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『好太王碑論争の解明』(藤田友治 新泉社)
第一部 第五章 好太王碑現地報告(部分)
『市民の古代』第7集 古田武彦とともに 1985年
特集 好太王碑現地調査報告

東方史学会好太王碑訪中団の報告

東方史学会事務局

1,はじめに ーー好太王碑開放への努力

 戦後、一九八四年までの長い間にわたって日本人研究者の好太王碑現地踏査は、許可されていなかった。(1) 好太王碑論争が李進煕氏と古田武彦氏との間で白熱した論議をよぶと、好太王碑を現地で調査することは多くの研究者、市民の一致した希望となり、念願となっていた。中国と日本とが国交を回復した後も、好太王碑がある集安は鴨緑江をはさんで朝鮮民主主義人民共和国との国境にあるためもあり、長い間、外国人に対して未開放地となっていた。好太王碑を研究するということは、全ての金石文研究が実物を精密に観察するところから出発するのと同様、まして「改削説」が提起されて以後、その金石文の真偽をめぐって実地に調査をすることは絶対に必要なことであった。
 一九八○年、「古田武彦を囲む会」(当時の呼称。現在の「市民の古代研究会」)の幹事会で熱っぽく議論されて、好太王碑現地調査を目的とした東方史学会の設立が決められ、賛同者に呼びかけられた。(2) 中国側への交渉は、会長古田武彦と事務局長藤田友治が中心となってあたることとなった。
 手紙だけの交渉ではなくて、実際に中国へ足を運びはじめた。一九八一年三月三十一日、古田が北京国務院で交渉 (3)、八月二十七日再度訪中して古田、藤田らで北京、長春それぞれの文物管理局と交渉し、ようやくその結果「二年後に好太王碑の開放を努力する」という中国側の意向を引き出し得たのであった。(4)
 約束された二年を経ても、まだ開放されない状況を切り開こうと幾度も東京の中国大使館や関係機関へ足を運んだり、手紙を出して訴えてきた。焦燥感やあきらめさえ感じた時期もあった。
 本年、一月十二日の夜、翌日行う講演会(5) の打ち合わせのため東京の古田宅へ集まっているところへ、大阪の土利川正一氏から画期的なニュースが入った。受話器を興奮して握りしめた。好太王碑、将軍塚、国内城遺跡、五[灰/皿]墳、集安県博物館等へようやくにして行けるという。但し、いまだに中国の国家文物局筋は認可せず、長春市政府(中国ではこう表現する)、中国国際旅行社長春分社等の決定であるようだ。

五[灰/皿]墳の[灰/皿]は、灰の下に皿。JIS第三水準ユニコード76D4

 長年の私達の努力が、今やっと報いられつつあるという喜びと、未だ好太王碑の前に本当に立つまでは・・・という半信半疑の気持ちとが複雑に私達の胸に去来した。土利川氏に紹介を受けた関西国際旅行社と具体的なスケジュールや中国側に対する私達の要望を出し交渉する日々が過ぎる。
 この交渉の結果、好太王碑訪中団として初めて認可を引き出した事項は次の通り。一、好太王碑のある集安の日数と時間は制限しない。二、訪中団員にカメラマン及びジャーナリストの参加を認める。三、家庭用VTRの持ち込みを許可する。四、舞踊塚、角觝塚への参観等の許可。今後に残された要望事項は次の通り。一、好太王碑の柵内からの写真撮影及びビデオ撮り。二、足場となるイス・キャタツ等の使用。三、太王陵、東台子等関連遺蹟の見学。交渉結果が具体化するや早速、長年待ち望んでおられた方々ヘニュースを発送する等多忙な日々が続いた。当初、参加希望者が多い場合、どのような方法で人数制限内に絞り込むかという心配があった。だが、事態は予想に反して全く逆であった。三、四年も前に訪中を申し込んでいた人々にとって、突然十日間以上も長期の外国旅行に出かけるには、いかに熱意があっても健康が許してくれなかったり、既に予定が入っていたりしてそううまくいくものではない。丁寧な断り状が届くたびに眠れない日もあった。以前は中国側が許可せず、私達の側はいつでも出発できる状態だったのに・・・。今度は中国側は許可したが、私達の側がもし早急に団を結成できず訪中できないとなれば、何という悲劇だろう。しかし好太王碑要求運動は学者や教育者だけではなくて「市民の古代研究会」を中心とした市民、ジャーナリスト等に幅広く根づいていた。訪中決定からわずか一ヵ月位で二十名という、戦後最大の団が結成された。とはいえ、諸般の事情で参加できなかった人々も多く、その人達の分まで私達が現地で見聞したことや調査したことを報告しなければならないと痛感した。

 

二、いよいよ国境の地・集安へ

 (一九八五年)三月二十三日、十時三十分に関西国際空港の国際線ロビーに集合、結団式を行う。一同やや緊張の面持ちで、団長古田武彦の挨拶を受ける。

「長年希望しておりました好太王碑に、やっと現場に到着することが出来そうだと思っていますが、しかし現地に着かなければまだまだという緊張感がございます。是非とも全員無事に帰りつくということを願っています。色々な問題があるようですが、ひとつ一致協力しまして、慎重には慎重を期して帰りには無事帰れるようにしたいと思います。各方面の方々(考古学者や哲学者)もおられますので、いろいろとお教え下さることを願っています。緊張と同時に、旅行も楽しめることを願っています」

 一同の今度の訪中にかける思いを代表した挨拶に賛同の拍手。参加者全員の自己紹介(6) の後、十二時三十五分、上海へ向けてCA九一六便で飛び立つ。十三時五十分(以後、日本から一時間早い中国時間で表記する)着、十八時十五分に再びCA六五〇二便で瀋陽へ。二十時二十分着。宿舎に着くなり、中国側国際旅行社と翌日のコースの打ち合わせ(中国旅行の常として、大枠のコースは決まってはいるが、細部や宿舎については現地交渉主義で、前日に打ち合わせが必要)。
 初日からたいへんな障害が現われていた。中国側は私達の当初のスケジュール、瀋陽から通化の列車を昼出発としていたが、急に夜行にしてもらいたいと主張。何しろ、この線に外国人が二十人も乗るのは初めてであり、席もないかも知れないという。中国大陸を飛ぶ飛行機では五〜六時間は遅れることが多い(列車も以前はよく遅れたが、最近は少なくなっている)。だが、遅れるどころか席もないという事態にベテラン通訳の老田氏も驚嘆する。
 団長は、「年齢の高い人にとって夜行は大変であり、当初のスケジュールを変更して万一団員に病人が出たらどうしますか」と強い調子で訴え、スケジュール通りにして欲しいことを要請する。秘書長である私も三時間近くねばり交渉する。中国側担当者に私達の意志は確実に伝わっていくが、時間が刻々と経っていく。結局、もうこれ以上交渉を続けても、相手は真夜中で寝ている時間となり、早朝から中国国際旅行社の李静敏さんが精一杯私達のために動きましょうということて、不安ながらも眠りにつく。
 二十四日、交渉がうまくいったというニュースを李静敏さんが伝えに来てくれた。彼女の目は充血していた。私達がお礼を述べると、彼女は、「まだ全員座れる切符は確保できていないんです。とりあえず乗り込むことです」と申し訳なさそうに応えた。とにかく乗れればよい。列車はたいへんな混雑で、予定時間から既に二時間十五分程度遅れていた。団のトランクや機材(VTR、八ミリ・写真機等)を団員自らが運ぶ(通常は中国側で運んでくれる。今回は未開放地へ行くことで、運ぶ人の手配が間に合わなかった様だ)。通化に到着したのは、もう真夜中の一時十五分。結局十時間四十五分もかかったことになる。しかし、万一交渉がうまくいっていなかったら、もう一日余分にかかることになっていた。通化賓館では翌日の交渉の後、夜中四時頃まで副団長の山田宗睦と歴史、哲学について議論。睡眠時間は三時間を切っている。たいへんな旅にもかかわらず元気なのは、明日こそあの好太王碑の前に立つのだという緊張と期待感が不思議と睡魔を追っぱらっているからだろう。
 いよいよ二十五日、六時起床。通化を七時五十一分に出発、老嶺から集安へは、三つのトンネルがある。トンネルと鉄橋の二カ所に、警備のためのトーチカが見える。雪が降っているが、人民解放軍の兵士が警備のため直立不動の姿勢で立っている。その姿は、国境の地・集安がいよいよ近いことを感じさせる。古田、山田両氏は最新式の望遠レンズ、自動焦点カメラ(好太王碑の撮影のため新たに購入されたものだが、偶然同じ機種であった)の手入れに余念がない。いよいよ、車内は緊張感が高まってくる。
 列車の窓の外は雪が降っている。コウリャン畑、トウモロコシ畑、大麦畑、そして水田もある。これまで続いていた大陸的平原はなく、低い山々、小川、谷という風景に変っていて、どこか日本の田舎を旅行しているかの様な錯覚さえ持つ位だ。列車は突然、プラットホームもないのに停車。荷物をもった二十人位の中国人が乗車している。なんとも私達には信じられないのだが、畑の中の「駅」のようだ。
 三つ目のトンネルを超えるとそこは集安、十一時三十四分、「将軍塚が見えた!」の声があがるや、続いて好太王碑の碑閣、太王陵、五[灰/皿]墳と進行方向左側の窓からパノラマ絵を見るように視界に人っては消えていく。冬の終わりで木々の葉はなく、一年中で最もよく見える季節なのが幸いした。列車は弧を描くようにカーブして、十一時四十一分、とうとう私達は三日かかって念願の集安駅に到着した。


三、好太王碑について

(1).基礎的調査から
 集安賓館の前で集安県外事副主任の王顕春氏らによって歓迎の挨拶と注意事項の説明を受ける。国境の地にあたるため、鴨緑江から朝鮮の側ヘカメラを向けて撮影してはならないこと、その他撮影制限の場所を一つ一つ説明するという旨伝えられる。
 マイクロバスに分乗して、いよいよ好太王碑の所任地、太王郷王村へと向う。踏切りを超えると、田園風景の中でポツンと立派な好太王碑の碑閣があるのが見えだした。古田団長は手をたたいて、念願の現地へという思いがようやく実現されようとしている瞬間の胸中を表現する。


 鉄柵で囲いを厳重にしてある。二重、三重の柵を鍵で開けてもらう間もおしい位だ。目の前に巨大な石碑が現われている。この巨大な対象は、ちっぽけな個々の様々な感傷をおしのけているようだ。限られた時間を有効に使おうと準備してきたそれぞれの視点から観察を始めだす。
 まず山田宗睦氏と私は好太王碑の台座を、曲尺で計測することから始めた。結果は(下の)表の通り。私達の測定したデータを後に上田正昭氏や王健群氏のそれと比較すると両者の中間値のようであった。台座という基本的な数値でさえこのような違いが出るのは何故だろうかと考えた結果、二日目にもう一度測量を始め、今度は視点を変える。数値が異なってくるのは、測定基点と碑面の凹凸に原因があることに気付いたからだ。まず凹凸に関係なく測定基点A→Bを測量し、この数値を最小値とし、次に凹凸に従って曲尺も碑面につけて測量した数値を最大値としてとりだす。この方法によって判明した事実は、碑面は凹凸が台座部においても激しく、約二cmの差がでるということであった。このようにして測量した数値は次の通り。

第一面百四十〜百四十二cm(最小値〜最大値、以下同じ)、第二面百三十一〜百三十二cm、第三面百九十七〜百九十九cm、第四面百四十四〜百四十六cm。

 現物に直面すると私達の想像を越える凹凸のひどさがよく解り、とくに第四面から第一面の側面を観察するとよく解る。このような碑面の凹凸の激しさが、拓本上のズレをおこす原因となっていたのだ。


 次いで碑閣の基壇の測量に入った。従来は歩測のみで曲尺を使用していない数値であるから、正確に求めようとした。基壇は十m四方にすべく設計されたようだが、実際には計画よりやや大きくなっている。この測量の日は雪が降っていて随分寒く、曲尺を持つ手が痛い。団員の川口平三郎氏、高田かつ子さんと私の三人がかりで計測した。
 碑亭については、集安県博物館副館長の耿鉄華氏に質問し説明を受けた。碑亭は好太王碑の保存、保護を目的として、一九八二年五月に工事を開始し、十一月に亭の主体部の俊工を行い、亭の建築が完成したのは、翌八三年の十月のことである。碑亭の高さは十四・三〇m一辺十一・七八mで、面積は百四十・四二m2、古典式の四角攅尖式の建築で宝頂琉璃瓦ぶきであり、碑正面に「好太王碑」とあるのは夏[乃/鼎]氏によるものである。

夏[乃/鼎]は、氏名です。[乃/鼎]は乃の下に鼎。JIS第三水準ユニコード9F10

(2).碑文判読の厳密性をどのように確保するか

 好太王碑は、好太王(正式には「国岡上広開土境平安好太王」、西歴三九一〜四一二年の在位)の死後、二年、つまり四一四年に長寿王が父の功績をたたえ守墓人の制を明確とするために建立したものである。今日まで、千五百七十一年もの年月が流れている。従って、碑文は風化により、また発見時苔を焼く時に生じた傷等人工によるものも含め判読不能の文字も少なくない。碑面のこのような状況に対して、今回の調査にあたって、古田武彦氏、山田宗睦氏、藤田友治の三者は討論の結果、次のような方針をもって臨むこととなった。
 文字判読に際して五段階に分けることとする。
 A・・・完全に鮮明であるもの。
 B・・・若干不鮮明であるが、ほぼ字形を確認できる。
 C・・・不鮮明で残存した字形が二通り以上に解読できる。
 D・・・不鮮明で字形を確認しがたい。
 E・・・完全に不鮮明であるもの。判読不能。

 同一の文字についても、朝、昼、夕と光線の関係によって変化しうることを想定し、観察時間帯を変える。また、主観による釈文を避けるため、一つの文字に対して三者以上によって確認するというように慎重にも慎重を期した。更に、五段階判定に対して、古田武彦氏の提言により「AないしB」等という組み合わせを認め、五段階判定を九つの組み合せにして一層厳密にしようと申し合わされた。
 従来にない長期滞在と私達の熱意がそうさせたのか、四泊五日滞在中、労が降り、雪の乱反射によって従来見えにくかった上部が比較的よく見えるという自然の恵みも得ることが出来た(撮影にはよくなかったが、肉眼による観察にはたいへん好都合であった)。私達が中国に持ち込んでいた大型懐中電燈や集安賓館から借用した鏡よりもはるかに大きな効果を得ることができた。観察は肉眼を基本とし、望遠鏡、双眼鏡、八ミリズーム・レンズ等も使用した。

(3).論争の文字「来渡海破」について

 このような方法によって、論争の文字を一字一字判読していった。第一面九行六字から二十字までの「倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅」については次の通り。
 「倭」(第一面九行六字目、以下一 ー 九 ー 六と略記する)は「AないB」、つまり間違いなく碑文そのものの字であり、勿論石灰の字でなく従って仮面字でないのが確認された。「卯」(一 ー 九 ー 九)、「年」(一 ー 九 ー 十)、「来」(一 ー 九 ー 十一)はいずれも「A」、「辛」(一 九 ー 八)は碑文は「立/木」の字で辛の古字体である(以前に武国員力*氏によって教えられていた通り)。「ハ」がある点は、酒匂本の「来」も碑面に近く双鉤加墨をしていたようである。

「立/木」は、立の下に木。辛の異体字。
武国員力*(ぶこくしゅん)氏の[員力](しゅん)は、JIS第三水準ユニコード番号52DB

 「渡」(一 ー 九 ー 十二)は「C」で、「海」(一 ー 九 ー 十三)は「D」である。とくに「海」は「■」となっており、樹脂加工と思われる(碑面を保存するために中国側が入れたもの)「■」が入っている。「破」(二 ー 九 ー十四)は「B」、「百」(二 ー 九 ー 十五)は「A」、「羅」(二 ー九 ー 二十)は「BないしC」であった。
 以上から結論として、碑文に意図的な改ざんは認められないとする立場が確認された。

(「■」は、インターネットでは表示不可 略。下の「女*」も『市民の古代』第7集や故藤田氏の『好太王論争の解明』(新泉社)を見てください。また、これを含め三ヶ所にJPEG画像添付。)

 念のため「海」字を疑ってみたが、碑面にある「海」(二 ー 五 ー 二十二)の例は今日「□」(「E」判定、つまり全く不明)となっており、判定が「D」であるからという一字でもって全てを疑うことは出来ない。最近発表された中国側の周雲台拓本(王健群『好太王碑の研究』)によれば、問題の「一 ー 九 ー 十三」の「海」字もはっきりと判読できる。従って、「海」字の一字をもって「改削」説の出発点をなしたようだが、現地調査によって成立しないことが明確となった。李進煕氏が改削説を提起するに至った「来渡海破」の個所は、現碑面を肉眼で観察すると一目瞭然に解ることであるが、碑而の凹凸が著しいところである。李氏は拓本上の差異を調べることによって、「東洋文庫拓本では、『渡海』の位置が著しく下方にずれていて、とくに『海』の字は前行の『平』字(八行十三字〕より約半字分もずれている。そして『海』字はくずれてしまい(石灰)、明らかに別の字画になっている。」(『広開王陵碑の研究』。二百頁)と指摘したのであった。
 凹凸のひどさは、上の略図のように、山田宗睦氏と私とで測定し、古田氏が確認したが、二十cmもあるところに「渡海」があたっており、字がズレないで拓出されている方がむしろ不自然であるといえるだろう。現碑面のこのような状態を李氏は現地調査されずに拓本等から疑問をもたれたこと自身はやむを得ないであろうが、現地調査をした学者達(鳥居龍蔵、関野貞、今西龍、黒板勝美、浜田耕作、池内宏、末松保和各氏ら)の成果と報告にあまりにも矛盾する仮説を打ち立てられてしまい、砂上の楼閣を重ねられていったものである。問題提起の大きさと、李氏の根本的動機は大いに価値あるものであり、深く学ぶ必要は今なおあると考えるが、仮説(改削説)の過ちは過ちとして認めなければならないであろう。私達は改削説を越えて、もっともっと好太王碑研究の更なる前進を果たすよう試みる。

(4).「倭」についてはどこまで確認しうるか

 倭は近畿天皇家か或いは北九州の九州王朝かという論争以前に、倭は碑文上にどの位確認できるか。
 前述の方法(五段階九組合せ)によって三者で確認した文字は次の通り。

一、一ー九ー六「AないしB」。二、二ー六ー四十「A」。三、二ー七ー十五「AないしB」。四、一ー八ー三十一「A」。五、二ー八ー三十九「AないしB」。六、二ー九ー三十六「AないしB」、七、一ー九ー三十八「D」。八、三ー三ー十三「AないしB」。九、三ー四ー十三「AないしB」。

 以上が従来の釈文上、既に解読されてきた「倭」についての調査であり、九つある倭の内、八つまでは確認することができた。「倭」の文字は碑文には二つの字体で刻印されているようである。「女」の部分が「女*」となっているグループがあるここれを厳密に区別するために「AないしB」として判読した。この書体は、今日でも看板等に使用されている例をみつけることができる。意味上の違いはない。勿論、全て碑文に刻印された文字である。
 さて、最近王健群氏の『好太王碑の研究』によれば、倭を「十一」も解読可能としておられる。従来の九つの倭に単純に「二」を加えて「十一」としたのではなくて、厳密に言うと、従来の「倭」(二ー九ー三十八)を「大」として否定する。私達もくり返し碑文を解読したが、判定は「D」である。つまり、現状では字形は確認しがたい。しかし、「--」のように横の線のみ明確に認めうる。これを測定すると、「--」の(横線と文字上端)の間隔は四cmである(二ー八ー二八の「至」字の縦八cmと比較)。そして他の「大」の字形、例えば「二ー五ー二」の「大」と比較すると「--」(横線と文字上端)間隔が二cmであり、差異がありすぎる。つまり、王氏の言われる「大」ではない。
(インターネットでは表示の都合上一部、説明追加。原表現は、画像で確認してください。)

 
新たに解読されたという「倭」について、私達の調査結果では次の通り。

 一、二ー九ー九「D」。二、二ー十ー二十二「D」。三、三ー一ー四十「E」。
 
 この問題について王健群氏と対談した際(本誌対談録参照、インタネットは未掲載)指摘をしたが、「光線の関係で上の方が少し輪郭が見えると思いますが、これは本当にむつかしい」と主張しておられる。戦後の日本人研究者としては四泊五日と最も長く滞在して、くり返し観察したが、判読できなかった。現状ではわずかな字形の痕跡しかとどめない。このわずかな痕跡から、従来と全く異なった字(倭)に読解するのは研究者の主観性が入る余地があると言える。現地で、しかも碑面を前に王健群氏らとの共同調査をする以外に方法はなく、今後の課題とすべきところであろう。

(5).現地集安博物館副館長耿鉄華氏との出会い

 私達が集安滞在中、四泊五日間にわたって、集安博物館、将軍塚や国内城、舞踊塚、角觝塚等の現地で懇切丁寧に案内をしていただき、更に現地での具体的な説明も聞くことができたのは、博物館副館耿鉄華氏が全面的に協力されたからであった。国内城では雪の降りしきる中で一時間以上も立ちつくしたままで熱心に説明をされる姿は、本当に第一線の研究者の気迫に満ちていた。
 私は当初、彼を私達の「案内者」であり、また私達の団の「観察者」でもあると思っていた。だが、行く先々で非常に詳しい解説をされ、熱心な研究者であるということが解ってきて、よく考えれば好太王碑に五日間も通いつめたのに、一度も耿氏の説明を聞いていないことに気付いた。これは一体何故だろう。一つは私達が碑文解読に夢中になりすぎていたのと、もう一つは碑文をじっくりと観察させようという私達に対する耿氏の配慮であったのだろう。最終日に、好太王碑の前で私達は耿氏自身の見解「高句麗好太王碑及び高句麗王朝と好太王について」を聞くことができた(本誌耿鉄華氏著、老田裕美訳「高句麗好太王碑及び高句麗王朝と好太王について」「文物天地」文物出版社、一九八四年第六期、を参照、『市民の古代』第7集所収)。

 

四、国境の地・集安での四泊五日間

 私達の団は集安の地に許される限りの長期滞在を希望した。好太王碑をくり返し観察し調査するという目的と、おびただしい高句麗の遺跡、古墳群があるからである。戦後の日本人研究者として最長の時間を許可されたが、しかしまだまだ調べたいことや見学したいことも多い。毎日団の要望を、中国側と交渉し実現したスケジュールは次の通りであった。

三月二十五日午後、好太王碑
三月二十六日午前、好太王碑
      午後、将軍塚、五[灰皿]墳五号
三月二十七日午前、国内城、集安市内参観
      午後、集安博物館、鴨緑江の中国側国境視察
三月二十八日午前、好太王碑
      午後、舞踊塚、角觝塚
三月二十九日午前、好太王碑の前で総括

 次に、要望したが許可されなかった遺跡について報告する。今後、ねばり強く要望し、実現できるよう働きかけたいし、中国側も「整備し調査後実現できるようにしたい」という意向はもっているようだ。

一、太王陵 二、丸都山城 三、牟頭塚、環文塚等、

 これらについては、「現在のところ中央の文化部が許可をしていない」ということであった。そして、交渉の中で舞踊塚、角觝塚について、「今回初めて外国人にお見せします」ということになった。これらの遺跡、古墳については、本誌の織田重治氏「集安の古墳について」で詳細に報告されている。
 帰国後、訪中団参加者から様々なデータ、感想等が事務局に寄せられた。川口平三郎氏の「集安県鳥轍図」を見ると集安の様子が一目瞭然となろう。中川友次郎氏は「御礼」と題して、次のような文章を帰国後、事務局に送ってこられた。
「今回の東方史学会の訪中団に加えて頂ました。支度には慌(あわただ)しかったが、今では良き思い出となりました。ほんとうに幸運と終生忘れる事はありませんでしよう、。ほんとうに有難うございました。厚く御礼申しあげます。」
 と待望久しき高句麗遺跡に接せられた喜びを綴っておられた。訪中団参加者が一様に、深い感動をもちつつ、これからの大きな研究課題に、立ち向うことは言うまでもない。(文責・事務届。長藤田友治)

 註
(1), 好太王碑に戦後の日本人としてはじめて接した人に、実は土利川正一氏がいる。従来知られていない事実だが、彼は一九四六年十月〜十二月、中国軍政治部の指令によって、集安県(当時)の古墳の外・内部の調査と好太王碑を見学している。また、一九四七年一月に再び訪れている。この土利川証言(テープにして藤田が保存)は、戦後の好太王碑の状況を研究する上で欠かせない。研究者としては、一九六三年、朝鮮民主主義人民共和国社会科学院の金錫亨、朴時亨各氏の調査がおこなわれた以外、外国人には許可されていない。

(2), 好太王碑現地調査を目的とした学者、市民の会として発足。東方史学会設立趣旨書は『市民の古代』第三集を参照されたい。

(3), 詳細は、古田武彦『多元的古代の成立〔下〕邪馬壹国の展開』(駿々堂)を参照。

(4), 詳細は、藤田友治「好太王碑の開放を求めて」(『市民の古代」第四集)や朝日新聞一九八一年八月三十日朝刊を参照。

(5), 一九八五年一月十三日、東京都勤労福祉会館ホールで古田武彦と古代史を研究する会及び市民の古代研究会共催で行われたもの。テーマは「中国の好太王碑研究の意義と問題点 ーー王健群氏に問う」であり、講師は古田武彦と藤田友治であった。

(6), 訪中団参加者氏名は次の通り(敬称略)。団長・古田武彦、副団長・山田宗睦、秘書長・藤田友治、今井久順、織田重治、渡辺好庸、渡辺さ江、高田かつ子、中野治彦、川口平三郎、寺田寛、日野信和、清水泰子、竹谷文男、中川友次郎、杉谷保憲、永島暉臣慎、鳥羽郁夫、吉村久充、岡村秀典、通訳随員・老田裕美、以上二十一名。

(7), 寺田隆信、井上秀雄編『好太王碑探訪記』日本放送出版協会、八二頁参照。なお、この本は不正確な部分や間違いもある。例えば、集安の物価で、折畳み婦人洋傘を「千百十元から千三百三十元」、自転車を一万五千八百元から一万六千元」等誰も買えない値となっている。一元は約百円(日本円)だから、恐らく日本円へ換算した時の誤まりだろう。集安の物価の調査は社会科学研究所の渡辺好庸氏にお願いし、データを保存している。

 なお、知り得たデータについて発表する場合、私達は国際的信義を大切にしている。従って未発表のデータもある。私達の団に参加されたジャーナリストも基本的に「取材」でなく、団員として参加され、報道を控えている。しかし、世界日報社は、事務局に無断で報道するだけでなく、誤解を与える表現も多く、遺憾である。

中国の好太王碑研究の意義と問題点

−王健群氏に問う− 古田武彦

討論・好太王碑をめぐって

王健群・古田武彦・藤田友治・山田宗睦(司会)

好太王碑と九州王朝

古田武彦



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