大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1) (その2) (その3)
新・万葉の覚醒(Ⅰ)・(Ⅱ)正木裕
YouTube講演 「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」 正木裕
YouTube講演 誰も知らなかった倭姫王の生涯 -- 薩摩で生涯を終えた倭姫王と倭国最後の王 正木裕
正木裕
鹿児島指宿の開聞岳の麓に 薩摩一の宮の「枚聞(ひらきき)神社」(鹿児島県指宿市開聞十町・「かいもん神社」とも)があり、その縁起を記す『開聞(かいもん)古事縁起』(『縁起』)に、枚聞(開聞)大神とされる「大宮姫」の伝承が記されています。
『縁起』によれば、大宮姫は白雉元年(六五〇)に薩摩の磐屋で誕生し、僧の智通に育てられ、太宰府に奏上して二歳で都にのぼり、その後近江の宮に遷って六六五年十三歳の時に「天智」の皇后となったとされています。
『開聞故事縁起』(抜粋)(注1)
一、於磐屋智通僧正勤念虚空蔵聞持法時開聞神御誕生之事
孝徳天皇白雉元庚戌(六五〇)春二月十八日辰尅(略)産名を瑞照姫と称し奉る。
一、開聞神二歳入京之事《陸地ヨリ御上洛》
そもそも開聞神女は磐屋に降誕され、智通と仙翁と草庵に敬育す。往時、太宰府《又ハ都督府ト》に奏し以て上都を告ぐ。此の宣に依り二歳にして入京す。
一、同十三歳立皇后宮事
時に壬戌年(六六二)天智天皇即位。同帝四乙丑年(六六五)鎌足を大織冠とす。同六丁卯年(六六七)南都朝倉都を迂(まわ)り、近江州志賀に都す。前乙丑年(六六五)前の皇后薨る。玆(ここ)に依り大宮姫を立て皇后宮(きさいのみや)としたまふ也。
六五〇年生まれなら六六五年では十三歳ではなく、天智が朝倉に行くのは斉明七年(六六一)のこと。また、六六五年に亡くなるのは天智の妹で孝徳の后の「間人(はしひと)大后」というように、『縁起』の記述には不正確なところがありますが、要するに「薩摩生まれの大宮姫が、太宰府を経て近江宮で天智の皇后となった」という伝承です。
その後、大宮姫は宮廷で「難事」にあい、これを見た大海人(天武)は天智の崩御を前にして、生土(生地の薩摩)に帰るよう告げます。姫は、伊勢参拝を理由に暇を願いますが天智は許しませんでした。その後天智の末年の天智十年(六七一)十一月にようやく許されて出立することを得ました。
◆(同十三歳立皇后宮事)浄御原天皇(大海人・天武)此の難事を聞き深く歎かれ、秘に皇后に、「此に皇后若し恥有らんや、私(ひそか)に生土の所に帰らむと欲しめせ」と告ぐ。(大宮姫)伊勢参宮に言寄せて、御暇を乞う。(略)帝(天智)許さず。(略)(後に)宣可あり。(略)時は天智天皇十辛未年冬十一月四日。
その際、大海人は歌を詠んで大宮姫を送ります。一方、大友皇子は兵を挙げて大宮姫を殺そうとしますが、姫は逃れて伊勢の安濃津から出帆し、「壬申の乱」の天武二年(六七二)に薩摩頴娃郡(えいぐん)に帰還したといいます。
一、開聞后御下向之事(略)
(出立)時に浄御原天皇一首の詩を送る。「月光似鏡無明罪 風気如刀不破愁 随見随聞皆惨慄 亦秋獨作我身秋」。皇后御返しに、 「なかれゆく われはもくつとなりしとも きみしからみと なりてととめよ」(略)是に大友皇子兵勢を催し、大宮姫を弑せんと欲し、衆兵を路次に《足+薛》(めぐ)らす。(略)川波高く沂(岸)を遡り遂に逆兵皆退去す。
一、薩州御着岸之事(略)
布帆御恙なく、終に翌天武帝白鳳元壬申(六七二)(注2)冬十一月四日薩州頴娃(えい)郡山川牟瀬浜に着きたまふ也。(*頴娃郡は「評制」では衣評(えのこほり)にあたる。現在の南九州市・指宿市。)
こうした「古伝承」について、古代より我が国は一貫して近畿大和の王権が支配していたとする「一元史観」では、
〇我が国の古代史、特に七世紀以降は大和朝廷の「正史」である『日本書紀』『続日本紀』をもとに考えるべき。各地に残るこの時代の「民間伝承(古伝承)」は、あくまで「民話」として取り扱われるべきもので、歴史資料としての信頼性は低い。『縁起』に記す大宮姫伝承も、開聞岳や枚聞神社の由緒を修飾するために創作されたものだ、と考えられています。
しかし、大和朝廷以前の我が国には、各地に様々な「王権」が存在し、なかでも中国から「倭国」と呼ばれその盟主とされていたのは、九州に本拠を置く王権だったとする「多元史観」の立場では、
○「大宮姫伝承」など、我が国に残る多くの古伝承は、全く架空の「創作物・創造物」ではなく「一定の史実」を反映した、歴史の伝承である。
もちろん、『日本書紀』等の影響を受け、これに合うよう様々な改変が加えられており、そのままの事実とすることはできませんが、適切な史料批判をおこない、改変部分を明らかにし、潤色を取り除くことにより、古代の史実・真実に近づくことが出来ると考えます。
そうした観点から大宮姫伝承を検証すると、
〇「大宮姫」の足跡は『書紀』に記す「倭姫王(やまとひめのおおきみ)」や、『続日本紀』の文武四年(七〇〇)に大和朝廷の支配に抵抗した「薩末比売(さつまひめ)」と重なることから、『縁起』の大宮姫と、『書紀』の倭姫王、『続日本紀』の薩末比売は「同一人物」だったということがわかります。
本稿ではこれを順次明らかにしていきますが、まず「倭姫王」と「大宮姫」の関係から検討を始めていきます。
天智天皇は天智七年(六六八)の即位直後「倭姫王」を「皇后」に迎えます。
◆『書紀』天智七年(六六八)正月戊子(三日)に、皇太子天皇即位す。(略)
二月の朔に、古人大兄皇子の女(むすめ)倭姫王を立てて皇后とす。
天智は即位の前に多数の嬪(側室)を設け、中でも遠智娘(をちのいらつめ)は天武妃となる大田皇女、持統天皇となる鸕野皇女(うののひめみこ)を産んでおり、姪娘(めいのいらつめ)は元明天皇となる阿陪皇女を産んでいます。また、天智の後を継いだ大友皇子の母は伊賀采女宅子娘(やかこのいらつめ)です。こうした、後世に天皇となる人物や、天智の後継者大友皇子を産んだ重要な女性たちを差し置いて、古人大兄皇子の女を「皇后」としたというのです。
ところが、古人大兄は大化元年に謀反の罪で妻子共々殺され、妃妾は自経(わな)きて死んだ人物です。そして殺したのはほかでもない「中大兄」即ち天智その人なのです。
◆『書紀』大化元年(六四五)九月戊辰(一二日)に、古人皇子(古人太子・古人大兄・吉野太子とも)と蘇我田口臣川掘・物部朴井連椎子(えゐのむらじしひのみ)・吉備笠臣垂(しだる)・倭漢文直麻呂(あやのふみまろ)・朴市秦造田来津(えちはたのたつく)、謀反す。中大兄、即ち菟田朴室古(うだのえむろのふる)・高麗宮知(こまのみやしり)、將兵若干を使して古人大市皇子等を討つ。或本に云はく、十一月甲午卅日、中大兄、阿倍渠曾倍(こそへ)臣・佐伯部子麻呂二人、將兵卅人を使して、古人大兄を攻め、古人大兄と子を斬り、其の妃妾は自経(わな)きて死す。
つまり、倭姫王は父母兄弟を皆殺しにした天智の皇后になったのです。逆に言えば、天智は謀反の罪で本人のみならず妻子・妾を皆殺しにした者の娘を「皇后」に迎えたというのです。
しかも『書紀』では、「皇后」に据えたばかりか、大海人(天武)は、天智の後継者として「倭姫王の即位」を薦めたと記しています。
◆『書紀』天智十年(六七一)十月庚辰(一七日)(大海人)請ふ、洪業(ひつぎ)を奉(あ)げて大后に付属(さず)けまつらむ。
◆同「天武即位前紀」陛下、天下を挙げて皇后に附(よ)せたまへ。
古人大兄の謀反は冤罪でしたが、それでも「皆殺し」にした者の娘を皇后にし、さらに天皇に推戴されるというのは不可解です。こうしたことから、『書紀』に記す「倭姫王の出自」は極めておかしいと言わざるを得ません。
ところで、同時代を記す『旧唐書』には「倭国と日本国は別国」で「日本国は倭国を併合」したとあります。
◆『旧唐書』(倭国)倭国は古の「倭奴国」なり。京師(*長安)を去ること一萬四千里、新羅の東南大海の中に在り、山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。世々中国と通ず。四面小島。五〇余国、皆付属す。
倭奴国は五十七年に漢の光武帝から「志賀島の金印」を下賜された九州を拠点とする国ですから、「倭国」はその後継国として世々(歴代)中国と交流してきたことになります。
そして「四面小島」は九州島を指す一方、「五〇余国」は律令制定以前の国数(「令制国六六国」から、制定後に分割された十国と島の三国を除くと「五〇余国」)に匹敵し、「東西五月行、南北三月行」とあることからも「九州の倭国」が全国を支配していたことを示します。私達はこれを「九州王朝」と呼んでいます。
一方、日本国は「旧小国」でしたが、大国の「倭国」を併合したとあります。
◆『旧唐書』(日本国)日本国は、倭国の別種なり。その国、日の辺に在るが故に、日本を以って名とす。或は曰く、倭国自らその名の雅びならざるをにくみ、改めて日本とす、と。或は云う、日本はもと小国にして倭国の地を併せたり、と。その人朝に入る者、多くは自ら大なるをおごり、実を以って対へず、故に中国これを疑う。また云う、その国界は東西南北各数千里。西界と南界は大海に至り、東界と北界には大山ありて限りとす。山外は即ち毛人の国なり。
「東界と北界に大山」は近畿から見た日本アルプスの姿であり、ここまでが日本国の限界ということです(アルプスの東に「毛の君の上毛国(上野国)」がある)。また唐代の一里は五六〇㍍ですから、数千里は二千~三千㎞となり、唐の長安まで届きます。従ってこれは『魏志倭人伝』の一里七十五㍍の「短里」(注3)であり、三〇〇㎞四方の領域となります。これは東の日本アルプス~西の明石付近、北の若狭湾~紀伊半島南端までに相当し、これが日本国の領域でした。
そして、「日本国」は、七〇三年に粟田真人が朝貢し則天武后から位階を授かっていますから、明らかに大和朝廷を意味しています。
◆『旧唐書』(日本国)長安三年(七〇三)、其の大臣朝臣真人(*粟田真人)来りて方物を貢ぐ。(略)則天(*則天武后)麟德殿に宴へたまひ、司膳卿(しぜんけい)の官を授けて、本国に還す。
つまり、七〇三年には元小国だった日本国(大和朝廷)が大国だった倭国(九州王朝)を「併合していた」というのが『旧唐書』の記述だったのです。
『旧唐書』では「倭国」とは大和朝廷ではなく、九州王朝を指す言葉でした。そうであれば、「倭姫王」とは「やまとひめ」ではなく、「わのひめ」即ち「倭国(九州王朝)の姫王」だと考えられます。
これを確実にするのは、「倭姫王」が皇后でかつ皇位継承者に相応しい地位にあるのに、その後の消息は記されず、生没年も没地も不詳とされることです。
『書紀』では天智十年(六七一)十月、大海人から即位を薦められていますが、実際に後継に決まったのは大友皇子でした。つまり、①大海人本人、及び大海人の推す倭姫王と、②天智と宅子娘の子大友皇子が天智の後継を争い、天智は大友皇子を後継に決めたということになるのです。
そして、この十月以降『書紀』に「倭姫王」の消息は途絶え、十一月には彼女に代わって『縁起』で「大宮姫」が近江宮を脱出し、大友の手を逃れ薩摩に帰るのです。大宮姫が倭姫王であれば、大友側が後継を争った「政敵」を除こうとするのも、『縁起』で大宮姫が大友に追われたのも自然に理解できます。
このように『書紀』の「倭姫王」と『縁起』の「大宮姫」を対比すると両者が同一人物であることがわかります。
ちなみに『縁起』には「開聞神二歳入京之事《陸地ヨリ御上洛》」とありますが、『書紀』天武十年記事に「種子島は京から五千余里」と書かれています。一里五六〇㍍の長里なら約三〇〇〇㎞、七五㍍の短里では約四〇〇㎞となり、飛鳥からの距離七〇〇㎞と全く合いません。しかし、京が「太宰府」なら約四〇〇㎞で一致します。そもそも薩摩から陸地を通り上洛できる「京」は九州島内に限られているのです。
◆『書紀』天武十年(六八一)八月二〇日に、多禰島に遺しし使人等、多禰国の図を貢れり。其の国の、京を去ること、五千余里、筑紫の南の海中に在り。
ここからも、大宮姫の生地は薩摩ですが、育ったのは筑紫太宰府で、彼女が九州王朝の姫だったことが推測されます。数え年で「二歳まで」とは満一年で、乳離れしたら太宰府に行ったということでしょう。
また、倭姫王を推した大海人も、直後に近江から吉野に逃れています。
◆『書紀』(天武即位前紀)四年(六七一)(注4)冬十月庚辰(一七日)、天皇(天智)、臥病(みやまひ)したまひて痛みたまふこと甚し。是に、蘇賀臣安麻侶を遣して、東宮(大海人)を召して大殿に引入る。時に安摩侶、素より東宮の好む所なり、密に東宮を顧(かへりみ)て曰く、「有意(こころしら)ひて言(のたま)へ」といふ。東宮、茲(ここ)に隱せる謀(はかりこと)有らむと疑ひて慎みたまふ。天皇、東宮に勅して鴻業(あまつひつぎのこと)を授く。乃ち辭讓(いな)びて曰はく、「臣、不幸にして元より多病有り、何んぞ能く社稷(くにいへ)を保たむ。願はくは陛下(きみ)、天下を舉(あ)げて皇后に附(よ)せたまへ。仍(なお)、大友皇子を立てて儲君(まうけのきみ)としたまへ。臣は今日出家して、陛下のために功德を脩(おこな)はむ。」とまうしたまふ。天皇之を聴(ゆる)したまふ。卽日(そのひ)に出家して法服をきたまふ。因りて以って、私の兵器を收(と)りて、悉(ことごとく)に司に納めたまふ。壬午(一九日)に吉野宮に入りたまふ。(略)或(あるひと)の曰く「虎に翼を着けて放(はな)てり」といふ。
『書紀』では、この「吉野宮」は「奈良の吉野」のように描かれていますが、吉野宮の候補地(宮滝付近)の主要な建物遺跡は聖武天皇時代のもので、天武・持統朝では二間✖六間と二間✖四間の掘立柱建物が東西に二軒あるのみ。とても天武が家臣や家族を率いて壬申の乱前に籠れる場所ではありません。そもそも奈良吉野は深い山中にあり、ここに逃れても「虎に翼」どころか「袋のネズミ」のような状況になるはずです。
一方、古田武彦氏はこの「吉野」とは吉野ヶ里(佐賀県神埼郡吉野ヶ里)で有名な「佐賀吉野」だとします(注5)。佐賀平野を流れる嘉瀬川の上流は吉野山(佐賀市三瀬村藤原字吉野山)で、川沿いに「吉野(兵庫町)」地名があり、そこには「宮」地名も残っています(注6)。
また、『書紀』には六七二年五月に唐の郭務悰らが甲冑・弓矢の提供を受けたとあり、「壬申の乱」はその翌月(六月)に起きています。ここから壬申の乱当時筑紫には唐の軍が駐留していたことがわかるのです。
◆『書紀』天武元年(六七二)三月己酉(一八日)内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣し、天皇の喪を郭務悰等に告ぐ。
五月壬寅(一二日)に、甲冑・弓矢を以て郭務悰等に賜ふ。是の日に郭務悰等に賜ひし物、總合(すべて)絁(ふとぎぬ)一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。
そして、大海人に従った安斗智徳(ちとこ)の日記によれば、大海人は唐人から戦術を聞いたといいます。
◆『釈日本紀』(調連淡海・安斗宿祢智徳等日記に云ふ)天皇、唐人等に問ひて曰はく、「汝の国は数(あまた)戦ふ国也。必ず戦術を知らむ、今如何」と。一人進み奏して言ふ、「厥(それ)唐国は先に覩者(ものみ)を遣し、以て地形の陰平及び消息を視さしむ。出師の方、或は夜襲、或は昼撃す。但し深き術は知らず」といふ。
また、一見不可解な次の天武の作とされる万葉歌も、天武が唐の支援を求め佐賀なる吉野に行ったのなら、歌中の「多良人」の多良(太良)は有明海沿岸の地名で、「好(hǎo)」は中国語で「同意」を意味する常用句ですから、吉野に駐留した郭務悰らの了解を得た喜びを表す歌として理解できるのです。
◆(万葉二七番歌)天皇(天武)、吉野の宮に幸しし時の御製歌
淑き人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ 多良人よく見(淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見<与・多> 良人四来三)
ところで、『旧唐書』『冊府元亀』には、白村江戦で「倭国酋長」が捕囚となり、高宗に謁見、封禅の儀(天下を平定した感謝を天に奉げる儀式)に参加し、唐の臣下となったと書かれています。
◆『旧唐書』(劉仁軌伝)麟徳二年(六六五)、泰山に封ず。仁軌、新羅及百済・耽羅・倭四国の酋長を領(ひき)いて赴会するに、高宗甚だ悦び、大司憲を櫂拜(てきはい)す。
◆『冊府元亀』(略)倭国、及新羅・百済・高麗等諸蕃の酋長、各の其の属を率いて扈從(こじゅう)す。
『旧唐書』の「倭」とは倭国(九州王朝)を言いますから、その「酋長」が囚われていたことになります。そして、『書紀』では「筑紫君薩夜麻」が唐に抑留されていたと書かれているのです(注7)。また、捕囚となった敗戦国の東夷の王(酋長)たちは、皆唐に臣従し、「羈縻(きび)政策(注8)」により唐の任命した「都督」として「都督府」に送り帰されています。
➀百済平定(六六〇)では四年後(六六四)に百済王子扶余隆を「熊津(ゆうしん)都督」に任命し熊津都督府に返す。
②高句麗平定(六六八)では高句麗宝蔵王を九年後(六七七)に「遼東州都督」に任命し朝鮮王に封じる。
③新羅でも文武王を「鶏林大都督」(六六三年鶏林大都督府設置)に任命。
そうした中、『書紀』では唯一天智六年十一月に「筑紫都督府」の名が記されているのです。
◆『書紀』天智六年(六六七)十一月(九日)百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。
薩夜麻も当然都督として帰され、壬申の乱当時は唐の軍事使節(郭務悰等)とともに「筑紫都督府」にいたことになります。「羈縻政策」によれば「倭国は唐の属国であり、高宗の任命した都督薩夜麻が統治すべき」ものとなります。しかし、近江の朝廷では大友を即位させました。これは、それまで戦ってきた相手の「唐」の「臣下の都督」として帰ってきた薩夜麻の統治も、その血統の倭姫王(大宮姫)の即位も許さなかったからではないでしょうか。その結果、姫とその支援者大海人は近江から、共に唐・薩夜麻のいる九州に逃れたという経緯となるでしょう。
そして唐と都督薩夜麻の支援する大海人(天武)が兵を起こし、倭姫王が去り、九州王朝と血縁のない大友の近江朝を遠慮なく滅ぼしたのです。結局「壬申の乱」とは唐及び都督となった九州王朝の薩夜麻側と、その支配を「好」としない近江朝との抗争だったと考えられるでしょう。
このように『書紀』の倭姫王と『開聞古事縁起』の大宮姫が同一人物で、かつ九州王朝の姫だと考えるとき、壬申の乱の原因がよく理解できるのです。
(注1)山岳宗教史研究叢書⑱修験道資料集〔二〕西日本編(五来重編。名著出版、二〇〇〇年)(読み下しは筆者)
(注2)九州年号「白鳳元年」は六六一年。ここはその異説で天武即位の壬申年(六七二)を元年とする「天武白鳳」年号で記されている。
(注3)『三国志』魏志韓伝で、韓地は方四千里とあるところ、実測値は約三百㎞で、一里約七十五㍍となるほか、この値は古代の算術書『周髀算経』でも確かめられている。
(注4)天智即位四年のこと。天智一〇年。あるいは『襲国偽僭考』『和漢年契』『衝口発』『茅窻漫録』に見える、天智七年戊辰(六六八)を元年とし、天智十年(六七一)まで続く元号「中元」の四年か。
(注5)古田武彦『壬申大乱』(東洋書林 二〇〇一年一〇月。二〇一二年ミネルヴァ書房より復刊)
(注6)『和名抄』に「肥前国神崎郡宮処(みやこ)」。『肥前国風土記』に「宮処郷在郡西南同天皇行幸之時、於此村奉造行宮 、因曰宮処郷(*倭名抄では「美夜止古呂」) (現神埼郡千代田町境原・兵庫町若宮付近か。)「肥前国庁」も嘉瀬川沿いに存在していた。
(注7)『書紀』持統四年(六九〇)一〇月二二日記事に「天豊財重日足姫天皇(斉明)の七年(六六一)、百済を救う役に、汝唐の軍の為に虜にせられたり。天命開別天皇(天智)三年(六六四)に洎びて、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝児、四人、唐人の計る所を奏聞さむと思欲へども、衣粮無きに縁りて、達ぐこと能ざることを憂ふ。」とある。
薩夜麻を「酋長」とするのは薩夜麻以外は皆「連」であること、筑紫・火(肥)・豊を支配していた磐井の子「葛子」が「筑紫の君」と呼ばれていたこと等による。
(注8)「羈縻(きび)政策」とは、臣従した王を「中国の官吏」である都督として前のまま国を治めさせる(統治権を承認する)政策のことをいう。
前章では、『書紀』に天智の皇后となり、天武(大海人)から天皇即位を勧められたと書かれる「倭姫王」は、薩摩『開聞古事縁起』に記す「大宮姫」と同一人物で、倭国(九州王朝)の姫だったことを述べました。それではなぜ、どのような経過で九州王朝の姫が天智の皇后になったのでしょうか。そこには倭国(九州王朝)の「近江遷都」が深くかかわっているのです。
『書紀』では天智六年(六六七)三月に「都を近江に遷す」とあり、近江大津宮(「水海大津宮」とも)の内裏正殿跡と考えられる遺跡も、滋賀県大津市錦織で発掘されています。そしてこの宮を建て飛鳥から近江に遷都し、近江朝廷を開いたのが天智天皇だとされています。
◆天智六年(六六七)三月己卯(十九日)に、都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓遷都することを願はずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く者多し。童謡亦衆(おほ)し。日々夜々、失火の処多し。
この遷都理由ですが、岩波の古典文学大系『日本書紀』補注では、「飛鳥の旧勢力を避け人心を一新するというのが定説で、他に水陸の交通の便が良いからとか、新羅からの防衛のため等という見解がある」としています。
しかし、天智六年に「飛鳥の旧勢力」との紛争があったという史料はどこにも見えないし、「交通の便」は遷都場所の選定理由であっても「遷都の理由」とはなりません。新羅が大和の政権を攻撃するなら、日本海沿いに若狭から攻め入る可能性も高く、まだ奈良盆地の方が防衛しやすいはずです。
また、「諷(そ)へ諫(あざむ)く」とは流言飛語の意味で、「日々夜々、失火の処多し」とは民衆が恐慌に陥ったことを示していますが、飛鳥から近江という近距離で、しかも平和裏の遷都にしては極端すぎる反応です。
一方、『海東諸国紀』(申叔舟著。一四七一年)では、斉明七年(六六一年・九州年号「白鳳元年」)に白鳳改元と近江遷都の記事があります。
◆(斉明)七年辛酉、白鳳と改元し、都を近江州に遷す。
「白鳳」は『書紀』に見えない「倭国年号(九州年号)」で、その改元と近江遷都が同時なら、遷都は倭国(九州王朝)の事績となります(注1)。そして、斉明六年に唐・新羅連合による攻撃で、百済王都の泗沘城・熊津城は陥落、百済王以下の王族は悉く捕虜となり百済は滅亡しており、唐・新羅連合がその余勢を駆って、百済の同盟国であった倭国の本拠「筑紫」に侵してくることは十分に予想できます。その場合、近江なら、筑紫の防衛線を突破されても、次は瀬戸内海での水軍による抵抗、さらに難波宮を防波堤にした抵抗と、「三段構え」の防衛線が構築できます。従って「飛鳥から近江」と違い、倭国の「筑紫から近江への遷都」は対唐・新羅戦への備えとして大きな意味を持つのです。
◆『書紀』斉明六年(六六〇)「今年七月に、新羅力を恃(たの)み勢を作して、隣に親(むつ)びず。唐人を引搆(ゐあは)せて、百済を傾(かたぶ)け覆す。君臣總(みな)俘(とりこ)にして、略(ほぼ)噍類(のこれるもの)無し。」
ただ、王と官僚や軍が遥か東国の近江に去ったなら、筑紫の民衆にとっては、戦争を前に「見捨てられた」ことになり、「恐慌に陥る」のもよく理解できるのです。
そして、「壬申の乱」での天武の言葉に、大臣など主要官僚が近江にいたとありますが、これも「筑紫から近江へ」遷ってきたものと考えられます。
◆天武元年(六七二)六月。天皇、高市皇子に謂ひて曰く、「其れ近江朝には左右大臣、及び智謀(かしこき)群臣、共に議を定む、今朕、与(とも)に事を計る者無し。」
そうした「筑紫から近江への王族や臣下の遷居」を示す伝承として、『扶桑略記』(十一世紀末頃成立の私撰歴史書。僧皇円の撰といわれる)に引用する『天満天神託宣記』があります。『託宣記』の近江国比良宮の禰宜の童の神託として、「天神は筑紫から近江に来た。その際、佛舍利玉帶銀造太刀尺鏡等の物具も持ってこさせた」とあります。
◆『扶桑略記』第二五(村上天皇)天暦九年(九五五)三月十二日(注2)。酉時。天満天神託宣記に云ふ。近江国比良宮にして禰宜神良種が男太郎丸。年七歳なる童に託して宣く、(略)「我が物具どもは此に来住せし始め皆置けり。佛舍利玉帶銀造太刀尺鏡なども有り。我が從者に老松・富部と云ふ者二人有り。笏は老松に持たせ、佛舍利は富部に持しめたり。是皆筑紫より我が共に來れる者どもなり。」
「玉・剣・鏡」は三種の神器で、天子の象徴・宝物です。近江国比良宮とは白鳳二年(六六二)に天智が比良明神号を授けたという白鬚神社(滋賀県高島市鵜川)とされていますから、これは菅原道真の話ではなく、白鳳元年の近江遷都に伴い、天子と重臣が「三種の神器」を伴って筑紫から近江に遷ったことを示します。
また、唐崎神社(滋賀県大津市唐崎)の社伝でも、天智天皇が白鳳二年(六六二)三月同地に臨幸とありますが、天智が、白鳳二年にあたる天智元年(六六二)に近江に遷った史料はありません。従ってこれらの伝承は、白鳳元年(六六一)の遷都をうけ、倭国(九州王朝)の王族や重臣が筑紫から近江へ遷居した事実を反映していると考えられます。そして、「倭姫王」が倭国(九州王朝)の姫なら、当然近江に遷っていたことになるでしょう。
六六三年の白村江の大敗北で、筑紫君薩夜麻は百済王子扶余忠勝らとともに捕囚となり唐に連行されました。
◆『三国史記』龍朔三年(六六三)此の時倭国の船兵、来りて百済を助く。倭船千艘、停まりて白沙に在る。(略)倭人と白村江に遇う。四戦皆克ち、其の舟四百艘を焚く。煙炎天を灼(や)き、海水丹を為す。(略)王子扶余忠勝・忠志等、其の衆を帥い、倭人と与(とも)に並び降る。
そして、捕囚となった薩夜麻が唐の「都督」となって帰国するのは、天智六年(六六七)十一月の『書紀』に「筑紫都督府」がみえる時だと考えられます(注3)。つまり、六六三年から六六七年十一月まで倭王は不在だったのです。
その間、近江において実質上の統治権を執行したのは、半島に出兵せず、かつ地理的にも大和を中心に大きな勢力を持っていた天皇家の天智だったと考えられます。『書紀』で天智元年(六六二)~天智七年(六六八)一月の即位までは「称制期間」とされています。「称制」とは天子は存在するが政務が取れない状況で、代わって政務を掌ることですが、斉明は六六一年に崩御しており天智即位に問題はないはずです。なぜ即位せず、六六八年一月になって即位できたのか「大和朝廷一元史観」では説明できていません。
しかし、「多元史観」なら倭国(九州王朝)の薩夜麻が不在の間、代わって天智が政務を執った、これが「天智称制」だと合理的に説明できるのです。
『書紀』での近江遷都は天智六年(六六七)三月ですが、斉明七年(白鳳元年六六一)の筑紫長津宮滞在以降、近江遷都まで天智の居場所が書かれていません。ところが、天智四年(六六五)一〇月に、唐の使節の劉德高等を迎えるため「菟道(うじ)」で閲(けみ)(閲兵)し、招宴を開いたという記事があります。
◆『書紀』天智四年(六六五)冬十月己酉(十一日)に、大きに菟道(うじ)に閲(けみ)す。十一月辛巳(十三日)に、劉德高等に饗(あへ)賜ふ。
当時難波宮は存在していましたが、そこにいたなら、宇治で閲兵とはなりません。閲兵とその後の順路を考えると、饗宴は近江大津宮で行われたと考えるのが自然です。即ち、遷都は『海東諸国紀』に記す白鳳元年(六六一)が正しく、天智は、実際には白鳳元年に近江に遷って、薩夜麻に代わり倭国の政務を執っていたと考えれば、『書紀』でその間の居所が不明となっている理由がよく理解できるのです。先述の白鬚神社・唐崎神社の白鳳二年の伝承もこれを裏付けるものと言えるでしょう。
ところが、天智六年(六六七)十一月に、薩夜麻が「都督」として、唐の使節・軍と共に「筑紫都督府」に帰国します。この時点で「唐の都督となった筑紫の薩夜麻」と「倭国の事実上の執政たる近江の天智」の、いわば「二重権力」状態が生まれたことになるでしょう。
近江に倭国の主要官僚が遷っていたなら、薩夜麻不在の間に彼らは天智と政務を共にしています。こうした官僚群や参戦した諸豪族が、唐の臣下である「都督」となった薩夜麻とは別に、天智を倭国の後継者として推戴したなら、天智が近江宮で即位することとなるでしょう。薩夜麻帰国直後の天智七年(六六八)正月の即位が、その経緯を物語っているのです。
但し、天智が倭国(九州王朝)を継ぐには二つの問題がありました。
唐に臣従するとはいえ➀倭国の「王統(血統)」は「筑紫の君」薩夜麻が継いでおり、➁かつ彼は唐の高宗により任じられた(倭国の支配権を認められた)「筑紫都督」ですから、背後には唐の軍がついています。この二つの問題の解決が必要となってきます。
そこで取られた方策が「倭姫王」を皇后とすることだったと考えられます。
「倭姫王」が「大宮姫」で倭国(九州王朝)の血統なら、彼女を娶る(天智が婿入りする)ことにより、天智の皇位継承上の「障害」である「王統」問題が解消し、かつ薩夜麻側とも融和がはかれることになります。そこで天智七年(六六八)正月の即位直後の二月一日、唐突に「倭姫王」を皇后に娶ったのです。その意味で天智の近江朝は倭国(九州王朝)を継ぐ朝廷、「九州王朝系の朝廷」ということになります。
これ以降、天智は倭国を継ぐ王としての施策を展開します。
➀天智七年(六六八)」に年号を「白鳳」から「中元」に「改元」(注4)。
倭王として即位したなら改元は当然です。ただし、近江朝滅亡後この改元は「無かった」こととされ、白鳳が継続しました。
➁同六六八年(『藤氏家伝』『弘仁格式』による)または天智一〇年(六七一)(『書紀』による)」に九州王朝の令を「改定」し近江令を定める。
九州王朝は既に「磐井の律令」等を制定していました。また、『書紀』天智一〇年には「新律令」とあり、その内容の「冠位・法度」は天智三年(六六四)条に見えます。そこには「冠位の階名を二六階の冠に増し換ふる」とあるように「改定」だと記しています(注5)。
③天智九年(六七〇)庚午年に「庚午年籍」を畿内含め、西は九州から東は常陸・上野まで全国的に造籍する。
④同六七〇年に国号を日本と改める。
『三国史記』の六七〇年に倭国が国号を日本と改めるとあり、『百済禰軍(でいぐん)墓誌』(六七八年)にも「日本」という国号が見えます。
◆『三国史記』新羅本紀文武王一〇年(六七〇)「倭国更えて日本と号す」。
◆『百済禰軍(でいぐん)墓誌』 「于時日本餘噍(よしょう)、拠扶桑以逋誅」(この時に日本の餘噍(残党)は扶桑に拠りて、誅(罰せられること)をのがれんとす。)
しかし、天智が後継指名した大友皇子(弘文帝)は、倭国(九州王朝)の後継者として不適格で、唐や薩夜麻の承認は得られません。なぜなら、大友皇子は「倭姫王」とは別腹(母は出自の不明確な伊賀采女宅子娘(やかこのいらつめ))で九州王朝の血筋でありません。倭姫王を娶り、薩夜麻不在の間「称制」実績もある天智の執政は容認できても、本来唐の羈縻(きび)政策では臣従した薩夜麻を都督として前のまま国を治めさせることですから、天智が逝去すれば、当然薩夜麻に復位をさせるべきとなるからです。
加えて、最有力者の大海人は大友皇子ではなく九州王朝の血を引く「倭姫王」を擁立していました。そこで、唐・薩夜麻側に立つ大海人と「倭姫王」は、天智没後に大友(弘文帝)の近江朝と対立することになり、共に近江を脱出し九州に行って「壬申の乱」を起こしたのです。
天武は壬申の乱の最大功労者として大きな軍事力・統率力を掌握し、「論功行賞」の実権も持ったことが『書紀』記事からわかります。
◆『書紀』天武元年(六七二)八月甲申(二七日)、高市皇子に命して近江の群臣の犯(あやまつ)狀を宣らしむ。則ち重罪八人を極刑に坐す、仍ち右大臣中臣連金を淺井田根に斬る。是の日に、左大臣蘇我臣赤兄・大納言巨勢臣比等及び子孫、幷せて中臣連金之子・蘇我臣果安之子、悉く配流す。以余は悉く赦す。丙戌(二五日)、諸の勳功有る者に恩を勅して寵賞(ちょうしょう)を顯(あきら)かにす。
天武は近江朝を討伐し武力を蓄え、その支配圏(畿内)を継承するのみならず、壬申の乱を共に戦った諸豪族にも大きな影響力を持つことになりました。但し、天武は実力№1であっても、対外的には臣下の地位に留まることになります。薩夜麻は高宗の「羈縻政策」によって倭国の統治権を有する都督に任命されているからです。
天武の和風諡号の「天渟中原瀛眞人」に、臣下№1を示す「眞人」とあること、『書紀』天武紀の外交記事には「飛鳥」は無く「筑紫・難波」ばかりが見える(飛鳥寺を除く)ことから、政治外交の中心は、唐の都督であり倭国の王たる薩夜麻の宮である「筑紫都督府と難波宮」にあることがわかるでしょう(注6)。
薩夜麻は本来の「羈縻政策」どおり、「都督であり倭王である」という立場を保ちましたが、白村江の打撃に加え、度重なる天災等により倭国(九州王朝)の実力は急速に失われていきました。特に天武七年(六七八)十二月の筑紫大地震では、その本拠筑前から筑後は壊滅的打撃を受け、天武九年六月には「灰零れり。雷電すること甚し」と火山噴火にも見舞われています。
◆『書紀』天武七年(六七八)十二月筑紫国、大きに地動る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余丈。百姓の舍屋、村毎に多く仆れ壌(やぶ)れたり。
◆天武九年(六八〇)六月。灰零れり。雷電すること甚し。
¸ そして七〇一年には、大和朝廷が成立し「新律令(大宝律令)制定」により九州王朝の「評制」は「郡制」に改められ、九州年号「大化」に代わって「大宝」が建元されます。懸案だった唐との関係も、七〇三年には粟田真人が「武則天(則天武后)」によって、「倭国(九州王朝)」にかわる「日本国(大和朝廷)」として承認されました。
この権力移行(王朝交代)期に「薩摩比売」が、「衣(え)の評督」らとともに大和朝廷の支配に抵抗します。「衣(え)の評」とは「大宮姫」の帰還地「薩摩頴娃(えい)郡」のことですから、大宮姫・倭姫王・薩摩比売と称せられた倭国(九州王朝)の姫は、九州王朝の末期に三度目の辛酸(注7)をなめることになるのです。次章では、姫と倭国(九州王朝)の末期について述べます。
(注1)ここでは『書紀』や『海東諸国紀』の「都を遷す」との記述に倣い「近江遷都」という用語を用いるが、「都城・宮室、一処に非ず、必ず両参造らむ」との「副都詔」からすれば「近江副都の造営」というべきだろう。
(注2)天神の神託譚は『扶桑略記』では「天暦九年(九五五)」とあるが、『天慶九年三月二日酉時天満天神御託宣記』では「天慶九年(九四六)」。
(注3)『書紀』では薩夜麻の帰還は天智十年(六七一)十一月とされているが、同年の劉仁願による李守真等派遣記事は「三年以上の繰り下げ」があることが知られており、同じ「十一月」で、「筑紫都督府」記事のある天智六年(六六七)十一月が真の帰国年月の可能性が高い。
(注4)『襲国偽僭考』『和漢年契』『衝口発』には天智七年戊辰(六六八)の天智即位年を元年とし、天智末年の天智十年(六七一)まで続く「中元」年号が見られる。
(注5)天智一〇年の「新律令」と天智三年の「冠位・法度」は内容が重複している。天智一〇年(六七一)は「中元四年」、天智三年(六六四)は「白鳳四年」で、この重複の原因は「中元・白鳳の入れ替え」にあると考えられる。
(注6)難波宮の完成する六五二年は九州年号白雉元年に当たるほか、『書紀』に無い「評制」が全国的に施行されたのは六四九年で、難波宮はこれに対応する朝堂院を備えた宮であること等から難波宮は九州王朝の宮だと考えられる。
(壬申の乱後の筑紫・難波での外交記事例)
〇(天武二年)送使貴干寶・眞毛、承元・薩儒を筑紫に送る。貴干寶等を筑紫に饗へたまひ、祿賜ふこと各差有り。卽ち筑紫より国に返る。
〇新羅、韓奈末金利益を遣して高麗使人を筑紫に送る。(略)則ち筑紫より返る。金承元等を難波に饗へたまふ。
〇高麗邯子・新羅薩儒等を筑紫大郡に饗へたまひ、祿賜ふこと各差有り。〇(天武四年)新羅の送使、王子忠元を筑紫に送る。
〇金風那等を筑紫に饗へたまひ、卽ち筑紫より歸る。
〇新羅王子忠元難波に到る。〇新羅・高麗二国調使を、筑紫に饗へたまひ、祿賜ふこと差有り。〇耽羅王姑如、難波に到る。
〇(天武五年)新羅、大奈末金楊原を遣して、高麗使人を筑紫に送る。〇(天武六年)送使珍那等を、筑紫に饗へたまひ、卽ち筑紫より歸る。ほか。
(注7)「三度目の辛酸」とは、近江へ移され天智に「降嫁」させられたこと、その近江を追われたこと、大和朝廷の討伐を受けること、この三つ。
(参考)古賀達也「九州王朝の近江遷都ー『海東諸国紀』の史料批判」(古田史学会報 六一号二〇〇四年四月)
第一章では、『書紀』では「倭姫王」とされ、『開聞古事縁起』では「大宮姫」と称される倭国(九州王朝)の姫が、近江宮を逃れ壬申の乱の六七二年十一月に、薩州頴娃(えい)郡(衣評)に帰還したことを述べました。
また第二章では、「倭姫王」が近江朝で天智の皇后となったこと、唐と都督薩夜麻の支援で、天武が「壬申の乱」で近江朝を滅ぼし、倭国の実権を握ったこと、その後倭国(九州王朝)は次第に衰え、七〇一年には日本国(大和朝廷)に取って代わられたことを述べました。
本章では「薩摩における大宮姫」と九州王朝の滅亡について述べます。
薩摩に帰った「大宮姫」はどうなったのでしょうか。『縁起』では六七三年二月四日に「仮殿(京殿)」に入り、その後「本城」に遷ったとされます。
◆一、御假殿入御之事
於神嶽麓営御假殿畢。(略)而入御假殿俗云京殿。時(天武)白鳳二癸酉年(六七三)二月四日也。(略)后宮帝曰此地是外朝之西極灵(*霊)之最勝(*最も霊験あらたかな地)也。移御本城後、以御假殿為堂寺号法華寺。(略)寺地建四方五輪石塔。(*「天武白鳳」元年は天武即位年の六七二年)
ここで「假殿」は姫が「本城」に移った後に「法華寺」と号したとされ、指宿市開聞十町京田に「五輪の石塔」が発見されています。「御嶽麓離宮営構之事」条では、「假殿」は「離宮」と別称され、「方十町の宮殿楼閣」で、「上都に準じ数十の官舎が甍を連ねる華麗なもの」だったと書かれています。
「入御于離宮之事」条では、「大宮姫」は離宮に遷って以後三十余年これを「外域の離宮」と呼んだとあります。そして、九州の諸司は薩摩の離宮と太宰府に貢納したとありますから、「本城」とは太宰府を指し、「大宮姫」は太宰府を「本城」、薩摩を「離宮」としたことになるでしょう。
◆一、入御于離宮之事
(略)入御神嶽之離宮也。于時天武白鳳二年癸酉夏五月五日也。於此仙土為離宮凡三十餘年也。呼之云外域。九州貢物奉進當離宮與太宰府也。
そして、太宰府政庁(2期)の造営は、瓦の編年から、観世音寺の建立(『勝山記』『日本帝皇年代記』で「白鳳十年(六七〇)」)から若干遅れる六七〇年代と考えられ、『縁起』で「本城」に遷った年と一致します(注1)。
『縁起』ではその後の「大宮姫」の消息は記されませんが、かわって『続日本紀』(以下『続紀』)では文武四年(七〇〇)六月に、「薩摩比売」が「衣(え)の評督」らとともに、大和朝廷が律令制の施行に向け派遣した覓国(くにまぎ)使に対し、武力で抵抗したことが記されています。「衣評」は大宮姫の帰還地で離宮を営んだ頴娃郡ですから、「薩摩比売」とは「大宮姫」であり、同時に倭国(九州王朝)の姫「倭姫王」を指すこととなります。
◆文武四年(七〇〇)六月庚辰(三日)薩末比売、久売、波豆。衣評督衣君県、助督衣君弖自美(てじみ)、又肝衝(きもつき)難波、肥人等を從へ、兵(*武器)を持して覓国(くにまぎ)使刑部真木等を剽劫(おびやか)す。是に於て竺志惣領に勅して犯を決罰す。(略)
十月己未(十五日)石上朝臣麻呂を筑紫惣領とす。
薩末は後の薩摩国薩摩郡、肝衝は日向国(後に大隅国)肝属郡で、肥人は肥後人と思われ、「等」とあるから南九州の広い地域で抵抗があったことを示すものです。そして、「覓国使」は『続紀』文武二年四月記事に「戒器(じうき)・武器のこと」を帯していたと書かれていますから、「兵(武器)」と「戒器(武器)」を持ったもの同士の衝突が起きたことになるのです(注2)。
抵抗勢力の筆頭に「薩末比売」が記されますが、彼女が「大宮姫(倭姫王)」であれば五〇歳ほどの高齢の女性(『縁起』では六五〇年生まれ)になります。従って、これは大宮姫が武力闘争の先頭に立ったのではなく、倭国(九州王朝)の中で大和朝廷の支配を肯ぜない勢力(以下「抵抗勢力」という)が、天智の皇后で即位まで勧められた、大和朝廷としても一定の配慮が必要な人物を担ぎだし、抵抗したという可能性が高いでしょう。
そう考えれば、大和朝廷が直接討伐に乗り出すのではなく、「竺志惣領」を介して鎮圧を図った意味が理解できます。七〇〇年は律令制定以前で、実質はともかく形式的にはまだ倭国(九州王朝)の時代だったのです。
そして、具体的な「決罰」の内容・結果が示されず、その年の十月に大和朝廷が「竺志惣領」を石上朝臣麻呂に交代させたのは、元の「竺志惣領」は倭国(九州王朝)の任命した人物で、大和朝廷の意図するような「犯の決罰」が出来なかったからではないでしょうか。(注3)。
そして、律令制定後の大宝二年八月にも、薩摩から南西諸島において大きな抵抗があり、これを武力で討伐したことが記されています。
◆『続紀』大宝二年(七〇二)三月甲午(二七日)に信濃国、梓弓一千廿張を献る。以て大宰府に充つ。丁酉(三〇日)に大宰府に所部の国・郡司等とを銓擬することを聴(ゆる)す。
八月丙申(一日)に、薩摩・多褹(たね)、化を隔て、命に逆ふ。ここに、兵を発し征討し、遂に戸を校(しら)べ、吏を置く。辛亥(十六日)に、正三位石上麻呂を大宰の師とす。
九月戊寅(十四日)に、薩摩の隼人を討ちし軍士に、勲を授く。
十月丁酉(三日)に、先に薩摩の隼人を征する時、大宰の所部の神九処を祷(の)み祈るに、神威に頼りて荒ぶる賊を平げき。唱更(しょうこう)(*辺境の戍を守る国司)の国司等《今の薩摩国なり》言さく、「国内の要害の地に柵を建てて、戍(まもり)を置きて守らむ」とまうす。許す。戊申(一四日)に、律令を天下の諸国に頒つ。
薩摩の抵抗は七〇〇年と同じですが、ここ(七〇二年)で初めて「化を隔て、命に逆ふ」とあります。「化」や「命」は最高権力者を示す詞ですから、これは、七〇一年の律令制定を境に(古田氏はこれを「ONライン=OLD倭国から NEW日本国になった境」と呼ぶ)大和朝廷が、新支配者として「命」を下せる立場となり、以後薩摩ほか南九州に依拠した「九州王朝内の抵抗勢力」は「化に逆らう隼人の賊」と呼ばれたことを示すものです。
これは、明治維新において、江戸開城後に維新政府と、これに反対する旧幕府主戦派側及び同調する奥羽越列藩同盟・会津・庄内同盟等との間で、彰義隊の上野戦争に始まり、榎本武揚らの函館戦争に至る一連の抵抗・戦争がおきたこと、彼らは新政府によって「賊軍」と呼ばれ討伐されたことを想起すれば理解が早いでしょう。
そして、この時点では旧の筑紫惣領は更迭されており、新惣領は「太宰の師」として「隼人」を征討したことになります。「大宰の所部の神九処を祷(の)み祈り」討伐が成就したとあることから、大和朝廷は新太宰のもと太宰府所管の九州諸司を掌握し、「抵抗勢力・隼人の賊」を平定したのです。
そして、その直後に律令を「全国に頒布」しているのですが、これは、律令「制定」後も九州王朝に同調し、大和朝廷の支配に反対する勢力が、根強く残っており、大和朝廷は九州王朝の拠点である薩摩を抑え込んだことで、ようやく律令を全国に頒布できたことを示しています。明治維新でも、西南戦争で薩摩の西郷らに勝利したことで、明治政府の基盤は確実なものとなりましたが、まさに「歴史は繰り返す」という言葉が見事に当てはまるのです。
それでは、隼人討伐以降薩摩など南九州に依拠した「倭国(九州王朝)の抵抗勢力」と大宮姫(薩末比売)はどんな運命をたどったのでしょうか。
「要害の地に柵を建て守る」とは、抵抗勢力を、南九州の一角に「封じ込め」る軍事施策ですから、抵抗勢力はいまだ一定の地域に割拠したことを示しています。「唱更の国司」とあっても「薩摩国司」とされていないのは、大和朝廷の支配地に組み込むまでに至らなかった証拠でしょう。
南九州が大和朝廷の支配地となったのは、薩末比売と共に覓国使に抵抗した肝衝(肝坏)郡を含む地域に、「始めて大隅国」が置かれた和銅六年(七一三)です。そして、この年に「隼の賊を討つ将軍」らへの大規模な恩賞記事があるのです。そこから、七一二年から七一三年にかけ、南九州の抵抗勢力に対する一大討伐戦が行われたことは確実で、その時点までは、南九州に「封じ込め」られながらも倭国(九州王朝)は存続していたのです。
◆『続紀』和銅六年(七一三)夏四月乙未(三日)、(略)日向国の肝坏(きもつき)、贈於(そお)、大隅、姶羅(あひら)の四郡を割きて、始めて大隅国を置く。大倭国疫す。薬を給ひて救はしむ。
◆秋七月丙寅(五日)、詔して曰はく、「授くるに勲級を以てするは、本、功有るに拠る。若し優異せずは、何を以てか勧獎めむ。今、隼の賊を討つ将軍、并せて士卒等、戦陣に功有る者一千二百八十余人に、並びに労に随ひて勲を授くべし」とのたまふ。
これを裏付けるのは、『縁起』に記す「大長元年」に「天智天皇」が太宰府に帰還し、九州諸司に宣旨したとの記事です。
◆一、天智天皇出居外朝之事
越仁王三九代天智天皇別離心難堪、溺愁緒之御涙、思翠帳紅閨隻枕昔歎二世眤契約蜜語空於発出居外朝御志而不幾時、 同十年辛未冬十二月三日《大長元年尤歴代書年号》帝帯一宝剣、騎一白馬潜行幸山階山、終无還御。 凌舟波路嶮難、如馳虚空、遂而臨着太宰府、御在于彼。越月奥於当神嶽麓欲営構離宮。故宣旨九州諸司也。《 》は右注
「同十年辛未冬十二月三日」とあるのは、『書紀』での天智の崩御日の「天智十年辛未(六七一)冬十二月三日」に合わせたことは疑えません。また、「騎一白馬潜行幸山階山、終无還御」は、『扶桑略記』(十一世紀末頃)の、「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」を引用したもので、この条の細部はこうした記事・伝承をもとに創作されたものと思われます。
ただ一方で、「大長元年尤歴代書年号(大長元年は歴代の書物にない年号)」とあります。九州年号では「大化」は六九五年から大宝三年(七〇三・大化九年)までで、慶雲元年(七〇四)から「大長」年号が始まり、大隅国設置の前年の和銅五年(七一二)までの九年間で終ります。その後九州年号と思しき年号は姿を消すので、「大長」は「最後の九州年号」といえるのです(注4)。
『縁起』の編者が「歴代の書物にない大長元年」という日付記事を何の根拠もなく「創作」したとは到底考えられません。これは九州年号による「原史料」に基づくもので、九州年号「大化十年」が「大長元年」にあたりますから、本来は「大化十年」だったものを、『書紀』にあわせ「天智十年」と改変したのだと考えられます。そもそも天智十年の天智崩御後に「天智が薩摩に帰還」するはずはないのです。従って、これは、①九州年号による「原資料」では「大化十年=大長元年(七〇四年。慶雲元年)」に薩摩に帰還した人物が存在した。②『縁起』編者は、大宮姫は天智の皇后であり、『書紀』では「天智」が十年に崩御しているので、この人物を「天智」と見立てた、と考えられるのです。
それでは「慶雲元年に薩摩に帰還した天智に当たる人物」は実際に存在したのでしょうか。実は『続日本紀』慶雲元年十一月に、文武が始めて藤原宮の地を定めたとあります。
◆『続紀』慶雲元年(七〇四)十一月壬寅(二〇日)。始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布賜ふこと差あり。
藤原宮には、『書紀』持統六年五月に宮の地鎮祭、持統七年二月に造成工事関連記事、持統八年(六九四)十二月に遷居記事があって、遅くともこの時点で「宮地」は定まっていたことになります。従って、「遷居十年後」に「始めて宮地を定む」とあるのは何とも不可解と言わざるを得ないのです。
◆『書紀』持統六年(六九二)五月丁亥(二三日)に、浄広肆難波王等を遣して、藤原宮地を鎮め祭らしむ。庚寅(二六日)に、使者を遣して、幣を四所の伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神に奉らしむ。告すに新宮のことを以てす。
六月癸巳(三〇日)に、天皇、藤原の宮地を観はす。
持統七年(六九三)二月己巳(一〇日)に、造京司衣縫王等に詔して、掘るらせる尸(かばね)を収めしむ。
持統八年(六九四)十二月乙卯(六日)に、藤原宮に遷り居す。戊午(九日)に、百官拝朝す。
藤原宮が計画され造営されたのは七〇〇年以前の倭国(九州王朝)の時代ですから、実際に造営に携わったのは天武・持統であったとしても、名目上は倭国(九州王朝)の宮ということになります。この点、西村秀己氏は「藤原宮は九州王朝の為の宮であり、そこには九州王朝の天子がいた。文武は藤原宮でなく『清原の大宮』で即位」したのであり、七〇四年の「本条(*始めて藤原宮の地を定む)が文武の藤原京遷都記事」ではないかとします(注5)。
そして、先述のように、七〇三年に粟田真人が武則天(則天武后)に謁見し、日本国(大和朝廷)が唐(*六九〇年に武則天が「周」に国名を変更)から我が国の代表者として承認されます。
大和朝廷にとって、唐が王朝交代を「承認」するかは大きな懸案だったと思われます。何故なら、「日本国はもと小国」であるのに対し、九州王朝は紀元五七年の金印下賜以来、歴代の中国王朝が我が国の代表者として承認し、かつ唐の高宗も薩夜麻を「都督」に任命しその統治を承認してきたからです。
七〇四年に粟田真人は帰朝し、大和朝廷は「慶雲」と改元します。真人は十月九日に拝朝し、その翌月に「始めて藤原宮の地を定む」との記事があるのです。こうした経緯から、この記事は「藤原宮の完成」を言うのではなく、唐の承認により、名分上も大和朝廷の文武が我が国の代表者となり、倭国(九州王朝)の天子に代わって日本国(大和朝廷)の天皇が「始めて藤原宮の主になった」ことを表していると考えられます。一千五百五戸の住民に布を配布したのは、祝賀をかねて「主の交代」を広く知らしめるのが目的だったのです。
その慶雲元年(七〇四)は、まさに『縁起』で「天智天皇」が薩摩に帰還したとする九州年号「大長元年」にあたるのです。九州年号の改元は遷都によることが知られており、薩摩に帰還したとの『縁起』とも一致します。
ただし、帰還した王は大和朝廷に政権を譲り渡し「廃された王(天子)」であり、「九州王朝の抵抗勢力」は、「前王(天子)」が大和朝廷に政権と宮を引き渡したことを是とせず、七〇四年に別の人物を後継に立て、大和朝廷に対抗した。そして年号を改元し、再度大宮姫(薩末比売)を担ぎ、南九州(薩摩・大隅)の独立を目指したと考えられるのではないでしょうか。
これも維新時に、大政を奉還し江戸城を明け渡して駿府に蟄居し、新政権に恭順した徳川慶喜と姿勢を異にし、奥羽越列藩同盟が東北の独立を、榎本らは蝦夷共和国(函館政権)を目指したのと軌を一にするものです。
また、この抵抗運動は根強いものであり、これに対し大和朝廷は継続的に抵抗勢力を押し込めていったことが、次の詔によって知られます。
◆『続紀』慶雲四年(七〇七)七月壬子(十七日)軍器を挟蔵して山沢に亡命し、百日まで首せずんば、罪に復すること初の如くす。
和銅元年(七〇八)正月乙巳(十一日)。禁書(注6)を挾蔵して山沢に亡命し、百日まで首せずんば、罪に復すること初の如くす。
『縁起』では、そうした中で「天智」が慶雲三(七〇六)に七十九歳で崩御し、和銅元年(七〇八)には「皇后」が五十九歳で薨去したと記します。
一、皇帝后宮岩隠之事
文武帝慶雲三(七〇六)丙未(ママ)春三月八日天智聖帝天寿七十九於此崩御。於仙土陵当神殿也。阿弥陀如来示現帝皇也。(略)上都以天智帝十年辛未年十二月三日為崩御日。(略)不幾年其翌年之元明帝和銅元(七〇八)戊申歳六月十八日皇后御寿五十九薨御也
九州年号が存在する以上、これを建てた「九州王朝の後継者」がいたはずですが、大長年号は七一二年まで続いて、大隅国が設置され隼人討伐戦の恩賞があった七一三年以後消滅します。従って、『縁起』『続紀』と九州年号「大長」の実在を信じれば、九州王朝の「前王(天子)」は七〇四年に帰還し、七〇六年に崩御しましたが、既に廃されており、「九州王朝の後継者」は七一二年または七一三年に「隼の賊」の首魁として討伐された可能性が高いことになるでしょう。
その人物や、「天智」と記される「前王(天子)」は誰なのでしょうか。大宮姫は七〇八年に五十九歳で薨去しており、「天智」は七〇六年に七十九歳で崩御していますから二十二~二十三歳上で、父とか叔父の世代にあたると思われます。しかし、『続紀』も『縁起』もこれ以上何も語りません。更迭された旧の筑紫惣領がどうなったかも知ることが出来ません。そもそも『続紀』では隼人討伐戦も、将軍らの恩賞記事から知られるのみで、具体的な内容はすべて隠され、一切記されていないのです(注7)。
「九州年号の終了」は、九州王朝の最終的滅亡を意味するものであり、最後の九州王朝の姫「大宮姫」にとって、七一二~七一三年の「隼人大討伐戦の悲劇」と王朝の滅亡を見ることなく世を去ったことは、せめてもの救いなのかもしれません(注8)。
(注1)通説は七世紀末とか八世紀初頭とするが、『日本帝皇年代記』や『勝山記』に、観世音寺は九州年号白鳳十年(六七〇)に創建されたとあり、またその創建瓦は「老司1式」で、太宰府政庁(2期)の瓦は「老司2式」であることから、政庁(2期)の造営も六七〇年代と考えられる(古賀達也氏ほか)。
(注2)刑部真木は文武二年(六九八)に南西諸島に派遣され、三年(六九九)十一月に無事帰還しているから、「薩摩比売」らの抵抗は文武二年~三年の事件で、文武四年(七〇〇)六月は竺志惣領に犯を決罰るよう命じた日と考えられる。
(注3)古代の惣領は、律令制以前、主要国に配置され、近隣諸国を監督した職。『続日本紀』の七〇〇年記事に「筑紫惣領、周防惣領、吉備惣領」、『常陸国風土記』香島郡他の条に坂東諸国の惣領「高向大夫」、『播磨国風土記』揖保郡広山里条に惣領「石川王」の名が見える。七〇一年の律令成立以前の官職であるから九州王朝の官職だと考えられる。
(注4)『運歩色葉集』(一五四八年ごろ成立の国語辞典で編者不明。京大図書館蔵)に柿本人丸の没年が「大長四年丁未(七〇七)於石見国高津死」、『伊予三島縁起』(内閣文庫版のうち番号 和三四七六九)に「天武天王御宇大長九年壬子(壬子は七一二年で文武時代。天武時代に壬子は無い)」とあり、何れも「大長元年」は七〇四年を指す。(古賀達也「最後の九州年号ー大長年号の史料批判」(『古田史学会報』七七号二〇〇七年十二月による)
(注5)西村秀己「削偽定実の真相ー古事記序文の史料批判ー」(古田史学会報六八号・二〇〇五年六月)
これについては、
➀六九四年十二月の藤原宮遷居は、翌年の九州年号「大化」への改元と整合する。従って、藤原宮造営は倭国(九州王朝)の事績に相応しいこと、
➁藤原宮朝堂院東回廊南端の溝跡から発掘された大宝三年木簡などから、「東面回廊の完成が大宝三年以後で」「朝堂は遷都当初には完成していなかったと考えられ」、六九七年八月一日の文武即位儀礼では「本来使用すべき大極殿に出御した記事は見えず、大極殿は未完成であったことを示すと考えられる」こと、
③また、「大極殿と称される殿舎は浄御原宮にもあった」(市大樹氏『飛鳥藤原宮木簡の研究』より引用)ことも、西村説を補強する。
(注6)「禁書」とは九州王朝の史書を含む重要書類と考えられる。七一二年に上梓された『古事記』に比べ、わずか八年後の七二〇年に完成した『書紀』の分量がはるかに多く、景行紀等にみられる九州征服記事が加えられているところから、大和朝廷は九州王朝の史書等を入手し、自らの事績としたことが考えられる。『古事記』の上梓が『続日本紀』に見えず、かつ存在も明らかにされなかったのも、その間の経緯が明らかになることを恐れたのが原因ではないか。
(注7)ちなみに和銅五年(七一二)正月二十八日の太安萬侶の『古事記』献上も『続紀』からは完全に「カット」されている。このように記録としての価値を認められている『続紀』にも、恣意的な編纂があることは歴然としている。
(注8)ただし、七二〇年に激しい隼人の反乱がおきており、南九州における大和朝廷の支配への抵抗は七一三年以後も根強く続くことになる。
(参考)古田武彦『古代史通史』(原書房一九九四年)ほか多数。
古賀達也「続・最後の九州年号━消された隼人征討記事━」(『古代に真実を求めて』第十一集・二〇〇八年四月)、同「最後の九州王朝―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(『市民の古代』第十集・一九八八年)ほか。
中村幸雄「九州王朝の滅亡と『日本書紀』の成立」(市民の古代十二集・一九九〇年十一月、中村幸雄論集・HP新・古代学の扉掲載)。
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