『古代に真実を求めて』 第二十二集

  よみがえる壹與 佐賀県「與止姫伝説」の分析 古賀達也


肥前の「與止姫」伝承と女王壹與

古賀達也

一、『風土記』の中の卑弥呼

 邪馬壹国の女王、卑弥呼が『風土記』に甕依姫(みかよりひめ)として現われていたことを古田武彦氏が論証された(注①)。それにより、『風土記』は多元史観による再検討を求められることとなった。また、卑弥呼と甕依姫を同定した手法を参考にして、地方伝承の再検討を試みたのが、『市民の古代』第十集の拙論「最後の九州王朝」(注②)であった。
 本稿では『風土記』と地方伝承の多元史観による分析で、ある人物の同定を試みた。その人物とは、『肥前国風土記』に「世田姫」と記され、同逸文では「與止姫(よとひめ)」あるいは「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」とも記された、肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の御祭神である。ちなみに、近畿の大河淀川の名はこの與止姫神を平安初期に勧請(注③)したことに由来しているという。そして、この『肥前国風土記』や地元伝承に現われた與止姫に比定した人物は、卑弥呼の宗女で邪馬壹国の女王に即位した壹與である。『魏志倭人伝』に記された倭国の二人の女王。その一人、卑弥呼が『風土記』に甕依姫として伝えられているのなら、もう一人の女王壹與が『風土記』に記されていたとしても不思議ではない。幸いなことに、壹與に比定を試みた與止姫は現在も地方伝承として、あるいは後代史料に少なからず登場する。

 

二、『風土記』の世田姫

 與止姫伝説の文献上の初見は先にあげた『肥前国風土記』であるが、それには「世田姫」とある。次の通りだ。

佐嘉の郡

(前略)郡の西に川あり。名を佐嘉川といふ。年魚あり。其の源は郡の北の山より出て、南に流れて海に入る。此の川上に荒ぶる神ありて、往来の人、半ばを生かし、半ばを殺しき。ここに、縣主等の祖大荒田占問ひき。時に、土蜘蛛、大山田女・狭山田女といふものあり。二の女子云ひしく、「下田の村の土を取りて、人形・馬形を作りて、此の神を祭祀らば、必ず應和ぎなむ」といひき。大荒田、即ち其の辭の随に、此の神を祭るに、神、此の祭りをうけて、逐に應和ぎき。ここに、大荒田いひしく「此の婦は、如是、實に賢女(さかしめ)なり。故、賢女を以ちて、國の名と為むと欲ふ」といひき。因りて賢女の郡といひき。今、佐嘉の郡と謂ふは、訛れるなり。又、此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神・・鰐魚を謂ふ・・年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従う。或は、人、其の魚を畏めば殃なく、或は、人、捕り食へば死ぬることもあり。凡て、此の魚等、二三日住まり、還りて海に入る。(『風土記』日本古典文学大系2より)

 『肥前国風土記』の前半に見える荒ぶる神が往来の人々を半ば生かし半ば殺すというパターンは甕依姫の説話に酷似している。しかも縣主等の祖「大荒田」という人物が大山田女・狭山田女という二人の女性の助言に従って、荒ぶる神を祭るという点も類似している。

 更に注目すべき事はその祭り方だ。人形と馬形で祭るといった風習で思い起こされるのが、筑紫の君・磐井の墓、岩戸山古墳の石人・石馬だ。又、「縣主等の祖」という肩書きも示唆的である。九州王朝の行政区画「縣」の「主」の祖というのだから、大荒田は九州王朝の有力者の一人と見るべきであろう。その大荒田が祭った神ならば、更に古い九州王朝始源の人物と推定できる。この荒ぶる神が後半の石神、世田姫と同一神かは文面からは定かではないが、共に佐嘉川の川上にあることや、荒ぶる神が過去の説話として記され、世田姫は『風土記』編纂時の「石神」であることから、過去の荒ぶる神が世田姫として祭られていたのかもしれない。いずれにしてもこれらが九州王朝の説話である可能性は濃厚である。この世田姫が海神を従えていると記されていることも重要な問題を含んでいるが、このことについては後に触れる。

 次に「風土記逸文」にある與止姫について見てみる。『延喜式神名帳頭註』(一五〇三年成立)に次の記事がある。

 風土記に曰く、人皇卅代欽明天皇の廿五年、甲申のとし、冬十一月朔日、甲子のひ、肥前の國佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座あり。一の名は豊姫、一の名は淀姫なり。(『風土記』日本古典文学大系2より)

 日本古典文学大系『風土記』の解説では、風土記にはこの種の鎮座は記さない、後代の記事とすべきである、として信憑性に疑問を投げかけている。しかし、九州には二種類の『風土記』が存在しており、古田氏の研究(注④)によれば、行政区画を「郡」とするものと「縣」とするものとに分けられる。そして、「縣」風土記こそ九州王朝が大和朝廷の「郡」風土記に先立って編纂したものであることを考慮すれば、「風土記にはこの種の鎮座は記さない」とする見解は不適切である。「郡」風土記にはなくても「縣」風土記になかったとは断言できないのだ。
 同「逸文」の構成は鎮座記事と神名記事からなっている。欽明天皇二五年(五六四)と言えば、筑紫の君・磐井が継体に倒されて約三十年後であるが、先の『肥前国風土記』にある「人形・馬形」による祭祀と磐井の墓の石人・石馬との関連が年代的にも一致してきそうである。更に、この鎮座記事を裏付ける史料がある。『太宰管内志』の次の記事だ。

佐嘉郡 本荘大明神

「肥陽古跡記」に佐嘉郡〔與賀上郷十村ノ内〕本荘妙見山淀姫大明神〔本地十一面観世音菩薩也〕云云。知僧元〔甲申〕年九月廿八日夜於大塚妙見社来現垂跡給之神霊也(後略)。
(〔 〕内は細注)

 九州年号「知僧」(『二中歴』では「和僧」)を持つ神社の縁起譚が記載されているのだが、同じ與止姫を祭神とし、しかも場所も同じ佐嘉郡である。知僧元年(五六五)の干支は乙酉であり、甲申は師安元年(五六四)だが、これが欽明天皇二五年と一致する(注⑤)。とすれば、この時期この地域に與止姫を祭った伝承が「風土記逸文」や神社縁起に残されていたと考えられる。更に言及するならば、九州王朝が編纂した「縣」風土記には九州年号が使用され、九州王朝による神社勧請あるいは鎮座記事が記されていた可能性もあろう。ならば、疑問有りとされた先の「風土記逸文」の史料価値は高いと言える。

 次に神名記事であるが、「與止姫」「豊姫」「淀姫」と混乱が見られる。『風土記』編纂時点において、既に祭神の名が、あるいは発音に数種の伝承が存在していたものと思われる。
以上、『風土記』に現われた與止姫について考察を続けたが、まとめれば次のようになる。

(一)世田姫は與止姫、淀姫と同一人物であること。
(二)九州王朝始源の人物であること。
(三)甕依姫(卑弥呼)の説話と類似した現われ方をすること。
(四)海神を従えた人物であること。

 以上であるが、『風土記』に登場する「世田姫」あるいは「與止姫」が壹與であるとしても矛盾はないようだ。

 

三、「神功皇后の三韓征伐」譚と與止姫

 『古事記』『日本書紀』に見える「神功皇后の三韓征伐」譚は史実としては疑問視されているが、多元史観によればこれも本来九州王朝の伝承であったものを大和朝廷側が盗作した可能性が高い。ところが『記紀』とは少し異なった「干珠満珠型三韓征伐」譚というものも存在する。そこでは、神功皇后に二人の妹、宝満と河上(與止姫)がいて皇后を助け、その際に海神からもらった干珠と満珠により海を干上がらせたり、潮を満ちさせたりして敵兵を溺れさせるといった説話だ。文献としての初見は十二世紀に成立した『水鏡(前田家本)』のようだが、十四世紀成立の『八幡愚童訓』や『河上神社文書』にも見える。
 この説話で活躍するのが神功の二人の妹、宝満と河上(與止姫)である(『水鏡』では香椎と河上とする)。中でも河上は海神から干珠・満珠をもらう時の使者であり、戦闘場面では珠を海に投げ入れて活躍している。そして干珠・満珠は河上神社に納められたとあり、この説話の中心人物的存在だ。
 この説話が指し示すことは次の点である。本来、宝満・河上とされた二人の女性の活躍説話であったものを、『記紀』の「神功皇后の三韓征伐」譚に結びつけている。すなわち、神功皇后と同時代の説話としてとらえられている。たとえば『日本書紀』の神功紀に『魏志倭人伝』の卑弥呼と壹與の記事が神功皇后の事績として記されていることは有名だ。要するに、神功皇后と卑弥呼等とが同時代の人物であったと、『日本書紀』の編者達には理解されていたのである(注⑥)。 とすれば同様に宝満・河上なる人物も神功皇后と同時代に活躍していたという認識の上で、この説話は語られていることになる。このことはとりもなおさず、宝満と河上(與止姫)は卑弥呼と同時代の人物であることをも指し示す。
 こうして、もう一つの與止姫伝説「干珠満珠型三韓征伐」も與止姫を壹與とする仮説を支持するのである。また、この仮説は宝満=卑弥呼の可能性をも暗示するが、今後の研究課題としておきたい(注⑦)。
 この宝満・河上の戦闘譚で浮かび上がってくるのが『魏志倭人伝』に記された邪馬壹国と狗奴国との戦争記事だ。この戦争の伝承が「三韓征伐」譚と結びついたのかもしれない。

 

四、「干珠」「満珠」の謎

 次に、與止姫と干珠満珠が何故つながっているのかについて検討してみる。おそらく山幸・海幸説話がバックボーンにあっての説話であろうが、藤井綏子氏が興味深い説を述べられている。それは、干珠満珠説話の発祥の地は潮の干満の差が激しい有明海ではないか、というものである(注⑧)。有明海の干満の差は最高六メートルにもおよび、その影響で筑後川の流れがわたしの故郷の久留米市まで逆流するほどだ。したがって佐賀県の興止姫伝説に干珠満珠が登場しても不思議ではない。ちなみに河上神社には文化財として今も干珠と満珠があるという(注⑨)。
 それでは干珠満珠とは何か。『八幡愚童訓』『河上文書』には干珠は白珠、満珠は青珠とある。そして、それに対応するかのように『魏志倭人伝』には倭国の産物として「真珠」「青玉」をあげている。

 壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送りて還らしむ。因りて臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。(古田武彦『倭人伝を徹底して読む』より)。

 ここに倭国からの献上品として「白珠」と「青大句珠」が登場する。壹與と白珠・青大句珠、そして與止姫と干珠(白珠)・満珠(青珠)。ここでも壹與=與止姫を示唆する物的証拠の存在が明らかとなった。
 先にあげた與止姫と海神との関係についても検討してみよう。『風土記』では海神が毎年訪れるとあるが、「三韓征伐」譚では干珠満珠を海神からもらったことになっているので、與止姫への献上品として海神がもたらしたのかもしれない。とりわけ『魏志倭人伝』にある「白珠」は真珠のことなので、海神すなわち海の民の王からの献上品にふさわしい。となれば、この海神と記された者は、例の海幸の系統を引く人物と思われてならない。そして、邪馬壹国の女王壹與こそ、その国名(邪馬)が示すように山幸の系統をひく王と考えれば、『風土記』の記事がリアリティーを帯びてくるのである。

 

五、共通する個有名「與」

 人物を同定する場合、最も重要かつ基本的な論点、それは「名前」だ。安易な人名比定による同定は危険であるが、同一人物であるからには名前がまったく異なるとすれば、これもまた問題である。
 すでに読者はお気付きであろうが、壹與と與止姫の共通項、それは「與」の一字だ。壹與の壹は国名(邪馬壹国の壹)を姓としたもので、固有名部分は「與」である。古田氏によれば、「與」は中国風一字名称と考えられ、国号を姓とし中国風一字名称を付して、倭王は中国の天子への上表文の自署名としていたとされる(注⑪)。たとえば『日本書紀』景行紀に登場する「八女津媛」などの場合は地名(八女)プラス称号(媛)と考えられる。與止姫の場合は、『肥前国風土記』には石神の名が世田姫であると記しており、この地方に「よた」あるいは「よと」と呼ばれた地域は見当らない。したがって、「與止」は固有名と見てよいであろう。壹與の固有名「與」、そして與止姫の「與止」。両者の「與」の一致は同定の大きな根拠となる。

 

六、よみがえる壹與

 八世紀中葉に成立した『肥前国風土記』に現われた世田姫は、十二世紀成立の『水鏡』では河上大明神と記され神功皇后の妹として活躍し、現在も淀姫様として佐賀県で語りつがれている。その與止姫伝説が邪馬壹国の壹與の伝承であったことを論証してきたが、ここで整理してみよう。

(一)『肥前国風土記』の分析により、世田姫は九州王朝始源の人物であり、「風土記逸文」では與止姫として記されている。また、説話自体が甕依姫(卑弥呼)記事と酷似しており、卑弥呼との関係がうかがえる。

(二)與止姫を祭った神社縁起に九州年号が現われ、六世紀には九州王朝が自らの祭神とした形跡があること。

(三)神功皇后の「干珠満珠型三韓征伐」説話の中心的人物として活躍しており、與止姫を卑弥呼・壹與と同時代の人物であることを示唆している。

(四)「干珠満珠型三韓征伐」説話に現われる二つの珠の色が青と白であり、『魏志倭人伝』に伝える壹與の貢献品、白珠と青大句珠に対応していること。

(五)名前にそれぞれ「與」の字を持っていること。

 以上の通り、時代・名前が共通しており、ともに九州王朝始源の女性であることから、與止姫が壹與であると同定してもよいと思われる。とりわけ、干珠満珠の色と名前の「與」の一致は偶然とは言いがたい。ここに、古田武彦氏による卑弥呼=甕依姫説に加えて、壹與=與止姫説を提起したい。そして、この仮説は邪馬壹国の領域が佐賀県有明海側にも及んでいたことを示唆する。このことを裏付けるかのように、佐賀県から大規模な弥生時代の環濠集落「吉野ヶ里」遺跡(注⑫)が発見された。まさに邪馬壹国が、壹與がよみがえったのである。

 

七、『高良記』系図の「世斗命」

 最後に不思議な系図の存在を紹介したい。それは高良大社(福岡県久留米市)所蔵の『高良記』に記された「系図」だ。この『高良記』も「千珠満珠型三韓征伐」説話を載せている縁起だが、その「三韓征伐」に参加した神々が「異国征伐之時三百七十五人ノ神立」として記されている。
 そこには「稚日女命」から「天日神命」まで四十四代の名前が並んでいる。しかも二十五代目にあたる「五櫛彦命」から分岐して近畿天皇家の祖先ウガヤフキアエズヘと続いているのだ。古田氏はこのことに注目して、この「系図」は九州王朝のものであり、近畿天皇家は傍流であると主張したものではないかとされた(注⑬)。もし、氏の見解が正しければ、「異国征伐之時三百七十五人ノ神立」は九州王朝の歴代の王名が記された「系図」となる。その中には卑弥呼や壹與の名前が記されている可能性もあるはずだ。そして、その痕跡があるのだ。
 『魏志倭人伝』によれば、長らく男王が続いた後、卑弥呼が擁立されたとあるので、系図の中で男性名が続いた後の女性が卑弥呼にあたる可能性がある。二十一代目の「天造日女命」がそれに相当するようだ。他にも何人かの女性と思われる名前があるが、その前に男性名が九人も並んでいるのは「天造日女命」だけだ。そしてその次の名前が「天世斗命」であり、與止姫の「よと」と「世斗」とが共通する。ただ、「天世斗命」が女性名と判断できないが、名前が一致することから壹與のことである可能性がある。『高良記』の「系図」研究は今後の重要課題だ。また、與止姫伝説は長崎県にも残っており、これらの分析も今後の課題である(注⑭)。
 (二〇一八年十一月一日、改訂筆了)

(注)

①古田武彦著『古代は輝いていたⅠ』『よみがえる卑弥呼』

②鹿児島県に伝わる「大宮姫」が『続日本紀』の文武四年条にある「薩摩比売」と同人物であるとする説を発表した。藤井綏子氏(故人)がその著書『九州ノート』において、大宮姫伝説を九州王朝系の伝承であるかもしれないと既に示唆しておられた。論文発表後、藤井氏からのお手紙によりこのことを知った。

③藤井綏子著『東背振村三津』に與止姫神勧請のことが触れられている。

④古田武彦著『古代は輝いていたⅢ』

⑤九州年号の「大化五子年」土器などに現れた干支の一年ずれ問題については次の拙稿で論じた。
 古賀達也「二つの試金石 --- 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房)に収録。

⑥もちろん両者は別の時代の人物である。卑弥呼は三世紀前半ないし中葉、神功は四世紀前半ないし中葉。『日本書紀』の紀年は二倍年暦などにより大きくずれているケースがある。

⑦甕依姫説話の「麁猛神」は「ソタケルノカミ」と訓じ、筑紫神社(筑紫野市)の祭神「八十猛尊」のことではないかと、古田武彦氏は『よみがえる卑弥呼』で指摘された。甕依姫(卑弥呼)を「祝」として祭った「麁猛神」が、氏の指摘通り筑紫神社の祭神「八十猛尊」であれば、筑紫神社には祭神として「宝満大神」も祭られていることが注目される。祭る側が後に祭られる側に替わることは考えられるし、そうであれば宝満=卑弥呼の傍証とも言えよう。

⑧藤井綏子著『東背振村三津』

⑨同右。

⑩古田武彦著『ここに古代王朝ありき』に投馬国の所在地を鹿児島県指宿市付近とされている。

⑪古田武彦著『古代は輝いていたⅠ』

⑫佐賀県神崎郡吉野ヶ里町・神埼市から周濠と城柵を持つわが国最大規模の弥生集落遣跡(吉野ヶ里遺跡)が出土した。その遺構(物見櫓など)は『魏志倭人伝』に記された邪馬壹国の描写に似ているとされる。

⑬一九八八年十一月二七日大阪府茨木市での講演会(市民の古代研究会主催)で発表。

⑭長崎県佐世保市に淀姫神社があり、豊玉姫をご祭神としている。

※本稿は『市民の古代 十一集』(市民の古代研究会編、新泉社。一九八九年)に掲載された拙稿「よみがえる壹與 佐賀県『與止姫伝説』の分析」を現在の知見に基づき、大幅に加筆修正したものである。(古賀)


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