『古代に真実を求めて』 第二十三集

 


「海幸・山幸神話」と「隼人」の反乱

正木裕 

一、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』と二つの「隼人はやと

1、はじめに

 南九州の部族とされる「隼人」は、『古事記』や『日本書紀』(『記紀』)の「海幸・山幸神話」では、天皇家の祖「山幸」に臣従を誓った「海幸」の子孫だと「注釈」されている。(*《 》内は『記紀』における注釈)
➀『古事記』其の火の盛りに燒ゆる時に生める子の名は、火照(ほでり)の命《此は隼人の阿多の君の祖》。

➁『書紀』始め起る烟の末に生れ出ずる兒は、火闌降命と號(まう)す。《是れ隼人等が始祖也。》

 そして『記紀』には、これ以降歴代の天皇に臣従し、朝貢・奉献を続けた様が記されている。これは度々朝廷に反乱を起こし、幾度も討伐戦が繰り広げられた「荒々しい北方の蝦夷」と大きく異なるものだ。
 しかし七〇一年の律令制定・大宝建元前後からの歴史を記す『続日本紀』では、一転して常に大和朝廷に反逆し、その都度大規模な討伐をうけた敵対勢力として記されている。

 本稿ではこうした『記紀』の「従順な隼人」と、『続日本紀』の「敵対的な隼人」という、それぞれの史書における扱い方、記述の違い等をとりあげ、次のような事実を明らかにしていく(先行論文を末尾に紹介)。

➀『記紀』で「隼人」と呼ばれているのは、紀元前から南九州(後の薩摩・大隅一帯)を版図としてきた勢力だった。彼らは、紀元前後の「天孫降臨」すなわち「青銅の武器による対馬・壱岐を拠点とする勢力(以下「海人(あま)族」と称する)の北部九州侵攻・支配」と、「九州一円の平定」の中で、支配下に組み込まれた(注1)。そして、海人族の流れを汲む邪馬壹国をはじめとする「歴代の九州の王朝(九州王朝)」に臣従し朝貢・奉献を続けてきた勢力であること。

➁『続日本紀』に記す「隼人」とは、七〇一年の「律令制定」を画期とする、九州王朝から大和朝廷への「王朝交代」後、なお南九州に依拠し、大和朝廷の支配に抵抗した九州王朝の残存勢力であった。また。彼らは、養老四年(七二〇)~同五年(七二一)の、元正天皇が派遣した大伴旅人らによる「隼人討伐」によって滅亡したこと。

③大和朝廷は、王朝交代以前の支配者である九州王朝と、その被支配者だった隼人を「同一の存在」であると擬制することにより、「九州王朝は歴史の初元より天皇家に臣従する存在だったが、主(あるじ)に反乱を起こしたので討伐された」という歴史を創造し、自らの統治を正当化したこと。

 等だ。なお「海幸・山幸神話」と「隼人」の関係は二以下で述べることとする。

 

2、「多元史観」と「王朝交代」

 まず最初に「王朝交代」について述べる。
「我が国はその始まりからヤマトの天皇家が統治してきた」とする「一元史観」では「王朝交代」はありえない。これに対し、「大和朝廷成立以前の我が国には様々な王権・王朝が存在した」とする「多元史観」では、大和朝廷への「王朝交代」が必然となる。

 以下、「多元史観」をより詳しく紹介していこう。
➀大和朝廷以前の我が国の代表者「九州王朝」
古代日本には九州を始め東北・関東・出雲などに様々な「王権・王朝」が存在し、中でも歴代中国の王朝から我が国の代表者と認められてきたのは、九州を拠点とする倭国(九州王朝)だった。そして、光武帝から金印を下賜された倭奴(ゐど)国王、邪馬壹国の俾弥呼・壹予、南朝に臣従した「倭の五王」、隋に国書を送った阿毎多利思北孤はいずれも倭国(九州王朝)の大王・天子だった。

➁九州王朝から大和朝廷への「王朝交代」
九州王朝は六六三年の対唐・新羅戦(いわゆる白村江の戦い)で大敗北し、その後の筑紫大地震等で徐々に衰退し、ヤマトの天武が実力№1となる。そして、持統・文武時代に、ついにヤマトの天皇家に我が国の代表の座を明け渡すことになる。天皇家は七〇一年に律令を制定し大宝年号を建元し統治権を確立して「大和朝廷」が成立する。このようにして、九州王朝から大和朝廷への「王朝交代」がおこなわれた。

 つまり、我が国には大和朝廷以前に王朝が存在し、七〇一年を画期として「王朝交代」があったと考えるのが「多元史観」だ。

3、『旧唐書』にみえる「王朝交代」

 この「王朝交代」を証明するのが、同時代の唐の歴史を記す『旧唐書』に見える「倭国と日本国」の記述だ。
 『旧唐書』には「倭国伝」と「日本国伝」が別に建てられ、「倭国伝」には「倭国は、(*光武帝から志賀島の金印を下賜された)古の倭奴国(ゐどこく)であり、魏(*俾弥呼時代)より齊・梁(*倭の五王の時代)に至り代々中国に相通じた国」だと記す。また「王の姓は阿毎(あま)氏」とされ、『隋書』に「王の姓は阿毎氏で、国には阿蘇山があり、草木は冬も青く、水が多く陸は少い」とあるのと一致する。これは奈良・大和にはあたらず、唐や歴代中国の王朝から我が国の代表者の「倭国」と認識されていたのは、九州を本拠とし、少なくとも数百年にわたり存在してきた王朝(九州王朝)であることを示している。
 一方、「日本国伝」には「日本国は、倭国の別種なり」「或いは云う。日本は元小国。倭国の地を併せたり」と記される。その「日本国」からは「長安三年(七〇三)、其の大臣朝臣真人(*粟田真人)来りて方物を貢ぐ」とあり、これは疑い無く大和朝廷を指す。しかも真人は武則天(*則天武后)から司膳卿(しぜんけい)の官を授けられていることから、倭国(九州王朝)にかわって日本国(大和朝廷)が我が国の支配者として承認されたことになる。つまり『旧唐書』は我が国に「王朝交代」がおこったと記しているのだ。

4、「王朝交代」時に強く抵抗した「隼人」

 そして、この「王朝交代」前後に、倭国(九州王朝)の拠点(倭国の地)の九州の南部において、大和朝廷に対し激しく抵抗したのが「隼人」だ。その隼人の抵抗は律令制定の前年の七〇〇年に始まる。
◆『続日本紀』文武天皇
➀文武四年(七〇〇)六月庚辰(三日)に、薩末比売(さつまひめ)・久売(くめ)・波豆(はづ)、衣(え)の評督(ひょうとく)衣君県、助督衣の君弖自美(てじみ)、肝衝(きもつき)の難波、肥人(くまびと)等に従ひ、兵(つはもの)を持して覓国(くにまぎ)の使刑部真木等を剽劫(おびやか)す。是に於て竺志(ちくし)惣領に勅して犯に准(なずら)へて決罰せしむ(注2)。

 「覓国使」とは律令の施行のために大和朝廷が各地に派遣した役人・使節だ。覓国使は戎器(じゅうき)(武器)を所持しており、薩末比売らも「兵(武器)」を所持していたから、武力衝突があったことが伺える。大和朝廷はこの抵抗を「竺志惣領に決罰(刑罰を決める)」させ抑え込んで、翌年律令を制定し、大宝を建元(注3)する。

➁大宝元年(七〇一)正月乙亥の朔。天皇、大極殿に御して朝を受く。其の儀、正門に烏形の幢(はた)、左に日像・青竜・朱雀の幡、右に月像・玄武・白虎の幡をたつ。蕃夷の使者、左右に陳列す。文物の儀、是に備れり。 丁酉(二三日)粟田朝臣真人を遣唐執節使とす。三月甲午(二一日)対馬嶋金を貢(みつ)く。建元して大宝元年とす。始めて新令に依り官名・位号を改制す。
 
 しかし、なお南九州の勢力の抵抗が続き、大宝二年(七〇二)には「征討軍」が派遣され、律令による支配を武力を以て強行することになる。ここで初めて南九州の勢力が「隼人」と呼ばれている。

③大宝二年(七〇二)三月甲午(二七日)信濃国、梓弓一千廿張を献る。以て大宰府に充つ。丁酉(三〇日)大宰府に所部の国・郡司等とを銓擬することを聴(ゆる)す。八月丙申の朔、薩摩・多褹(たね)、化(おもぶけ)を隔て、命(おほせ)に逆ふ。ここに、兵を発し征討し、遂に戸を校(しら)べ、吏を置く。辛亥(一六日)正三位石上麻呂を太宰の帥とす。
          九月戊寅(一四日)、薩摩の隼人を討ちし軍士に、勲を授く。十月丁酉(三日)、先に薩摩の隼人を征する時、大宰の所部の神九処を祷み祈り、神威に頼りて荒ぶる賊を平げき。唱更(しょうこう)(*辺境の戍を守る国司)の国司等言さく、「国内の要害の地に柵を建てて、戍(まもり)を置きて守らむ」とまうす。許す。戊申(一四日)、律令を天下の諸国に頒(わか)ち下す。

 律令制定前の七〇〇年の反乱では「竺志惣領」を通じての「間接的な懲罰」だったのが、制定後は「武力行使による直接の懲罰」となっている。また、七〇〇年記事に無い「化・命」の語が使われているが、「化」とは「王化(おうか)=君主の徳」、「命」とは「君主の命令」を意味する。
 これは七〇一年の律令制定・大宝建元によって初めてヤマトの天皇家(大和朝廷)が君主となり、南九州の抵抗勢力を蛮夷の「隼人」と呼び、名分上も、命令を出し、反すれば懲罰を与えることが出来る立場になったことを示すものだろう。

 

5、『続日本紀』の「隼人」は倭国(九州王朝)の抵抗勢力

 こうした経緯は、時期的にも内容的にも、『旧唐書』に記す「日本国(大和朝廷)」による「倭国(九州王朝)」の併合と一致する。また、地域的にみても、「隼人」は「大和朝廷成立後も南九州に依拠して抵抗を続けた倭国(九州王朝)の残存・抵抗勢力」だと考えられる。
 この隼人の「反乱」はその後も続き、和銅六年(七一三)に大隅国の設置と、「隼人を征つ将軍」らへの恩賞記事が見える。

◆『続日本紀』和銅六年(七一三)四月乙未(三日)日向国の肝坏、贈於、大隅、姶羅(あひら)の四郡を割きて、始めて大隅の国を置く。大倭国疫す。薬を給ひて救はしむ。秋七月丙寅(五日)、詔して曰はく、「・・今、隼の賊を討つ将軍、并せて士卒等、戦陣に功有る者一千二百八十余人に、並びに労に随ひて勲を授くべし」とのたまふ。

 『続日本紀』に「征隼人将軍」の派遣記事は見えないが、この前年の和銅五年(七一二)「北道蝦狄(蝦夷)」について「官軍雷のごとく撃ちしより、凶賊霧のごとく消ゆ」とあり、「出羽の国」が置かれているから、このころ南の隼人にも「征隼人の官軍」が派遣されたことになろう。そして七一二年には「最後の九州年号」と考えられる「大長」(注4)が終わり、以後九州年号は消滅する。
 そして同じく『続日本紀』には見えないが、和銅五年(七一二)に『古事記』が元明天皇に献上されている。『古事記』はこうした南北の「朝敵平定」を受けて編纂されたことになる。
 しかし、「隼人」の抵抗はまだ収まらない。養老四年(七二〇)二月には四度目の反乱をおこし、大隅国守陽侯(やこ)史麻呂を殺した。そこで、三月に大伴旅人が征隼人大将軍に任ぜられ、六月に「兇徒(隼人)を剪り掃い、酋帥(首領)を捕縛(『続日本紀』)」する。そして、養老五年(七二一)七月には副将軍の笠御室・巨勢真人等が帰還し、対隼人戦で「斬りし首・獲し虜(とりこ)合せて千四百余人」という成果を挙げたと報告している。

◆養老四年(七二〇)二月壬子(二九日)に、大宰府奏して言はく、隼人反き、大隅国守陽侯(かや)史麻呂を殺す。三月丙辰(四日)。中納言正四位下大伴宿禰旅人を以て征隼人持節大将軍とし、授刀助(たちはきすけ)従五位下笠朝臣御室・民部少輔従五位下巨勢朝臣真人を副将軍とす。
六月戊戌(十七日)に詔して曰はく、「蛮夷害をなすこと、古より有り。(略)今西隅の賊、乱を怙(たの)み化に逆らひて。屡(しばしば)良民を害(そこ)なふ。因りて持節将軍正四位下中納言兼中務卿大伴宿禰旅人を遣して、其の罪を誅罰(つみな)ひ、彼の巣居を尽(つき)さしむ。兵を治め衆を率て兇徒を剪り掃ひ、酋帥(しょうすい)面縛せられて、命を下吏に請(こ)ふ。寇党叩頭(かうたうこうとう)して、争ひて敦風に靡く。然るに将軍原野に暴露(さら)されて、久しく旬月を延ぶ。時、盛熱に属(つ)く。豈艱苦無けむや。使をして慰問せしむ。宜く忠勤を念(おも)ふべし」とのたまふ。

◆養老五年(七二一)七月壬子(七日)に、征隼人副将軍従五位下笠朝臣御室、従五位下巨勢朝臣真人等ら還帰(かへ)る。斬りし首・獲し虜(とりこ)合せて千四百余人。

 また九月には蝦夷も反乱を起こし、上毛野広人が殺されている。

◆養老四年(七二〇)九月丁丑(二八日)に陸奥国奏して言さく、「蝦夷反き乱れて、按察使(あんせつし)(*地方官を監督するため地方に在住した高官)正五位下上毛野朝臣広人を殺せり」とまうす。

6、大和朝廷の「難局」と『記紀』の編纂

 こうした「蛮夷」の反乱のみならず、庶民においても律令に従わない者が多数に上ったことが、次の詔勅に現れている。

➀『続日本紀』養老四年(七二〇)三月「条章(律令のこと)に閑(なら)はずして徭役を規避し多く逃亡すること有り。」
        同五月「逃走(にげ)る衛士・仕丁に替(かえ)を差(いた)せ。」

➁同養老五年(七二一)二月「歳申に在る年には、常に事故有り。去る庚申の年(養老四年)、咎(とが)の徴(しるし)屡(しばしば)見(あらは)れ、水旱(水害のこと)並びに臻(いた)り平民流没し、秋稼登(みの)らず、国家騒然として万姓苦労せり。」

 養老四年(七二〇)に水害や干ばつが起きた記事はなく、「事故」にあたるのは隼人・蝦夷の反乱のみで、「国家騒然」の原因は南北各地における、大和朝廷の律令による統治への抵抗にあったことになろう。
 そして七二〇年こそ『日本書紀』が元正天皇に上梓された年にあたる(注5)。こうした政治状況を鑑みれば、『記紀』の編纂が、難局を迎えていた成立直後の大和朝廷の「支配の正当性」を主張し、喧伝することを目的としていたのは疑えない。
 そこで、大和朝廷は『記紀』編纂にあたり、七〇〇年以前の主権者だった倭国(九州王朝)の残存勢力の反乱を、「化・命」に従わない「南九州の蛮夷の隼人の反乱」と見えるような工夫をこらした、その工夫が『記紀』の「海幸・山幸神話」への「海幸は隼人の祖・山幸は天皇家の祖」という「注釈」だった。この「注釈」によって「隼人(九州王朝)は遥か古代、天孫降臨した邇邇藝(ににぎ)の命の時代からヤマトの天皇家へ臣従してきた」という「歴史」を「創造」することが出来たのだと考えられる。
 つまり、大和朝廷は、『記紀』の「海幸・山幸神話」で、「山幸をヤマトの天皇家の祖」、屈服した「海幸を隼人(九州王朝)の祖」だとし、「隼人(九州王朝)は、天孫降臨以来天皇家への服従を誓約してきた。それにもかかわらず反逆したので討伐されたのだ」と隼人(九州王朝)を討伐した行為を正当化し、それを『記紀』という「正史」によって公定し宣言したのだ。以下『記紀』の海幸・山幸神話を分析し、その「造作」の手法を見ていこう。

 

二、『記紀』の「海幸・山幸神話」と「隼人」

1、『記紀』にみえる隼人

 先述のとおり、『記紀』の「海幸・山幸神話」で「隼人の祖」は、「天孫降臨」した瓊瓊杵命の子火闌降命(ほのすそりのみこと)だと「注釈」され、北方の蝦夷に対し、南方の南九州の大隅・薩摩などを拠点とする「蛮夷」として描かれている。なお、『記紀』での海幸彦・山幸彦の呼称はほぼ次のとおりだが、以下基本的に『書紀』の呼称を用いる。
➀山幸彦 - 火遠理命(古事記)・彦火火出見尊(書紀)
➁海幸彦 - 火照命(古事記)・火闌降命(書紀)

 隼人は、この「始祖譚」を除けば、
➀『古事記』では「履中記」の墨江中王の反逆の条に見えるのみ。
➁『書紀』では履中即位前紀に『古事記』と同様の内容が記されているが、その他は、淸寧元年の雄略天皇の葬儀で「隼人晝夜陵の側に哀号(おら)ぶ。食を与へども喫(くらは)ず、七日にして死ぬ。有司、造墓を陵の北に造り礼を以て葬す」とあるような、天皇家への臣従を表す朝貢・奉献・慶弔だけが、淸寧元年・四年・欽明元年・敏達一四年・斉明元年・天武一一年・朱鳥元年・持統元年・三年・九年に亘って記されている。
◆「履中紀」の隼人関連記事の概要
大鷦鷯(仁徳)(記では大雀命)の次男住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)(記では墨江中王)の近習隼人の刺領巾(さしひれ)(記では曾婆加理(そばかり))が、長男去來穗別(いざほわけ)(履中)(記では伊邪本和氣)の命を受けた三男瑞齒別(みづはわけ)(反正)(記では水歯別)に欺かれ、「主(あるじ)」の仲皇子を殺し、自らも誅された。

2、「隼人服属」のルーツは「海幸・山幸神話」

 こうした「隼人の天皇家への臣従」のルーツとなるのが、『古事記』上卷-七、『日本書紀』神代下第十段に記されている、「海幸・山幸(注6)神話」だ。『古事記』と『書紀』では多少異なるが、大要は次の通りだ。

◆兄の海幸(火闌降命)は海の漁、弟の山幸(彦火火出見尊)は山の猟を司る神。 あるとき兄弟は漁猟場を入れ替え、道具も交換し漁猟に出かけたが、山幸は海幸の大切な釣針(釣鉤)を失った。別の釣針を多数作り償ったが、兄は元の釣り針でないとして許さない。山幸は窮するが、塩土翁に助けられ、海神の宮へ行き、 海神の娘豊玉姫(記では豊玉毘売)と結ばれ、無事に釣針を探し出す。
 海神は山幸に「兄に釣り針を返すとき、まず「貧鉤(ひじち)」と唱えよ」といい、また塩満玉・塩乾玉を授け「塩満玉で兄を溺れさせよ。兄が悔い改めれば塩乾玉で助けよ」と言って、鰐の背に乗せて送り返した。山幸は教えられたとおりにして、兄海幸を屈服させ、海幸は子孫代々昼夜を分かたず弟山幸を守護することを約束した。海幸の子孫の隼人が「吠ゆる狗(いぬ)」となり、また溺れた折の所作を演じる「俳優(わざおき)(俳人(わざひと)とも)の技」をもって天皇に奉仕するのはこれによる。

 というものだ。同じ「天孫」でも山幸(彦火火出見尊)はヤマトの天皇家の祖となり、海幸(火闌降命)は隼人の祖となったと「注釈」があるところから、この「海幸・山幸神話」は、天孫降臨以来「隼人は天皇家に服従してきた」ことを証する説話となっている。そして『延喜式』(隼人司条。後掲)では、大和朝廷の儀礼における隼人の「吠声(はいせい)」と「独特の舞踊(隼人舞)」を記しており、これが隼人の「奉仕の様(かたち)」の「俳優の技・吠ゆる狗」とされている。

 

三、「俳優(わざおき)の技・吠ゆる狗」とは何か

1、『書紀』に記す「俳優の技・吠ゆる狗」

 まず「吠ゆる狗」についてだが、海幸は「水難」に苦しんだあげく、山幸に代々「吠ゆる狗」となり奉仕することを誓う。ただし、この「吠ゆる狗」譚は『古事記』には無い。

◆『書紀』神代紀下第十段(一書第二)
兄(海幸)既に窮途(せま)りて、逃げ去る所無し。乃ち伏罪(したが)ひて曰さく、「吾れ已に過てり。今より以往(ゆくさき)は、吾が子孫の八十連続(つづき)に、恒に汝の俳人(わざひと)と為らむ。《一に云はく、狗人(いぬひと)といふ。》請ふ哀しびたまへ」とまうす。弟(山幸)還りて涸瓊(しおひのたま)を出したまへば、潮自らに息(ひ)ぬ。是に、兄、弟の神(あや)しき德有(いま)すことを知りて、遂に其の弟に伏事(したが)ふ。
是を以て、火酢芹命の苗裔(のち)、諸の隼人等、今に至るまでに天皇の宮墻(みかき)のもとを離れずして、代(よよ)に吠(ほ)ゆる狗して奉事(つかへまつる)なり。世人失せたる針を債(はた)らざるは、此れ其の縁(ことのもと)なり。

 神話時代の出来事として書かれているが、南九州の隼人が紀元前からヤマトの天皇家に服していたはずは無い。従って、「天皇のもとを離れず代々吠ゆる狗して奉仕する」話は、本来の「海幸・山幸神話」に、『書紀』編者が「隼人の天皇への奉仕の始原譚」として付加・潤色したものと考えられよう。

2、「吠ゆる狗して奉事する」とは

ところで、この隼人の奉事の様である、「吠ゆる狗して奉事する」とはどのようなことを指すのだろうか。
『書紀』に言う「今」、即ち『書紀』編纂時に近い資料である『延喜式』には、隼人が蕃客の入朝・元日・即位等の儀、行幸等に際して「吠声(はいせい)」を発する役目を果たしたと記され、これが「吠ゆる狗」としての奉仕の様だと考えられている。

◆『延喜式』(隼人司条)「元日即位及び蕃客の入朝等の儀(略)應天門外の左右(略)今来の隼人吠声を三節発す。」「凡そ遠き駕に従ひ行くは、官人二人、史生二人、率大衣二人、番上隼人四人、及び今来の隼人十人供奉す。(略)其の駕、国界及び山川・道路の曲を経るに、今来の隼人吠を為す。」「凡そ今来の隼人、大衣をして吠ゆることを習はしむ。 左は本声を発し、右は末声を発し、惣て大声十遍、小声一遍、訖一人更に細声を二遍発す。」

 このように隼人は、大和朝廷の儀礼や行幸に際し、定められた様式に基づく「吠声・吠ゆること」が義務付けされていた。
隼人の吠声と天皇家への臣従の関係については、
「征服されたハヤトの一部は、捕虜として内地に集団的に分散定住させられ、天皇に仕える賤民とされ、事実、狗の吠える真似をする儀式を慣行として強制されていたし、エミシの一部も同様に内地に分散配置され、佐伯部として奴隷に近い地位におかれた」(石母田正・『日本古代国家論』第一部)等とされている。

 これは、山幸・海幸神話の趣旨から、
➀狗の吠える真似(吠声)は、本来海幸の子孫たる隼人の習俗であった。➁大和朝廷は、八世紀初頭の隼人征服以降、天皇に奉仕する『賤民』の儀礼「吠声」として強制させた、という意味だろう。
 ただし「吠声(はいせい)」は『延喜式』に見るように、
➀発声の様式や回数が定められた厳格な儀礼で、
➁大和朝廷にとり賓客の歓迎式典という重要な「晴れ」の儀典の一部を構成していた。

 これは、「吠声」は、隼人の天皇家への「服従の証」であるかもしれないが、決して「狗の吠える真似」という語から連想される「賤しむべき所作」ではなく、かえって「尊ばれるべき儀礼」だったことを示すものだ。

3、吠声は警蹕(けいひつ)

 ところで、日本の神事・祭事には、『延喜式』に記す「吠声」に類する所作がある。それは「警蹕」だ。
◆「警蹕(けいひつ)」先払の声。〈けいひち〉ともいう。天皇が公式の席で、着座、起座の際、行幸時に殿舎等へ出入りする際、天皇に食膳を供える際等に、周りを戒め、先払をする為側近者の発する声をいう。古代中国皇帝が外出時に、道行く人を止め、また道を清めさせた風習が日本に移入されたものという。神事では御扉の開閉時や降神・昇神の際などに神職が発する「オー」という声をいう。(『世界大百科事典』ほか)
 このように「吠声は警蹕と全く類似する所作」であり、しかも『書紀』や『延喜式』に記す「吠声」同様、天皇の行事・神事の際におこなわれる。そして、こうした「発声儀礼」は警蹕以外には無い。従って「吠声」とは現代に伝わる「警蹕」を指すものだと考えられる。

4、吠声は本来隼人の九州王朝に関する神聖な儀礼

 また、警蹕を発する「皇帝の側近」や「神官」は「高官」で、決して「奴隷に近い身分」ではない。そして、神官の警蹕は神に仕える所作であり、神話時代に起源をもつ可能性が大だ。つまり吠声は、古来「隼人の神に仕える儀式・儀礼だった」と考えられる。
 そして九州王朝が九州一円を平定し、隼人をその支配下に置いて以降「吠声」は支配者たる九州王朝に仕える儀礼に組み入れられたのではないか。『倭人伝』には邪馬壹国の女王に属する国として、明らかに南九州と思われる投馬国の記述があるから、隼人が「南九州の部族」であれば、九州王朝の天子に仕えてきたことになるからだ。そして、「降神・昇神」に付随する儀礼なら「鬼道に仕える女王俾弥呼」の儀礼・神事に相応しい。
 即ち「吠声」は、隼人の神に仕える神事であったものが、「海人(あま)族(九州王朝)」の支配下に置かれて以降は、「九州王朝の天子や九州王朝の敬う神への奉仕の状」となり、さらに九州王朝滅亡後には大和朝廷への儀礼に取り込まれ、「天皇への奉仕の状」に置き換えられたことになる。
 しかも『続日本紀』に記すように、
➀八世紀初頭の大和朝廷は、九州王朝の残存勢力を「隼人」と呼び、
➁『書紀』の「海幸・山幸神話」において、天皇家の祖「山幸」に臣従を誓った「海幸」に「隼人の祖」と注釈し、
③『古事記』には無い「吠声譚」を挿入した。
 これにより、
◆「隼人(九州王朝)は我が国の始原以来天皇家に仕えてきた。その証が今の隼人の吠声だ」としたのだ。

5、俳優(わざおき)の伎(わざ)の正体

 また、『書紀』で火酢芹命(海幸)は、弟の彦火火出見(山幸)の「俳優」となって、顔に赤土を塗り奇妙な伎(舞踊)を披露したとされ、これが「隼人舞」の起源であるとされる。「隼人舞」については『延喜式』に、弾琴(みことひき)(二人)、吹笛(一人)、撃百子(四人)、柏手(てうち)(二人)、歌(二人)、舞(二人)で構成され、大嘗会(祭)に奏されたとある。

◆『書紀』神代紀下第十段(一書第四)
「汝(山幸)は、久しく海原に居しき。必ず善き術(ばけ)有らむ。願はくは救いたまえ。若(も)し我を活けたまへらば、吾が生(うみ)の兒の八十連属(やそつづき)に、汝(いましみこと)の垣邊(みかきもと)を離れずして、俳優(わざおき)の民たらむ」とまうす。
是に、弟嘯(うそぶ)くこと已に停(や)みて、風亦(また)還息(ふきとどま)りぬ。故(かれ)、兄弟の徳(いきほひ)を知りて、自ら伏辜(したが)ひなむとす。而(しかる)を弟、慍色(おもほてり)(*むっとした顔つき)して与共(あひ)言はず。
是に、兄、著犢鼻(たふさき)(*ふんどし)して、赭(そほに)(*赤土)を以て掌に塗り、面に塗りて、其の弟に告(まう)して曰さく、「吾、身を汚すこと此の如し。永(ひたぶる)に汝の俳優たらむ」とまうす。乃ち足を挙げて踏行(ふ)みて、其の溺苦(くるしび)し狀を学ぶ。初め潮、足に漬く時には、足占(あうら)(*岩波古典文学大系では「爪先立ちか」という)をす。膝に至る時には足を挙ぐ。股に至る時には走り廻る。腰に至る時には腰を捫(もち)ふ。腋に至る時には手を胸に置く。頸に至る時には手を挙げて飄掌(たひろか)す(*手をひらひらさせる)。爾(それ)より今に及(いた)るまでに、曾て廃絶(やむこと)無し。

 この兄海幸の奇妙な所作は「溺れ苦しむさま」と記されており、潮満・潮涸玉を駆使する弟山幸への「服従の証」として代々演じられる伎とされている。
 しかし、「極めて目出度い儀式」である大嘗会等で、「潮にもだえ苦しむ様」である隼人舞が舞われるのは不自然極る。そうではなく、隼人舞は隼人が自ら伝える神聖な舞であり、「吠声」同様隼人が大和朝廷に服属させられて後に、大和朝廷に奉仕する証として儀典において演じられたもので、「賤しい舞」ではなく「神聖な舞」だから「目出度い儀式」で演じられたと解釈するのが合理的だ。

6、「溺れるさま」という「隼人舞」は、実は「三番叟さんばそう」だった

 そして、「溺れるさま」を表わすという「隼人舞」の所作とそっくりな舞が今日も残されている。それは能楽で天下泰平・国土安穏・子孫繁栄・五穀豊穣を願う神聖な演目「翁(おきな)」の中の舞だ。
 能楽「翁」は、能楽でも「別格」とされる演目・祝言曲で、その起源は古代の神事に遡るとされる。翁・千歳・三番叟の三人の歌舞で構成され、正月初会や祝賀能などに演じられるが、その三番叟の舞には、爪先立ち・足上げ・走り廻る・腰を使う・手を胸に置く・手を広げて上に挙げるなどの動作が盛り込まれている。しかも、その登場に際しては「オー」という警蹕(吠声)が発せられる。「隼人舞」は平安以降途絶えて復元は不可能だが、『記紀』の記述と対比するとき、三番叟の舞に形を残している可能性が高いと考えられる。

7、火酢芹命(海幸)の舞(隼人舞)の起源は「稲作の神事」

 そうした視点で三番叟を見れば思い当たる所作がある。それは稲作。特に「田植え」の儀式・神事だ。三番叟は五穀豊穣祈願の舞とされ、「足を挙げて踏む」のは「地固め」、「爪先立ち・足上げ」は水田(泥田)を足を抜きながら一歩ずつ巡るしぐさを示し、その他苗を抱えるしぐさ、稲を担ぐしぐさ、苗を植えていくしぐさ、足についた泥を飛び上がって落とすしぐさが盛り込まれている。
 「隼人舞」の所作が三番叟と共通しているとすれば、その起源は「溺れるさま」などではなく、天下泰平・国土安穏・子孫繁栄・五穀豊穣に相応しいものであったことになる(注7)。
 そもそも延喜式で隼人舞が奏せられる「大嘗祭(だいじょうさい)」は、新天皇が即位の後に新穀を神々に供え、自身もそれを食するという「農耕祭祀」で、原形は弥生時代に遡る。七〇一年の王朝交代以前にも記録があるから、九州王朝でこうした「稲作の神事」がおこなわれていたことは確実だ。そして、「所作の一致」からも、「隼人舞」は三番叟のような五穀豊穣を祈る舞だったと考えられよう。
 そして、「顔に赤土を塗る」というのは、『倭人伝』に記す、紀元前に遡る北部九州の倭人の「鯨面」(*入れ墨の類。顔に色を塗ること。「文身」も同じ)の風俗とも一致することになる。

◆『魏志倭人伝』夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、もって蛟竜の害を避く。(*「夏后少康」は中国夏王朝の第六代帝)

8、征服民の儀礼・神事を取り込んだ九州王朝

 「天孫降臨」が、縄文水田の広がる「瑞穂の国」北部九州への侵攻であれば、最初に「海人(あま)族」が支配下に置いたのは「農耕民」となる。これは須佐之男命が「田の畔を離ち、溝を埋める」という狼藉をはたらき追放されたことにも表れている。そうであれば「隼人舞」の起源は、南九州の隼人の神事ではなく、九州王朝が最初に支配した、弥生時代の北部九州の農耕民の神事にまで遡ることになる。
 天孫降臨以降、九州王朝は新たに支配した北部九州の「稲作民の神事の舞」や、九州一円の平定により支配した「南九州の隼人の神事である吠声」を、九州王朝へ奉仕する神事として取り込み、「九州王朝の儀礼」とした。
 これと同様に、大和朝廷は「九州王朝」を「併合」したのち、南九州の九州王朝の抵抗勢力を「隼人」と呼び、そうした九州王朝の儀礼を取り込んだうえで、儀典等において、大和朝廷への服従を示す「隼人の吠声・隼人舞」として演じることを強制した。
 これが『記紀』の「海幸・山幸神話」に記す「俳優(わざおき)の技・吠ゆる狗」の真実だったのではないか。

9、逆転する海幸・山幸の役割

 ところで、この神話で兄海幸は弟山幸に「久しく海原に居しき。必ず善き術(ばけ)(*潮を引かせる術)有らむ」と救いを乞うが、釣り針で漁を行うことを業としていた「海幸」こそが「久しく海原に居し」ていたはずだ。従って本来は、潮の干満・潮流を差配する能力(善き術)を持つ「海幸」が、弓矢を以て狩を常の業とし、潮に不慣れな「山幸」を苦しめ、服従させるというのが道理だ。つまり「海幸・山幸の役割分担が逆転」していることになる。この「逆転の経過」は次のようだと考えられる。
➀「隼人舞」は本来天孫降臨時、「海の民」である海人(あま)族(*海幸にあたる)に服従した「陸の民」、すなわち「瑞穂の国」の民(*山幸にあたる)の神事に起源を持つものだった。従って、この「海幸・山幸神話」は、成立時点では、「海人(あま)族」による「陸(山)の民」の征服譚を反映するものであり、「海幸が山幸を臣従させる」という順当な話だったと考えられる。
➁しかし、紀元前後になると、「新領土」たる九州(山)側の生産力が、対馬・壱岐など海人族の本拠を上回り、いわば「分家(弟)」の九州側が、「本家(兄)」の海峡勢力を支配するようになった(紀元五七年には「委奴国」が倭人を代表して光武帝から金印を授与された)。そして、本拠の「海(天国(あまくに))の倭人」と区別して、自らを「山(山国(やまくに))(九州)の倭人」と称した。このことは「邪馬壹国(やまゐこく)」の国名や、筑紫は、北の博多湾岸と西の有明海沿岸の「山門」、東の「国東(くにさき)・山国(山国川)」地名に囲まれていることからもわかる。そうした「勢力の逆転」を反映して、神話も「山幸が海幸を臣従させる」ように逆転された。 これが、最も単純な「逆転の構図」だろう(注8)。

 この「山幸が海幸を臣従させる」神話は、『隋書』の俀王「阿毎多利思北孤」のように、「アマ(アメ)=海人(あま)氏を名乗っていた九州王朝」を併合した大和朝廷にとって好都合であり、自らの祖を「彦火火出見尊(山幸)」と位置づけ、『記紀』において大部を割いて詳細に叙述したのだと考えられる。

四、「海幸・山幸神話」の意図は九州王朝討伐と大和朝廷支配の正当化

 このように考える時、
➀『記紀』に記す「隼人」は、九州王朝が天孫降臨後に支配下に置いた九州の在地勢力(北部九州の農耕部族や南九州の部族)を指すことになる。
 そして「隼人舞」や「吠声」は、九州を順次平定していく中で取り込んでいった部族の神事を、九州王朝の神事に取り込んだものだと考えられる。

➁一方、『続日本紀』や『延喜式』(隼人司条)にいう「隼人」とは、八世紀初頭に大和朝廷が討伐した九州王朝の残存勢力を指すもので、大和朝廷はこの「旧王朝」を「天孫降臨以来天皇家に服従を誓っていたのに反乱を起こし討伐された蛮夷の隼人」だと潤色した。
 『書紀』神代下第十段のほぼ全てが「海幸・山幸神話」に割かれているのは、九州王朝を「隼人」と呼んで前王朝であることを隠し、天皇家に累代仕えてきた存在だとするためだった。そして、その証拠として「隼人の大和朝廷に奉仕する状の吠声や隼人舞」が、「海幸の山幸に奉仕する状の吠ゆる狗や俳優の伎」にあたると記したのだ。
 また、天皇家への朝貢・奉献で占められる『記紀』の隼人の事績のなか、唯一、履中紀(記)で隼人の刺領巾(さしひれ)(記では曾婆加理(そばかり))が謀反をおこし、「主(あるじ)」たる仲皇子(記では墨江中王)を殺し、自らも誅殺される話が挿入されている。
 これは、『書紀』編者が、九州王朝(隼人)討伐を正当化するため、隼人には主(あるじ)に謀反し、滅ぼされた「前科」があることを強調し、「現在の天皇家に対する反乱も、同じ謀反の繰り返しであり、前回同様討伐されて当然だ」と主張するものだった。
 『記紀』の従順な隼人と『続日本紀』の反逆者としての隼人を比較検討するとき、『旧唐書』にいう倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代の事実を隠し、併せて九州王朝の「併合(討伐)」を正当化するという大和朝廷の史書編纂の目的が明らかになると考える。

(注1)
➀「天孫降臨」について。
「記紀神話」では、天照大神の命を受けた邇邇芸の命が「天(高天原)」から「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)(記)」に降臨することをいう。「筑紫の日向」とは一般に「筑紫」は九州全体、「日向」は宮崎を指すとされるが、宮崎は降臨時の邇邇芸命の詞「此の地は、韓国に向ひ真来通り」とあわず、天孫の象徴である「三種の神器(剣・鏡・玉)」の、紀元前(神話時代)に遡る出土も乏しい。この点、博多湾岸の高祖山地周辺の怡土平野や吉武地区には「日向山・日向川・日向峠」や「くしふるやま」地名もあり、我が国で最も早く「三種の神器」がセットで出土する。従って文献的・地理的・考古学的にも「天孫降臨の地」は「博多湾岸、福岡なる筑紫の日向」が相応しい。

➁「隼人と熊襲の関係」について。
「熊襲」は九州一円平定以前の景行・仲哀・神功の各紀にのみ見える。ここから、九州王朝により平定され臣従する以前は「熊襲」と呼ばれ、臣従後は「隼人」と呼ばれたと考える。

(注2)「衣」とは旧薩摩の国頴娃郡(えいぐん)(現指宿市開聞各町、南九州市頴娃町各町)のこと。「評督」は七〇〇年以前の地方の統治機構「評」の長官。藤原宮木簡等から七〇〇年以前は「評制」であったことがわかっているが、『書紀』では全て「郡」に変えられている。そこから古田武彦氏は「評制は九州王朝の制度」だとされた。反乱を起こしたのが「評督」たちだと記されていることは、彼らが九州王朝の勢力だったことを示している。

(注3)ある王朝が初めて年号(元号)を建てることを「建元」という。

(注4)「九州年号」は七〇一年の「大宝」以前に存在した年号で、五一七年の「継体」または五二二年の「善記」に始まり、「大長(七〇四~七一二)」まで途切れることなく続く年号。「大長」は『運歩色葉集』などに見え、七〇四~七一二年まで九年間続く。これ以降は九州年号と考えられるものは見当たらないので「最後の九州年号」といわれる(古賀達也「最後の九州年号 -『大長』年号の史料批判」(『「九州年号」の研究ー近畿天皇家以前の古代史』ミネルヴァ書房二〇一二年)

(注5)『続日本紀』の和銅元年(七〇八)正月条に、「山沢に亡命して禁書を挟蔵し、百日まで首せずんば罪に復すること初めの如くす」とある。
 七二〇年に完成された『日本書紀』が、わずか八年前の七一二年に上梓された『古事記』の約四倍の長さになっているのは、討伐の対象となった、「南九州に残る九州王朝の抵抗勢力(隼人)」が所持していた「禁書=九州王朝の史書・資料」を入手し、これを流用して『日本書紀』を編纂したことを示すものと考えられる。

(注6)◆『古事記』の海幸(火照の命)・山幸(火遠理の命)
➀其の火の盛りに燒ゆる時に生める子の名は、火照(ほでり)の命《此は隼人の阿多の君の祖》。 ➁次に生める子の名は、火須勢理の命。 
③次に生める子の御名は、火遠理(ほおり)の命、またの名は天津日高日子穗穗手見の命。

 火照の命は海佐知毘古と為て、鰭(はた)の廣物(ひろもの)、鰭(はた)の狹物(さもの)を取り、火遠理の命は、山佐知毘古と為て、毛の麁物(あらもの)、毛の柔物(にこもの)を取りき。
◆『日本書紀』の海幸(火闌降命)・山幸(彦火火出見尊)
①始め起る烟の末に生れ出ずる兒は、火闌降命(ほのすそりのみこと)と號(もう)す。《是れ隼人等が始祖也。》
②次に熱(ほとほり)を避りて居(いま)すに生れ出ずる兒は、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と號す。
③次に生れ出ずる兒は、火明命(ほのあかりのみこと)と號す。《是れ尾張連等が始祖也》 凡て三子。 
 久しくて天津彦彦火瓊瓊杵尊崩(かむざ)りき。 因りて筑紫の日向の可愛《此を埃(あい)と云う》之山の陵に葬りまつる。
 兄火闌降命(*火酢芹命)、自ずから海の幸有り。弟彦火火出見尊、自ずから山の幸有り。

(注7)隼人が服属の証として「溺れるさま」を表わすというのも違和感を覚える。この点、守屋俊彦氏は「本来狩猟民族でありながら、あたかも海人族のように、水中で溺れるという仕草によって朝廷への服属を表白するという、考えてみれば、まことに奇妙なことが出来上がった」(守屋俊彦『記紀神話論考』雄山閣一九七三年より)という。「隼人」ではなく天孫降臨で支配された北部九州の「瑞穂の国」の民、「溺れるさま」ではなく「水田耕作のさま」であれば合理的に説明できる。

(注8)「海幸と山幸の役割の逆転」について西村秀己氏は、海人族の本国天国(あまくに)(本拠対馬・壱岐)の勢力と(海幸にあたる)、新領土筑紫の勢力(山幸にあたる)の権力交代劇に仮託したものだとする。(西村秀己「もうひとつの海幸・山幸―神代と人代の相似形Ⅱ」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』明石書店二〇一五年)
(先行論文)本稿の趣旨をいち早く発表しているのが西村秀己氏で、同氏は「隼人原郷」(古田史学会報一一五号二〇一三年四月。古田史学会のホームページで公開されている)において、次のように述べている(要約は筆者。原文は「隼人原郷」で検索されたい)。

◆日本書紀・続日本紀に現れる隼人記事を概観して浮かぶ姿は次の如きものである。
⑴ 西暦七〇〇年までは、隼人と朝廷の関係は概ね良好であり、それ以降隼人の叛乱が相次ぐ。

⑵ 七〇〇年以前に九州において、朝廷と争うのは全て熊襲である。

 これらは、一元史観では到底理解不能であるが、多元史観を導入すれば明快だ。先の⑵はその多くが、古田武彦氏が「盗まれた神話」の中で、「九州王朝史からの盗用」と論証した部分に当たる。
すなわち、「九州王朝 対 熊襲」、「大和朝廷 対 隼人」という構図が浮かびあがる。(略)隼人は前つ君の時代(*九州一円平定時代を指す)、九州に確かに存在した。征服される側ではなく、征服する側に。

 としたうえで、「隼人の故郷は天国(あまくに)すなわち壱岐となろう。」「隼人は壱岐の兵士だった。」とする。これは同氏が「隼人を天孫降臨から九州王朝内の勢力だった」と位置付けていることを示すものだろう。なおこの点本稿とは異なる。

(参考)古田武彦『盗まれた神話―記紀の秘密』(朝日新聞社一九七五年。ミネルヴァ書房より二〇一〇年に復刊)


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『古代に真実を求めて』 第二十三集

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