古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1 明石書店 『親鸞』ー人と思想ー
これは清水書院刊(1970年4月15日発行)のまえがき、目次、生きた親鸞を探求しよう!です。今も発刊されています。(850円+税)
親鸞
ー人と思想ー
古 田 武 彦 著
読者との約束
きみとわたしとのめぐりあい
きみがこのページをめくったことによって、きみの人生の一端(いったん)はわたしの人生と確かに触れ合った。1秒のち、きみがこの本を捨てるか、それとも、一生つづく触れ合いの、今がはじめのときか、まだ、だれも知らない。
この本を閉じようと、読みつづけようと、それはいつでもきみの自由である。
わたしは青春の日以来、二十年以上の歳月(としつき)「親鸞とは、いったい、どんな人間だ?」と問いつづけた。そのために。わたしの二度とかえらぬ人生を使い、悔いることがなかった。そのために、くりかえし親鸞について論文を書き、一度もあきる日はなかった。
けれども今、親鸞の『人と思想』を書くためにペンをとり、これまでにない緊張を感じている。なぜなら学術論文の一つ一つなら、それぞれ親鸞の部分を切り取って、正確に証明すればいい。だが今は、親鸞の全体を、つまり、かれのいのちの、すべてを描き出さねばならないからだ。これは、わたしの二十年の決算書である。
私は今、三つの約束を自分に対してたてようとおもう。
一に、親鸞について真実であることだけを書き、それに反することは、すべて受け入れない。
これは平凡なことだ。しかしいちばんむずかしいこととなろう。これまで、ありきたりにいわれてきたこと、不確実にいいふらされてきたことを拒否しなければならない。また、親鸞を「教祖」や「聖人」にするためにつくられたあらゆる伝説も、逆に同じ目的でタブーとして避け、触れられずにきたことも、そういうすべての虚偽を明るみに出し、率直にわたしの手にした真実を書こう。
二に、むずかしいことばを使わず、人間なら、だれでもわかるように書こう。
親鸞は民衆に向かって、数多くの本を、ほとんど平仮名ばかりのような字で書いた。それは、つとめてやさしい字とことばを使い、分量も少ないものだった。むずかしい漢文で書かれた、大きな書物『教行信証』と同じように、親鸞は、これらの小さな本に、いのちをこめた。
「いなかのひとびとが、字の意味もしらず、あさましいぐちきわまりないために、そういうひとびとに、やさしく意味をしらせようとおもって、おなじことを、くりかえしくりかえし、書きつけてある。知識のある人は、おかしくおもうだろう、きっとあざけるだろう。たとえ、そうであってもいい。わたしは、そういった人のそしりをかえりみずに、ひとすじに、おろかなひとびとに意味がわかりやすいように、そればかりおもって、書きしるしたのである。」
これが、こういうちいさな本の終わりに、かれが書きつけたことばである。貴族たち、知識人の、あざけりを背に、あくまで民衆に顔を向けて、やさしく本気で語る親鸞を、きみは、はやくもここに見いだすだろう。
そのような親鸞だから、わたしがかれについて語ろうとするとき、明白に、平易に、書こうとするのは、むしろ当然の義務だといっていい。もしこれを、通俗だとおもう人があれば、わたしたちは、その人のおもうにまかせよう。
三に、現代に生きる、私たちの課題を、真正面から親鸞にぶつけてゆきたい。
それを抜きにして、歴史上の人物を語るなら、結局、こっとういじりと同じだ。そのためには、伝説で美化された親鸞では、役にたたない。科学の方法によって、徹底的に洗いつくされた、事実としての親鸞でなければ、ナンセンスだ。このことは、けっして、現代ふうの好みに合わせて、親鸞をアレンジしたり、生(き)のままの、親鸞の真実をうすめたりすることではない。なまぬるい現代人好みなど、吹きとばさなければ、現代から未来に向かって生きようとする、わたしたちにとって、歯ごたえもなければ、ものの役にもたちはしない。
このような三つの約束は、この本を書きすすめていくわたしにとって、ときとして、つらいかもしれない。なぜなら、この約束を守り通そうとするとき、わたしは、わたしの中の不徹底なもの、妥協的なものと、不純なものと、たえず、たたかいつづけねばならないだろうから。
しかし、もし、この約束が一つでも破られたら、一瞬も遠慮せず、この本を、きみの前から、ほうりだしてもらいたい。そうすることこそ、きみの、わたしに対する、もっとも正当な行為である。
きみへの注文
わたしのほうからも、きみにいいたいことがある。きみがもし、「宗教的なムード」にあこがれて、この本を手にしたのなら、ただちに、この本を閉じたまえ。この本は、きみのあこがれを、まったく満たさないだろうから。きみがもし、息ぐるしく、争いにあけくれる現実から、目をそむけようとして、この本をめくりはじめたのなら、すぐ、読むのをやめたまえ。この本は、きみの期待に、とても、こたえようとしてはくれないだろから。きみがもし、現在の宗派や教団が、もう一度、再生することに期待をこめ、何か、そのために用だちはしないかと願って、この本を、手にしたのなら、一刻もはやく、この本を破りたまえ。この本は、きみにとりかえしのつかぬ害をなすだろうから。
この本の中では、宗教が、かって果たすことができた、みごとな役割は、現代ではもう完全に終わっていることが、明白にきみに告げられるだろう。
しかし、親鸞のいのちは終わっていない。ひとつの時の中で、力いっぱい生きぬいた魂は、時代が滅んでも、時の霧を越えて、まっすぐにわたしたちに語りかけるのだ。わたしたちが現代の真中(まんなか)で、いかに生きるべきかを告げ知らせてくれるのだ。
親鸞がわたしたちに残した、まどわぬ、はっきりした目。その醒(さ)めた目にみちびかれてこそ、わたしたちは親鸞にまけぬ、すばらしい生き方を現代につくりだすことができるだろう。
そのような生き方を、本気でのぞむ人のためにだけ、わたしはこの本を書いた。
わたしが親鸞に会ったとき
十五、六歳のころ、わたしははじめて親鸞に会った。親鸞のことばをしるした『歎異抄(たんいしょう)』を読んだときである。そのとき、わたしの心をとらえたのは、つぎの一節だった。
「聖道(しょうどう)で、“慈悲(じひ)”といっているのは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむことだけだ。けれども、自分が人を、おもうとおりに助け通すことは、結局のところ、できはしない。・・・・・・この世で、人をどんなに、いとおしい、かわいそうだとおもっても、自分のおもいのままに助けることはできないから、結局この“慈悲”は首尾一貫しない。だから自分にとって、念仏することだけが、ほんとうに最後まで徹底した“大慈悲心”でありましょう。」
「聖道」ということばについて、そのころ、わたしには、何もわからなかった。だから親鸞が、このことばによって、かれが生きていたころ、時代の権力と結びついていた、比叡(ひえい)山や奈良の、古い、体制的な仏教そのものを指していた、などということは、知らなかった。まして「慈悲」ということばが、そのころ、どんなに堕落させられていたか、そして親鸞が、いかに、こういう時代の思想との妥協せぬたたかいに、かれの生涯をかけていたか。そんなことも、まったく知らなかった。
ただ、そのころのわたしにとって、現実はあまりにも複雑で入り組んでおり、たとえ、ささやかな友人との関係ひとつをとってみても、はっきりとつかめず、おもいのままにならない。ひとりの人間と、ひとりの人間との距離は、あまりに遠い。そういう事実から、目をそむけることはことのできなくなっていた青年であるわたしにとって、同じ問題に正面から立ち向かい、スッキリした精神をうちたてている、親鸞という人間に、目を見はらされたのである。
弟子一人(いちにん)ももたず
親鸞という人間の持つ魅力は、このほかにも『歎異抄』の中にあふれていた。
「専修(せんじゅ)念仏の仲間で、『かれはわたしの弟子だ。』『いや、かれは人の弟子(でし)だ。』という争いがあるようだが、それは、もってのほかのことだ。親鸞は弟子ひとりも、もってはいません。その理由は、自分かってなしわざで、人に念仏をさせるということなら、それこそ弟子でもありましょうが、ことの真実からいって、ミダのおみちびきにあずかって念仏している人を、わたしの弟子だ、ということは、極端なすさまじい筋(すじ)ちがいのことである。」
「専修念仏」というのは、「念仏だけをえらびとって、他の一切(いっさい)をふり捨てる」ということである。親鸞が加わった、仏教の新しい運動のスローガンであった。その新しい運動の中でさえ。昔ふうの師の権威をふりかざす人が多かったのである。しかし親鸞は、それに、はっきりと反対した。年齢がちがおうと、性がちがおうと、みな「対等」である。上下や支配関係はない、というのである。「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずさふ(う)ろう。」という一語は、そのころの社会の中で、どのようなひびきをもっていたのだろうか。
上(かみ)は、朝廷や貴族とのつながりを誇り、下(しも)は、弟子たちを統制することが常識であった鎌倉初期の階級的な社会(北条氏を中心とする東国武士団は、身分差別のはげしい封建社会をうちたてた。六二ページ「時代の相(すがた)」参照)の中で、このことばが、まったく破天荒(はてんこう ずばぬけて型破りなこと)なひびきをもった、一語であったことは、だれにも容易にうなづけるだろう。むろん、天皇や貴族たちは、自分と同時代に、こんなことばが吐かれているとは、夢にも知らなかった。もし知ったら、かれらの道徳や秩序や礼儀についての、ちゃんとした考え方をみだすものとして怒り、ののしり、このことばを抹殺(まっさつ)しようとしたにちがいない。けれども親鸞の「弟子」は、このような真実の人間のことばに感動して、これを生き生きと記録したのだ。
わたしたちの問題は、現代である。現代において、「弟子一人(いちにん)ももたず」という考え方は、はたして常識化されているだろうか。わたしたちの身のまわりの教師たちは、みな、そのように語っているだろうか。逆に、教師と対立した「教師の権威」をふりかざす者は、いないだろうか。そして何よりも、「教師」と「弟子」は、片ほうは先に生まれ、片ほうは年若い、というだけの、全く同じ真理の探究者として認められているだろうか。
この場合、真に「対等」の場において、探求がなされているとするならば、現代の学校における「師弟間の紛争」も、あるものは、はじめから生じず、あるものは生じても、その成りゆきは、いちじるしくちがってくるのではあるまいか。
わたしには、斗争には斗争のおきる起きる道理がある、とおもわれるのである。
さて。親鸞は、人を弟子扱いする「師匠面(ししょうづら)」の仲間たちに対し、「きわめたる荒涼(こうりょう)のことなり」と批評している。「すさまじい無遠慮ないい分(ぶん)だ」というのである。師弟関係の秩序を「礼儀」として、人に強制している者こそ、親鸞の目には、真実の礼儀を失った、すさまじい人々としか見えないのである。ここには、人間に対する二つの見方が、キッパリと別れているのが見えるだろう。
現代においても、青年のことばや行動を見て、恥知らず、礼儀知らず、とののしる大学や高校の教師たち、親たち、老人たち、一切(いっさい)の大人(おとな)たちの声が聞こえないだろうか。もし、聞こえるとすれば、親鸞は現代においても滅びていない。青年の側に立って、生きているのである。
真実に偏執(へんしつ)しよう
わたしが、二十年来、親鸞について数多くの著書・論文・随想の類を読んできて、不思議におもうことが一つある。それは、右翼の思想家から左翼の評論家まで、伝統的な権威主義者からおだやかな自由主義者まで、その所属する信条や党派の別を問わず、ほとんどみな口をそれ、ことばをきわめて、親鸞を賛美していることである。
これは警戒しなければならぬことだ、とわたしはおもう。なぜなら親鸞が、だれにでも歯ざわりのいいもの、つまり透明無害なものに変化させられ、すりかえられている証拠だからである。もし親鸞が、それほど無害で、それほどだれにでも賛美されるような人物なら、だれが好んで、そのような人間を迫害するのであろうか。かれの一生をつつんでいた、危険人物としての警戒、あざけり、無視ーーそれらの真相は、後代の賛美の合唱のうしろに、おき去られているのである。
親鸞の生涯慕った法然は、大きな包容力をもった人がらだった。念仏について、いろいろ質問する民衆に対しても、時と相手に応じ、自由自在の返答をかえしている。この点、親鸞のように、理論的な一貫性を持った鋭い回答とは、時期と人がらを異(こと)にしていたようである。しかるに、その法然が、「偏執(へんしつ)の人」(片寄ったことに執着ーしゅうちゃくーする人)と呼ばれた。それは、人がらやムードの問題ではない。古い権威によりすがる仏教、権力と手をつなぎ、その保護を受けている思想、つまり体制的な考え方を拒絶し、体制側で価値とされるものを、自分たちは価値としない。その「新しさ」こそ、ほかならぬ、人々のいう「偏執」の中味だったのである。
その「偏執」の精神を、いっそうむき出しの形で受つぎ、、それを一生の思想的な背骨(せぼね)としていった人間こそ、親鸞である。それはけっして、だれにでも愛される親鸞、といった人間ではない。直接に会えば、抗(こう)しがたい魅力をもっているけれども、さて、かれの行動や権威に対する抵抗(ていこう)はあまりにも潔癖(けっぺき)すぎ、あまりにも妥協がなさすぎる。それらは年をとって円熟してきても、さらには老成してきてさえも、いっこうにかわらない。つまり、はたから見て、その「偏執」には、どうにも、がまんができない。そのように感じつつ、そばから、親鸞を見ていた人は多かっただろうとおもう。ことに、身分と教養のある人々には。
わたしは、そのような親鸞を書きたいとおもう。ある人々には、がまんできないような親鸞を。ちかって、だれにも好かれるような親鸞を書くまいとおもう。それは真実をゆがめることになるからである。しかし青年は真実を愛するゆえに、そのような親鸞を愛するであろう。
親鸞とマルクス
わたしは青年時代にマルクスの著作を読んでいて、つぎのような一節にぶつかった。
「宗教は悩んでいる者のため息であり、また心のない世界の心情であるとともに、精神のない世界の精神である。それは民衆のアヘンである」(『ヘーゲル法哲学序説』日高晋訳)
これが有名な宗教アヘン説である。
宗教のほんとうの役割は、民衆に現実の階級的矛盾から目をそむけさせ、ねむりこませ、逃避させ、甘い幻想を夢みさせ、要するに現実の支配者に屈従させようとするにある。という、骨を刺すような鋭い批判なのである。
しかし、これを読んでわたしの頭に、一つのはっきりとした反問がわき起こった。『歎異抄』にあらわれた親鸞のことばは、けっしてアヘンではない、と。むしろ人間の精神をねむりから呼びさまし、因習とたたかう勇気を与え、魂を生き生きと目ざめさせる。これはわたしの目に触れ、心にしみ、どうしても疑えない真実だ。
一方マルクスのことばにも、争いようのない真実性が宿っている。
この二つの真実はどのように関係しているのか。マルクスは「すべてを疑え!」という格言を、最大のモットーにしていたというが、この疑問はわたしを導いて、二十年以上にわたる親鸞の学問的探求の道へと、旅だたせたようである。わたしはこの疑問に固執(こしつ)し、そこから得たわたしの回答を、この本の中で残りなく明らかにしたいとおもっている。
このように、わたしは真実を愛する人、それに偏執する人のために、親鸞のすべてをこの本の中に書きこめたいとおもう。この本を読み終えて「だまされた」といって本を閉じるか、それとも「かれの約束は果たされた」とつぶやくか。その判断は読者ひとりひとりの自由にまかせるほかはない。
I. 半生(はんせい)の霧
生きた親鸞を探求しようー
無動寺谷のおもいで
かって、わたしは比叡山のふもとに住んでいた。京都の東北方、きわまるところ比叡山ドライブ・ウェイへの道は、そこから始まっている。外来の観光客は、バスに乗って五十分もたたぬまに、頂上に達することができ、霧のはれた日には、サルの親子(おやこ)連れに出会うこともあろう。
けれども、地元に住んでいたわたしは、バスに乗らず、歩いて、いつも山に登った。そのコースは、へびのようにうねった、ほこりのたつ新道を避けて、地蔵谷不動から左手の山路に入り、やや急な傾斜で頂上を目ざす小道をえらんだ。旧道(きゅうどう)、無動寺谷(むどうじだに)の道である。そこは右、左より、山のせまった谷あいで、一、二月でも、吹き通しの寒風を知らない。それゆえ、ときとして、愛らしく素朴(そぼく)な花が道ゆく者をほほえませる。冬のさ中には、小鳥たちが、暖かいこの谷間を慕って集まってくるのか、不意に耳をそばだてるような鳴き声をたてた。この旧道は、やがて橋のない川を横切り、岩をつたい、果ては小川の流れと道がいっしょになったまま、つまさきを水にひたしながら、進んでゆくようになる。そこから短い胸つき板を過ぎ、千年杉の木立のくらやみを出ると、ハッとする上天のまぶしさ、おもわず目を下に転ずれば、眼下に氷をはりつめたような琵琶湖のきらめきに会う。それが、道の進みゆく左右の角度の変化に応じ、上下の道のうねりにともなって、キラリ、キラリと湖面の輝きと色を変え、道はその名のしめすごとく、はるか無動寺谷大乗(だいじょう)院へと向かう。
ここには、親鸞が比叡山にいたころ住んでいたと伝えられる一角が、今もその姿をとどめている。かって、かれは若き日の悩みを全身につつみ、この琵琶湖を見下ろし、この木立の風に吹かれたであろう。
今、わたしのふみしめる足どりが、かれの苦悩の足跡をふんでいるのである。このようなおもいにうたれるとき、いつも、わたしは1枚の肖像画をおもい浮かべているのである。
鏡の御影(西本願寺蔵)
親鸞の肖像画
専阿弥陀仏(せんあみだぶつ)という人が描いた、とされる親鸞晩年の肖像画がある。「鏡の御影」と呼ばれている。生存中の親鸞を面前にして、いちいち写実したといわれているだけに、まことにリアルな迫力をもって描き出されている。鎌倉期似絵(にせえ 肖像画)の面目(めんもく)をみごとにしめす秀作である。
顔だちは、全体としてがっしりとした印象を持つ。全身もけっしてスマートでなく、むしろ強靱(きょうじん)な足腰をおもわせるほどだ。冴(さ)えた鋭い目、さっと切れあがった眉、独特のそりをしめす鼻、そして、しっかりと結ばれたくちびる。これら鋭い印象をもった顔の道具だてが、全体としての素朴さ、鈍重なほどの安定感と不思議な統一を構成している。
この有名な肖像画について、くわしくは、ふたたび後に、触れることがあろう。今、わたしの念頭をよぎるのは、かれの老いてなお頑健(がんけん)な足腰が、若き日、この無動寺谷の、けわしい上り下りの中で、鍛えられていたであろう、というおもいである。そしてわたしの脳裏に浮かぶのは、土と汗にまみれた親鸞の足であり、つまさきである。その降り行く先は、ーーかれを追放し、その一生を苦渋(くじゅう)と流浪(るろう)に追いやったーー天皇たちの都する京都の町であった。
本願寺への道
京都の町の玄関口に、東・西本願寺がある。わたしが西本願寺をおとずれたとき、宝物展示室の案内人が、紫色の衣を着た親鸞の画像を前に、つぎのような説明をくりかえしていた。
「親鸞聖人(しょうにん)は、朝廷よりあついおほめにあずかって、天皇様より紫の衣を着ることを生前にさし許されたのじゃ。これをみても、親鸞聖人が、いかにえらい方で、あったか、わかるじゃろ。」
若い娘二人が、なかば感心したような、なかばてれくさそうなそぶりで、手をとりあって、結構ずくめに飾りたてられた親鸞聖人御画像を見上げていた。
横にいる私の中には怒りがあった。このような説明が、歴史上の事実と無縁であるばかりか、まったく相反していることは、今日歴史学の常識である。親鸞と同時代の道元は、朝廷より紫衣を与えられながら、これを辞退した。しかし、親鸞は辞退することもできはしない。かれに与えられたのは、紫衣でなく流罪(るざい)人の衣(ころも)であった。さらには、志を同じうする友の死刑であり、一生をおおう流罪前歴人としての汚名(おめい)であった。
このことは、本願寺の高僧や学者たちは、ひとりも知らぬ者はない。にもかかわらず、案内人の口上(こうじょう)が、今も昔も変わらないのは、もっぱら“営業上の理由”にもとづくものであろう。愚夫愚婦の信者ども、という相手にふさわしい、臨機応変(りんきおうへん)の賢いやり口がとられているだけなのであろう。案内人が、いにも善良そうな、おじいさんであっただけに、いっそう、わたしにはこみあげてくる、やりきれぬ、おもいがあった。
ここにまつられた本願寺親鸞聖人の虚像(にせの姿)と、比叡山の谷あいで、わたしのかいま見た親鸞の実像(真実の姿)とは、まったく相いれることが許されぬ。
無動寺谷より本願寺への道のりは、無限に遠いのである。
親鸞の実像は、いつごろから、どんなにして、だれの手によって発掘されたのだろうか。
わたしはこの問いにこたえるため、明治以来の親鸞研究史に目を向けようとおもう。
親鸞はいなかった!
「親鸞は、ほんとうはいなかったのだ。」こんな話を聞いたなら、きみは笑うだろうか。例の“神武(じんむ)天皇は架空の人物だ”という話なら、現代人はもはや驚きはすまい。でも、古代人でもない親鸞が、なぜ、その存在まで疑われるのか。きみは、首をかしげたくなるだろう。しかし近代の親鸞研究史は、その「ささやき」から出発したのだ。この親鸞否定説は、論文などには一回も姿をあらわしたことはない。もっぱら明治の学者仲間で、ささやかれていた内輪(うちわ)話だった。民衆や公共の場から離れた、いわば「学者サロン」での、お好みの話題だったわけだが、こういう会話は、案外、その時代の知識人たちの、ものの感じ方を正直に語っている。
そのころ、明治初期の歴史の学者の間では、「歴史上の人物を抹殺しよう。」という傾向が一つの流行となっていたのである。
筆跡による存在証明
このような疑惑の霧を吹きとばしたのは、親鸞研究史上に大きな足跡をのこした辻善之助である。かれは親鸞の実在性を証明するために、親鸞の筆跡を明らかにする、という方法を採用し、これを成功させた。その成果は、大正九年に出版された『親鸞聖人筆跡之研究』という本にまとめられている。
かれは報恩寺(東京)西本願寺(京都)や専修寺(三重)に伝わる親鸞の著述・文書・手紙類を調査した。その結果、それらがいずれも鎌倉期のもので、しかも個性ある同一の筆跡を示していることをつきとめたのである。
辻はこの本の中で、二十二枚にわたる、しっかりした写真版をかかげた。たとえば「浄」という字を、親鸞の各文書(もんじょ)から抜きだして大きく写真化し、だれの目にもわかりやすいように、はっきりさせたのである。
このような辻の研究によって、はじめて親鸞の存在証明は完了したのであった。
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内容は古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 I『親鸞』ー人と思想ーと同じです。目次のページは、清水書院版です。
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制作 古田史学の会