『古代に真実を求めて』 第二十三集

 


神武東征譚に転用された天孫降臨神話

古賀達也

一、『古事記』神武東征説話の史料批判

一―一、はじめに

 古田武彦氏は、その初期三部作のひとつ、『盗まれた神話』において、景行天皇の九州大遠征説話や神功皇后の筑後平定説話などが九州王朝の史書からの転用であったことを明らかにされた。同時に、神武天皇の実在とその東征説話がリアルであったことも論証された。
 他方、そうした氏の記紀神話史料批判の成果に基づいた上で、『古事記』神武東征説話における、熊野迂回から大和突入までについての説話が、果たして歴史事実であったのか否かの検証と史料批判の必要を感じていた。というのも、神武ら武装集団が熊野から紀伊半島のあの険しい道無き道を縦断して大和盆地に突入し、かつ、軍事的勝利をおさめることなど、わたしにはちょっと想像できなかったからである。こうした疑問に対して、『古事記』神武記の史料批判により、熊野から吉野へ至る一連の記述中に、九州王朝の天孫降臨神話(糸島・肥前侵略)からの転用の痕跡のあることが判明したので報告する。

一―二、

 『古事記』の神武東征説話を読んで、まず疑問に感じたのが、神武その人の呼称が三つ混在していることであった。一つは、「神倭伊波禮毘古(いわれひこ)命」であり、今一つは「天神御子(てんじんのみこ)」、そして「天皇(または神倭伊波禮毘古天皇)」である。この三つの呼称は次のように使い分けられている。
 まず、神武記冒頭の高千穂宮で兄の五瀬命と東征について諮る場面に神倭伊波禮毘古命と記されている。そして、日向から筑紫、豊國宇佐、竺紫岡田宮(一年滞在)、阿岐國多祁理宮(七年滞在)、吉備高島宮(八年滞在)を経て、速吸門(はやすいのと 鳴門海峡)から青雲の白肩津(しらかたのつ)に突入し、銅鐸圏の勢力である登美能那賀須根毘古(とみのながすねひこ)と日下の蓼津(たてつ)にて戦闘を交える。そこで、兄の五瀬命が負傷し、南方(みなみかた)から血沼(ちぬ)海へ敗走する。ちなみに、この蓼津から南方への敗走ルートは、弥生時代後期の河内湾の地形に対応しおり、後代の造作でないことを古田氏が『盗まれた神話』で論証されたことは著名である。
 その後、神武たち兄弟は紀國の男之水門に至るが、そこで五瀬命は絶命する。その墓は紀國の竈山(かまやま)に作ったと記されている。なお、神武達の行動は、日向から岡田宮までは、「日向より發たして筑紫に幸行」「豊國宇佐に到り」「遷移りまして、竺紫岡田宮に一年坐しき」と表現されており、その後は「上り幸でまして、阿岐國多祁理宮に七年坐しき」「遷り上り幸でまして、吉備高島宮に八年坐しき」「其の國より上り幸でましし時」とあり、九州を出て銅鐸圏に突入するまでは「上る」という表現が用いられている。この「上る」という用語は、後に大和を「都」として「天下を治めた」という大義名分から選ばれた用語である。
 さて、五瀬命を失った神武は、紀伊半島を迂回し、熊野村へ到る。その様子が次のように記されている。

 「故(かれ)、神倭伊波禮毘古命、其地より廻り幸でまして、熊野村に到りましし時、大熊髪(ほの)かに出で入りて即ち失せき。爾(ここ)に神倭伊波禮毘古命、にはかに遠延(をえ)爲し、及御軍(みいくさ)も皆遠延(をえ)て伏しき。」

 以上、熊野村までの神武は神倭伊波禮毘古命と記されている。そしてこの後、熊野の高倉下が登場し、神武らを助けるのだが、ここからは「天神御子」と神武の名前は変わる。次の通りだ。

 「此の時熊野の高倉下、〔此(こ)は人の名〕一ふりの横刀をもちて、天神御子の伏したまへる地に到りて献りし時、天神御子、即ち寤(さ)め起きて、『長く寝つるかも』と詔りたまひき。」※〔〕内は細注。

 高倉下から得た横刀により神武(天神御子)は熊野の荒神を切り倒し、窮地を脱する。そして高木大神が天より遣わした八咫烏(やたがらす)の先導で吉野河の河尻から宇陀へ行く。そこで、兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)の兄弟と遭遇し、そこで兄宇迦斯を殺害する。更に忍坂の大室に到り、当地の土雲、八十建(やそたける)をだまし討ちにする。そして話しは一旦、登美毘古(登美能那賀須根毘古のこととされる)との争いの時点に戻り、その時に天神御子を追って来た邇藝速日(にぎはやひ)との出会いの場面となる。この間、神武は一貫して天神御子と称される。そして、「畝傍(うねび)の白梼原(かしはら)宮に坐して天下を治め」て、東征説話は終了する。
 その後は、神武の婚姻や子供達による後継争いの話しとなり、そこでは単に「天皇」、あるいは「神倭伊波禮毘古天皇」と記され、神武記は終わるのだが、わたしの疑問はこれら三つの呼称の内、「天神御子」にあった。何故、同一人物に対して、何の説明もなく呼称が突然に変化するのか、天照大神の子供でも孫でもなく、五代も後の神武が天神御子と呼ばれるのがそもそも不自然ではないか。この疑問がわたしの中で抜き難く生じたのである。

一―三、

 白梼原宮に定着した以後、「天皇」の称号で記されるのは『古事記』編者によるイデオロギー上の呼称だ。もちろん、当時、神武が「天皇」と呼ばれていたとは考えられない。従って、近畿天皇家としての大義名分により、神武を初代天皇として史書を著述編纂するのはよく理解できるのであるが、神武記途中の紀伊半島侵略期間のみに現れる「天神御子」だけは理解困難なのだ。この点、通説では天照大神の子孫である歴代天皇を「天神御子」と称したとしているが、これも無理な解釈ではあるまいか。なぜなら、『古事記』に記された天皇で天神御子と呼称されているのは神武のみで、次代の綏靖から推古まで天神御子などとは記された例はないからだ。
 それでは、『古事記』の中で神武以外に天神御子と称されたのは誰であろうか。それは『古事記』上巻の天孫降臨神話に登場する、文字通りの天照大神の子である天忍穂耳命(あめのおしほみみ)と、その子供で天照大神の孫の天津日子番能邇邇藝(あまつひこほのににぎ)命、この二人である。この親子であれば、天照大神の子供と孫なので、天神御子という呼称も自然である。
 なお、厳密に言うならば「天神御子」に似た表現として、「天神之御子」という呼称も『古事記』には見える。その一つは、邇邇藝命の三人の子供(火照命、火須勢理命、火遠理命、亦の名は天津日高日子穂穂手見命)が木花之佐久夜毘売のお腹にいる時、木花之佐久夜毘売の発言中に見られる。次の通りだ。

 「故、後に木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)、参出(まいで)て白ししく、『妾(あ)は妊身(はら)めるを、今産む時に臨(な)りぬ。是の天神之御子は、私に産むべからず。故(かれ)、請(まを)す。』とまをしき。」

 もうひとつは、火遠理命と海神の娘、豊玉毘売命との子供の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(なぎさたけうがやふきあえずの)命がこれもまた豊玉毘売のお腹にいた時、豊玉毘売の発言中に見える。

 「是に海神の女、豊玉毘売、自ら参出(まいで)て白ししく、『妾(あ)は已に妊身(はら)めるを、今産む時に臨(な)りぬ。此(こ)を念(おも)ふに、天神之御子は、海原に生むべからず。故、参出到(まいでき)つ』とまおしき。」

 三つめが、大国主との國譲りの場面で、その子供の事代主神の発言中に見える。

 「故爾(ここ)に天鳥船神を遣はして、八重事代主神を徴(め)し来て、問ひ賜ひし時に、其の父の大神に語りて言ひしく、『恐(かしこ)し。此の國は、天神之御子に立奉(たてまつ)らむ。』といひて、即ち其の船を蹈み傾けて、天の逆手を青柴垣(あおふしかき)に打ち成して、隠りき。」

 以上の三例に「天神之御子」という表記が現れるのであるが、『古事記』中の出現順番としては事代主神の発言が先である。最初の二例がともにお腹の中の子供のことであることから、「天神を父親とする胎児」の意味ととれる。三例中二例がこうした意味であることから、残る一つの天神之御子も同様の意味を有している可能性があろう。そうであれば、事代主神はまだ生まれてもいない天神之御子(邇邇藝命か)に國譲りすることを承諾したこととなり、この國譲りは武力を背景としたかなり強引な領土要求であったように思われる。

 さて本題に戻るが、このように『古事記』上巻の天神御子とは天孫降臨を命じられた天忍穂耳命と邇邇藝命を指していた(実際に降臨したのは邇邇藝命)。そうすると、神武記に見える天神御子による戦闘譚も本来は天孫降臨神話からの盗用だったのではないかとの疑いが生じて来るのである。九州王朝による九州内征服説話が『日本書紀』の景行紀や神功紀に盗用されていたことからすると、『古事記』においても同様の転用がなされていても不思議ではあるまい。
 その証拠の一つとして、神武の兄五瀬命の証言がある。河内湾に突入し、日下の蓼津で敗北し傷を負った五瀬命は次のように述べる(『日本書紀』では神武の発言とする)。

 「吾は日神之御子と爲して、日に向かひて戦ふこと良からず。故、賤しき奴が痛手を負ひぬ。今者(いま)より行き廻りて、背に日を負ひて撃たむ。」

 ここでは五瀬命は自らのことを天神御子ではなく日神之御子と言っているのだ。このように、神武記の天神御子は神武らではない可能性が高いのである。

 

一―四、

 神武記東征説話が前半の神倭伊波禮毘古命説話と後半の天神御子説話に分けられることを述べてきたが、ここに注目すべき問題がある。古田武彦氏が神武の実在を論証されたとき、その根拠とされたのは次の諸点であった。

(一)神武らが銅鐸圏へ突入する前に、吉備に八年間(二倍年暦とすれば四年間)滞在しており、神武が率いた主勢力は吉備の軍隊と思われるが、大和の遺物・遺跡が吉備の影響を強く受けていることが考古学事実として知られており、このことは記紀の内容と対応している。

(二)河内盆地への侵入と南方からの脱出経路が弥生時代後期の地形と一致しており、七~八世紀の近畿天皇家史官の造作ではありえない。
(三)大和盆地では後期銅鐸が消滅しており、銅鐸を祭器としない異勢力の侵入の痕跡を示し、神武東征説話と対応している。

 以上のような文献(記紀)と考古学的事実の一致を神武実在の根拠とされたのであるが、これら三点とも、神武記東征説話の神倭伊波禮毘古命説話部分(一)(二)と白梼原宮定着以後(三)であり、天神御子説話部分ではない。このことは、天神御子説話部分が神武の説話ではなく、天孫降臨神話からの盗用ではないかというわたしの疑問に対応するのである。

 一方、考古学的事実との一致が見られる神倭伊波禮毘古命説話部分とは対称的に、天神御子説話部分には従来より問題とされてきた箇所がある。一つは神武が熊野から山越えをして「吉野河の河尻」に到ったと記されているが、これは吉野川の位置関係と一致しない。熊野から山越えすれば吉野川の川上になら到着できるが、河尻では妥当でないからだ。本居宣長もこの矛盾に気づき、『古事記伝』においてこの河尻は川上の間違いであろうとした。
 この吉野の河尻問題も、天神御子説話が天孫降臨時による肥前侵略説話からの盗用と見れば解決する。古田氏が明らかにした佐賀県吉野こそ壬申の乱の吉野であったとする説(注①)により、この神武記の吉野河の河尻も佐賀県の嘉瀬川下流域(現、吉野ヶ里遺跡付近)とすれば、穏当な理解が得られるのだ。すなわち、糸島半島に侵攻(天孫降臨)した邇邇藝命の軍隊が、更に肥前(有明海側)へ侵攻したとすれば、そこは必然的に吉野川(現、嘉瀬川)下流域となる。なぜなら、現在の嘉瀬川は佐賀市の西側を南下しそのまま有明海へ注いでいるが、昔は佐賀平野を西から東へと横断していたことが知られており、このため佐賀平野の大半が吉野川下流域に相当するからである(注②)。

 次に問題として上げられるのが、神武記天神御子説話に唐突に現れる天照大神と高木神の存在だ。一応、高倉下の夢の中に現れたという形になってはいるものの、神武とは時代(神代と人代)も場所(高天原と紀伊半島)も異なる二神が登場し、横刀や八咫烏を遣わすというのは、歴史事実とは考えられない。これも、邇邇藝命の天孫降臨時の説話とすれば、時代も場所も矛盾せず、穏当な理解が可能となるのである。

 同様の問題として、邇藝速日(にぎはやひ)が天神御子に対して「天神御子天降りましつと聞けり。故、追ひて参降り来つ。」述べており、邇藝速日が天国領域から天神御子を追って自らも天降ったと証言していることから、この部分も天孫降臨説話からの盗用と思われるのである。すなわち、神武らは筑紫から来たのであって、天国から天降ったのではないからだ。更には、邇藝速日の子孫が『新撰姓氏録』では「天孫」系ではなく「天神」系とされていることも、邇藝速日が神武の時代ではなく邇邇藝命と同時代の人物で、天神の一人であることを示している。

 

一―五、

 以上、神武東征説話中の天神御子説話を邇邇藝命による天孫降臨神話からの盗用とする根拠を述べてきたが、最後の論証として神武歌謡の史料批判に入りたい。
 神武東征時に現れる歌を、いずれも神武達の故郷、糸島半島現地の歌であり、その歌を東征時に歌ったものと古田氏は指摘し、これらは「糸島カラオケ」とでもいうべきものとされた(注③)。
 たとえば、「宇陀の高城に鴫罠(しぎなわ)張る~」の歌は糸島半島の宇田川原で歌われたもので、収穫した鯨の分配を歌ったものとされた。大和の宇陀で鯨が獲れるはずもないことから、この理解は当然であるが、今回わたしが到達した新理解では、邇邇藝命たちが糸島で歌ったものが、神武記に盗用されたこととなる(注④)。次の歌も同様だ。

 「意佐加(おさか)の意富牟廬夜(おほむろや) 人多(さわ)に 来入り居り 人多(さわ)に 入り居りとも みつみつし 久米の子が 頭椎(くぶつつい) 石椎(いしつつい)もち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子等が 頭椎(くぶつつい) 石椎(いしつつい)もち 今撃たば良らし」

 このオサカのオホムロヤが佐賀県のオホの室屋であるとする見解が古田氏より提案されているが、これも邇邇藝命による肥前侵略時の歌と捉えることができる。もしこれが神武東征時の歌であれば、その主勢力が吉備の軍隊であることを考えると、「吉備の子ら」とは一度も呼びかけずに、「久米の子」のみに何度も呼びかけており、臨場感に欠けるのではあるまいか。その点、邇邇藝命による肥前侵略時の歌とすれば、その主力は久米一族であるから、歌の内容とも一致して全く違和感はない。次の歌はもっとも決定的だ。

 「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 樹の間よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養(うかい)が伴(とも) 今助(す)けに来ね」

 戦場である伊那佐の山で、島つ鳥に食料補給を訴えている臨場感溢れる歌であるが、この「島つ鳥」の島とは糸島半島の志摩町にあたる地域を指すと考えられることから(注⑤)、戦場はやはりそこから食料補給が可能な距離の場所でなければならない。従って、奈良の伊那佐(宇陀郡)では何とも間の抜けた歌となってしまう。ところが佐賀県にもイナサがある。それは有明海側の有明町だ。杵島山地の東南に位置する所に稲佐山があり、稲佐神社もある(注⑥)。ここであれば、糸島から食料補給が可能な地域であり、歌の切実さが伝わるのである。ちなみに、この杵島山地一帯は昔、熊野の里と呼ばれており、北西の山には熊野神社、東側の須古には熊野小路という字地名が現存し、南西には久間町がある(注⑦)。
 神武東征説話にこの邇邇藝命の糸島・肥前侵略説話が転用された一因に、こうした地名の一致があったからではあるまいか。宇陀(糸島郡宇田川原)、吉野河(佐賀県吉野川、現嘉瀬川)、オサカ(佐賀)、熊野村(杵島郡熊野の里)、伊那佐(有明町稲佐)など類似地名での説話や歌謡が神武記に転用されたと考えられるのである。

一―六、おわりに

 これで神武記史料批判による論証は終わった。今やわたしには、神武東征中の天神御子説話中に邇邇藝命による糸島・肥前侵略説話が転用挿入されていることは明白になったと思われるのである。
 残された課題としては、神武記に見える高倉下や兄宇迦斯、弟宇迦斯、八咫烏などの人名もまた盗用であるのかどうか。あるいは、説話のどの部分までが盗用なのか。熊野村から大和へ到る間にあったであろう、純粋に神武その人の行動はどのようなものであったのか。そして、わたしの最初の疑問であった、熊野村からの紀伊半島縦断そのものが史実であったのか。これらの更に厳密な史料批判である。

 また、『日本書紀』の神武東征説話に記された「天神子」説話も『古事記』と同様の問題をはらんでおり、もしかすると『日本書紀』に記された神武の傍若無人な騙し討ちの数々もまた、本来は邇邇藝命によるものであったかもしれないのである。そうすると、一見平和裏に見えた國譲りや天孫降臨も、実は血なまぐさい侵略そのものであり、その神話がごっそりと神武東征説話に持ち込まれたことになるのだ。そし て侵略説話と同様に、『古事記』に見える他の歌謡の多くも九州王朝歌謡である可能性さえも予感されるのである。

〔補記〕
 神武記に次のような地名説話がある。

 「故、ここに宇陀の兄宇迦斯、弟宇迦斯の二人ありき。故、まづ八咫烏を遣わして、二人に問ひて曰ひしく、『今、天神御子幸でましつ。汝等仕へ奉らむや。』といひき。ここに兄宇迦斯、鳴鏑をもちてその使を待ち射返しき。故、その鳴鏑の落ちし地を、訶夫羅前(かぶらさき)と謂ふ。」

 ここに見える訶夫羅前(かぶらさき)という地名は、奈良県宇陀には見当たらない。もしやと思い、力石巌氏(故人、福岡市)に、糸島の宇多川原の近くにカブラザキという地名はないかと問い合わせた所、「宇多川原から4キロメートルほど西の雷山川河口(前原市)に加布羅(かぶら)という地名があり、昔は岬であったと思われる。」というご返事を得た。この加布羅が訶夫羅前のことであれば、九州王朝の天孫降臨説話にあった同地名説話が『古事記』に盗用された可能性が高い。ちなみに、『日本書紀』神武紀にはこの地名説話が収録されていないことから、『日本書紀』編纂時において、奈良県にないこの地名説話はカットされたのではあるまいか。

二、『日本書紀』神武東征説話の史料批判

二―一、はじめに

 本節では『日本書紀』神武紀の史料批判を行い、天孫降臨説話の転用というテーマについて論じる。

二―二、神武の呼称

 前節における論証の眼目は、神武記に記された神武の三つの呼称であった。一つは、「神倭伊波禮毘古命」であり、今一つは「天神御子」、そして「天皇(または神倭伊波禮毘古天皇)」である。これら三つの呼称が神武記に混在しているのだが、この中の「天神御子」に注目すると、それは熊野から紀伊半島を縦断し、大和盆地に突入するまでの間のみに使用されており、この「天神御子」による説話部分は天孫降臨神話(恐らくは天津日子番能邇邇藝(あまつひこほのにきぎ)命による糸島・肥前侵略説話)からの転用としたのである。
 それでは『日本書紀』神武紀における神武の呼称はどうであろうか。基本的には全編を通じて、終始「天皇」の呼称で説話が綴られているが、他に「天神子」「天孫」「天壓神」という呼称が若干例使われている。次の通りだ。

(一)對(こた)えて曰く、臣は是れ國神なり、名を珍彦(うづひこ)と曰う。曲浦(うらわ)に釣魚(つり)す。天神子来(いで)ますと聞けり、故れ即ち迎え奉る。

(二)時に長髄彦(ながすねひこ)聞きて曰く、夫(そ)れ天神子等来(いで)ます所以(ゆえん)は、必ず将に我が國を奪わんとす。

(三)武甕雷神(たけみかづち)登ち高倉下(たかくらじ)に謂りて曰く、予が劔の號(な)を[音市]*靈と曰う。〔[音市]*靈、此をばフツノミタマと云う。〕今當(まさ)に汝が庫の裏(うち)に置くべし。宜(う)べ取りて天孫に獻(たてまつ)れ。
 ※[音市]* は、音編に、市の上を切ったもの。

(四)弟猾(おとうかし)即ち詣(まうけ)至り。因りて軍門を拝みて告(もう)して曰く、臣が兄兄猾(えうかし)の逆を為る状(かたち)は、天孫到りまさむとすと聞きて、即ち兵を起こして、将に襲わんとす。

(五)時に烏其の營(いおり)に到りて鳴きて曰く、天神子汝を召す。

(六)兄磯城(えしき)忿りて曰く、天壓神の至りますと聞きて、吾が慨憤(ねた)みつつある時に、奈何にして烏鳥のかく悪しく鳴くやといひて、〔壓、此をばオスと云う〕乃ち弓を彎きて射る。

(七)烏即ち避(たち)去りぬ。次に弟磯城(おとしき)が宅(いえ)に到りて鳴きて曰く、天神子汝を召す。

(八)時に弟磯城(おとしき)慄*、然(お)ぢて改容(かしこま)りて曰く、臣、天壓神至りますと聞きて、旦(あした)夕に畏ぢ懼る。
 ※慄*は、心編に、栗の西と世を入れ替え。表示不可ですので『日本書紀』を見て下さい。

(九)吾が兄兄磯城、天神子来でますと聞きて、則ち八十梟帥(やそたける)を聚(あつ)めて、兵甲(つわもの)を具えて、與に決戦わんとす。

(十)故(かれ)、吾、饒速日(にぎはやひ)命を以て、君として奉へまつる。夫れ天神子、豈両種(あにふたはしら)有さんや。奈何(いかに)ぞ更に天神子と稱(なの)りて、人の地を奪わん。

(十一)天皇の曰く、天神子亦多(さわ)にあり。汝が君とする所、是實(まこと)に天神子ならば、必ず表物(しるしもの)有らん。相示(み)せよ。

(十二)饒速日命、本より天神慇懃(ねんごろ)したまわくは、唯天孫のみかということを知れり。

 以上、「天神子」が七例(一)(二)(五)(七)(九)(十)(十一)、「天孫」が三例(三)(四)(十二)、「天壓神(あめおすかみ)」が二例(六)(八)だが、その殆どが会話の中で使用されている。なお、この他に椎根津彦(しいねつひこ)が神武を「我皇(わがきみ)」と呼んでいる例が一件あるが、これは「天皇」呼称の変形と見なし、ここには挙げなかった。また、饒速日命も長髄彦や神武から「天神子」と呼ばれている。

二―三、「天神子」「天孫」「天壓神」の検証

 「天神子」や「天孫」の呼称は神代紀において頻繁に使用されるが、神武以後の各天皇紀になると、具体的な人物を指す例としては神武紀以外には表れない(注⑧)。従って、この呼称部分も天孫降臨神話からの盗用の可能性が高いように思われる。前稿でも指摘したように、天照大神の子供でも孫でもなく、五代も後の神武が「天神子」や「天孫」と呼ばれることがそもそも不自然なのだ。
 また、「天壓神」という呼称は、『古事記』には見えない兄磯城・弟磯城説話中のみに表れることから、これも天壓神と呼ばれる人物による天孫降臨説話からの盗用ではあるまいか。この神名は他に見えず、どのような神かは不明であるが、天忍穂耳尊の「オシ」と壓の音が近いことから、天忍穂耳尊の別名かもしれない。「天壓神」は兄磯城から「天神子」とも呼ばれていることから、天忍穂耳尊であれば天照大神の子供であり「天神子」という表現もピッタリである。
 次に「天孫」という呼称だが、武甕雷神・弟猾・饒速日命それぞれの発言中に見える。まず、武甕雷神は天孫降臨時の神であることから、これも天孫降臨神話からの転用の可能性が高い。従ってこの記事は天孫降臨神話に有ったものであろう。
 兄猾・弟猾説話(『古事記』では兄宇迦斯・弟宇迦斯)は前稿において糸島半島(宇多川原・加布羅)での説話であることを述べたが、ここでも「天孫」という呼称が使用されていることから、兄猾・弟猾説話もやはり天孫降臨神話からの転用とすべきであろう。更に『日本書紀』の兄猾・弟猾説話には天香山が度々登場することから、この説話は天国領域とその近くを舞台とした説話であったはずだ。このことも、同説話を盗用とするわたしの仮説を支持するものである。
 饒速日命も前稿で指摘したように、天孫降臨時の神である。以上のように、神武紀に見える「天孫」呼称は三例とも文字通り天孫降臨神話からの転用と考えざるを得ないのである。

二―四、長髄彦の行方

 『古事記』と『日本書紀』の神武東征説話を比較すると、『日本書紀』の方が分量も多く、初代の天皇としてより飾られている。たとえば「天壓神」が登場する兄磯城・弟磯城説話もその一つである。すなわち、九州王朝系史料からの転用がより進んでいると考えられる。同時に、大義名分上からの説話の変更も見られる。その一つが長髄彦説話だ(『古事記』では登美能那賀須根毘古または登美毘古とする)。
 長髄彦との戦いによる矢傷が原因で、神武の兄五瀬尊は死亡し紀國の竃山に葬られる。長髄彦は『古事記』では最初に登美能那賀須根毘古という名前で紹介され、その後の説話では登美毘古として表れるのだが、神武が登美毘古を討って勝利したという明確な記事はない。ところが『日本書紀』では「乃ち殺しつ」と五瀬命の敵討ちを果たした説話となっている。どちらが真実であろうか。もちろん『古事記』の方だ。何故ならば、もし勝利したのなら、そのことを『古事記』に記されないはずがない。しかも、長髄彦(登美毘古)は銅鐸圏中心領域の王者あるいは正規軍の長である。神武兄弟が河内湾に突入して、敗北を喫した相手である。もしその長髄彦に勝利したのなら、神武とその子孫が大和盆地の一隅橿原に数代にわたって蟄居(注⑨)した説明がつかないし、大和盆地から銅鐸が消滅するのも神武の時代よりも後のことだ。すなわち、神武は長髄彦(登美毘古)に勝てなかったのである。この「長髄彦(登美毘古)の論証」により、わたしたちは大和における神武勝利説話の多くが天孫降臨神話からの転用であった可能性の高いことを知ることができるのである。
 長髄彦問題について、今一歩考察を進めよう。それは、長髄彦自身は神武の時代の人物であったのか、天孫降臨時の人物であったのかというテーマだ。というのも、『古事記』では那賀須根毘古と登美毘古という二つの名前で表記されており、両者は別人ではなかったかという疑問が生じるのだ。恐らく、どちらかが天孫降臨時の抵抗勢力で、他方が神武東征時の抵抗勢力だったのではあるまいか。にわかには断定できないが、可能性としては那賀須根毘古が天孫降臨時であり、登美毘古が神武東征時ではないか。たとえば、より修飾が少ない『古事記』では、五瀬命に矢傷を負わせた相手を登美毘古と記しており、この時の神武の呼称は神倭伊波禮毘古(かむやまといわれひこ)命であり、天神御子ではない。従って、この部分は天孫降臨神話からの盗用ではなく神武自身の伝承部分と思われる。従って、そこに記された登美毘古という人名を重視すれば、神武東征時の銅鐸圏の王者であったと見なすべきであろう。他方、那賀須根毘古は『古事記』では、河内湾突入の最初に登美能那賀須根毘古と一回だけ登場し、登美能(とみの)とわざわざ地名を付けて、その後に表れる登美毘古と同一人物であるとするための伏線として記されているだけである。
 そうすると、長髄彦は天孫降臨時の抵抗勢力となるのだが、『東日流外三郡』や東北地方の伝承に登場する長髄彦との関係が注目されよう。『東日流外三郡誌』によれば、長髄彦は日向の賊に追われて稲穂を持って津軽に逃れてきたとされる。すなわち天孫降臨時に筑紫を追われて逃げてきた長髄彦こそ、『古事記』『日本書紀』の神武東征説話中に転用された長髄彦と同一人物であることになり、うまく整合するのではあるまいか。

二―五、消された地名

 『古事記』に比べ、『日本書紀』の神武紀には神武の業績を誇るために、多くの説話が転用付加されていることを述べてきたが、他方、逆に『古事記』にある地名がカットされている例も散見される。たとえば、前稿で紹介した訶夫羅前(かぶらさき)もその一つだ。『古事記』には「故、ここに宇陀の兄宇迦斯、弟宇迦斯の二人ありき。故、まづ八咫烏を遣わして、二人に問ひて曰ひしく、『今、天神御子幸でましつ。汝等仕へ奉らむや。』といひき。ここに兄宇迦斯、鳴鏑をもちてその使を待ち射返しき。故、その鳴鏑の落ちし地を、訶夫羅前と謂ふ。」という地名説話が記されているが、『日本書紀』には見えない。これも訶夫羅前という地名が大和の宇陀には現存しないが、糸島には宇多川原から4キロほど西の雷山川河口(前原市)に加布羅(かぶら)という地名があり、昔は岬であったと思われる(注⑩)。従って、『日本書紀』編纂者はこの地名説話をカットしたのだ。
 古田武彦氏が「南方の論証」(注⑪)で指摘されたように南方も『日本書紀』ではカットされている。神武の時代、弥生時代(中期末)の大阪湾・河内湖の地形と、南方(新大阪駅の近く)から脱出するルートはよく一致するが、七~八世紀の近畿天皇家の史官たちにとって、この弥生時代の地形に基づく脱出ルートは理解できなかった。従って、『古事記』では伝承通り採用されたものの、『日本書紀』ではカットされたのである。
 先の訶夫羅前のケースは、大和に同名地名が存在しなかったためにカットされたのだが、南方のケースは当時の地形に対応していないため不合理と判断されてカットされたものである。この南方と同様のケースが「吉野河の河尻」だ。『古事記』では、神武が熊野から紀伊半島を縦断し、最初に到着したのが「吉野河の河尻」とされている。しかし、山越えして到着するのならば吉野川の川上でなければならない。たとえば、本居宣長はこれを不審とし、『古事記伝』において、この河尻は河上の誤りであろうとした。
 この「河尻」は地形名詞であり、必ずしも河口を示すとは限らず、奈良県吉野近郊に「○○尻」という地名があることから、『古事記』の「吉野河の河尻」も不自然ではないとする説が伊東義彰氏より出されている(注⑫)。氏の説は留意すべき点少なくないが、この場合、『日本書紀』ではカットされていることを重視すべきではあるまいか。『日本書紀』編纂時点において、編纂者達にとって「吉野河の河尻」という表記は、南方と同様に不合理と理解されたのであるから、やはり佐賀県吉野における侵略説話の転用部分と判断するほうが良いように思われるのである。こうした『日本書紀』でのカットは降臨神話からの転用説を支持する史料状況ではあるまいか。

二―六、東征ルートの改変

 『日本書紀』編者が改変したのは地名に留まらない。古田氏が論証されたように、神武東征ルートにも改変の手が加わっている。『古事記』では神武の発信地を糸島郡日向(ひなた)としているが、『日本書紀』では宮崎県日向(ひゅうが)と改変されている。その為、「速吸の門」が『古事記』では鳴門海峡(古田説)とされていたのが、『日本書紀』では豊予海峡になったりしている。もちろん、歴史事実として正しいのは『古事記』の記述の方である。
 これと同様に大和内での神武の行軍ルートも『古事記』と『日本書紀』では異なっている。『古事記』では、熊野から紀伊半島を縦断した神武は吉野河の河尻に至り、そこで魚獲りをしていた贄持之子(にえもつのこ)に出会う、次に井氷鹿(いひか)、そして石押分之子(いわおしわくのこ)と出会った後、宇陀に突入し兄宇迦斯(えうかし)との戦闘に入る。このように、吉野河の河尻から宇陀までは主線行路である。これに対して、『日本書紀』では熊野から菟田にいきなり入り、兄猾との戦闘に勝利した後、神武は吉野見物に向かうのである。そしてまず井光と出会い、次いで磐排別之子、最後に水にそって西に向かい苞苴擔之子と出会う。従って、吉野行きは戦闘とは無関係であり、菟田に突入した後の傍線行路なのである。
 この改変も、吉野河の河尻から東に宇陀へと向かう『古事記』のルートが、『日本書紀』編纂者には不自然と映ったためであろう。そのため、井光から苞苴擔之子と出会う吉野行きを傍線行路に変え、菟田から西に向かうルートへと改変したのである。しかし、この熊野から宇陀への侵入説話を天孫邇邇藝(ににぎ)命による肥前侵略説話からの転用と見なした時、『古事記』に記された東から西へ向かうルートの方が適切となる。
 前節で既に述べたところでもあるが、佐賀県有明町杵島山地の東南に稲佐山があり、稲佐神社もある。この杵島山地一帯は昔、熊野の里と呼ばれており、北西の山には熊野神社、東側の須古には熊野小路という字地名が現存し、南西には久間町がある。邇邇藝命らはこの肥前熊野に上陸した後、肥前「吉野川」(現、嘉瀬川)の河尻に出たのだ。その時、歌った歌が次の歌だ。

 「楯(たた)並めて 伊那佐の山の 樹の間よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養(うかい)が伴 今助(す)けに来ね」(『古事記』神武記)

 杵島山地の稲佐山の東北には多田という地名が並ぶようにあり、この多田が「楯(たた)並めて」と詠み込まれたのだ(注⑬)。『日本書紀』に見える丹敷(にしき)浦と類似地名の「錦江」もこの近くにある。そして、更に東へ向かい井氷鹿(井光)らと遭遇したのではあるまいか。もしかすると、その井氷鹿(井光)と関連するかも知れない神社名が江戸時代の地誌『筑後志』に見える。

○三瀦郡 威光理明神社同郡六丁原村にあり。
     威光理明神社同郡高津村にあり。
           (『筑後志』巻之七)

 この威光理明神社の威光理は「いひかり」と読むのではあるまいか。もしそうであれば、井氷鹿(井光)と関係があるように思われる。三瀦郡六丁原村と高津村は共に筑後川下流域東岸にある。従って、佐賀県とは隣接しており、地域的にも先の「神武」説話とよく対応しているのだ。しかも、佐賀県は吉野ヶ里で有名なように、○○ヶ里という地名が夥しく存在する。この「いひかり」も「いひヶ里」ではあるまいか。こうした傍証も、神武東征説話に天孫降臨神話の肥前侵略説話が盗用されたとするわたしの仮説と対応している。威光理明神社については今後現地調査を実施したいと考えている。興味深い神社名でもあり、紹介しておきたい(注⑭)。

二―七、おわりに

 『日本書紀』神武紀の史料批判により、降臨神話の転用範囲がいくらかは特定できたように思われる。今回は触れなかった部分も、その多くは転用ではないかと考えている。たとえば、神武紀中の戦闘記事には荒坂津・男坂・女坂・墨坂など、「坂」地名が見られるが、これらも神武歌謡の「意佐加(おさか)」と同様に佐賀県の佐賀と関連する地名ではないかと考えている。

 最後に本稿の真の結論について述べる。それは、大和朝廷には自らの史書編纂時(八世紀初頭)において、初代の神武天皇の大和征服伝承が伝わっていなかったという事実である。そのため、九州王朝による天孫降臨神話の一部(天神御子説話)を神武東征伝承に転用せざるを得なかったのだ。この一点を明らかにできたことが本稿の学問的成果と言えるのではあるまいか。

 

(注)

①古田武彦『壬申大乱』東洋書林、二〇〇一年十月。

②下山昌孝「古代の佐賀平野と有明海」、『多元』四二号、二〇〇一年四月。

③古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、一九九二年六月。

④この歌の中に、本来、原注であったはずの「此(こ)はいのごふぞ」「此(こ)は嘲(あざ)笑ふぞ」が、誤って歌の一部として採用されていることから、これは近畿天皇家内で伝わった歌ではなく、別の史料に記された九州王朝歌謡からの引用の痕跡であると、古田氏よりご教示いただいた。この史料事実も本稿の結論を支持するものである。

⑤古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、一九九二年六月。

⑥下山昌孝「古代の佐賀平野と有明海」、『多元』四二号、二〇〇一年四月。

⑦『佐賀県史蹟名勝天然記念物調査報告 第三輯』昭和七年三月。ちなみに、杵島山地の西辺にはおつぼ山神籠石があり、古代から軍事上の要衝の地であったことがうかがえる。また、須古の隣には錦江という地名があり、『日本書紀』神武紀に見える、熊野での戦闘の地、丹敷(にしき)浦との関連からも興味深い。

⑧「天神子」という表記は神代紀と神武紀にしか表れない。「天孫」は神武紀以降では皇極紀(四年条)に一例見える。

⑨神武は銅鐸圏との戦いに敗れ、事実上降伏に近い「和睦」をして橿原に入ることを許されたのではないかという説が西村秀己氏により発表されている。(「神武の行った道」、『古田史学会報』四九号、二〇〇二年四月)

⑩力石巌氏(故人)の御教示による。

⑪古田武彦『ここに古代王朝ありき ―邪馬一国の考古学』一九七九年、朝日新聞社。

⑫伊東義彰「『神武が来た道』について」、『古田史学会報』四九号、二〇〇二年四月。

⑬古田武彦氏の御教示による。

⑭この他にも、佐賀市には碇ノ天神(『太宰管内志』による)という神社や、「碇」姓が密集している地域(佐賀市・東与賀町・上峰町・江北町)がある。この「碇」もイヒカリと関係があるのではないかと注目している。


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