『古代に真実を求めて』 第二十二集

 


太宰府に来たペルシアの姫

正木裕

一、筑紫に来た覩貨邏(とから)のペルシア人

1、『書紀』に記す覩貨邏国人との交流

 『日本書紀』には、六五四年~六六〇年に、覩貨邏(とから)国人(「吐火羅国」とも)の乾豆波斯達阿(くんずはしだちあ)と妻、舍衞(しゃえ)女の来朝記事があります。まず、「日向」への漂着記事が六五四年に、「筑紫」への漂着記事が六五七年に見え、六五九年には朝廷に伺候し、六六〇年に舍衞女を残し帰国します。そして、残された舍衞女・墮羅女は天武四年(六七五)正月の賀正礼で珍異物(めずらしきもの)を献上しています。
◆白雉五年(六五四)四月吐火羅国の男二人女二人、乾豆波斯達阿一人、風にあひて日向に流れ来りぬ。
◆斉明三年(六五七)七月(三日)に、覩貨邏国の男二人、女四人、筑紫に漂ひ泊れり。言さく、「臣等、初め海見嶋に漂ひ泊れり」とまうす。乃ち驛(はいま)を以て召す。辛丑(一五日)。須彌山の像(かたち)を飛鳥寺の西に作る。また盂蘭瓮會(うらぼんえ)を設(まう)く。暮に、覩貨邏人に饗(あ)へたまふ。或本に云はく、墮羅(だら)人といふ。
◆斉明五年(六五九)三月(十日)、吐火羅の人、妻舍衞婦人とともに来(まう)けり。
◆斉明六年(六六〇)七月(一六日)、覩貨羅の人乾豆波斯達阿本土に帰らむと欲ひて、送使を求(ま)ぎ請して曰く、「願くは後に大国に朝へまつらむ。所以(このゆへ)に、妻を留めて表(しるし)とす」とまうす。乃ち数十人と西海の路に入りぬ。
◆天武四年(六七五)春正月丙午の朔に、大學寮諸学生・陰陽寮・外薬寮、及び舍衞女・墮羅女・百済王善光・新羅の仕丁(よほろ)等、薬及び珍異物(めずらしきもの)等を捧げて進(たてまつ)る。

 本稿では、覩貨邏国とは西域にかつて存在した「トカレスタン」を意味し、漂着した乾豆波斯達阿らは、当時滅亡したササン朝ペルシア人で、舍衞女はペルシアの姫だったことを述べていきます。

 

2、「覩貨邏国」とはどこか

「覩貨邏国」とはどこの国かについて、今日まで次のようなさまざまな説が唱えられています(注1)。
➀「西域説」水戸光圀『大日本史』(「吐火羅伝」)飯田武郷『日本書紀通釈』内田吟風『吐火羅国史考』
➁「トカラ列島説」(丸山二郎)
③「ビルマ驃(ぴゅー)国(イラワジ川中流プロム)説」(竹内理三)
④「覩貨邏=タイ・(メナム川中流ドヴァラヴァティ)・舍衞=インド舍衞城説」(井上光貞)
⑤「フィリピンヴィサヤ島説」(藤田元春)、「スマトラ・ジャヴァ説」(榎一雄)など。

 しかし、『書紀』記事と同時代に玄奘(三蔵法師)の記した『大唐西域記』には「覩貨羅」とも「吐火羅」とも表記される西域の国が、詳しい地理と共に記されているのです。

3、『大唐西域記』『新唐書』が示す「覩貨羅」

◆『大唐西域記』(玄奘。六四六年成立)巻第一、羯霜那(くさな)国(*史国、今のシャフリ・サブズ)条(覩貨邏国)
・「鉄門(*鉄門関・天山山脈のあい路)を出て、覩貨邏国に至る。(旧「吐火羅国」と曰う。訛なり)其の地は南北千余里、東西三千余里、東は葱嶺(*パミール山脈)に阨(ふさ)がれ、西は波刺斯(*ペルシア)に接し、南は大雪山(*ヒンズークシ山脈)、北は鉄門に拠る。縛蒭(ばくす)大河(*アムダリア川)が中を境て西に流れる。数百年より、王族嗣ぐこと絶え、酋豪力を競い、各擅君長、川の険しきに依拠し、分れて二十七国、野を区分ち画し、總じて突厥に役属す。」(*旧「吐火羅国」とは前漢の張騫が訪れた紀元前の大夏国(トハラ)」

 つまり、「覩貨羅国」とは、現在はアフガニスタン西北部に位置し、古くはペルシアに隣接するトカレスタン地域の国だというものです(地図参照)。
 そして「覩貨羅の人乾豆波斯達阿」は当時覩貨羅に亡命していたササン朝ペルシア人だと考えられるのです。

4、ササン朝ペルシアは六五一年に滅亡し、王子は吐火羅に亡命

ササン朝ペルシアは、アルダシール一世(二二四年即位)時代に成立し、ホスロー一世(在位:五三一~五七九年)時代が全盛期。七世紀にはローマ帝国と激しく抗争し、 六二一年にエジプト全土を占領しますが、 六二二年のカッパドキアの戦い、六二七年のニネヴェの戦いで敗北し、六二八年にはホスロー二世が息子に暗殺される事件も起きます。その後イスラム勢力との抗争のなかで、六五一年にヤズデギルド三世がメルヴ総督マーフワイフに追われて吐火羅に逃亡中に殺害され、ササン朝ペルシアは滅亡します。
 当時、王子の卑路斯(Piroozペーロース)は吐火羅に入り難を逃れ、六五四年にはペルシア復興めざし唐に遣使しますが、高宗は遠隔であるとして、出兵は見合わせ、使をイスラムに送り和平を仲介し、卑路斯はその後休戦状態の中二十五年程吐火羅に滞在します。

◆『新唐書』伊嗣俟(ヤズデギルド三世)君たりえず。大酋の所逐ふ所となり、吐火羅に奔る。道半ばにして、大食(タージ・イスラムのこと)これを擊ち殺す。子の卑路斯 吐火羅に入り以て免る。使者を遣して難を告ぐも、高宗、遠きを以て師(軍)をおこさず、謝遣して大食と會し解きて去らしむ。吐火羅以て兵を納む。

5、卑路斯は唐に遣使し入唐も

『新唐書』によれば、卑路斯は六五四年以降度々唐に遣使し、自らも六七〇年(六六一年とも)頃に入唐し、都督に任命され官位を授かっています。
◆『新唐書』龍朔初(六六一)疾陵城(Zereng)を波斯都督府とし卑路斯を都督とす。(唐は西域十六国に都督を置く)。咸亨(かんこう)中(六七〇~六七三)入朝し右武衞將軍を授かるも死去(*六七九年ころ)。調露元年(六七九)その子泥涅师(なるしぇ)兵に護られ還りて、復た其の国(*吐火羅国)の王となる。景龍初(七〇七)復た來朝し、左威衞將軍を授かる。病死す。

 このように七世紀中葉のペルシアの滅亡に際し、王族・貴人たちの吐火羅を経由して唐への大移動があったのです。そして『書紀』では、吐火羅にいたペルシアの王子卑路斯が「六五四年」唐に支援を求めたその年に、倭国との交流が始まるのです。
 ◆白雉五年(六五四)四月吐火羅国の男二人女二人、乾豆波斯達阿一人、風にあひて日向に流れ来りぬ。

6、筑紫に来た乾豆波斯達阿と舍衞女・墮羅女

 そして、「乾豆波斯達阿」の「くんず」はトカレスタンの地名クンドゥズ、「波斯」は中国語で「ペルシア」、「達阿」の「達」は達磨の「ダル」で、「ダルア・ダーライ」というペルシアの貴人・王族を意味します。(「堕羅(ダラ)」も同じ)。従って「吐火羅にいたペルシアの王族」に相応しい名前なのです。
  また、舍衞女は、「後に大国に朝(つか)へる」との約束を証する「質」になっており、「質」に値する人物であること、古代ペルシア語でシャーは王を表す(伊藤義教氏)こと等から、舍衞女は王女(或は王女クラス)の呼称・称号と考えられます。そして六五九年記事に「妻舍衞婦人」とありますから、波斯達阿は舍衞女を娶っていたことになります。
 斉明六年(六六〇)に波斯達阿は舍衞女を残して帰国しますが、これは倭国と唐・新羅との戦が近いことを感じ避難するためで、舍衞女は倭国を裏切らない証=人質となったものでしょう。あるいは、六六一年にペルシア都督府が設置されますから、都督となる卑路斯に従い赴任するためとも考えられます。そして、六五九年に舍衞女を娶ったなら、六六〇~六六一年に出産してもおかしくはありませんから、同行しなかったのは出産間近で航海に耐えられなかったのかもしれません。
 その後、天武四年(六七五)に、残された「舍衞女」に加え、「墮羅女」が正月倭王と対面し、ペルシアの珍異物を献上しています。『書紀』では舍衞女・墮羅女が百済王善光より前に記され、これも貴人の証と考えられます。墮羅女は初出で、かつ貴人なら舍衞女の産んだ子供である可能性が高くなります。子供なら年齢は十五歳前後、ちょうど成人に達することで、初に謁見するに相応しい年齢です。

 

二、ペルシアの姫の運命

1、ペルシアの姫の辿った道

 それではペルシアの姫舍衞女は、どのような運命をたどり筑紫に着いたのでしょうか。
ヤズデキルド三世には、二人の妻と王子の卑路斯(Peroz)のほかに王子(Bahram)と六人程の王女があったとされ、いずれも数奇な運命をたどりました。
妻のマニアン(ビザンティン帝国王女)の産んだ王女は四人で、そのうち、
①ダラ・イザドバルはユダヤ人ブステナイの妻となる。
②他の三人は大食(タージ・イスラム)に拉致され、うちシャフル・バーヌー(Shahrbanu)がシーア派の第三代イマーム・フサインの妻になったといいます。
 もう一人の妻シャーバヌーハストバダンの産んだ王女は二人で、うち一人は高宗の妻になりました。(*卑路斯の子で、調露元年(六七九)まで唐に質としてとどまった泥涅师(なるしぇ)(Narseh)の日記(注2)ほかによる。ただし人名には史料により異同がある。)

 そして、「もう一人の王女」の消息が不明となっているのです。
 泥涅师の日記には、卑路斯の家族・王族は宝物を携え兵士と共に危険な雪山を超え中国に渡ったとあります。
白雉五年(六五四)に吐火羅の卑路斯が唐に遣使して支援を求めた際、宝物を持参したことは疑えません。また、妹を姉のもとに送った可能性もあります。高宗は支援を断っているので、当時唐に来ていた遣唐使により、東夷の倭国を認識していた使節一行が、さらなる支援者や、安住の地を探索に向かうことは十分考えられます。
 しかも、白雉四年(六五三)五月に遣唐使が、第一班は東シナ海ルート(南路)で、第二班は半島経由(北路)で派遣されています。第二班は白雉五年(六五四)七月に筑紫に帰って来ました。しかし、遣唐使の多くが「海に死んだ」とある(知聰、智國、義通於海死)ところから、南路を採った第一班が帰国も東シナ海ルートをとり、海難に巻き込まれたのでしょう。
 そして、乾豆波斯達阿らが漂着するのが六五四年ですから、彼らは第一班に同行し、「風にあひて」(遭難して)奄美に流れ着き、九州に至ったのだと推測されます。

 

2、ペルシアの姫は倭国のどこに行ったのか

斉明三年(六五七)記事に「須彌山の像を飛鳥寺の西に作る」とあることから、覩貨邏人は当然大和飛鳥に行ったと考えられています。しかし、「飛鳥寺の西」について、『書紀』に次のような記事があります。
◆天武六年(六七七)二月。多禰島人等に、飛鳥寺の西の槻の下に饗へたまふ。
◆天武十年(六八一)八月二〇日に、多禰島に遺しし使人等、多禰国の図を貢れり。其の国の、京を去ること、

 ここで多禰島(種子島)は「京」から五千余里とあります。しかし、律令の一里は約五三〇メートルで、「五千余里」とは約二七〇〇キロメートル。「京」を大和飛鳥とすると、種子島までは約八〇〇キロメートルですから全く合わず、倭人伝ほか『三国志』に用いられた短里(約七五~七六メートル)でも三八〇キロメートル超で、これも一致しません。ところが、「京」を筑紫太宰府だとすれば、種子島まで有明海経由で約四〇〇キロメートル。「短里」で測ればぴたりと一致するのです。
 しかも、大和から筑紫までは片道約七〇〇キロメートルですから、七月三日に「筑紫に漂ひ泊った」のであれば、いくら「驛を以て召」しても十五日に大和の飛鳥寺で饗宴を披けるはずはありません。仮に「召した」のが七月三日でも使者が筑紫に行き、多数の覩貨邏人を連れて十五日までに飛鳥に着くことは困難でしょう。そうであれば筑紫にも飛鳥寺があり、九州のどこかに滞在していた舍衞女らは筑紫の「京」太宰府(Ⅰ期か)に召されて行ったことになるのです。『書紀』で筑紫には外国使節接待の宮として「大郡・小郡」の存在が記されており、このどちらかで宴が披かれた可能性が高いでしょう。
◆天武二年(六七二)十一月(二一日)に、高麗の邯子・新羅の薩儒等に筑紫の大郡に饗たまふ。祿(もの)賜ふこと各差有り。
◆持統三年(六八九)六月(二四日)に、筑紫の小郡にして、新羅の弔使金道那等に設たまふ。物賜ふこと各差有り。

 さらに、波斯達阿は「願くは後に大国に朝へまつらむ」と我が国を「大国」と呼んでいます。岩波『書紀』では「大国」を「敬称」と考え「ヤマト」とルビを振っていますが、「地域名」の「ヤマト」は不自然で「ワコク(倭国)」とあるべきで、現に「推古紀」では「大国」に「モロコシ(唐)」と「国名」でルビを振っています。そして、『隋書』では我が国を「俀(たい)国」と呼び、九州の国であることを示す「阿蘇山あり」としています。つまり、波斯達阿が仕えるとした「大国」はヤマトではなく、九州の「大国=俀国」であり、そうであれば、「京」が太宰府だという地理的考察と一致するのです。

 

3、筑紫小郡にあった飛鳥

 先に筑紫に「小郡」があったことを述べましたが、福岡県小郡市の小郡官衙遺跡群は七~八世紀にかけて、大規模な役所と集落が存在したことで知られています。なかでも上岩田遺跡には東西約一八メートル、南北約一五㍍、高さ約一㍍強の基壇と、寺院の金堂とみられる瓦葺き建物、及びそれを囲み規則正しく配置された大型建物群(東西二三メートル×南北六メートル・東西一七メートル×南北七メートルほか)の遺構が見つかり、これらは、筑後国府の建物より大型で、単なる「評衙」ではなく、寺院と政庁(宮)を兼ねる、高い機能を備えた施設と推測されています。
 その造営時期は、山田寺式軒丸瓦(単弁蓮華紋)の出土、及び天武七年(六七八)の筑紫大地震で倒壊した跡があることから、七世紀半ば(六四〇年代)と考えられますが、この寺の名前は一切残っていません。
 ところが、その周辺に「飛鳥」地名が残っていたのです(明治一五年の小字調査に「御原郡 飛鳥」)。上岩田遺跡は「旧御原郡」に属し、井上廃寺や未発掘の「長者屋敷」もあって、井上地区に湧く浄水が幅二〇~三〇㍍の堀(長者堀)として地区を廻り、その先に「飛鳥」がありました(注3)。

 奈良飛鳥の「浄御原宮」の名称の由来は、『書紀』に「朱鳥をアカミトリというから飛鳥浄御原宮と名付けた」とありますが、なぜ「アカミトリ」が浄御原宮になるのか、全く分かりません。
◆朱鳥元年(六八六)秋七月。戊午(二〇日)、元を改めて朱鳥元年と曰ふ。朱鳥、此をば阿訶美苔利といふ。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰ふ。
 ところが、上岩田遺跡は、当時の「御原郡」にあり、浄水を巡らした官衙ですから、飛鳥浄御原宮に相応しいのです。

 そもそも浄御原宮は壬申の乱の年(六七二)に造られ、翌年(六七三)二月に天武はそこで即位したのに、六八六年まで宮の名前がなかったというのは不自然です。また天武は天智一〇年(六七一)に吉野に隠棲しており、壬申乱(六七二)の最中に宮を造営できるはずはありませんし、九月の乱決着後に、即位の式典を挙げうる大宮の建設に着手し、年内に移転するのは不可能でしょう。
◆天武元年(六七二)是歳、宮室を岡本宮の南に営る。即冬に遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。

 こうしたことから、大和飛鳥の天武の浄御原宮は、当初は「岡本宮」であったものを、後年に筑紫小郡の浄御原宮の名を移した(後付けた)のではないでしょうか。

4、「珍異物」とは何か

 舍衞女らは天武四年(六七五)に「珍異物(めずらしきもの)」を朝廷に献上していますが、それは何だったのでしょうか。
 奈良正倉院には、白瑠璃碗・紺瑠璃坏を始めとするペルシア製のガラス器が収蔵されています。これらは「おそらく、ササン朝ペルシアの王侯たちに分配され、さらにその一部が通商などによってはるばるシルクロードを超えて運ばれたのであろう。」(宮下佐江子古代オリエント博物館研究員による)とされています。「通商などによって」とありますが、卑路斯や泥涅师は宝物を携え唐に赴いており、それらの一部が波斯達阿や舍衞女らによって倭国に齎された可能性の方が高いでしょう。中国の調査団が中国・台湾の博物館にそうした宝物が収蔵されていることを確認したようですから、倭国に渡っていて不思議はありません(注2の末文)。
 そして、光明皇太后が正倉院に施入した約七四〇点中に、白瑠璃碗はありません。天平年間の東大寺への奉献物を記載する『東大寺献物帳』にも白瑠璃碗など六個のガラス器がなく、入庫時期・経緯は不明となっています。
 天平八年(七三六)には唐から波斯人李密翳(りみつえい)らが来朝し、位階を授かっていますが、その時の献上品なら台帳等に記載されているはずで、なぜ不記載なのかわかりません。

 ところが小郡に隣接する筑後下高橋遺跡(三井郡大刀洗町下高橋)では、一七〇メートル以上、東西一五〇メートルの長方形の範囲を大溝で囲んだ中に、三〇メートル×九メートルの「大型建物」を中心とする十二棟の建物が見つかり、内六棟が七メートル×八メートルの高床倉庫となっています。奈良の正倉院は三三メートル×九メートルですから、「王型建物」はこれに匹敵する規模なのです(注4)。
 そして、古文書に「生葉郡 正倉院 崇道天皇御倉一宇 西二屋一宇五間」(『久留米市史』第七巻、資料編)とあり、さらに『筑後国交替実録帳』(仁治二年、一二四一)にも「正院」「宮城大垣」の記述があることから、「筑後正倉院」と呼ぶにふさわしい建物群です(現地の説明看板にも「正倉院」とある)。
 『筑後国正税帳』天平一〇年(七三八)には、筑後からの献納として、銅釜工、轆轤工三人、鷹養人三〇人、鷹狩り用犬一五匹が記されており、これらは「王権」の存在抜きにはあり得ない役人です。また『正税帳』には白玉一一三枚、紺玉七一枚、縹玉九三三枚、緑玉七二枚、赤勾玉七枚、丸玉四枚、竹玉二枚、勾縹玉一枚等が記されており(太政官天平一〇年七月十一日符)、これらの宝物は「筑後正倉院」に収蔵されていたと考えられます。中でも玉類は奈良正倉院に存在しますから、出所不明のペルシャ製白瑠璃碗等はペルシャの姫と共に筑紫に齎され、太宰府を京とする朝廷「俀国(九州王朝)」に献上されて収蔵されていたのではないでしょうか。由緒が記されないのは、本来は俀国(九州王朝)に献上され、その「正倉院」に収められたものを、天平時代に奈良正倉院に収めさせたもので、そうした献上の経過(最初は大和朝廷に献上されたものでないこと)を明らかにしたくなかったからなのかもしれません。

5、消息が途絶えたペルシャの姫

 舍衞女・墮羅女は百済王より上位に位置付けられながら、以後『書紀』にも『続日本紀』にも全く登場しません。唐に帰国したのか倭国で没したのかも不明で、これは大和にはいなかったことを示すのではないでしょうか。墮羅女が六六〇年ころの生まれで、その後も筑紫(筑後)に留まったなら六七八年の筑後水縄山地を震源とする「筑紫大地震」で没した可能性があります。
 その規模は先の熊本地震に匹敵し、博多湾岸までの広い地域に甚大な被害をもたらしました。その困窮の状況は翌年二月に「大恩を降して貧乏を恤(めぐ)む」とあることからもわかります。
◆『書紀』天武七年(六七八)十二月。是の月に、筑紫国、大きに地動る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余丈。百姓の舍屋、村毎に多く仆(たふ)れ壊れたり。是の時に、百姓の一家、岡の上に有り。地動る夕に当りて、岡崩れて処遷れり。然れども家既に全くして、破壊るること無し。家の人、岡の崩れて家の避れることを知らず。但し会明(あけぼの)の後に、知りて大いに驚く。
天武八年(六七九)二月。是の月に、大恩を降して貧乏を恤(めぐ)む。以て其の飢寒に給(ものたま)ふ。

 「筑紫大地震」では先述のとおり、小郡上岩田遺跡の寺院と政庁(宮)を兼ねる瓦ぶき建物が崩壊しています。舍衞女・墮羅女が「貴人」として処遇されたことは『書紀』記事から確実ですから、そうした施設の崩壊で命を落とし、それ以降歴史から消えたのではないでしょうか。

 ペルシア滅亡により覩貨邏への亡命を余儀なくされ、さらに雪の中で険しいパミール高原を超え、たどり着いた唐でもペルシア復興の助けは得られず、倭国を目指し乗り込んだ遣唐使船は難破し奄美に漂着。ようやく筑紫にたどり着いたけれど乾豆波斯達阿には置き去りに。ここまでは様々な記録から推測されますが、もし「筑紫大地震」で母子共に命を失ったとしたら、なんという悲しい運命なのでしょうか。
 故郷を離れ、遥か六千㌖の旅の先に倭国にたどり着いたペルシアの姫に、遥か時代を超えて思いを馳せてください。

(注1)西本昌弘「飛鳥に来た西域の吐火羅人」(『関西大学東西学術研究所紀要第四三輯』平成二二年四月一日)、岩波『日本書紀』注釈等による。

(注2)泥涅师の日記については以下のフランク氏の要約による。
By:Frank Wong(Iran Chamber Society)
Narseh recounts in his diary of how his father set foot in China around the 660s A.D. Pirooz was only a little boy when the Arabs beheaded his father. Pirooz、 scared and was awaiting the help of Chinese armies. He had written to his sister who was the wife of the Chinese emperor. With the Arab armies in sight、 he waited no longer. They decided to cross the Pamirs. Their families along with other noble Persian clans and the soldiers crossed the treacherous snowy mountains. Many of the imperial treasures were either abandoned or lost. Recently、 Chinese research teams recovered some of the lost items. They are now housed in various museums in Beijing or Taiwan.
清水和裕『ヤズデギルドの娘たちーシャフルパーヌー伝承の形成と初期イスラーム世界ー』(東洋史研究 二〇〇八年 六七⑵)ほかによる。

(注3)古田武彦『壬申大乱』(ミネルヴァ書房で二〇一二年八月復刊) に詳しい。

(注4)『下高橋上野遺跡Ⅱ』福岡県御井郡大刀洗町大字下高橋所在遺跡の調査概報(平成五~七年度調査)大刀洗町文化財調査報告書による。
 「正倉」は中央と各地に配置された穀物倉庫。「正倉院」は、その中で塀等で囲まれた区画に複数の正倉が設けられた大規模施設をいう。


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