正木裕
『古事記』(記)や『日本書紀』(紀)では、「神武(神倭伊波礼毘古命)」は、「日向(九州)時代」に「日向国の吾田邑(あたむら)の吾平津媛(あひらつひめ)(紀)」又は「阿多小椅(あたのおはし)の妹阿比良比売(あひらひめ)(記)」を娶り、「手研耳(たぎしみみ)の命(紀)」を儲けます(注1)。
手研耳は神武と共に東征し、かつ「久しく朝機を歷た(執政した)」のですから、その時点では当然手研耳が神武の真正な「二代目」だったことは疑えません。
◆『書紀』「神武紀」天皇独り、皇子手研耳命と、軍を帥ゐて進む。
「綏靖紀」手研耳命、行年已長(としお)いて、久しく朝機を歷たり。故亦、事を委(ゆだ)ねて親(みずか)らせしむ。
ただし、後に綏靖らを誅殺しようとして逆に殺され、「反逆者」となったためか、その生地や墳墓はなんら記録されていません。宮崎県日南市大字戸高の吾田神社に手研耳命が祀られ、裏に御陵もありますが、「大和で没した」のでこれは後年に「あてはめ」たもの。
ところが、筑紫糸島の「産宮神社」には奈留多姫命が「神武第二代」の綏靖を産んだという伝承が伝わっています。綏靖は「大和の生まれ」ですからこれも不自然です。ただし、「日向三代」(瓊瓊杵(ににぎ)の尊・彦火火出見(ひこほほでみ)の尊・鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)の尊。*何れも『書紀』による表記)(注2)という神武の先代たちの生地と陵墓を探っていくと、「神武第二代」の手研耳命が糸島で誕生した「事実」が奈留多姫命伝承となって伝わった可能性が高いことがわかるのです。
『記紀』神話で、天孫降臨した「瓊瓊杵の尊」、次代の「彦火火出見の尊」、及び神武の父「鸕鶿草葺不合の尊」は「日向三代」と呼ばれ、当然のように「宮崎なる日向」の人物とされています。
しかし瓊瓊杵の降臨の地は、別稿の「常陸と筑紫を結ぶ『桜児』伝承と謡曲『桜川』」で述べたように、「筑紫なる日向」、即ち「高千穂山」とされる「高祖連山」を中心とする博多湾岸~糸島にかけての地域でした。
続く日子穗穗手見命(記)は、『古事記』に「高千穗宮に伍佰捌拾歲(五八〇歳)坐す。御陵は、卽ち其の高千穗山の西に在り」というように高祖連山の西「怡土平野」で統治しました(注3)。そうであれば「日向三代」の陵墓や、神武を含む彼らの妻子等の出生地も「筑紫なる日向」に求めるべきことになります。
まず瓊瓊杵と彦火火出見の陵墓について検討しましょう。
『書紀』では、瓊瓊杵の陵墓は、「筑紫の日向の可愛〈此をば埃(あい)と云ふ〉の山陵」、『延喜式』では「日向埃山陵 天津彦瓊瓊杵尊 在日向国。無陵戸」とあります。「陵戸」とは世襲で守衛に使役された一族です。「無陵戸」ということは瓊瓊杵の墓として守ってきた人はおらず、誰の墓か正確にはわからないことを示します。
宮内庁は鹿児島県薩摩川内市宮内町の新田神社内(神亀山)に比定し管理していますが、宮崎県東臼杵郡の可愛岳(えのだけ)山麓の古墳(宮内庁可愛山陵伝承地)、同県の西都原古墳群にある男狭穂塚(同可愛山陵参考地)も候補に挙がっています。
しかし、高祖連山の「日向峠」の東、室見川と日向川の合流地(注4)には、紀元前二世紀ころに遡る我が国で最も古く「三種の神器」が出土する吉武遺跡群があります。
吉武高木遺跡の墓地には、通常の甕棺のみならず高位の人物を埋葬する木棺が多く出土し、青銅武具は勿論、多紐細文鏡など豪華な副葬品が埋葬されるなど、「王墓」と呼ぶに相応しい遺跡となっています。また、吉武大石遺跡の棺からは、遺骨と共に石剣の切先や石鏃が出土しており、これは埋葬された兵士の体内に残されたものと推測されます。これは「石器」を武具とする在地勢力との戦闘の結果と考えられ、天孫降臨時によく起こりうる状況なのです。
こうしたことから、吉武遺跡群は瓊瓊杵の陵墓の所在地の第一候補と言えるでしょう。特に墳丘を伴っていた可能性がある吉武高木三号木棺墓からは見事な「三種の神器」が出土しており、大いに注目されるところです。
『古事記』では日子穂穂手見の陵墓は「高干穂の山の西」、『書紀』では「日向の高屋山上陵」とあり、明治政府は多数の候補地の中から、高干穂山を霧島山とし、その山麓を埋葬地に比定しています。しかし、これも高祖山の西、怡土平野に求めるべきことになり、先述のとおり、三雲・平原・井原遺跡がその候補となります。ただし約三〇〇年間も続く遺跡ですから、「初代」の日子穂穂手見の陵墓と「次代以降」の陵墓群にわけて考える必要があります。
「高干穂の山の西」「日向の高屋山上陵」との記述によれば、初代の陵墓(埋葬地)の第一候補は「高祖山の西側の山上」となります。そして、そこには現に日子穂穂手見を祀る「高祖神社」が存在しているのです。
そして、「五八〇歳(二倍年暦で二九〇年間)」統治したという「文献(『古事記』の記述)」と、「考古学上の成果」が一致する「三雲・井原・平原遺跡」は歴代の日子穂穂手見の陵墓群に最も相応しいといえるでしょう。
一言付け加えれば、紀元五七年に光武帝から金印を下賜された「委奴国王」も、一〇七年に遣使した倭国王「帥升(漢風名称)」も和風名称として日子穂穂手見を襲名した歴代の倭王の一人だったと考えられます。
『記紀』上で、鸕鶿草葺不合尊の記事は、「近畿天皇家の始祖たる神武の父」としては、不可解なことにごく僅かで、高千穂宮で豊玉姫を母として生まれ、豊玉姫の妹玉依姫を娶り、彦五瀬命・稻飯命・三毛入野命・神武(神日本磐余彦尊・神倭伊波礼琵古命)らの父となり、陵墓は「西洲(にしのしま)の宮に崩(かむざ)りき。因りて日向の吾平(あひら)山の上の陵に葬りまつる(紀)」とあるのみです。
このように「事績に欠ける」のは、鸕鶿草葺不合が「記録に残るような人物」ではなかったこと、つまり日子穂穂手見命を承継する倭王ではなかったことを示すものです(注5)。
陵墓の所在地は、『延喜式』に「日向吾平山上陵 彦波瀲武鸕鶿草不葺合尊 在日向国。無陵戸」とあって、明治政府は、鹿児島県鹿屋市鵜戸山の「鵜戸窟」内の二つの塚に比定しているほか、伝承地として宮崎県の鵜戸神宮背後の速日峯山上、あるいは同県の高千穂町などがあげられています。しかし、この「吾平山」も「筑紫なる高祖連山の日向」周辺に求めるべきこととなるでしょう。
そして、「筑紫の日向」である日向峠・吉武高木の東隣りに、荒平山(あらひらやま)(福岡市早良区荒平山、三九五m)・油山(あぶらやま)(福岡市城南区・五九七m)が並んでいます。
「荒平山」の山裾の標高二二m前後の微高地には、縄文から古墳時代まで続く四箇(しか)遺跡群があります。
そして、清賀上人が開いたとされる「油山観音(正覚寺)」がある「油山」から延びる丘陵には、かつて「百穴」と呼ばれる横穴式石室群があり、ここが古代の人々の墳墓の地だったことは確かです。
また、油山には主神を豊玉彦命とする「海(わたつみ)神社」(城南区東油山字黒の原)と、綿津見三神を祭神とする「海(わたつみ)神社」(早良区西油山二三六)があります。いずれも由緒や創建年代は不詳ですが、本来の和多都美(わたつみ)神社(対馬)の祭神は彦火火出見尊と豊玉姫命であり、その子鸕鶿草葺不合にとって由緒深い神社なのです。
「荒平山・油山」は「筑紫なる日向」周辺、特に「吉武遺跡群の東」に隣接し、地名(吾平山と荒平山・油山の類似)、地形(山上陵)、遺跡(墳墓群)、鸕鶿草葺不合に関連深い神社の並ぶことから、その一帯が埋葬地の第一候補となるでしょう。
また『書紀』では、鸕鶿草葺不合尊の命名の由来を、鵜の羽で産屋の屋根を葺いたこととしています。
◆『書紀』(神代紀十段)兒の名を彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と称す所以(ゆえん)は、彼の海浜の産屋に、全く鸕鷀(う)の羽を用て草(かや)にして葺(ふ)けるに、甍合(いらかおきあへぬ)時に、兒即ち生れませるを以ての故に、因りて名づけたてまつる。
この鸕鷀草葺不合の命名根拠となった「鸕鷀(う)の羽」について、糸島半島の玄海沿いは「海鵜の一大繁殖地」であり(註6)、「神武歌謡」(注7)に「鵜飼(鵜飼が徒)」「嶋つ鳥」が出てくることと符合します。
(*以下の「神武歌謡」の論証は古田武彦『盗まれた神話』による。)
◆「神武歌謡」➀楯並めて 伊那佐の山の 木の間ゆも い行きまもらひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 (とも) 今助けに来ね
さらに、同じく「神武歌謡」に見え、通説では「吉野の宇陀」とされる「宇陀」も、「鯨障り」とあることから、糸島の旧今津湾岸の「宇田(宇田川原一帯)」地域に相応しいものです。
◆「神武歌謡」➁宇陀の高城に鴫罠張る。我が待つや 鴫は障(さや)らず いすくはし 鯨障る
つまり「神武歌謡」から神武の育った地は、糸島地域だと考えられるというものです。
ちなみに、『書紀』では水間(筑後三潴(みづま))の君のもとに「養鳥人」がいたとされ、三潴は鵜飼が盛んな筑後川下流で、そこに「鳥飼」地名もあります。そこから、この「鳥飼」とは「鵜飼」をいうことになるでしょう。
そして、「荒平山・油山」の北、博多湾の渚(波瀲(なぎさ))一帯(現在の大濠公園の西方)にも「鳥飼村(旧早良郡鳥飼村)」があるのです。
また、『書紀』雄略十一年冬十月条に、「鳥官の禽(とり)、菟田の人の狗の為に囓(く)はれて死ぬ。天皇瞋(いか)りて、黥面して鳥養部とす」とあります。この菟田は「奈良吉野なる菟田」とされますが、それでは何故菟田の犬が鳥を食うことになるのか、その経緯が理解しづらいのです。
しかし、これは本来博多湾岸の事件で、糸島半島の北岸で捕獲された鵜が、博多湾の鳥飼村の鳥官・鳥養部のもとに献上される「途上」で「糸島なる宇田(宇田川原)の人」の狗が、集められた鵜を囓ったと考えれば、宇田と鳥官・鳥養部の地理的関係、何故食われる事故が発生したのかという因果関係がうまく説明できるのです。
つまりこの記事は九州・博多湾岸での出来事だったことになります。
ところで神武が「日向」で娶った妻の吾平津媛(阿比良比売)の「あひら」は、鸕鶿草葺不合の陵墓である「吾平山上の陵」の「吾平」と共通します。先述の吾平山を「油山・荒平山」とする比定が正しければ、これは吾平津媛の生地が油山・荒平山近郊の「津(海岸)」に近い地域であることを示すものでしょう。
また、その出身地である「吾田邑・阿多」は、天孫降臨に際し、瓊瓊杵が至った「吾田の長屋の笠狹の碕」とそこで娶った「神吾田津姫」の「吾田」と共通します。そして、博多湾岸には「愛宕(あたご)(福岡市西区愛宕)長垂山・長岡・御笠」といった「吾田の長屋の笠狹の碕」に相応しい地名があるのです(注8)。
一般に、吾平津媛は「宮崎なる日向」で「手研耳命(紀)」を産んだとされていますが、神武の出自が糸島地域であれば、その地も「筑紫なる日向」糸島に求めるべきことになるでしょう。
そして、神武歌謡の「宇陀」と考えられる糸島の宇田川原と波多江の境に産宮(さんのみや)神社(福岡県糸島市波多江駅南一丁目一三-一)があります。祭神は奈留多姫命(なるたひめのみこと)・鸕鶿草葺不合尊・玉依姫命で、「社伝」によれば、奈留多姫命は神武の妻として「第二代綏靖天皇」を産んだとされるのです。
◆「産宮神社由緒」奈留多姫は懐妊に当たり、大いに胎教を重んじられ、母玉依姫、おば豊玉姫の産育の瑞祥あるを尊重され、両神の前に、「月満ちて生まれん子端正なれば永く以て万世産婦の守護神とならん」と誓われました。果たしてお産に臨んで心忘れたように何の苦しみも無く皇子神渟名河耳命(かんぬなかわみみのすめらみこと)(*第二代綏靖天皇)を安産されました。
しかし、綏靖は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)(紀)から産まれたのですから、本来なら媛蹈鞴五十鈴媛命が祭神となるべきで、「宇田川原の地で奈留多姫が綏靖を産んだ」とする「誰が見てもおかしいと考えるような伝承」があるのは不可解です。しかも奈留多姫は『記紀』に登場しないのは勿論、彼女を主神として祭るのは全国で糸島の産宮神社ただ一社なのです。
しかし、吾平津媛が博多湾岸の「吾田邑」出身で、神武の育った地も糸島なら、「糸島なる宇田」の近郊で手研耳を産んだ可能性が高くなります。その伝承が現地に遺存し、『記紀』と「習合」したのが「産宮神社由緒」だと考えられるのではないでしょうか。
先述のとおり、手研耳は神武と共に東征し、かつ「久しく朝機を歷た(執政した)」のですから、神武の真正な「二代目」だったことは疑えません。しかし後に綏靖らを誅殺しようとして逆に殺され、綏靖が二代目となりました。つまり『記紀』では、
➀宮崎なる日向で吾平津媛が産んだ手研耳は「反逆者」で、
➁大和で媛蹈鞴五十鈴媛が産んだ綏靖が「正当な二代目」であるとされたのです。
そこで、「吾平津媛が糸島なる宇田で二代目手研耳を産んだ」という本来の事実は、『記紀』の名分に合うように、反逆者とされた「二代目手研耳」は、神武の正当な後継者とされる「二代目綏靖」に改変された。但し、綏靖の母たる大和の媛蹈鞴五十鈴媛を糸島の人物とはできないし、吾平津媛を綏靖の母とすることもできません。そこで、「奈留多姫という糸島の人物が宇田で二代目綏靖を産んだ」という「不思議な」伝承となったのではないでしょうか。吾平津媛は東征には同行せず、糸島で没し産宮神社に祀られ祭神となった可能性もあります。あるいは「吾平津媛」は出身地名を冠した名前で、実際の呼び名が「奈留多姫」だったのかもしれません。産宮神社の縁起はその「痕跡」だったとも考えられるでしょう。
以上、天孫降臨地と神武の出自を「宮崎なる日向」ではなく「筑紫なる日向」と考えるとき、「日向三代」の陵墓や神武の妻子の所在が『古事記』や『日本書紀』の記述と考古学的な成果、現地伝承や地理的状況とよく合致することになるのです。
(注1)(記)では當藝志美美命と岐須美美命。
(注2)「日向三代」の名は『日本書紀』(紀)と『古事記』(記)で次のように異なる。「瓊瓊杵尊(紀)邇邇芸命(記)」、「彦火火出見尊(紀)、日子穂穂手見命・或は火遠理命(記)」、「鸕鶿草葺不合尊(紀)鵜草葺不合命(記)」。以下、出典に応じて使い分ける。
(注3)『魏略』(三世紀の魚豢(ぎょかん)の著)には、「(倭人)の俗、正歳四節を知らず、但々春耕秋収を計りて年紀となす。」という。
つまり倭人は「春に耕し、秋に収穫するまで」の「半年」を一歳と数える、つまり一年に二歳年をとることになり、これを「二倍年暦」という(古田武彦)。これは古代の天皇の寿命は、初代神武(一三七歳)から二十一代雄略(一二四歳)までの平均が九六歳(『古事記』)、1/2で四十八歳であることから確かめられる。
そうであれば「五八〇歳」とは「二九〇年間」のこととなる。また、これは「一人の寿命」ではなく、我が国の伝統の「襲名」によるもので、歴代の倭王が日子穗穗手見を襲名し、約三〇〇年間怡土平野で統治したことを示すと考えられる。これは三雲・平原・井原といった怡土平野の王墓級の遺跡が、紀元前後約三〇〇年間続いたことと一致する。襲名の例としては、高良玉垂命や、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代の天皇に仕えたとされる武内宿禰などもあげられる。
(注4)古田武彦氏は、「筑紫の日向の可愛〈此をば埃(あい)と云ふ〉の山陵」の「可愛(かあい)」を「川が合う=合流地」とした。
(注5)鸕鶿草葺不合と神武が倭王なら、本拠を捨てて自ら東征することにはならないはず。神武の「何地に坐(ま)しまさば、平けく天の下の政を聞こし看(め)さん。猶(なお)東に行かんと思う」とは、神武が新天地を求める冒険者・チャレンジャーだったことを示すものと言える。
(注6)「博多の西隣の糸島郡の北岸、玄界灘に臨んだそこが鵜の名産地、海鵜がたくさん集まってくる所の一つなんです。筑後川の鵜飼というのが今ありますが、そこの鵜は糸島郡の北側の鵜を取ってきてやるっていうんですね。」古田武彦「筑紫朝廷と近畿大王」(『市民の古代第十五集』一九九三年)より。
(註7)「神武歌謡」は、「久米歌」とも呼ばれ、「記紀」で神武の東征途上で歌われたとするもの。その内容から、神武の生地である筑紫、とりわけ糸島地域に伝承していた歌謡であり、「日向三代」の事績を反映していると考えられる。
➀は兄師木らを討伐する際に窮地に陥った時、「鵜飼の徒」に救援を求めた歌。通説では、「伊那佐の山」とは奈良県宇陀郡榛原町の伊那佐山とし、地元に鵜飼集団がいたとするが、「侵略軍が侵略した地元の民に救いを求めた」とは、到底考えられない。有明海岸杵島山地の「稲佐山」なら歴代の倭王日子穂穂手見の佐賀討伐譚に相応しい描写となる。
➁の「鯨障る」との歌は、宇陀の弟宇迦斯が設けた饗宴での歌。従来「鯨」が不明とされ、猪とか鷹とかという説があるが不自然。本来は干潟や岩礁海岸に生息するイソシギを獲る罠に鯨がかかったという歌と考えられる。鯨が浜に打ち上げられる「寄り鯨」という現象。玄界灘は鯨漁の盛んだった地域で歌われるに相応しい。
(注8)ちなみに、油山から博多湾岸にかけての室見川沿いには有田・小田部・田村・田隈、糸島平野には高田、宇田・池田・有田・田尻などの地名が密集し、「吾田」との共通性が伺われる。
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