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白樺シンポジウム

すべての歴史学者に捧ぐ

古田武彦

はじめに

 一九九一年八月三日、日本古代史上、重要な発言が出現した。木佐敬久氏の提言である。
                       (白樺シンポジウム、第三日)
 氏は先ず、三国志魏志倭人伝中にしるされた「 軍司令官、張政の倭国長期滞在」の記載に注目された。倭国の都(邪馬壱国)が隣国、狗奴国の攻撃を受け、危急に陥った。そのため、倭国の女王、 卑弥呼が帯方郡に救援を求めた。帯方郡は、中国(当時は国号は魏)の政治・軍事上の拠点であり、現在の韓国の首都、ソウル近辺とされている。
 このときの帯方郡の太守は王[斤頁]であった。彼は卑弥呼の求めに応じ、「塞曹[縁 糸偏nokawari手偏] 史」であった張政を倭国に派遣した。ときは、正始八年(二四七)であった。
 倭人伝の未尾に、彼の帰国の記事がある。その帰国を送って、倭国の使が中国の都、洛陽に至った、その記事で倭人伝は終っている。その帰国年時は書かれていないけれど、彼の到来と帰国の間に、女王卑弥呼の死やそれにつづく倭国内の混乱のあったことが書かれてあり、そのあと、年若い女王、壱与が倭国の王として即位したことが書かれている。
 (この壱与の即位のさい、張政が“後立て”となっていたようである)
 従って張政の倭国滞在期間が、かなり「長期間」にわたっていたことは疑いがない。
 その上、晋書倭国伝によると、このときの倭国の使者の来訪は、魏朝をうけついだ、次の西晋朝の最初、泰始(二六五〜七四)のはじめだったことが知られる。その上、西晋朝の記録官の記載によると、泰始二年(二六六)だったことが判明している。
 従って張政の倭国滞在期間は、「正始八年(二四七)から泰始二年(二六六)まで」すなわち「二十年間」であったことが分かる。

問題の提起

  以上の点を、木佐氏は指摘したのち、次の問題を提起された。
「倭人伝の最初に書かれている行路記事は、張政の軍事的報告書を背景にもち、中国側の軍事用の目的にかなうものとして、書かれているものと見なければならなぬ。
 従ってそこに方角上の誤謬(たとえば、南と東のとりちがえ)や里程上の巨大な誤謬(たとえば、五・六倍の誇大値)があった、というような、従来多く行われてきた考え方は、ありえないと思う。
また何より、帯方郡から女王の都までの「總日程」が書かれていなければならぬ。 なぜなら、それなしには、中国側は、食糧の補給や軍事上の兵力増強などしようとしても、一切目算が立たないからである。」と。
 いずれも、きわめて理性的な指摘である。一点の瑕瑾(かきん)もない。だが、この木佐提言によって、従来の「邪馬台国」論争の一切は、ふっ飛んだ。消滅したのである。
 なぜなら、従来の論者は、あるいは「南」を[東」のまちがいとしたり(近畿説)、里程記事を〃五〜六倍の誇張〃としたり(近畿・九州各説)することによって、各自の目ざす地点へ「倭国の都」を引き寄せようとしてきていたからである。
  その上、木佐提案によれば、もっとも肝心な眼目とされる「帯方郡から倭国の都までの總日程」を提示することができなかったのである。
 これらはすべて、ありえざる解答、根本的な非現実的な解答にすぎなかったことが、木佐提言によって暴露されたのである。
 これに対し、幸いにも、この提案を満足させえたもの、それは一九七一年に発表したわたしの 立場であった。

  第一、方角にあやまりはない。

  第二、里程は真実(リアル)である。
    三国志は、秦、漠朝の里単位(一里=約四二五メートル)ではなく、魏・西晋朝の単位(一里=約七七メートル)によって書かれている。

  第三、帯方郡から邪馬壱国までの「総日程」は四十日(水行十日・陸行一月)である。

 以上の帰結は、「部分里程の総和は、総里程にならねばならぬ 。」という一事を至上命題とした結果、わたしの到達したところであった。そしてその帰結はすなわち、女王の都する邪馬壱国は“博多湾岸とその周辺”にあり、となす回答へと、わたしを論理的に導いたのであった。「陳寿(三国志の著者)を疑わぬ 」立場だ。
 はからずもこの、わたしの二十年来の主張は、今回の木佐提案によって支持されうる、唯一の回答となったのであった。

倭国と日本

 旧唐書の倭国伝、日本国伝は、従来の歴史学者が主張してきた、いわゆる「定説」Dogma とは、根本的に対立する歴史像を記載している。それに拠ると、後漠の光武帝に金印を授与され、魏朝から卑弥呼が金印を授与され、さらに隋朝の楊帝と対等に国交を結ばうとし、その結果、唐朝と白村江で一大交戦を行い、完敗した「倭国」は、一貫して九州の地にあった。
 これに対し、白村江滅亡後の「倭国」を併呑し、八世紀以降の日本列島(西半分)代表の王者となったのは「日本国」であり、上の「倭国」とは別 国である。本来、その「倭国の別種」であった。これがいわゆる「大和朝廷」であり、現在まで“伝統”する、近畿天皇家の歴史である。ーー以上だ。
 これは、従来の日本の大部分の古代史家が、三世紀もしくは五−六世紀以降の歴史を、たえず「近畿天皇家中心」に描いてきた歴史像と全く矛盾する。従来は、天皇家以前に、「先在王朝の存在」を承認する歴史家などは、少なくとも大学の学者たちの中に見出すことは困難だったのである。 しかし、その存在を、旧唐書は明白にのべている。わたしは従来、この旧唐書の記載する歴史像をもって、歴史の真実に適合するものと見なしてきたのである。

 

政・宗・満の法則

  今回、新たな証言が見出された。
 その一は、「郭務[心hen宗]の証言」である。彼は唐朝の部将である。天智十一年(六六二)の白村江の完勝直後(九ヶ月あと。天智二年)、日本列島に派遣された。そして七ヶ月間滞在した。翌年(天智西年)再び来訪し、五ヶ月間滞在した。そしてその年の十二月に帰国している。
 すなわち、白村江で完敗した「倭国」へ、勝利者側の使者として三度来訪した。第一回は、中国の百済占領軍司令官、劉仁願の命、第二回は、唐朝の天子(高宗)の命による来訪であった。第三回(天智十年)も、同じである。
その軍事的・政治的報告書が資料の一となって書かれたもの、それが旧唐書の倭国伝であること、この一事は疑いがたいところであろう。とすれば、張政の場合と同じく、大筋において、その「倭国」観を疑うことは不可能ではあるまいか。なぜなら、期間こそ、各何箇月にとどまりこそすれ、激しく交戦した相手国「倭国」の本体をとりちがえる、などということは、およそありえないからだ。
 すなわちこの「倭国伝」の所述は、真実(リアル)である。そのように判断する以外の道はない。
 その二は、「阿倍仲麻呂の証言」である。彼は「日本国」すなわち近畿天皇家の使者(遺唐使)として、八世紀初頭、唐朝に渡り、その後、「帰化」して唐朝の上級官僚として用いられ、都(長安。今の西安)に「五十年」滞在した。そしてその地に没した。その旨、「日本国伝」に明記されている。
 とすれば、この「日本国伝」の記載が、他の誰人より、この仲麻呂(中国名、仲満ないし朝衡)の情報乃至“裏づけ”によった、と考えて疑いはない。
 とすれば、この仲麻呂が国家の大体(「倭国」と「日本国」との関係)について、全くの錯誤を犯していた、などということは、ありうる話ではない。人間の理性に拠る限りは、これ以外の理解の道はないのである。
 すなわち、旧唐書の[日本国伝」の記載は、真実(リアル)なのである。以上、三つの証言をあわせ、その指摘する歴史像を、真実な、日本の古代史像の根幹とすべきである。これを「政・[心hen宗]・満の法則」と呼びたい。(張政・郭務[心hen宗]・仲満)
 もしこれを非とし、古事記・日本書紀のしめす“大義名分”の立場(近畿天皇家中心の一元史観、"Tennology" と呼ぶべき、現王朝中心主義のイデオロギーの立場)を是とする学者、なおありとすれば、以上の論証のいずれが非か、それを明らかにしてあとになすべきであろう。それが人間の理性と良心ある歴史学者に課せられた、本質的な義務ではあるまいか。

     一九九二・一・一稿了−

古代史ーー日本国の真実 「すべての日本国民に捧ぐ」新泉社 に収録


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1). 木佐敬久
NHK放送文化研究所主任研究員
2). 白樺シンポジウム
東方史学会(昭和薬科大学諏訪校舎)
3). 三国志
西晋の陳寿著。三世紀
4). 魏志倭人伝
東夷伝中、最末尾
5). 軍司令官
軍事顧間か。
6). 耶馬壱国
三国志原文通り。(紹興本・紹煕本)
7). 狗奴国
王は卑弥弓呼
8). 卑弥呼
ヒミカ(従来はヒミコと通称された)
9). 帯方郡
ソウル西北方説もある。
10). 太守
最高責任者(地方官)
11). 晋書倭国伝
房玄齢著。七世紀前半成立。
12).西晋朝
武帝
13). 泰始二年
起居注(日本書紀、神功紀)
14). 「邪馬台国」
従来の論者は「壹(壱)」を「臺(台)」に変え、大和や山門などに当ててきた。(十四世紀以来)
15). 近畿・九州各説
近畿説は大和、従来の九州説は山門(福岡県)字佐(大分県)等、各地。
16). 立場
古田『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社刊、角川文庫。朝日文庫に収録予定)
17). 単位
周朝の里単位の復活。短里と呼ばれる。
18). 回答
他には「水行二十日(投馬国まで)」しか、日程記載がない。
19). 旧唐書
(倭人伝)劉[日句]著。十世紀前半成立。
20). 真実
古田『失われた九州王朝』(一九七三)『盗まれた神話』(一九七五)参照。

付記 表現できない漢字は[henni,]などを組み合わせて表現しました。


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制作 古田史学の会
著作 昭和薬科大学教員(当時) 古田武彦