『古代に真実を求めて』 第二十二集

 


〔コラム〕

肥前・肥後の「聖徳太子」伝承

古賀達也

一、『肥前叢書』の「聖徳太子」伝承

 昭和十二年に肥前史談会により発行された『肥前叢書』(昭和四八年復刻版)によれば、肥前の寺院に「聖徳太子」御作とされる仏像に関する記事が散見されます。おそらく九州王朝の天子、多利思北孤か太子の利歌彌多弗利に関わる仏像記事が、後世に「聖徳太子」伝承に置き換えられたものと推察されます。そうであれば、作られたのは仏像だけではなく寺院も建立されたはずです。同書によれば次のような「聖徳太子」関連記事があります。
○勝楽寺
 「新庄の里勝軍山勝楽寺本尊は阿弥陀如来の尊僧聖徳太子の御作也」
○桐野山
 「桐野山妙覺寺は聖武天皇の勅願行基菩薩の開基、本尊は大悲観世音菩薩即ち行基の御作也、又護摩堂の本尊は太聖不動明王聖徳太子の御作也」
○黒髪山
 「黒髪山大権現、本地薬師如来の三尊聖徳太子の御作也」
○圓應寺
 「武雄圓應寺、本尊は聖観音の座像也、薩捶聖徳太子の御作、利生無双の霊像也」

 こうした「聖徳太子」伝承を持つ寺院や仏像は、本来は多利思北孤か利歌彌多弗利に関わるものであれば、七世紀初頭頃に肥前の地でも九州王朝による寺院が少なからず建立された可能性をうかがわせます。これもまた土器や瓦などの考古学的出土による編年研究が必要です。

 

二、『肥後国誌』の寺社創建伝承

 九州の現地伝承を記した史料には七世紀前半以前の創建伝承を持つ寺院が少なからず見えます。たとえば平野雅曠著『倭国王のふるさと 火ノ国山門』(平成八年、熊本日日新聞情報文化センター)には『肥後国誌』に見える次の寺社創建記事を紹介されています。平野氏(故人)は「古田史学の会」草創期の会員で、古田学派における熊本の重鎮でした。
○山鹿郡中村手永 久原村の一目神社
 「当社ハ継体帝善記四年十一月四日高天山ノ神主祭之」(善記四年:五二五年)
○山鹿の日輪寺
 「俗説ニ当寺ハ敏達天皇ノ御宇、鏡常三年百済国日羅大士来朝ノ時、当国ニ七伽藍ヲ建立スル其一ニテ、初メ小峰山日羅寺ト称シ法相宗ナリ」(鏡常三年:五八三年。『二中歴』では「鏡當」)
○上益城郡鯰手永 小池村の項
 「常楽寺飯田山大聖院・・・。寺記ニ云。推古帝ノ御宇、吉貴年中、聖徳太子ノ建立ト云伝ヘ・・・」(吉貴年中:五九四~六〇〇年。『二中歴』では「告貴」)
○下益城郡砥用手永 甲佐平村の項
 「福成寺亀甲山・・・。推古帝ノ御宇吉貴元年、湛西上人ノ開基。」(吉貴元年:五九四年。『二中歴』では「告貴」)

 このように熊本県北部に六世紀の寺社創建伝承が分布しており、九州王朝の天子・多利思北孤の時代の創建伝承が、後世において「聖徳太子」伝承に置き換えられていることがわかります。おそらくこの山鹿や益城地方は『隋書』俀国伝に記された阿蘇山の噴火を見た隋使の行路ではないかと考えられます。
 六世紀末の告貴年間の創建であれば、法隆寺若草伽藍創建と同時期にあたりますから、その時代の瓦や土器が出土すれば、考古学的証拠と史料が一致し、九州王朝における寺院創建の可能性が高まります。


新古代学の扉事務局へのE-mailはここから


『古代に真実を求めて』 第二十二集

ホームページへ


制作 古田史学の会