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第一章 縄文の謎(なぞ)の扉を開く
一 縄文人が周王朝に貢献した -- 『論衡ろんこう』をめぐって
二 殷の箕子は倭人を知っていた -- 『史記』『漢書』をめぐって
『邪馬一国への道標』(角川文庫)
古田武彦
もう一つの問題点を“煮つめ”確認しておきましょう。『論語』の中のこの「桴」発言について、現代の日本の学者の多くは、“孔子が日本を目指したもの”とはうけとっていません。「山東半島付近から朝鮮半島あたりを目指したものだろう」というのが、大方の“解説”のようです。
たとえば、貝塚茂樹(かいづかしげき)さんは、「孔子が桴(いかだ)に乗って海上に脱出しようとしたのは、どこをめざしたのであろうか。孔子のいる魯国の位置からすると、山東半此の海岸から、東にでて、遼東(りょうとう)半島から朝鮮半島にかけての対岸が、ぼんやりと意識されていたのであろう」(『論語』中公文庫本)と言っておられます。けれども、わたしのよう一介の探究者の目には、このような学者の解釈は、率直に言って理解できないのです。
なぜなら、遼東半島や朝鮮半島は中国から地つづきです。周代にも、そのこと周知の地理的知識だったはずです。そこへ行こうというのに、「桴に乗って行こう」というのは、“海洋マニアでもない限り、いささか奇妙な発想、ではないでしょうか。ことに“陸地人間”である中国人が“陸で行ける”ところを、わざわざ“海を行く”というのは、わたしには解(げ)せません。先入観なしに素直に理解する限り、孔子が脳裏に描いているのは、“海でしか行けないところ” ーーつまり「島」に住む人々だ。わたしにはそう思われるのです。この点、かえって一部の江戸時代の儒学者たちの方が率直にこの文を解したようです。
「故(ゆえ)に桴に乗りて海に浮び、東夷の民を化し、以(もつ)て礼義の俗を為さんと欲(ほつ)す」
(伊藤仁斎『『論語』古義』巻之三)。
「『子、九夷に居らんと欲す』九夷。未(いま)だ其(そ)の種を詳(つまびら)かにせず。徐・淮(わい)の二夷、経伝に見ゆ。我が日東の若(ごと)し」
(同右、巻之五)。
これに対して荻生徂徠(おぎゅうそらい)が『論語徴ちょう』で彼独自の理論たる「三代聖人之古道」論の立場から、果敢な反論を展開したことは有名ですが、仁斎の理解は、原文の文脈そのものに対しては、素直な理解と言えましょう。これに対して現代の学者の方が、かえって近代の啓蒙(けいもう)主義史学に由来する先入観に“災いされて”本来の文脈をいささか歪(ゆが)めて解するのを習わしとしてきたようです。
わたしは、文献それ自身のしめす論理の糸をなどりながら、“とんでもない”新世界を見てしまったようです。
『論衡』(ろんこう)のしめす史料、『漢書』の展開する史料系列、『論語』の語る地理像。それらは立体的な世界像を自然(ナチュラル)に形造っている。 ーーわたしの目にはそう見えています。
それは従来の日本の古代史、東アジアの古代史の常識に反する地帯。いわば未踏の沙漠(さばく)をひとり歩いている自分に気づきました。まわりを見まわしてみても、ずんずん歩いてゆくうちに、多くの仲間から離れ、ふと気づくと、あまりにも遠くまで来てしまった。物音ひとつしない、孤絶の世界。そういった感じです。昨年の二月、家のそばの竹藪(たけやぶ)道を歩きながら、何か奇妙な“うすら寒さ”を感じたのを覚えています。
そうしたある日ふと“旧知の人”が向うから手をさしのべているのを見たのです。 ーー陳寿(ちんじゅ)。そう、『三国志』の著者です。
「古(いにしえ)より以来、其(そ)の使中国に詣(まい)しるや、皆自ら大夫と称す。(魏志倭人伝ぎしわじんでん)
倭人伝にふれたことのある方なら、おたじみの文面です。しかし、この一文には重大な秘密の鍵(かぎ)が二つ隠されていました。
その一つは「古より以来」。これは具体的には、いつのことでしょう。“漢代以来”くらいの意味で、従来は理解されていたようです。わたしもそうでした。何しろ、今までは、倭人に関する、信頼できる最古の記事は、例の『漢書』の「楽浪らくろう海中・・・」の記事だ。そしてそれは漢代(前漢末、後漢初)のことだ、と信ぜられていたのですから。ですが、問題は「古」という一語です。『三国志』で、「古」というとき、それはどの時点をさして用いられているのでしょうか。
わたしは、何となく“「古=漢代」ではないのではないか”と漠然と感じていました。それは、あの「壹と臺」の検査や「里数記事」などの点検をする中で、「古」の用例はたくさん目にしていたからです。そこで今回意識して「古」を点検してみました。すると、すぐ分りました。やっぱり『三国志』の場合、「古」は原則として「周以前」つまり、ほぼ「堯ぎょう、舜しゅん、禹う、夏か、殷いん、周」のことです。たとえば、
「秦は古法に違(たが)ひ、漢代之(これ)に因(よ)る。先王の令典に非(あらざ)るなり」(『魏志』五、黄初中、陳羣の上奏)
ここでは、秦、漢は「古法」に違っている、と批判されています。ですから「古法」とは、当然「周以前」です(「先王」とは“堯、舜、禹の聖天子と、夏、殷、周の天子たち”です)。
また、
「大魏、命を受け、虞(ぐ)、夏を継蹤す。孝文、法を革(あらた)め、古道に合わず」
(『魏志』十三、太和中、鐘鷂*、上疏)
鷂*は、鳥の代わりに系。JIS第3水準ユニコード37E47
「虞夏」は舜と禹。前漢第四代の文帝(孝文)の改革は「古道」にあっていない、と批判されています。当然漢代は「古」ではない。やはり「周以前」です。そのほかにもいくつも例はありますが、考えてみればこれは当然のことです。なぜなら、たとえば昭和から見て明治や大正を「古いにしえ」とは言えません。徳川時代でも「古」とは呼びにくいでしょう。同じように、三国時代の人が直前の漢代を「古」とは呼べないのが当り前です。せめて「周代以前」でなくては。
こう考えてみると、倭人伝の「古より以来」を「漢代以来」の意味と考える方がもともとおかしかったのです。当然、「周代以前から」ということです。それもギリギリの「周末から」では、語感として、どうもピッタリしません。「古=堯、舜、禹及び、夏、殷、周」ですから、その中で一番新しいのが周です。せめて、その「周代以来」くらいではなくては、この「古」という表現は、ピッタリしたいのです。ではなぜ、従来、これを漫然と「漢代以来」くらいに考えてきたのでしょう。その一因は倭人伝冒頭の文にあると思います。
「漢の時朝見する者有り、今、使譯通ずる所三十国」
ここでは確かに「今」と「漢の時」が対比されています。そこでこの「漢の時=古より以来」と混線して考えてきたのではないでしょうか。
しかし、この二つは全くちがいます。なぜたら、「漢の時」の方は「朝見」です。洛陽(らくよう)なる天子のもとへ倭人の使が直接行っているのです。そう、あの志賀島(しかのしま)の金印、後漢の光武帝の時です。これに対し、本文の「古より以来」の方はちがいます。「中国に詣る」というのは、必ずしも「中国の都に詣る」の意ではありません。楽浪郡治(ピョンヤン付近)や帯方(たいほう)郡治(ソウル付近)に行けば、それで「中国に詣る」と言いうるのです。“ここを通じて中国の天子に貢献する”。それが中国対夷蛮(いばん)の関係の根本ルールたのですから。そして周代なら、あの「燕えん」や「箕子きし朝鮮」に行けば、「中国の天子に貢献」できたのです。倭人伝の、この「古より以来」は、それを指していたのです。
そうです。『論衡』の「周の世、天下太平・・・・・・倭人、鬯草(ちょうそう)を貢す」の、あれです。また、『漢書』の「歳時(さいじ)を以(もつ)て来り献見すと云う」の、あの記事をうけていたのです。そのとき、陳寿は、当然それを「漢代」といった「近代」のことではなく、「古」すなわち、「周以前」のことと見なし、ズバリ「古より以来」と書いているのです。ここにも、「周代の倭人貢献」の“裏書き”をしていた、第三の証人が現われたのです。
これには、さらにもう一つの“駄目押し”がつけ加わります。それは「古より以来・・・」に続く、
「皆自ら大夫(たいふ)と称す」
の一句です。
この「大夫」とは、「卿けい、大夫たいふ、士」という、統治階級の三分法の一つであることは、よく知られています。「士」も「大夫」も、『論語』などに出てきて、わたしたちにはおなじみです。たとえば、
「子曰(いわ)く『・・・・・・以て縢(とう)、薛(せつ)の大夫と為(な)すべからず』」
(論語憲問篇)
これは魯の孟公綽(もうこうしゃく)に対する孔子の人物評です。“彼は趙や魏の執事(老)ならいい。「縢」や「薛」といった小国をとりしきる大夫にはむかない”。こういった意味のようです。
ところが、この「卿、大夫、士」という、夏(か)、殷(いん)、周に用いられたと言われる、この三分法は、周を以て断絶するのです。もちろん、秦(しん)、漢からあとも、官名の一部としては残存しています。たとえば「御史大夫」「光禄大夫」「大中大夫」のように。しかし、「周以前」のような三分法ではなかったのです。そして陳寿のいた西晋(せいしん)代になると、もはや県邑の長や土豪の俗称となっていました。
「県邑の長、宰(さい)と曰(い)ひ、尹(いん)と曰ひ、公と曰ひ、大夫(たいふ)と曰ふ。〔注〕晋之(これ)を大夫と謂(い)ひ、魯衛(ろえい)、之を宰と謂ひ、楚(そ)、之を公尹と謂ふ」
(通典、職官典、県令)
従って、倭国の使が名乗っていったのは、この俗化した三国時代の用法でなく、「夏、殷、周」の用法に従っているのです(『「邪馬台国」はなかった』第六章II参照)。
なぜなら、倭王(わおう)は、卑弥呼の例に見るように、中国の天子から「親魏倭王」の称号をもらっています。つまり中国内部で言えば「卿」に当ります。その倭王のナンバー・ワンの重臣である難升米(なんしょうまい)らが倭国の使節として「大夫」を名乗っているのですから、これはまさに「卿 ーー 大夫」という中国の統治者階級三分法をまねて、その“正しい位づけ”に則して自称しているのです。いいかえれば、自称は、自称であっても、決して分不相応、越権の自称ではなく、いわば中国の天子を中心とする冊封(さくほう)体制(天子が冊(さく)をもって封爵(ほうしゃく)を授け、それぞれの位置づけを行う政治体制)の中に、正しく自己を位置づけた、そういう自称なのです。
さて、その場合、模倣(もほう)の対象となる時期はいつでしょうか。三国はもとより、秦(しん)、漢ではありません。その時期には、すでに中国では、「卿、大夫、士」の区分法は“消え去っていた”のですから。当然、その未だ消えていなかった時代、つまり「周以前」のみが、倭人に影響を与えた時代です。とすると、ここにもまた、「中国 ーー 倭」間の交流は、「周以前」にさかのぼる、その明確な徴証が現れたのです。少たくとも、陳寿がそのように信じて叙述していること。わたしはそれを疑うことができません。

わたしは前に次のようなシーンをテレビで見たことがあります。南太平洋上の舟ですが、そこで行われている儀式でした。結婚式か何かでしたが、物々しくもきらびやかな服装の行列。アナウンサーの解説によると、ビクトリア王朝の服装だそうです。この島がかつてビクトリア女王の時代、「大英帝国」の植民地だった、その遺風が今に至るまで連綿とつづいてきた。もちろん、現代のロンドンヘ行っても、博物館以外、決してお目にかかれない、十八世紀の儀式の服装が、ここでは、今も“生きて”いる。そういうわけです。
これは人類学風に言えば、一種の“ドーナツ化現象”です。一つの文明圏の中心部ではすでに失われた風習が、周縁部に遺存している、というわけです。たとえば「漢字」もそうでしょう。本場の中国以上に、日本ではいわゆる「旧漢字」がなお“生きて”日常生活に使われています。発音でもそうです。「漢音」「呉音」などという、中国の古い発音が、日本では一種の“なまり”を帯びながらも、とにかく現代まで伝えられ、実用に使われているのです。今、問題の「大夫たいふ」でも、そうです。中国では、三世紀の魏晋(ぎしん)の間に発生した、という、土豪の自称としての「大夫」。日本では、ずっと後代になって、そういう用いられ方がされてきます。 ーーあの、森鴎外で有名な「山椒大夫」などがそうです。
というわけで、この三世紀倭国の使節が自称した「大夫」も“ドーナツ化現象”の一種と言っていい、と思います。すなわち「周代以前」に、中国文明とすでに接触していた、その証拠(あかし)、その明々白々たる遺産なのです。
こうしてみると、今まで“夢まぼろしの映像”のように見えていた倭人の、「周代貢献」、それは、いかにしても、疑うべからざる歴史事実だったのです。
わたしは、はじめはあたかも片々たる流言飛語のたぐいに見えていた「倭人貢献」の一句に導かれて時の流れを遡(さかのぼ)りはじめ、今ようやく、古代東アジアの、中国海をとりまく壮大な交流の跡かたを、目のあたりにすることとなったようです。
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