古代史再発見第3回 独創古代 ー未来への視点 1998年10月4日
               大阪 豊中市立生活情報センター「くらしかん」

天の原・・・三笠の山 二つの三笠山

古代史再発見

独創古代
ー未来への視点

古 田 武 彦

一 天の原 ・・・三笠の山に出でし月かも

 天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

 この歌は、百人一首にも出ているので日本人にとっては、非常に良く知られた阿部仲麻呂の歌でございます。
 この歌をわたしは二十代半ば、大学を出てすぐの青年教師の頃松本深志高校の国語の授業でこれを扱った。教科書にこの歌があって参考書かなにかで勉強して、いかにも知ってるような顔して、従来の定説どおりの解釈を話した。
 阿部仲麻呂という人物が遣唐使で中国へ行って、帰りがけに明州という中国の東海岸で船出するときに、別れの宴を催してもらって、その時読んだ歌だ。

 「天空を見上げて、振り返れば月が見える。我が故郷の大和の春日の三笠山にでた月だ。」とそういう解釈をした。
 授業が終りカンと鐘が鳴って、廊下へ出てくるとバラバラッと生徒たちに取り巻かれた。

 (生徒)先生、今日の詩について、質問していいかね
 (古田)ああいいよ
 (生徒)なんでみんな宴会の時、西向いとったんかね
 (古田)なんでそんなこと、ワシが言ったか?
 (生徒)だって、「天の原を振返ってみたら」と訳した。日本が見えるというんだから、日本は東にあるじゃろ。それまで皆西向いておらにゃならんじゃないか。どうして宴会の席で、みんな西向いていたのかね。

 この辺までは例によって、生徒が若い先生にイチャモンをつけて、苛めていると。連中来たな! こっちはそのくらいに思って「負けんぞ」という気持ちでおった。ところが最後の質問でトドメを刺された。

 (別の生徒)先生、その春日ちゅうのは、中国でそんなに、有名なんかね
 (古田)  えっ!、どうして
 (別の生徒) だって、大和なる三笠の山と、どうして言わんのだい。大和なら中国でもみんな知っている地名だろ。春日というのは大和の中の小さい地名だろ。春日って中国ではみんな知っているのかい。

 この質問には、ざっくり首を斬られた感じがした。生徒には「次の時間までに考えてくるから」とその場をおさめた。でもね、私はこのときは、「まだまだ。」と内心は思っていた。その時は新米の教師で、初めは社会科で一年やってから、校長から「国語に変わらんか」と言われて変わったが、国語はぜんぜん知らなかった。でも土俵を割ったつもりじゃなかった。職員室へ帰れば、活きた虎の巻がいた。石上順さん・・国学院出身で折口信夫(釈超空)先生の直弟子で、その時四十歳代。先生の伝記にも名が出てくる・・というベテランの先生が隣の机にいられた。その先生に聞けばなんでも教えてくれた。帰ってその先生に「どうでしょうか」と聞くと、ニヤニヤ笑って「ウーン連中、いいところを突くねェ」。何も教えてくれない。つまり国語の古文の辞書まで作られた石上さんの目にも解説できなかった。

 わたしは次の時間にも「わからん」と言わざるを得なかったんです。

 これが解けたのは、質問を受けてから二十五年も経って、古代史の世界に入って対馬に船で行った時です。博多から壱岐を通って対馬へ船で向かったとき、あるところで西に向きを変える。博多からずーっと行きますと、対馬の西側浅茅湾へ入るには、大きい船は壱岐の北東側をまわって、そこの水道で、西に向きを変えるのがスムースなんです。
 船のデッキに出ていて、西むきの水道に入ったときに博多方面を観ていた。たまたま目の前に壱岐の島があり、船員さんに「ここはどこですか」と壱岐の地名を聞いたら、「天の原です。」と言われて、ギョッとした。こんなところに「天の原」がある。確かに考古学的には壱岐に天の原遺跡があり、銅矛が三本出土したことぐらいは知らないではなかったが、その遺跡がどこにあるかは、確かめたことはなかった。ところが目の前というか目の下に、曲がり角のところに「天の原」があった。忘れていなかったのでしょう。二十五年前の授業と生徒のことを思いだした。
 そのときは、もう九州の「春日と三笠山」については、一応知っていた。旧制広島高校時代の無二の親友といってもよい友人が九州春日市にいた。そこの家に泊めてもらって、福岡・博多湾岸を歩き回った経験がある。だから一応地理は知っていた。春日市、今は博多のベッドタウンですが、昔は太宰府のベッドタウンだったでしょうね。それで現在名は宝満山。仏教的な命名で後で付けられた名前。ほんらいは御笠山という山がある。ここの御笠山は、御笠川が博多湾に流れていて、御笠郡がある。そういうことは知ってはいたが、奈良と似たようなセットになった地名があるのだなあ、というぐらいだった。阿倍仲麻呂と結びつくとは思いもしなかった。
 ところが、「天の原」があり、船のデッキから見ると、ドンピシャリ見えるというわけではないが、大体あの辺りが御笠山となる。しかも後で知ったことですが、ふりかえって見ると、目の前に御笠の山が二つある。金印の出た志賀島。そこにもそんなに高くはないが御笠山あり、他方は宝満山とよばれる御笠山がある。「筑紫なる三笠の山」と言えば、どちらか分からない。ここでは宝満山を御笠山に特定するためには、「春日なる三笠の山」と呼ばなければならない。
 だから生徒から、「なぜ大和なる三笠の山といわんのだ。」と突っ込まれずむに済む。これで全部答えが出てしまった。これは偶然の一致とはいえないと、考え始めた。

 資料例
 續筑前国風土記
 筑前之二十四(御笠郡四)
 寶満明神ハ在リ御笠郡竈門山上(又名寶満山、又名御笠山)

 偶然ですけれども、松本深志高校で私をいじめた、素晴らしいいじめですけれども、そのグループのボス的存在が北九州にいた。製鉄会社の子会社の社長になっていて、重厚な立派な紳士になっていた。二十五年ぶりに報告したら喜んでくれた。
 その問題が、今日お話しする重大な問題に発展するとは思ってもいませんでした。




二 二つの三笠山
 
 次に十月三日昨夜、奈良県奈良市に行って、三笠山と月の関係を観測してまいりました。きちんと晴れまして朱雀門の所に陣取って、十人ばかりで観測しました。一目瞭然。三笠の山は奈良では無理がある。
 奈良市の中央、朱雀門から東を視ると、北寄りに若草山があり、その南に春日連峰が連なっている。春日連峰は花山、芳山、高円山などが連なっていますが、主峰が高円(たかまど)山です。高円山に向かってその左下に御蓋(みかさ)山がある。若草山と御蓋山、この二つが三笠山と呼ばれている。
 結局三笠山が二つある。これおかしいと思いませんか!。確かに地名もそうですが、山の名前も同じ音だったり、表記だったりするものが日本列島各地にある。これは別の国でもある。しかし同一地点からみて、同じ名前の山が二つある。そんなことがあると思いますか。わたしは、そんなことは、ありえないと考える。第一不便でしょうがない。名前を付ける意味がない。○○山と言っても、分からない。
 結局資料を調べたり、朱雀門を長年管理しているおじいさんや、平城宮跡博物館のボランティアの説明員のおじいさんなど地元の人の話を詳しく聞いた。それで分かったことは、現地で三笠山と言っているのは、低いほうの御蓋(みかさ)山のことである。この山から月が出ると言っても、余り低すぎて説明が付かない。
(この山から月が出るのを観察できるのは、春日大社の境内だけである。)
 それで結局、見えやすい若草山を、三段に見えるところがあるというので、江戸時代には人々が三笠山だと思うようになった。
(この山から月が出るのを観察できるのは、奈良市のうんと北の方の丘というか古墳沿いである。)
 二つ三笠山があると言っているが、現地読みの三笠山・若草山と、学説三笠山・御蓋山がある。これが両方あるという意味である。
 学説御笠山もこれで良いかというと、そこから月が出るのは、見る角度や観る位置によって、なかなか難しい。
 昨日朱雀門から月を見たときは、だいたい高円山の東側から出て、とても三笠山から出たという感じがしない。だいたい春日連峰から出るとか、高円山から出ると言えばよいが、「三笠山から月が出る。」という言い方は、全く言えなくはないでしょうが出来にくい。
 写真家の入江氏が、撮した写真の中で、両脇に若草山と御蓋山がならび、春日連峰の若草山寄りに月が出ている貴重な写真がある。これはどこから撮った写真かというと、西の京の薬師寺辺りから撮った写真である。もう一つ御蓋山から月が出ている貴重な写真を、「古田史学の会」の会員の方が、見つけて下さった。『歴史の舞台』という入江氏の写真集。ここには中央に御蓋山があって、真上に月が出ている。じゃあ、この写真はどこから撮ったかというと若草山からです。若草山の上に写真機を据え付けて、月と御蓋山を撮った写真である。たいへん苦労し抜いて撮った写真である。
 だから無理をして三笠山(御蓋山)から月が出る写真はあったのですけれども、普通に奈良市内から見たのではどちらも当てはまらない。普通に「三笠の山・・・」から月が出るとは言いにくい。どう観ても春日連峰から月が出るという言い方なら問題がない。「・・・高円山に 出でし月かも」、「・・・春日の山に 出でし月かも」なら当てはまるが、どうも「・・・三笠の山に 出でし月かも」とは言えない。

 もう一つ知ったことは、御蓋山が「神山」であるという興味深いお話を、平城宮跡博物館のボランティアの説明員の方から知ったことである。
 春日大社の神山ですが、同時に春日大社以前の御神体の山です。「北の御蓋山(ミカサヤマ)、南の三輪山(ミワヤマ)という南北に対する神様の山でした。」という興味深い貴重なお話を、ボランティアの方から繰り返しお聞きした。
 私のほうの理解からすると『古事記』『日本書紀』の神話とは別世界の、それ以前の神話である。『古事記』『日本書紀』の神話は、御承知のように九州から来た三種の神器の信奉者が、大和に侵略してもたらした神話である。それでは侵入する以前は神話のない世界だったのかというと、そんなことはない。その前も神話があった。 その一つの証拠が、天香具山の神話です。大和の風土記は断片しか残っていませんが、天が裂けて、一方が四国の石鎚山へ、墜ちてきた。他方が大和の天香具山へ墜ちてきた。そういう説話が残っていた。これは『古事記』『日本書紀』の神話ではない。だから『古事記』・『日本書紀』とは、ぜんぜん別系列の神話で、北の三笠山、南の三輪山に神が降りてきたという神話である。その御神体を祭る神社があって、その上にと言うか後に春日大社が乗っかって祭られている。この辺の話も始めると面白いが、せっかく大和に帰ってきたのだから大和の研究をしたいと思った。天皇家以前の大和の歴史の研究です。
 とにかく「歴史は足にて知るべきものなり。」ということ。私の尊敬する歴史家秋田孝季が言っていることを痛感した次第です。

 このような新しい発見があったので今日は赤いネクタイをして、喜びを表現しようと思ったが、帰って新聞で見ると犬養孝氏が亡くなっていたので普通の地味なネクタイにした。
 さて昨日現地で確認したとおり、間違いなくこの阿倍仲麻呂の歌は、奈良県の大和で詠んだ歌ではない。さきほど九州の御笠山。九州では、御笠山は海抜千メートル近くあり、高さがぜんぜん違う。奈良の三笠山は、三百メートル程度である。しかも(博多)海岸辺ですから、いつも雲が棚引いているようである。月が御笠山(宝満山)から毎日上がる。阿倍仲麻呂の歌は古今集ですが、万葉集の中に御笠山が出てくる歌がある。御笠山には朝出た雲が消えたかと思うと、又夕べの雲が棚引く。いつも雲が棚引いていて絶え間がない。それと同じように私の心にあなたの面影が、朝浮かべたかと思うと夕方また出てきて絶え間がない。あなたに未練が湧いてくる。という見事な女心を詠った歌がある。ところが従来は奈良の三笠山として扱っている。岩波古典体系の注釈も、そうなっている。ところが奈良の三笠山は低すぎて朝も夕も雲が常にかかるという山ではない。ところがあの宝満山では、千メートル近くあり、海岸が近いため、いつも雲が棚引いている。私も三回登った。初めは晴れて幸運なことに博多湾岸が見渡せたが、後の二回は霞がかかっていて何も見えなかった。見えないのが普通である。この歌の通りである。実はあの歌は、九州の御笠山が歌われていたのではないか。という問題があり、犬養孝氏にも、この歌の解釈を聞いていただきたかった。この歌だけなのかという問題もある。

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