古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1 明石書店 『親鸞』ー人と思想ー

 これは清水書院版(1970年4月15日発行)の II. 斗いと思想の生涯 ■師を失った孤独の中で 果てしなき内と外との斗い  ■思想は弾圧にうちかつ 念仏禁圧令の中の帰郷です。

親鸞

ー人と思想ー
古 田 武 彦 著



II. 斗いと思想の生涯  ー裏切らざる人生ー

■師を失った孤独の中で

・・・

・・・

  果てしなき内と外との斗い

東国時代の心の斗い

 東国時代の親鸞の心の斗いを、そばから記録したのは妻の恵信尼である。恵信尼文書第五通は、親鸞の死後二か月あまりして娘の覚信尼あてに書かれたものだ。

 寛喜(かんぎ)三年(一二三一、親鸞五十九歳)、四月十四日のことだ。昼ごろより、親鸞は少し風邪気味だといって、夕方からこもってしまった。いつもとちがう。腰や膝をたたいてもらうこともせず、ただ、じっーと寝ていた。からだに触れてみると火のように熱い。頭もひどくいたいようだ。こういうようすがつづいて四日めの朝、苦しい中から、「まあ、それでいいだろう。」と親鸞がいったので、「なに?たわごとですか?」と恵信尼がいうと、親鸞はつぎのように、語ったという。
 「たわごとなどではない。寝ついてから二日めから、自分の心に大無量寿経を読むことたえまがない。たまたま目をふさぐと、この経の文字が一字ものこらず、きららかにこまかく見えるのだ。『なんとも、これは合点のゆかぬことだ。今のわたしには、念仏の信心よりほかには、何の心にかかるはずのものがあろう。』とおもって、よく考えてみると、思いあたることがあった。
 この十七、八年むかし、ことごとく三部経(大無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を千回よんで、人々を救うためにしよう、といってよみはじめていたのを、『これはなにごとだ。“自信教人信(じしんきょうにんしん) 難中転更難(なんちゅうてんきょうなん)”(自ら信じ、人に信じさせる。これはむつかしいことの中でも、ことさらむつかしいことだ)といって、自ら信じ人に教えて信じさせることこそ、真の仏恩にむくいたてまつる道だ、と信じながら、ミダの名号(みょうごう 南無阿弥陀仏)のほかには何事の不足があって、必ず経をよもうとするのか。』と思いかえて、よむのをやめた。
 だから、もう、のりこえた、と思っていた問題が、やはり少し自分の心の中にのこるところがあったのか、人の執着(しゅうちゃく)する心、自力の心は、よくよく考えねばならぬ、と思いなして後は、大無量寿経をよむことがやっと、とどまった。」

 このようにかれは妻に語ったというのだ。ここで、「一七、八年むかし」の話というのは、すでに触れた健保二年(一一一四、親鸞四二歳)のことである。
 このあとかれには、大いなる論理の誕生があった。「三願転入の論理」である。「金剛信心(こんごうしんじん)」が自然に自己の中にかがやきわたるのをみる、という、美しい体験の朝を、むかえたのである。しかし、これで事が決着したのではない。熱にうかされたかれの頭に、夢魔(ゆま)のように、「大無量寿経」の文字が殺到した。そうだ、専修念仏者にとって、最高の経典さえ、悪魔となって到来する季節があるのだ。

 わたしはかって、今の学者たちが青年をあざけって、つぎのようにいったのを聞いたことがある。
 「今、学生運動をやっている学生なんて、『資本論』も読んでないんだからな。」と。
 しかし、マルクスは逆に、学者をあざ笑うだろう。「『資本論』を、すみからすみまでおぼえていて専門家ぶっているやつなんかに、おれのことがわかってたまるか」と。かれら学者には、『資本論』が「反マルクスの書」となっておおいかぶさっているのだ。
 このような現代の学者たちに反し、親鸞は、親鸞集団の中で、得意げに「大無量寿経」を注釈し、講釈する自分を見、それを拒否しはじめたのである。
 このようにして、彼は、六十代への扉をあけ、すさまじい光の晩年の世界に一歩をふみこもうとしていたのである。


一切経校合(いっさいきょうこうごう)

 親鸞は、『教行信証』の著述に必要な経典や資料をどこで見たのだろうか。あんなたくさんの経典をどうやって東国の片田舎で手にいれることができたのだろうか。わたしたちにとっては、これは当然の疑問だ。
 これについて、一つのヒントを与えてくれるエピソードを覚如の『口伝抄(くでんしょう)』が伝えている。
 北条頼時(ほうじょうよりとき)が九歳の時、北条の邸に招かれた親鸞と会って、問答したというのだ。しかも、かれは、けっしてえらい坊さんとして、説法などのために招かれたのではない。一切経(仏教の全経典)の校合(照らし合わせ)をするアルバイトのため、その他大勢の僧侶たちのひとりとして加わっていたのだ。一回の仕事がすんで、食事が出された。魚鳥もふんだんに出されている。ほかの僧侶たちは、そのころの慣例どおり、袈裟(けさ 僧侶の服)をぬいで魚鳥をたべた。袈裟をぬいでいる間、俗人にかえる、というわけだ。
 しかし、かれは袈裟をぬがなかった。それを不審に思ったのが、好奇心につられて、この席に来ていた開寿(かいじゅ 後の執権、北条頼時の幼名)である。「なぜか」と親鸞にしつこく聞いた。かれは、はじめ言を左右にして答えなったが、あまり開寿が問いつめるので、ついに答えた。
 「せめて袈裟を着て食べて、魚鳥に功徳(くどく)を与えたいと思ったのです。」
この話に、わたしは、ひかれていた。「袈裟をぬいでいる間だけは、僧侶ではない」まことにうまい便法だ。しかし、こんな要領のいいやり方に、はき気をもよおしている親鸞。自分だけは袈裟を脱がない親鸞。そこに、わたしは親鸞の真実性(リアリティー)を感ずるのだ。これは、『教行信証』の中に通っている、心のしんと共通なものである。
 しかし現在の多くの学者は、この話を信用しない。「史実ではない。覚如の創作だ」とするのだ。
 この中から“変形された史実”をくみとろうとしたのが赤松俊秀だ。おそらく、下野(しもつけ)・常陸(ひたち)の豪族、宇都宮氏の館(やかた)に招かれた話が「からし種」をなす事実だろう。それが時の執権北条の館の話までふくれあがって伝説化されたのだ、というのである。
 これは「反映説」だ。神武天皇の東征説話は、熊襲(くまそ)平定の史実の反映だ。いや応仁天皇の東征の反映だ、といった類(たぐい)である。こういった反映説は容易にたてやすい。しかし、その明らかな弱点は、明確な証拠をもたない点にある。この「一切経校合」問題もそうだ。もし、「からし種」をふくらますなら、成人した時頼に堂々と説法をする、明恵や道元なみのイメージにふくらませるはずだ。それがアルバイトの校合係とは!

 しかし、あてこすりはやめよう。この「一切経校合」が史実であることが証明されたのだ。それを述べよう。
 まず覚如が不用意だったのは、時頼の父である「時氏(ときうじ)のころ」として、この話を書きはじめたことだ。覚如は時頼が九歳だから、当然、父の時氏のころと考えたのだ。ところが時氏は、子どもの時頼が四歳のとき死んだ。執権にもならず二八歳の若死(わかじに)で。時頼が九歳のときは、祖父の泰時が執権をしていたのである。だから、まず「泰時のころ」とすべきだった。これが覚如の第一のミスである。
 つぎのミスがもっと重大だ。わたしたちは「女犯の夢告」のことを、おもい起こそう。わたしたちは「三夢記」の真作決定によって、それが「建仁元年」のことであったとを確認した。ところが東本願寺にある覚如の自筆本『伝絵』では「建仁三年」のこととしてしてあるのだ。ごていねいに、「えと」(干支)は、建仁元年の「えと」のままにして。このことからわかるのは、覚如の年代計算の物差(ものさし)には、「二年のずれ」があることだ。こうしてみると、この事件のあった開寿九歳(嘉禎元年、一二三五、親鸞六十三歳)も、七歳(天福元年、一二三三、親鸞六十一歳)のこととなろう。ところが、『正統伝』でも、この年、六十一歳の時、北条家の一切経校合の法会に出た、と書いてあるのである。
 『正統伝』は、「女犯の夢告」のところで、覚如自筆本『伝絵』の「建仁三年」説を攻撃している。覚如が「祖師直口の相伝」を知らないせいだと笑いとばした。覚如の年表計算上の「二年のずれ」から来た単純ミスだ、などとは夢にも気づいていないのである。したがって、『正統伝』の「一切経校合」記事が、『伝絵』の「二年のずれ」に気づいて書き直されたという形跡は、まったくない。それだのに「二年のずれ」を訂正すると、二つの記事は、ぴったり一致するのである。これまで学者は、『正統伝』を伝記史料としてばかにしてきた。江戸時代の作品だからだ。しかし、まったく別系統で、記事内容もちがった『伝絵』との、この一致を偶然と片づけるわけにはいかないのである。このようにして、覚如の年代計算のミスは、偶然にも事の史実性を裏書(うらが)きする鍵となった。

 しかもわたしたちは、この「一切経校合」の記事を裏づけを『吾妻鏡(あずまかがみ)』の中に見いだすのである。嘉禎四年七月の頃に、鎌倉の北條家から園城寺へ、一切経五千余部を奉納する記事がのっている。それはこの前年(三年)が尼将軍政子の十三回忌にあたっており、それをめざして書写の功を積んだものだというのである。これより六年前、政子の七回忌にあたる、寛喜三年七月にも、政子の追善のために、「一切経絵(いっさいきょうえ)」が行われたという記事がある。おそらく七回忌(親鸞五十九歳)より十三回忌(親鸞六十五歳)の間において、北条の館で、「一切経」五千余部の書写が行われていたものとおもわれる。『伝絵』・『正統伝』の一致して記載する、親鸞が北条の館において「一切経校合」に参加した話。それは、親鸞六十一歳の頃だからちょうどこの六年間の中にあたっているのである。このような事実からしても、この「一切経校合」は覚如の創作ではない。史実にもとづくもの、と考えなければならない。
 中沢見明の『史上の親鸞』は、覚如への不信を出発点としている。かれは、そのため、しばしば科学的立証を飛びこえた。現在の学者も、中里のあとの轍(わだち)をふみ、覚如への、あいまいな不信の中にいる。しかし、それは、言葉の正確な意味において、「科学的」ではない。
 それよりも覚如は、この話に含まれている、思想上の重要な点に気付かなかったようである。
 『吾妻鏡』によると、文暦二年(親鸞六十三歳)、鎌倉幕府は「黒衣の念仏者」追放令をだした。「女人を近づけたり、魚鳥を食したりする」悪行の念仏者を追いはらうというのである。これを聞いた親鸞は、どのような思いがしただろう。二年前、北条の権力の館で、毎日「魚鳥のふるまい」にあずかったのである。僧たちは、「公認」のしたり顔で、「袈裟をぬいで」魚鳥を食していたのである。それだのに、表向きでは、「魚鳥を食したりする」悪行の念仏者という。親鸞が袈裟を脱がなかったのは、単に魚鳥の慈悲のためだけでない。小利口(こりこう)に、袈裟をぬぐ僧たちの偽善よりも、どうどうと魚鳥を食する「黒衣の念仏者」の側に、かれは自(みずか)らをおいたのである。七歳の開寿にはそんなことはわからなかった。ほほえんで子どもと話していたかれの心は、偽善の怒りに燃えていたのである。そうだ。大人ぶった偽善者面(つら)に本気で怒らない人間が、どうして子どもに対して、ほんとうにやさしくできるのだろう。それなのに、世俗的な感覚の持ち主、覚如は、「さすがに、権力の座につく方は子どものころからちがったものだ。」ーそんな調子のいい結論へもっていって、この話を結んだのである。


■思想は弾圧にうちかつ

念仏禁圧令の中の帰郷

京に帰る

 六十三歳ごろ、親鸞は京都へ帰った、といわれる。たとえば『正統伝』は、つぎのように伝えている。
 
「(六十三歳)同年八月四日、聖人入洛也(にゅうらくなり)。まず岡崎御坊に入りたまふ。」

 このように、後世の伝記の中に述べられてあるだけだ。別に直接の証拠はない。
 しかし、この問題について、一つの示唆(サゼスチョン さししめし、教えること)を、投げかけているものに、「紙」の問題がある。
 現在、のこっている親鸞自筆本に用いられた紙を全部顕微鏡写真にとるのだ。そうすると、紙の性質が浮かび上がってくる。一方で、鎌倉初期の紙を、ことごとく、顕微鏡写真をとる。これを物差(基準)にして、親鸞の紙とくらべる。そうすると、東国の紙と京都の紙と、年代によって使い分けられているかもしれないのである。もちろん紙には「移動性」がある。だから京都の紙だからといって、京都で使ったとはかぎらない。しかし年代によっておおきく片よりがあれば、紙の原産地と住居の位置に関係があろう。
 こう考えて、わたしは『坂東本』を実地に調査したとき、六十枚にわたって、顕微鏡写真をとった。この撮影結果を見ると、相当興味深い。従来、同じ紙とおもわれていたところが、意外にちがっていたりするのだ。しかし残念なことに鎌倉時代の物差がない。この時代の紙が、全体的に顕微鏡写真化されていないのだ。たとえばローマの図書病害研究所・中央保存研究所にあるような、全時代、全産地の紙の顕微鏡写真が、日本ではまだそろえられていないのである。そこで、残念ながら、わたしの顕微鏡写真は、その利用価値を百パーセント発揮できないでいる。だれか、きみたちの中で、この仕事を大きく発展させる人はいないだろうか。

 さて、話をもどそう。親鸞が「いつ、京都へ帰ったか」という問題とおとらず重要なのは、「なぜ京都へ帰ったか」ということだ。せっかく東国に広い深い親鸞集団をつくりあげたのに、なぜ、それをおいて帰っていったのだろう。ただ、生まれ故郷が恋しかったからでは、すまない問題だ。
 これを、東国の弾圧のせいだ、という学者もいる。鎌倉幕府は、念仏者の弾圧を強化しはじめた。元仁、嘉禄、建長と禁圧があいついだ。その難を避けて親鸞は京都へ帰った、というのである。「そのところの縁がつきたら他へうつって念仏せよ」という親鸞の手紙の中のことばを証拠とするのである。
 確かに、親鸞の生活・住居の動きに、体制側の念仏禁圧が陽に陰に、大きな影響を与えていたことは疑えないだろう。しかし、ただそれだけでは、問題がのこる。ただ禁圧をのがれて他にうつるでは、ヒヨッタ(本質を妥協する)ことにしかならないか、しかも、親鸞集団と共にうつるのではない。動こうにも動けない農民や在地商人・在地武士をおいて、うつるのだからなおさらである。親鸞を求め、必要とする、多くの人々がいるのに、どうして、「そのところの縁がつきた」といえるのか。その点、親鸞の心の内部に存在した、とおもわれる、一つの問題について語ろう。『教行信証』の中に、つぎの有名な一節がある。

 まことに知る。悲しいかな。わたし(愚禿鸞)は、愛欲の広い海に沈み、没し、名利(みょうり 名誉と利益)の大きい山に迷いまどうて、往生決定の人の数の中にはいることを喜ばず、真実の救済の証(あかし)にちかづくことをたのしまない。恥づべきことだ。傷(いた)むべきことだ。

 経典の引用の多い中で、親鸞の地の文として異様な迫力をもっている。この文章には、他をかえりみるいとまのない切迫した空気がある。しかし、これまでの宗学の受け取りかたでは、「自分の内省をしめして謙遜(けんそん)し、一般信徒の模範(もはん)にして下(くだ)さった。」といったふうだ。親鸞の心が、「名利」「愛欲」の中に迷いぬいていた、ということは、親鸞自身のこの内面の告白を信ずるかぎり、東国時代、五十二歳の歴史事実なのである。それでは、この「名利」「愛欲」とは、親鸞にとって、いったい何だったのだろうか。若い客気(かっき ものにはやる勇気)のころではない。この問題の答えは、親鸞晩年のつぎの和賛にふくまれているとおもう。


よしあしの文字をも知らぬ人はみな、
まことの心なりけるを
よしあしの字知り顔は、
おおそらごとの形なり
是非知らず邪正(じゃしょう)もわかぬこの身なり
小慈小悲もなけれども
名利に人師を好むなり

「よい」「わるい」という文字さえ知らない人はみな、
真実の心であったのに、
「よい」「わるい」という字を知ったかぶりの人は
おおうそつきの姿である。
「よい」「わるい」の判断もできず、「まちがっている」「正しい」の区別さえつかないこの身だ。
わたしには、ちょっとした「慈悲」もないけれども
「名利」のために、人の師匠になるのを好むのだ。


 この骨を貫くような自己告白の中で、「名利」ということばが、「人師を好む」という内容と結びつけられているのがわたしの目をひく。親鸞にとって、外なる弾圧よりも、ほんとうにおそろしかったのは、この自己の内なる「名利」ではなかったろうか。それは「金剛信心」にはいったから、もはやそんなものにわざらわされません、などといってすましておれるものではない。親鸞集団が広く深く根をおろしたから、もう安心、などといえるものではない。親鸞の運動が深まれば深まるほど、人々の心をひきつければひきつけるほど、「名利」の黒いかげは親鸞をおそい、その心をむしばもうとするのだ。


浄土真宗に帰すれば
真実の信はありがたし
虚仮(こけ)不実のわが身にて
清浄の心もさらになし

浄土真宗にはいっても
ほんとうの信心はありにくい。
うそいつわりでないわたしの身だ
清らかな心もちっともない

 親鸞が東国を去った、真の動機は、「集団の権威者」となり、「精神の指導者」となりはじめた。そのような自分を捨てるためではなかっただろうか。親鸞晩年の和讚や手紙などからただよってくるものは、けっして一つの仕事を成し遂げた“功に誇る人”のにおいではなく、深く自己をみつめ、自己を責める色をひそめている。しかし、この問題の、さらに深い局面は、つぎの章で明らかにされよう。


あいつぐ念仏禁止令

 親鸞の生涯は専修念仏迫害の嵐につらぬかれている。承元の大弾圧のあと、東国にむかった後も、いたるところで迫害の手にあった。それは当然だ。全国津々浦々(つつうらうら)にしみこんだ古い仏教のしくみ、それまでの常識に挑戦するのが、新らしい教え、専修念仏だった。古い仏教は村々の神社信仰と手を組み、人々の生活をしばりつけていた。親鸞の運動は、これと正面から対決することなしに、どの村にもはいってはいけなかったのである。
 むろん、新しい教えによって、自己と自己の生活の開放に目ざめ、嬉々としてこれをむかえる人々も多かったのだ。農民を中心に商人や下級武士までこれに加わった。そうであればあるだけ、これに敵対する者もふえるのだ。いままで自分がしっかりにぎってきた利益や勢力の基盤が、つぎつぎと切りくずされていくからだ。『伝絵』に伝えられる山伏(やまぶし)弁円が、親鸞に敵対した話なども、その一つだろう。親鸞が手紙の中で書いている善乗房の話も、その一つだ。『歎異抄』の中で、親鸞のつぎのことばが記録されている。「専修念仏を非難し、攻撃する人があればあるほど、それを予言してあった仏の教えの確かさを知り、いよいよ専修念仏の信心を深めるのだ。」と。ここには、たえざる外からの迫害の中で、内面を深化していった親鸞とその弟子たちの姿があらわされている。

 中央の歴史に記録されているのは、地方の村々の迫害ではなく、中央の権力、中央の旧仏教集団からの迫害だけだ。貞応三年(一二二四)というのは、十一月二十日、元仁元年と改元(年号を改めること)された年である。親鸞五十二歳にあたり、『教行信証』を書いていたころだ。法然の十三回忌にあたっており、末娘の覚信尼も生まれる、という、親鸞にも思い出多い年だった。
 しかし、この年、五月、比叡山より六箇条の専修念仏弾害(だんがい 罪を公にし、責めたてること)の上奏文が朝廷に出された。比叡山を脱出して、専修念仏集団にはいった経歴をもつ、親鸞の身辺には、一段と雲ゆきがあわただしくなったとおもわれる。三年後の喜禄三年(一二二七、親鸞五十五歳)には、専修念仏集団にとって、もっとも侮辱的な事件が爆発した。比叡山の荒法師(あらほうし 堂衆)たちが、東山大谷にあった法然の墓堂(ぼどう)をおそった。堂をメチャクチャに破壊し、墓をあばいた。死者、法然の骨を恥ずかしめようとしたのである。自ら僧侶を名のり、死者の魂を救うと称するかれらが、いかに体制側にあって堕落しぬいていたか。権力の手の中にあって、人間の魂の尊厳をまったく忘れ去っていたか。それをハッキリしめした事件といえよう。かろうじて法然の骨は、弟子たちが直前に掘り出して他へうつしたという。しかし、この事件が親鸞の心の底にいかに深い衝撃(しょうげき)と怒りを与えたか。わたしたちはこれをどれほど深刻に考えても、考えすぎることはないであろう。
 しかも、このことによって、とがめられたのは、比叡山の荒法師たちではなかった。法然の骨をあばきたいほど、比叡山の深い憎しみを買った、被害者、専修念仏集団のほうを朝廷はさらに罰した。その「張本(ちょうほん)」として、親鸞の尊敬した隆寛(りゅうかん)や空阿弥陀仏、一念義の主唱者幸西らを島流しにしたのである。
 親鸞の著作に『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』というのがある。高田専修寺に、親鸞の自筆本(八十六歳)が伝わっている。その中で、法然の死んだ建暦二年(一二一二、親鸞四十歳)の三月一日に(法然の死んだ一月二十五日より一月あまり後)法会(ほうえ)が、いとなまれたらしく、そのときの追悼(ついとう)の賛文(さんもん)がのせられている。その賛文の作者は「四[冏月]*山権律師劉官(しめいざん ごんりつし りゅうかん)」と書かれている。「四[冏月]*山」とは比叡山のことであり、「権律師」とは役職の名だ。ところで「劉官」とは、明らかに「隆寛」のことだ。隆寛自身が中国ふうに書いたとも考えられる。しかし、賛文の注釈が目的のこの本に、親鸞がいっさい「劉官とは隆寛のことだ」といっていないことからみると、島流しにされた隆寛をはばかったのであろう。

[ 冏月]*(メイ) 冏に月編


弾圧と帰郷

 これによってわかることは、隆寛が京都での法然追悼法会の中心にいたこと、法然の弟子親鸞も、それを認め尊重していたことだ。その隆寛が島流しにされたあとの京都に親鸞は帰った。そして毎月の法然命日の法会(二十五日)のささえ手となっていたようすが、親鸞の手紙によって、知られるのである。
 してみると親鸞が京都へ帰ったことについて、さらに新しい見方がされねばならないとおもう。親鸞は東国の弾圧をのがれて京都へ帰ったのではない。嘉禄の弾圧の後、荒廃しつつあった京都の専修念仏運動、その中へ親鸞は帰ったのである。そして毎月の法然命日の法会を中心として、専修念仏の火を都の中にけっして消さない運動の一働き手となったのだ。
 東国の親鸞集団は性信・真仏たちがすでにささえていた。自分がしなければならないことは、京都での任務だ。親鸞はそのように考えたにちがいない。
 ある人は、親鸞は『教行信証』を書きに京都へ帰った、という。ーちょうど現代の学者が、出版社に頼まれた原稿を書くために軽井沢に行くように。ある人は、親鸞は東国の弾圧を避けて京都へ帰った、という。ーちょうど戦争中の転向マルキストたちが、住み心地のましな田舎の故郷へ帰ったように。
 そのような親鸞から、わたしたちは、あんなひびきを聞くだろうか。晩年の手紙や『歎異抄』の中の澄んだひびき。思想とは、そんなにごまかしのきくものではない。そんな親鸞が、『教行信証』の中に、「承元の奏状」を変えずにおき通すだろうか。自分の行動がヒヨッテ(本質を妥協して)いることを忘れ去って。確かに、ここ京都は、はなやかな戦場ではない。法然の墓のあばかれた、嘉禄の追憶はあまりにも生々(なまなま)しい。親鸞は毎月二十五日の命日の法会のたびごとに、その痛憤の日をおもい浮かべていただろう。さらに鴨川の流れをみるごとに、住蓮・安楽の死にざまを、今日のように眼前に見ただろう。住蓮・安楽の死んだ土地に、親鸞は、今、帰ってきたのだから。親鸞は、生涯の著作『教行信証』を“生きている住蓮・安楽”として書いただけではない。同時に、“生きている住蓮・安楽”として、京都に帰ってきたのである。むろん朝廷や比叡山の目は、たけだけしく光っており、その膝もとで、必ずしもはなばなしい動きはできなかった。
 しかし親鸞はここ(京都)にいた。若い日、中年の日にまして、とぎすまされた専修念仏者として、ここにいた。このように今、自分が、ここにいることを、法然聖人がわたしに命じているのだ。そのように親鸞は考えていたにちがいない。なぜなら、親鸞は自分の唯一(ゆいつ)のよりどころである魂の声を忘れて、自分の日常の生活をおくることなど、けっしてできはしなかったのだから。


内容そのものは古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 I『親鸞』ー人と思想ーと同じです。

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