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近代法の論理と宗教の運命 古田武彦


古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 3 明石書店 『わたしひとりの親鸞』
明石選書 『わたしひとりの親鸞』の「あとがき」は、にあります。

あとがき

   一

 竹間の陋屋で思惟する。わたしの辿りきたったところ、その求めつづけた道は何か。ふりかえれば、大路・岐路、すべて茫然としている。それは、ただ一個の“真実なるもの”がわたしの運命を導いてここに至らしめたように思われる。
 青年時代、全集とか著作集とは当人死後のこと、それが通念だった。それより、ひとりの人間がそれほどの著述や論文を重ねうること、それ自体が信じられない奇跡に類するものだった。ゲーテ全集やヘーゲルの著作集など、いずれも到底常人の所為とは思われなかったのである。
 今、それが私自身の問題となった。一種のとまどいと深い感慨を禁じえない。それはわたしにとって、否、現代にとっていかなる意味があるのか、或はないのか。わたしは考える。

 

  二

 先日、 雑誌と新聞である報知がなされた。(1) 親鸞の歎異抄をめぐる、「新解釈」が発表されたというのだ。早速、当の論述にふれて落胆した。それはすでに四十年近く前、当時の論壇をにぎわわした「往年の新解釈」だったのである。
 もちろん、今回の論者記者に悪意はない。ただ親鸞・法然研究の専門家でなかったため、斯界では周知の、この一大論争について、未見だったにすぎないようである。
 わたし自身、この論争(増谷文雄と梅原真隆)の影響を受け、その一端に加わったこと、本集冒頭の論稿にものべた通りだ。自然科学系では、報告・論文が各学界の統一目録に登録されること常態であるけれども、不幸にも、人文系にはその方式が存在しないから、右のような事態、或は過失、或は故意による “重複”は、必ずしも珍しいことではない。
 けれども、わたしの注目するところ、それは単に“技術上のミス”などの問題ではなかった。

 

  三

 三十代から四十代前半にかけて親鸞研究に没入したあと、わたしは古代史研究の大海へと棹さす身となった。最初の著作『「邪馬台国」はなかった』の公刊以来すでに三十年、今秋はその記念行事が関係の各研究会(読者の会 (2))の連合によって行われるという。(3) 恐縮の他はない。
 右の行事のための資料として、私の投じた古代史界への疑惑、そして問題提起点をまとめ始めてみて改めて一驚した。その重要論点のほとんどが各学界から「応答なし」または「応答中途」のまま、通り過ぎてきているのだ。論文(東大の史学雑誌など)と単行本(朝日新聞社刊行など)を問わない。これは一体、いかなることなのであろうか。
 これは決して、技術上の“目録洩れ”や “不注意”のためではない。「意思ある、無視」だ。「邪馬壱国と邪馬台国」問題は言わずもがな、 右の最初の公刊の一書の核心をなす、「部分里程の総和と総里程との一致」問題など、この三十年間において正面から反論し、別の正解を提示した 論稿を、不幸にしてわたしには全く見出すことができない。そして、できないまま、年々新聞界・雑誌界・出版界は邪馬台国の「話題」のみを江湖に提供しつづけてきたのである。果たしてそれが文運の隆盛と稱しうべきものであろうか。わたしは深くそれを疑うものである。

 

    四

 この点、遺憾ながら親鸞研究界においても例外ではない。例えば、歎異抄の流罪記録(蓮如本)をめぐる、筆跡上の「蓮如切断」問題など、当時のわたしにとっては、断崖一の上から深い谷底に身を投ずるような一大決断を要したのであったけれど、 その後、三十数年、今に至るまで空谷(くうこく)にその応答の声を聞かない。巷間にベストセラーと伝えられる「蓮如」論も、あえてこれにふれようとはしないようである。(4) わたしは蓮如のもっ柔・硬の“両面” に対し、深い人間的関心を抱いているだけに、この人間理解の上の「宝の山」が放置されているのが残念である。

 

    五

 問題の行き着くところ、それは「学問の方法」だ。人間の所業に対する、認識の仕方(しかた)なのである。古代史も、親鸞も、対象こそ異なれ、同一の方法だ。
 わたしがこの半世紀をふりかえってみて、真に憂いとすべきところ、それはこの「方法の停滞」と「旧手法の反復」である。それでは、年と共に出版される本や雑誌や新聞が積み重ねられても、学問自身の進展とはなりえないのではあるまいか。
 例えば、例の「三夢記」の信憑性問題。わたしの親鸞研究にとって一の核心をなしたこと、本集中にもくり返し言及されている通りである。
 ところが近年、これに対する批判が現われた。それも著名の専門家(親鸞研究)であったから、わたしは年来の渇望を満たすものとしてこれを喜びとした。しかしその内実を熟読するに及んで、深い落胆を覚えざるをえなかったのである。なぜなら、当の御本人自身による批判ではなく、かって発表された新進の研究者の論述に従う旨の所述にすぎなかったからである。(5)
 わたし自身、古代史研究の一段落によって親鸞研究に再び向かうとき、必ずこれに答えることを期していたから、右の所述はその“はげまし”とはするものの、「学問の方法」上、進展なき、その停滞状況に深く嗟歎(さたん)する他はなかった。

 

   六

 他は、さもあらばあれ、わたしはわたしの道を行こう。いのちの許さるる限り、応答すべきに応答し、新しき道を切り開くべき一すじの道を大切にしよう。
 わたしの親鸞研究にとって重要な一里程標となった歎異抄の「流罪記録」に関し、看過してきた焦眉の一点を見出すこととなった。このテーマにつき、わたしの新論文を、著作集の第一巻に掲載しうることを喜びとする。

 

   七

 わたしの学問研究の故郷、それは親鸞研究にあった。同じく古代史を対象とするときも、同一の方法に立っていた。
 この点、もし今後、日本思想史上の他の分野、また世界思想史上の他の領域に対して探究の道を求めゆくとしても、本質上、全く変わるところはないであろう。
 真実の法のもと、各宗教各自の法や近代国家の法、また各国家間の諸条約等の諸法が存在するいずれも、人間の生んだ、人間にとっての、人間の法だ。
 それらを同一の「学問の方法」によって叨らかとする。その 発点としての位置を本著作集のシリーズがもちうるとすれば、これに勝る幸せは、わたしにとって考えることができない。竹間の陋屋の中で、わたしはそのように思惟したのである。


(1) 『歴史街道』二〇〇一年九月号(P H P研究所刊)、読売新聞(大阪八月十六日夕刊)文化 所収。

(2) (主催)古田史学の会、「多元的古代」研究会関東、古田武彦と古代史を研究する会〈協賛〉市民古代史の会青森、古田史学の会まつもと

(3) 平成十三年十月八日、朝日ホール(東京、浜離宮)(後援)朝日新聞社

(4) 五木寛之『蓮如』(岩波新書)

(5) 平松令三『親鸞』(吉川弘文館)

             二〇〇一年八月二十八日記

二〇〇二年一月刊、『古田武彦著作集親鸞思想史研究編 -- わたしひとりの親鸞』収録

 

 


明石選書版あとがき

   一

 わたしの生涯は親鸞と共にあった。八十代半ばのこの日まで、親鸞は絶えず、わたしの胸裏にあった。脈々と流れる心臓の底の血流のようにいつも存在し、一生を支えてくれた。だから、わたしには常に孤独であることができなかった。どのような無視(シカト)、どのような中傷や攻撃の只中にいても、一回も「淋しい」とは思えなかった。親鸞はわたしの運命だったのである。

 

   二

「主上・臣下、背法違義」この八文字に接したこと、これこそ無上の言葉、親鸞が八百年近い「時」を越えてわたしに贈ってくれた最高の信条だった。

「上皇も、天皇も、そしてそれを取り巻く身分の高い上位者も、すべて真実の法(ルール)に背き、本来の正義にたがっている」

 彼の一生はこの八文字に貫かれていたから、同時代のいかなる迫害も彼を恐れさせなかった。今さら、あれやこれやにとまどう必要がなかった。本来、それは不可能だったのである。

 

   三

 けれども、わたしの親鸞研究上、大きな変動があったのは、二〇〇六年十一月十日だった。この年の十一月十日、東京都の八王子で行われた二日間にわたる大学セミナーで、懸案の「東日流 つがる 外三群誌」の「寛政原本」か「発見」された。青森県弘前市の竹田侑子さんから 御子息の元春さんを通じて 送られてきた文書類の中に、それが存在したのである。

 十日から十一日まで、二日間にわたる、わたしの講演のあと、帰路のタクシーを運転しておられた藤巻栄さんから、“思わざる”親鸞伝の深相をお聞きしたのである。
 否、“思わざる”というのは「正確」ではない。わたし自身が「和田家文書」 本来は「秋田家文書」の一端に当たる「金光上人文書」の中に法然の兄弟子、金光(九州出身)からの文書に、弟弟子の綽空(親鸞)が「佐渡にいる」旨の一文があり、わたしはそれが“気にかかって”いた。

 ところが、藤巻栄さんが新潟県の高田の出身であり、母親が熱心な専修念仏の信者であって、その教育の中で幼児から育てられたことを語られたため、わたしは「親鸞は佐渡から来た」といった“話”をお聞きにはなりませんでしたか、と問うたところ、藤巻さんは言下に「そうですよ。佐渡から高田へ来られました」と応答され、わたしは驚いた。なぜなら、いわゆる「真宗史」という東西本願寺系、高田専修寺などの「公的な親鸞伝」では「越後流罪」というのが通説だったからである。

 この「公的な通説」に反する立場が、長野県に近い高田では脈々と受け継がれていたことを知ったのである。
 その後、わたしの親鸞研究は進展した。その要旨は次のようだ。

(その一 )親鸞は最初、佐渡島へ「流罪」された。

(その二)そのあと、国衙(国の役所)に近い上越近辺に移され、「奴隸労働」の使役を命ぜられた。

(その三)その「佐渡から上越」への移動のさい、(風雨烈しく)上越の西近い「居多ヶ浜ごたがはま」へと上陸した。

(その四)やがて「高田」へと移され、近傍の「関山せきやま」の洞穴に“住まわされ”ていた。すなわち、藤巻さんの母親の「伝承」の通りである。

(その五)さらに、この新視点から「従来説(いわゆる「定説)」の場合、逃れがたかった矛盾や疑問点が次々と明らかに解決されてきた。

 たとえば、
 (A) 親鸞の死後、息子の信蓮房が、なぜわざわざ「佐渡島」の対岸の野積(のずみ 寺泊)へとおもむいたか。

 (B) その信蓮房の「佐渡(の対岸行き)」を母親(親鸞の妻)の恵信尼がなぜ“承諾”し、父親(親鸞)の志を継ぐもののように述べたか(恵信尼文書)。
(C) のちに、佐渡島へ「流罪」となり、その地に没した「佐渡院」(順徳天皇)自身の感慨、その立場は何か。

(D) 「主上 臣下」という「背法違義」の権力者に対する、親鸞思想の本質。彼等「主上・臣下」にたいする、親鸞の深い根本思想は何か。教行信証冒頭の「総序」の「逆謗闡提せんだい」救済論の本質は何か。

 右のような重大な「疑問点」の数々が次々と氷解してきたのであった。

(これらの点、「親鸞伝の深相 — — 佐渡から越後へ」頸城文化五十五号、平成十九年十月、及び「親鸞思想の本質と信蓮房」真宗教学研究第二十九号、二〇〇八年六月三十日、参照)

 

   四

 現在は人類史、なかんずく宗教思想史にとって重大な時期に当たっている。
 なぜなら、「原水爆」あるいは「原発」といった、人類史上空前の「災禍」に当面したにもかかわらず、一個の宗教の面目において、この一事に対する「簡単明瞭な一大指針」を示す宗教や“根本思想”がいまだに出現していないからである。
 それも、当然だ。なぜなら、たとえば釈迦、たとえば孔子、たとえばイエス、たとえばマホメッドなど、いずれの一大宗教家もしくは一大思想家も、そのような災厄、何十万年、何百万年にも及ぶ地球と人類に対する、必然的な「一大災厄」の存在を知らかったからである。わが国の法然、親鸞、栄西、道元、日蓮等、いずれの人々もまた同一である。
 たとえば、キュリー夫人。「放射能」の存在を“証明”した、偉大な科学者であるけれども、その「放射能」がこれほどの実害を何十万年の未来へと及ぼすことは知らなかった。むしろ、医療用などの「明るい未来」のみを期待していたのである。もし彼女が、現在わたしたちの知るに至った「膨大なる、未来への害毒」の予想を知ったならば、直ちにハッキリと「否(ノン)」の声をあげるであろう。わたしはそれを信ずる。
 これに反し、「現代の経済人」や「現代の政治家」や「現代のジャーナリスト」や「現代の教育者」たちが、それぞれ「現代の必要」と称して「原水爆」や「原発」を肯定する、あるいは推進するとしよう。彼等は“人類の未来に対する”「敵」である。いかなる弁舌を弄しようとも、「無二の敵」以外の何者でもない。わたしは深くそれを信じて疑わないのである。右、明記する。
 なお、重大な一事を付言しよう。現在の「原水爆」や「原発」の製造や実験は、「原住民」や「少数民族」、あるいは「辺地民」たちの居住地を選んで行われている。アメリカも、ロシアも一 ヨーロッパも、中国や日本も、その他の国々もみな同じだ。
 すなわち「地球上の最重要の差別」の公然たる「表現」だ。地下や地上への「露出」なのである。だが、その肝心の一事に対して、誰もあえて語ろうとしない。
 無論、現在の「祖述者」がみずからの依拠する「教義」や「教典」に即して、これらの現象を「解釈」することは確かに可能であろう。しかしそれらはいずれも後代の「解釈」に過ぎない。
 ストレートに、権力者や政府当局者はもちろん誰人にも遠慮せず、ことの「真相」を受け止め、その「深相」をズバリ言い放つ、未曾有の宗教家、思想家を、現在以後の人類が生み出し得るか、否か。この一点に今後の人類の運命がかかっているのである。
 広島 長崎の原爆投下と福島への原発事故と、共に経験させられた、この小島日本列島こそ、そのような新思想そして新宗教の誕生すべき絶好の島だ。わたしはそのように信ずる。
 この渺(びょう)たる「島国」に生まれた宗教思想が地球という名の「球形の島」を救い得るか、否か。人類の運命はまさにこの一点にかかっているのである。

(補)
 昨年(二〇一一)、わたしは「畢生の一書」として『日本評伝選 卑弥呼』(ミネルヴァ書房 )を公刊した。その中の一節「歴史の革命 — — 『被差別部落』の本質」を、明石書店刊の『河田光夫著作集全四冊』と共に読者のご検討に加えていただければ、わたしにとってこれ以上の幸せはない。

 二〇一二年十月二十六日
                     古田武彦記了

初出一覧

『わたしひとりの親鸞』 毎日新聞社 昭53•7•5(徳間文庫昭60•2•15)

親鸞の眼(「わたしの中の親鸞」改題)日本思想大系(岩波書店)第一一巻 『親鸞』月報一二 昭46•4

親鸞論争のすすめ(一〜八) 中外日報 昭51•1(6•18•20•21•22•23•23•24•25)

晩年の親鸞    伝統と現代三九号 昭51•5

真実の親鸞 -- 吉本隆明『最後の親鸞』を読む    春秋 No.181 昭51•1

親鸞系図の史料批判龍谷史壇、第七三・七四号    昭53•3•15

 


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