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『市民の古代』第14集 1992年 市民の古代研究会編
 ●研究論文

日蓮の古代年号観

中世文書に見る古代像

古賀達也

一 はじめに

 『二中歴』の九州年号部分の成立を古田武彦氏は七〇一年(大宝年号建元)以後、七二〇年(『日本書紀』成立)前とされ、その理由として、『日本書紀』を読んだ者であれば、「大宝から初めて年号はできた」とは記せないという点をあげておられる。(1) これに対し、丸山晋司氏は「古代末期から中世にかけて、大宝を創始年号だとする諸史料が散見されている」「後代に『日本書紀』の内容を知らず、『日本書紀』の内容にそぐわぬことを平気で書く学者や僧侶はゴマンといた」と反論を加えている。(2)
 本稿ではこの間題、すなわち『日本書紀』にそぐわぬ年号観の存在について、日蓮文書より考察を加え、中世における古代像についての私見を述べるものである。なお日蓮文書の引用にあたっては、創価学会編『日蓮大聖人御書全集』『日蓮大聖人御書講義』『日蓮大聖人御書十大部講義』を用いた。

二 日蓮の創始年号観

 日蓮がわが国の創始年号について記した文書に『報恩抄 (3)』がある。

 此れ又何れの王・何れの年時ぞ漢土には建元を初めとして日本には大宝を初めとして緇素の日記・大事には必ず年号のあるが、これほどの大事に・いかでか王も臣も年号も日時もなきや。(『報恩抄』一二七六述作)

 このように、日蓮は年号の初めを中国では「建元」、日本は「大宝」と認識している。これは丸山氏が指摘するように、日蓮が『日本書紀』の内容(大化・白雉・朱鳥の年号)を知らず、『日本書紀』にそぐわぬことを平気で書く僧侶であったことを意味しているのであろうか。そうではないようだ。というのも、日蓮文書にはいたる所で『日本書紀』が引用されており、また当時、日本における最高学府ともいえる比叡山で学んだ日蓮が『日本書紀』を読んでいなかったとは万に一つも考えることはできないからだ。たとえば『三論宗御書』では具体的に引用出典を記している。

 三論宗の始めて日本に渡りしは三十四代推古の御宇治す十年壬戌の十月・百済の僧・観勒之を渡す。日本記の太子の伝を見るに異議無し、但し三十七代との事は流布の始めなり。(中略)
 所謂日本記に云く「欽明天皇十三年壬申十月十三日辛酉百済聖明王始めて金銅釈迦像一躯を献ず」等云々。(『三論宗御書』執筆年次不明)

 ここに見える「日本記」とは、まずは『日本書紀』のことと思われるが、『扶桑略記』(平安末期成伝・皇円著)の可能件も否定できない。なぜなら日蓮文書には、『日本書紀』には無く、『扶桑略記』に存在する説話の引用があることから、日蓮は『扶桑略記』を読んでいたと考えられるからだ。

 天智天皇と申せし国王は無名指と申すゆびをたいて釈迦仏に奉る。此れ等は賢人・聖人の事なれぱ我等は叶いがたき事にて候。(『白米一俵御書』年次不明)

 この天智天皇の説話は『日本書紀』には無く、『扶桑略記』に見える。また、日本の別名に扶桑という名前があることも日蓮文書には記されている。

 夫れ以れば日本国を亦水穂の国と云い亦野馬台又秋津島又扶桑等云々。(『神国王御書」一二七五述作)
 抑日本国と申すは十の名あり、扶桑・野馬台・水穂・秋津洲等なり。(『秋元御書』一二八○述作)

 こうした日蓮の認識からすれば、「扶桑」を「日本」と読み変えて、『扶桑略記』を「日本記」としたという可能性も皆無ではない。しかし、その『扶桑略記』においても大化・白雉・朱鳥の年号が記されており、これら三年号を日蓮が知らなかったとは益々言えないのではなかろうか。更に『扶桑略記』には白鳳・朱雀の年号さえ記されている。したがって、日蓮がこれらの年号を知っていたことは否定できない。また、『扶桑略記』と同本かどうかは不明だが、『扶桑記』という文献名とその引用が『諌暁八幡抄』(一二八○述作)に見える。
 この他、出典を明記していないものの、『兄弟抄』(一二七五述作、仁徳天皇と宇治稚郎子の説話を引用)、『兵衛志殿御返事・建治元年八月二一日』(一二七五述作、蘇我入鹿暗殺の故事を引用)、『崇峻天皇御書』(一二七七述作、崇峻天皇暗殺の故事を引用)、『四条金吾殿御返事・建治三年』(一二七七述作、欽明期の仏法伝来記事・聖徳太子記事・用明期の豊国法師記事などを引用)など、その他少なからぬ文書に『日本書紀』、あるいは『扶桑略記』からの引用とおぼしき記事が見える。さらに、引用ではないものの『日本書紀』を読んでいることを前提とした文章もある。

 寺寺の御本尊皆かんがへ尽し、日本国最初の寺、元興寺・四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば其の寺寺の御本尊又かくれなし。(『新旭御前御返事』一二七五述作)

 これらの文書から、日蓮は『日本書紀』の内容を知っていた上で、なお、日本の創始年号は大宝であるとしていることが推測できる。とすれば、日蓮の時代、すでに日本国の創始年号を大宝とする説が存在し、半ばそのことが公認されていたと考えねばなるまい。なぜなら、先に紹介した『報恩抄』は日蓮出家時の師、安房国清澄寺の道善房の死去にともない、兄弟子の浄顕房・義浄房へ送られたもので、日蓮五十五才の時の述作だ。そして、身延山より直弟子民部日向を遣わして、師の墓前で拝読させるようにとの指示が『報恩抄送文』に記されていることから、信徒への説法を目的とした公的性格をもった書状であることがわかる。したがって、そのような文書に記された年号観は、一人日蓮のみの見解と見なすべきではなかろう。
 しかも、『報恩抄』の年号についての当該箇所は、空海の弟子真済が記したとされる『孔雀経音義』を批判した部分にあり、その要旨は、「弘法大師が、智拳の印を結んで南方に向かったところ、両門がにわかに開いて金色の毘盧遮那となる」という『孔雀経音義』の記事に対して、そのような大事件を記しているのにもかかわらず、その年号や日時が記されておらず偽作である、というものだ。この他、真言宗文書に関して仏法教義や歴史事実をあげて詳細な批判を展開している。そのような批判の根拠の一つとして、わが国においては大宝より年号が開始使用されていることを述べているのであるから、その根拠が当時の社会、少なくとも仏教界にあっては「常識」とされていた、このことが大前提であろう。よって、鎌倉時代には「創始年号大宝説」が通説の一つとして容認されていたと考えられるのである。

三 中世の創始年号観

 このように、『日本書紀』の内容を知悉していた日蓮は、わが国最初の年号を大宝と理解しているのだが、ならば『日本書紀』に見える大化・白雉・朱鳥の三年号をどのように見ていたのであろうか。管見では日蓮文書にこれら三年号は見られない。もちろん、日蓮文書にはこの年号当時の記事を引用したものがあるが、いずれも皇極・孝徳・天武の時とするだけでこれらの年号は記していないようだ。一方、大宝(七〇一)以前の事績を引用した文書において、年次を記す場合は「○○天皇の御宇」「○○天皇の□□年」「○○天皇の□□年(干支・日付)」とするのがほとんどで、これらの史料状況からは日蓮が『日本書紀』の三年号(『扶桑略記』の白鳳・朱雀も含めれば五年号)をわが国の年号と認めていた形跡、これを見いだせず、一連の日蓮文書は『報恩抄』の記事と矛盾しないのである。(4)
 大化・白雉・朱鳥、あるいは朱雀・白鳳といった年号の存在を知っていながら、これらを日本国の年号と認めていない、かくのごとき日蓮文書の実状から導き出される日蓮の認識としては次の二つが想定できよう。
 1). これらの年号を偽作と考えていた。
 2). これらの年号は日本国(近畿天皇家)ではないと考えた。

 この二つである。しかし、日蓮の『日本書紀』に対する姿勢は、その内容を疑っているというものではなく、史実と理解した上での引用に徹しているように言える。よって1). のケースは除外してもよいと考えるとすると2). のケースが残るが、ここで思いおこされるのが『二中歴』年代歴に見える次の文章だ。

 巳上百八十四年、年号丗一代、□(記)年号、只有人伝言。自大宝、始立年号而巳。(『二中歴』尊経閥文庫本)

 丸川晋司氏の読み下しによれぱ、「以上百八十四年、年号三十一代、年号を記す。只、人の伝えてう有り『大宝より始めて年号を立つのみ』と・・・ (5)」ということであるが、ようするにわが国における年号創始において二つの説、すなわち大宝からとする説と継体からとする説があり、大宝からというのはただ人の言い伝えにすぎない、ということのようだ。
 『二中歴』に見えるこの文草の著者は、わが国の創始年号に関して二説が存在することを示し、内、一説を是としている。この二説が並存する状況は、先の日蓮の認識とも矛盾しないように思う。なぜならば、日蓮は大宝をわが国最初の年号と主張しているが、同時に『日本書紀』などにある大宝以前の年号(大化・白雉・朱鳥)の「存在」も鎌倉時代であれば当然知られていたはずである。よって、鎌倉時代においても、創始年号を大宝とする説と、それよりも以前のものとする二説があったであろうこと、日蓮文書からうかがい知ることができる。
 こうした二説並存の状況を想定しうるとすれば、先の『二中歴』古代年号部分の成立時期を七世紀初頭(大宝以後、『日本書紀』成立以前)と見るよりも、平安中期(丸山説)あるいは『二中歴』成立時期にあたる鎌倉初期と見たほうが、日蓮の認識と時代的に近接し、より自然と思える。少なくとも、『日本書紀』成立以後では大宝を年号の最初とは言えないはず、とする古田氏の考証は「日蓮の証言」からしても他に傍証がない以上、成立困難と、言わざるを得ないのではないか。日蓮は『日本書紀』の内容を熟知した上でなお大宝を創始年号と主張している、この日蓮文書の持つ意味は大きい。

四 日蓮は九州年号を知っていたか

 そうすると次に問題となるのが、日蓮は九州年号を知っていたのかということであろう。管見によれば、日蓮文書に『日本書紀』の大化・白雉・朱鳥の三年号が見えないことはすでに述べたが、同時に九州年号もまた見ることができない。したがって、日蓮が九州年号を知っていたかどうかをその文書から直接的に検証することはできない。そこで状況証拠を調査すべく、日蓮の生涯、中でも若き日の学究の足跡を辿ってみよう。はたして日蓮に九州年号を見聞する機会はあったか。

 此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に、はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に一つの、不思議あり。(『妙法比丘尼御返事」一二七八述作)

 日蓮自らが記す所によれば、少年の項より、二十数年間、鎌倉や京部・奈良などの主要な寺院で学んだようだ。おそらくは、日蓮文書に数多く引用される仏典や内外の典籍のほとんどはこの時期に読んだものと思われる。なぜなら日蓮三十二歳(一二五三)の立宗宣言以降、既成教団や鎌倉幕府による迫害につぐ迫害の生涯が始まるからだ。

 而るに日蓮二十七年が間、弘長元年辛酉(一二六一)五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子(一二六四)十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる。同文永八年辛未(一二七一)九月十二日佐渡の国へ配流、又頭の座(斬首刑場)に望む。其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう(科料)等かずをしらず。仏の大難には及ぶか勝れたるか其れは知らず。龍樹・天親・大台・伝教は余に肩を並べがたし。(『聖人御難事』一二七九述作)〈()内は古賀註〉

 二度に亘る流罪、そして斬首寸前まで及んだ日蓮受難の時期に、内外の典籍をじっくりと紐解く余裕を想像することは難しい。さて、若き日の日蓮が精力的に学んだ十三世紀前半には九州年号群を記した史料が既に成立している。丸山晋司氏の研究(6) によれば『二中歴』(鎌倉初期成立・古代年号部分は平安未期に成立か)を筆頭に『本朝皇代記』(一三世紀中葉成立)、少し遅れて『和漢春秋暦』(一二七一成立)がある。更に、九州年号群ではなく個別の九州年号が記された「縁起」類はもっと多かったはずだ。こうした諸史料に見える九州年号が、博覧強記の日蓮の眼にとまらなかったとは言えまい。私にはそのように思われる。
 このことを支持する記事が日蓮文書にも見える。先に紹介した『三論宗御書』に「善光寺流記」という引用文献名が記されているのだ。

 善光寺流記に云く「阿弥陀並びに観音・勢至・欽明天皇の御宇天下十三年壬申十月十三日辛酉、百済国の明王、件の仏・菩薩、頂戴」と云々。(『三論宗御書』)

 現存する『善光寺縁起』は一三六八年の成立とされ (7)、「貴楽」「師安」「知僧」「金光」「定居」「告貴」「願轉」「命長」「白雉」などの九州年号が散見される。日蓮引用の「善光寺流記」との差異は不明だが、全くの無関係とも考えにくい、これも日蓮と九州年号とをつなぐ傍証の一つと見なしたい。
 以上、本節では日蓮と九州年号の関係を考察してみたが、結論として日蓮は九州年号を知っていたとするほうが、全く知らなかったとするよりも穏当と解されるに至った。しかし、日蓮が九州年号を九州王朝の年号と理解していたか、あるいは九州王朝の存在を認識していたかは別問題である。次節では日蓮の「九州観」を探ってみる。

五 「九州」と「九国」

 日蓮は九州には行ったことがない。また、日蓮文書に「九州」という表記は見えないようである。もっとも、九州島を「九州」と表記した原存史料の初見は鎌倉中期頃の成立とされる『平家物語』のようで (8)、当時あまり使用例を見ない。その九州について日蓮は次のように表記している。

 筑紫九国一切諸人(『一代五時図』一二六〇述作)
 八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども(『新尼御前御返事』一二七五述作)
 西海道十一ケ国、亦鎮西と云い、又太宰府と云々。(『神国王御書』一二七五述作)
 壱岐・対馬・九ケ国(『乙御前御消息』一二七五述作)
 日蓮はいまだ、つくしを見ず、えぞしらず。(『清澄寺大衆中』一二七六述作)
 筑紫・鎮西(『新池殿御消息』一二七九述作)

 日蓮文書に見える九州の呼び名はさまざまであるが、中でも注目すべきは「筑紫九国」という表記だ。というのも、日蓮文書にはこの「九国」という表記を単に国が九ケ国あるという意味あいで使用しているのではなく、「国家」という意味で使用している例があるからだ。

 かの漢土九国の諸僧等は円定・円慧は天台の弟子ににたれども円頓一同の戒場は漢土になければ戒にをいては弟子とならぬ者もありけん。(中略)
 漢土の武宗皇帝の九国の寺塔四千六百余所を消滅せして僧尼二十六万五百人を還俗せし等のごとくなる悪人等は釈迦の仏法をば失うべからず。(『撰時抄』一二七五述作)
 漢土の会昌天子の九国の僧旧を還俗せしめしに超過すること、百千倍なり。(『會谷入道等許御書』一二七五述作)

 このように日蓮文書において「九国」と表記されているのは筑紫と漢土のみのようである。そしてその場合「九国」とは、古代中国において天子の直轄支配領域を九に分割統治し、その総称を「九州」と呼んだものだが、その「九州」の原義と同様の意味を有している。少なくとも「漢土九国」の場介、その「九国」が中国の天子直轄領域を指すことは文脈より明白だ。そうすると先の「筑紫九国」も同様の表記方法である可能性が生じる。そしてこの推察が正しければ、日蓮は筑紫を日本国内の半独立した地域と認識していたことになろう。少なくとも日蓮の時代にあって、筑紫(九州島)を中国同様に天子の直轄領域たる呼称、すなわち「九州」あるいは「九国」とする認識(九州王朝説に立てぱ「遺称」ということになろう)が存在したのではあるまいか。(9)

六 中世からの視点

 以上、各節で考究した日蓮文書に見える「九州年号観」や「九州観」より、次の点が明らかとなった。

1). 日蓮は『日本書紀』に見える「大化」を日本国最初の年号とはせずに、「大宝」を創始年号と認識していた。
2). 日蓮は『日本書紀』を読んでいるにもかかわらず、同書中の「大化」「白雉」「朱烏」を日本国の年号と認識した形跡がない。
3). 日蓮は「九州年号」が記された史料を見ていた可能性が強い。
4). 日蓮は筑紫(九州島)を中国同様に大子の直轄領域を意味する「九国」と記していることから、日本国内にあって筑紫を特別な領域と見なしていた可能性がある。
5). これら日蓮の認識は、一人日蓮のみの認識ではなく、鎌倉時代の知識人における共通認識の一つであったと考えられること。
 これらの結論から、日蓮は古代において日本国とは別の国家があり、独自の年号を有し、そしてその国は九州にあったことを知っていた、という一つの推理(作業仮説)を導き出すことが可能である。この作業仮説ならば1). から4). までの日蓮文書の状況と無理なく整合するからだ。しかし、今一つ別の可能性もある。それは、九州王朝の存在を前提に、あるいは反映して記された諸史料により、日蓮の知識や教養が形成された結果、日蓮本人には九州王朝の存在が意識されないまま日蓮文書に再反映された、このケースだ。一応この二つのケースが想定できるのだが、私は前者の可能性がより高いと考える
 理由としては、第一にこの時代から九州年号群史料が相次いで成立していることがあげられる。鎌倉幕府は近畿天皇家と京都から権力中心を移動させて成立した初めての武家政権だが、そうした政治的・思想的背景と密接に関連して、かの九州年号群史料が歴史の表舞台に復活してきたのではなかったか。少なくとも、天皇家の権威と対抗するうえで九州王朝の「存在」は幕府にとってマイナスに作用したとは考えにくい。たとえば、九州の宇佐にその淵源を持つ八幡神を鎌倉において崇敬したことも、こうした時代背景と恐らくは無関係ではあるまい。(10) 既存の権威を否定あるいは乗り越えるために、先住したそれ以上の権威を持ち出すことは、歴史においてはよくあることだからだ。(11) このような中心権力の移動にともなって、それまで埋もれていた「九州王朝」の痕跡がさまざまな形で出現し始めた時代に日蓮の歴史認識は形成されたと言えよう。
 第二の理由として、博覧強記の日蓮の文書において、ある史料群欠落の状況がある。その欠落した史料群とは中国史書中の『魏志』倭人伝を筆頭とする倭国(九州王朝)伝群である。倭国のことを記した『倭人伝』の他、『隋書』倭国伝・『旧唐書』倭国伝等の引用が日蓮文書には皆無なのだ。もちろん、日蓮はそれらの史書を読んでいなかったという場合もあるだろう。しかし、『史記』を初め内外の典籍を縦横に引用している日蓮が、それら倭国伝は知らなかったとは言いにくいように思う。むしろ、日本国とは別国と認識していたが故に、「大化」「白雉」などと同様に引用しなかったと考えてみたい。もちろん、このことを証明することは困難だが、欠落現象を説明しうる作業仮説の一つとして提示しておきたい。
 最後に本稿で試みた方法論について述べる。今日、私たちが古代を知る上での史料はその殆どが後代写本である。更に、散逸して書名のみ伝えられている史料もあれば、書名さえも伝わらないまま消滅した膨大な史料が存在したであろうこと、これを疑えない。それと同時に、中世にあっては現代よりもはるかに多くの古代史料群が残存していたこと、そして中世の知識人たちはそれら史料群を自らの教養として摂取していたであろうこと、これもまた疑うことはできない。したがって、このような中世文書に記された古代認識の史料批判により、古代の真実を復原することが可能ではなかろうか。この可能性を日蓮文書によって追求したのが本稿である。こうした方法がどの程度有効であるかは、その史料の質と量に左右されるが、日蓮文書は質・量ともに史料批判に耐えうるものと思う。よって、ここに中世文書(日蓮文書)における九州王朝存在の痕跡というテーマとその方法論を提起し、諸賢のご教正を仰ぎたい。
(平成四年二月十五日脱稿)

(1) 講演録「九州年号 ーー古文書の証言」『市民の古代』11集所収。
(2) 「古田武彦九州年号論批判・・・『二中歴』を中心に」『市民の古代』11集所収。『古代逸年号の謎 ーー古写本「九州年号」の原像を求めて』。
(3) 明治八年、身延山久遠寺の失火により、真筆は焼火した。
(4) 筆者未見の日蓮文書もあるようなので、現時点で断定するのは拙速かも知れないが、ほぼ例外はあるまいと予想している。また、日蓮文書の中にはその弟子等により焼かれたり、すきなおされ、現存しないものもあるようだ。日蓮亡き後、身延山久遠山を相承し、後に富士大石寺を開基した高弟日興は『富士一跡門徒存知の事」を著し、日蓮文書を焼いたりすきかえた他の高弟等を、先師の跡を破滅するものとして批判している。
(5) 「古代逸年号は鎌倉期以降に偽作されたか・・・『二中歴』に見える古代逸年号」『季節』十二号所収。
(6) 同右。
(7) 『善光寺縁起』の九州年号記載記事部分の成立を奈良末期から平安末期の間と見る説もある。山田武雄氏「善光寺縁起の古代年号」『市民の古代ニュース』(4号・一九八四年五月)所収、同『日本古代研究整理』。
(8) 中小路駿逸氏(追手門学院大学教授)の御教示による。但し、写本間の差異があるので厳密な史料批判が必要とのこと、
(9) 九州島を「九国」と記す用例は「今昔物語』(十二世紀初頭成立)や『保元物語」(十三世紀初頭成立)等に見える。また、国内史料において、国家を「九州」と記す用例は「続日本紀』聖武天皇天平三年条に見える。この場合の「九州」は日本国を指しているようである
(10) 鶴岡八幡宮の勧請は、一〇六三年、石清水八幡宮からのもので、宇佐八幡宮とストレートにつながっているわけではない。八幡宮と九州王朝との関係については別に論じる機会があるであろう。
(11) 古くは平将門の即位に八幡大菩薩の使者が託宣を告げたことが『将門記』に見える。近代では明治の薩長政権による皇室の担ぎ出しがこれに該当しよう。
(補) 「筑紫九国」ならびに八幡神と九州王朝との関連について興味深い史料が存在する。『八幡宇佐宮託宜集』(神吽編、一三一三成立)に見える次の記事だ。

 昔、神亀五年(七二八)より始まりて、筑紫九国を領せる王有りき。阿知根王と云う。

 八世紀初頭、「筑紫九国」の王、阿知根の事が記されているのだ。正史には見えない現地の伝承と思われる。いわゆる、滅亡後の「九州王朝」に関する断片史料と想像するが、今後の研究としたい。


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