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『「邪馬台国」はなかった』


『ここに古代王朝ありき』ーー邪馬一国の考古学(ミネルヴァ書房
2010年9月刊行 古代史コレクション5

第一部 邪馬一国の考古学

 第一章 卑弥呼に会った魏使

古田武彦

 投げられた骰子

 この本を書く上で、わたしの手ににぎられた探究の武器は、たった一つしかない。最初の一ぺージから最終の一ぺージまで、一つの公理で貫かれているのである。それは次のようだ。
「一定の文化特徴をもった出土物が、一定の領域に分布しているとき、それは一個の政治的・文化的な文明圏がその領域に成立していたことをしめす」
 たとえば楔形文字の刻みこまれた文字板。それがチグリス・ユーフラテス河の流域を中心として一定の領域から出土する、それは当然、そのような文字板を必要とし、文明の内容としていた一つの文明圏がその一帯に繁栄していた、まぎれもない証拠品なのである。文字板に限らない。それが銅の壷であっても、鉄や玻璃(はり ガラス)製品であっても、同じことだ。
 右の命題は、わたしにとって誰から“教わった”ものでもない。ただ、わたしのうちなる理性がそれをわたしに告げ、わたしはそれを自明の公理としてうけ入れたのである。
 先年(昭和五十二年)、わたしは一冊の翻訳書を世に問うた。『倭人も太平洋を渡った』(創世記刊。原題“Man across the sea” Texas Press )がこれである。この本の中の各論文の論証内容そのものについては、わたしのような者にその真偽をあげつらう力はない。アメリカ大陸内外の出土物にわたる広大な考察だからである。
 けれども、わたしの心に“かのうた”たった一つのこと、それは右の公理が論証の基本におかれていたことだ。だから当の論証に対して賛成する者も、反対する者も、共に同一の公理に立っているのである。いわば、学問の“土俵は一つ”というわけだ。
“そんなこと、学問なら当たり前じゃないか”。読者の中からそういう声が聞えるような気がする。その通り。その当たり前のことが本当に守られていたら、もうとっくに「邪馬台国」論争など、けりがついていた。 ーーそのことをわたしはこの本の中で示しつくそうと思う。
 それだけではない。七世紀末以前の、日本の古代史の真実の相貌 ーーつまり全体像だーー も、今の日本の教科書(小・中・高校)や講義(大学)で語られているものと、すっかり面目が一新されてしまうであろう。その一事をわたしはまごうかたもなく、この本の中に示しきろうと思い、筆をにぎった。すでに骰子(さい)は投げられたのである。

 

 卑弥呼の年齢

 最初にのどやかな話題がある。 ーーこれが倭人伝の記述の真実性(リアリティー)に光をあてる、一つの新たな照明となった。
 一体、倭人伝に登場する卑弥呼は、いくつくらいの年齢か。各人各様のイメージがあろう。が、案外“老婆”めいた印象をもっている人々も多いのではなかろうか。わたしもそうだった(古田著『邪馬一国への道標』講談社刊、九五ぺージ)。
 けれども、ふとしたことから謎は解けた。景初二(二三八)年直前の即位時期には三十五歳前後。だから十年後の正始年間(二四〇〜四八)に死んだとすれば、四十五歳前後で永遠の眠りについたこととなろう。その謎を解くカギは、
  名づけて卑弥呼と曰(い)う。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大にして夫壻無し。

と書かれた「年已に長大」。『三国志』全体について、この用語例を探究することだった。明証は次の文である。
  丕(ひ 曹丕)の、業を継ぐに逮(およ)ぶや、年已に長大。(呉志七・諸葛瑾伝)、

 「丕」とは、曹操の子、曹丕だ。魏の第一代の天子、文帝である。その文帝紀(魏志二)によると、彼の即位は延康元(二二〇)年、三十四歳(黄初七〈二二六〉年に四十歳で死)。
 「業を継ぐ」とは、漢から禅譲をうけて、魏を創建した、延康元年の即位時点を指した言葉だ。したがってこの「年已に長大」は、三十四歳頃を指して用いられている(五世紀の裴松之も、『三国志』の孫奮伝〈呉志十〉の「三十・四十」に対応させて、この「已に長大」の語を用いている)。
 他にも、「後主(劉禅)漸く長大」(蜀志九董允とういん伝)の表記が二十代後半を指して用いられているから、陳寿の用法として、この「長大」の語の使用方法は明確かつ安定している(古田「九州王朝の方法」『東アジアの古代文化』一九七八爽秋号、参照)。
 したがって陳寿が倭人伝で「年已に長大」と書いたとき、当時の『三国志』の読者は、“三十代なかばの女性”として、東方なる女王国の王者のイメージを思い浮かべたこと、それは確実だ。“鬼気せまる、白髪の女妖術者”、そのようなイメージを誰人かあって、もし卑弥呼に対して抱いていたとしたら、それはひっきょう、一片の錯覚、現代の虚像にすぎなかったのである。

 

 卑弥呼に会った魏使

 さて、このささやかな、わたしの発見は、いわば波及効果として、一つの命題をくっきりと浮かび上らせることとなった。それは「魏使(魏の天子の命をうけて帯方郡から派遣された使)は卑弥呼に会った」という事実だ。
 もし、これが実際には会わず、“倭人からの聞き書き”だったとしたら、倭人は卑弥呼の年齢をいくつだと言っただろう。それは“七十歳”だと言ったはずなのだ。なぜならわたしの『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社刊、第六章III)でのべたように、当時倭人は「二倍年暦」に従っていた。つまり“一年に二回としをとる”数え方である。したがって“三十五歳”は、その二倍の形で表現されたはずだ。とすると(陳寿には、この「二倍年暦」という概念が欠如していたから)卑弥呼のことを「年已に長大」でなく、「年漸く老ゆ」とか、「年已に寿考」といった形で表現したはずなのである。しかるに史料事実はそうなっていない。「年已に長大」だ。ということは、魏使が実際に卑弥呼に会い、実際にその「衆を妖惑する」顔を見、そしてこの表現をした、そう考えるほかないのである。
 すなわち“魏使は倭都(邪馬一国)に至り、卑弥呼に会っている”。卑弥呼の年齢表現をしめす史料は、この事実をまぎれもなく証言していたのである。

 

 倭都見聞記

 わたしが以上の検証ののち、改めて念を押しておきたいのは、次の二点だ。
 (一)魏使は、女王国の首都(邪馬一国)に到着し、卑弥呼に会っている。
 (二)したがって、倭人伝の倭国描写は、魏使の「首都見聞報告」にもとづいて書かれている。
 この二点について、さらに詳しく再確認してみよう。
 右の(一)は、倭人伝を一読すればすぐわかるように、実は明白きわまりない事実だ。

  正始元年(二四〇年 ーー古田注)、太守弓遵(きゅうしゅん)、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、并(なら)びに詔を齎(もたら)、金帛・錦ケイ*(きんけい)・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す。
     ケイ*は、四頭の下に、厂。中に[炎リ] JIS第4水準、ユニコード7F7D

 右の一文を各句に分けて分析しよう。
 (1).魏使(帯方郡の太守弓遵の部下、梯儁)は、「倭国に詣り」と書かれている。これは“倭国の首都に詣る”の意だ。決して“倭国の周辺部にいたった”とか、“倭国の副次的要衝(たとえば「伊都国」のごとき)にいたった”の意ではない。
 (2).「倭王に拝仮し」と書かれている。これは“倭王に直接会った”ということだ。その「倭王」とは、当然、卑弥呼その人である。なぜなら、右の文の直前の詔書(魏の明帝から卑弥呼にあてたもの)に、「親魏倭王卑弥呼に制詔す」(景初二年十二月)とある以上、卑弥呼以外の者を「倭王」と呼ぶことは許されないからである。
 (3).「詔を齎し」と書かれている。魏使にとって最大の使命はこの一点にあった。したがって当然、魏使は卑弥呼に会って「親魏倭王卑弥呼」あての詔書を直接授与したのである。
 (4).「倭王、使に因って上表し」と書かれている。この「使」とは、魏使(梯儁)のことだ。卑弥呼は彼に対して「魏の天子(このとき斉王、芳)あての上表文」を託し、それを洛陽なる天子のもとにとどけてくれるよう、魏使に依頼したのである。「使に因って」とは、それをしめした表現だ(倭国と文字使用の関係については、第二部参照、一応リンクしました。但し全文は掲載していません)。したがって魏の天子はもとより、魏朝の史局のメンバーは、帯方郡からとどけられた、この「卑弥呼の上表文」を見たのである。すなわちこの一行は、単に“帰朝報告にもとづく”のみか、その現物(卑弥呼の上表文)に接した上で、書かれていることとなろう。

 このように、いわば文面通りの自明の理解を、なぜここにわたしは特記するのか。それは「邪馬台国」の研究史上、“魏使は倭国の首都にいたっていない”というテーマが、多くの学者たちの脳裏に抜きがたく“信ぜられている”からである。
 それは近畿説(たとえば伴信友)と九州説(たとえば榎一雄、江上波夫)にかかわらぬ。またかりにそのことを明言せずとも、暗々裡にこのテーマに“加担”している論者は数多いと思われる。なぜか。
  東行不弥国に至る百里。・・・・・・南、投馬国に至る水行二十日。・・・・南、邪馬一国に至る。女王の都する所。水行十日陸行一月。

 従来の(わたしの『「邪馬台国」はなかった』以前の)すべての論者は、皆一様にこの一節中の「水行十日、陸行一月」を「倭国の首都以前の行程」と解して疑わなかった。のみならず投馬国に関する「水行二十日」もまた、同じく「倭国の首都以前の行程」に属する、と考えてきたのである(榎説以外)。
 ということは、何を意味するか。倭人伝に書かれた行程記事は、
  A 〈前半〉 帯方郡治→不弥国〔里程〕
  B 〈後半〉 不弥国→邪馬一国〔日程〕

という二大部分に分れている、と解することとなった。
「なぜ、そんな木に竹をついだような書き方がされているのか」。この問いは不可避である。そして“もっとも容易な推察” ーーそれこそ“魏使は全行程の中ほどに当る、このあたり(不弥国付近)までしか、実際には行かなかったのだろう“という仮説だったのだ。
 このさい、「不弥国」は最終到着地とするにはあまりにも特色のない、ささやかな地点に見えていた。そのため、二百里分“前にもどった”ところにある「伊都国」が、多くの論者によって最終到着地として擬定されることとなった。
 けれども今、ことの筋道を冷静に見つめてみれば、このような論者の思考経路は、明らかにおかしい。平明な道理に反しているのである。
 なぜなら、ここに矛盾する二つの命題がある。
 (イ) 魏使は倭国の首都に至り、倭王に会って、詔書を渡し、返礼の上表文を託された。
 (ロ) 「前半は里程」、「後半は日程」という形で行程が書かれている点から見ると、魏使は倭国の首都に至っていないように思われる。

 このさい、注目すべきこと、それは二つの命題の「史料性格」が全くちがうことだ。すなわち、(イ)の方は、誰が読んでも、そうとしか読めない。解釈のいかんで、「首都に至った」とも、「首都に至らなかった」とも読める、といったていの文面ではない。明確この上なし、何の異解も許さない明晰さをもっている。
 これに対し、(ロ)の方は決して「唯一の読解法」でないことは、すでにわたしのしめしたところだ。つまり「水行十日・陸行一月」は「郡(帯方郡治)より倭(倭国の首都)に至る、その総日程」だと見なすのである(『「邪馬台国」はなかった』参照)。
 いいかえれば、(イ)の方は「史料事実そのもの」であるのに対して、(ロ)の方は「史料の一解釈」にすぎない。したがってこの(イ)(ロ)が矛盾すれば、当然疑わるべきは(イ)の方ではない、(ロ)、つまり「解釈」の方だ。これが人間の平明な思考において、当然のルールではあるまいか。
 これに対して、ある論者が「(ロ)の解釈は、不動の定説だ。なぜなら古田以前には、すべての論者が、この(ロ)のように解釈して疑わなかった。この一事からも、それは証明される。やはり古田の読解は文脈上、無理だ。自然でない」。そう言ったとしよう。
 しかし、事実上、(ロ)の解釈こそ文脈上、決定的に「無理」であり「不自然」なのである。なぜなら、(イ)という明晰な叙述内容と率直に言って齟齬(そご)し、矛盾するからである。この一点をさしおいたまま、他に向かって「無理」「不自然」などと断ずるとしたら、あまりにも“厚顔”、と言ったら言いすぎだろうか。わたしにはそのように思われる。

 

 倭人伝の焦点

 以上の問題は、とりもなおさず、「里程最終地たる不弥国(博多湾岸)が邪馬一国の玄関」という帰結、すなわちわたしの博多湾岸首都説を指示することとなろう。なぜなら、
 (1) 不弥国までの行程(里程)しか記されていない。したがってここが長行程の最終地である。
 (2) 魏使はまぎれもなく邪馬一国に至った。

 この二命題の唯一の結節点は、「邪馬一国は博多湾岸にあり」との帰結以外にないからである。(「水行十日、陸行一月」を「帯方郡治〜女王国」間の総日程と見なす、わたしの行路解読については、わたしの第一書『「邪馬台国」はなかった』参照)。
 けれども、今のわたしにとって必要な定点は、次の一点にとどまる。“魏使は倭都に至り、倭王に会った。 ーーこの史料事実は疑うことができない”と。
 第一、考えてもみよう。この一点は、倭人伝内、枢要の記事、いわば叙述のキイ・ポイントだ。その基本史料のしめす根本の事実を否定しておいて、他のあれやこれや、みずからお気に入りの記事を“自由に”とりあげ、“勝手に”採択して弁ずるとしたら。それはしょせん、学問にも似ぬ恣意勝手の議論、そう言われても仕方ないのではあるまいか。
 やはり“魏使は、卑弥呼の顔を見た”のだ。あのデカルトの透徹した“疑いの目”を、万回この倭人伝に注ぎ尽くしてみても、わたしはついにこの帰結を疑うことができないのである。

 

 考古学的探究の旅

 “なぜ、そんなことにこだわるのだ。お前が卑弥呼に会ったわけでもないのに、彼女が若かろうが、年寄りだろうが、美人だろうが醜女だろうが、考古学という学問には、何の関係もないじゃないか”
 そう嘲笑(わら)読者もあろう。だが、そうではない。問題は、“倭都に魏使が彼の歩を印した”という基本事実を確認することなのだ。
 しかも、彼はかなりの期間、この倭都に滞在したと思われる。“先に目的地があり、倭都は中途経過地”というわけではないのだから、これは当然だ。先にあげた記事にも、まず「倭王に拝仮し、詔をもたらし」たとあり、次いで倭王は上表文を作り、魏使に因って洛陽なる天子のもとへとどけるよう、寄託した、という。この「齎詔(詔をもたらす)」と「上表文寄託」が同一日であるわけはない。当然、何日かの滞在ののちに、「上表文寄託」のはこびになった、と考えて当然だろう。
 第一、「一万二千余里」の長路はるばるきたった魏使が、首尾よく最終目的地たる倭都に来て、そそくさと立ち去るべき必要は全くないのである。一定期間の倭都滞在。それは当然のことだ。
 わたしは何が言いたいのだろう。要は、“魏使は、中国の正使としてはじめて到着しえたこの土地(倭都)を十分に観察することができた”。そのことが言いたいのだ。
 いいかえれば“『倭人伝』の記述は、その魏使の報告にもとづくものだから、十分に信頼すべき記述内容と見なされる” ーーわたしが今まで縷々(るる)のべてきたこと、それは、ひっきょうしてこの一点につきるのである。
 わたしは第一書『「邪馬台国」はなかった』において、次の一文を帰結とした。
 「『三国志』魏使倭人伝の記述に、誇張はない。それは、一貫して正確、かつ真実(リアル)である」
 これが四〇〇ぺージにわたる、この本が最後に到達し、この手ににぎりえた一滴の真実だった。そのことを、第一書とはちがったやり方で、今再び検証し、同一の結果をえた、つまりダメ押ししたのだ。
 考えてもみよう。魏使が倭都に至らず、報告書にだけ、麗々しく、さも“倭都に至った”かに書きつけるたぐいのてあいなら、わたしたちは、倭人伝そのものを考古学的に検証する、などということ自体にはりあいをなくすであろう。
 だが、そうではなかった。それは魏使の実地見聞報告だった。彼は倭都に滞在して卑弥呼の顔にだけ見とれていたわけではない。倭都の中のさまざまの事物を観察し、それを明晰に記録しているのである。幸いなるかな!
 わたしたちは安んじて倭人伝の考古学的探究の旅に、今出発することができよう。

 

 倭人伝の中の「物」

 わたしたちが倭人伝の中で出会う「考古学的事物」の記載、それは次のようだ。

 (一) 鏡
  (1) (景初二年十二月)又特に汝に・・・・・・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。
  (2) (正始元年)金帛・錦ケイ*(きんけい)・刀・・采物を賜う。

 (二) 矛
  (1) には・楯・木弓を用う。
  (2) 宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、を持して守衛す。

 (三) 冢ちよう
  (1) 其の死には棺有るも槨(かく)無く、土を封(ほう)じて冢を作る。
  (2) 卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩。

 (四) 鉄
  (1) 木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或は鉄鏃、或は骨鏃なり。
  (2) 五尺刀二口(詔書)。

 (五) 珠・玉
  (1) 真珠・鉛丹、各々五十斤(詔書)。
  (2) 白珠五千孔・青大勾珠二枚(一与貢献)。

 (六) 錦・帛布
  (1) 絳地(こうち)交龍錦五匹・絳地[糸芻]粟ケイ*(すうぞくけい)十張・倩*絳(せんこう)五十匹・紺青五十匹。紺地句文錦三匹・細班華ケイ*五張・白絹五十匹(詔書)。
 (2) 金帛・錦ケイ*・・・・・・采物を賜う。
 (3) 倭錦・絳青[糸兼](こうせいけん)・緜衣(めんい)・帛布(正始四年、卑弥呼の貢献)。
 (4) 異文雑錦二十匹(一与の貢献)。
     [糸芻]は、糸偏に芻。JIS第4水準ユニコード7E10
     ケイ*は、四頭の下に、厂。中に[炎リ] JIS第4水準、ユニコード7F7D
     倩*絳(せんこう)の倩*は、草冠に倩。
     [糸兼けん]は、糸編に兼。JIS第3水準ユニコード7E11

 (七) 金
  (1) 金八両(詔書)。
  (1) (2) 金帛・・・・・・を賜う。

 (八) 階級杜会の痕跡
  (1) 其の俗、国の大人 は皆四、五婦。下戸も或は二、三婦。
  (2) 下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或は蹲(うずくま)り或は跪き、両手は地に拠り、之が恭敬を為す。対応の声を噫(あい)と曰う。比するに然諾の如し。
  (3) (卑弥呼)と為りしより以来、見る有る者少なく、千人を以て自ら侍せしむ。
  (4) 卑弥呼、死するを以て・・・・・・徇葬する者、奴婢百余人。
  (5) 生口
    (イ) 共に其の生口・財物を顧し・・・・・・
    (ロ) 「汝献ずる所の男生口四人・女生口六人」(詔書)
    (ハ) 生口(正始四年、卑弥呼の貢献)
    (ニ) 男女生口三十人(一与の貢献)。

 以上が、考古学的に対象となるべき記事だ。つまり、現在の考古学的な採集もしくは発掘によって出現が期待されるものである。

 

 倭都の可能性

 さて、紀元前二〜三世紀から紀元後三世紀までの五〜六百年間は、考古学上「弥生期」と呼ばれている。これは今や中学・高校の教科書・参考書類にも書かれている。いわば国民一般に周知の知識と言えよう。
 三世紀中葉に属する卑弥呼の時代は、当然右の弥生期の中に属している。したがって右の考古学的出土物は、この日本列島中の弥生期の地層・遺跡から出土するはずの器物、もしくは様相なのである。

 

 第二章 倭都の痕跡

銅鏡の出土状態/矛の女王国「鏡と冢」の国/長里か短里か/短里論争/考古学の時代区分/多鏡冢の文明/矛と鏡と冢の結合/鉄の古冢文明圏/「五尺刀」の背景/鉄本位制下の倭国/鉄の効用/珠玉とガラスの女王国/絹の倭国/錦の女王/弥生の階級杜会/新しい疑問

 

 第三章 三世紀の空白

考古学の物指し/歴訪/前原訪問/わたしの問い/三世紀遺跡の模索/出現せず/時間の軸/相対編年/出土状態の謎/空漠の時間帯/鏡の研究史/富岡の戒め/仮説と定理/三つの論証/科学か神学か/二つの「なぜ」


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