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1995年10月30日 No.10

古田史学会報 十号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
事務局 〒602 京都市上京区河原町通今出川下る梶井町 古賀達也

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和田家文書偽作論者の情報操作

斎藤隆一氏の史料批判について

静岡市 上城 誠

「和田家文書偽作説論者」の特徴的傾向として、他の偽作説論者の「論証」をなんら再検証せずに、同意を示し、そこに新「論証」を重ねていき、これだけ数多くの偽作根拠があるのだから偽作説は正しいのだと印象づける点がある。
 7号において古賀達也氏が述べられた「民活」という用語問題においてもそうであったように、他の論点にも明白な誤りが数多く見受けられる。その最たる例を斎藤隆一氏の論考からあげてみよう。
『季刊邪馬台国』五二号、一七六頁から、氏は「東日流誌についての総合的批判」というタイトルの論考を展開し、そのなかで、“秋田孝季の謎”という小見出しのもと、秋田孝季非実在論を提出している。その一部を引用してみよう。秋田孝季の年齢について、氏は次のように述べている。
「ところが『東日流往古之謎史跡尋抄』には次の記事があって困惑する。

『わがよはい五十三歳にして、若き頃つかれ覚えぬ山面歩きも、今にして覚ゆなり
                       寛政四年七月十日,孝季,華押』

 寛政四年(一七九二)に五三歳なら、寛政元年には四九歳で、元文四年(一七三九)生まれということになる。いったいどういうわけで一〇歳以上『若い父』を持つことができたのか、」
 いかにも“鋭く”いかにも“正しい”と思わせる文章であるが、私達は再検証を忘れてはならない。『東日流外三郡誌』北方新社版第六巻三二七頁の当該部分を読んでみよう。氏の引用した部分、「若き頃つかれ覚えぬ 山面歩きも、今にして覚ゆなり」と「寛政四年 七月十日 孝季 華押」の中間に次の文章が存在している。

 「さあれ何事も、秋田孝季翁に報ぜんと、
山降りて中山遺跡を記し、土崎に飛脚せり。
 翁よりの返書に曰く。
 六日、飛脚便相届候て、東日流中山なる謎
なる遺跡相知り申候。     
(中略)
後々再度中山に登りて尋史あるべき旨、孝季が頼み請い候。
 寛政四年七月十日 孝季 華押
 長三郎殿参る        」

 そう、私達はここでハッキリ判る。この文章は和田長三郎吉次の文章に、寛政四年七月の秋田孝季の手紙が引用されているのだ。 寛政四年に五十三歳なのは和田長三郎吉次であった。斎藤隆一氏は、わずか二頁の当該文書さえも正確に読まずに史料批判を行っているのである。
 氏の論考には、このような点が数多い。私は以前、この会報において、氏自身の再検証を促したのであったが、氏による再検証と反省の弁をいまだ見ていないのである。
 私達は、斎藤隆一氏を含む多くの偽作説論者の史料批判を、冷静な学問の方法の光をあててみなければならないであろう。そこに多くの情報操作と、意識的虚偽の史料批判を見出す事となろうとも・・・。私達は、それを実行し尽くさねばならない。
  「学問」という言葉を死語としないために。


『平成・諸翁聞取帳』天の神石(隕石)編 京都市 古賀達也

和田家文書との出会い(5)
山王坊発掘調査と『東日流外三郡誌』の一致
                         青森県藤崎町藤本光幸


偽作論者への反論(後編)
四千幾百冊もの偽作は不可能
                青森県五所川原市 和田喜八郎


�����□ 新刊紹介�������������
日本軍強制収容所  心の旅
レオ・ゲレインセ自伝
難波 収・トレナール=藤木きよ・ボム=三上なをみ訳 (手帳舎刊)

 一九四二年--日本軍のジャワ島侵攻によって十四歳のオランダ少年、レオ・ゲレインセの不幸が始まった。家族と引き離され、ヤッペンカンプ(日本軍強制収容所)に収容された彼は、飢えと強制労働の挙句、日本兵に暴行され瀕死の重傷を負う。
 一九四五年--レオは母国オランダへ引き揚げるが、進学も就職も妻子との家庭生活もうまくいかない。すべてはヤッペンカンプで受けた心の傷が原因だった。
絶望の淵に落ちたレオはキリストの愛に導かれてやっと立ち直りのきっかけをつかむ。そして日本のカトリック大司教が、戦時中の日本人の行為をわびていることを知り、初めてかつての“敵国”日本人を赦し、和解し、自分の心の傷が治癒したことを感じる。レオは、イスラエルのヤッド・ヴァシェムを訪れ、ヒロシマを訪れることによって、平和の意味をかみしめる。
 著者は日本の特に若い人に読んでほしい本だと言っている。(同書解説より)
 この本の訳者、難波収氏(本会会員、オランダ在住。天文学者)と昨年京都でお会いした時、本の出版社を探していると言われていた。それが本書だったのだが、結局手帳舎より自費出版という形になったようだ。戦後五〇年の今日、こうした本が自費出版でなければ出せないわが国の文化レベルに情けないものを感じた。それでもなお難波氏らの努力により発刊できたことに、限りない賞賛を贈りたい。
 (古賀達也)


□□ 批 評 □□□□□□□□□
「明治体制における信教の自由」について

初期実証精神と古田史学

和歌山県橋本市 室伏志畔

 拷問の限りをつくしキリシタンの改宗をはかった江戸幕府が成しえなかったところを、明治政府が一日三合の配給政策によってたくまず棄教に成功させた事実を『浦上切支丹史』に見出した坂口安吾は、戦時中、せいぜい二合一勺の欠配続きの中、天皇教を棄教しなかった自らなる同胞を「カイビャク以来の愛国者」であったと慨嘆したことはよく知られている。この天皇教に骨がらみされた者への慨嘆ゆえに安吾は、そこからの堕落を通 して天皇教を潜り抜ける道を模索したが、彼はこのとき明治国家がいかに精妙な天皇教による民衆支配装置としてあったかについては思い及ばなかった。
 古田武彦の初期にいま関心を寄せている私は、昭和四四年に法蔵館から刊行された『日本思想史研究』第三巻にある「明治体制における信教の自由」を読む機会を得て、明治国家がいかに「民衆支配の<芸術>的国家」であったかを改めて思い知らされた。それはブルクハルトがその『イタリア・ルネッサンスの文化』で論じた、多種多様な新しい生命に見合う類型としての国家を競ったイタリア諸国家とちがい、明治国家は天皇教の下に多種多様の生命の自覚をことごとく摘み取る恐るべき<芸術>作品であったのである。
 古田武彦はそこでヨーロッパ社会が「キリスト教単性社会」であり、そこにおける「信教の自由」が当然のことながらキリスト教の「神に対する、信派の自由」にすぎず、「諸宗教の自由」ではない不寛容の上に成立していることを簡潔に彫出している。そのうえで古田武彦はプロシアのシュタインに教えを請うた伊藤博文が、キリスト教に差し変えて神道を置くべきことを教わり、大悟して帰国したというのである。かくして明治国家における信仰の自由は「天皇教に対する、信派の自由」として確立し、それはヨーロッパ近代国家における「キリスト教社会内部における、各派の許容」というヨーロッパ社会の「信仰の自由」の全き理解から生み出されたものだと古田はいう。
 この古田の「信仰の自由」に対する見解は、天皇を神聖不可侵とする明治憲法下で「信仰の自由」は実質的には成り立たず、新憲法に至りようやく西欧近代国家の水準に達したという戦後の定説に真っ向対立する。戦前の皇国史観を排したものの近畿天皇制一元史観を依然として継承している戦後史観を、現代日本のイドラとして実証的に撤回を迫る古田史学誕生以前のこの研究の内に、その親鸞研究と同じく天皇制の核心に肉薄する古田の姿は躍っており、相変わらずの道場破りにも似て定説を打ち砕いているのは愉快である。
 定説がこぞって「キリスト教単性社会」であるヨーロッパ社会の前提を見落とし、キリスト教内部における「信派の自由」にすぎないものを、「諸宗教の自由」を許諾するものごとく日本に紹介していると古田武彦はいう。換言すれば「キリスト教単性社会」はもはやその内部にユダヤ教という異端と無神論の発生を排除するだけでこと足りたが、明治国家の苛酷さは、ヨーロッパが中世一千年間で成し遂げた「多元的宗教社会」のキリスト教一元化を、明治一代で天皇教に帰一させようとする無理強いにあった。この暴虐な天皇教の強制から生じる軌轢を遠望させずにはおかないこの初期論稿は、戦後史学が「実証」性を売り物にしながら日本社会の多元性を見落とし、近畿天皇家一元史観に真実を押し込めている不合理をその後糺して行く古田史学の歩みを彷彿させて私には興味深かった。事実この論文と前後して同年に古田は『邪馬壹国』を書き、古代史の森に分け入るのである。
 キリスト教の神 Godの下にヨーロッパは統一されているという自明の前提をシュタインから示唆されて、伊藤博文は諸宗教、諸思想の上に天皇を置くことによる統治方式を構想し、明治国家を確定していった。古田はこの支配方式を実証的に洗い出しながら、この支配方式の根は近畿天皇家の伝統の内にあったのではという奥深い疑問に逢着する。なぜなら八百万の神々を統べる天皇がまた仏教の最高の庇護者であることを如実に語る神仏習合の思想の内に、この原理はすでに遠い昔から貫徹されていたのではという底知れぬ 天皇制の深淵に否応なく古田は佇むのである。それはその後の古田史学が神仏習合以前に、天皇によってなされた神々習合の位 階序列がなされた時代があったというお馴染みのテーマに連なる問題意識の発生現場であったかと思われる。
 ともあれシュタインの示唆を受けてこの伝統的な支配方式を明治に復活させた伊藤博文を、ハルピン駅頭で射殺した安重根の思想が今日豊かに復刻されはじめているのは喜ばしいが、そこにあるのは伊藤博文が恐怖し国内で弾圧した「より十分な維新としての革命」に連なる精神であったことは注目されてよい。
その安重根の獄中態度に心服し動揺した日本軍人に対し、彼は確か「尽国家使命軍人」という遺墨を与え悩みを解いてやり死についている。天皇制の内と外に自在に出入りすることができたこの柔軟な精神は、天皇教にからめとられた日本人にかかる優しさをもって接することができたことを、侵略する天皇教の精神の内からこの優しさが全く駆除されていたことと共に銘記したいと思う。
 われわれは現在、無邪気に「キリスト教単性社会」が生み出した自由や平等の権利に親しんでいるが、それらが「信仰の自由」と同じくキリストの絶対の神たる Godの下においてこそ安定した権利であることを想起するとき、日本国憲法の原文起草者が、天皇教を解体し、Godの存在しない日本にこれら諸権利を持ち込もうとしたとき困惑したのは当然である。古田はこれら諸権利を「与へられ」「信託された」日本人の、絶対神 Godの裏打ちのない「信仰の自由」を含めた戦後日本の基本的人権の「まこと心細い」これからの状況について危惧しているのは鋭いが、論稿はそこで閉じられている。
 古田武彦の初期論文はこうした様々な発展の可能性を孕みながら、今日捨ておかれているのは惜しい。御大自らがその封印を解き、権威にめげない真理探究の精神としての古田精神の発展継承のためにも、初期著作集として一日も早くにまとめられることが期待される。

編集部注
 本稿で紹介された古田武彦氏の初期論文「明治体制における信教の自由」は、現在準備中の「会員論集」に転載される予定です。
【シュタイン】十九世紀末のドイツの国家学者。著書『行政学』で、行政学者として名をなした。同時代の思想家にマルクスがいる。


◇◇ 連載小説 『 彩  神 (カリスマ) 』 第 二 話◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
月  の  精 (四)
 --古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇深 津 栄 美
   ◇   ◇
一月後---
 洛東江近くの森で、宮廷を挙げての狩りが催された。逞しい黒馬や栗駒が潅木を飛び越え、ヤブをかき分けて突進する。誰かが獲物を仕止める度に、歓声と銅羅が響き渡った。
 天竺生まれの王妃も、故国では虎狩りの経験があるとかで、男達に負けずに弓を引き、手綱を操った。一度など、不意に王の前へ飛び出して来た熊を、従者の槍を奪うなり見事に倒し、
「素晴らしい腕前ですなア。」
「例えば遠征その他で都を留守にされても、陛下は安心して後を任せられましょう。」 
「これで王家も安泰じゃ。」
 家臣達は嬉し気だったが、阿達羅は王妃に礼を言うのもそこそこに、
 「オッ、猪だ--」
 新たな獲物を認め、木立ちに飛び込んだ。
 黒い影は、すばしこく草むらを縫って行く。が、阿達羅は、獣がまるで誘うように頭や尾をチラつかせても振り向きもせずに、ひたすらに河口の方へ愛馬を急がせた。  狩りのどよめきに混り、鄙びた囃子が聞こえて来る。頭上に花篭を載せた娘達の晴れ着が、樹間から明るく覗く。遠方には海が光り、煮炊の煙が空へ溶け入る。家々の前に閃く純白の洗い布(ぎぬ )、青い羽をきらめかせて宙に交錯する蜻蛉の群れと、棒切れを手に追いかける半裸の子供達、踏みしだかれる桔梗 、竜胆(りんどう)、吾亦紅(われもこう)、野菊……
 ああ、あそこだ、自分の本当の故郷は。半分ひしゃげた、だが平和な小屋に自分も寝起きし、素焼の壷や土器(かわらけ)を並べ、火を吹いて竈(かまど)を起こし、歩けるようになってからは網を干したり、魚を切り分けたり、段々畑を耕すのを手伝い、浜へ下りては貝を拾ったのだ。細烏が花冠や貝の鎖を自分に飾ってくれる度に、子供達は竜王の化身だと笑い囃したものだが、覚えていてくれるだろうか……? 私だ、阿達羅だ。帰って来たのだよ、君達に会う為に--
「阿達羅さん……!」
 急に、横合いから澄んだ声がかかった。子供達の一人が、口をあけて黒馬を仰いでいる。
 「やあ、君は--」
 阿達羅の目は輝いた。延王が真紅の鯛を釣り上げるのを見たという少年だ。
 「久し振りだね。」
 馬を下りると、
 「細烏さんに会いに来たの?」
  少年は考え深げな表情をした。
「ああ。元気でいるかい?」
 阿達羅の問いに、
「細烏さんは、もうここにはいないよ。」
と、少年は答えた。
「あなたが都へ帰った直後、天国(あまくに)からお迎えが来たんだ。真中に一本の太い角が突き出て、両側に大きな藍色の玉 を飾った魚の形の船に、延王が乗ってね。」「延王は死んだんじゃなかったのか…!?」
阿達羅が目を丸くすると、少年は首を振り
「天国では前の王様が死んで、誰を後継者にするか、もめていたんだって。やっと落ち着いたので、延王が迎えに来たんだ。今じゃ細烏さんと延王が天国の国王夫妻だよ。」 
そして少年は、
「あなたが来たら渡してほしいって、細烏さんに頼まれていたんだ。」
 屋内に駆け込み、一着の裲襠(ツルマ。朝鮮女性のローブ)を持ち出して来た。
 見覚えのある生地だ。自分を迎えに来た慶州の長官が、細烏に贈った白絹に相違ない。月光を透かしたような、銀を交えた純白に仄かな象牙色を綴る月見草の模様……細烏は長官が勧めたように、あれで晴れ着を拵(こしら)えたのか。長官が渡した時は゛の反物も真白で、何の飾りも付いていなかったのだから。
 細烏は、どんな気持ちで裲襠を染めたのだろう? 形見で置いて行ったのは、自分を許してくれたという意味なのか? 或いは、身分を隠して潜り込むような人間は、愛も野心も永遠に幻として追いかけるのが適(ふさわ)しい、という事か……? いずれにせよ、細烏はもう韓(カラ。南朝鮮)にはいない。夫と共に、海の向こうへ去ってしまった。白銀の裳と棚引く雲に乗り、嫦娥は月へ帰って行ったのだ。淡い星の光で織り上げ、琥珀の涙を綴った薄衣(うすもの)を後に残して……
(細烏……)
 阿達羅の視野の中に波が霞む。
 頭上に広がる空はどこまでも青く澄み渡り、白い月のかけらだに見えなかった。
(完)

 
[作者後記]
「月の精」は今回で終了で、次回からは日本本土(?)へ戻り、スサノオ達の活躍に入って行く予定でございます。尚、「古田史学の会」発足一年(早いものでございますね)を記念して、一首お贈り致します。
一年(ひととせ)を嵐の中(うち)に過ぎたれど
               真実(まこと)は揺るがじ函館の夏に
 函館空港遺跡(これも『東日流外三郡誌』にちょっと出ていたような記憶がございます)出土にもちなみました。
 更に、メガース夫人来日をお祝いして、拙いながらもう一首、詠ませて頂きます。 
 海越えて二つの良き国結びたる日神に捧げし
                御先祖(みおや)の酒瓶(さけガメ)
(深津)


一大国はなかった

名古屋市  林 俊彦

 おなじみの諸橋大漢和辞典の「一」の項に、「一大」の記載がある。

天の異称。一大の二字を合すると天の字となるからいふ。[説文]天、顛也、至高無上、从一大。……。

  「説文」とは「説文解字」のこと。西暦一〇〇年ころ、許慎が完成させた中国最古の字典であって、古代中国の教養のある人々の必携の書であった。陳寿も座右に置いていたと想像しても不当ではあるまい。
 これで、魏志倭人伝に登場する一大国、一大率を天国、天率と読もうとする私の試みは大きな裏付けを得たのではなかろうか。「一大」では意味が取れないから誤字だろうと「一支」などに改定することはもう許されない。「大国」には母なる国という意味もあるとか、無理に「一大」のまま意味を読み取ろうとする苦労もいらない。
 倭人は漢字を理解していた。壱岐の島は彼らにとって天国だった。だから倭人は「天国」と漢字で命名した。陳寿は天子の国の官僚として、表記を若干変えてこれを記録した。それが一番自然な理解だろう。
 そして倭人伝に天国が登場する理由、それは日本側史書、古事記、日本書紀等により容易に推量 できる。天照大御神の活躍した地、高天原が実在していたからに他ならない。 
 当時の倭人たちは、天孫降臨という史実を背景として、「アマ」の概念にとりわけ執着していた。それは漢字なら海、天の二通 りの字で表現しえた。邪馬壱国への行程文中、対海国(アマに対する国)、瀚海(広大なアマ)、一大国(アマ国)と続く表記には並々ならぬ こだわりがあった。対馬海峡周辺は倭人の聖域だった。
 考えてもみよう。魏の遣使一行は倭国への途上、三度「一海」を渡っている(どれも幅はわずか千里)。その二つ目に対してだけ名を特記し「瀚海」としている。文脈上、「白髪三千丈」式に理解することはできない。倭人の強固な思想として「広大な海」がそこに実在したのだ。
 九州へ上陸すれば、伊都国には天率(壱岐、対馬の水軍)がいた。たどりついた邪馬壱国の官の筆頭には壱岐女(伊支馬→イキメ)がいた。となれば、卑弥呼の事えた鬼道とやらもアマ信仰に違いない。卑弥呼、壱与の時代は壱岐、対馬の絶頂期だった。私はいよいよ確信を深めている。
 かつて古田先生が「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」の歌は筑紫の人の作であると主張されたように、壱岐には「天の原」の地名がある。また後代の命名であろうが、玄海灘の「玄」も「天」の意がある。この地域にはよほど「天」への思い入れがある。
 壱岐、対馬は今でこそ、日本の果て、さびれた孤島のイメージが強い。副官の名が「卑奴母離(ヒナモリ)」であったことも、後代の「天離る夷にはあれど」といった用法から、両島が「田舎」であるとの印象を深めている。しかし古代では大陸文明に一番近い地だった。ヒナのヒは「日」だ。ナは地名を指す接尾辞だ。従ってヒナとは太陽の輝く地という意味だった。壱岐、対馬の一時の栄光が倭人伝の「一大國」「対海國」の表記に秘められていたのだ。
 おそらくは卑弥呼の統治前後の大規模な戦乱の中で、宗教的な権威はかろうじて残しながらも、二つの島は戦略的には一つの拠点に過ぎない位 置づけをされてゆく。それが「壱岐(一つの分岐点)」「対馬(馬韓に対する地)」といった地名になったのだろう。    
 では消えた天国はどうなったかという問題がある。私は天国のバブル時代という仮説を持っている。壱岐による「天国」の独占が破れた三世紀後半ころから、日本中に古墳が姿を現し出す。その展開のスピードはとても大和政権の成長という理由では説明できず、古代の謎とされてきた。しかし私にすれば簡単なことである。古墳は天国のジオラマだ、これである。
 私には天国ないし高天原というものが、空の上の抽象的な存在になるのはかなり時代が下がってから、少なくとも仏教伝来以降のことだとしか思えない。古代人にとって神々の地は具象的で身近なものだったはずだ。そして倭人にとって天国とは、まず島であった。壱岐こそが高天原だったのだから。 本来海洋民族である彼らは日本各地の陸上に上がっても、海を故郷とする考えを止めなかった。長野に和田峠があるのもその現れである。各地に散らばっても信仰のため聖地、天国島を建設した。あれは決して支配者の墓ではない。結果 として墓として利用するが、神々の生活する地のモデルである。そこで支配者たちは民衆に天つ神の活躍譚を聞かせ、神の名の下に行動を指示した。もちろん諸儀式の場でもあった。
 島だから丸や四角やその結合形等いろいろあった。より島らしく見せるために、周囲に堀を造ることも流行した。たくさん建設するほど密集する島々というイメージを高めることもできた。
 おそらくは九州王朝の盛衰に合わせ、日本の古墳はバブルのごとく急速に大量発生し、終極を迎えたのだろう。私は巨大な前方後円墳に、一大国、対海国の栄光の残映を見る。


聖徳太子は十七条憲法を作らなかった

奈良市 水野孝夫

 『日本書紀』に描かれた聖徳太子像には謎が多い。古田武彦氏も太子について、これまでに何回も論じられている。最近の論議では『古代通史』(九四年十月)所収のもの及び『歴史と旅』誌平成七年一月号掲載の「九州王朝からの『盗用』だ」がある。
 有名な十七条憲法との関係については主として『古代通史』の方に論じられている。本会報の読者はすでに詳しいと思われるが、念 の為に整理しておくと、

「十七条の憲法は聖徳太子が作られたということになっているが、そんな筈はない。なんとなればこの憲法は自分を「天子」と称している人の立場で出されている。しかし近畿天皇家は「天子」を称した形跡はなく、称したのは「大王」であるし、太子自身は「天皇」になっていない。隋書に現われる「日出ずる処の天子」は阿蘇山下の天子であり、憲法を作ったという太子の人物像は九州王朝の成果 を盗用したものだ」 
という話のスジになっている。
 わたしは自分の所持する『日本書紀』を調べてみた。この本は飯田季治著『日本書紀新講』(上中下)昭和十三年五月(明文社)発行であって、この中に次の記述があった。(用字を一部変更して引用)
 
イ、「聖徳太子の作られたいわゆる憲法は、最初に先ず三宝を敬へということを強調し、次いで種々の漢籍をとりまぜて君臣の道を述べ、官吏の義務道徳等の大概を規定せるもので、明治天皇の定めさせ賜へる帝国憲法・・(中略)・・国家最高の法律と続きは全然異なるものである。しかして、その説くところ、仏法をもって国の極宗なりとなし、我が日本精神の原泉たる神祇の事には一言も及ぼさず、(中略)皇国の国家制法とするにはあまりに本原を誤り過ぎているので、この点は世に非難の的になっている。」
ロ、或人言「“三宝によらずば何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さむ”といひ、また“悪をみては必ず匡(ただ)せ”と定められたるに、太子は馬子の賊が(崇峻)天皇を弑し奉れる悪事をば、必ず匡すべき任にておわしながら、これを正そうともせず知らぬ 顔にて彼が聟と為り済して居給へる如きは、憲法違反もまた甚し」

 戦前によくこれだけのことが言えたと思いますが、書紀の聖徳太子像はどこかおかしいのです。特に(ロ)の方はどう考えたら良いのでしょうか。他王朝の誰かの人物像の反映とする一つの論証を再発見したような気がします。


□関西例会
(九月例会報告)
石塔山例祭に参加した古賀より、借りてきた和田家文書が参加者に開陳された。『東日流外三郡誌』を初め、明治大正期の写 本と江戸期のものなどで、ブラックライト検査ではいずれも戦後開発された蛍光増白剤は認められず、未使用の大福帳を広げて使用したものであった。内容も石神のことから、秋田孝季がエジプトで見聞したとされる「コプト国の神」に関するもので、そのほとんどは未公開である。
 また、『季刊邪馬台国』五七号に対する批判が参加者から続出し、古賀より同誌に満載された虚偽情報や卑劣な情報操作の具体的な指摘がなされた。
 時間の関係で、テキスト『古代は輝いていた』の輪読は少ししか進まなかった。例会後の運営者会議で、参加者の都合を考慮して、十二月からは第三土曜日に開催日を変更することになった。   (古賀達也)

□東海例会
(十月例会報告) 
林俊彦氏から前回に続いて郷里である愛知県知多半島阿久比(あぐい)町の成立ちの言伝えが紹介され、縄文につながる石神や木を祭る神様や地名の問題が指摘された。更に、伝説の解釈と時期を巡って神社の起源に話が弾んだ。次回は熱田神宮との関係について報告される予定。
 横田からは「持統は大王と呼ばれていた0-人麿はなぜ失脚したか」についての報告がされた。同時代史料を元に問題を論じる古田史学の方法論の確かさ、人麿の和歌の解釈の困難性、古代人としての人麿の平凡さの中から古田氏のように現代に通 じる人間としての感動を合わせ持って捉えなければ、古代に迫るのは困難なことなどが強調された。
 討議の結果、外国との関係から観た倭国・日本国の天子・天皇・大王の扱い、及び和歌・金石文を元にした称号の問題を整理し、もう一度みんなで資料を集め直した方がよいという事になりました。    (横田幸男)


□□ 事務局だより □□
▽古田先生や吉森さんと石塔山例祭に参加した。秋田田沢湖町の佐藤さんや田口さんらとの再会、青森市の史友会の皆さんとの出会い等、昨年以上の参列者で石塔山は賑やかさと感動でつつまれていた。中でも嬉しかったことに、和田さんの娘さんの次の話。『新・古代学』が出たおかげでイジメがなくなり、娘が学校に行くのが楽しいと言うようになったとのこと。しかし、一方で犯罪心理「学者」を中心とする偽作論者による人権侵害が今なお続いている。『新・古代学』2集の発行がいよいよ重要となっているようだ。
▽聞くところでは、来春、古田先生は昭和薬科大学を定年退官されるとのこと。退官後は京都の御自宅へ帰られる。そこで、古田先生が京都に戻られるのに備えて、京都例会(仮称・新古代塾)を発足させる案が急浮上している。参加者(塾生)による研究発表や古田先生の講話を中心に勉強する場としたい。参加希望者や運営に協力していただける方は事務局(古賀)まで御一報下さい。
▽本号では室伏氏による古田先生の初期論文「明治体制における信教の自由」の批評を掲載した。同論文は発行準備中の会員論集に転載されるが、その元となった金沢大学暁烏賞受賞論文「近代法の論理と宗教の運命」という大作が未刊のままになっている。真の宗教に対する理解と批判能力を欠いた混迷する現代にこそ、同論文は大きな示唆を与える内容を含んでいるだけに、同論文を公刊したいと願っている。そうした事業も本会の大切な役割ではあるまいか。(古賀)
 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集~第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail
sinkodai@furutasigaku.jp

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