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 『邪馬一国への道標』(角川文庫)

3章 三世紀の盲点

古田武彦

九 疑いなき邪馬一国 ーー『隋書』経籍志をめぐって

わたしの筋道

 一休みして、これからお聞きいただくのは、必ずしも“目新しい”ことではありません。この一両年、あちこちでのべてきたことですから、もう十分ご存じの方もあることと思います。言ってみれば、『「邪馬台国」はなかった』その後。 ーーといった感じでお聞き下さい。
 東大の史学雑誌に「邪馬壹国」という論文を発表したのが昭和四十四年九月。右の本は昭和四十六年ですから六〜八年間の歳月が流れたのです。その間の学界からの反応を見ると、わたしの論証の筋道を“誤解している”ものが多いのに驚かされました。
 わたしの論証の理路は次のようです。
 第一。『三国志』の原文には邪馬壹国とあり、「邪馬臺国」という文面をもつ版本は皆無だ。こういう版本状況の中で、「壹→臺」という「原文改定」を行うには、どんなに慎重であっても、ありすぎることはない。
 第二。『三国志』が書かれた三世紀から、現存最古の版本たる南宋本(紹興しょうこう本、紹煕しょうき本)の出た十二世紀まで、壹と臺の字形を比べてみても、さほど酷似しているような形跡はない。
 第三。『三国志』全六十五巻中の「壹」(八十六個)と「臺」(五十八個)を全部抜き出して調べてみたが、そこには両字が“とりちがえられている”と認められる個所は皆無だった。こういう原文状況下では、いよいよ、「壹→臺」という原文改定を行うには、よほど他に確実な根拠なき限り、危険だ。
 第四。『三国志』の中では、「臺」は“天子の宮殿と直属官庁”を現わす、至高の特殊文字として用いられている。
 一方、『三国志』では夷蛮(いばん)の固有名詞を表音表記するさい、「卑」「邪」「馬」等の卑字を頻用(ひんよう)している。従って魏晋朝の史官(陳寿ちんじゅたち)が、夷蛮の国名を表音表記するとき、この至高の特殊文字を使用すること、それは絶対にありえない。もう一歩具体的に言うと、中国には「ト」音を表わす文字は数多い。その中から、他のすべての文字をあえてさしおいてまで、この至高特殊文字を使う。そんなことはありうることではない。
 以上です。つまり、第一は、文献をとりあつかうときの基本原則。『「邪馬台国」はなかった』の中でものべたように、わたしが親鸞(しんらん)研究の中で深く学んだものです。
 第二、第三は、右の基本原則をさらに再確認するもの。“こういう状況下では、よっぽど決定的な証拠がない限り、原文をいじるべきではないな”。そういう、心証をえたにとどまるのです。
 第四こそ、“「壹→臺」の原文改定はすべきでない”という決定的証拠、とわたしに見えたものです。
 以上のような筋道ですから、わたしに対する反論は、とりわけ第四の点に集中さるべきものですが、実際はこの点への反論が成立できない。それがこの六〜八年間の中に、ハッキリしてきたようです。
 なお、第一〜三についても、問題点をつけ加えてみましょう。
 第一。「『三国志』の版本中、『邪馬壹国』とあるのは、一つだけ。他の版本はすべて『邪馬臺国』とある」などと、全く事実認識をあやまっている人があります。けれども実際は、『三国志』のすべての版本が「邪馬壹国」。「臺」とするのは全くないのです。
 第二、三の点に関しては、論ずる人は多いのですが、その人たちは、わたしがこの「壹」と「臺」の検査から、「邪馬臺国」は非、という論断をしたかのように錯覚しています。わたしとしては、先にのべたように“これはいよいよ簡単にいじっちゃ、駄目だ。よっぽどの証拠がなきや”という、至極当り前の、心証をえたにとどまるのに。そういう論証の筋道が必ずしも理解されていないようです。

 

探し物の余得

 わたしたちが家庭の中で、何か、ある物がどうしても見つからない。そういったことがよくありますね。しかもそれがなくては、どうにもすまない、といったケース。それで「仕方ない。時間がかかっても、はしから探そう」と決心して整理し直してゆく。何しろ、猫のひたいのように狭いわが家(や)ですから、そうやって“はしから全部探そう”という方式をとる決意さえすれば、 ーーそれがある物なら、必ずいずれは見つかるわけです。探しはじめに見つかるか、探し終りに見つかるか。それは“神のみぞ知る”というわけなのですが。
 こういう方式のさい、一つの楽しみがあります。それは思いがけない“余得”があることです。本の間にはさんでおいた千円札が見つかったり、ながらく失ったと思っていた、亡くなった人の手紙が現われたり、いま見ると貴重な暗示をふくむ資料が出てきたり、何かと、心なごむ“望外の幸せ”に恵まれるものです。
 こんな、わたしたちの日常経験と、歴史という学問の方法と、全くちがいがない。わたしには最近しきりにそう思えるのです。
 『三国志』六十五巻を一行一行、目を皿のようにして「壹」と「臺」の字を追うていったときの思いがけない“余得”。それが「臺の特殊用法」の発見でした。その後、『隋書』八十五巻を一字一字しらべていったことがあります。このさいは「妥」と「委」の両字を追うていたのです。ご存じの「日出ずる処の天子云々うんぬん」の文句の出てくるのは、この『隋書』の「イ妥*(たい)国伝」です。「倭国伝」ではないのです。『隋書』全体の中では、「イ妥*国」と「倭国」は別国として出現しているのです。つまり、前者が九州王朝。後者が近畿天皇家、というわけです。
 この点は、すでに『失われた九州王朝』に書いたところですが、“この「イ妥*」と「倭」は、筆記者の筆癖が巻によってちがっていただけのことだろう”という異議が出されましたので、論より証拠、『隋書』全体を例によって“はしから探してみた”わけです。全部で「イ妥*たい だ」五十六個、「委」百三十個。両字はすべて正確に書き分けてあり、“両字のまぎれ”は、どの巻とも、一切ありません。その事実が確かめられたのです(右の両字を“つくり”にもつ字も、全部検証しました)。
 というわけで“書物の家探し”の主目的は予定通り(もちろん、もし「同一字が巻によって両様の筆癖で書き分けられている」ということが判明したとしても、同じく“予定通り”です)果されたのですが、このさいも、うれしい“余得”がありました。
「魏臺雑訪議 三巻 高堂隆こうどうりゅう撰」(隋書経籍志)
 あのの地理志や『宋書』の百官志と同じく、『隋書』にも「〜志」という“事典の部”がついていますが、中でも異彩を放っているのが、この経籍志です。隋代当時に存在した本の名前が列記されているのです。わたしたちが“本の身元”を追求してゆくとき、大変重宝なものです(『史記』や『漢書』の経籍志とか、『三国志』の経籍志などがあったら、どんなによかったでしょう)。
 「妥」と「委」の“家探し”をしてゆくうちに、この書名を見て、わたしは、思わず飛びあがりました。それは、ずーっと気になっていた問題の文章の“身元が割れた”からです。

 「臣松之、案ずるに、魏臺、物故の義を訪(と)う。高堂隆、答えて曰(いわ)く『之を先師に聞く。物は無なり。故は事なり。復(また)事に能(よ)くする無きを云うなり』と」(蜀志一 裴松之はいしょうし注)
 現在残っている『三国志』は、裴松之の注がついています。五世紀、例の南朝劉宋(りゅうそう)の人です。その中の蜀志についている注に右の一文があるのです。ここに出てくる高堂隆という人物の身元は、ハッキリしています。魏志巻二十五に高堂隆伝があるからです。魏の明帝の御意見番、といった格の名臣で、明帝も、彼には頭があがらなかったようです。明帝は、彼が死んだとき、歎息して「天、吾が事を成さんことを欲せず、高堂隆の我を舎(す)てて亡ぶや」と言った、といいますから、この“こうるさい”老人に、内心は頼り切っていたようです。

魏臺雑訪議 疑いなき邪馬一国ーー『隋書』経籍志をめぐって 邪馬一国の道標 古田武彦 角川文庫

 

魏臺の発見

 さて、本筋にもどりましょう。その高堂隆に問(=訪)うている「魏臺」という人物。これは言うまでもない、明帝その人です。「人の死ぬことを“物故”というが、これはなぜか」と高堂隆に質問し、彼は「私の先生から聞いたことだが」と前おきして、“物=無”“故=事”と相通じ用いる。つまり人が死ぬと、何事もできなくなるから、“物故”と言うのだ」と答えているのです。これは一応、魏朝内で天子のことを「魏臺」と呼んでいたことをしめす史料です。ですが、五世紀の斐松之の「地の文章」の形になっていたので、わたしはこれを三世紀の証拠として引用するのを躊躇(ちゅうちょ)してきたのです。
 ところが、この『隋書』経籍志によって、三世紀の高堂隆の著作として、“魏臺(明帝)との問答”を書いた本があったことが明らかになったのです。裴松之は、この本から内容を要約して引用していたのです。『隋書』には、他の個所にも、この本からの直接引用の文がしるされています。
 以上によって判明した重要なこと、それは三世紀の魏朝内では天子一人を「魏臺」もしくは「臺」と呼んでいた、ということです。ちょうど、「殿との」「殿下」といった呼び方が、その御殿の中の主人公を指すように。

 

倭人伝にも

 この発見のあとしばらくして、「あ、そうか」と、今さらのようにうなずいたことがあります。
 「(景初二年〈二三八〉六月卑弥呼)天子に詣(いた)りて朝献せんことを求む」
 「(〈泰始二年〉〈二六六〉一与)因(よっ)に詣り、男女生口三十人を献上し、・・・」(三国志倭人伝)
 右の「天子に詣り」と「臺に詣り」とは、同義語だったのです。ですから、「天子=臺」という用法が実行されている、そのただ中の倭人伝で、「ヤマト」に対し、「邪馬 」などという表音表記をする。かりそめにもそんな筆法をしめしたら、それこそ史官の首が幾つ飛んでも足りぬような、所業だったと思われます。
 先の四点の論証中の肝心をなす第四論証。これはもうどうしようもない確実さをもつに至った。 ーーわたしは今、キッパリとそう言うことができます。
 わたしの目がこの史料事実を見てしまった以上、たとい日本の学界、教科書、ジャーナリズムなどがこぞって「邪馬台国」「邪馬台国」といつまでも衆をたのんで言い立てつづけたとしても、わたしは静かに「否いな」と言って、首を横に振ることができるのです。

 

後宮が焼けた

 閑話休題。魏志の高堂隆伝に、魏朝内部の雰囲気(ふんいき)をうかがわせる、興味深い話がのっています。この人にふれたついでに、いささか横道ながら紹介させていただきましょう。
 話の発端は、火災。崇華殿という御殿が焼けたのです。早速、明帝は高堂隆にたずねました。“これは何のとがだろう。儀礼の式を行うより、むしろ御祈祷*(きとう)とおはらいでもした方がいいのじゃなかろうか”。すると高堂隆。「こういった災変がおこるというのは、とりもなおさず、天がわたしたちにいましめを下しているのです。つまり、上(かみ)がぜいたく、下(しも)も節度なし。もっとハッキリ言えば、天子たる者が宮室を華やかに飾り、民衆の空(むな)しく窮乏しているのをかえりみない。だから、天があなたをこらしめている(「陛下を譴告(けんこく)す」)のです」。これを聞く、派手好きな明帝の渋面が目に浮かぶようです。
祈祷*(きとう)の祷*は、示偏に壽。別字、JIS第3水準ユニコード79B1

 さらに高堂隆。「昔殷(いん)の太戊(たいぼう 第七代の天子)は、庭の桑と楮(こうぞ)が一夕(いちせき)にして巨木となるという妖変(ようへん)に会った、と言います。同じく武丁(ぶてい 第二十代の天子)は、湯王(とうおう 第一代の天子)を祭っていたとき、いきなり飛びこんできた雉(きじ)が鼎(かなえ)の耳(とって)にとまったのを、妖異として大変気にした、といいます。そこで二人とも、これを天のいましめとして身をつつしみ、善政を行いました。そして三年の後、遠夷(えんい)からの朝貢をむかえたといいます。今回の災火は、後宮が広すぎ、後宮の女たちがやたらと多すぎるためにおこったもの。周制のように縮小すべきです」と。なお未練がましい明帝。「漢の世、柏梁(はくりょう 臺)が焼失したが、ときの武帝は壮大な官殿を再建した上、まじない師(巫)におはらいをしてもらったという。これはどうしたものか」。
 前以上に華美な、女たちの後宮を作りたくてたまらぬ、といった感じです。が、高堂隆はこれも一蹴(いっしゅう)します。「あれは、越のまじない師のト占(ぼくぜん)にたよって建章殿を作り、火の災いへのおはらいをしてもらったもの。つまり、たかだかまじない師のやりぐさです。聖人や賢人の教によるものではありません。そのため、『漢書』の五行志に『柏梁(臺)が焼け、その後、江充が衛太子(えいたいし 武帝の子)を害せんとする事件がおこった』と、そのときのことを書いています。つまり、変事をよけるためのおはらいなるものの、肝心の効果は、サッパリ無かったわけです」。
 そしていよいよご存じ、聖人「孔子」の登場。「孔子も言っています。“災というものは、人々の行いに応じているものだ。陰陽の気が呼応し、それによって天が人君を戒めているのだ”と。要するに、民の力をいたずらに疲れさせ、民の貯(たくわ)えを空費しないことが肝要。そうしさえすれば、天子たるあなたは、『符瑞ふずい』(めでたいきざし)だの、『遠夷からの朝貢』だのといった、瑞兆(ずいちょう)のたぐいをたのみとする、そんな必要もさらさら無いことになりましょう」。

 

求めざる朝貢

 高堂隆の言葉の最後の一節には、ちょっとした「曰いわく」があります。
 明帝の先代の文帝。魏朝をはじめた人ですが、西の方、酒泉(しゅせん)郡・張液(ちょうえき)郡(今の甘粛かんしゅく省)の地を平定したとき、早速、西域から朝貢物をおさめさせようとしました。燉煌(とんこう)の「径寸けいすんの大珠」(直径一寸の、大きな珠)などに、大いに「欲(よく)をそそられた」ようです。
 これに対し、蘇則(そそく)という骨[魚更](こっこう)の臣(剛直で君主の過あやまちを痛切に諌いさめる忠臣)が、次のように言ったというのです。「もし、陛下の徳化が中国にみなぎり、それが西の沙漠(さばく)の地にまで及ぶようになれば、こちらからそんな物を求めなくても、自然に向うからもってやってくるでしょう。こちらから求めて得(え)る、というのは、貴ぶには足らないのです」。この直言に対し、「帝、黙然たり」とありますから、その苦(にが)い顔が思いやられます(魏志蘇則伝)。
[魚更]は、JIS第3水準ユニコード9BC1

 

天下の天下

 このエピソードは、当然、若き明帝も、あの高堂隆も、直(じか)に見聞きしたところでしょう。このあと、帝位についた明帝は、功名心と虚栄心ある青年(二十三歳で即位)として、「符瑞ふずい」や「求めざる遠夷えんいからの朝貢」を望んでいたことでしょう。高堂隆は、そういった青年天子の客気(かつき ものにはやる気持)を知っていただけに、あえて最後の一節の言葉をピシャリと言ってのけたのだ、と思います。ときに青竜三年(二三五)秋七月。このあと、まもなく高堂隆は没したようです。その死の直前、口述による上疏(じようそ 上奏文)がのせられていますが、その文章は次の言葉で結ばれています。
 「此れに(よ)って此れを観(み)るに、天下の天下にして、独り陛下(へいか)のみの天下に非(あらざ)るなり」
 明帝は良き老臣を失ったものです。

 

じいさんの顔

 さて、右のエピソードの中で、わたしの注目したのは、次の二点です。
 第一は、高堂隆の迷信排撃論。あの『論衡ろんこう』の王充と同じく、一種の“合理主義”の立場から骨太い論法が展開されていることです。そして漢朝内の王充の、あからさまにはなしえなかったこと、すなわち漢の天子(武帝)の迷信尊奉のやり方に対し、批判の矢をグサリと放っていることです。王充の「徳、孤ならず」と言うべきでしょうか。
 第二。このあと、ほどなく卑弥呼の遣使という「遠夷朝貢」を“自ら求めず”して迎えた明帝(そのとき三十五歳)の心中は、どうだったでしょう。現代の青年風に言えば、「やったぜ!」と、こおどりしたい気分だったにちがいありません。
 倭人伝に長文掲載された、卑弥呼あての詔書の文面にも、わたしにはそれが感じられます。
 「汝(なんじ)が在(あ)る所、踰(はる)かに遠し。乃(すな)わち遣使貢献す。是(これ)汝の忠孝、我甚(はなはだ)汝を哀れむ」
 「待ちに待った“遠夷朝貢”が来た」。 ーーそういった気負いをここに見出(みい)だすのは、わたしの思いすごしでしょうか。錦(にしき)や金や銅鏡百枚など、あの下賜品のおびただしさの秘密。それは案外、こんなところにあったのではないでしょうか。
 ーーもっとも、このとき明帝の心の一隅に死んだ“高堂隆じいさんの顔”がかすめたとしたら、彼はいささか“うしろめたい”ような気分になったかもしれませんが。


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