弥生の土笛と出雲王朝 2003年3月16日(日)大阪府八尾市高安いずみ苑

阿麻氏*留(アマテル)と伊勢神宮 骨偶・旧石器

弥生の土笛と出雲王朝 4

古田武彦

質問一

 一点だけ質問します。対馬の阿麻氏*留(アマテル)神社のことですが、先ほどの話では、伊勢神宮の天照大神(アマテラスオオミカミ)と、対馬の天照大神(アマテルオオカミ)とは、同一神と言うことをお話ていただいたのですが、わたしが読んだ本で別の方が書かれたものでは、阿麻氏*留神社は男神である。天照大神とは、べつものである。そのように言っていますが。また天照大神を祭っていたのは、元伊勢の丹後のほうから大和の三輪山のふもとに来て、それから現在の伊勢神宮にお移りになったと聞いておりますが。これらをどのように理解したらよいのですが。

インターネット事務局注記2004.10.1
阿麻氏*留(アマテル)の氏*は、氏の下に一です。


(回答)
 今の質問にお答えいたします。
 対馬の阿麻氏*留神社の祭神ですが、性が男神か女神かは、小田さんにしつこくお聞きしました。それで分からないとの返答がありました。ですから分からないというのが正解。男神であるというのは、その本を書かれた人の解釈が書いてあります。しかし神社自身の伝承では、分からないというのが正解。

 もう一つこの問題を論じ始めると、おもしろい問題が展開します。縄文時代は女神中心の時代です。完全な証拠としましては、縄文時代の土偶がありますが九十五パーセントぐらいオッパイがある。つまり女性なのです。ということは、女性がひじょうに尊重されていた。女性中心の時代なのです。このもっとも大きな理由は、病気や周辺の動物の襲撃で人が死んでいく時代です。その中で多産というか、子供をたくさん生むということが、人間の繁栄という以上に保存するために必須条件です。それで直接には子供を生む能力をもった女性が尊重されていた。その他にも理由はいろいろ考えられることですが、結論として女神中心の時代です。
 ですが阿麻氏*留神社の祭神が男神である。それも別にかまわない。弥生時代は男中心の時代に替わりますから。居てもかまわない。それは遅い段階の話ではないか。
 天照(あまてる)自身は、わたしにとって、完全に人間です。弥生の前期末、中期初めの人間です。ニニギのおばあさんです。それが女性の首長であった。つまり縄文時代の方法を普遍したというか、そういう立場に立つ、意志は強固で頭脳が明晰な女性である。そのように思っています。
(『古代に真実を求めて』第五集講演記録参照。)
 それで阿麻氏*留神社自身は、男神を祭っていてもよいが、やはり女神ではないか。このようにわたしは思っています。

 もう一つ次の元伊勢神社の問題。これもおもしろい問題です。
 京都府舞鶴に籠(この)神社という神社がある。これが元伊勢である。他にも元伊勢を称している神社がありますが、その中心的な存在の神社です。この神社に何回も行きました。本殿・拝殿があって、そこから歩いて二十分ぐらいのところ、山裾のところに奧宮がある。そこに行ってみますと、巨大な岩で、たたみ二・三畳ぐらいの女性の陰部の形をしたみごとな御神体がある。もう一つは、おおきな男性のシンボルもあります。これらが本来の豊受大神。五穀豊穣の神。
 五穀豊穣というのは、万物が生い茂る・実るということの弥生的表現です。とうぜん、そのような概念は縄文から、より以上に必要とされた。五穀豊穣のもとは、女性の陰部から人間が生まれる。男女のセックスから生まれる。そういうところから崇拝の対象にした痕跡は、日本列島いたるところにある。
 これも一言必要ですが、文部科学省は、このような遺跡の破壊に知らん振りをしている。保護を行おうとしない。三種の神器のような金属器が出てきたら目の色を変えて保護する。今言った、より古い文明の遺物である巨石は保護しようとしない。とくに最近は皆さん車をお持ちですので、ちょっといただいて持ち帰って庭におく。そういう不埒な人物がたくさん居ります。この最近の五十年間は、そのような貴重な文化財が、急速に消滅している五十年間。後世の評価はかならずや、そのような評価がされると思います。
 五穀豊穣の神、豊受大神の原点は、女の巨大なシンボル。男のシンボルもありますが、それが縄文時代に渕源であることを知ったわけです。それと天照(アマテラス)を結びつけて、それが伊勢神宮になっていった。
 三回目に籠神社に行ったとき、バスに乗り込もうとして気が付いたのが、伊勢の二見浦の二つの岩。あれがそうだ。男女のシンボル。注連縄が張ってある。海上民にとっての本来の神聖なる御神体。多産のシンボル。万物繁栄・豊穣のもとをなす海上の男女神、豊受大神。それを陸上に移したのが内宮外宮。

 よく言うのですが今から四十年前、続日本紀研究会が大阪でありました。当時は直木孝次郎、田中卓などが中堅で、わたしはそれに続く若手です。直木孝次郎さんは津田左右吉の流れをくむ人で、田中卓さんは右寄りといわれた人です。このお二人が、もっとも鋭く対立したのが伊勢神宮の起源の問題です。まるで、つかみ掛からんばかりの勢いで口論されていた。そのお二人の話を聞いていて考えたことですが、問題は内宮外宮だ。日本中の神社にぜんぶ内宮外宮があれば良いが、たいてい内宮外宮がない。なぜ伊勢神宮だけ、内宮外宮があるのか。この秘密が解けなければ、伊勢神宮の起源の論争には参加できない。別に公言したわけではありませんが、一人そのように考えていました。それが解けた。
 つまり現在は観光名所の岩、若い人が見向きもしませんが、あの伊勢の二見浦の二つの岩が、男女のシンボル。海上民にとっての本来の神聖なる御神体。海上の男女神。それを陸上に移したから内宮外宮になった。

 その男女神について、ここから先は言いにくいが、思い切って言います。豊受大神と言いましても、これは女性の豊受媛(とようら)神と男性の豊受(とようけ)大神と両方います。今はへんなことに外宮のほうに、両方とも突っ込まれている。それで外宮のほうは説明に困っている。われわれが聞くと神主さん自身が説明に困っている。ですが、わたしの今の解釈で理解しますと分かりやすい。ほんらいは内宮のほうが女性の豊受媛神。男性の豊受大神のほうが外宮だった。海上から移した。万物繁栄・豊穣のもとをなす神であり海上の男女神を陸上に移した。そこへ天照が九州王朝・近畿天皇家という形で近畿に連れてこられて、今の伊勢神宮に持って行った。『古事記』『日本書紀』に書かれていますように。そして最終的に伊勢神宮の内宮に、天照大神(アマテラスオオミカミ)は突っ込まれてしまった。内宮に置かれた。なぜ内宮に置かれたかというと、女性の豊受媛神が内宮だった。女性が偉い時代の神だった。それで結局、豊受媛神は旦那さん(?)と一緒に外宮に突っ込まれた。それで外宮のほうは説明に困り、内宮のほうは天照の専売のようになった。それが歴史的な成りゆきである。別に天照(アマテラス)を侮辱するつもりもまったくないし、伊勢神宮を悪くいうつもりもない。わたしにとって、解けずに困っていた元伊勢の由来を明らかにすることが出来た。そういう意味で、籠神社が元伊勢と言っているのはウソではない。たいへん大事な問題を簡単に言いました。


 
質問二

 今日お話をうかがった粛慎・靺鞨が、日本列島にやってきたというお話ですが、それが『風土記』や神話で遡れば弥生や縄文である。そのお話を興味深くうかがったのですが。そうしますと、それより古い新石器や旧石器時代との関わり、歴史観というか、歴史のパラダイムをどのように考えておられますか。お聞かせ願いたい。


(回答)
 非常に鋭い質問をいただいて、本当にありがとうございます。
 現在、私が到達しておりますのは、黒曜石、縄文ですね。以後の問題でございます。旧石器はどうかと言われますと、ホンのチョボチョボと取り組んでいるというか、目見当ていどというか、そのていどにすぎません。
 旧石器に対して、わたしにとって貴重な経験になりましたのは、ソビエト(当時)のハバロフスクの博物館を行ったときです。その時、博物館で見ましたときに、「骨偶」というものがたくさん並んで展示してありました。どんなものかと言いますと、海豹(アザラシ)や海象(セイウチ)の骨に、人間の目や鼻や口を描いています。動物の骨に顔を刻んでいる。またオッパイが、ちゃんと刻んでいる。これを見ましたが一番驚いたのが放射性炭素年代測定です。五万年前とか、二万年前とか、一万五千年前などが、ズラリ並んでいました。これには驚きました。
 日本にある東北地方にある土偶。これは有名ですが、とうぜん土器が発明されて以後です。普通の土器の年代で言えば一万二千年以後です。だんだん遡っていますが、長野県佐久市の下茂内(しももない)遺跡の土器の二個の破片が一万八千年前(較正値)。それが一番古いでしょう。ですが「骨偶」から言えば、問題ではない。骨偶は五万年前、二万年前が並んでいる。ですが、これは当然です。土偶というものは、土器という一大工業文明、それが始まって以後でないと土偶が出来ない。土偶で一番古いのは、現在のところ仙台で馬の顔をしてしている土偶が一万一千年ぐらいです。東北歴史資料館に、これを発掘された方が居まして、「これ何に見えますか。」と聞かれ、「馬です。」と答えました。続けてのお話が、「この時代に馬は、いないことになっています。」と言って、困惑されていました。とにかく事実として土偶が一万一千年ぐらいです。較正値でも、一万八千年にはならない。

 しかし骨偶は二万年前、はるかに上回る姿を示しています。しかし、これは当然です。アザラシ・セイウチは、土器が発明される以前からいます。しかもこれらの動物は人間にとってたいへんありがたい動物です。巨大ですから肉もたくさんある。うまいかどうか知りませんが。そんなことを言っておられない時代は、貴重な人間の栄養をとる資源だった。しかも、たいへんおとなしい動物らしい。棍棒をもって人間がそばに寄っても、殴られるまで待っていてくれる。気の毒というか、人間という狡猾な猿にはかなわない。そのように言っていると思いますが。われわれは、いま極地付近というと、食料も何もない索漠とした地帯であると考えます。それは稲作が発達した時代に生きているからです。ですが何もない時代には、あのような食料の豊富な地帯はない。それで骨は食べることが出来ないから、感謝をして骨を祭っている。ですから博物館で「骨偶」を見た瞬間に、東北の土偶はこの骨偶の伝播であると思いました。そっくりさんです。やはり黒竜江から、当時陸続きで樺太(サハリン)や北海道から東北へ入ってきた人々からの伝播である。それは疑いがたい。とうぜん、それは新石器・旧石器時代である。

 それからもう一つ。印象的な話だけで申し訳ありませんが、旧石器に関心を持っていますのは瀬戸内海。
 岡山から高松へ渡る橋が、最初に出来ました。ちょうど別の用事で行ったとき、見た教育委員会のパンフレットでは、一万五千年前から二万年前の石器が二万点近く出ていました。この資料を見て驚き、橋が完成した直後に行きました。
 行くのには、高松への終着点の一つ手前の坂出、橋のそばにシックでスマートな資料館がありました。そこで館長さんにお会いして、お聞きしました。
 
「この橋のたもとから、一万五千年前から二万年前の旧石器時代のサヌカイトが、二万点近く出てきたとお聞きしましたが本当ですか。」

 館長さんは、「いいえ」と言われました。わたしは、ガッカリした。ガサネタだったか。わたしの絶望した顔を楽しんで、相手の方はゆっくりと言われました。(笑い)

「五十万件ぐらい、あります。おそらく百万件ぐらいには達するでしょう。」

 つまり二万点という、ケチな数ではない。
 それでは何の為なのか。材料は一〇〇パーセント、サヌカイトです。讃岐の山々がサヌカイトの産地です。
 さらに「サヌカイトを、舟でどこかへ運び出したのでしょうか。」とお聞きしました。
 館長さんは、おちついて答えていただきました。

「そういう考えもありましたが、それだけではとても、あれだけの膨大な量にはなりません。今の瀬戸内海の海底に、それを使う人々の世界・国があったのだと思います。そこの人が使ったものだと思います。」

 昔は瀬戸内海は海でなかった。陸地だった。池や湖ぐらいはあったでしょうが。そこに人々が住んでいた。出てきたサヌカイトは、かれらが使った一部です。あの橋の橋桁のところだけで百万件ですから。その周辺にないはずはない。大阪湾や瀬戸内海の下には、おびただしい数のサヌカイトが存在する。そのごく一部をわれわれが見ているに過ぎない。つまり旧石器の巨大な文明が、瀬戸内海の底に存在した。
 これは、もちろん館長さん一人の考えではなくて、アルバイトを含めて頑張っておられた五十人以上いた発掘された方全体の意見です。毎月一度会議を開いて、何年も発掘した結果、そのような考えに落ち着いた。これは非常にリーズナブルな考えです。知らざる旧石器の世界が、この瀬戸内海の海の底に眠っていた。その一端が、橋を架けるとき、かいま見えた。そういう面で、まったくわたしには未知な世界がある。海底潜水艇などで調べていただきたい。イタリアでは行っています。やれないはずがない。これは、いろいろな問題を提起する。
(『古代に真実を求めて』第六集講演記録参照。)

質問三と回答。 今回は略。


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