正木裕
我が国には各地に、羽衣を着て舞い降りた天人と、その衣を隠した者をめぐる、いわゆる「羽衣伝説」が存在します。謡曲の「羽衣」(天人と三保の松原の漁師白龍の物語)や、『近江国風土記』(天の八女と伊香刀美(いかとみ)の伝承)、『丹後国風土記』(八人の天女と老夫婦和奈佐の伝承)などがよく知られていますが、多くは言い伝えの類として扱われ、歴史研究の対象とはされていません。ところが、ただ一つ「実年」の記された伝承が存在します。それは本居宣長の『玉勝間』が引用する『體源抄(たいげんしょう)』(注1)に記す次の「東遊」の起原譚です。
◆『玉勝間』(巻十一)東遊(あずまあそび)の起り
同書(*前段に『豊原の統秋が體源抄』とある)に、丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到(きょうとう)六年(丙辰歳)(五三六)、駿河ノ国宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(あずまあそび)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり。(岩波文庫『玉勝間』下、十一の巻六一頁)
『丙辰記』がどういう書物だったか、今となっては不明ですが、ここには教到六年(丙辰歳)(五三六)、「駿河ノ国宇戸ノ濱」に天人が天下って歌舞を披露した、それが「東遊」の始めであると記しています。「東遊」は雅楽における国風歌舞の代表的な曲で、駿河歌一段にも、「や 宇渡浜に 駿河なる宇渡浜に 打ち寄する波は 七種の妹 言こそ佳し」といった歌詞があります。
「駿河ノ国宇戸ノ濱」は静岡県吉原市(今は富士市)の吉原川(和田川か滝川)流域をさし、今も「宇東川東、宇東川西」の地名が残っています。かつては海浜地だったところで、駿河湾沿いに富士川を経て田子の浦(廬原郡多胡浦浜)から羽衣伝承のある三保の松原へと続き、東海道の吉原宿もあった海陸の交通の要所でした(注2)。
ここで注目されるのは「地名」とともに「教到六年(丙辰歳)」(五三六)という具体的な年代も記されていることです。「教到」とは九州年号で五三一年~五三五年までの五年間続く年号で、次は「僧聴(そうちょう)」(五三六~五四〇)です。教到六年は僧聴元年に当たりますが、「年内の改元」なら教到六年も存在することになります。そして九州年号を記す『二中歴』の教到年号の細注には、「舞遊始」と書かれているのです(注3)。
◆『二中歴』年代歴
教倒 五 元辛亥 舞遊始 (五三一~五三五)
『二中歴』九州年号の「細注」は九州王朝の事績を記すものと考えられますから、「東遊」を始めたのも九州王朝の可能性が高いのです。
そこで注目されるのが、『書紀』安閑二年(五三五)(教到五年にあたる)五月の、「駿河国稚贄(わかにへ)屯倉」を含む十三国二十七箇所の屯倉(みやけ)設置記事です。
◆『書紀』安閑二年。五月の丙午の朔甲寅(九日)に、筑紫の穂波屯倉・鎌屯倉、豊国の榺碕(みさき)屯倉・桑原屯倉・肝等(かと)屯倉〈音を取りて讀め。〉大抜屯倉・我鹿(あか)屯倉、〈我鹿、此をば阿柯と云ふ。〉火国の春日部屯倉、播磨国の越部屯倉・牛鹿屯倉、備後国の後城(しつき)屯倉・多禰屯倉・來履(くくつ)屯倉・葉稚(はわか)屯倉・河音屯倉、婀娜(あな)国の膽殖(いにゑ)屯倉・膽年部(いとしべ)屯倉、阿波国の春日部屯倉、紀国の經湍(ふせ)屯倉〈經湍、此をば俯世と云ふ。〉河邊屯倉、丹波国の蘇斯岐屯倉、〈皆音を取れ。〉近江国の葦浦屯倉、尾張国の間敷屯倉・入鹿屯倉、上毛野国の緑野(みどの)屯倉、駿河国の稚贄屯倉を置く。
一年間で三十件近い屯倉が設置できるのかは疑問ですが、九州年号「教到」年間に、全国的に順次屯倉が設置されていったことになるでしょう。そして、ここに記される「駿河国稚贄屯倉」は吉原付近にあったとされているのです(岩波『書紀』補注)。つまり、五三五年に吉原に屯倉が設置され、その翌年の五三六年に同所で「天人」が歌舞を披露したことになります。かつ「教到」年間に「舞遊始」とあるのですから、屯倉の設置と歌舞の披露とは密接な関係があったと考えられるのです。
しかも『書紀』によれば「屯倉設置の目的」は、各地の穀稼(もみいね)を「筑紫」に運び備蓄することで、これが「国を安みする方(さま)更に此に過ぐるは無し」とされているのです。
◆『書紀』宣化元年(五三六)五月辛丑朔に詔して曰はく、「食は天下の本なり。黄金万貫ありとも飢を療すべからず。白玉千箱ありとも、何ぞ能く冷(こい)(*飢えこごえること)を救はむ。夫れ、筑紫国は、遐(とお)く邇(ちか)く朝で届る所、去来の関門所なり。是を以て、海表の国は、海水を候ひて来賓き、雨雲を望りて貢(みつ)き奉る。胎中之帝(*応神)より、朕が身に泪(いた)るまでに、穀稼を収蔵(おさ)めて。儲糧を蓄へ積みたり。遥に凶年に設け、厚く良客を饗す。国を安みする方、更に此に過ぐるは無し。故、朕、阿蘇仍君〈未詳也。〉を遣はして(注4)、加(また)、河内国の茨田郡の屯倉の穀を運ばしむ。蘇我大臣稲目宿禰は、尾張連を遣して、尾張国の屯倉の穀を運ばしむべし、物部大連麁鹿火は、新家連を遣して、新家の屯倉の穀を運ばしむべし、阿倍臣は、伊賀臣を遣して、伊賀国の屯倉の穀を運ばしむべし。官家を那津の口に修(つく)り造てよ。又其の筑紫・肥・豊三国の屯倉、散(あか)れて県隔(とほきところ)に在り。運び輸(いた)さむこと遥に阻(へだた)れり。儻如(も)し須要(もち)ゐむとせば、以て卒(にはか)に備へむこと難かるべし。亦諸郡に課(おほ)せて分(くば)り移して、那津の口に聚(あつ)め建てて、非常に備へて、永(ひたす)ら民の命とせよ。早く郡県に下して、朕が心を知らしめよ」とのたまふ。
大和飛鳥の朝廷なら穀稼は大和に運ばせ備蓄するのが最善の「国を安みする方」であるはず。しかし『書紀』には「大和に穀物を運ばせた」という記事はないのです。しかも「海表の国は、海水を候ひて来賓き、雨雲を望りて貢き奉る。」つまり、新羅・百済等の半島諸国はこぞって筑紫・九州に朝貢していたというのです。
これは、『隋書』俀国伝で、俀国には阿蘇山があり、冬も暖かく水多く陸少なしという九州の国として描いたうえで、「新羅、百済皆俀を以て大国、珍物多しとし、並て敬仰し、恒に通使往來す」とあるのと通じる記事なのです。ここから、当時の倭国の中心地は穀稼を運び備蓄するところ、即ち「筑紫」であり、「稚贄の屯倉」を含む屯倉設置も九州王朝の事績だったと考えられるでしょう。そして、この『書紀』の記事は九州王朝の史書からの引用だと考えられるのです。
それでは、なぜこの時期に筑紫、それも博多湾岸(那津の口)に全土から大量の食糧を集積したのでしょうか。その目的はただ一つ、半島との戦に備えるためだと考えられるのです。
継体期末には加羅諸国を侵略した新羅と、任那・百済(三韓)を巻き込んだ戦闘が記録されています。
そして、筑紫への備蓄が勅された翌年の宣化二年にも、任那救済のため新羅討伐戦が遂行され、その戦に備える本拠が筑紫にあったと記します。
◆『書紀』宣化二年(五三七)冬十月壬辰朔、天皇、新羅の任那に冦(あたな)ふを以て、大伴金村大連に詔して、其の子磐と狭手彦(さでひこ)を遣して、任那を助けしむ。
是の時に、磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加(また)百済を救ふ。
こうした半島情勢と屯倉設置、穀物の筑紫集積が無関係であるはずはありません。また、五世紀末から六世紀初頭に百濟南西部に北部九州様式の前方後円墳や、九州型の石室を持った古墳が多く建造され、これらは北部九州の勢力の半島進出を示しています。従って六世紀前半に高句麗・新羅と半島の覇権を争っていたのは九州王朝であり、全国から物資を調達し、戦場に近い那の津(博多湾岸)に集積させたのも九州王朝ということになるでしょう。
それでは、屯倉設置と「東遊」と、どういう関連があるのでしょうか。
実は、『書紀』安閑元年に大伴金村による、先の天皇が支配域(王域)を広めた事についての賛辞があります。
■安閑元年(五三四)閏十二月己卯朔壬午(四日)(略)大伴大連、勅を奉りて宣りて曰く、「(略)故、先天皇、顕号を建て鴻名を垂れて、広く大きなること乾坤(あめつち)に配(そ)ひ、光華日月に象(かたど)れり。長く駕き遠く撫でて、横に都の外に逸(こえい)で、区域を瑩(みが)き鏡(てら)して、限り無きに充ち塞てり。上は九垓(みち)に冠らしめ、旁(あまね)く八表に済(わた)す。禮を制めて功成ることを告し、楽(うたまひ)を作(おこ)して、治(まつりごと)の定まることを顕す(略)」
この文は南朝(梁)の裴子野(注5)の「丹陽尹湘東王(たんよういんしょうとうおう)(後の梁の武帝)善政碑」(藝文類聚、治教部、論政)から採られたものですが、梁の武帝(蕭衍(しょうえん)・廟号「高祖」在位五〇二~五四九)は、「天監」年号(五〇二~五一九)を建て、官制の整備や天監律令の頒布(五〇三年)を行うと共に、詩文や書、楽にも秀でた皇帝として知られます。「善政碑」では、「皇上(現在の天子・今上)、顕号を建て、鴻名を垂れ」とあり、武帝が王域の拡大を祝し、「楽を作して、治の定まることを顕した」としています。
こうした原典の趣旨から、『書紀』編者は「王域の拡大を記念して楽が作された」事を「善政碑」を引用し述べたものと考えられます。そして、「屯倉設置」は「王域の拡大」を意味しますから、屯倉設置と楽の始めが密接に関連する事は疑えないのです。
つまり、九州王朝は教到年間に全国に屯倉を設置し、その記念に「楽を作した」と考えられるのです。そのなかで稚贄屯倉を教到五年(五三五)に設け、翌年の教到六年(五三六)に歌舞が披露されたのです。そして歌舞は地元民によるものではなく「天から来た天人」ですから、筑紫から九州王朝の使節が稚贄屯倉を訪れ、その際連れてきた舞乙女が半島諸国や中国渡りの鮮やかな装束を纏い歌舞を披露したことは十分に考えられます。乙女たちの纏う装束は、駿河人には「天人の羽衣」のように鮮やかに見え、それが『玉勝間』に云う『體源抄』中の『丙辰記』に「東遊」の始めとして記録されたのではないでしょうか。つまり、通常考えられているように「東国の舞楽が都(大和)に齎された」のではなく、逆に「都(筑紫)の舞楽が東国に齎された」ことになります。
このことを物語るのが能楽「羽衣」(作者不詳。一説に世阿弥)です。「羽衣」では、天乙女が漁夫から返された羽衣を着して舞い、これを「東遊(あずまあそび)の駿河舞」の始めと謡います。
◆乙女は衣を着しつゝ。霓裳羽衣の曲をなし。 天の羽衣風に和し。 雨に湿ふ花の袖。 一曲をかなで。 舞ふとかや。
東遊の駿河舞。東遊の駿河舞。此時や始めなるらん。
それ久堅の天といつぱ。二神出世の古。十万世界を定めしに。空は限もなければとて。久方の空とは名づけたり。 しかるに月宮殿のありさま。玉斧(ぎょくふ)の修理とこしなへにして。 白衣黒衣の天人の。数を三五にわかつて。一月夜々の天乙女。奉仕を定め役をなす。
我もかずある天乙女。 月の桂の身を分けて。仮に東の駿河舞。世に伝へたる曲とかや。
「羽衣」では、「月宮殿では、天乙女が白衣と黒衣(三×五)十五人ずつに別れ、毎夜奉仕した」と謡います。これは月の満ち欠けを、各十五日ずつの「白月・黒月」に分け、月の中で白衣を着た天人が十五日奉仕し、黒衣の天人が残りの十五日を奉仕したという意味です。そして、その舞いを東国に「東遊の駿河舞」として伝えたというのです。つまり、「承り及びたる天人の舞楽。ただ今ここにて奏し給はば。衣をかえし申すべし」とある通り、駿河舞はもともと駿河のものではなく「天」から伝えられたものなのです。
古田武彦氏は、「天(アマ)」とは「空(ソラ)」ではなく「海(アマ)」のことで、「天孫降臨」とは「空から人が高千穂の峰に降りてくる」のではなく、「海峡国家(アマクニ)である対馬・壱岐から、青銅の武器を持った勢力「海人族(アマゾク)」が筑紫に侵攻したことをいうとされました。
そして、『隋書』に記す「日出る処の天子」即ち九州王朝の「多利思北孤(たりしほこ)」の姓も、天孫降臨の流れを汲むことを示す「阿毎(アマ)」なのです。
多利思北孤の即位は「新しい政治の始め」を意味する九州年号の「端政(たんじょう)(正)」元年己酉(五八九)だとされますが、その年に筑後の「高良玉垂命」が薨去しています(注6)。初代の玉垂命は仁徳五五年(三六七)に筑後に移り、大善寺に宮を開き、代々玉垂命を引き継いでおり、『高良記』『高良玉垂宮神秘書』ほかから、九州王朝の王(天子)の系列だと考えられています。そして、高良玉垂命は「月神」であり、また高良神楽発祥の地として「芸能の神」として著名なのです(注7)。
能楽羽衣で「天乙女」は「南無帰命(なむきみょう)月天子本地大勢至」と祈ります。「南無帰命」とは梵語「ナマス(南無)」とその漢訳語「帰命」を重ねた祈りの言葉で、対象は「月天子大勢至菩薩」です。「月神」である高良玉垂命は「月天子」に相応しく、また多利思北孤は、煬帝に送った国書の中で「海東の菩薩天子」を自負していました(注8)。
屯倉は駿河だけでなく、羽衣伝承のある近江(葦浦の屯倉)や丹波(蘇斯岐(そしき)の屯倉)ほか全国に造られました。「月」から来たとする天女は、「月神」高良玉垂命や「菩薩天子」多利思北孤など、九州王朝に仕える舞乙女たちであり、その舞楽が、屯倉設置に伴い駿河はじめ各地に齎され羽衣伝承になったのではないでしょうか。『體源抄』の「丙辰記」に記す駿河国宇戸ノ濱の東遊譚は、羽衣伝承を「歴史の反映」として考える上での貴重な資料と言えるでしょう。
(注1)『體源抄』は豊原統秋(一四五〇~一五二四)著の音楽書(一五一五年成立)。豊原統秋は室町・戦国時代の雅楽家。なお、『玉勝間』中の「教到」年号の発見は冨川ケイ子氏(古田史学の会々員。相模原市在住)による。
(注2)駿河国の同地域は、『書紀』皇極三年(六四四)に富士川(不尽河)付近で起こった「常世の虫」信仰が都に蔓延したとあり、また、廬原(いおはら)郡は白村江の戦での日本の救援将軍「廬原君臣」の本拠で、斉明六年(六六〇)には新羅に備え船を造らせた(「駿河国に船を造らしむ」)とあるように、古代から中央と強く結ばれた地だった。
(注3)『二中歴』には五一七年の「継体元年」から「大化六年(七〇〇)」まで連続する三十一の年号が記され、これらは『襲国偽潜考』に古写本「九州年号」から写したとあるところから、一般に「九州年号」と呼ばれる。
九州年号は多数の我が国の古文書や、『海東諸國記』『日本大文典』等の海外資料に見え、大和朝廷の正史『続日本紀』には「玄遠の年代(*の年号)」と記されるところから、大和朝廷に先立つ倭国(九州王朝)の年号と考えられる。
「教到年号」の「舞遊始」については、古賀達也「本居宣長『玉勝間』の九州年号─『年代歴』細注の比較史料─」(古田史学会報六四号二〇〇四年十月)に詳しい。
(注4)ここでは朕(宣化天皇)が直接阿蘇の君を遣したとあるが、他は蘇我氏などを通し、○○を遣すという「二段階」になっている。また、直接命じたはずの阿蘇の君が〈未詳也。〉というのも不審。さらに、「君」とあるところ、九州王朝の多利思北孤の俀国には「阿蘇山有り」と書かれていることから、実際は九州王朝の天子(王)である「阿蘇の君」が宣化を遣して茨田郡の屯倉の穀を運ばせたのではないか。
(注5)裴子野(はいしゃ)(字は「幾原」四六九~五三〇)」南朝粱の著名な史学家、文学家。
(注6)『太宰管内志』三瀦郡。
御船山玉垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者自端正元年己酉(五八九)
高良大社の由緒、『高良記』、『高良玉垂宮神秘書』などに記す。
(注7)高良玉垂命は干珠(しおひるたま)満珠(しおみつたま)を海神から授かった神であり、これは汐の干満を司る「月」の神を意味するといい、高良の神は陰暦の九月十三日「十三夜」の、月の美しい夜に出現するという。
高良玉垂命と月神に関しては古賀達也「八女郡星野村行・人麿神社とチンのウバ塚」(『古田史学会報』第四六号二〇〇一年十月)による。
(注8)『隋書』(俀国伝)大業三年(六〇七)、其の王、多利思北孤、使を遣し朝貢す。使者曰はく、「海西の菩薩天子、重ねて佛法を興すと聞く。故に遣して朝拜せしめ、兼ねて沙門數十人、來りて佛法を學ぶ」といふ。
新古代学の扉事務局へのE-mailはここから
制作 古田史学の会