『古代に真実を求めて』第十八集
『盗まれた遷都詔―聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤―』正木裕
盗まれた「聖徳」 正木裕

「続・最後の九州年号─消された隼人征討記事─」(会報78号)


盗まれた南方諸島の朝貢

聖徳太子の「隋との交流」と多利思北孤

正木裕

  本稿では、『日本書紀』の編者、即ち近畿天皇家は、本来九州王朝の多利思北孤に対する掖玖やく人・多禰たね島人など南方諸島の朝貢記事を、推古紀や天武紀に盗用することで、「隋と交流した多利思北孤とは聖徳太子であり、南方諸島を平定したのは推古・舒明・天武などの近畿天皇家の天皇である」と偽装したことを示す。

 

一、『書紀』における南方諸島人の朝貢

1、推古・舒明紀の掖玖人帰化

 『隋書』には大業四年(六〇八)俀国の使人が、「夷邪久国人の布甲だ」と述べたとあるが、『書紀』推古・舒明紀にも「掖玖人(屋久島ほかの南島人)」の帰化記事がある。いずれも南方諸島に関する記事であるから、「夷邪久国人」と「掖玖人」が同一国人を指すことは確かだろう。
◆推古二十四年(六一六)三月に、掖玖人三口、帰化まうおもぶけり。
              夏五月に夜勾人七口、来けり。
              秋七月に、亦掖久人二十口来けり。先後、併て三十人。皆 朴井えのゐに安置はべらしむ。未だ還るに及ばずして皆死せぬ。
◆推古二十八年(六二〇)秋八月に、掖玖人二口伊豆嶋に流れ来れり。
◆舒明元年(六二九)夏四月の辛未の朔に、田部連 〈名を闕もらせり〉 を掖玖に遺す。
    三年(六三一)春二月の庚子(十日)に、掖玖人帰化まうおもぶけり。

 隋は、大業四年(六〇八)に琉球国を侵略し、これを支配下に置き、六一二年から六一四年には高句麗に大軍を送ったが失敗、その後各地で反乱がおこり煬帝は琉球に近い江都(揚州)に依ったが惨殺され、隋は六一八年に滅亡。その後も江南地域は混乱が続いたから、これが収まるまでは、南方諸島は不安定な状況が続いたものと思われる。推古二十四年・二十八年記事は、「皆死」とか「流れ来」といった文言が見えるなど、そうした厳しい状況を想起させる記事となっている。

 

2、天武紀の「多禰国」記事

 一方、同じ南方の島である多禰島(種子島)については、『書紀』天武六年(六七七)に多禰島人への饗宴記事、天武八年から十年にかけて多禰島への遣使記事があるなど、天武紀にならないと記されない。
 そしてこの時期、天武が南九州に関係する何らかの施策を行ったわけでもないから、何故この時期に饗宴が持たれ、使者が派遣されたのかは不明なのだ。
◆六年(六七七)二月。是の月に、多禰島人等に、飛鳥寺の西の槻の下に饗へたまふ。
◆八年(六七九)十一月の庚寅(十四日)に、大乙下馬飼部造連を大使とし、小乙下上寸主光父すぐりこうぶを小使として、多禰島に遺す。仍なほ、爵一級賜ふ。
◆十年(六八一)八月。丙戌(二十日)に、多禰島に遺しし使人等、多禰国の図を貢れり。其の国の、京を去ること、五千余里、筑紫の南の海中に在り。髪を切りて、草の裳きたり。稲常に豊なり。一度殖ゑて両たび収さむ。土毛(くにつもの・特産)は、支子くちなし、莞子がま及び種々の海物等、種類多なり。

 

3、不自然な掖玖国・多禰国遣使記事の年代差

 このように、掖玖国(屋久島等)については、推古紀に帰化・来朝、漂着、舒明紀に遣使記事があるのに、多禰国(種子島)については五十余年後の天武八年・十年まで記事がない。これは極めて不審なことと言わざるを得ない。特に、舒明元年(六二九)には「偶然の漂着」ではなく、掖玖国に正式な使節を派遣し、掖玖人も帰化しているのに、隣接し、かつ屋久島より耕地も広く人口も多いと思われる多禰国の位置が初めて記され、その図を貢納できたのが五十二年後とは到底信じがたいのだ。
 この点、南九州の歴史・文化に詳しい下野敏見氏は、推古・舒明紀の掖玖人帰化について「短い間に掖玖人ばかりやって来たというのは、これまでも種々論ぜられてきたように少しおかしい。掖玖が現在の屋久島なら、当時も人がはるかに多いはずの隣島の種子島や、他の隣接諸島民の記述がないのはおかしい」と疑問を呈している(註1)。若し「掖玖が現在の屋久島」のみならず南西諸島を含む広い概念であったとしても、より九州島に近くて大きい多禰国(種子島)の記述が無い不自然さは変わらないだろう。

 

4、「京を去ること、五千余里」の「京」は太宰府

 もうひとつの不審点は、天武十年記事の「京を去ること、五千余里」だ。律令による一里は約五三〇mだから「五千余里」とは約二七〇〇㌔となる。
 これは既に故中村幸雄氏が指摘されていることだが(註2)、「京」を大和飛鳥だとすると、種子島まで七〇〇~八〇〇㌔で、二七〇〇㌔とは全く合わない。もし「五千余里」が『魏志倭人伝』に用いられた短里(約七十六m)であれば約三八〇㌔超となるが、これも大和飛鳥からの距離と一致しない。
 ところが「京」を太宰府だとして実際の距離を求めれば、図のように種子島まで有明海経由の航路で約三八〇㌔となる(陸路もほぼ同様)。これは、今述べた「短里で計算した五千余里」とぴたりと一致している。
 ここから言えるのは、これらの記事は大和ではなく、“筑紫大宰府を基点”即ち「京」としており、かつ“短里で書かれている”という事なのだ。
 つまり、天武六年から天武十年にかけての多禰島人の朝見と多禰島への遣使に関する記事は、大和飛鳥の近畿天皇家ではなく、本来大宰府を「京」とする王朝「九州王朝」への朝見と、これを受けての九州王朝による遣使の記事であり、かつ短里が用いられていた過去の時代から盗用された(繰り下げられた)ものであると考えられるのだ。

 

朝賀

二、多禰島人朝貢記事の盗用

1、多禰島人記事は多利思北孤の時代からの盗用

 地理的に見れば、掖玖国遣使と多禰国時期に大差があるとは思えないことから、多禰島人記事は掖玖国との頻繁な交流記事のある『書紀』では推古朝、実際には九州王朝多利思北孤の時代の事実だったのではないかと思われる。
 『書紀』では、例えば「神功皇后紀」の百済関係記事が実年より“二運(百二十年)繰り上げ”られるなど、干支を同一とする年に繰り上げ・繰り下げるという記事移動手法が用いられている。
 そこで、天武六年(六七七)の多禰島人等への饗応を、“一運(六十年)繰り上げ”れば推古二十五年(六一七)で、掖玖人帰化の翌年のこととなる。
 この考察が正しければ、掖玖人と共に多禰島人も帰化して饗応を受けたことを意味し、「なぜ掖玖人だけか」という下野疑問が解消する。
 天武六年記事をよく読めば「多禰島人等」と「等」が付加されており、掖玖人も饗応を受けたとすれば、この「等」も良く理解できるのだ。
 また、天武八年(六七九)の多禰島への遣使は、同様に推古二十七年(六一九)のこととなり、「屋久島などより近くて大きい多禰島への遣使が、舒明元年(六二九)の掖玖への遣使より先行して行われた」という合理的な時代順となる。
 ここでは九州王朝の史書を盗用し、実年より“一運(六十年)繰り下げ”て『書紀』に挿入するという編纂手法が用いられたのだ。(註3)

 

2、九州王朝の大宰府遷都と南方諸島民の朝賀

 九州年号は六一八年に「倭京」と改元されており、『盗まれた遷都詔―聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤―』で述べたように、『聖徳太子伝暦』ほかから、この年に九州王朝は筑後から太宰府に遷都したのではないかと考えられる(註4)。そうであれば、六二一年の遣使報告中の「京」を太宰府とすることと整合してくるのだ。
 結論を言おう。推古二十四年(六一六)に隋の脅威に直接曝されていた南方の掖玖人が、多利思北孤の九州王朝に帰化(渡来)した。これは九州王朝に臣従することによって、隋から自らを守るための行動だと考えられる。そして、翌二十五年(六一七)には、多禰人とともに饗応を受けた。これは翌六一八年の大宰府遷都に向けた、九州王朝の両国使節に対する饗宴だったことになる。
次いで、遷都の終わった二十七年(六一九)に多禰国に遣使、二十九年(六二一)に使人が帰還し、多禰国の図が貢納されたことになる。これも掖玖国・多禰国への「答礼」を兼ねての遣使だったと考えられる。
 『書紀』編者はこの一連の事実を、掖玖人関係については“実年代”に記述し、多禰国については“一運(六十年)繰り下げ”「天武紀」に挿入したのだ。

 

3、多利思北孤を聖徳太子に潤色

 多利思北孤を記す『隋書』に、隋の琉球国討伐と関連して、俀国(多利思北孤)の使者が、戦利品である「夷邪久国人の用ゐる布甲」を現認したと書かれている。これを受け、『書紀』編者は、聖徳太子の時代の六一六年~六二〇年に、「掖玖人の多数帰化・漂着」と「還るに及ばず皆死す(註5)」といった“掖玖国の事変”を想起させる記事を、「実年通り」記載し、「多利思北孤とは聖徳太子のことだ」という潤色を行なおうとしたのだ。
 一方、『隋書』に「多禰島人・多禰国」は見えない。
 従って『書紀』編者は、『隋書』に憚ることなく、「多禰人は天武天皇の御代に帰順し、位階も授け、饗宴も催した。彼ら南方諸島民を帰順させたのは近畿天皇家の事績だ」と記すことが出来たのだ。

 

三、「多禰島人」記事盗用の真の目的

1、近畿天皇家に反乱を起こした多禰人

 しかも、天武紀の多禰人記事には、単なる“事績の盗用”に止まらない、『書紀』編者による一層の“巧妙な仕掛け”が隠されているのだ。
 『続日本紀』によれば、多禰人は七〇二年に薩摩とともに反乱を起こし征討されている。これは時期的に見て律令制施行に基づく近畿天皇家の新たな支配に対する抵抗と考えられよう。
◆『続日本紀』大宝二年(七〇二)八月丙申朔日に、薩摩と多禰、化を隔て命に逆ふ。是に兵を発して征討し、遂に戸を校して吏を置けり。

 『書紀』「天武紀」の多禰島人の帰順記事を事実とする限り、この近畿天皇家による多禰征討は、 「多禰人は、天武天皇の御代に帰順し、饗応も受け、爵位も与えられた。そうした厚遇を受けたにもかかわらず、極めて不埒にも、僅か二〇年余りで反乱を起こした。こうした裏切りを行ったのだから、討伐を受けて当然なのだ」 という「大義名分」により正当化されることになる。
 即ち、「天武紀」の多禰島人記事は、単に「南方諸島を平定したのは近畿天皇家である」とするばかりでなく、「多禰国征討の正当性」をも証明する役割を果たしているのだ。

 

2、多禰国討伐は九州王朝の終焉

 そして、多禰嶋に最も近い大隅国が置かれたのは和銅六年(七一三)で、隼はやとの賊を討つ将軍ら一千二百八十余人が顕彰されている。その規模から一大討伐戦が遂行された事は疑えない。にもかかわらず“討伐戦”はもちろん「隼の賊」の反乱記事も見えないのだ。
◆『続日本紀』和銅六年(七一三)夏四月乙未(三日)、(略)日向国の肝坏きもつき、贈於そお、大隅、姶羅あひらの四郡を割きて、始めて大隅国を置く。大倭国疫す。薬を給ひて救はしむ。
◆秋七月丙寅(五日)、詔して曰はく、「授くるに勲級を以てするは、本、功有るに拠る。若し優異せずは、何を以てか勧獎めむ。今、隼の賊を討つ将軍、并せて士卒等、戦陣に功有る者一千二百八十余人に、並びに労に随ひて勲を授くべし」とのたまふ。

 大隅国設置と時を同じくして、七一三年に最後の九州年号「大長(七〇四~七一二)」も消滅する。これは「隼の賊」とは、南九州の一隅に地方政権としてかろうじて命脈を保っていた九州王朝であり、近畿天皇家による討伐で完全に消滅したことを意味するものだ。(註6)

 そして、翌七一四年に多禰国印が与えられる。
◆和銅七年(七一四)四月辛巳(二十五日)に、多禰嶋印一図(*多禰国の公印)を給ふ。

 それまで多禰国に国印が無かったとは考えづらく、これは従前「九州王朝から与えられていた国印」に代えて、新たに「近畿天皇家による国印」が給付された記事であり、九州王朝の滅亡とともに、「九州王朝の多禰国」から、屋久島も含む四郡からなる「近畿天皇家の多禰国」に編入されたことを示すものだろう。

 

四、九州王朝と運命を共にした南方諸島

 以上のように、「天武紀」に記される「多禰島人」記事が、実際は一運遡上した六一〇~六二〇年代の事実であったなら、九州の南方諸島については、『隋書』や「推古・舒明紀」に記される掖玖人(屋久島など)はもちろん、多禰人(種子島)も、多利思北孤の時代、遅くとも九州年号「定居~倭京」年間(六一一~六二二)から、九州王朝と人的・物的交流があったこととなる。
 これは、地理的に見ても当然のことだ。
 そして、多禰人への叙位記事は、単なる交流・交易に留まらず、多禰国が九州王朝の支配に組み込まれていたことを示している。
 八世紀初頭、九州王朝に代わって倭国の支配権を確立した近畿天皇家は、『書紀』の編纂において九州王朝の歴史を盗用・改変し、我が国の始源から統治していた事を装った。
 そうした九州王朝の事績の盗用は、卑弥呼・壱予・玉垂命など九州王朝の女王の事績を取り込むための「神功紀」創設、九州王朝の九州一円平定譚の「景行紀」への盗用、倭王「武」の上表文にあわせた、日本「武」尊の東方「毛人」征討譚の創設など、枚挙に暇がない(註7)。そして、南方諸島支配に関しても、同様の詐術を施した。
 即ち、多利思北孤の隋への使人が「掖玖人」について語ったことと整合させるため、「推古・舒明紀」に掖玖人関連記事を実年代どおり記し、多利思北孤が推古期の近畿天皇家の人物、俗にいう「聖徳太子」であるかのように装った。
 加えて、多禰島への遣使や叙位を「天武紀」に移すことにより、その支配も近畿天皇家が初めて行ったように見せた。
 しかも単に九州王朝の事績を取り込み、自らの事績と見せかけるだけでなく、「多禰」など南方諸島を、「化に逆らう」不埒な勢力とすることで討伐の正当性を装ったのだ。そして、それは同時に『書紀』における九州王朝討伐の正当化のための「詐術」だったのだ。

 

(註1)下野敏見『南九州の伝統文化』第一巻(南方新社二〇〇五年)
 但し、下野氏は推古時代には「薩南諸島人は「掖玖人」に包括され」て認識されており、「種子島と屋久島の区別がやっとできた」のが天武期だとされる。
 しかし、「漂着率は高く」「人口も多い」「弥生以来稲作も行われていた」(下野氏)種子島の方が「掖玖人」と認識されていたとするのには無理があろう。

(註2)『中村幸雄論集』「九州王朝の滅亡と『日本書紀』の成立」八四頁より引用。(発行者横田幸男二〇〇四年二月。現在は古田史学の会HPで公開。なお初出は『南九州史談』五号一九八九年)
◆この記事で最も注目しなければならないのは、「去京五千余里」である(略)
 その「京」は文中の筑紫と解する外はない。なぜならば、「筑紫→種子島」の距離は、当時使用されていたと推定される「短里(魏晋朝の里制、一里=七十五メートル前後)」に相当し、「大和→ 種子島」の距離は、現在までに判明しているすべての「里制(一里は何メートルか)」に一致しないからである

(註3)その際、当然単純な「切り貼り」ではなく、位階等はその時代に合わせて改変されていると考えられる。大乙下・小乙下は大化五年から天武十三年までの位階。推古期では小義・小智。なお大乙下馬飼部造連・小乙下上寸主光父とも岩波『日本書紀』注釈に「他に見えず」とある。これは両名が近畿天皇家の人物ではない事を示しているのではないか。

(註4)太宰府の創建は、第一期政庁下層の整地層から六世紀後半~末頃の土器が出土しており(九州国立博物館赤司善彦氏)、七世紀前半と考えられよう。なお、太宰府条坊は政庁の中心軸とずれている(太宰府市教育委員会井上信正氏)ことから、創建当時の宮城は、条坊の中心と考えられる通古賀地区(王城神社付近か)にあったのではないかと推測されている。(古賀達也「太宰府条坊と宮城の考察」(『古代に真実を求めて』第十三集二〇一〇年ほか)

(註5)これは「変死」などではなく、「帰化し一生を終えた」という意味。

(註6)古賀達也「続・最後の九州年号─消された隼人征討記事─」(『古代に真実を求めて』第十一集・二〇〇八年四月)

(註7)『書紀』における九州王朝の史書からの盗用については、古田武彦氏が『失われた九州王朝』(一九七三年)、『盗まれた神話』(一九七五年)等で詳細に論じられている。(両書とも二〇一〇年にミネルヴァ書房より復刊)

 


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