古代史再発見第3回 独創古代 -- 未来への視点 1998年10月4日
     大阪 豊中市立生活情報センター「くらしかん」

九州いずれか所せし 青海原 ふりさけみれば春日なる

古代史再発見第3回

独創古代 2

-- 未来への視点

古田武彦

三 九州何処所 九州いずれか所せし

 さて、それでは次の詩にいきたいと思います。この詩はどういう詩かというと、阿部仲麻呂が唐の長安へ行きまして、やがて日本に帰ってくる。その時彼は中国で高位高官に出世していて、唐では秘書官の長官になっていた。この時は作者の王維が目下で、外国人の阿部仲麻呂が上官だった。その送別のときに、詩を王維が作った。

中国側の汲古閣刊本(図一)
極玄集巻之上
                 唐諌議大夫姚合選
 王維
   字摩詰河東人開元九年進士歴拾遺
   御史天寶末給事中粛宗時尚書右丞
  送晁監帰日本
積水不可極 積水きわむべからず 
安知滄海東 いずくんぞ滄海の東を知らん
九州何処所 九州いずれか所せし
萬里若乗空 万里、空に乗ずるがごとし
向国唯看日 国に向かいて、ただ日を看
帰帆但信風 帰帆ただ風にまかす
鰲身暎天黒 鰲身、天に暎じて黒く
魚眼射波紅 魚眼、波を射て紅なり
郷樹扶桑外 郷樹 扶桑の外
主人孤島中 主人 孤島の中
別離方異域 別離 まさに異域
音信若為通 音信 いかんか通ぜん

 こういう詩である。問題は第三行目の、

「九州何処所九州いずれか所(ところ)せし」
(阿倍仲麻呂さん)あなたが帰ると言っている九州はどこにある。

 そうするとこれは、日本列島全体を九州と言ったことは聞いたことはない、それで九州島となる。それに後の方に「主人孤島中」の句があり、「孤島」と書いてある。この場合「主人」というのは阿部仲麻呂。宴を催した側が主人、宴を催された側が客です。このような「主人」という語の用法は、王維の詩にたくさん出てきます。われわれは普通、送別会というのは、別れていく方の人が「客」で、送る方が「主人」というか会を催すけれども、当時は逆だった。おそらくご恩返しという意味で、「主人」として阿部仲麻呂が会を催して、お世話になった人を「客」として呼んだ。それで阿部仲麻呂が「主人」。ついで「主人孤島の中」の句があり、「孤島」は九州島となる。

 ところが従来は、そう解釈されていなかった。有名な『唐詩選』などで出てくるばあいは、ここは変えられている。「九州何処所」が「九州何処遠」に変えられている。どこが変えられているかというと、「所」が「遠」という字に変えられている。これを中国人の意味の取り方を考えると、「あなたの帰られる九州というところは、どんな遠いところにあるのですか?」という意味に取れなくはないが、中国人にとってふつうの九州。伝統的な中国の九州の考え方で、つまり中国本土の意味「禹貢九州」。「あなたが帰るところは、中国本土からどのくらい遠くはなれているところか?」と読みたい、・・・つらい読み方ですが、本当は「自(から)」を入れなければならないが、・・・なんとか読めないこともない。そう解釈するのか。それとも、もっと都合のよい解釈。『唐詩選』の解釈。全世界が九州に別れている。・・・普通はそう解釈されていますが、司馬遷の『史記』の中で紹介されている陰陽家の説として否定的に紹介されている大風呂敷のような説がある。全世界九州で、その一部が中国(中心)であるという説・・・大風呂敷のような、超古代史の考え方のような、その立場に立って理解する。「全世界の中で、あなたの帰るところは一番遠いところにある。」と解釈する。吉川幸次郎さんなども、そう解釈され、岩波文庫や他の詩集の解釈でも同じく全世界九州である。「遠」なら、未だなんとか、それで通用する。

 しかし「九州何処所」となると、ちょっとそれは読めない。九州は主語ですから。「九州はどこにあるのか」という解釈にならざるを得ない。それでこれは「九州」島のことだと、なってくる。これも調べてみると、「所」となっているのが『極玄集』。一番古い詩集である。これは九世紀、阿倍仲麻呂や王維がなくなってから百年も経っていない時期に、姚合によって編集された詩集である。彼自身は詩人でもあり、『唐詩選』の中に、彼の詩も二・三詩はある。その詩人の姚合が、八世紀以前の、七世紀ぐらいからの唐の初期の詩人の詩を編集したのが『極玄集』である。非常に古い。

 その他の詩集たとえば『唐詩選』。明代の偽作というか、現代中国では相手にされていない詩集です。商人が学生に頼んで編集した詩集、それは悪くはないのですが、明代の有名な大家の編集と偽って、「売らんかな。」で売り出した。後の人が調べてみると明代の大家の研究の記録が残っているが、全く『唐詩選』に関係した記録がない。それで中国では相手にされていない詩集です。
 ところが日本では荻生徂徠という江戸時代の有名な大学者が注目して、中国の詩をまとめてあって便利だということで大いに推奨したので有名になった。敗戦後はご存知の吉川幸次郎さんが名訳の岩波新書の『新唐詩選』を出されて、更に人気が高まった。その『唐詩選』では、「所」が「遠」になっている。
 では『極玄集』から直したのは、『唐詩選』が初めてかというと、そうではなくて南宋あたりに直されている。南宋の最後『須渓先生校本・唐王右丞集』という版本では「遠」に直されている。須渓先生(劉辰翁)というのはすごい先生で、自分で自分のことを「須渓先生」という朱子学の学者である。・・・朱子学、これは現在でいえば中華思想原理主義みたいなもの、中国は一番偉い。・・・そういうイデオロギーを強烈に主張する。その立場で校本を作る。それに反するものは書き直す。ひどいんですけれども。

 中国でも唐は、外国人である阿部仲麻呂が高位高官の官僚になれたことでも分かるように国際的に懐のひろい国だった。南宋は元の圧力下にあったので、今度は逆に中華思想を極端に強調する。そういう立場に立ちますので、「九州」という言葉自身が、中国以外で使われていること自身が、もう承知できない。それで「遠」に手直しする。

 もう一つ、静嘉堂文庫本というものでは、北宋刊本の南宋再刻本ですが、「去」に手直してある。「去」に直しますと、「全世界の中であなたはどこへ去って行くか。」と、なんとなく読める。

 ということで直しの入った後世の版本が、「遠」や「去」の字になっている。これに対して本来の一番古い版本では間違いなく「所」である。そういうことを京大人文科学研究所の『極元集』の版本を見つけて確認しました。すると、やはりこれは「九州」島のことである。そう考えざるを得ない。

 では王維のこの詩の「九州」島は、変なことを言うのですが「帝国ホテル」。とつぜん何を言うのかと思われるでしょうが、以前にある会の講師として韓国へ行ったときのことです。ある方が、通訳の方にこういう質問をされた。「朝鮮日報はなぜ韓国日報としないのですか。あれは、おかしいのではないか。」と質問された。ソウルで「朝鮮日報」という新聞が売られているのを見て、おかしいと思った一行の方が質問されたのですが、相手の通訳の方の返事が見事でした。「どうしてですか。東京にも帝国ホテルがあるじゃないですか」。側で聞いていて、「やったな。」と思った。聞いた方がギャフン、分かりましたという態度だった。帝国ホテルという名は、昔日本が大日本帝国と言っていたことの時代の証言者である。そうかといって現在東京にあるそのホテルを、帝国主義者ばかりが利用しているわけではない。ただ戦前(第二次世界大戦前)の名前が残っているだけである。それと同じだ。今韓国と言っているが昔朝鮮と言ったのだから、その名残の新聞名である。それだけの事を「帝国ホテル」というこの一言で表現している。 
 このばあいも八世紀半ばの阿部仲麻呂が「九州」島と言わなければ、相手が「九州」島というはずがない。今の阿部仲麻呂が帰ると言った時代には、もう地名の「九州」になっている。唐は地名としての「九州」を許す雰囲気の国だった。ところが後の中華原理主義のはびこる世の中になると、九州を「中国本土」の意味に解釈してしまって、いろいろ改竄を加えている。歴史的な意味は変っていることもつけ加えさせていただきます。

 そうすると阿部仲麻呂は、「私はこれから九州へ帰る。」と言っていた。九州島、そこに帰ると言っているということになるわけですよ。『阿部仲麻呂伝』なんて千ページ近いデカイ本が出ているが、読んでみて阿部仲麻呂が奈良の出身である証拠はこの歌しかない。この歌が太宰府のある九州へ移れば、阿部仲麻呂は九州の出身となる。

 ついでながら九州の方の御笠山は、太宰府から大体東にあって、太宰府市を含む筑紫野市、大野城市辺りから月を観れば大丈夫だ。春日市は逆に近すぎて半分ぐらいは隠れる。これは、もう一度確認して頂いている。ようするに太宰府近辺から観れば月が見える。

 さてそこで、この問題は先ほど言いましたように、とんでもないところに飛び火というか影響を及ぼすことになってまいりました。
 阿倍仲麻呂の歌が掲載された『古今和歌集』から、同じ紀貫之が三十年後に作った『土佐日記』では、この歌が冒頭が変えられて載っている。
 『土佐日記』でこの歌を紹介するのですが、土佐から浪速に帰ってくる途中、

青海原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

 こういう形で紹介されている。
 つまり最初の一句は変えられている。「天の原」を「青海原」と直されている。これは私が生徒にいじめられたと同じように、素晴らしいいじめですが、紀貫之も朝廷の朱雀門の場で披露したとき、やはり皆からいろいろ言われたようです。それで部分改訂で「天の原」の部分を「青海原」と直した。中国明州で作ったなら目の前は「青海原」ですから。それで本質的な解決になっていないのは、先ほど言いましたように御承知の通りだ。我々のように奈良に行かなくとも常に奈良の方にいるので、三笠の山から月が出るとは言えないとか、色々言われたのでしょう。紀貫之はいつもあの辺りに居たようであるから。それで部分改訂で「青海原」と改訂されている。
私自身は、この歌が『古今和歌集』と『土佐日記』の二つある。そういうことは最初から知ってはいたが、その持っている意味をしっかり考えたことはなかった。
 今考えてみると、わたしにはこの問題で二つの教訓を得ることができた。
 一つは先ほどの問題で、紀貫之は『土佐日記』のなかで、前後に解説を書いている。そのなかで「阿部仲麻呂が明州で別れの宴で作ったと語り伝える。」と書いている。これは間違いだ。ペケであると判断している。あの歌そのものは、壱岐から対馬へ往く時「天の原」で作った歌だと理解しなければならない。

 つまり歌で信用できるのは、歌そのものである。歌は第一史料、直接史料。
 前後の解説というのは、その歌集が出来たときの解釈。第二史料。もし解説が第一史料というなら、その歌集を作ったときの編集した人の考え方がどうであったかを示す第一史料である。少し段階が違う。
 当たり前でしょうけど、歌は第一史料、解釈は第二史料。当たり前でしょうが、この方法論を再確認した。

 第二番目には、歌を一部分改竄(かいざん)することがある。改訂すること自体が考えられない。このこと自体が信じられなかった。現代で言えば斉藤茂吉の歌の一部分を、読者が勝手に少し流れが悪いからと判断して、その一部分を斉藤茂吉にことわり無く勝手に改訂し、出版するのと同じである。そんなことは今まで考えられなかった。それを実はやっている。善意でしょうが「天の原」を「青海原」としたほうがよろしい。そんなばかな酷(ひど)いというが、私たちもそれを余り笑えないかも知れない。勝手に三国志に「邪馬台国」と書いてある。そういう説と同じだ。あれも改竄(かいざん)、改訂だ。勝手に学者がそう主張し、教科書にも書いてある。あれも似たようなものだ。善意でしょうが「天の原」を「青海原」としたほうがよろしいと考えて、改竄、改訂してある。直しを入れている。そういうことを知ることが出来た。そのことが次の大きな問題につながって影響してきました。


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