近代法の論理と宗教の運命III 「信教の自由」への戦闘的無神論の批判(古田武彦)へ
古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 III 『わたしひとりの親鸞』 明石書店
これも旧版 『わたしひとりの親鸞』(毎日新聞社)と同じです。
なぜ、わたしは親鸞を愛し、これを生涯求めつづけてきたか。その一番根本の動機は何か。
ーそのようなことは、普通、人の前であからさまに語るべきことではないように思われます。
それは人間の心という広大な世界の中の奥底にそっとしまっておくような、いわばその人固有の秘密。そこから当人のすべての模索ははじまっている。それは確かにしても、そのことを当人自身が外界の明るみへとひき出そうとする。そのようなことは身のほど知らずの試みなのかもしれません。
それに、もしわたしが、あるいは生まれ落ちて以来、度はずれて数奇な境遇や体験を味わってきていたり、あるいは人並みならぬ肩書の、高邁な識見や修行の持主だったとしたら、そういったわたしの語る「内心」は、それこそ万人の傾聴に値いするものだとも言えましょう。
けれどもわたしは、全くそのようなものではありません。戦前から戦後にかけて過ごしてきた五十年余の生涯は、この時期を日本列島で生きた人間としては、格別変わったものではありまぜんでした。またいわゆる高邁な精神や識見など、かけらさえもちあわせていないことは、わたしが言いたてるまでもなくこの本自体が最上の証明となっています。
むしろ、わたしがここで語りたいこと、それは無上にありふれたことです。いわば誰にでも、心あたりのあること、その結論は、誰人にも何の疑いようもないことだと、わたしには思われます。
"では、何で今さら。" とおっしゃるでしょうが、五十年余をささやかに生きてきたわたしがふとあたりを見まわしてみたところ、その結論は世間の通念にはなっていないように見えました。この日本列島内部はもちろん、おそらく地球上の他のすべての地域においてもまた。
これはなぜだろう。わたしの頭脳の回転をささえる歯車のネジが、一本狂っているのだろうか。ーでもわたしは、平凡な市民生活を営む、あたりまえのひとりの人間です。
実は、わたしがこのような一種風変わりな記述をはじめよらと決心したのは、一つ、直接のきっかけ がありました。
昨年(一九七七)、わたしは五十歳から五十一歳でした。これは昔風の "数え" で言うと、五十二歳です。ところが、この「五十二歳」という年に気づいたとき、わたしはハッとしました。なぜなら、あの親鸞が終生のライフワークともいうべき主著、教行信証(きょうぎょうしんしょう)を書いたのは元仁元年(一二二四)、まさに彼が五十二歳のときだったからです。(もちろん、昔は、皆年齢は
"数え" でした。)
今までのわたしにとって、親鸞とは、はるか向うの高嶺(たかね)にいるような存在でした。その宗教思想はもちろん、さまざまの人生上の知恵においても、わたしよりはずっと年上の先輩、そういった感じで見てきました。これは十代の後半に接したときの印象、それがスーツとつづいていたようです。
誰にも経験がおありでしょう。小学校時代の先生や青年時代にかいま見た少女の姿が、現実の時間の進行とは別個に、各人の記憶のフィルムに焼きつけられる。あたかもこの世には、二つの時の流れがあるかのように。
あれとよく似た心理なのかもしれません。わたしにとって親鸞は、青年期における "初恋の人" でした。その姿はまさに "純粋に生きつづけた人生の達人"
として見えていました。年齢的にもはるか上、当然、そう見えていたのです。
その印象が、一つの固定観念となって、スーツと今までつづいてきていた。ーそうなのです。ですからその親鸞が、あの著述活動の絶頂期において、この今の自分と同年。そのことが信じられないような衝撃をわたしの内面に与えたのです。
わたしは二十代の模索をへて、三十代は親鸞の探究に没頭しました。それはすでに二つの著書(『親鸞 -- 人と思想』清水書院、『親鸞思想 -- その史料批判』富山房)として世に問うています。またなぜこのような探究をはじめたかについては、 — — ここで言おうとしていることとは、別次元でですが — — すでにのべ、他の本の中にも収録されています。(『わたしの親鸞』講演筆録、姫路)
けれども、それらはすべて、歴史上の人物として、親鸞を研究したのです。そしてわたしが青年時代のはじめのころ、いや少年時代の終わりといった方がふさわしいかもしれませんが、歎異抄(たんいしょう)にもられた親鸞の言葉にふれてうけた衝撃。このような言葉を発した人物は、本当にどんな人間だったのか。その人はあの古代末の鎌倉期初頭にどのような生き方をしていたのか。それをひとつひとつ、具体的な文献に当たって確かめてみようと思ったのです。
そしてそのさい、後代の本願寺教団の教義の中で作られた、後光(ごこう)にみちた「親鸞聖人の像ではない。鎌倉期に生き死にした、ありていな一人の男の実像を確かめよう。これがわたしの探究にとって、基本のルールだったのです。
そしてその結果は、この上なくわたしを「満足」させてくれました。あの歎異抄にもられた言葉の数々、たとえば「わたしには弟子などひとりもいない。なぜなら皆、(仏の前で)対等な人間同士だから。」とか、「わたしはたとえ地獄に落ちてもいい。あの法然聖人と一緒なら。」といった言葉が、すべて抜きさしならぬ彼の表現。その生涯の苦悩と模索の中から生み出された告白であったことを、自分の掌の上でハッキリと確かめることができたのです。
“言葉とは、その人のいのちの光り輝く断片だ” わたしは青年の日に、ある人からそう聞いたことがあります。まさに親鸞の言葉と親鸞の生涯とは、そのような関係にあった。それがわたしには十二分に認識できたのです。
このことは、先の『わたしの親鸞』や二冊の本にすでに書いたことによって、おわかりいただけると思いますが、今のわたしの課題は、これとは別です。 — — “歴史上の人物”という、その「歴史上」をとっぱらおう、わたしはそう考えたのです。
鎌倉期と現在とは別の時代。それぞれ独自の社会的ルールがあり、倫理感があり、物の考え方がある。いわば両者は異質の世界だ。 — — この考え方は歴史探求の根本です。そういう前提に立ってこそ、歴史上の過去の人物を正確にキャッチできるのです。
この前提なしに、現代とは別の世界で生み出された文献を、今風に読む。このことから、“さまざまの誤解”が生まれ、時として恣意的 主観的な解釈を生むことは、よく知られています。いわゆる後代の本願寺教団の“教義”としての親鸞聖人像も、その一つといってもいいでしよう。これに対し、あくまで鎌倉期という“”時代の約束”の中に生きた親鸞の実像を明らかにする。これがわたしの今までの仕事でした。言うまでもなく、わたしたちは、意識するとしないとにかかわらず、すべての面で現代社会の約束事”の中で生きているのですから。
しかし、もう一つ別の視野があります。人類の長大な発展という時間の流れの中で、近々数千年くらいは同時代だ。こう見ることも、当然できます。いや、それどころではない。人類がこの地球上に誕生して、やがて死に絶えるまで、それがたとえ数千億年であろうと、さらに一層広大な宇宙の生成の歴史からこれを見れば、すべて“人類期”とも呼ぶべき、特定の「同時代」と見ることさえできます。こう考えてみれば、何が「同時代」か、というのは、すべて、基準となる物指しのとり方次第といえましょう。
このことは、別段、これほどぎょうぎょうしい物の言い方をしなくても、言ってみれば日常自明のことです。
わたしは今、京都の西の片隅の竹藪のほとりに住んでいますが、この同じ京都に、親鸞は生まれ、かつ死んでゆきました。青年時代の親鸞が東山のつらなり、比叡山に住んでいて、解きえぬ煩悶(はんもん)を抱いて、あるいは大阪の磯長(しなが)にある聖徳太子の廟(びょう)に詣で(先の二著参照)、あるいは京都市内中央部の六角堂にこもり、また比叡山から連日(百日)この堂にかよいつづけたことは、親鸞伝上有名な事実です。
わたしも、ここ西山の地に来る前、比叡山の麓に住んでいて、日々そのあたりの山道を歩きつつ、この道は、かつて若き親鸞が苦悩にあえぎつつ、あるいは駆けおり、あるいは登っていた道か、と感慨をもよおしたことがあります。
こんなことをなぜことごとしく書きたてるかと言いますと、要は、わたしと親鸞とは、この同じ大地に二本の足で立っていた、同じ人間同士だ。変わりはない。このことが言いたかったのです。ですから、先に言った、わたしが親鸞を知ろうとして、彼を歴史上の人物として見つめてみようというのは、いわば「認識の便法」にすぎません。仏教でいう“方便”です。煮つめてみればみな同じ。同じ地表の人間同士の話にすぎないのです。
もともと、わたしにとって親鸞は、別に“歴史上の興味”から注目したわけではありません。結局、自分の人間としての生き方から着目したのです。そして過去に、本当にこんな感じで生きていた奴がいたのか、そのことを確かめてみたのです。そしてそれが確かめられた今、やっぱりもとの出発点に、わたしは帰ってこざるをえません。 — — このわたしはどう生きるのか
この問いに対する親鸞の答えは、簡単明瞭です。 — — 「アミダ仏を信ぜよ」これ以外にありません。そしてその具体的な表現として「念仏」1(「ナムアミダ仏」)と唱えることをすすめるにちがいありません。
しかし、わたしは二十代の半ばごろ、この道をすでにみずからに拒否しました。そのころは、信州松本の地で高校の教師をしていたのですが、同時に町の図書館で親鸞の著作を借りて読んでいました。少年時代、かいま見た親鸞の“”実像”を求めていたのです。
それはただ活字化された本だけでしたから、のち(三十代)にやりはじめたような親鸞自筆の本の探求などとはほど遠いものでしたが、それだけに、問題の本質をめぐって、堂々めぐりしながら、日々考えあぐねていたようです。
そのころ、こう感じたことがあります。
「親鸞は念仏の行者という実践家だ。その親鸞の本をただ読んでいるだけでは駄目だ。それではしよせん、文化人風の教養として親鸞を利用しているだけだ。やはり親鸞の実践を、わたしもしなければ」
こういった一種性急な論法は、あるいは青年期特有の潔癖さかもしれません。ちょうどマルクスの資本論を、本としていくら読んでも駄目だ。人間の解放のための実践活動に入らねば、という多くの青年の経験した、あの問いかけと軌を一にするものでしょう。
そこで唱えはじめました。朝も夜も、ひっきりなしに。別に他に聞かせるわけではなかったのですが、口の中でぶつぶつやっているのを奇異に思った人も、あるいはあったかもしれません。浅間温泉の裏の、見はらしのいい、乗鞍山などのアルプス連峰を眼前にした農家の二階にひとり下宿していたのですが、今は亡き、その家の人柄のよかったおばさんなど、きっと気づいて黙っていてくれたのだと思います。
ところが、そのうちにこの性急で、いくらか“喜劇的”な実行を、わたしは断念しました。そこには“切実さ”がないのに気づいたからです。
誰でも同感していただけることと思いますが、歎異抄の中の親鸞の言葉、それはどれ一つとっても、この「念仏」という単純きわまる行為が親鸞にどれだけ 切実 なものであったか、ということを思い知らせてくれます。若かったわたしも、理くつ抜きにそのこと直感”していたをのです。
ところが、行為は同じ「念仏」でも、わたしの場合、どこからもそのような骨を突く切実感が生まれてこない。ズバリ言えば“猿真似”の空しさがいつもわたしの中に残されているのを確認していたのです のちに親鸞の歴史的探求に入るにつれて、この問題はきわめて重大な思想史的背景にかかわっていたことを思い知らされました。
(第二部 「親鸞探求者の群れ」参照)
それ以降、わたしは一回も念仏を唱えたことがありません。親鸞への探求に没頭した三十代、古代史への探究に向かった四十代、いずれの月も、いずれの日も、わたしはむしろ、みずからにそれを厳しく禁じてきたのです。なぜか。 — — ズバリ言いましょう。それはわたしがあまりに深く親鸞を愛したからです。あの親鸞のような切実さをもたず、いたずらに唱えること、それは一つの冒瀆のように感じられたのです。
わたしの中に来世なるものへの信念がなく、この世の歴史の運行をアミダ仏が支配しとおしているという世界理解もない。それで「ただ念仏」と言ってみても、およそ親鸞の言う「ただ念仏」とは、言葉のみ同じで、その質を全く異にしているのです。
第二部「親鸞探求者の群れ」にのべるように、親鸞にはそれがありました。承元の弾圧も法然の死も、一見人間の目には、非法の極致に見えていても、実は、深い所においてアミダ仏のはからい、深いたくらみに基づくものであったのだ。しかも、これらの事件は、すでに観無量寿経の中に予告されていたのだ。そのように親鸞は考えていたのです。そしてあの後鳥羽法皇や土御門上皇等の島流しに終わった承久の変など、まさにアミダ仏の意図がこの世の歴史の運行を支配している、現の証拠。 — — 親鸞は関東の門弟への手紙の中で、そういった口吻をもらしています。
この点、相次いで現われた日蓮も同じです。念仏と唱題と立場こそ異なれ、この承久の変という現実の史上の事件を“仏天の意図の現われ”と解した点においては、親鸞と軌を一にしていました。
しかし、近代人たるわたしたちにはこのような視点はありません。それはたとえば次のような例を考えてみてもわかりましょう。
わたしが少年時代をすごした広島、そこは太田川の支流たる七つの川が流れ、美しい町でした。わたしはその一つの川べりの草の上に腰かけて、いつも夕日の暮れゆくさま、空の雲がかがやき わたっては色あせてゆくさまをあきずに眺めていました。それはわたしの少年の日の欠かせぬ日課をなしていたようです。
その広島は昭和二十年八月、原爆の閃光の中に包まれました。わたしの知っていた多くの友や愛する人々は死んでゆきました。では、そのこともまた、わたしは“仏天のはからい”と信じられるか。当然、“ 否!” と言うほかありません。
わたしには、“アミダ仏のはからいで、現実の歴史のひとつひとつは、くまなく動いている”という“幸せな信仰”をもつことができません。親鸞にはそれがありました。親鸞の言う「ただ念仏のみ」という言葉は、“その幸せな信仰”と一紙のすきまもなく、ピッタリ結びついていたのです。 — — しかしわたしにはそれがありません。同じ念仏を唱えても、本当の切実感に転地雲泥の差がある。 — — それは当然のことだったのです。
では、どうすればいい この問いがわたしの内部をおそいます。わたしは一瞬困惑しますが、にもかかわらず、通路が一つしかあいていないのを感じました。それは、親鸞と同じく、“それは何か”こうみずからに問うとき、この問いに対する、わたしの答えは、いや“”答えを出すための方法”は、すでに定まっているのに、わたしは気づきました。それは次のようです。“わたしが本当にそうだ、と思えることだけを、そうだと思い、わたし自身にそうだと思えないことは、誰が何と言おうとも、そうだとは思わない” — — この、自明の方法です。
この格率(“証明なしに認められる命題 公理”・“行為の規則”“論理の原則”(広辞苑))は、わたしにとってここ二十年来、毎日、朝も夕も、この掌で確かめてきたことでした。
親鸞への探究の日々、わたしを導いたのも、この方法だけでした。『わたしの親鸞』でのべたように、本願寺教団の学匠や大学教授といったおえら方への不信を基点とし、みずから少年の日に感じた親鸞の言葉の印象を自分の掌の上で確かめる。それだけのために歩んだ日々にわたしの親鸞研究をささえたもの、それは「大学内部での昇進」のためでもなく、「高僧有識者への階梯」をめざしたものでもない。まさに自己だけを目途とした、わたしひとりのための探究でした。そしてそのとき孤独の道を歩むわたしにとってよりどころとなった唯一のもの、それが右の格率だったのです。
この点、古代史も同じです。「邪馬台国」という国名が三国志の原文面にない(原文は邪馬一(壹)国)ことに不審をいだき、それを確かめるために、古代史や中国語などの学者を歴訪したときも、それは何も他に目的とてありませんでした。ただ自分の手で、自分の指で、なっとくできることを掌の上ににぎりしめたい、ただその願いだけでした。
それ以来、大学や学術機関を目ざすにあらず、在野の一探究者としてただ真実への道のみをとぼとぼと歩みつづけて今日に至っているのです。
このようなわたしですから、今人生上の大問題に臨んだときも、残念ながら他の手だてのもちあわせなど、全くありません。高邁な識見や玄妙な人生観や深遠な宗教観など、わたしには全くお呼びでない のです。
けれども、右の格率に対してなら、わたしは誰人の前にでも悪びれず、首を深く“ 縦にふる”ことができるのです。たとえわたし以外の、他のすべての人々にそれが平々凡々、かつ陳腐、かつたいくつきわまるものに見えるにせよ、わたしだけには深くなっとくできる。つまり切実なのです。
わたしはこのように考え、右の格率だけを唯一の武器、ふところに入れた匕首として、人生上の問題を検証しようと決心しました。ちょうど、親鸞の自筆本の実地について、親鸞思想の事実を確かめ、古代史で三国志の全体について、倭人伝中の一語を検証していったように、あれと全く同じでんで、この人生の重大事に臨んだのです。
このようにわたしがハッキリ人生探究の方針を定め切ったとき、おのずからその回答も、くっきりとその姿を現わしはじめたように思われます。
ここで筆を一転して、わたしの親鸞探究をささえてきた、もう一つの問いについて語らせていただきます。それは少年の.日の終わりに耳にした次の一語です。
ー「宗教はアヘンである。」
有名な、若きマルクスの言葉ですが、この一語にふれたとき、わたしの頭の中にクッキリした「?」が生まれました。 "あの歎異抄の中の親鸞の声は何だろう。あれがアヘンか"
と。
親鸞は言います。"わたしたちはみな対等な人間同士だ。だからわたしを師匠などと呼ぶな。" と。これは親鸞集団から離れていこうとする「弟子」があったとき、他の「弟子」たちが、当時の慣例に従って当の人物から
"かねて与えておいた、親鸞の名の入った聖教類" をとりあげようとしたとき、親鸞が言い切った言葉だ 、と他の文献(口伝鈔)に書かれています。そのとき「如来よりたまはりたる信心を我がもの顔にとりかへさんと申すにや。」と親鸞は言ったのです。
口伝鈔に書かれた "事情" はあとで知ったことですが、そのときはただ歎異抄だけ。だけですが、親鸞の息吹きは十分に伝わってきました。「親鸞は弟子一人ももたずさふらう。」このように明晰(めいせき)な言葉が、果たして「アヘン」なのでしょうか。人間の理性が惑乱させられ、眠りこまぜられ、健全な人間の心の底をむしばんでしまう。ーそのような「アヘン」を人々にふきこむ言葉でしょうか。逆です。人間と人間の間の身分差別や師匠と弟子との間の峻別(しゅんべつ)、さらにすすんでは弟子に対する、師のもつ処分権、それらはすべて親鸞の時代の常識でした。その常識をそのまま社会体制化していたのが、古代末、いわゆる「中世」の社会構造だったのです。
これに対して親鸞がキッパリ言い切ったのが右の言葉です。言われた親鸞の周囲の人々は、ハッと驚いた。それは「アヘン」の眠りからさめさせられた衝撃ではなかったでしょうか。少なくとも
"眠りこませられる" 作用ではなかったはずです。こう考えてみると、マルクスの言葉に対して大きな「?」を感じざるをえなかったのです。
しかし一方、このマルクスの指摘そのものは無意味か。そう問われると一層ハッキリ「否!」と言わざるをえません。
わたしは子供の頃(生後八ヵ月以来)、広島県の呉市に住んでいました。瀬戸内海にのぞんだ美しい港町。軍港のあったところです。ここは「安芸門徒」と呼ばれる、真宗教団内でも有名な、熱烈な信者たちの多かった地帯です。わたしの家は他から父の勤務の都合で来ていただけなので、直接、いわゆる「安芸門徒」とのかかわりはなかったのですが、それでも
"京都から法主(ほっす)様が来られたげな。" (多分、広島市へでしょう。)というと、とたんにえらい騒ぎが伝わってきました。法主様が、あそこで風呂に入られたそうな。
"帰りんさったあと、みんな風呂の残り湯をちょっとずつ分けてもろうとるげな。" "えらい御利益(ごりやく)があるそうな。"
"何せ、親鸞聖人様の血を引いとられるんじゃ。あれほどえらい方が。大変なことじゃ。" "そう、めったにあることじゃないけんのう。"
こういった大人たちの会話が子供の耳にも伝わってきていたのです。五・一五、二・二六と次々に血なまぐさい事件が中央でおきていた頃。いや、中央だけではありません。わたしの小学一年のとき(呉市内の本通小学校と言いました。)、隣の組の担任の若い先生が突然生徒を置き去りにして「蒸発」してしまったのです。おかげで、わたしの組の担任の先生は
"二組分" 教えなければならぬはめになってふうふう言っておられました。何でも風のうわさに聞くところによると、東京の「血盟団」に入るために、
"教職を捨てた" そうな。そういった話がひそひそと伝わってきました。
そのような緊張した時代、 "法主様のお出(い)で" ともなると、大人たちはうってかわったように "幸福そうな"
顔になるのです。よく言えば "平和な" 、ハッキリ言えば "うつけた" 顔に。
わたしがそのような雰囲気から感じたもの、それはまさに「アヘン」、だったかもしれまぜん。軍国主義に直進しつつあった大日本帝国。その猛烈な現実をつかのまに忘れさせてくれる、
"ありがたい" 話だったのですから。しかも、その頃、本願寺教団の名で出されていたパンフレット・小冊子類には、 "当然"
のことながら戦争讃美の声がつらねられていました。そして親鸞聖人様こそ、護国の正法(しょうほう)の先覚者、として大々的に宣伝されつづけていたのです。 "法主様"
も、当然、そのような。パンフレットに "先駆け" されつつ入来(じゅらい)され、 "お風呂に入っておられた "
のです。
このような本願寺教団の体質に対し、「宗教はアヘンだ。」そう言うなら、それはあまりにも真実だ。誰人もこれに抗弁できないのではないか。わたしにはそう感じられたのです。
その後、大学に入って(十八歳)から、このような本願寺教団の体質が決して昨日や一昨日からのことでなかったことを知りました。江戸時代、農民から"生かさぬよう、殺さぬよう"
搾取し、収奪しつづける武士階級、その幕府統治の "手先" となって、 "今は苦しくても、念仏さえ唱えておれば、死んだらお浄土へ行ける。"
そういう "有難い" お説教で、農民たちの「魂」をあずかったのです。
これこそ、マルクスの憎んだ「アヘンとしての宗教」の真髄です。
"人間が生き生きとこの大地に両足で立ち、いかなる権威にも屈服せず、自由に考え、人間らしく世きる。そしてそれを不法におさえつけようとする権力に対しては、いのちをかけても闘いつづける。"
こういった、本当の意味で健全な人間を、若いマルクスは、人間の本質と考えました。
そしてそのような本来の「人間性」は、いかなる人々の内部にも、まぎれもなく存在しているにもかかわらず、それを眠りこませ、"ほうけ" させ、代わって来世を期待する「幻想」にあこがれさせて自己の理性を眠りこませる。ーそれが「アヘン」としての宗教の作用だ。マルクスはこう指摘したのです。
この宗教アヘン説は、いかにもジャーナリスティックな、華麗でけれん味にみちた表現ですが、右のような事実が現実に存在する限り、あくまでこの指摘は真実(リアル)であり、学問的ですらあります。大学の講座で、煩瑣(はんさ)で
"実証的" な、宗教学や宗教哲学の講述にふける教授方のぎょらぎょうしい論文より、ずっとこの一語の方が、 "表面の欺瞞を排し、内面の真実をえぐる。"
という、学問の本質にかなっているのです。若きマルクスの内心に根本的な影響を与えたもの、それはゲーテの「プロメトイス」と題する詩でした。
(「おれ」はプロメトイス。「お前」は、神々の主神、ゼウス。人間に火を与えたことによって、ゼウスの怒りをうけた、プロメトイスの独白の形をとる。)
おれがお前を崇(あが)めると思うか?
一体何のためだ?
お前はかつて一度でも、重荷を負(お)うた人間の苦悩を、
真実に和(やわ)らげ救ったことがある、とでも言うのか?
お前はかつて一度でも、不安に悶(もだ)える人間の涙を、
真実に静め医(いや)したことがある、とでも言うのか?
おれを一人前の男に鍛え上げたのは誰だ?
それは「全能の神」などではなく、
まさに "全能" なる「時」だ!
それに永遠の運命!
おれを支配し、お前をも支配するものなる、
波(か)の「時」と「運命」こそ、
このおれを
鍛え上げてくれたのではなかったのか?
お前は少しでも妄想してみたいのか?
おれがこの人間の世界を憎み、
彼方(かなた)荒野などに逃避するとでも。
ー人間の花盛りの時を夢みながら、
それが実(みの)らぬ、かとあきらめて。
ここにおれはしっかりと坐って
人間どもを形つくる、
おれの面(つら)がまえに似せて。
おれと同じように、
苦悩し、泣き叫び、
生命(いのち)を享楽し、歓喜にむせび、
決してお前を尊敬せぬ
そんな種族(やつら)に形づくる。
この、
おれのような、
人間どもに。
<末尾の四節。ー古田訳>
このような人間観、戦闘的反神論と呼ぶべき信条が、マルクス思想の誕生の秘密の故地だったのです。
(古田「近代法の論理と宗教の運命ー "信教の自由" の批判的考察」一九六四、金沢大学暁鳥賞受賞論文参照 『神の運命』明石書店所収)
マルクスは、もちろん日本の二十世紀の現実など知るよしもなかったのですが、ヨーロッパの中世以来、近代にいたるキリスト教単性社会の現実に対して発したこの一言は、あまりにもわたしの子供時代の「法主様」をとりまく現実をも剔抉(ていけつ)していたのです。
(一「キリスト教単性社会」とは、中世から近世にかけて宗教裁判と魔女審問で異教を排除しつくして、キリスト教のみを公的宗教とするに至ったヨーロッパ<及びアメリカ>社会を指す、わたしの造語。右論文に詳述。)
誰人がマルクスをののしり、マルクス思想を排撃しょうと、わたしはこのことを疑うことができません。
もしかりにわたしが "マルクス主義を非とする" 国是(こくぜ)の国ー戦前の日本もそうだったのですがーに生きていたとしても、いささかでもこの真実を否認する気は、全くありません。
"しかし" と、わたしは考えました。"このような疑うべからざる事実をそれと認識するわたしの目、わたしの頭。それと同じ目と頭が感ずる。「歎異抄の中の親鸞の言葉は、『アヘン』ではない。」と。これはどうしたこと、だろう。一体、親鸞は「宗教者」ではないのか。
"けれども親鸞が代表的な宗教者のひとりであること、それを誰が疑うことができましょう。
そこでわたしは稚い自分のもった "感じ" が単なる錯覚なのかどうか、確かめてみよう。そう思ったのです。そう思ったのが、わたしが親鸞探究に向かった、もう一つの重要な動機でした。
その探究の結果は、先にものべたとおり、稚いわたしの感覚が "いつわり" でなかったことをしめしました。
「主上(しゅじょう)・臣下、法に背き、義に違(い)す。」(教行信証、後序)
の一節は、親鸞三十代末の文章だったのですが、親鸞はこれを九十歳の死に至るまで親鸞思想の眼目として守り抜きました。これを自己終生のよりどころとして決して撤回しようとしなかったのです。
また「領家(りょうけ)・地頭・名主(みょうしゅ)のひがごとすればとて、百姓をまどはすことはさふらはぬぞかし。」(親鸞聖人御消息集、五)の一言には、親鸞が決して支配者たる「領家・地頭・名主」の走狗(そうく)にならなかったこと、逆に「百姓」に対して深い信頼をしめしていたことをズッシリと表明しています。親鸞は決して「百姓」を
"眠りこませ" ようとはしませんでした。逆に精神の内面に "自信をもたせ" 、 "覚醒させ"
ようとしました。やはり、親鸞の宗教の真髄は「アヘン」ではなかったのです。
では、同じ宗教でありながら、「アヘン」であるものと「アヘン」でないものと二通りある。これは一体、どうしたことでしょう。
実は、このような宗教の二面性は、親鸞の場合だけではなかったようです。
キリスト教の 創始者”は、言うまでもなくイエスですが、彼について四種の伝記が残されていることは、周知の通りです。マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネの四伝です。現在の聖書研究では、マルコ・マタイニ伝はイエスの死後、半世紀以内頃の成立であり、次いでルカ伝、さらにおくれてヨハネ伝が成立したとされています。これら四伝をめぐるヨーロッパ アメリカのキリスト教学界の研究史、それはまさに「汗牛充棟 かんぎゆうじゆうとう」の語がピッタリですが、今はわたしという 素人の目 で感じたところを率直にしるさせていただきましょう。
確かにそれぞれ右の各伝のイエスの描き方には、きわ立ったちがいがあります。今、それらの多くについてはのべることができませんが、イエスの死にのぞんだときの最後の描写に限って考えてみましよう。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(マルコ伝)(「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイ伝)
これが最初の二伝のしめす、イエスの言葉です。それは旧約聖書の詩篇の詩句からとったものと言われますが、その意味は「わが神、わが神、何ぞ我を捨てたまう」です。現代語で言えば、「おれの神よ、おれの神よ。お前はなぜ、おれを捨てるのだ」というわけです。
(口語訳聖書では「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」) 。わたしには、これは、まるでイエスが神に対して詰問し、 神の不甲斐なさをなじっているようにさえ聞こえます。
この言葉のもつ意味は容易に理解できます。イエスはこのとき、ローマから派遣された現地権力者ピラトの手によって捕えられ、民衆の間を見せしめのためにひきまわされてのち、いわゆる世俗の罪人たち盗賊たちと共に、十字架にかけられようとしていたのですから。今でこそ十字架は神聖な輝きを帯びて語られていますが、当時は文字通り屈辱と汚穢の公的な印刻、それ以外の何物でもありませんでした。
このような場所で、己が生を終えようとするとき、イエスはこの言葉を発したのです。 神よ、約束がちがうではないか。あれほどお前に対して誠実な生き方をしとおしてきた、このおれがこんななさけない死にざまにあう。それでお前は恥ずかしくないのか、神よ。文句があるなら、何
か言ってみろそう言って“神に迫って”いるのです。
わたしはこの場の情景を想うごとに、青年イエスの野望に満ち、精悍ともいうべき相貌をまざまざと見、心からほれぼれせざるをえません。青年とは、まさにこのような存在です。いや、人間とは、このような面魂をもって、この地上に生き、そして亡び去ってゆくベきものです。
わたしは — — ハッキリ言いましょう — — この世に生きた、ひとりのまがう方なくここに見出(みいだ)すのです。
わたしはこのようなイエスを心の奥底から限りなく愛しています。 — — おそらく世界中のいかに熱烈なクリスチャンにも劣ることなく。たとえいかなる体制の国家権力や理論的権威から“イエスなど否認せよ。讃美するなと命ぜられた”としても、わたしは静かにかぶりを横にふるほかありません。
これに対し、第三のイエス伝たるルカ伝では、この箇所が明白に書き変えられています。
「父よ、わが霊を御手にゆだぬ」口語訳聖書では「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」
こう言ってイエスはがっくりと首をたれた、というのです。これは何と後代のキリスト信者にとって、につかわしく、かつ安心できる言葉でしょう。神に対し、反抗的とさえ言える野性のイエスではなく、あくまで羊のように運命に従順なイエスなのですから。
これは明らかに故意の「原文改定」です。なぜなら、実在のイエスが事実こんな言葉を吐いて死んでいったなら、誰があんな“反抗的”な言葉へと“書き変える”ことでしょう。
“いや、あの「エロイ・エロイ・ラマ サバクタニ」は、ただ詩篇の言葉をつぶやいただけだ”などと、後代のキリスト教神学の教義学者とその影響下のインテリ・クリスチャンが「弁明」しても、無駄です。イエス当時のユダヤ人にとっての知的教養の基礎、それは当然旧約聖書にありました。それら巨大な伝承体系は、それ自身が歴史であり、哲学であり、宗教思想であり、文学だったわけで、この占 現代のアフリカ諸族が各部族ごとに伝承している部族伝承の巨大な体系。それと本質的に同じ性格のものです。この伝承社会内部の人々は、その伝承の辞句によって語り、よって聞くのです。それはいわばその社会の知的共有財産なのですから。だから現実の事件にぶつかり、生々しい感想をもったとき、その共有表現の森の中から、必要な語句を“抜きだして”使うのです。
これはあたりまえのことです。でも、もっとくり返して念をおしておきましよう。
旧約の中には「従順」の語も、「反抗」の語も、「喜悦」の語も、「不満」の語も、すべてあります。ですから人々はそれらの中から、自己のおかれた現実の中で、“言いたい”言葉を抜き出して使うのです。
この点、親鸞のような仏教人が能大な経典群に対する場合も、全く同じような問題がありました。大蔵経典のおびただしい辞句の中に、人々は自分の 好む 言葉を自在に発見できるのです。親鸞の教行信証も、基本的にそのような手法で作られている本です。それらに長年なじんできたわたしにとって、右の道理は何の疑う余地もありません。
ですから、 これは旧約の詩句を口ずさんだだけで、別段他意はない。これを神への挑戦的言辞とうけとるのは、“素人のあさましさだ”などという、学者ぶった「弁明」を聞くと、わたしは微笑をかえさざるをえません。
イエスをよく知る人々は、当時も、パリサイの見識ぶった学者や知識人たちではなく、素人の女や子供たちでした。その点は、今も変わっていないようです。
さて、以上のようなわけですから、叙情的なイエス描写でながらくキリスト信者たちに愛されてきたルカ伝は、実はイエスの死の事実の史的叙述という点から見れば一種の“偽作”と言わざ
るをえません。もちろん、当人は“自らに望ましいイエスを描きたい”という、いわば「善意」に基づく原文改定であることは、わたしも決して疑いはしませんけれども。
次いで第四のヨハネ伝になると、もうことはあまりにもハッキリしています。イエスは、はじめからこの世を救うキリストとしてこの世に来り、あらかじめ予定しておいたとおり、「十字架の死」をとげてみせるのです。その目的はもちろん“万人の救済”のためです。すべての罪人が救われることを世界にしめそうという意図に基づくもの、いわば神による壮大な“自作自演劇”といった形です。
だからイエスは、死に臨んでも、何等本気で“”絶望”したり、神に抗議したりする必要はありません。またルカ伝風の「父よ、我が霊を御手にゆだぬ」もふさわしくないわけです。なぜなら、ヨハネ伝のイエスは神そのものが万人救済の意図をもってこの世につかわされた、いわば終始一貫神の分身なのですから、今さら「御手にゆだぬ」などというのも、変なものです。何かそぐわない 感じです。
だから、ヨハネ伝ではこの方もまた、カットされているのです。そしてただ「事おわりぬ」口語訳聖書では「すべてが終わった」 そう言って息絶えるのです。神の「自作自演劇」は終わった。というわけです。"the end"というわけです。(ギリシャ語原文は、省略)
わたしはこの言葉を見ると、青年時代映画に夢中だったころいつも目にした、あの“”映画の最後の字幕を思い出します。おそらくヨーロッパ・アメリカでこの「言葉」を最初に使った映画製作者は、このヨハネ伝の一句を頭においていたのではないでしょうか。
映画といえばわたしはイエスの伝記を扱った映画を見たことがあります。大がかりなカラースペクタクルだったかと思います。わたしはイエスの最後の場面を注目していましたが、そこでイエスになった主演俳優は、まず「エロイ・エロイ ラマ サバクタニ」と言うのです。それから一息入れてやおら「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」とつづけたのです。
わたしは、折角の熱演に申しわけないのですが、何かこの俳優が“気の毒”になりました。「挑戦」の言葉と「安息」の言葉を一緒に“語らされるとは”。彼はさぞかし演技しづらかったことと思います。
けれどもこれは、「マルコ伝・マタイ伝」と「ルカ伝」を折衷し(さらにヨハネ伝もとり入れ)たものにするため、映画製作者としてはやむをえなかった措置と思います。そしてそれはヨーロッパ、アメリカのキリスト教教義学の「常識」をも反映しているのでしょう。
さてもとに返りましょう。ヨハネ伝の場合、これはこれで、後代のキリスト教のイデオロギーによる“理念的伝記”としては興味深いものですが、史的事実、つまりユダヤの大地の一隅に現実の生ぐさい人間をめぐっておこった生の事件とは、何のかかわりもありません。
こう言うと、イデオロギー的には、ほぼこのヨハネ伝風の理論を重要な背柱としてイエス理解をするのを常としてきた後代キリスト教団、つまり現代のクリスチャンたちは、大変“憤慨”するかもしれませんが、それはわたしには何の関係もないことです。
それはちょうど、史的事実としての親鸞を描くことによって、現代の本願寺教団の人々がかりに“いかに”怒ろう とも、わたしには竹林の上を過ぎゆく夕の風と同じ、何のかかわりもないのと同様です。
(たとえば、わたしの著述『親鷲思想 — — その史料批判』をめぐる出版阻害事件。同書の序文参照 。
さて、このような実在のイエスは、果たして「アヘン」公売人なのでしょうか。「否!」わたしには率直にそう思われます。
なぜなら、権力のために民衆にアヘンをすすめる狡猾な公売人たち、彼等は必ずそれにふさわしい報酬をうけるはずです。居心地よいポスト、快適な生活、悪くない身分の保証。それらです。
しかし、イエスに与えられたのは屈辱の死でした。この事実こそ、百の弁舌にもまして、彼が「アヘン」公売人ではない。その逆。民衆を覚醒させる人、すなわち権力にとって危険な人物だつたことを余すところなく証明しているのです。
実は、このヨハネ伝と同じ立場にあるもの、それが仏教のいわゆる大乗経典なのです。仏教の根本経典とされる中阿含(ちゅうあごん)経などの原初的な史料は、釈迦入滅後間もなく(第一回「結集」は弟子たちによって、第二・三回は「結集」それぞれ百年後)成立していますが、ここでは、釈迦はなんら超能力をもたぬ 普通の人間”です。
最後は、暑いインドの夏の日の行路で、のどがかわいてガンジス河の支流の水を飲み、そのあと腹が痛み出し、苦しんだ末、死をむかえるのです。その病状は真実で、痢病か疫病か、何らかの細菌に感染した模様です(キノコの食あたり、とも言われます)。
悲しむ弟子たちに対して、“何も憂えることはない。わたしがかねがね言ってきた通り、人間にとっての真理(かるま 法によって生きよ”とさとしたと言います。ここでは釈迦は決してどんな難病でもなおす、といった超能力の持主ではありません。自分自身が細菌の力にたおれるのですから。釈迦は、現代のわたしたちに比べて、衛生学上の知識にとぼしかったこと、それをわたしは疑うことができません。
わたしは大学時代 — — 十九歳の頃でした。 — — 仏教史の山田龍城さんからこの話を聞き、その釈迦の死の“尋常さ”“人間らしさ”にかえって深い感銘を覚えました。
たとえ一小部族であったにしても、その支配階層に生まれながら、その身分をなげうち、あたりまえのひとりの人間として、あたりまえの真理を平等に認識することを説いた、そのような釈迦の生涯。その真の勇敢さにわたしは脱帽せざるをえません。
これに対し、釈迦の死後数百年以上あとに成立した大乗経典となると、全く性格を異にします。ここでは例によって釈迦は永遠の古より永遠の未来まで実在しとおす超能力の主であり、さまざまの奇跡も自由自在に行います。その上、おびただしい説法を行い、無限の文学的比喩をまきちらす異能の天才でもあります。またあらゆる難病をなおすのも、意のまま、というわけです。とても腹痛などに悩まされそうにもありません。
わたしたち日本人になじみ深い法華経や大無量寿経、観無量寿経、般若経等々。つまり、日蓮や親鸞や道元たちが傾倒しつくしていた経典の数々はすべてこのたぐいなのです。
これらが現実にこの地上に生きた釈迦その人の夢にだに見ざる説法の数々であることは、疑うよしもありません。第一、釈迦その人が死んで数百年以上あとに、これらの経典は成立しているのですから。
“いや、しかし、ここにこそ釈迦の真精神が語られている”そう主張する人があっても、もちろんその人の自由です。ちょうど、ヨハネ伝がイエスの真精神の表現だ、と主張する人々がいるのと、それは同じでしょうから。
けれども実際は、大乗経典の釈迦と阿含経といった根本経典に語られている実在の釈迦とは、かなりその様相がちがいます。
まず、前者はとてもおしゃべりです。冗舌と言いたいほど。これに対し、後者は素朴で、決して前者のようには多弁とは言えぬながら、人間の本来の健康さといったものが叙述の中にキラキラと真珠のように輝いています。
それに前者は、多く奇跡の名人だのに、後者はそんなものに、“野心”をもやしません。あたりまえの人間として生き、そして死んでゆく、そういう人間の姿にだけ関心をもっているかのようです。
その上 — — わたしにとって興味深いことですが — — 前者の多くは死後の世界に興味をもち、その死後の世界の浄土なるものへの“予約”にせ を出しています。ちょうど時には腕ききの保険勧誘員のようにさえ、わたしには見えることがあります。これに対し、後者は、そんなものに関心をもちません。ただこの世界を支配する通常の道理をたがわず見つめ、それによって生き、それによって死ぬことを尊しとするだけです。
わたしには、このような釈迦こそ、愛すべき人生の先達と見えるのです。“人間にもこんな人物がいた”もし人類が亡び去った日にも、あとから来る“名も知らぬ次の生物”に、こう書き残したい、とさえ、わたしには思われるのです。
さて、このような釈迦は「アヘン」公売人だったのでしょうか。わたしにはどうしてもそうは見えません。もし彼がそのような人物であったなら、何も父祖の故城をはなれることなく、その世俗の権威を十二分に利用しつつ、民衆にむかって“有難いお説教”をしていればそれでよかったのですから。そうすれば、ガンジス河の支流のほとりで七転八倒して苦しんで、弟子たちに見守られつつ、死にたえてゆく。そういった最後とは、またちがった一生になっていたのではないでしょうか 後代の経典は、この釈迦の最後をも、次々と美々しく飾り立てようとしていますが、これも当代の事実とはかかわりがありません 。
やはり、釈迦は、人々に“眠りから目覚める” ことをすすめた人、「反アヘン」の公売人だった。わたしにはそう思えるのです。
さてここで、マルクスの見ていたイエス伝についてふれてみましょう。
マルクスが直接イエスについて論じたものは、ほとんどありません。彼のような、社会現象の理論的、史的把握に関心をもった思想家にとって、イエス個人の生涯の虚実より、キリスト教という宗教が現実のヨーロッパ社会で占めていた公的役割に重大な興味をもっていたこと、それは当然のことです。
と同時に、十九世紀中葉当時にあっては、当時の進歩的インテリたちにとって「イエスの個人的実在」がかなり“あやしい”ものに見えていたのも、事実です。 十八世紀末、すでにデュピイ(仏、一七四二〜一八〇九)がイエスの歴史的存在を否定していましたが、何といっても巨石を投じたのは、チュービンゲン大学のシュトラウスの『イエス伝』(一八三五)です。この画期的な著書は彼の「教授たる位置をうばい、その学的生涯を犠牲にしてしまった」のです。へーゲリアンとしての彼が行った、この歴史的批判が、当時十七歳でギムナジウムを卒業し、翌年ベルリン大学に入学して若きへーゲリアンとなっていたマルクスの耳目を打たなかったはずはありません。やがてこれを継いだバウルの『イエス キリストの使徒パウロ』(一八四五)が現われ、バウエルの『福音書批判』(一八五〇〜一)が福音書の歴史的価値を否定しました(高柳伊三郎『イエス伝研究』参照)。
このような時代の雰囲気の中で、若きへーゲリアン、マルクスは『へーゲル法哲学批判序説』(一八四四、二十六歳)を発表し、そこで「宗教は、民衆のアヘンである」とのべたのです。
マルクスより少しおくれますが、このような歴史的イエス否定論の典型をなすものは、ドレウスの『キリスト神話』(一九〇九)です。彼は四つのイエス伝にもられた「奇跡譚」に注目しました。例の、処女マリアからイエスは生まれた、という話にはじまって、湖の上を足で歩いて渡ったり、ハンセン病人に手をふれただけでなおした、といったたぐいの話です。あの種の奇跡が四つの伝記とも満ちあふれており、イエスの死に至る生涯の描写は、これらの奇跡譚をはめこむための“時の場所”として利用されているだけ、そういった感じさえおこさせかねないほどです。ところがドレウスは、イスラエル周辺の砂漠の部族 — — マホメット教など、キリスト教から見れば異教徒の民ですが — — の伝える部族伝承の中に、これと同類の奇跡譚が珍しくないのに目をつけました。
そしてそれらの民族伝承”を収集してみますと、文字通り“処女から生まれたり“湖を渡ったり”“ハンセン病人をなおしたり“といった類の奇跡は、日常茶飯事。むしろ、すぐれた部族の長ともなれば、そんな話の一つや二つなくては恥ずかしい。そういったありさまだったのです(仏教でも、お釈迦さんは母親の右の脇の下から生まれた、という説話があるのは、ご存じでしょう)。
このような“”民俗学的状況”を確認したドレウスは結論しました。「イエスは実在しなかった。いわゆるイエス伝とは、これら砂漠諸族の神話・説話類の中からかき集めてきた奇跡譚を合成して、デッチ上げられたものにすぎぬ」と。
大胆な意見です。当時のヨーロッパのキリスト教世界に甚大な衝撃を与えたことが察せられます。カトリックの奇跡のミサ、神秘の泉から汲んだ秘跡の水、そういったものにうんざりさせられていたヨー ロッパの先進的知識人が、このドレウスの提起に対し、好感をもって迎えたであろうこと、それは疑いようもありません。
けれども今、このドレウスの説をふりかえってみますと、明らかに方法上、根本的な欠陥があります。その詳細は、別著『盗まれた神話』に書きましたからはぶきますが、要点は次の一点です。
すなわち、ある部族の長について、処女懐胎めいた奇跡が語られているとき、必ずしもその人物の架空性を意味するものではありません。ただ伝承者がかかる偉大な首長が一般の並みの人々と同じ、平凡な誕生では、不似合だ こう考えて、につかわしい、「奇跡譚」をあとから付加したにすぎないのです。
この点、イエス伝の場合も同じです。伝記作者は“砂漠の教養”に従って「奇跡譚」を実在のイエスの生涯に付加したのです。“イエスともあろう人が普通の人と同じ生まれ方では”とか、“イエスともあろう人が、わたしたちと同じく、ただ陸上しか歩けないのでは”とか、“イエスともあろう人が、難病の一つもなおせないのでは”といった、“切実な”要請に応えてもりこまれたのです。
ですから逆に、 これらの奇跡譚からイエス自身の実在を疑う。そういったやり方は、学問としての方法上、全くの逆立ちだったのです。
これはすでに先の本『盗まれた神話』でのべたところですが、今の、同じ人間同士というわたしの立場から見てみましょう。このような奇跡譚に頼らねば、イエスをすばらしいと思えないとしたら、明らかに“精神の衰弱”もしくは“精神の幼稚さ”以外の何物でもない。そのように、わたしには思われます。
“処女から生まれた”の、“湖を渡った”の、そんな御託(ごたく)を並べて他(ひと 伝承の聞き手、また読者)をこけおどしにおどそうとは、まるで“法主様のお風呂の残り湯の御利益”をふりまわすのと同類の精神構造ではありませんか。
わたしは思います。純粋に生きることを求め、迫害者たちへの愛を説き、権力の走狗となることをキッパリ拒絶しとおしたために、無法にも民衆の面前で処刑された青年。このような生き方がこの現実の大地で行われたこと、それにまさる奇跡。それがこの世にあるでしょうか。
この真の「奇跡」に比べれば、処女懐胎だの、湖上散歩だの、チャチな「奇跡」に頼ろうとした人々に対し、わたしは、一見不遜(ふそん)ながら、静かに言いたいと思います。「あなた方は、イエスを知らない」と。
ドレウスが真に見のがしたものも、それです。それはたとえばマルコ伝 ・マタイ伝における臨終の言葉に現われたイエス固有の個性です。死を面前にしつつ、神に挑戦の言葉を投げかけるイエス。これは決して砂漠の教養”からの借り物ではありません。のちに信心深いルカ伝の作者をして辟易(へきえき しりごみ)させ、「原文改定」の暴挙に奔らざるをえなくさせたもの、それこそ実在のイエス、その野性にみちた息吹きなのです。
そしてそれは、ヨーロッパ キリスト教の教養にとりまかれていたマルクスが直面できなかったもの。すなわち、プロメトイスの精神にみたされたまま、死んでいったイエス。いわば、生ける「反アヘン」の精神だったのです。
わたしは若い日に、イエスや釈迦についても、その最古の原史料にさかのぼって、能(あた)うかぎり、その原事実を確かめたいと望んでいました。しかし、敗戦間もないことでもあり、海を渡ってイスラエルやインドへ学問的探究の旅に出る、というわけにはいきませんでした。従って先の高柳氏の本のような、イエス伝の研究史的著述にはすでにふれていたのですが、自分でひとつひとつ原史料にさかのぼって確認することができなかったのです。
ために代わってわたしは、同じ 原初的宗教性”の発現者のひとりと見えた、親驚の事実をその自筆本にさかのぼって確かめる、そのことを志すようになったのです。
そしてその親鸞の探究は、まさに親鸞が「反アヘン」の精神の持主として、この地上に生き、かつ死んでいたことを、わたしにしめしてくれました。そのため、わたしは安んじて真の“原初的宗教性”が、「反アヘン」の精神にみたされたものであることをここで証言したいと思うのです。
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