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資料和田家文書1 邪馬台城 総覧
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古田史学会報 1995年 4月26日 No.6

古田史学会報 六号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
事務局 〒602 京都市上京区河原町通今出川下る梶井町 古賀達也

□□『季刊邪馬台国』の中傷記事に反論する□□□□□□

『東日流外三郡誌』公刊の真実

青森県・市浦村元村長 白川治三郎

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 『季刊邪馬台国』五二号に掲載された「虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』が世に出るまで」という記事で、和田喜八郎氏・藤本光幸氏そして当時の市浦村村長白川治三郎氏を実名で誹謗中傷するという暴挙に偽作論者は出たのだが、会報4号の藤本氏に次いで白川氏からも反論の弁を御寄稿いただいた。偽作キャンペーンの為には、匿名による虚偽情報を愛用する同誌の醜い正体がまた一つ暴かれようとしている。真に平和な国際社会の醸成や人権確立などを願い、『東日流外三郡誌』の公刊に踏み切られた白川氏の真剣な思いと歴史の真実のために、氏の貴重な証言を掲載する。(編集部)
▽▽▽

和田氏から発掘調査の費用を出してほしいと申し出たこと。

 この話は村にもちかけられたこともないし、従って公費を出す訳はない。
 他の五〜六人のひとが、また藤本氏が多額出資したと言うことも聞いていない。その後秘宝が出ないからと言って、和田氏といざこざがあったと言うことも聞いていない。
 また、村では秘宝探しの発掘もしていないから、和田氏を追及する根拠もない。 

『東日流外三郡誌』と市浦村関係者が名付けたと言うこと。

 『東日流外三郡誌』を初めて見たのは、昭和四十六年の秋頃と思う。場所は市浦村役場の村長室です。資料は一冊がコピーされてから次の一冊が届けられるので、日数の間隔はかなり費やされている。その都度一冊ずつ、全部読み切らず断片的に見ていた。
 私の記憶では最初から史料に『東日流外三郡誌』と書かれていたと思う。

秘宝探しに公費支出した責任逃れの為、『外三郡誌』を刊行したと言うこと。

 資料(『東日流外三郡誌』)はこれまでの日本史に書かれなかった、安倍安東氏にまつわる極めて貴重と思われる内容が多く、これを一般 に公開して世論を喚起し、その真偽の程を学者の研究にゆだねると共に、安倍安東氏の政策の根底には、混迷せる国際情勢に於てこれからは真に平和な国際社会醸成の為の人権確立や、正しい宗教観が貫かれていること等を世に喧伝したいという目的があった。責任逃れ等とは、とんでもないことだ。

仏像その他出土品を分けた話。

 村として秘宝発掘の事実はないし、他にも仏像その他発掘による出土品のことは全く聞いていない。従って、これらを出資者が分けたと言う話は全く根拠がない。

[編集部]               
 白川氏は市浦村村長を三期十二年務められており、今も御健在である。昭和四六年、村長就任以来、村史編纂にとりかかられたのも幼い頃より福島城趾や唐川城趾等にまつわる伝承を聞かされていたが、詳しいことは謎に包まれたままなので、土地の古老が存命中にできるだけ記録を残しておきたかった為と言う。故山内英太郎氏を役場職員として調査研究に当たらせたのが、村史編纂の始まりで、程なくして『東日流外三郡誌』が拝借できるようになり、この豊富な資料を放置しておくのが勿体ないと考え、村史資料編として刊行することに踏み切られたのである。
 秘宝探しのために公費を支出したなどという『季刊邪馬台国』の記事は、事実無根の中傷である。村の公費支出が事実ならば、記録が残されているはずである。議会の承認がなければそのような支出を村長個人で決められるものでもない。『季刊邪馬台国』の虚偽記事は学問とは無縁、全くの無責任編集と言わざるを得ないのである。

白川氏の原稿の一部を掲載)


和田家文書との出会い(2) 藤本光幸


『東日流外三郡誌』は偽書ではない 青山兼四朗


和田家文書を読む会のご案内
 東京では古田武彦氏を中心に『東日流外三郡誌』の読書会が開催されているが、関西でも本会会員不二井伸平氏の主宰で、和田家文書を読む会が発足している。  同会では毎月一回日曜日に和田家文書を中心に勉強会や古代史の研究発表などが行なわれている。四月十六日にも開催され、本会の古賀事務局長や山崎仁礼男全国世話人なども参加し、和田家文書の最新研究状況や古代史の研究発表(造作の天智称制:山崎氏)が行われた。問い合わせは次の通 り。参加希望者には案内が送られるとのこと。

「山王日枝神社」考(1) 古賀達也

古田武彦が読む『日本の神話を考える』上田正昭著
      
(小学館ライブラリー・800円)         古田武彦  


◇◇ 連 載 小 説 彩 神 (カリスマ)◇◇
 太陽神流刑    (四)
 −−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−     
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇深 津 栄 美
     ◇         ◇
「帆を張れエ!」
「舫(もや)いを解けエ!」
 八束の号令と共に、みるみる帆柱には藍で矛と幣を染め抜いた巨大な白布が翻った。 
  霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに
  河船のもそろもそろに
  国来(くにこ)国来と引き来縫へる国は…
(『出雲風土記』より)
 悠長なかけ声に合わせ、船を岸壁に結び付けていた太綱が解かれる。
 人々に混ざって船を海へ押し出しながら、みづほは淡島がこっそり脱け出すのを目の隅に眺めた。
 那美は産後の肥立ちを養う為、まだ岩屋の奥に臥っている筈だ。昼彦も、母の腕の中で安らかな寝息を立てているだろう。あんなにお産で苦しんだ若妻を思いやり、八束は母子を長老達に託して遠征に赴こうとしていた。
 淡島は、そっと岩屋の中を伺った。
 「水なりとお持ちいたしましょうか?」
那美を労わる老女の声がする。
「そうね、お願いするわ。」
那美は答えて、
「よく眠っている事。」
傍らを覗いた。
「 ほんに眩ゆい和子様じゃ。父上にも母上にもよう似通われて……。」
老女も微笑して、注文の品を取りに立って行く。
 那美は枕辺にこんもりと膨らんだ小さな影を愛撫していたが、やがて元の位置に返り、動かなくなった。淡島が忍び寄ってみると、那美はまどろんでいる。
 淡島は素早く弟を抱き上げ、外へ出た。昼彦は眠りこけていて、母親から引き離されてもまじろぎ一つしない。岩陰には、昨夜の中にみづほが用意した葦船が揺らいでいる。
 <この子を流刑(なが)すのか……>
 淡島は、さすがに胸が震えた。なびく黒髪が背にまつわり、みづほの狂おしいまでに思い詰めた眼差しと熱い吐息が蘇る。
「よろしゅうございますか? あなた様が父上の後継となる方法は唯一つ・・・。」
潮騒のような囁(ささや)き……首筋や頬に唇が触れ、皓歯(しらは)が軽く耳朶(じだ)をかむ。
「父上は、藍玉を弟君に授けられたのですよ。父祖伝来の財宝(たから)を賜わったのは、とりもなおさず弟君を後継にされる意味合い……。」
 みづほの両手が、淡島の腰を探る。波音にも似た胸の轟き・・・
「父上は、『北の大門』(現ウラジオストク)を攻めようとしておられます。弟君さえいなければ、あなたは天国(あまくに)と珠洲((すす)に加え、農波(現朝鮮半島)や佐伎(
『北の大門』に同じ)をも総(す)べるお方・・・当然御自身が占めるべき地位を、横奪りされても構わないのでございますか?」
 みづほの指と息吹が、深部に食い込んで来る。囁きは耳を覆い、頭にも肩にも腕にも心にも打ち寄せて来た。みづほは亡き母の親友であり、自分にとっては第二の母ともいうべき乳人(めのと)だった。その女性と関係を持つ羽目になろうとは……血が繋がらなくても親子相姦−−特に母と契るのは重罪だ。それもこれも、弟が生まれたせいだ。弟が傍にいては今後、自分は罪の意識に苛(さいな)まれ続けねばならなくなってしまう。
 <昼彦、許せー!>
 淡島は、赤ん坊を葦船に投げ下ろした。
     ◇       ◇
「大変だァ、敵だァ!」
「天国(あま)の奴らが攻めて来たぞォ!」
 激しく銅羅が打ち鳴らされた。
 波打ち際で振る松明(たいまつ)が、赤々と闇を照らす。黒髪が妖しく背になびき、武具(もののぐ)が青光りし、人々の目と歯が白くギラついた。冬に入り、海は荒れ、雲はますます垂れ込める事が多くなっているというのに、裸足で砂浜を駆ける者がある。白地に藍で矛と幣を染め抜いた帆が幾つも沖に現れ、舳(へさき)に巻いた太綱を蟻のような人群れが滑り下りて来た。鏑矢(かぶらや)が唸りを立てて、岸辺の長の家の白い星形の標縄(しめなわ)を切り落とす。戦闘開始の合図である。こちらも船目がけ、火矢を放って報いた。
 剣戟(けんげき)の音が湧く。たちまち矛や刃は朱に染まり、敵の喉笛を突き刺す者、投げ縄で美女を捕らえ、引きずって行く者、喧嘩は素手でやるものとばかり、血や脂にまみれて役に立たなくなった武器を放り出し、組打ちしている一団もいた。 家々の戸は破壊され、祭壇は覆され、家財は根こそぎ奪い取られる。
 しかし、戦況は海人(あま)族の方が押され気味だった。
「清瀬様、お討死!」
「元見様もお討死!」
「お首長(かしら)、黒江様が苦戦です!」
 見張りの報告に、八束の眉は曇った。黒耀石と青銅では所詮、違いがあり過ぎるのか?
「お首長、若君がー」
 みづほが、髪振り乱して飛び込んで来た。女達も裾を絡げて武器を握り、戦闘に参加していたのだ。
 みづほの指さす先に、船梯子をよじ上ろうとする敵を懸命に防いでいる淡島の姿が映った。が、
「バカ者!」
 次の瞬間、淡島は斧をはね飛ばされ、みづほは平手打ちを浴びて倒れ込んだ。 「父上、何を……?」
 唖然とする長男を、
「血に狂って敵と味方の見分けもつかなくなったか? 彼は強羅じゃ!」
 どなりつけておいて、八束は踞(うずくま)っている人影を甲板へ助け上げた。
「なぜ、ここへ参った? 島後に留まれと申したに−−」
「それが、白日別(現北九州)の奴らが留守を襲いまして……お首長が発たれた直後、奴らは大船団を率いて島中を荒し回り、那美様も引きずり出されて狼藉(ろうぜき)のしたい放題の目に……。」
「昼彦はどうした!」
 八束が身を乗り出すと、
「そこな人非人共めが、日の御子を流刑(なが)し申したー!」
 長老は片手で、淡島とみづほを指した。 
「嘘つき!」
  みづほが歯をむき出す。が、その声は途中 で消えた。淡島が短剣で、思い切り背を突いたのだ。みづほは淡島の足元に崩折れる。
「強羅の弁に、偽りはありませぬ。」
 淡島は、真直に父を見た。
 「この女にそそのかされて私は弟を葦船に乗せ、海に捨て申した。おまけに私は、実母同然の乳人と交わったのです−−」
 八束は矛をつかむ。
 淡島は素早く船縁に跨り、
「お手を煩わすには及びませぬ、父上。」
 言うなり、我と我が身を貫いた。人々が悲鳴を上げて打ち伏す。
 淡島の体は大きく傾き、白い花びらのように舞い狂う雪と共に、逆巻く波に吸い込まれて行った。舳の下では尚も剣戟の響きが木精(こだま)し、雄叫びに松明が揺らぐ。
 八束の脳裏に、いつか見た、罠にはまってもがく赤ギツネと、その頭上に渦を描いていた夜鳥の群れの悪夢が浮かんだ。

[後記] 
 「太陽神流刑」はこれで終りです。次は倭地といえども海の向こう、現在の南朝鮮の海岸に舞台を移したお話になります。スサノオらの出雲王朝の話になる前に寄り道をする事になりますが、今後もよろしくお願い致します。(深津)


 箸墓について考える
−−三世紀という説は信じられない−−
           奈良県北葛城郡  山崎仁礼男

▼箸墓は女性が被葬者であるという伝承を信ずると、文献上、崇神天皇の娘の豊鋤入姫命か垂仁天皇の娘の大中姫命に比定できます。定説の倭迹々日百襲姫命は孝霊天皇の娘で、狗奴国(コノクニ:魏志倭人伝)の人であり、現に高松市の田村神社(一の宮)に主神として祭られています。
▼次に、豊鋤入姫命の絶対年代を確定してくれるのは『古事記』の崇神天皇没年の干支の戊寅の年です。私はこれをAD三七八年に比定します。崇神天皇が「初国知らしし天皇」として近畿の地での最初の王権樹立者であったこと異論なきところであり、 崇神は山城国にいたのです。というのは、武埴安彦との木津川の決戦の記述を読むと山城国にいるはずの武埴安が葛葉から枚方の河内方面 へと逃げているからで、これにより『記・紀』の地名スリ替えがばれてしまうのです。椿井大塚山古墳は、この武埴安彦との戦勝の地をにらんでモニュメンタに築かれた崇神天皇の墓と推定できます。この三角縁神獣鏡は崇神天皇が北九州から東逃して山城に国を建てた時に持ってきたものと考えます。
▼さて箸墓などの大和国の遺跡に吉備国の影響が濃いこと、多くの人の指摘するところです。ここで三角縁神獣鏡を通 じて備前車塚古墳に私の推測は走るのです。この古墳は岡山駅から直線で約六kmという距離にありますが、岡山駅の附近に「伊福」部があります。廬城部・五百木部です。こうしてここに五百木入彦命の名前を想像するのです。崇神王朝系の有力な分国が吉備にあって、崇神の北九州から山城国への東逃とその建国を助けたのです。崇神が吉備に一つの勢力をもっていたこと『旧事紀』の「国造本紀」が「吉備中県国造・瑞籬朝御世・神祝命十世孫明石彦・定賜国造」と記していることからも明白です。
▼『古事記』の崇神天皇の享年は百六十八才 (八十四才)で長寿でしたから、箸墓の主人公は四世紀中頃となりましょう。前方後円墳と三角縁神獣鏡と櫛描き文様の土器とはワン・セットのもので卑弥呼・壱与の王朝が兄弟首長制の新九州王朝に敗れ、国を追われた時に運んだのです。宮崎県西都原にもこの三つの遺跡遺物は見られます。これは四世紀のものとされています。崇神は東に、西都原の人々は西に逃げたのです。近畿方面 から南九州に伝播したなどという考古学のおとぎ話は信じられない。なお東国に行った豊木入彦命は前橋天神山古墳などの三角縁神獣鏡に比定できます。以上によって、一連のジグソーパズルはきれいに並ぶのです。


新刊の紹介
九州古代史の謎
(海鳥社・1800円)
       荒金卓也 著
 著者は多元的古代研究会・九州の副代表幹事を務められている重鎮である。九州王朝の遺跡や歴史を古田史学に基づいて解説した入門書といえるものだが、東征伝などの著者独自の発見なども盛り込まれており、かつ地元の強みを発揮した好著だ。九州旅行には是非持参したい一冊。巻末の古田先生との対談録も楽しい企画となっている。(古賀達也)

古田史学に魅せられて
      北海道当別町 濱田佶

  私の学生時代の国史は、天皇を中心にした歴史で、それに神話をちりばめたもので、どこまでが史実で、どこまでがフィクションか分からない。たとえ理に合わないことがあっても、疑いを差し挟むことも出来ず、ただ信じて暗記するだけだった。
 そして、天皇を神として崇め、天皇のために命を投げ出すことを喜びと思う青年を作っていったのである。
昭和十八年、学徒出陣で軍隊に入った私は比島戦線に送られ、食料も弾薬もない苛酷な戦闘を強いられ、同期十五名中ただ一人の生き残りとして生還できたが、他の十四名は天皇の名のもとに戦死し、餓死していったのである。
 私は、戦争を憎み、軍隊を呪った、そして同期および部下を死に追いやった「天皇」とは何だったのか。
 この考えはずうっと頭の中から消えることがなかった。
 作られた歴史より知らない私は、新しい歴史を垣間見ようと、当時卑弥呼ブームに乗って書店を漁るようになった。各著者はそれなりにポイントがあって、独自の論を展開していたが、心から納得出来るものはなかった。
 しかし、たまたま古田武彦著『邪馬台国はなかった』を読んで痺れた。徹底的な検証、論理的な思考の展開で、どの章を読んでも素直に納得でき、この本を読み終わる時には、完全に古田史学の虜になっていた。爾来、古田さんの著書は殆どといって良いほど購入し、読んだものである。
 過去の歴史教育に、不信を持っていた私の目の鱗を落とし、歴史に対する新鮮な目を開いてくれた古田さんに感謝する意味で、早速「市民の古代研究会」に入会を申し込んだ。
 私自身は、特別に古代史に関して研究したいというものは持っていない、ただ古田学説に感謝し、納得し、心服した結果 、授業料を払うつもりで維持会員となったのである。
ところが、「市民の古代ニュース」に不協和音が載り、苦々しく思っていたところ、今回の「古田史学の会」結成の運びとなって、今までの休眠的会員の傍観者的な態度を続けることが出来なくなってしまい、集りに参加し、お手伝いすることになったのである。
 寡聞にして、北海道には古代史に関する史跡など無いし、歴史的にも見るべきものがないと思っている私にとって、古田先生が来道し調査をされると聞き、北海道にも調査の対象になるものがあることに驚くと同時に、北海道で先生を囲んでお話が聞ける機会が、思いがけなく早くきたことに感謝しているしだいである。
 今まで各地で開催される研究会・視察旅行などの記事を機関誌で見て、北海道では無縁のものと思っていたが、古田先生の講演会を機に、これからは活発な活動が開始されると思っている。
 会員の方々も熱心な方が多く、何もせず果実だけ頂戴する私にとって、啓発されることが多く、感謝しているしだいです。

[編集部]
本稿は「古田史学の会・北海道ニュース」第1号より転載させていただきました。


 中村幸雄氏を悼む
       「古田史学の会」代表 水野孝夫

 本会発起人・世話役の中村幸雄氏が三月十七日永眠された。六八才であった。三月二五日には例会の発表者として「天皇考−天皇と皇帝」との講演を予定して元気に準備されておられた最中だった。亡くなる直前まで元気にテレビを観ておられ、突然倒れられたとのことである。
 氏が『市民の古代』に発表された論文には、「仏教伝来の真実−日本霊異記の証言」「誤読されていた日本書紀−天皇の神格性の意味、及びその消滅に関する考察」「宇橋に関する考察」「万葉集ヤマト考」「記紀神代紀の構造を解く」がある。万葉集でヤマトに「倭」の文字があてられたのはある時期より後であることの発見や、天智紀七年「時人曰。天皇天命将及乎」の「天命」を「天皇の位につけという天帝の命令」の意味に読み、通説の「天皇のみいのち、おわりなむとするか」は誤読であるとの立論は、氏の面 目躍如たるものがあった。ご冥福を御祈りする。
奥様(寿子様)から「生前の厚誼に感謝し、会員の研究発展を祈る」との御挨拶とともにご寄付を頂いたことを報告しておきたい。

中村幸雄論集


□□事務局だより□□□□□□□□□□□
◎九五年度会費(三千円)納入がまだの方は、同封の振込用紙にて、納入のほどよろしくお願いいたします。前号の水野代表の挨拶にもありましたように、阪神大震災被災地区会員の九五年度会費は免除させていただきます。
◎古田先生より関西講演会の講師謝礼は震災被害者へ、会より寄付していただきたいとのお申し入れをいただきました。先日も被害にあわれた関西地区会員の長老、広岡氏宅へお見舞いに行かれた先生のお人柄がよく伺えます。「二百万円で偽書作成依頼した」などという事実無根の中傷に踊らされている某会の人々に聞かせてあげたいものです。
◎中村幸雄氏ご逝去のショックから、ようやく立ち直り、この会報を作りました。告別式では本会を代表して弔辞を読ませていただきました。遺された私たちは貴方の志を引き継いで前進します。安らかにお眠り下さい。


 これは会報の 公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail
sinkodai@furutasigaku.jp


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