句々相換れり。因りてここに重ねて載す。
  天皇、吉野の宮に幸(いでま)しし時の御製歌
(二十七)
淑き人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見
紀に曰く。八年己卯の五月庚辰の朔の甲申、吉野宮に幸すといへり。

原文(西本願寺本に準拠)
  天皇御製歌
三吉野之 耳我嶺尓 時無曾 雪者落家留 間無曾 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 <念>乍叙来 其山道乎
 或本歌
三芳野之 耳我山尓 時自久曾 雪者落等言 無間曾 雨者落等言 其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎
 右句々相換。因此重載焉

  天皇幸于吉野宮時御製歌
淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見<与> 良人四来三
 紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮

校異
思->念 [元][類][紀][古]
多->与 [元(朱)] [寛] 與 [西(右書)]

 「天皇の御製(おほみ)歌」とは天武の歌という意味です。
 「三芳野の耳我の嶺に間なくぞ・・・」は、吉野の耳我の嶺に間断無く雪が降っている。また間断無く雨が降っている。「時無く」というのは季節外れと言うことなのでしょうか。「隈もおちず」は間がないように、今も季節外れの雨と雪が今も途切れなく落ちる。「隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を」いつまでも終わることのないその山道を(歩いている)。
 全く内容がない。しかし凄く内容がある歌である。(笑い)私は青年時代『万葉集』が大好きで読みふけっていたときから気に懸かっていた。つまり具体的な内容はないけれども、この作者の思いが非常に深いところで、こちらに伝わってくる歌だとそう理解していた。
 ところが今回この吉野問題に直面してみると、普通「三芳野」というのは壬申の乱直前の、奈良県の吉野と理解しています。「耳我嶺尓 みみがのみねに」、これで専門家が皆困っている。つまり奈良県吉野に「耳我嶺 みみがのみね」という山はないのです。どの注釈を見ましても無い。仙覚や真淵等、それから現代の思潟・中西さんまで、皆無いと書いてある。また吉野町宮滝の歴史資料館の学芸員の方に聞いてみたら、やはり無い。『万葉集』の注釈がみんな無い。現地の調査でも無い。これだけ無ければ本当に奈良県に無い。そう見ても良いのではないか。大体万葉学者は奈良県のことはしらみつぶしに皆調べ抜いている。これだけ皆調べ抜いて無いのだから、無いというのが本当である。私も奈良県に無いと思う。
 
 これおかしいですね。無いものを天武が作るのはおかしい。
 それで、これは佐賀県に有るのではないか。それで佐賀県を調べ始めた。吉野はありましたし「耳我」は、それに関連があるような名前で「耳田 みみた」と言うのがある。この「耳 みみ」は、魏志倭人伝と同様の長官を表す「彌彌 耳 みみ」だと思う。この長官を表す彌彌(みみ)は各地で残ってます。奈良県耳成山もその一つだと思う。大阪府堺市仁徳陵(大仙古墳)のある「耳原」もそうだと思う。そして田圃(たんぼ)があるから「耳田 みみた」です。「我 が」と言うのは一定の集落の単位で本当は「衛 が」だと思う。今日古賀さんも来ておられるが、本当は児衛(こが)であろうと思う。吉野ヶ里(よしのがり)の「が」も集落の意味だと思う。そうしてみると固有名詞部分は「耳」。「耳我 みみが」や「耳田 みみた」というのは有り得る。ここまで理解は進んだ。
 しかし困っていたのは「耳我嶺 みみがのみね」の「嶺 みね」というのは何処だろう。それが偶然理解が進展した。先ほど言いました土塁という三百メートルの高速道路。それを佐賀県教育委員会にお電話をした。土塁を説明されている時に、徳富さんからその地名は上峰(かみみね)町にあります。峰郡ですから、同じ「峰」ではないかと言われた。私も上峰(かみみね)町というのが、吉野ヶ里の隣にあり、また峰郡も知っていた。そういうことは知ってはいたが、ところが字面が違うものだから、同じだと余り考えたことがなかった。言われて一瞬「ああ、そうですね。」と惑(とま)どった。その翌翌日この歌に再度取り組んで、はっと思った。「耳我嶺尓 耳我の嶺に」と「嶺 峰 みね」があるではないか。私も今までこの「みね」をマウンティン(mountain)の事だと思っていた。専門家は全て山のことだと考えてきた。しかし、この「みね」は固有名詞なのだ。「三吉野之 耳我嶺尓 三吉野の耳我の嶺に」、AのBのCという三段地名である。吉野の耳我の峰に、つまり佐賀県吉野である。天武は壬申の乱直前佐賀県吉野。そこに来ている。そういう事に気が付いた。
 この話を群馬県の平田さんにお話ししたところ、この方が熱心な方で、関係する記事を『日本書紀』雄略紀から見つけて頂いた。
『日本書紀』雄略紀(岩波古典文学大系に準拠) p486
 十年の秋九月の乙酉朔日戊子に、身狭村主青等、呉の献れる二の鵝を将て、筑紫に至る。是の鵝、水沼君の犬の為に囓まれる死ぬ。 別本に云く。筑紫の嶺の県主泥麻呂(ねまろ)の犬の為に囓まれる死ぬといふ。 ・・・

 そこに「筑紫の嶺の県主」、その形で登場する。呉の国から鳥を献上して来て、それを水沼君の犬が鳥を喰い殺した。その注にこれは嶺(みね)の県主(あがたぬし)の犬が喰い殺したとも言う。そう書いてある。これが「嶺(みね)」という字で正確に出てくる。「筑紫の嶺の県主」ですが、あの辺を筑紫風土記という場合は、肥前(佐賀県)を含んで出てきます。もっと細かく考えると「嶺の県主」は、現在の佐賀県峰(みね)の県主(あがたぬし)。その県主が川一つ隔てた水沼の君の支配下にある。水沼の筑後君の犬と言っているが肥前の峰(みね)県主の犬。その犬が献上してきた鳥を喰い殺した。それで明らかに「嶺の県主」は肥前の峰(みね)です。「嶺の県主」は「山の県主」では意味を成しませんから、やはり地名と考えざるを得ない。そういうことから見ましても、やはり天武の歌の「耳我の嶺に」の「嶺みね」は、佐賀県の峰(みね)という地名です。奈良県には無かった。どの専門家も困っていたのが、佐賀県に持っていくと答えが出た。
 それでやはり天武は、奈良県の山奥である吉野へ行ったのではなくて、佐賀県の吉野へ行った。そういう事を知った。それでは天武は、何を目的に吉野に行ったのか。これも端的に言えば、私は唐の郭務宗*に会いに行ったと考える。当然天武は壬申の乱前夜にある。反乱というのでしょうか、兄の天智の息子と敵対して権力を奪取する。そういうプランを描いていたと思う。その場合天武という人物は、私の感覚から言うと深慮遠謀の人だと思う。織田信長のように。織田信長は研究したことがないから分からないが、私のイメージでは短気で思い切ったことをするタイプだと聞かされている。しかし天武はそんなタイプではない。歌の影響もあると思うが、じっくり考えて簡単には事を起こさない。やはりじっくり考えて行動を起こすときには、かなり複線を張り巡らした後動くタイプに、私には見える。そういう天武が、筑紫に駐留する唐の軍隊を意識しなかったことは絶対に有り得ない。確実に有り得ない。これを考えずに兵を動かす人は、よほど天武は間が抜けた人だ。たまたま反乱が成功しただけで、考え無しの人です。しかし私は、天武がそんな考えのない人とは思わない。もちろん、いろいろな側面はあったと思うが、若いときから額田王(ぬかたおう)問題など(天智と色々あった)と思うが、一つの側面として非常に深くものを考え行動するタイプの人であったと思う。そういうタイプの天武が、唐の軍隊の意向を無視して行動を起こす。そのように考えることは私には絶対に難しい。そうすると事を起こす前に、当然唐の郭務宗*と、別に郭務宗*でなくとも良いが、唐の軍事司令官に会いに行き打診をしたと考える。唐の軍隊が筑紫に来たと『日本書紀』には書いてある。しかし唐の軍隊は別に観光旅行に来たわけではない。当然軍事基地を押さえに来た。軍事基地というのは当然先ほど言った佐賀県吉野です。神護石山城・軍船の結節点である軍事基地のある七世紀の吉野。唐の軍隊は各地に居たかも知れないが、基本は吉野にあった。唐の軍隊の根拠地は吉野にあった。こう考えて間違いはないだろう。その吉野へ天武はやって来た。そして感慨に耽(ふけ)っている。もちろん自分の行動が裏目に出ることもある。たとえば唐が大友皇子側に「お前の叔父さんがこんな事を言ってきたよ。」と言えばそれで計画はおじゃん。そういう色々な可能性を考えて、しかしこの吉野での行動は自分の命を分ける。そういう感慨に耽(ふけ)ていたと思う。このように考えれば『万葉集』の中で、この歌は私には非常に良く分かる。それに『万葉集』の中でこの歌の内容は異常である。青年時代以来疑問に思っていた謎が解ける。
 それだけではありません。次の『万葉集』の歌も問題です。
  『万葉集』 (二十七)
 淑(よ)き人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見
 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見<与> 良人四来三

 これも変な歌ですよ。注釈者、みんな困っている。京大の図書館で色々な解説を見たが、注釈を付けるのにみんな困っている。歌が変だから、困らないわけにはいかない。あえて解釈すれば、古(いにしえ)に吉野に良い女(ひと)が居て、良い場所だ、良い場所だ、とその人を偲んでいる。何か全く笑ってしまうような歌だ。ところが今や意味が変わってきた。
 しかしここの「淑(よ)き人」というのは性格のよい人という意味ではない。古文の常識で身分の高い人を「淑(よ)き人」と言う。しかもこれは天武が作っている。これは天武より身分の高い人を指している。そういう事は、これは郭務宗*である。別にこの場合は郭務宗*でなくて他の唐の将軍でも良いですが、我々が知っているところでは郭務宗*。つまり郭務宗*が天武の提案に対してOKを出した。良い返事をくれた。そういうことを歌っている歌だと思う。私はこの歌を暗号文だと思う。
 天武は吉野へ来て、唐に自分の反乱に耳を傾ける条件を、郭務宗*を初めとする唐の将軍に賛成してもらう条件を考え抜いて出したと思う。それを郭務宗*が受けOKを出した。それをいち早く近畿にいる仲間に伝えなければならない。もちろん現実は大友皇子側が権力を握って山陽道を始め各地を押さえている。その中で早馬など連絡するのですが、もし見られても、見た方はこれでは何か分からない。これは何だとなる。そして届ける方も、「私も分かりません。」と言ってとぼけ。しかし天武が渡したい近畿の自分の仲間は、天武の吉野へ行く目的を知っていますので、これを見れば分かる。郭務宗*のOKを取ったな。そうであるなら大友皇子に対して事を起こそう。軍を動かそう。これはそのような重要なサインを示した歌である。
『万葉集』で一番とぼけた歌に見えていた歌が、一番冴えた歌になった。『万葉集』にもとぼけた歌はある。天武はとぼけた人間だ。それで済ましても結構です。しかし私は天武という人間をそうバカに出来ない。今のような理解だと私の天武に対する理解、特に壬申の乱の理解に合致する。
 もう一つ挙げますと、壬申の乱前後に大友皇子側が大変苦労した話がある。
日本書紀 巻第廿八 (岩波古典文学大系に準拠)  P390
 天渟中原瀛真人天皇上  天武天皇
  ・・・
 (元年)六月辛酉の朔壬午に、村國連男依・
  ・・・
丙戌に、旦に、朝明郡の跡太川の
 是の時に、近江朝、大皇弟・・・
且、佐伯連男を筑紫遣す。樟使主磐手を吉備国に遣して、並に悉に兵興さしむ。仍りて男と磐手に謂(かた)りて、「其れ筑紫大宰栗隈王と、吉備国守當摩公広嶋と、二人、元より大皇弟に隷きまつること有り。疑はくは反(そむ)くこと有らむか。若し服ぬ色有らば、即ち殺せ。」とのたまふ。是に、磐手、吉備国に到りて、符(おしてのふみ)を授ふ日、廣嶋を紿きて刀を解かしむ。磐手、乃ち刀を抜きて殺しつ。男、筑紫に至る、時に栗隈王、符を承けて對えて曰く、「筑紫国は、元より邊賊の難(わざわい)を戍る。其れ城を峻くし隍(みぞ)を深くして、海を臨みて守らするは
、豈に内賊の為ならむや。今命を畏みて軍を發さば、国空しけむ。若し意之外に、倉卒なる事有り、頓に社稷(くに)傾きなむ。然して後に、百たび臣を殺すと雖も、何の益かあらむ。豈敢へて徳を背かや。輙く兵を動さざることは、其れ是の縁なり」と申す。時に栗隈王の二の子、三野王・武家王、劒を佩(は)きて側に立ちて退くこと無し。是に、男、劒を按しりて進まむとするに、還りて亡されることを恐む。故、事を能はずして、空しく還りぬ。

 大友皇子側が吉備に行って、天武達が反乱を起こしても味方をしないでくれ。そう言った。すると彼が聞かなかったので、直ぐに吉備の大宰を切り殺した。こう書いてある。同じことを筑紫の太宰府の栗隈王のところへ行って同じ事を言った。ところが栗隈王は断った。彼は自分は中立を保たなければならない立場だから、あなたの言うことは聞けない。そう言った。これも考えたら変な話で、公式には天智天皇が死んで大友皇子が正統の権力に成っている。その正統の権力に従うのが栗隈王の立場であるはずである。それを自分は要害の地に居って簡単に動けないと言っているのは、結局大友皇子の申し入れを拒絶したに等しい。つまり天武側に付くよと言っているのと同じなのである。それで切り殺そうとしたのですが、その時に栗隈王の子供と家来が剣を抜いて、すさまじい勢いで守ったので、彼を殺せずに帰ってきた。そういう面白い記事がある。
 これは明らかに天武と大友皇子の戦闘があった場合は、吉備・太宰府の山陽道が主戦場となる。戦闘の主たる幹線道路となることを意識しての話です。それが今の『日本書紀』のように近江や大和、美濃の三角地帯で決着が付くのなら、何も吉備や筑紫は直接の関係はない。ところが、今のように理解すると完全にリアルな話となる。
 さらに言いますと、天武が吉野へ隠れた後、大友皇子が宇治から倭京まで軍勢を張り巡らした。そのように書かれている。この倭京のことを、岩波古典大系では「飛鳥の地をさす。」と注釈がついてある。しかしおかしいですよ。なぜなら壬申の乱前夜ですので、浄御原宮も出来てはいない。それを浄御原宮を指すという注釈は、注釈に頼って読めば問題が無いようにみえるが、疑問を持てば、これもおかしい。
 また『日本書紀』が出来ているのは七百二十年だから、その段階であると弁明すると又おかしい。何故かというと、その七百二十年段階では、藤原宮と浄御原宮、両方あった。倭京と言うと、どちらか分からない。どちらか分からないことを何故書くのか。結局どちらの時点で考えても倭京というのはおかしい。
 ところが、幸いなことに二月の初めに出る古田史学会報で、「両京制の成立」という最近の力作と考える論文を出しました。その中で九州年号が、正面から歴史の一環として当然ですが、問題にしている。この中で「倭京」という年号がある。
  日本書紀 巻第廿八   p384
 天渟中原瀛真人天皇上  天武天皇(岩波古典文学大系に準拠)
元年の春三月壬辰の朔己酉、・・・
夏五月辛卯朔壬寅・・・是の月に・・・
或は人有りて奏して曰く、「近江京より、倭京に至るまで、処々に候(うかみ)を置けり。亦菟道(うじ)の橋守に命じて、皇大弟の宮の舎人の私粮を運ぶ事を遮しむ。

 その論証から言うと、ここで大友皇子が、天武に対して「宇治から倭京」と言っているのは、宇治から大和までという小さい話ではなく、宇治から筑紫まで軍勢を張り巡らした。そうすると先ほどの吉備と太宰府の話と合うではないか。当然太宰府の栗隈王を殺し損ねたという小さな話ではない。それで終わりだということにならない。軍勢を山陽道に張り巡らさなければ話が合わない。「宇治から倭京」と言っているのは、非常にリアリティを持ってくる。
それに吉野へ行って気が付いたことですが、入り口は一つだけです。そこを押さえれば良いではないか。後山道が二・三ありますが、そこも押さえられたら終わりとなる。袋の中のネズミになりに行ったような場所です。そんなところに軍事的な意識を持った人間が隠れるはずがない。また吉野に篭(こも)ったなら入り口を押さえればよい。軍勢を宇治から大和飛鳥まで南北に配置する必要は全く無意味である。そのように非常に無意味なことがたくさんあります。
 また疑問を抱く大変な記事がたくさん有ります。
 その一つに天智が倭京に行ったという記事があります。これも従来は藤原宮だろうと理解されている。そうするとおかしいところがある。持統天皇のところに有名な記事がある。
  日本書紀 巻第三〇     P516
 高天原広野姫天皇  持統天皇(岩波古典文学大系に準拠)
六年春正月丁卯朔庚午、皇子高市に封を増すこと二千戸、・・・
閏五月乙未朔丁酉、大水あり。使を遣して郡国を循り行きて・・・
己酉に、筑紫大宰率河内王等に詔して曰はく、「沙門を大隅と阿多とに遣して、仏教を傳ふべし。復、大唐の大使郭務宗*が、御近江大津宮天皇の為に造れる阿弥陀像を上送(たてまつ)れ」とのたまふ。

 持統天皇が詔勅を太宰府に下して言った。郭務宗*が天智天皇の冥福を祈るために作ったという阿弥陀仏の仏像がある。それをこちらに寄こせという詔勅です。このような仏像を寄こせと言うだけの詔勅も珍しいが、それがある。
 つまり郭務宗*が天智天皇の冥福を祈るために阿弥陀仏の仏像を作っている。これも郭務宗*がもし壬申の乱の時、帰っていたら作るはずがない。このような阿弥陀仏の仏像が二・三カ月で出来るはずがない。仏像を作るのは何年かかかる。郭務宗*がもし帰っていたとしても、帰ったままではない。
 そういう問題も関係するが、もう一つある。『日本書紀』の記事をそのまま信用している限りは、天智は郭務宗*に会った形跡はない。郭務宗*は筑紫止まりである。大和へ来た記事はない。天智が郭務宗*と合ってなくて、郭務宗*が思い入れで、冥福を祈るために阿弥陀仏の仏像を作るのでしょうか。作るのは勝手だと言えばそれまでだが、私はそれはピンと来ない。やはり二人は会っていて深い交わりを生じていたから、冥福を祈る阿弥陀仏を作った。そう考えるのが人間の情として自然である。ところが今の『日本書紀』を見た限りでは、郭務宗*と会ったという記事はない。ところが天智が「倭京へ行った。」という記事はある。その「倭京」が筑紫ならば、当然郭務宗*は筑紫に来ている。当然郭務宗*に会っていても不思議はない。この当たりまで進むと色々問題があり議論して論証を深くすることが必要ですが。
 とにかく私は壬申の乱の原点は、筑紫が原点。しかも佐賀県の吉野が原点になっている。そう考えると解ける問題が幾つもある。
  日本書紀 巻第二十七(岩波古典文学大系に準拠) P378
 天命開別天皇  天智天皇彌
・・・
十年春正月の己亥朔庚子に、・・・
冬十月の甲子朔庚午に、新羅、・・・
庚辰に、天皇、疾病(みやまひ)彌留(おも)し。勅して東宮を喚して、臥内に引入れて、詔して曰はく、「朕、疾甚し。後事を以て汝に屬く」と云々。是に、再拝みたてまつりたまひて、疾を稱して固辭(びまう)して、受けずして曰したまはく、「請ふ、洪業を奉げて、大后に付屬けまつらむ。大友王をして、諸政を奉宣はしめむ。臣は請願ふ、天皇の奉為に、出家して修道せむ」ともうしたまふ。天皇許す。東宮起ちて再拝す。便ち内裏の仏殿の南に向でまして、踞坐(あぐら)に胡床(しりうた)げて、鬢髪を剃除りたまひて、沙門と為りたまふ。是に、天皇、次田生磐を遣して、袈裟を送らしめたまふ。壬午に、東宮、天皇に見えて、吉野に之りて、修行仏道せむと請したまふ。天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等侍へ送る。菟道に至りて還る。

  日本書紀 巻第二十八(岩波古典文学大系に準拠)
 天渟中原瀛真人天皇上  天武天皇即位前紀   p382
四年冬十月庚辰、・・・
天皇東宮に勅して鴻業(あまつひつぎのこと)を授く。乃ち辞譲びて曰はく、「臣が不幸き、元より多の病有り。何ぞ能く社稷(くにいえ)を保たむ。願はくは、陛下、天下を挙げて皇后に附せたまへ。仍、大友皇子を立てて、儲君(まうけのきみ)としたまへ。臣は、今日出家して、陛下の為に、功徳を修はむ」とまうしたまふ。天皇、聴したまふ。即日に、出家して法服をきたまふ。因りて以て、私の兵器を収りて、悉に司に納めたまふ。壬午に、吉野宮に入りたまふ。

 天武が、まだ天智が生きているときに「仏道を修行する為に吉野へ行こうと思う。」と言います。私などは、仏道を修行する為には、山の中の吉野が便利な所だ。そう今まで思っていた。しかし考えてみると仏道を修行する為に山の中へはいるという考え方はもっと後世の話である。当時の仏教七・八世紀の仏教は都会のど真ん中で修行する。奈良や京都はお寺だらけだ。奈良や京都は山の中ではない。都仏教です。むしろ高野山の方が例外である。(比叡山は京都のそばで、京都の守神の山である。)山の中へと仏教が一般化してくるのは、弘法大師あたりの後世の段階である。中心地としての都会の仏教である。
 それに当時奈良県吉野に大きな有名なお寺があったとは聞いてはいない。ですから奈良県吉野へ仏道修行に行くというのは当時としてはおかしい。
 ところが筑紫の方へ仏道修行に行くと言うのなら、中国から仏教が最初に入ってきたのは当然筑紫である。関係する話も必要ですが、今は省略して言うならば、筑紫の方へ仏道修行に行く。佐賀県吉野の方へ行くというならば、こういう話は意味がある。
 しかし大友皇子側からいうと、名目は筋が通っているから反対出来ないが、しかしこれはやばいぞ。そう大友皇子側は思ったに違いない。だから吉備や太宰府に脅しをかけに行く。そう考えると筋が通る。
 以上、もう一度言いますと吉野が佐賀県の吉野。倭京が筑紫。そのような視点から、壬申の乱をもう一度考え直さなければならないと思います。どうも有り難うございました。


(司会)
 会場は4時半までありますので、ご質問をお願いいたします。関連する問題はいくらでもありますので。

質問1
 (『日本書紀』により)壬申の乱が奈良県の吉野であると我々は非常に印象づけられている。それで奈良県の吉野であると思っていたら、今のお話で九州である。それを聴いてビックリしたわけです。他の国と大和の国という関係から、その間の距離。つまり瀬戸内海を通って行くというのが常道であると思うのですが。そうしますと今までの歴史を見ましたら、いかにも奈良・近畿と九州の間が極めて簡単に往来できるという事に全てなってしまうのですが。その関係は、交通的にあいだを抜いて簡単に行ける道として、どのようなものがあるのでしょうか。

(回答)
 その問題にお答えします。今の大和から九州へは困難で行けない道だよ。そういう話でないことは我々は良く分かっています。たとえばインドへ行ったとか、ヨーロッパへ行ったとか、そのようなところへは行けますか。そういう話と大分違うわけです。先ほどの中皇命の件では、九州から三重県の英虞湾に行っている。こう考えないと全ての歌の内容が理解できない。九州から近畿へ行けるけれども、近畿から九州へは行けるはずはないと。そういう話もおそらく成り立たない。物理的・地理的には、陸路で行ったか海路かどうか分かりませんが、物理的に行きうるという話は、日本に住んでいる皆さんは誰一人ご反対はない。次は政治的に行けるかどうかである。あの考え深い天武のことですから吉野へ行ったと考える。ですから物理的に行けないことはない。表面は政治的にも行ける状態にあった。反乱を起こしてからは行きにくいでしょうね。反乱を起こす前は天武と大友皇子は味方同士です。お腹の中は別にして形としては、表面は味方同士です。片方は天智の息子であり、片方は天智の弟である。私は再三言っていることですが、天智は亡くなる前に、天武に対して依頼したと思う。何を依頼したかというと、「自分の子供の大友皇子を頼む。よろしく見てやってくれ。まだ至らないことも多いだろうが、よろしく頼む。」。こう言ったと考えます。私は別に見たわけではないが、私はそう言ったと思って、間違いはないと思う。しかもその時天武が言った言葉も想像が付く。ずいぶんひどい小説家になったつもりか。そう言われるが私には分かるつもりなのです。その時出したのが、中国の周公の例だと思う。周の武王が死ぬ時に、弟の周公に依頼した。まだ小さかった子供の成王を頼む。よろしく立派な王者にして欲しい。そう頼んだことは有名である。周公はそれを守り抜いて、一生摂政という言葉を使ってますが、弟として成王を補佐し守り抜いた。それで周は、立派な周という国になった。武王段階では反乱が成功しただけで、しかも周という国は西の端にあった夷蛮から出てきた国である。中国全体から見ると大変いかがわしい存在です。それが殷に対する反乱が成功しただけの国に過ぎなかった。それが周公の補佐良きを得て立派な国になった。我々は周と言えば立派な国だと思うような、そういう周という国に仕上げていった。これは中国の古典に繰り返し書かれている有名な事実である。だからその事実を天智は出しただろう。わたしの想像ですが、あの周公のようにあなたも私の息子を見てやって欲しい。こう言っただろうと想像する。とにかくその段階では、天武と大友皇子側との対立は表面的には出ていない。むしろ大友皇子に対する最も良き保護者、天智の意志を受けたもっとも良き保護者という形になっていたはずだ。そうすると天武の行動に表面だってこれを止めることは出来たはずはない。しかも天武は九州へ行く理由は、非常に尤もらしい当時の大義名分に合う理由を言ったと思う。要するに仏道修行という大義名分は政治からは抜ける、いろいろ言う奴がいるが、あなたの邪魔はしない。私の想定に寄れば、これはある意味では天智の依頼に背くことになる。しかし表面から言うと、大友皇子側からいうと目の上のたんこぶが取れた。仏道修行を行うために吉野に行く。それを天智が生きているときに言っていますが。そういう理由から言うと、道々の役人に協力することを命ずることはあっても、これを止めさせろ、仏道修行をさせては成らぬと言えるはずはない。そういう事を考えてみると、政治的に大友皇子側が止める理由はなかった。
(再質問)
 今言うのは、天武は近畿の吉野へ逃れたというのが、九州の吉野へ逃れた。その後の戦いも、伊勢を通って東国の名古屋の連中を味方に付けて、滋賀県の大津の川で決戦した。どうも東国から戦いが行われた。東国から戦いが始まった。そういう印象がありますので、九州と近畿の間で戦いが始まった。九州から戦いが始まったと言われても、あの時代でも遠い九州から相当な大軍を送って、兵隊の準備・食料・兵担・などを含めて、その長い五〇〇キロの距離をどのようにして戦ったのか。そのあたりが具体的に思いつきにくいものですから。

(追回答)
 (天武が)まず岐阜県に連絡したことは事実だろう。そこが天武の考え方の非常に深いところだと思う。と言いますのは、もし仮に西の方から、出発点が筑紫としましても、西の方から攻め昇る場合、特に唐の軍隊がバックになっている場合は特にそうですが、大友皇子側は逃げようと思えば、東海道を東へ東へ逃げることが出来る。唐の軍隊が付いていようといなくとも、それを追いかけるとなると、これは水掛け論になる。勝負が付かない。それで面白い話が存在する。関東で三本足の烏を調査したとき、千葉県ですが、いたる所で聞かされたのは、大友皇子の奥さんが逃げてきた。そしてそれを匿(かくま)った。それを各地で聴かされた。私はそれを聴きに来たのではない。もっと古い話を聞きに来たのに困ったなあ。そう思ったことがある。又あるところでは奥さんと息子が三人(?)逃げてきた。そして在地の豪族は、息子の方を斬って奥さんのほうは匿った。そのお墓はちゃんとあります。私は何か戦国時代のような感じを受けたが、何か非常にリアリティがあって、うかつにそれはインチキだとも言えない感じがした。それでもう一度調べてみたい。他の目的で行ったので、それ自身を目的に研究調査してみたい。そういう事がある。大友の皇子は死んだけれども、何人の奥さんが居たか知りませんけれども、その内の一人が関東まで逃げ延びてきた。そういう事がないとも言えない。
 大友皇子自身に関しては、まず東から軍勢でバックも押さえないと、西から攻めただけでは決着が付かない。それは天武の深謀遠慮だと思う。それと今の私の説で理解出来やすいのは、いろいろな説がありますが、大友皇子は大山崎で首をくくって死んだということに成っている。私はその説が正しいと考えているが、あそこで死んだと言うことは、岐阜という東も押さえられて逃げれない。西からも攻められて逃げれない。おそらく他の逃げることが出来るところは天武が皆押さえていたのだと思う。だから進退窮(きわ)まって首をくくって死んだのだと思う。ということで天武は事を起こす前に、かなり相手を袋の鼠に追い込むような体制を敷いていたのではないか。ですから今言われたように他の連中は戦争は知らんよ。吉備や筑紫など他の連中は、この反乱は知らんよ。ですから天武が一人で軍勢を引き連れて筑紫から、とことこ攻め昇ってきた。そんな話は全くナンセンス。そんなことはあり得ない。周辺の布石を全部打って。原点は唐の了解を取り付けていると思う。私は唐はかなりいろいろな形で応援している可能性があると思う。それから反乱を起こしていると思う。それを筑紫から、とことこと攻め昇ってくる。そう受け取られると真相と違うと思う。もう一つ大事なことは、今までお思いになっていることは『日本書紀』に騙されているのではないか。『日本書紀』に書いてある事が本当だと思い込んでいるから、そのイメージに合わないから、頭で衝突を起こされるのは当然だと思う。私の今までがそうでした。『日本書紀』は非常に仕組まれた歴史書である。先ほどの持統天皇の三十一回もの吉野行きを入れ込んでいる。そんな歴史書で反論してもあんまり意味がない。
 それで私が今日発言したことを即本当だと考える必要は全くない。良くお考えになれば、つまり『日本書紀』の記述は本当ではない。そこで私が一番基本となることは唐の関与を無かったことのようにして書いている。それが『日本書紀』の記述の基本だと思う。作り替えを行っているので、その作り替えのイメージと合わないと言ってみても余り意味がない。
 それでこれは大変な問題で、今の時間ぐらいで話せる問題ではない。じっくりと考えて、じっくりと書いて、本にします。その時にじっくりと読んでお考え頂ければあり難い。

質問2
 一つは天武と天智は兄弟ではないという説。金達寿さん、小林恵子さんなどがいろいろ言っていますが、その問題について先生はどう考えておられるのか。二つ目には唐が関与というかバックであると言われたのですが。大和岩雄さんの『日本国はいつ出来たか』では推古天皇から持統ぐらいまで、いろいろ学説を挙げられている。そして天武から持統までのその時期に、日本と名乗ったのはその時期だと言われた。その天武から持統までの時期、その時期に唐が日本から引き揚げた時期と見て良いのか。唐が日本から何時引き揚げたのか、そのあたりの事について教えていただきたい。
(回答)
 まず最初の天智と天武が兄弟かどうかの説。これは何時でも良く出る説ですが、私は今のところ天智と天武が兄弟でないとの説に対しては、これに深くイエスと言う感じも持っていないし、ノーと言うことを特に主張するつもりもない。兄弟でない。年齢が天武の方が上だという話は、史料の成立が非常に遅いのです。鎌倉・室町時代ぐらいの成立だと思うのですが。その本の史料批判がまず大切だ。その本がどれだけ厳密か。そこから始めないといけない。あそこから持ってきて、利用して兄弟ではない。だからそういう話をするのは、いけないとは言わないが、その問題を洗い直してみなければならない。私が読んだ範囲では、きっちり全体として文献の史料批判を行った上で、論じているものは見たことがない。ですからもう一度史料批判をきちんと行わなければならないと考えています。私はイエスもノーも言いませんが、説の基本が曖昧(あいまい)というか、ルーズなように今は見えている。断言はしません。
 大和岩雄さんの『日本国はいつ出来たか』の本は御本人から贈られて、持っていますが私の議論は出ていなかった。『失われた九州王朝』『盗まれた神話』で議論しましたのは、既に六世紀に「日本」という言葉が使われている。直接史料である韓国側の『三国史記』『三国遺事』を引用して論じました。だから古田のその説は間違いだ。史料を挙げて「そうでない。」と言っておられるなら良いのですが、どうもそれは見えなかった。どうも困るなあ。頂いて読んだ限りではそう感じております。私はもっと古いものだと考えております。読者の会を含む最近の研究で明らかになったことは博多に日本(ヒノモト)という字地名があちらこちらにある。稲作水田で有名な板付、あそこが日本(ヒノモト)である。また吉武高木遺跡がある室見川の下流域、そこにも日本(ヒノモト)がある。他にも壱岐などあるのですが、糸島・博多湾岸に集中している。ですから博多から出ていくときに、昔の博多湾は大分入り込んでいたので、日本(ヒノモト)から出ていくことになる。吉武高木遺跡がある室見川の下流域、そこから出て行っても、やはり日本(ヒノモト)から出ていくことになる。「日本(ヒノモト)」は当然ニホンと読めます。これも面白すぎる話ですが、王維の安倍仲麻呂を送る詩に「日本に還る」という言葉が出てくる。あれはもしかしたら日本(ヒノモト)に還るという事かも知れないという問題もある。ですから非常に面白い問題でもある。とても大和さんのご努力はご努力ですが、それに尽きる問題ではない。日本(ヒノモト)は遠源は古いと考えています。
 それから唐の軍隊はいつ頃撤退したかと御質問ですが、それは分かりません。それは結局書いていないからです。私の方が勝手に、私は小説家ではないので、史料がないのに唐は何時引き揚げただろう。そう言うわけにはいかない。
 今日の話を皆さんが当然疑問を持たれるとすれば、『日本書紀』にそんなことは書いていないよ。そういう話だと思う。あるいは『続日本紀』にも書いてないよ。そういう話だと思う。壬申の乱を唐が応援したとか。また『日本書紀』が出来る上で、唐の圧力というか北朝系の思惑が加わって全部「評」という制度をカットした。私はそう言いました。そんなことは『日本書紀』にも書いていない。『続日本紀』にも書いていない。そう言われると思う。
 ちょうど新憲法がマッカーサーの圧力というかバックで出来た。皆さんはどなたも疑っていないと思う。しかし新憲法の何処を調べてもマッカーサーが作らせたとは一切書いていない。しかしそれを皆さんは疑っていない。新憲法以外の法律でも実際はマッカーサーが作らせた法律は幾つもありますよ。自衛隊もそうだと思う。しかしそんなことは何処にも書いてはいない。戦勝者は痕(あと)を濁さず。飛ぶ鳥は痕を濁さずではなくて、戦勝者は痕を濁さず。そういうやり口があるようだ。戦勝者は、それが通る。戦勝者でなければ、又それはしようと思っても通らない。圧倒的戦勝者はそれが出来る。そういう事がありますので、今日の話を小説家として言え。そう言うならばいくらでも言えるでしょうが、史料根拠に基づいて言えというならば、『日本書紀』や『続日本紀』という天皇家側の史料ばかりである。あなたが言うことが本当であるならば、書いてあるでしょう。それを出せと言う話は、無い物ねだり。新憲法をマッカーサーが作らせたというならば、新憲法の条項でどこかにマッカーサーという字を見せて見ろ。それを見つけなければ信用出来ないとなる。同じ理論である。この問題も今後いろいろ進展すると思います。

質問3
 今日の問題というのは、今まで余り言われなかった八世紀の造作説というのが『日本書紀』で出てきたと考えて良いわけですね。そうであるならば、それの主体というか、書き換えたのは誰であると考えておられますか。
(回答)
 それは近畿天皇家と考えています。近畿天皇家の中の誰かという点については、私はまだ分かりません。今後分かる可能性についてはあると思いますし、またその点は室伏さんに活躍して頂かなければならない分野だと思う。その気になって調べてみれば分からない分野ではないと思います。個人名詞は分かると思います。今の私の中でも少し出てきている名前があります。
一つだけ言いますと、先ほどの『朱鳥日本紀』です。
 『万葉集』巻一の四四番 (岩波古典文学大系に準拠)
右、日本紀に曰く、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の辰、 *6)浄廣肆 *7)広瀬王等を以ちて、留守の官(つかさ)となす。ここに中納言大三輪朝臣高市麻呂、その冠位を脱ぎて、朝(みかど)に[敬/手]上(ささ)げて、重ねて諫(あは)めて曰さく、農作の前に、車駕未だ以て動ふべからず。辛未に、天皇諫(あはめ)に従はず、遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔の庚午阿児の仮宮に御すといえり。
*6)浄廣肆 浄廣肆は大化改新以前の官位。浄は一から四まであり、それぞれ大と広とに別れる。肆は四。
*7)廣瀬王 川嶋皇子等と国史編纂の命を受け、養老六年、三位正下で没。

 ここで、*7)廣瀬王の注釈を見ますと、興味あることが書いてあります。廣瀬王というのは留守の役をなしている。私の先ほどの史料批判では太宰府の中皇命の留守の官だとなる。九州王朝の人物だとなる。九州王朝の人物である廣瀬王が、廣瀬王の子供かも知れませんが、(近畿天皇家の)川嶋皇子等と国史編纂の仕事をしている。
 そうすると九州王朝の留守の官をしているような人物、その人物の子か孫かも知れませんが、彼が国史編纂を行っている。そうすると九州王朝の史料を持って来て、かなり入れ込んで使っている。そういう問題がある。山田宗睦さんが見つけられた例では、筑紫の史という国司の人物が国史編纂に加わっているのではないか。九州王朝という言葉は使われないが、筑紫の人物が国史編纂に携わっている。そういう指摘もある。この廣瀬王も結構活躍しているようだ。このような新しい目で見ていくと、近畿天皇家というだけは物足りない。悪い奴は誰だ。そういう話は、今後見つかるも知れません。その中で良心的な動きをしたのは誰だ。研究して下さい。お願いします。

追加

懇親会第一話
 今日講演会で申し上げなかった問題で、かつ重要なテーマで、近日来考えた問題についてまず申し上げたい。
 昨年の八月から九月にかけて久留米を中心に共同研究・調査に行きました。多元関東の会、東京古田会、それから古田史学の会、皆さんの御協力を得て行いました。特に事務局長である古賀さんの御郷里ですから大変力を入れていただきました。非常に大きな収穫を得た。
 ぜんぶは申せませんが、その中で一つのポイントをもうしますと、筑後川の中流から上流域にかけての田主丸町、そこに「正倉院」が有る。そういう話が出てきました。これは何かと言いますと『久留米市史』(古代・中世 第七巻)に収録してある文書で「筑後国交替実録帳」(書陵部、古文書二十二)という文書(もんじょ)があります。この文書が何時の時代かと言えば鎌倉文書、親鸞や道元と同じ時代の文書です。仁智二年、親鸞であれば晩年近くになりますが、その時代の文書です。どのような文書かと言えば、太宰府の役人が都へ報告を送っている文書です。その中に「正倉院」というものがある。しかしこれは「無実」である。実が無い。また「正院」というものがある。これも又実が無い。無実である。無実という言葉がやたらに出てくる。これは何かというと、ご存じの「有名無実」の「無実」です。名は有るが、実は見当たらない。逆に言うと、実は無いが、名前はハッキリ残っている。「正倉院」・「正院」という名前がハッキリ残っている。名前が残っていると言っても、耳で残っているだけではなくて書いたもので残っているようだ。前帳では、こう書いて有るが実は無い。鎌倉の前半期の前ですから平安時代位になる。名前はこう有るが、実体は見当たらない。見当たらない。そう軒並み書いてある。やはり役人が責任逃れのために、有りません、有りませんという報告書を作っている。もちろん存在するものもある。それはお寺である。大善寺玉垂宮や光放寺等は現実に今も存在しているから、それらは鎌倉文書でも無実とは書いていない。他のものは、名前だけ上げて軒並み存在しない。無実・無実と書いてある。その中で「正倉院」は生葉(浮羽 うきは)郡にあり、「正院」は竹野(たかの)郡にある。これを東京古田会の高木博さんが発見された。昨夜の電話でお聞きしますと、東京でそのような史料を見つけておられたようだ。それで筑後研究を熱心にリードされた。現実に久留米市図書館に行って、『久留米市史』(第七巻 中世・古代)を見ると、これがあり非常に興奮した。
 なぜかというと、それまでに曲水の宴(きょくすいのえん)問題にぶつかっていた。これが久留米市の郊外、曲水の宴跡が五・六年前に発見されている。これは庭に水を導いて、水路がくねくね曲がっていて塗り固められ、水が早く流れない。ゆっくりと巡るようになっている。どうして曲水の宴の跡にしか見えないものがある。それが従来はこれは筑後の国府跡にあるという報告が久留米市教育委員会によって報告されている。しかし考えてみたらおかしい。筑後の役人が曲水の宴を行っていたのでは格好が付かない。それなら全国の国府の役人がみんな曲水の宴を行わなければならない。それは無い。その報告では時期を八世紀から十一世紀までと、横の建物から時間を当てている。それが今日お話しした年輪年代測定法などにより百年遡ることになる。そうすると七世紀になる。そうでないと曲水の宴にならない。
 そういう問題の久留米の問題と(奈良県の)正倉院文書の問題である。私はあれ!と思ったのは筑後だけが献上品が全然違う。他の地方は醤油や味噌など非常に分かり易い地方の特産物等である。
 しかし筑後だけが全然違う。まず天平一〇年に、銅の竈(かまど)を作る工人を献上させられている。次は轆轤(ろくろ)の職人を献上させられる。轆轤(ろくろ)の職人も重要な技術である。更におかしいのは、鷹狩りの技術者を三十人献上させられている。三〇人と書いてある。先ほどの銅の竈を作る工人は書いていない。もっと多いみたいだ。さらに犬を献上させられている。犬というのは御鷹犬です。鷹狩りには人間だけいても駄目。犬が要る。特殊技術を持った犬を筑後から献上させられている。天平時代は奈良の犬では駄目だったみたいだ。鷹狩りというのは、最高の貴族の遊びです。中世ロンドンで英国王が鷹狩りの本を書いたというのは有名です。日本でも平安時代に清和天皇が鷹狩りの本を書いた。そういう最高権力者の遊びに成っていた。元々は中央アジアでは庶民の猟です。それで最高権力者の遊びである御鷹狩りの技術者や犬を、(近畿)天皇家は献上させている。一番の問題は玉類。雖玉というのは玻璃製・ガラス製品。現代では安っぽく見えるが、当時ガラスは最高の工業製品。一五・一六世紀に西洋で大量生産の方法が発明されるまでは、尊い宝玉のトップの位置にあったのが玻璃製・ガラス製品。その玻璃製品を九百三十三枚、「賣」という名目で献上させられている。どうせ買い上げたと言っても大した金は出していない。さらに今度は真珠。白玉百十三枚、これもすごい数。その他にもいろいろ竹玉・ガラスの勾玉・管玉とか献上させられている。要するに弥生時代に博多湾岸にあった物が皆筑後の方にあったらしく、それを献上させられている。そういうことがありました。それで今度の古田史学会報に少し皮肉を書いたのですが、従来の正倉院文書の研究者は多いが、どうして九州王朝論者にならなかったのか。あれを見れば筑後は他の国と違って、最高権力者の土地であることが明確ではないか。それから天平十年から十四年後に東大寺の奈良の大仏が建立されている。これは銅の製品ですよ。そうであれば今の数が書いていないほどの「銅の竈の工人」が献上させられている。その彼らが奈良の東大寺の大仏の建立の中心になったことはまず疑いがない。そういうことは教科書では教えていないでしょう。天平十年以前の権力の中心地は福岡県でした。王朝はそこにありました。正倉院文書の研究者がみんな言わなければいけない。言わなかったのが後世から見ると謎になるのではないか。こういう皮肉を書いた。
 そこから始まった問題は(近畿に)献上する前のおびただしい宝玉はどこに有ったのか。そういう疑問を持っていた。そこへ東京の高木さんから、筑後国に「正倉院」が有ったと言われたので、本当にビックリした。天平十年に献上させられた膨大な宝玉はどこに入ったか。おそらく疑いなく奈良の正倉院に入ったことはまず間違いがない。我々は今奈良の正倉院の宝物を見ていますが、何処からきたか知らずに見ています。。特にその中の膨大な宝玉類は筑後から来たことはまず間違いがない。そうすると前にあった場所も並の庶民の家や地方豪族にそんなものが有るはずはない。そうすると筑後の正倉院にあった。そうなれば筑後の正倉院は第一正倉院。我々が知っている奈良の正倉院は第二正倉院。そういう問題が出てくる。それで現場はなかなか難しいだろう。鎌倉時代の役人が無実、無実と一生懸命書いているぐらいだから、二十世紀の我々が捜して見つかるはずがない。そう思って出かけて行った。一月の六日から十二日にかけて久留米市に行った。そうしたらあった。
 これは東京古田会の高木さんの事前のリサーチにより、田主丸町教育委員会の丸林貞彦氏に案内していただいた。三十代後半の熱心な方だった。連れて頂いたところが、「井の丸 井戸」と呼ばれている所です。二重の石垣に囲まれていたと言われている所です。掘れば二重の石垣があると思うが。そこに教育委員会の看板があって、これは「正倉院」の跡ではなくて「正倉」の跡である。現在の知識では、正倉院が各地にあっては困ります。天皇家に献上するものを納める「正倉」なら全国各地にある。それだろう。そういう形で書いてある。その証拠の礎石が付近にあると看板に書いてあった。見たいと丸林貞彦氏に言うとその井戸の隣の家の庭石がそれだった。以前に了解を取られていたので、みんなで入らせて頂いて観察した。庭の石が軒並み礎石である。丸い石に四角い穴が開いている。そういう感じである。あの礎石が庭石に点々と使われている。大中小とあります。しかも側の三明寺バス停の角の大きな石垣、それは大きな礎石が石垣として使われていて、しかも点々と大中小の礎石がたくさん使われている。
 先ほどの鎌倉文書から見ますと、現在竹野(たかの)郡と書いてある所がその場所である。そこには「正倉院」でなく「正院」と書いてある。人間が居る所が「正院」、倉がある所が「正倉院」。そういうコンビになっている。今の井戸がある所は、倉があって大事な所でなく、人が水を飲むのに大事な所、筑後第一の井戸だと言われていたと書いてある。それを最高の人が支配している。
 そこを教育委員会は「正倉」と書いてありますが、鎌倉文書と比較しますと「正院」跡になる。その鎌倉文書には面白いことが書いてある。崇道天皇が居られた「正院」・「正倉院」跡だと書いてある。崇道天皇というと平安時代の有名な早良親王。不遇の親王として有名で権力争いに敗れて淡路島に流され、その途中で死んだ。それで祟りなどがあって、社(やしろ)を奈良に移した。『三代実録』にそう書いてある。この早良親王とは全く別人だ。なぜなら早良親王は九州へは一度も行っていない。九州とは縁がない人物です。早良親王は後で崇道天皇と送り名されたようですが、それとは別の崇道天皇が作った「正院」であり「正倉院」。そういう形になっている。その「正院」が見つかった。
 もう一つ言いますと、『田主丸町史』、そこに写真がありますが、この地帯に条理制が行われた後があります。空から見るとハッキリ分かります。山の上からでもハッキリ見えるそうですが。我々から見ると小京都ではないかという姿を示している。それも現地の説明では、八世紀初めの道臣(みちのおみ)という人物が国府の役人が来たと『続日本紀』に書いてある。その人物が作ったものであろう。そう『田主丸町史』には書いてある。ところが丸林さんを含んで困っている。それはこの後教育委員会の方と質疑応答したのですが、何故かというと、これらの遺構は八世紀の道臣が作ったという形で理解して説明されている。実は年輪年代測定法が出てきて百年ぐらい遡ることになると、道臣(みちのおみ)の手を離れることになる。道臣より百年前の話となる。七世紀前半の話になる。これは大変困ります。私たちは大変困ります。正直に言っておられた。困られるけれども仕方がない。つまりこれは白村江以前の崇道天皇と言われる人が七世紀前半に居た。その人の作った正院であり正倉院である。そこにおびただしい玉類があった。それを八世紀前半に(近畿の)天皇家に献上させられた。そういう話になってくる。
 後は詳しくは古田史学会報会報(三十六号)の論文に掲載させて頂くので簡単に言いますと、この筑後領域はほぼ都の姿を示している。先ほどの『久留米市史 第七巻』「書陵部所蔵諸官符」には「宮城」と「宮城大垣」が書いて有る。「宮城大垣」の名前が残っている。調べたけれど分からない。つまり宮城の中に正院と正倉院が有る。これでは並ではない。国府の役人が宮城に居たら大変なことになる。そういう遺構があると思う。今のところは正院だけが分かっている。他の正倉院や宮城大垣は調べなければ分かりませんが。その一点が確認されたことで、まず中世史料が単なる想像でこんな事が言えるはずがないことが分かってきた。
 それで筑紫太宰府は正面から見て、見える丘が大(内)裏丘、それに(字)紫宸殿、朱雀門とあり、あれが都の姿を示している。天子が居ることを示しているのは明らかです。それと同時に、ここにも都がある。筑後も、宮城の中の正院・正倉院です。そうすると古田史学会報で問題にしている「両京制」という概念を導入することになった。
 そうするとそこで出てくるのは九州年号の問題。『失われた九州王朝』で記載してありますが、九州年号の最後に「喜楽 ー 端正 ー 始哭 ー 始大 ー 法興」と五つの別の系列の年号が存在する。これは『二中歴』や『海東諸国記』の「端政ー告貴(従貴)」と重なっている別系列の年号が五つある。しかも別系列の2番目の年号である「端正」は、我々が知っている『二中歴』の「端政」と同じだと思う。「正」と「政」で略して書いただけで同じである。そして、ここに別系列の年号の定点が入る。定点が入って、そこに「法興」があり、重なって「倭京」という年号が存在する。「定居」も「法興」と重なっている。このあたりが二つの年号が並立している。
 そうしますと、今のわたしの仮説ですが、「両京制」と対応して、「両年号制」が部分的に存在したのではないか。そこで始めて「法興」という年号が位取りが出てきた。詳しくは古田史学会報を見ていただくと分かりますが、二つある方の都のうち、太宰府の方は紫宸殿があるから文句無しの都。筑後の方は文句がある訳ではないけれども、宮城と言っているけれども正院・正倉院と言っている。つまり「院」です。太宰府の方は院ではない。そうすると、そこに上宮法皇が居たのでないか。だから「院」です。つまり天子を引退して、しかし天子以上の権力を持っているような上宮法皇が、正院・正倉院に居た。つまり院政の始まりではないか。我々が知っている平安時代の後白河天皇などの院政の元はここにあったのではないか。
 私は今まで『二中歴』の主幹系列の年号だけを意識してきたが、二重並立期があった。そこに「法興」が入ってきた。私はそこで大きな問題に突き当たったと考えている。
(参考)
九州年号 部分
「鏡当 ー 勝照 ー 端政 ー 告貴(従貴) ー 願転 ー 光元 ー 定居 ー 倭京 ー 仁王」
「喜楽 ー 端正 ー 始哭 ー 始大 ー 法興」

『田主丸町史第二巻』 ーームラとムラびと 上(一九九六・一〇・三〇)
『久留米市史 第七巻』「書陵部所蔵諸官符」

 次に話は白村江の方へ移りたいと思います。
 もう一つ申し上げておかなければならないのは、天智三年に「筑紫(ちくし)の水城(みずき)を作った。」と『日本書紀』に書いてあります。今まで私は、その筑紫の水城とは太宰府にある水城だと考えてきた。みなさんもそう思ってきたし、もちろん九州歴史資料館を初め九州の方もそう思っていた。ところが最近変な話が出まして、太宰府の南側にも水城(みずき)があった。規模は小さいけれども水城と見えるものが見つかったと、関西・東京では出ないが西日本新聞などでは出ている。
 実は私はそれだけではないと思う。『久留米市史』の中世史料を見ますと一番良く書いてあるのが堤である。大きい堤、中ぐらいの堤、小さい堤と一杯書いてある。小さい堤でも一九七カ所。大きな堤でも、中ぐらいの堤はもっと書いてある。しかも高さ何尺何丈、幅何尺何丈と非常に細かく書いてある。とうてい耳で聞いたような話ではない。前帳、多分平安時代の帳簿に残っている話である。鎌倉文書に軒並み無実と書いてあるが、帳簿に残っているだけで有り難い。私はこれは水城(みずき)だろうと思う。要するに敵が来た時洪水にして敵の侵入を防ぐ。
 先ほど言いました吉野ヶ里の三〇〇メートルの塗り固めた高速道路(土塁)。あれもその一環だろう。私は始め農業用だろうとか、津波を防ぐためだろうかと、盛んに徳富さんにお聞きした。そういう説もあるが、それだけでは収まりがつかない。向きが違う。洪水を防ぐ為や農業潅漑では皆向きが合っていない。それで高速道路だろう。そういう論文を書いておられる。しかし、それを押し詰めていくと軍事用ではないか。敵が攻めて来たとき水を流して敵の侵入を防ぐ。しかしそこの高速道路は通れる。この堤も水城の一種ではないか。
 それを『日本書紀』を見ると「筑紫の水城みずき」と書いてあるのを、我々が勝手に、太宰府の水城が残っていますので、結びつけて解釈してきたのではないか。また神護石山城群もある意味では「水城みずき」の一種ではないか。何故かというと、水を流して、敵を攻撃した時民衆は溜まりません。畑や家も全て潰されます。それだから民衆も神護石(こうごいし)山城に集合させ収納する。大体神護石で囲んでいる所は広すぎる。兵士だけでは余りすぎる場所を囲んでいる。ですから民衆も入れる為のものだろう。そういう事は前から言われていた。しかし私はまだ頭が固くて、敵が攻めてきた時の逃げ城のように考えていた。基本はそれに違いないですが、それだけではなくて洪水作戦を取った。敵が侵入してきた時は、民衆を神護石山城群に入れて洪水作戦で対抗する。そのような遠大というか壮大なプランを立てて、水城(みずき)と神護石(こうごいし)山城群が作られていた。
 この水城(みずき)は、一石三鳥というか三つの用途を兼ねていた。
 一つは日常の給水である。十数年前福岡へ行ったとき水不足で悩まされた経験がある。ホテルで泊まっていたが水が一切出ない。お風呂もない。レストランも水がないから廃止。作ってくれない。そういうひどい目にあった経験がある。つまり人口が今ぐらい有ると水が不足する。それは当時も変わらないと思う。特に倭人伝でも七万戸と非常に多い。筑前から筑後だと思いますが。あれだけの人数が居たら水にたいへん困ると思う。その為の水を普段貯蔵する。筑後には谷をせき止めた跡がたくさん有る。谷をせき止めて飲み水の不足に対処する。
 もう一つは潅漑用。田畑の潅漑にも使う。
 しかし一番大事なのは一旦緩急あれば、軍事用の敵に対する洪水作戦。焦土作戦という言葉がありますが、洪土作戦に出て敵を水浸しにする。
 そういう一石三鳥のような構想を持って作られたのが、神護石(こうごいし)山城群と水城(みずき)ではないか。今そういう事に気がついて、気が付くのが遅いですが、驚いています。

 そうしてみると何故そんなすごい準備をしていたのに、なぜ白村江まで出て行って負けたのか。出て行ったことに大ポカ・間違いが感じられる。これは一体何か。
 これは先ず百済の壊滅。その問題から始まっている。白村江の三年前、唐に新羅が「高句麗や百済が国境を襲ってきた。」と訴えてきた。それを口実にして、百済に侵入して国王・皇子・大臣を三七人捕虜にして長安に引き連れて帰ったという事件がある。『日本書紀』がこれを書いていないことに意味がある。あれは完全に唐の侵略です。それを『日本書紀』は書きたくなかった。
 そこから先は私の推定です。おそらくその時に、百済にも今のような朝鮮式山城があった。ところがそれは用を成さなかった。唐は朝鮮式山城を知っていて、これに対して用を成さない作戦を立てたと思う。唐の前の隋が、高句麗遠征にさんざん失敗していますから。それに学んで百済を攻撃するときに、対抗する処置に成功したのだと思う。それが倭国に非常にショックを与えた。自分のほうはこれだけ準備して大丈夫だと思っていたら、あの百済のような調子で攻撃されたらもう駄目だ。このことが外に出て戦うという作戦になった一つの理由です。
 もう一つの想像は、古賀さんに言われて直ぐ賛成したのですが、近畿天皇家が原因ではないか。つまり近畿天皇家がバックにいて白村江から手を引いた。唐と内応しているかも知れない。そうすると先ほどの敵の侵入を待って戦うという戦い方は十全ではない。後ろにも敵が居る。
 それで結局いろいろな議論が中でされたと思います。それでは今の我々は海戦には自信がある。唐が攻めて来ても、我々は全力で戦えば勝つ。そういう形で、飛んで火にいる夏の虫になった。おそらく唐はそれを予想していた。近畿天皇家と関係していれば情報は入りますから。それで白村江の戦いになり敗戦になった。
 そういう事になりますと、唐としては本当に近畿天皇家に足を向けては寝れない。それで天智天皇が亡くなったときに、阿弥陀仏の仏像をつくって弔う。そういう形になって行ったのではないか。
 昨日から昨夜にかけて出てきた問題を申し上げました。今後検討して頂ければ幸いです。

講演記録『壬申の乱の大道』
古田武彦講演会 二〇〇〇年 一月二十二日(日)午後一半時より四時半
 於:大阪市北市民教養ルーム


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