『古代に真実を求めて』 第二十三集

 


神功皇后・俾弥呼と四人の筑紫の女王たち

正木裕 

一、『日本書紀』の神功皇后

 『日本書紀』では神功皇后(気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。『古事記』では「息長帯比売命」)は、開化天皇の曾孫で仲哀の皇后、即ち当然ながらヤマトの天皇家の祖とされている。そして「神功皇后紀」では、仲哀崩御以降の、『書紀』の年紀では紀元二〇〇年~二六九年の間に、「摂政」として筑後や熊襲国ほかを平定し、更に高句麗・百済・新羅の「三韓を征伐」し、応神を筑紫で産み、摂政六九年(二六九)に崩御したと記す。

 本稿では、こうした神功皇后の生涯や活躍譚は、
➀紀元前の「天孫降臨時」における瓊瓊杵(ににぎ)の尊の母の栲幡千千姫(たくはたちちひめ)の命、
➁三世紀の俾弥呼(ひみか)・壹與(ゐよ)、
③四世紀の高良玉垂(こうらたまたれ)の命、

という「四人の筑紫の女王」の事績・伝承を取り込んで創作されたものであることを明らかにする。

 

二、取り込まれた栲幡千千姫(たくはたちちひめ)の筑後討伐譚

1、筑後の羽白熊鷲(はしろくまわし)・田油津媛(たぶらつひめ)討伐譚

 まず、この四人のうちで「栲幡千千姫」の事績・伝承を取り込んだと考えられるのが筑後の羽白熊鷲(はしろくまわし)・田油津媛(たぶらつひめ)討伐譚だ。
◆『書紀』(神功摂政前紀)仲哀九年(二〇〇)三月。荷持田村荷持(のとりのたふれ)《此を能登利と云ふ》に羽白熊鷲といふ者有り。其の爲人(ひととなり)强(こは)く健し。亦身に翼有りて、能(よ)く飛びて高く翔る。是を以て、皇命に従はず。毎(つね)に人民を略盜(かす)む。
戊子(一七日)に、皇后、熊鷲を擊たむと欲して、橿日宮より松峽宮(まつをのみや)に遷る。時に、飄風(つむじかぜ)忽(たちまち)に起りて、御笠墮風(ふけおと)されぬ。故、時の人、其の処を号(なづ)けて御笠と曰ふ。辛卯(二〇日)に、層増岐野(そそきの)に至りて、卽ち兵を舉(こぞ)りて羽白熊鷲を擊ちて滅(ころ)しつ。左右に謂(かた)りて曰はく、「熊鷲を取り得つ。我が心則ち安し」とのたまふ。故に其の処を号けて安と曰ふ。丙申(二五日)に、転(うつ)りまして山門の県(あがた)に至る。則ち土蜘蛛田油津媛を誅(つみな)ふ。時に、田油津媛の兄(いろね)夏羽、軍を興(おこ)して迎へ来(まう)く。然るに其の妹の誅(ころ)されたることを聞きて逃げぬ。

 ここで皇后は博多湾岸の橿日宮から南方に軍を進め、御笠の松峡宮を経由し、荷持田村(のとりのたふれ)を本拠とする羽白熊鷲を「層増岐野(そそきの)」で討伐し、安(夜須)に帰還、その後、山門県(筑後山門)に至り田油津媛を討伐している(図1)。

 

2、景行紀と逆転する筑後討伐

 ただ、前(前)代の景行天皇は「周芳の沙麼(さば)」から始まり、長峽・宇佐・速見・直入・碩田などの豊前・豊後(大分)、日向・子湯・夷守(宮崎)など「九州東岸」を平定し、襲国(鹿児島)の熊襲梟師を討伐、その後西に向かい熊県(熊本)の熊津彦を討ち、北行して葦北・八代・玉杵名・阿蘇(熊本)、高来(長崎)など「九州西岸」を平定。築後浮羽(福岡県浮羽郡)に帰還している。
 このように九州一円が景行時代に平定済みであるのに、神功皇后時代になって、景行が帰還した筑後が平定されている。これは不自然で、時代が逆になっていると考えられる。
 これを証するのが討伐された「羽白熊鷲」だ。羽白熊鷲は「羽あり。能く飛び高く駈ける」とあるように「神話時代」の様相を呈している。
 通説では『記紀神話』は大和朝廷の史官の創作物であり、歴史上の事実とは無縁だとされる。しかし、大和朝廷成立以前の我が国には、様々な王権があり、その中で歴代の中国王朝から、我が国の代表者と見なされていたのは、九州を拠点とする倭国(九州王朝)だとする「多元史観」では、『記紀神話』は倭国(九州王朝)成立期における「一定の史実」を反映していると考える。

 そして、『「海幸・山幸神話」と「隼人」の反乱』で述べたように、「天孫降臨」とは「青銅の武器による対馬・壱岐を拠点とする勢力(海人(あま)族)の北部九州侵攻・支配」であり、瓊瓊杵尊の降臨地、すなわちまず征服したのは博多湾岸から怡土平野にかけてだった(注1)。
 そうであれば、瓊瓊杵尊らが次に侵攻するのは筑後平野だ。筑後平野は『筑前国続風土記』に「膏腴(こうゆ)の地にして、種植の利他所に倍せり」とあり、早くから畑作・陸稲の栽培が盛んだった。特に筑後川下流のデルタ地帯は水田に適した土地が広がり、八女市岩崎からは紀元前二世紀ごろの炭化米が出土している。いわば「第二の瑞穂の国」だった。
 その筑後平野に侵攻したのが神功皇后とされており、これは、神功の筑後平定譚が「天孫降臨」すなわち瓊瓊杵尊の北部九州侵攻直後の出来事だったことを表している。

 

3、筑後討伐は「天孫降臨」時代の栲幡千千姫(たくはたちちひめ)の事績

 その瓊瓊杵尊の母が栲幡千千姫(萬幡豊秋津師売(よろづはたとよあきつひめ))であり、瓊瓊杵尊は「眞床追(覆)衾(まとこおふふすま)(体にかけて用いる織物)」、つまり「着ぐるみ」に包まれて降臨したとされる。
◆『書紀』(神代下)是の時に、高皇産霊(たかみむすび)の尊、乃ち眞床追衾を用て、皇孫天津彥根火瓊瓊杵根尊に裹(き)せまつりて、天八重雲を排披(おしわ)けて、降(あまくだ)し奉(まつ)らしむ。
 また、瓊瓊杵尊の孫の鸕鷀草葺不合尊も、出産時に、母豊玉姫によって「眞床覆衾及び草(かや)」を裹せられ渚に置かれたとある。
 しかも『書紀』で、天照は栲幡千千姫(萬幡豊秋津師比売)を天忍穂耳に娶せ葦原中国に降下(あまくだ)らせている。
◆(神代下第九段第一書)天照大神、思兼(おもひかね)の神の妹、萬幡豊秋津媛命を以て、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)に配せまつりて妃として、葦原中国に降しまさしむ。 
◆(神代下第九段第二書)則ち高皇産霊尊の女、号は萬幡姫を以て、天忍穂耳尊に配せまつりて妃として降しまつらしめたまふ。

 ここから西村秀己氏は、「天孫降臨」に際しては、「幼い瓊瓊杵尊」が栲幡千千姫に伴われ降臨(北部九州へ侵攻)してきたのだとされている。(注2)。
 そうであれば、実際の討伐の指揮を執ったのは瓊瓊杵命でなく母の栲幡千千姫ということになる。これは、筑後平定は「女帝」神功皇后の事績とされていることとも整合する。
 天孫降臨時代の「長」の天照大神も女性だから、神聖な力を持つ女性が意思決定者として指揮を執ることは十分に考えられる。これは、三世紀の俾弥呼・壹予の女王への共立経緯を考えれば理解できるだろう。
 このように「神功皇后譚」のモデルの一人目は、「天孫降臨神話」における「瓊瓊杵尊の母栲幡千千姫」だと考えられる。

三、神功皇后に擬えられた俾弥呼・壹與

 次に、神功皇后紀が「俾弥呼・壹與」の事績を取り込んだことは『書紀』記事から明白だ。
『書紀』では、次のように、
➀摂政三九年(己未二三九)条に「倭女王(俾弥呼)」の魏の明帝への遣使記事、
➁摂政六六年(丙戌二六六)条に「倭女王(壹與)」の遣使記事がある。
 これは、『魏志倭人伝』に記す「俾弥呼らの遣使の実年と合っている」ところから、『書紀』編者は俾弥呼・壹予の二人を神功皇后に擬えていることがわかる。
①神功紀の卑弥呼の遣使
『書紀』神功皇后摂政三九年(己未二三九)是年、大歳己未。
魏志に云はく、明帝の景初三年(己未二三九)六月、倭の女王大夫難斗米等を遣して、郡に詣(いた)りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。
四〇年(庚申二四〇)。魏志に云はく、正始の元年(二四〇)に、建忠校尉梯携(ていけい)等を遣して、詔書・印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。
四三年(癸亥二四三)。魏志に云はく、正始の四年(二四三)、倭王、復(また)使大夫伊声者・掖耶約等八人を遣して上献す。

②神功紀の壹與の遣使
『書紀』神功皇后摂政六六年(丙戌二六六)。是年、晋の武帝の泰初(始)の二年(二六六)なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ。
 但し『魏志倭人伝』での俾弥呼の朝貢は、すべての版本で景初二年(戊午二三八)となっているので、『書紀』は一年ずれている。
 また、二六六年の遣使は『晋書』では「倭人(倭人来りて方物を献ず)」とのみ書かれており、「倭女王」とあるのは『書紀』の引用する晋の起居注(*天子の日記体の記録)で現存しないが、年代的に壹予にあたることは確実だろう。

 

四、神功皇后に擬せられた高良玉垂命

1、「三韓征伐」記事は「二運(一二〇年)繰り上げ」られていた

 一方、『書紀』神功紀のハイライトは、俗に「三韓征伐」と呼ばれる朝鮮半島遠征譚だ。しかし、「三韓(高句麗・新羅・百済)」との戦闘や交渉・交流は、両国の歴史から三世紀ではありえず、早くとも四世紀中葉の出来事なのだ。
 まず、史料上で➀百済の出現は、東晋の咸安二年(三七二)正月、百済の近肖古(きんしょうこ)王(即位三四六)の東晋への朝貢記事(『晋書』帝紀)が初。➁次に新羅は、同、太元二年(三七七)春の奈勿尼師今(なこつにしきん)(即位三五六)の前秦への朝貢記事(『資治通鑑』巻一〇四)が初であり、卑弥呼・壹予の時代ではありえない。
 この点、神功紀の半島関連記事は、次のとおり『三国史記』等との比較から、「二運(一二〇年)繰り上げ」られていることがわかっている(注3)。
①肖古王薨去記事は『書紀』では二五五年とされているが、『三国史記』では三七五年となっている。
◆『書紀』神功五五年(乙亥二五五)。百済の肖古王(しょうこおう)薨(みう)せぬ。
◎『三国史記』近肖古王(三四六~三七五)三〇年(乙亥三七五)冬十一月に王薨(みう)せぬ。 (*肖古王・近肖古王は同じ人物)

②また、貴須(くゐす)王薨去・枕流(とむる)王即位記事も一二〇年繰り上がっている。
◆神功六四年(甲申二六四)。百済の貴須王薨りぬ。王子枕流王、立ちて王と為る。
◎『三国史記』近仇首王一〇年(甲申三八四)夏四月、王薨せぬ。枕流王元年(三八四)父を継ぎ即位す。

 つまり、「神功皇后紀」では「実年と合った卑弥呼・壱予記事」と、「二運(一二〇年)繰り上げ、干支を合わせた半島関係記事」が混在する構成となっている。従って『書紀』で神功皇后は、実年で紀元二〇〇年ごろから三八九年ごろ(崩御年の二六九+一二〇=三八九)まで執政していたことになる。これは「一人の事績」としては、現実にあり得ない話だ。

2、「賊徒を退治」した筑後の高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)(初代)と神功皇后

 古賀達也氏によれば、『書紀』に記す神功皇后が活躍した筑後の大善寺玉垂宮の由緒書に、「祭神」の高良玉垂命は仁徳五五年(三六七)に博多湾岸から筑後三潴に来て、五六年(三六八)に賊徒を退治。五七年(三六九)に三潴大善寺に宮を造営し筑紫を治め、七八年(三九〇)に三潴で没したと記される(注4)。
 そして『書紀』に記す神功皇后の半島の「七か国平定」の実年は玉垂命の由緒と一致している。
◆神功皇后四九年(己巳二四九)春三月、卓淳(たくじゅん)国に至りて、将に新羅を襲はむとす(略)倶に卓淳に集ひて、新羅を撃ちて破りつ。因りて、比自㶱(ひしほ) ・南加羅・喙(とく)国・安羅・多羅・卓淳(たくじゅん)・加羅七国を平定(ことむ)く。
仍ち兵を移して、西に廻りて古爰津(こけいつ)(*全羅南道康津)に至り、南蛮の忱彌多禮(とむたれ)(*済州島)を屠き、百済に賜ふ。是に其の王肖古王、及び皇子貴須(近仇首王)、亦軍を領ゐて来会(まうけ)り。
 「七国平定」の実年は二四九年から二運・一二〇年ずれて三六九年となり、三六八年に賊徒を退治し、三六九年に三潴に遷宮した玉垂命の由緒と整合する。

3、「七支刀」が明かす玉垂命の事績

 この「七国平定」を感謝して、百済王から倭王に贈られたのが「石上神社の七支刀」で、その銘には泰和四年(三六九)に造られたと記されている。
◆(表)泰(和)四年(*己巳三六九)五月一六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供(侯)王(裏)先世以来未有此刀百濟(王)世□奇生聖音故為倭王旨造(傳示後)世 

 『書紀』で七支刀の記事は神功五二年(書紀紀年で二五二年)九月条に見え、実年では二運繰り下げた三七二年となるから、神功皇后と玉垂命は同時代の人物となる。新羅戦遂行と戦場から離れた有明海沿岸への遷都は一体と考えられ、七支刀は「七国平定」感謝と三潴遷都(遷宮)を祝して、その記念行事の際に玉垂命に贈られたものと考えられよう。

 そして、大善寺に近い筑後みやま市(旧瀬高町太神)の
こうやの宮(磯上物部神社)に七支刀を持つ武人の人形が
伝世している。高良玉垂命が物部であることは良く知られ
ており、同神社も物部の神社で、「いそのかみ」と呼ばれ
るのも「石上神社」と同じだ。ここからも、こうやの宮の
七支刀人形と物部の宝物(武器)庫とされる石上神社の七
支刀との関連が推量される。
 こうやの宮には、他にも北方高句麗風・倭人風・南方土
人風・五七桐紋の貴人などの人形もあり(写真)、古田武
彦氏は「『祝典あり。四方より使者きたる。』の姿を、人形で表現したのだ」とされ、古賀氏は「玉垂の命の筑後三瀦遷宮祝賀式典に参列した、海外諸国等の使者を人形に模ったのではないか」とする(注5)。

 この考察が正しければ、
「高良玉垂命の三六九年の三瀦遷宮を祝すため百済は刀を造り、七か国平定に因んで七支刀という特異な形状とした。そして新羅戦後の三七二年に遷宮式典が開催され、諸国からの参賀・朝貢の中で七支刀が贈られた。この式典を模して人形が造られた」

 という事となり、年代も合い、七支刀の作刀動機や形状の意味も、磯上物部神社の人形が何かも合理的に説明できる事になる。
 ちなみに『書紀』に七支刀の所在は記されず、正倉院にも収蔵されていないところから、玉垂命の流れをくむ物部一族が、何時かの時点で筑後から石上神社に運び秘蔵していたのではないか。

4、性別は一致し没年も近似

 さらに、由緒書では玉垂命の没年は仁徳七八年(三九〇)とされ、『書紀』の神功の没年三八九年と近似し、また、次代の応神元年(三九〇)と一致する。
◆『書紀』神功六九年(己丑二六九・実年三八九)四月丁丑(十七日)皇太后、稚桜宮に崩りましぬ。〈時に年一百歳。〉

 また、『筑後国神名帳』に「玉垂姫神」、『袖下抄』に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」とあるように、玉垂命は女性で、いわば女王とされていることも神功皇后と同じなのだ。
 結局、神功の事績とされる「三韓征伐」は、本来は三潴遷都を行った玉垂命の事績となろう。
 こうしたことから、栲幡千千姫に続き、筑後の玉垂命(初代)もまた神功に擬せられており、「四世紀後半高良玉垂命は、百済と盟約し新羅と激闘を繰り広げた。そして、戦禍の危険を避け博多湾岸より三潴に遷都した。百済王はこれを祝し、半島七か国平定に因んだ「七支刀」を送った。『書紀』はこれを神功皇后、即ちヤマト天皇家の事績に取り込んだ」
と考えられる。そして、その玉垂命の活躍が九州北部に神功皇后伝承や信仰となって今に伝えられているのだ。

 

五、高良玉垂命と「倭の五王」

1、玉垂命と「九体の皇子」

 さて、先述のとおり、玉垂命の没年は、神功皇后が「筑紫で産んだ」応神元年(二七〇年・実年三九〇年)と合致する。そして、玉垂命には「九体の皇子」がいたという。
(1)斯礼賀志命(しれがしのみこと)、
(2)朝日豊盛命(あさひとよさかりのみこと)、
(3) 暮日豊盛命(くれひとよさかりのみこと)、
(4)渕志命(ふちしのみこと)、
(5)谿上命(たにがみのみこと)、
(6)那男美命(なおみのみこと)、
(7)坂本命、
(8)安子奇命(あしきのみこと)、
(9)安楽応宝秘命(あらおほびのみこと)だ。

 『高良社大祝旧記抜書』(元禄一五年成立)によれば、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続くとある。つまり、
◎九州王朝:玉垂命(~三八九)―長男斯礼賀志(三九〇~)―次男朝日豊盛―(この系統が継ぐ)という系列だ。
 ところで、これ以後五世紀の倭国は「倭の五王」の時代に入っていく。
「倭の五王」の「讃」は「晋安帝(三九六~四一八)の時倭王賛有り」とされ、その後も四二一年と四二五年に朝貢している。四三八年に朝貢記事の見える「珍」は讃の弟とされる。(『宋書』讃死して弟珍立つ)。そして「珍」(『梁書』では「弥」)の息子が「済」(四四三年と四五一年に朝貢)。その息子が「興」(四六二年朝貢)。その弟が「武」(四七八年朝貢)なのだ。つまり、
◎倭の五王・・「讃」―弟「珍」―息子「済」―息子「興」―弟「武」

 という系列で、兄「讃」を弟「珍」が継ぎ、その系列が累代の倭王となる。これは、玉垂命の系列と一致する。そして「讃」は斯礼賀志命であり、『書紀』では応神に擬せられ、「珍」は朝日豊盛命となろう。
 通説では、「倭の五王」をヤマト天皇家の天皇と接合しようとするが、年代・血縁関係の何れかが矛盾するうえ、天皇が一字名を名乗った事はなく(注6)、また中国王朝への朝貢記録もない。
 しかし、玉垂命を「筑紫の女王=倭国(九州王朝)の王」とすれば、年代・血縁関係も矛盾なく説明できるのだ。

 

六、『書紀』に盗まれた「筑紫の女王」たち

 ヤマト天皇家には女王がいなかった。しかし海外史書には卑弥呼・壱予がいた。また現在でも九州には神功皇后伝承・信仰が色濃く残っているほどだから、恐らく当時新羅・百済と交流した倭国女王の記録・記憶はより鮮明だったと考えられる。こうした女王の事績を取り込むために神功皇后紀が編纂され、天孫降臨神話からの栲幡千千姫の事績の盗用と、実年と二運・一二〇年繰り上げという手法で卑弥呼・壱予・玉垂命の事績を神功皇后一人に集めたのだ。
 『書紀』編者はこうして「筑紫の女王たち」を盗み「あの親魏倭王の金印を得た卑弥呼も、後継者壱予も、半島を平らげた女王も、凡て摂政たる神功皇后、即ちヤマト天皇家の人物だった」という物語を作り上げたのだ。

(注1)博多湾岸は板付遺跡に見られるような「縄文水田」が広がる「豊葦原瑞穂の国」に相応しい地域といえる。また、文献的には邇邇芸命(『古事記』)の「韓国に向かい真来通り」の詞に相応しい位置にあり、高祖山地付近には「日向山・日向峠・日向川」や「くしふるやま」も存在する。さらに、考古学的にも、我が国で最も早く「三種の神器」が埋葬された吉武遺跡があり、青銅の武器を持った勢力と、石の武器を持った在地の勢力が戦ったことを示す「兵士の墓」も存在する。また三雲・平原・井原では王墓級の遺跡が紀元前後約三〇〇年続くなど邇邇芸命らの最初の侵攻地に相応しい。

(注2)天孫降臨時に、実際の指揮を執ったのが栲幡千千姫であることは、西村秀己氏が「天孫降臨の詳察」(古田史学会報四十五号二〇〇〇年 八月一日)で詳細に述べている。なお、「神代紀第九段一書第一・第二」では、天照は、父の天忍穂耳と母の栲幡千千姫とともに瓊瓊杵尊を降臨させようとしたが、天忍穂耳は本国(天)に帰ったとあるから、降臨したのは栲幡千千姫と瓊瓊杵尊になる。

(注3)
➀『三国史記』
朝鮮半島に現存する最古の歴史書で一一四五年に完成、全五〇巻で、新羅本紀(巻一~巻一二)高句麗本紀(巻一三~巻二二)百済本紀(巻二三~巻二八)のほか年表や列伝他で構成されている。

➁「二運」
干支は六〇年で一巡する。これを「一運」といい、「二運」なら一二〇年となる。

(注4)古賀達也「九州王朝の築後遷宮ー玉垂命と九州王朝の都ー」(『新・古代学』古田武彦とともに第四集一九九九年新泉社)ほか。

(注5)古田武彦『古代史六〇の証言―金印から吉野ケ里まで、九州の真実―』(一九九一年かたりべ文庫)

(注6)七支刀の銘文の「為倭王旨造」を「倭王旨(し)の為に造る」と読めば、贈られた倭王は「旨」という一字名を持っていたことになる。

(参考)古田武彦『盗まれた神話―記紀の秘密』(朝日新聞社一九七五年。ミネルヴァ書房より二〇一〇年に復刊)


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