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新・古典批判「二倍年暦の世界」3 孔子の二倍年暦

2002年12月 3日 No.53

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新・古典批判「二倍年暦の世界」3

孔子の二倍年暦

京都市 古賀達也

 『管子』の二倍年暦
 司馬遷の『史記』によれば、黄帝・堯・舜の年齢が百歳を越えていることから、夏王朝前後の中国は二倍年暦であったことがうかがえる。他方、『三国志』では一倍年暦で記されているにもかかわらず、その倭人伝においては二倍年暦による倭人の高齢(八十〜百歳)が何の説明もなく記されていることから、この時代既に二倍年暦という概念が中国では失われているように思われる。
 管見によれば、『管子』に次のような二倍年暦と考えざるを得ない記事があることから、周代の春秋時代は二倍年暦が続いていたと考えられる。

 「召忽曰く『百歳の後、わが君、世を卜る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり。いわんやわれに斉国の政を与うるをや。君命をうけて改めず、立つるところを奉じて済さざるは、これわが義なり』。」(『管子』大匡編)
 ※訳は中国の思想第8巻『管子』(徳間書店、松本一男訳)による。

 斉国の王子、糺の養育係だった召忽が臣下の忠誠心のあり方について述べた件である。王子が百年後に死んだら自らも殉死すると主張しているのだが、ここでの百歳は二倍年暦と考えざるを得ない。当時の人間の寿命を考えれば、たとえ王子が幼年であったとしても百年後に世をさるというのは現実離れしていて、表現として不適当である。やはり、この百歳は二倍年暦であり、一倍年暦の五十歳と見るほかないのではあるまいか。それであれば、人間の寿命としてリーズナブルである。


 『列子』の二倍年暦

 同じく周代の戦国時代における二倍年暦の例として、『列子』に多くの記事が見える。

1)「人生れて日月を見ざる有り、襁褓を免れざる者あり。吾既に已に行年九十なり。是れ三楽なり。」(『列子』「天瑞第一」第七章)
【通釈】同じ人間と生まれても、日の目も見ずに終わるものもあり、幼少のうちになくなるものもある。それなのに、自分はもう九十にもなる。これが三番目の楽しみである。
2)「林類年且に百歳ならんとす。」(『列子』「天瑞第一」第八章)
【通釈】林類という男は、年がちょうど百にもなろうという老人である。
3)「穆王幾に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮むるも、猶ほ百年にして乃ち徂けり。世以て登假と為す。」(『列子』「周穆王第三」第一章)
【通釈】思うに、穆王とても神ではない。一身の楽しみは皆やり抜いたが、やはり百年もすればこの世を去ってしまったのである。世間ではこれを遠く天に上ったと言っている。
4)「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(『列子』「周穆王第三」第八章)
【通釈】この下僕がいうには、「人の一生の内、半分は昼であるが、半分は夜である。自分は昼の間は人のために働く下僕の身で、確かに苦しいには相違ない。けれども夜は人の上に立つ君主であって、その楽しみは比べるものとてない。してみれば、何も恨みに思うことなどありませんよ」とのことであった。
5)「太形(行)・王屋の二山は、方七百里、高さ萬仞。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且に九十ならんとす。」(『列子』「湯問第五」第二章)
【通釈】太行山・王屋山の二つの山は、七百里四方で、高さが一万尋もある。もとも冀州の南、河陽の北のあたりにあった山である。ところが北山愚公という人がいて、もう九十歳にもなろうという年であった。
6)「百年にして死し、夭せず病まず。」(『列子』「湯問第五」第五章)
【通釈】百歳まで生きてから死ぬのであって、若死にや病死といったこともない。
7)「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。設し一有りとするも、孩抱より以て?老に逮ぶまで、幾んど其の半に居る。」(『列子』「楊朱第七」第二章)
【通釈】楊子がいうには、百歳は人間の寿命の最大限であって、百歳まで生き得た人間は、千人に一人もない。若し千人に一人あったとしても、その人の赤ん坊の時期と老いさらばえた時期とが、ほとんどその半分を占めてしまっている。
8)「然り而して萬物は齊しく生じて齊しく死し、齊しく賢にして齊しく愚、齊しく貴くして齊しく賤し。十年も亦死し、百年も亦死す。仁聖も亦死し、凶愚も亦死す。」(『列子』「楊朱第七」第三章)
【通釈】それと同時に、すべての物は、一様に生存するようになった半面、一様に必ず死ぬ運命にあるもので、一様に利口である半面、一様に馬鹿なところがあり、一様に尊いところのある半面、一様に卑しいところもあって、一方的にばかりではあり得ない。たとえ十年で死のうと、百年で死のうとも。
9)「百年も猶ほ其の多きを厭ふ。況んや久しく生くることの苦しきをや、と。」(『列子』「楊朱第七」第十章)
【通釈】百年の寿命でさえ、長過ぎると思っているのだ。まして、いつまでも生き長らえて苦しみを重ねるなどということは、いらぬことだ。
  ※訳・通釈とも新釈漢文大系『列子』(明治書院、小林信昭著)によった。

 以上のように、『列子』には随所に百歳や九十歳という二倍年暦と考えざるを得ない年齢表記が見えるのである。『列子』は戦国時代末期以降の成立と考えられているが(注1 )、収録された説話には、例えば1),2) は孔子の説話として紹介され、3)は周の第五代天子である穆王の説話として記されている。従って、先に紹介した『管子』の記事と併せて考えれば、周代においては二倍年暦が採用されていたこととなろう。したがってこの時代、人間の寿命は百歳まで、すなわち一倍年暦での五十歳と考えられていたことが『列子』よりわかるのであるが、「人間五十年下天のうちに」と、織田信長が好んで謡ったとされる「敦盛」の詞にも対応していて興味深い。
 ちなみに、5)に見える「方七百里」は漢代の長里(一里訳五〇〇メートル)ではなく周代の短里(一里訳七七メートル)と考えざるを得ないことから、『列子』の成立は周代かそれを多くは下らない時期とするべきであろう。とは言え、『列子』「力命第六」第一章では、孔子の愛弟子顔淵(回)の没年齢が十八とされており、これは一倍年暦による年齢表記と思われる。この点、後述するが、『列子』成立過程や二倍年暦から一倍年暦への移行期の問題にもかかわる興味深い史料状況と言えるのではあるまいか。


 『論語』の二倍年暦

 春秋時代の覇者、斉の宰相だった管子(管仲、紀元前七世紀)と、戦国時代初期とされる列子(列禦寇)が共に二倍年暦を用いていたとすれば、ちょうどその間に位置する孔子もまた二倍年暦の時代に生きたこととなるが、『論語』にもその痕跡が散見される。次の通りだ。

 「子曰く、後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞ゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」(『論語』子罕第九)※新釈漢文大系『論語』、明治書院。吉田賢抗著。以下、『論語』の訳は同書による。

 「後生畏る可し」の出典として著名。四十歳五十歳になっても世に名が現れないような者は畏るるに足らないという意味であるが、孔子の時代(紀元前六〜五世紀)より七百年も後の『三国志』の時代、そこに登場する人物で没年齢が記されている者の平均没年齢は約五十歳であり、多くは三十代四十代で亡くなっている。従って、孔子の時代が『三国志』の時代よりも長命であったとは考えられず、とすれば四十歳五十歳という年齢は当時の人間の寿命の限界であり、その年齢で有名になっていなければ畏るるに足らないと言うのではナンセンスである。従って、この四十歳五十歳という表記は二倍年暦によるものと考えざるを得ず、一倍年暦の二十歳二十五歳に相当する。これならば、名を為すに当時としてはリーズナブルな年齢であろう。

 「子曰く、善人邦を爲むること百年ならば、亦以て残に勝ち殺を去る可しと。誠なるかな是の言や。」(『論語』子路第十三)
 善人でも邦を治めることが百年にもなれば、民を教化して残忍性や死刑を必要とするような大罪を犯すことを無くすることができる、という。この百年も二倍年暦であろう。従来、この百年を複数の善人が相次いで治めると解釈されてきたようだが、一倍年暦で理解する限り、このような原文にない解釈を導入するしかない。しかし、二倍年暦の百年であれば、一倍年暦の五十年に相当し、先に紹介した『列子』で示された人間の寿命に対応している。
 このように『論語』においても二倍年暦でなければ理解困難な記事が存在する。こうした史料事実は孔子の時代が二倍年暦であったことを示唆する。孔子の前の『管子』、後の『列子』が共に二倍年暦で記述されているのであるから、その間に位置する『論語』が二倍年暦であることは当然とも言えよう。そうすると『論語』中、次の最も著名な一節をも二倍年暦として理解されなければならない。

 「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」(『論語』爲政第二)

 最晩年の孔子が自らの生涯を語ったこの一節は、古来より聖人孔子の深き思想形成の過程を述べたものとして理解され、人口に膾炙してきた。たとえば次のようだ。

 「【通釈】孔子言う、私は十五歳ごろから先王の教え、礼楽の学問をしようと決心した。三十歳にしてその礼楽の学問について独自の見識が確立した。四十歳ごろで事理に明らかになって、物事に惑うことがなくなった。五十歳になって、天が自分に命じ与えたものが何であるかを覚り、また、世の中には天運の存するということを知ることができた。六十歳ころは、何を聞いても皆すらすらと分かるようになったし、世間の毀誉褒貶にも心が動かなくなった。七十歳になっては、心の欲するままに行うことが、いつでも道徳の規準に合って、道理に違うことがなくなって、真の自由を楽しめるようになったようだ。」(同前)

 しかし、ひとたび二倍年暦という概念を当てはめることにより、従来の孔子象は一変する。まず、「十有五にして学に志す」であるが、これでは遅すぎる。三十歳から四十歳代で多くは没していたと思われる当時の人間の寿命から考えれば、もっと早くから学問を志したはずである。これを半分の七〜八歳頃とすれば、学を志すに適切な年齢であろう。はるかに寿命が延びた現在の日本でも、七歳で義務教育が開始されるではないか。その頃が就学開始適正年齢だからだ。
 「三十にして立つ」も同様だ。「立つ」の意味については諸説存するが、一般的に考えれば、就学が終われば次は就職ではあるまいか。立身出世の「立」だ。日本でも過去多くの人が中学を卒業して十五〜六歳で社会に出て就職した。従って、これも半分の十五歳のことと理解すればリーズナブルである。
 「四十にして惑はず」も、実社会において学問が実体験に裏づけられ、二十歳にもなれば自信もついて惑わなくなったということであろう。
 そして、「五十にして天命を知る」。すなわち当時の人間にとって人生の折り返し点でもある二十五歳で天職を得て、自らの進むべき道を決めるのである。孔子はこれを天命として受け入れたのだ。
 「六十にして耳順う」とは、当時としては三十歳は年齢的にもリーダーシップをとる世代だ。従って、様々な意見や事物を冷静に判断、理解できる年齢であり、それを「耳順」と表現したのではあるまいか。この六十歳がもし一倍年暦であれば、当時の殆どの人が鬼籍に入っている年齢であり、当時としては珍しいほど長生きしてようやく耳に順うようでは、やはり遅すぎるのであり、何の自慢話にもならないであろう。
 「七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず」。これも二倍年暦として理解すれば三十五歳のことであり、まさに円熟した年齢と言えよう。従って、矩を越えないのだ。
 以上のように、二倍年暦という視点から捉え直すことにより、わたしたちは等身大の生々しい人間としての孔子を発見することができるのである。従来のように殊更に聖人君子としての過大評価された孔子ではなく、生身の人間として孔子を見つめたとき、『論語』中に数多く見える、喜び、嘆き、怒り、慟哭する孔子の言動が無理なく理解できる。『論語』を二倍年暦で読み直すことこそ、真の孔子理解への道なのである(注2 )


 『礼記』の二倍年暦

 孔子が二倍年暦により述べた自らの生涯と類似する表現が『礼記』に見える。

 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す(元服)。三十を壮といい、室有り(妻帯する)。四十を強といい、仕う。五十を艾(白髪になってくる)といい、官政に服す(重職に就く)。六十を耆(長年)といい、指使す(さしずして人にやらせる)。七十を老といい、伝う(子に地位を譲る)。八十・九十を耄(老衰)という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、?わる。」『礼記』曲礼上篇。(『四書五経』平凡社東洋文庫、竹内照夫著)

 おそらくは貴族やエリートの人生の、十年ごとの名称と解説がなされたものだが、百歳まであることからこれもまた二倍年暦であることがわかる。『礼記』は漢代に成立しているが(注3 )、前代の周、あるいはそれ以前の遺制(二倍年暦、短里)が、その中に散見されるのは当然であろう。
 この『礼記』の記事と『論語』の孔子の生涯を比較すると、まず目に付くのが「学」の年齢差であろう。『礼記』では十歳(一倍年暦では五歳)だが、『論語』では十五歳(一倍年暦では七〜八歳)であった。ということは、孔子は恐らく家が貧しくて学問を始める年齢が遅かったのではあるまいか。とすれば、先の『論語』の一節は、孔子の自慢話ではなく苦労話ではなかったか。わたしにはそのように思われるのである。
 『礼記』の次の記事も二倍年暦の例だ。

 「夫婦の礼は、ただ七十に及べば同じく蔵じて間なし。故に妾は老ゆといえども、年いまだ五十に満たざれば必ず五日の御に与る。(夫婦の間柄は、七十歳になると男女とも閉蔵して通じなくなる。だから〔妻は高齢になっても〕妾はまだ五十前ならば、五日ごとの御〔相手〕に入るべきである)」『礼記』内則篇。(同前)
これも説明を要さないであろう。やはり二倍年暦である。


  顔淵(回)の没年齢

 孔子が「後生畏るべし」と評した最愛の弟子、顔淵(名は回、字は子淵)は若くして没した。そのとき、孔子は「天はわたしを滅ぼした」と嘆き、激しく「慟哭」したという。

 「顔淵死す。子曰く、噫、天予を喪ぼせり、天予を喪ぼせりと。」(『論語』先進第十一)
 「顔淵死す。子、之を哭して慟す。従者曰く、子慟せりと。曰く、慟する有るか。夫の人の爲に慟するに非ずして、誰が爲にかせんと。」(同前)

 哭とは死者を愛惜して大声で泣くこと。慟とは哭より一層悲しみ嘆く状態という。孔子を慟哭させた顔淵は、『論語』によれば短命であったとされる。

 「哀公問ふ、弟子孰か學を好むと爲すかと。孔子對へて曰く、顔回なる者有り。學を好む。怒を遷さず、過を貳せず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ學を好む者を聞かざるなりと。」(『論語』雍也第六)

 『論語』には顔淵も孔子も、その没年齢は記されていないが、孔子七二歳の時、顔淵は四二歳で没したとする説が有力なようである(孔子の没年齢は七四歳とされる)。もし、この年齢が正しいとすれば、それはやはり二倍年暦と見なさなければならない。何故なら、顔淵の没年齢が一倍年暦の四二歳であれば、それは当時の平均的な寿命であり、「不幸短命」とは言い難いからだ。従って、顔淵は二一歳で没し、その時孔子は三六歳ということになる。これであれば「不幸短命」と孔子が述べた通りである。『論語』は二倍年暦で読まなければ、こうした説話の一つひとつさえもが正確に理解できないのである。


  周王朝の二倍年暦

 周代に成立した文献、就中『論語』は二倍年暦で読まなければならないことを縷々述べてきた。しかし、事はそれら古典だけには留まらないようである。たとえば、周王朝の歴代天子のやたらに長い在位年数も二倍年暦ではないかという問題さえも惹起されるのである。

 ○成王(前一一一五〜一〇七九)在位三七年
 ○昭王(前一〇五二〜一〇〇二)在位五一年
 ○穆王(前一〇〇一〜 九四七)在位五五年
 ○厂萬*王(前 八七八〜 八二八)在位五一年
 ○宣王(前 八二七〜 七八二)在位四六年
 ○平王(前 七七〇〜 七二〇)在位五一年
 ○敬王(前 五一九〜 四七六)在位四四年
 ○顯王(前 三六八〜 三二一)在位四八年
 ○赧王(前 三一四〜 二五六)在位五九年
  ※『東方年表』平楽寺書店、藤島達朗・野上俊静編による。


 このように周代の天子が二倍年暦で編年されているとすれば、その実年代は軒並み新しくなり、中国古代史の編年は夏・殷・周において地滑り的に変動する可能性が大きい。あまりにも、重大かつ深刻なテーマだ。今後の研究課題としたい。

 さい、次回からはいよいよ西洋古典の史料批判へと向かう。そこにおいて読者は、ソクラテス・プラトン・アリストテレス等による二倍年暦の世界を見ることができるであろう。(続く)
(注)
1.新釈漢文大系『列子』(明治書院、小林信昭著)の解説による。
2.数ある孔子伝の中でも、古代人としての孔子の実像に迫った好著に白川静『孔子伝』(中央公論社)がある。
3.『周礼』のみは周代の成立。
(補論)
 四書五経の一つ、『春秋』は孔子の作とも偽作ともされてきたが、同書は基本的に一倍年暦で著述されており、その点からすれば孔子よりも後代の作と見なしうるかもしれない。しかしながら、二倍年暦と一倍年暦が併用されていた時期も想定できるし、あるいは年代は一倍年暦で著述し、人間の年齢表記のみは二倍年暦が使用されていた可能性も否定できないように思われる。従って、後者の場合は「二倍年齢」と呼ぶ方がその概念上適切な命名であろう。この点、本連載においても今後留意していきたい。

インターネット事務局注記2003.11.06

文字化けしておりました、周王朝四代目の王は、厂萬*王です。厂萬*は厂(がんだれ)に萬です


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第七集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)六集になります。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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