『古代史徹底論争 -- 「邪馬台国」シンポジュウム以後』(古田武彦編著、駿々堂)

『よみがえる九州王朝 -- 幻の筑紫舞』 角川選書 謎の歴史空間をときあかす
第二章 邪馬一国から九州王朝へ III 理論考古学の立場から 古田武彦

 

本論文中の「図版第二」とは、「図版第一」のあやまりと見なすべきものという古田武彦氏の指摘がございます。


古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊

筑前須玖遺跡出土の夔鳳鏡に就いて

梅原末治

夔鳳鏡(福岡県春日市須久岡本遺跡<D地点>出土)

夔鳳鏡(福岡県春日市須久岡本遺跡<D地点>出土)

 

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 明治32年(1899年)に筑前須玖岡本の1遺跡が掘開されて、大石下の甕棺から多数の遺物が見出された。是等の遺物のなかで、銅剣・銅鉾の類は後間もなく学界に紹介されたが、数多かった古鏡類はその殆んどが破砕していた為でもあろうか、特に注意が払われることなくして10年余の歳月が流れた。
 その鏡が明治の末年、故古谷清氏の同遺跡実地調査の際取り上げられ、 更に大正に入って、先師富岡謙蔵氏が広汎な中国古鏡の研究を行うに至つて、同国三雲の相似た遺跡から出た古鏡類とにそれが中国の前漢時代の鏡式を主とすることが明らかにされたことから、その重要性が一般に知られ出したのである。これは蓋しこれらの鏡の年代が、それ等を副葬していた甕棺墓の年代を推す拠所となる点で、北九州での古代文化の年代観察に大いに連関するところがある為である。かくて此の分野で当時故高橋健自博士の考究されていた我が国に於ける銅剣・銅鉾の年代の問題が解明の端緒を得たのをはじめ、故中山平次郎博士が熱心に調査観察を進められていた、前者を含む同じ地方での先史原史・両機関の所謂「弥生式文物」の闡明上にも役って、 現在一般化されて来た文化観へと発展することになった。

 尤も須久出土鏡は、元来遺跡の発掘が偶然の出来事であったに加えて、概ね砕片となって居り、当初取り上げられたのは僅かに大きな、3、4の破片に過なかった“それがもとは30面に上る多数であったことや、それ等の全貌が確められたのは一に大正の後半から昭和の初年に亙る中山博士の丹念な現地に於ける破片の蒐集と、それによる復原研究に依るものである。私の『須玖岡本発見の古鏡に就いて』は、故富岡先生の後を承けて博士提供のそれ等の全資料に基いて行った綜括的記述に外ならない。
 かくて前漢代の鏡式たることの明確になつた多数の須玖出土鏡のうちにあって、早くから知られていた1面の夔鳳鏡のみは、可なり他と異なる鏡式で寧ろ後漢のものとも見えるふしがあつた。然るにこれが其後に於ける関係資料の検出と、中国古鏡鑑研究の進歩に依って、新たに後漢の後半の遺品であることが確められるようになった。多数の須玖の出土鏡の中に時代の下る後漢後半の鏡を含むと云うこの事は、一方の三雲の出土鏡のうちに、時代の遡る戦国の鏡式の存する点をはじめ、三国時代の三角縁神獣鏡を主とする近畿を中心とした古式古墳の出土鏡に、四神鏡・内行花文鏡等が並び副葬されている場合の少くないことなどからあえて異とするに足りない。併しこれを蔵した遺跡の点からは、それに依って上限が後漢中葉以前に遡り得ないことになる。既往の所謂『弥生文化』の年代観が、三雲・須玖出土鏡が前漢の鏡式とするところに一つの大きな拠所がある実情とすると此の夔鳳鏡の年代観は重要な意味を持つわけである。されば早く故富岡先生の古鏡研究の助手として、また中山博士と共に須玖出土鏡に関心を持ちつづけ、上記の綜括的な論述を行つた私は、欠を補う意味から、この機会に新しく考えたこの夔鳳鏡の年代観を挙げて、その基く所を述ベることにする。

 

第1図須玖出土夔鳳鏡拓影図2図 須玖出土夔鳳鏡拓影及断面
図2図 須玖出土夔鳳鏡拓影及断面   第1図須玖出土夔鳳鏡拓影

 

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 まず須玖遺跡から出た夔鳳鏡自体から述べることにする。この鏡も破砕して出土したものでその3分1ぐらいが欠けている(第1図拓影、参照)が、東京国立博物館の有に帰してから、欠失した部分を補つて、 現在では一見完備した形を呈する(第2図)。面径14糎の平に近い鏡体の面には可なりの反りがあり、背面の鈕は扁平で大きく、それを繞って所謂糸巻状図形を配し、相向う双禽を4度繰返して主紋としているのは夔鳳鏡の一般的な型と大差がない。面は現在漆黒色を呈するが、もと破断面では白銅の色沢が認められて質の佳良であることを示していた。そして背紋にはかなりの手ずれが見える。その鈕を繞る糸巻状図形の内に『位至三公』の銘をいれ、内区の相向う主文の夔鳳の間にも『君宜固市』の銘がある。但し、外区に帯圏はあるが、内外区の間に銘帯はない。この点夔 鏡としてはやヽ大まかな構図で、整美なものとは云い難い。
 さてこの鏡は須玖出土の鏡として最も早く紹介されたものヽ一つである。元来須玖大石下の遺構とその出土品に最初注意を向けたのは、遺跡が発見されて後間もない明治35、36 年の頃にその地を訪れた故八木奘三郎氏であった。そして出土の古鏡についても氏の『考古精説』の鏡の条に百乳星雲鏡のやゝ大きな破片(原物いま所在不詳)を掲げている。ところでこの夔鳳鏡は明治の末年に故白鳥庫吉博士の慫憑で、つづいて遺跡を調査した古谷清氏が、その後『鹿部と須玖』なる論文を書いた際、はじめて挙げたものである。古谷氏は同遺跡を訪れた際、手に入れた若干の鏡の破片 ―― これは同時に得た玻璃璧の破片等と凡に 後東京大学文学部の考古学標本室に保存されたか、大正12年 9月の大震災で失われたと共に、当時二条公爵家の経営していた銅駝坊陳列館に収蔵されていたこの夔鳳鏡片が同じく須玖の出土品たることを知って著録したのであった。但し古谷氏がこの鏡を載せながら、氏の蒐集品たる東京大学に蔵されていないことは、以前に二条家の有に帰していたことを示すものであり、その来歴としては最初に遺跡を訪れた八木氏が上記の百乳星雲鏡片と共に齎し帰ったものを昵懇の間柄だつた野中完一氏の手を経て、同館の有に帰し、その際に須玖出土品てあることか傳えられたとすべきであろう。その点からこの鏡が須玖出土品であることには、殆んど疑をのこさない。
いま出土地の所伝から離れて、これを鏡自体に就いて見ても、滑かな漆黒の色沢の面に青緑銹を点じ、また鮮かな水銀朱の附着していた修補前の工合など、爾後故和田千吉氏・中山平次郎博士などが遺跡地で親しく採集した多数の鏡片と全く趣を一にして、それが同一甕棺内に副葬されていたことがそのものからも認められる。これを大正5年に同じ須玖の甕棺の一つから発見され、もとの朝鮮総督府博物館の有に帰した方格規矩鏡や他の1面の鏡と較べると、同じ須玖の甕棺出土鏡でも、地点の相違に依って銅色を異にすることが判明する。このことはいよいよ夔鳳鏡が多くの確実な出土鏡片と共有したことを裏書するものでもある。

 

   3

 さて此の種の夔鳳鏡は、中国では早くから著録された鏡式の一つであって、大まかな区分の上からは所謂漢鏡の1類とされて来た。大正の前半故富岡先生が古鏡沿革の研究を行った際、此の種鏡に就いて、
遺例から推してこれは後漢代の1鏡式であるが、氏収蔵の1面に 『宋樊*氏作』の銘があると言うので、六朝末でも一部に行われたとする具体的な所見をはじめて発表されたのであつた。氏が宋代のものと見た右の鏡の銘は実は『栄氏作牢』と読む可きであることは後に原田淑人博士に依つて指摘されたのであるが、別に背文の一部に仏像を表わした遺品が知られ、ひいて上の年代観が殆んどそのまゝに行われていた。

『宋樊*氏作』の「樊*」は大の代わりに木。

但し、此の鏡は漢代の主な鏡式とは可なり違つた面のあること、その主文たる夔鳳形が先秦の古銅器に於ける装飾文として良くもちいられていることなどから、相似た獣首鏡と並んで、その起源に於いて古く遡るであろうことが一部に想定され、かくて昭和の10年代の後半になって矢島恭介氏の『夔鳳鏡と獣首鏡にについて」(1) なる論攷を見たことであつた。私は往年の須玖出土諸鏡の綜括的記述に於いて、上記の年代観に従い乍らもその点を考慮して、問題の須玖出土の夔鳳鏡をば他の諸鏡よりも強いて時代降る後漢代のものとするに及ばないであろうとした。

 そもそも夔鳳鏡の背文は構図として優れたものであるにもかヽわらず、四神鏡、内行花文鏡など数ある漢代の鏡式と違って、年代を考定する拠所となる確実な資料に乏しいと云うのが一般古鏡観に我が国学者が画期的な成果を挙げた当時の実状であつた。この点はその後年代を明らかにする第一のきめ手となる後漢代から三国にかけての数多の紀年鏡例が加わつた間にあっても、なお一見依然たるものがあるようである。併し顧みるに大戦禍を受けた時期をはさんだこの20年間に行われた東亜各地の齎した成果に加えるに、古鏡に関る一般の関心が高まった結果として、夔鳳鏡にも拠所となる遺品が段々と知られて、その点より鏡式の変遷や、鏡が鋳造された鋳造された年代観に対しても、余程明瞭になったところのあるのが認められる。以下先ず後者の目星しい資料を挙げて、それを説示しよう。

 

第3図 伝落陽出土元嘉元年夔鳳鏡拓影
第3図 伝落陽出土元嘉元年夔鳳鏡拓影

 鋳造の実時代を明示する紀年鏡の遺品が昭和に入つてから増加して、従来その例をかいていた本鏡式にあっても、僅か2面ではあるが存在が知られて来た。その1面は故梁上椿氏の『巌窟蔵鏡』に著録した1936年に落陽から出たと云う鏡である。これは第3図の拓影に見るような夔鳳鏡としてはつた背文のもので、糸巻状図形内に於ける『長宜子孫』なる隸体のありふれた銘の外に、内外区の間に銘帯があって、次のながい銘文の初に鋳造の年時が記されている。

□加元年五月丙午造作。廣漢西蜀尚方明竟。和合三陽幽練白黄、明如日月照見四方。師得延年 長楽未央。買此竟者家富昌。五男四女為侯王。后 買此竟居大市。家□掌佳名都里有八弟字戊子

 文の初の紀年の部分は字画が明らかでないが、それにつヾいて後漢中葉以降の紀年鏡によく見受ける五月丙午とあり、また廣漢西蜀の尚方官工の鋳鏡であることなど、銘の全文に併せ考えて、梁氏の言う如く永嘉であることが認められる。永嘉は後漢冲帝の紀年で、その元年は西紀145年に当る。

第四図 昌梨水庫出土夔鳳鏡拓影
第四図 昌梨水庫出土夔鳳鏡拓影

 次に他の1面は1937年の末に四川省巴県沙坪爛の画象石棺墓から見出されたものであって、紀年は元興元年五月壬午とある。此の鏡は出土後間もなく雑誌『説文』3の4(巴蜀文化専号)ので紹介され『漢三国六朝紀年鏡図録』にも著録している。併し写真を欠いたので鏡式を確めることが出来ず、金静庵・常任俠両氏の紀述に依って、その獣首鏡ではあるまいかとの推測を加えるにとゞまった。ところが1975年に南京博物館の行った昌梨水庫漢墓群発掘の簡報(2) に拠ると、その一つの副葬品に整った夔鳳鏡があって、説明に右の巴県出土の元興元年鏡と非常に近似しているとあり、挿入の同鏡の拓影(第4図)から、巴県の紀年鏡の夔鳳鏡であることが知られるに至った。鏡そのものに就いてのより詳しい点は、常任俠氏が『金陵学報』(第8の1•2分册號)に書いている報告を現在まだ見ておらぬがよく以ていると云う昌梨出土鏡の拓影からすると、整った様式であることが推察される。そしてその紀年銘は縁に近い連弧文の間に布置したものであらう。それはいずれにしても本鏡例に依つて前者に先立つ40年前の西紀105年に夔鳳鏡の行われていたことが知られるのである。

 上述のような年代を示す端的な資料ではないが、夔鳳鏡とすべての点でよく似た獣首鏡との関連から次の事実が注意される。主な図文こそ違うが鏡体はじめ構図などで一致している此の獣首鏡の方は、紀年鏡の現存品が可なり多くて、実時代の上では西紀156年の永寿二年の例から、 延熹・永康・建寧・熹平・光和等同世紀の後半の紀年例を経て、三国魏の甘露四、五年鏡、即ち3世紀の後半に及んでいる。
そして後漢の諸例に較べると三国の2例には背文の便化が著しく表われている。ところで前者と同様な整った獣首鏡のうちに、銘文その他の点ではほヾ同時に、恐らくは同じ場所で、鋳造されたと認められる夔鳳鏡が見られる。

 

第五図 夔鳳鏡と獣首鏡
第五図 夔鳳鏡と獣首鏡

第5図の1に載せた東京青地氏所蔵の夔鳳鏡がそれである。この鏡ともと故桑名氏の鬼集品中の獣首鏡(第5図の2)のとは大きさこそ違うが、銘文の書体や外区の文様など符節を合せたように同じである点で、同じ呉氏の鋳鏡たることが察せられる。なお、青地氏の夔鳳鏡に一層近い獣首鏡が京都住友家の新牧の鏡のうちに存すること第5図の3に載せた拓影に見られる如くである。ちなみに青地氏の夔鳳鏡はこの鏡式ではティビカルの、然も最も整美なもので、その長い主銘は次の如くである。

呉氏作竟自有紀。青竜白虎居左右。神魚仙人赤松子。以□□向法古始。令人長命宜孫子。使姑童利父母。為吏高遷車生口。位至。

 こゝで是等の鏡の外帯を飾る図文が、延熹九年の獣首鏡にも見られることが注記されるべきであらう。
 同様な獣首鏡との連関について更に指摘されるのは、現在朿京国博物館に所蔵する朝鮮楽浪郡古墓出土と伝える3面の古鏡の示す事実である(第5図4・5)これは私人の採掘に係るものながら、来歴や銹色などから同地の話で同時に見出されたとする伝えは、そのまヽ認め誤りないようである。さて3面の鏡のうちの1面は铸造年代の明らかな延熹七年西紀(164年)正月壬午の尚方作の標本的な獣首鏡であって、 その鈕上に鋳出された双竜形が目立ている。尤もこの種の所謂獣鈕は獣首鏡によく見受けること上記の故桑名氏の1鏡例の如くである。ところがこの獣首鏡に対して他の2面は夔鳳鏡であつて、それは第5図に載せたように、外縁の帯こそ違うが、共に同式鏡としてのティピカルなもの、殊に獣節の一曲は整斉な構図で外帯の禽獣渦雲文が優れて居り、また銘帯こそないが、糸巻状図形内の 『君宜高官』主文の鳳形頭上にある『士至三公」の両銘に加えるに、更に外帯に『富貴大吉』の銘まであつて、夔鳳鏡としては優れている。そしてこの鏡での鈕上の双竜形の鋳文は上の延熹七年獣首鏡と全く同巧なことが認められる。すると前者と併せ観て、 標本的な獣首鏡と夔鳳鏡とが同時期に行われたこと、また実時代が後漢の中葉にあることが認められるであらう。

 

   4

 次に昭和に入ってからの夔鳳鏡に関する考古学上の所見を挙げると、先づ朝鮮半島に於ける漢楽浪郡遺跡での夥しい出土鏡の示す事実がある。同地古墳の鏡のうちに本鏡式を見受けることは夙に知られていたが、従来主として学術調査を行うた70基内外のうち、副葬の記念銘ある漆器其他から西暦紀元を中にした前後百年ばかりの間の営造と思われる古墓の副葬鏡は、一部は精白鏡を見るが、内行花文鏡・四神鏡などが主であって、なほ本鏡式は見出されていない。然るに漢末になって、楽浪郡の一部をさいて設けた帯方郡の郡治と認められる黄海道鳳山の唐土城に近い同時代の古墓出土鏡には破片ながら夔鳳鏡があって、これがその外縁の連弧文帯の便化のやヽ目立つものなのてある。
他方日本に於ける夔鳳鏡の発見例を見ると、北九州では前年行われた対馬の学術調査で、上県郡上県町(旧仁用村)大字志多相大将軍山の箱式棺墓での出土例が注意せられるが、同時に畿内を中心に分布する方式古式古墳からの出土例から播磨三ツ塚、同奥山、近江安土瓢筆山古墳などあってその数を加へ、更に遠く離れた下野国那須郡小川町字八幡出土に完好な遺品も見られる。そして是等の鏡は概ね面背ともに手なれており、単独出土の場合をのぞくとすべて今では、鋳造年代が三国を中心とした時期にあることの確かな三角縁神獣鏡と一所に副葬されているのである。

 

第6図 ゴ・オケ出土夔鳳鏡片
第6図 ゴ・オケ出土夔鳳鏡片

 韓国や日本での以上のような綜括的な知見に較べると、より直接的な新知見をなすのは、印度支那のゴ・オケオ遺跡出土品である。大戦後仏蘭西学者が調査を行うた、サイゴンに近い古の扶南国の海港だつたと覚しいこの遺跡の出土品に1面の夔鳳鏡片がある。それは第6図に示したような、またティピカルな鏡式で、その鈕上に梅鉢状の薄肉の図文を鋳出してあって、形状は漢の永康元年(西紀167年)獣首鏡や中平六年(同189年)の四獣鏡に見るものに似ている。ところでセデス博士(GEORGECAEDES)の記述(1) に依ると、同じ遺跡から西紀2世紀中葉のローマ時代の貨幣が出ていると云い、私は数年前の外遊中巴里のギメー博物館で是等の遺品に接することが出来た。かくてこれが考古学上からするこの種鏡の年代を推すきめ手の一つのなることが認められる。
 中国本土では、周知の如く中華人民共和国が成立して以来諸種の建設工事と連関して遺跡の発掘調査が頗る盛んであって、うちに後漢代と認められる古墓の副葬品に、この種鏡を含むことは『文物参考資料』乃至『考古通訊』等に時々報ぜられている。既に触れた昌梨古墓出土の1鏡(第4図)の如き、また安徽省霍邱県張家崗塼築墓発見の鏡などはその1・2の例である。此の後者は糸巻状図形内に『位至三公』の銘の外に、周辺の連弧文帯の四方にも2字宛の銘を配し、主文の双禽も整美なものであり、鈕には竜と覚しい獣形が鋳出されている。

 以上列挙して来たところから、いよいよ夔鳳鏡が後漢に行われた1鏡式であって、その中期に当る西紀2世紀代に鋳造されたものが概ねティピカルで整うていたことが帰納されるのである。

 

 夔鳳鏡鋳造年代を確める上のこのような諸事象と共に、関係遺品の増加につれて、既往に較べてまた鏡式そのものにあっても開明されて来た処がある。例へばこの種の鏡に鉄で造られたものヽ少くない事実の如きがそれである。鉄鏡は、他の鏡式ではなほ例が乏しい。この鉄鏡の中には背文に金銀錯で細部を表はした所謂豊飾背鏡があって、それ等が漢代の鏡として最も優れた技巧を示している。フランコカロ氏所蔵に係る1鏡の如きがそれである。(3)

 

圖版 第一 夔鳳鏡諸例
圖版 第一 夔鳳鏡諸例

 次に図様なり鏡体の工合などで、前2項に挙げた標本的遺品と違うものが相当に見受けられる。中での或者は既に早く故富岡氏の指摘したことであるが、その後更に一部に仏像を表わした遺品が知られなどしてこの鏡式の六朝時代までつヾいて行われたことを示唆したのは既に触れた。まず此の類で、構図は違っていないが、その主文たる所謂夔鳳が孔雀に似た現実の鳥の形に近い絵画的なものヽ少くないことである。図版第二の6の1鏡の如きがそれで一部に仏像を表わしている鏡もこれに近い。ところか此の種鏡はすべて背面の鈕が大きく而も面のソリも目立つている。

 その2は故富岡氏が蒐集品の中から「古鏡図説」に紹介したと相似た鏡で、その鏡体の工合は前者と同じく、然も鈕の扁平で大きなものである。瑞典国王の所蔵せられている2鏡の如きは中での最も署しい例であるが、故ジョセフ・アッカン氏(JOSEPHHACKINS)が1932年の北京でも求めた1鏡(ギメー博物館蔵)の如きも、それに近い鏡体である。是等の鏡の示すところ、ギメーの1鏡は図版第二の3に見るように、主文の夔鳳形に若干の形式化が見られ、糸巻形図も便化しているのが挙げられる。前者の1鏡ではその点が更に目立つているに加へて、外縁に近く配した連弧文の異様化が著しい(図版第二の4)。これは夔鳳形の一層形式化した他の1鏡でも同様である。故富岡氏蒐集の一鏡にあっては、その紋帯は内側に切り目を加えたような外見を呈して、連弧文帯の便化史に顕著である(図版第二の5)。

 さて以上の夔鳳鏡例を前2項に挙げた鋳造年代のほヾ西紀二世紀と認められる諸鏡と較べると、それ等は背文整斉であり、鈕が完好な円形で、時にその上に虺竜形などを鋳出したものであるに対して、この類は鈕が大きく扁平であるのをはじめ、その或者は図文の上で中には仏像を表しなどして時代の六朝に下ることを示すものがあり、他方でも構図や主文の便化が目立つのである。このような彼のティピカルな夔風鏡との間に認められる差異は、蓋し西紀2世紀以後に於ける此の鏡式の時代に依る変遷を示すものに外なからう。現在知られている夔鳳鏡は相当な数に上って、私の観たもののみでも百面に近い。処で、それ等の大半は上記後漢の中葉に当る整つた式であり、うちに鈕の完好な円形のものと、その上に獣形などの鋳出されたものとがある。併し右と違うたものも固より少くなく、中にはまた両者の中間的な遺品も見られる。すると標式的なものからの此の鏡式の変遷がいよいよそのようであったことが認められて来る。
 飜つて紀年鏡の増加したことから確められて来た漢代の中期より六朝に亙る鏡体そのものヽ変遷を顧みると、時に例外はあること乍ら、西紀前後の鏡は平縁で、鈕は完好な半球形に近く面の反りがさほど目立たないものであるのに対して、後漢の中葉以降になると、こヽに問題としているようなものと、外縁が複雑化したものとが並び見られる。それ等がまた面の反りを加えると共に、うちに鈕上に獣形其他の図様を鋳出した例が少くない。そして漢末から三国を中心として一部両晋に及ぶ時代の鏡例では、面の反りが大きく、また鈕が扁平の大形なものが多い。されば夔鳳鏡が後漢の鏡式の一であつて、西紀2世紀の初に既に整形のものが存し、それから2,3世紀に亙って、上に挙げたように鈕形や文様が便化して行つた、即ち鏡式の変遷としては図版第二に示した若干例の如きものであったことになるのである。

 たヾ夔鳳鏡は現在のところでは、後漢以前に遡る遺例は1面も見当らない。元来此の鏡式の依つて来るところに就いては、獣首鏡と並んで図案の構成の上で、戦国以降の鏡式に於ける系統を受けていること既に矢島恭介氏の説いた如くである。ところがその主文の夔鳳なり他の鏡の獣面が共に中国古銅器に於いて最も著しいものであるにもかゝわらず、漢以前の諸鏡にこの種意匠の先行形式がなく、鏡背文の構図の面で進んだこの形で表われている。して見れば一般に鏡背文の構図の進んだ漢の盛時に於いて、新たな意匠として、この古い二つの図形が取り上げられたのであつたであらう。かくて、その時代の工芸技術の進歩と表裏して、平な鏡体であるところから鉄でも作られ、うちに背文として金銀錯文の豊飾例をも見たのであつたろう。彼の漢時代の主な鏡式の一である方格規矩四神鏡が、構図の面で、それに先立つ蟠螭鏡の一部などと連関しながらも、四神十二支と云う漢国家の思想的な背景に依って一つの整つた意匠のものが前漢末に官工の手で意匠され、それが永く行われたことが、此の場合思い併されるのである。

 

   6

 以上専ら基準となる遺例を挙げて具体的に夔鳳鏡そのもの、年代観とその鏡式の変遷を述べた。これはその自体に於いて中国古鏡の沿革観の上で、従来なほのこされていた面が確められたことを意味するものである。ところでその帰結から改めて問題とする須玖出上の1鏡を顧みるとなると、上に挙げた系列の上で、この鏡がその後半に属することが認められるのである。即鏡背文に於いて、構図なり主な夔鳳形などは碓実な2紀代の諸鏡の整美なのに及ばず、また鏡体にあっても、鈕が扁平の大形であるに加へて、面の反りも多い。是等の点は叫にされた上述の本鏡式ではその後半の様相に外ならない。従つて鋳造の実時代は当然後漢の後半、如何に古くとも3世紀の後半を溯り得ないことになるわけである。

 凡そ一つの遺跡、殊に古墳などで実年代の違うた副葬品が並び存した場合、後代の追加が確められなければ、 その遺跡の営まれた年時は最も後のものを遡り得ないこと自明である。それよりも時代の古いものは、何等かの事情で世にあった ― ― 即ち伝世したに相違がない。殊にこヽに対象とする日本の場合にあっては、年代を示す鏡が遠く離れた中国での鋳造に係る舶載品である。それが齎されてこの地での古代民衆の関心を高め、もと個々の人達の姿見としての実用から離れて、それの愛重となつたことが、この国古代のに於いて屢々多数の鏡が副葬され、概ねうちに鉢造時代の違うものが並び存する事実からすると、鏡の伝世が強くも思われることである。これを要するに須玖遺跡の実年代は如何に早くとも2世紀の後半を遡り得ず、 寧ろ3世紀の前半に上限を置く可きことにもなろう。此の場合鏡の手なれている点がまた顧みられるのである。

 戦後、所謂考古学の流行と共に、一般化した観のある須玖遺跡の甕棺の示す所謂『弥生式文化』に於ける須玖期の実時代を、いまから凡そ二千年前であるとすることは、もと此の須玖遺跡とそれに近い三雲遺跡の副葬鏡が前漢の鏡式とする吾々の既往の所論から導かれたものである。併し須玖出土鏡をすべて前漢の鏡式と見たのは事実ではなかった。この一文は云わばそれに就いての自からの補正である。如上の新たな夔鳳鏡に関する所論は7、8年前に到着したもので、その後日本考古学会の総会に於いて講述したことであった。ただ当時にあっては、定説に異を立つるものとして、問題の夔鳳鏡を他よりの混入であろうと疑ひ、更に古代日本での鏡の伝世に就いてさへそれを問題とする人士をさへ見受けたのである。併し終戦後に於ける各地での活発な学術調査の実施に伴うて、日本各地の古墓での副葬鏡に就いても多くの新事実が確められ、それ等が広く東亜考古学の発達と相俟って、北九州に於ける古代の墓制の推移に对しても新たな展開を見るようになつた。更にそして一見固定化した観のある弥生式文化全般就いても、此の新たな須玖遺跡の年代観に依つてそれが止揚されつヽあるのが見られる次第である。
(京都大学)

 


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