平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の事実を求めて(『新・古代学』第3集)へ


古田史学会報
1994年11月 3日 No.3
----『和田家文書』現地調査報告------------

和田家史料の「戦後史」

京都市 古賀達也

  本年五月を初めに、私は古田武彦氏らとともに、三度にわたり和田家文書現地調査を行った。行く度に貴重な発見や証言、協力に恵まれたのであったが、ここにきてようやく、現地における様々な人間関係や和田家文書を巡っての「戦後史」の全容がおぼろげながら見えてきたように感じられる。そして、和田喜八郎氏偽作説がいかに成立困難であるか、いかに虚偽情報や誤解(おそらくそれらは意図的なものと思われる)に基づいているものであるかを確認し得たのであった。本報告では偽作論者の虚偽情報のいくつかに反証を加えたいと思う。
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福士貞蔵氏の「証言」
 
偽作論者は和田家文書が昭和三十年以後段階的に作られ現在に続いているとしているようだが、その根拠は各文書が公刊された年次に基づいた憶測に過ぎないと思われる。和田喜八郎氏の証言では、昭和二二年夏に天井裏からの落下を機に世に出始めたとされるが、喜八郎氏の証言を裏付ける事実を報告する。
 当時、地元の郷土史家の第一人者ともいえる人物に福士貞蔵氏がおられた。氏は津軽地方の市町村史を数多く手掛けられており、同時に津軽地方の古文書の調査や書写 、伝承の聞き取りなどをなされている。そして幸いにもそれら調査の自筆原稿が五所川原市立図書館に存在する(福士文庫)。その中の「郷土史料蒐集録 第拾壱號」に次の和田家文書群が書写 されているのだ。

○役小角関連文物の金石文等(漢文。『飯詰村史』に開米智鎧氏が紹介。後出。)
○高楯城・藤原藤房卿関連文書(漢文)
○飯詰町諸翁聞取帳(高楯城関連も含む。『飯詰村史』に掲載。)
 これらはいずれも和田家所蔵の文書、あるいは山中の洞窟より発見されたもので、既に公刊されたものも少なくない。      
同「蒐集録」には別に和田半八(喜八郎氏の親戚)蔵書の書写もされており、その書写年次が「昭和廿三年正月廿八日筆寫」「昭和廿四年十月廿四日寫」と記されていることから、先の和田家文書類の書写 も同時期と見て大過あるまい。
 しかも福士氏はそれら和田家文書を書写するに留まらず、研究誌や自らが編纂された『飯詰村史』に引用・紹介されているのだ。例えば「藤原藤房卿」史料を『陸奥史談』第拾八輯(昭和二六年四月発行)において「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文で紹介している。
 また、「蒐集録」収録の『諸翁聞取帳』を『飯詰村史』の第十三章「口碑及傳説」の「追記」で紹介している。福士氏は、同章「追記」冒頭や「編輯を終へて」に次の様に記し集録した和田家文書に強い関心と高い評価を与えていたことをうかがわせている。
「以下は傳説ではなく史實とも思われますが再検討を要する部分もあるので、念を執って暫く本章へ編入する事にした。」
「第十三章の追加(主に和田家文書記事・古賀)は、本史に一段の重きを加ふる好史料であるが、原文を見られなかったので、口碑傳説の部に入れて置くの餘儀なきに至ったのは、實に遺憾である。」
 そして、資料収集の協力者の一人として、和田喜八郎氏の名前を上げ、謝意を記している。ここで「原文を見られなかった」とあるが、これは明治写
本ではなく江戸期の原本と思われる。それは次の理由による。まず、当然のことだが和田家文書を見なければ、福士氏は書写 できない。また明治写本さえ実見もしないで、研究誌に紹介したり、村史に掲載したりできないであろう。更に、福士家より「津軽諸翁聞取帳」(明治写 本)が発見されているようである(『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』和田喜八郎編・一九八八年・八幡書店、にその経過が紹介されている)。和田喜八郎氏も福士氏に貸し出した旨、述べられている。したがって、福士氏は明治写 本を書写したが、江戸期の原本(原文)を見られなかったことを遺憾とされたのであろう。ちなみに、『飯詰村史』は昭和二六年の発行であるが、編集は昭和二四年に完了していることが、編者による「自序」や「編輯を終へて」に記された日付から判明する。
 このように、和田家文書は戦後間もない昭和二三年頃には福士氏により書写され、紹介されているのである。偽作論者は同『飯詰村史』を知っておりながら、その中に福士氏が特筆して紹介した「和田家文書」の存在に、気づかぬふりをしているとしか思えない。すなわち、昭和二三年は喜八郎氏が述べるように、天井裏から文書が落下した翌年であり、和田氏の証言と福士氏による書写 ・公刊と時期的にピッタリと符合するため、こうした事実をひた隠しにしているのだ。
 さらに、昭和二三年といえば喜八郎氏はまだ二一〜二歳であり、これら多くの文書、しかも難しい漢字や用語を多用した文書・金石文などを偽作・偽造したとは、さすがに偽作論者たちも言えなかったのではあるまいか。
 故福士貞蔵氏の自筆原稿や氏の手になる膨大な著作類に触れ、津軽の優れた郷土史家福士貞蔵氏の業績を知った。氏の自筆原稿等は、和田喜八郎氏偽作説を否定する貴重な「証言」と言わねばならない。と同時に、ここでも偽作論者は自説に不利な証言・事実・史料を無視ないし軽視し、意図的に紹介しないという常套手段に奔ったようである。


開米智鎧氏の「証言」
 和田喜八郎氏宅近隣に大泉寺というお寺がある。そこの前住職、故開米智鎧氏は金光上人の研究者として和田家文書を紹介した人物であるが、氏もまた『飯詰村史』に研究論文「藩政前史梗概」を掲載している。グラビア写 真と三三頁からなる力作である。内容は和田元市・喜八郎父子が山中の洞窟から発見した「役小角関連」の金石文や木皮文書などに基づいた役小角伝説の研究である。
  この論文中注目すべき点は、開米智鎧氏はこれら金石文(舎利壷や仏像・銘版など)が秘蔵されていた洞窟に自らも入っている事実である。同論文中にその時の様子を次のように詳しく記している。


 「古墳下の洞窟入口は徑約三尺、ゆるい傾斜をなして、一二間進めば高サ六七尺、奥行は未確めてない。入口に石壁を利用した仏像様のものがあり、其の胎内塑像の摩訶如来を安置して居る。總丈二尺二寸、後光は徑五寸、一見大摩訶如来像と異らぬ 。(中略)此の外洞窟内には十数個の仏像を安置してあるが、今は之が解説は省略する。」
 このように洞窟内外の遺物の紹介がえんえんと続くのである。偽作論者の中にはこれらの洞窟の存在を認めず、和田家が収蔵している文物を喜八郎氏が偽造したか、古美術商からでも買ってきたかのごとく述べる者もいるが、開米氏の証言はそうした憶測を否定し、和田家文書に記されているという洞窟地図の存在とその内容がリアルであることを裏付けていると言えよう。
ちなみに和田氏による洞窟の調査については、『東日流六郡誌絵巻 全』山上笙介編の二六三頁に写真入りで紹介されている。
 このように、和田家文書に記された記事がリアルであることが、故開米氏の「証言」からも明らかであり、それはとりもなおさず和田家文書が偽作では有り得ないという結論へと導くのである。

過去帳と墓碑銘の証言
 本真偽論争において、偽作論者は誤情報や誤解に基づいて、喜八郎氏への人格攻撃を繰り返しているが、その中に「和田家は明治二二年以前は飯詰村には住んでいなかった」というものがある。土地台帳をその根拠としているようだが、現地調査によって和田家が江戸時代から飯詰にあったことを確認できた。
 現和田氏宅の近くにある長円寺に和田家墓地があり、文政十二年に建てられた墓石が存在する。その表には四名の戒名と内三名の没年が彫られている。次のように読めた。()内は古賀注。               
慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)

裏面は次のようである。
文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏

  二組の夫婦の戒名と思われ、壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(一八二九)に建立した墓碑であろう。してみると、最初の夫婦は吉次の両親で、安昌妙穏信女は妻(秋田孝季の妹)のリクであろうか。
 さて、重要なことは長円寺の過去帳(原本は火災で焼失したとのこと。五所川原市教育委員会によるコピー版によった。)に「智昌良恵信士 文化十年十一月 下派 長三郎」「安昌妙穏信女 同年(文化十四年)十月下派 長三郎」と記載され、墓石の戒名・没年との一致をみるのである。なお、「下派」とは「下派立(しもはだち)」の略であり、「長三郎」は喪主とのこと。とすれば、この長三郎は「和田氏」墓石との関連から、和田長三郎のことであり、時代からして和田吉次のこととなる。下派立とは長円寺や和田家がある旧地域名のことである。こうして飯詰村下派立に和田家が江戸時代から住んでいたことを金石文(和田家墓碑)と過去帳の一致から証明できたのである。
 きちんと調べればこうした事実は判明するのであるが、偽作論者はこの学問上不可欠の現地調査や当事者への聞き取り調査を怠ったまま、誤情報をまき散らしているのである。
この他、同過去帳には「和田権七」や明治の「和田長三郎(末吉か)」の名前も見え、興味深い問題を含んでいる。これらについては古田武彦氏が詳細に論じられるであろう。
 以上、一部ではあるが偽作論者の虚偽情報虚偽情報や誤解への重要な論点に反論を加えた。他のに対しても、今後明白にしていく予定である。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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