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古代史再発見第1回 卑弥呼(ひみか)と黒塚 ー方法 1998年9月20日(日)
                         大阪豊中市立生活情報センター くらしかん

まえがき 「壹(イチ)」の論証

古代史再発見第1回

卑弥呼と黒塚 1

-- 方法

古田武彦

まえがき


 古田でございます。今まで古代史に関心がなかった方々に対して話をして欲しいという主旨で、 講演の要請がございました。私にとっても大変けっこうな主旨と思って、お引き受けしました。司会の方の挨拶にありましたように『「邪馬台国」はなかった』を出してから三十年近く経っていますが、依然(いぜん)と言いますか、いよいよと言いますか、無視されたままのケースが横行して、依然世間に通用しています。そのことに対して一種の危機感と言いますか、義憤を覚えられておられることをお聞きしました。それは非常にかたじけなく思っております。わたし自身としましては、性格かどうか知りませんが、もっと楽観的でありまして、そのような議論は、わたしから見ると誤った議論ですが、それは理由があって行われてきた。どのような理由かは、また講演の中で十二分に、お話しすることになると思いますが、現在の支配体制というか、学問の体制というか、 明治以後天皇家を中心に日本の歴史を教えるという立場を行ってきた。一言で言うと「天皇家一元主義」です。それを是として行ってきた。その立場は敗戦後も本質的に変わってはいない。その立場から見て、それに一番反する考えというか、異なった立場には迫害するというと戦前でしょうが、戦後は迫害するという形を取らないが、無視するという方針というか態度で来ています。その辺りのことは、三回の講演の中で具体的にお分かりいただけると思っております。
 わたしはそういうことをしても、所詮それは一定の時間だけであり、ある体制や権力が続く限りのことだけである。長い歴史の中では、生き残るは真実の方である。真実を、臭いものを蓋をするようにしてきた権力や体制は、それは時間が経てば霧のように消え去るということを疑っておりません。それは大変楽観的なのですが、しかし現実は厳しいという見方もございます。それは時間のスタンスというか、どれくらいの時間帯で考えるかの、見方の違いだと思いますが、大変ありがたいことであると思っております。
 それで今日私の話をお聞き頂いた方々が、「全然くだらんよ。」とお思いになられたら、お捨てになればよろしい。「これはホントだ。大切な話だ。」と思われたら、またその立場で考えていただければありがたいと思います。このような、こういうつもりでございます。

三国志紹煕本(二十四史百衲本)
三国志紹煕本(二十四史百衲本)

『古代史六〇の証言』〔駿々堂)より

 

一 「壹(イチ)」の論証

 前置きはそれぐらいにして、さっそく本題に入らせて頂きます。
わたしが古代史に入った入り口は『三国志』の魏志倭人伝です。卑弥呼(ひみこ)と通常言われていますが、わたくしは卑弥呼(ひみか)と言いますが、その卑弥呼のことを書かれた時代があります。その国のことを世間では「邪馬台国(やまたい)国、邪馬台国」と言っております。ところが実際は「邪馬台国」という言葉は全く出てこない。出てくるのは「邪馬壹(やまいち)国」という形で出てまいります。

 南至邪馬壹國女王之所都  南、邪馬壹国に至る。女王の都する所

 これは『三国志』の原文ですが、そういう有名な言葉で国名が早い段階で出て参ります。現在はウ冠にカタカナの「ヒ」のはいった「壱」が使われていますが、旧漢字では「豆」の入った「邪馬壹国」という形で出てまいります。
 版本で示しますと、そこにも「邪馬壹国」、「豆」の入った「邪馬壹国」という形で出てまいります。「臺(ダイ)」ではございません。「臺」は、旧漢字では「至」が入っています。

 古田史学の会の方から「壹」という字を書いて欲しいと頼まれました。字を書くのは不得意で断ったのですが、「どうしても。」と 言われましたので書いたものでございます。これは最も古い版本である南宋代の紹煕本の「壹」という字を取ったものです。全く同じに書いたのでは盗作になりますので、少し書き加えたものです。 どこかというと、最後の字に「足跳ね」を加えたものでございます。盗作に対して模作というか、見る人が見たら分かるように少し変えるのが礼儀ではないかと思っております。九九パーセントは紹煕本の「壹」です。どう見ても「臺」ではありません。

 『三国志』では早い段階の南宋版に紹興本・紹煕本と二つありますが、どの版本も「壹」、いずれも「邪馬壹国」という形で出てまいります。それより少し新しい北宋版も「壹」です。一つだけ違うと言えば違うものがあります。北宋版を中国の清代に復刻したものが東京の静嘉堂文庫にありますが、それはなんと簡単な横棒の「一」の字である。これは何も見間違うことは出来ない。二つあると言えば、豆 の入った「壹(イチ)」と、横棒の入った「一(イチ)」だけである。「臺(ダイ)」はゼロ。これは議論でなくて事実である。版本の事実関係です。わたしなどは、ちょうど三十代親鸞に没頭しまして、筆跡を求めて写本・版本を寝ても覚めても夢中で調べておりました。そういう 版本・写本が大事だったのです。
 古代史も同じく写本・版本を調べました。ですから、そういう状況に対して、「邪馬一国」を「邪馬台国」というのは、ちょっと問題である。

 なぜ、そのように直したか。そう考えて調べましたら、わりあい簡単に分かりました。江戸時代の始めに松下見林という坊さんがいました。この人が日本史の研究を行いまして、そこで『異称日本伝』と題する本、中国を主とする外国で書かれた歴史書に出てきた日本の記事、『倭人伝』や『倭国伝』等いろいろ有りますが、そういうものを集めて一冊の本にした。
 そこで彼は序文で言う。こうして外国の歴史書をいろいろ集めた。我が国のことがいろいろ書かれているので読む人はたいへん迷う。しかし迷う必要はない。なぜならば、わが国には国の歴史がある。歴史書がある。舎人親王のお造りになった『日本書紀』である。これを元にすればよい。だからそれに合うものは取り、合わないものは捨てれば良い。合うものは採用し、合わないものは外国人が間違えたのだからペケ、改編すればよろしい。この方針である。
 この言い分を読んでいて何となく、なつかしかったですね。青年時代戦争中最もよく聞かされた「ものの考え方」のスタイルはこれなんですね。根本はこれだ。これをまず決めて置く。それに合うものは取り、合わないものは捨てれば良い。青年時代盛んに教えられました。一番大事なことをまづ決めて置いて、それに合うものは取り、合わないものは捨てれば良い。その方針さえ立てれば、そうすれば迷うことはないですね。戦時中にそういう「ものの考え方」を教わった。判断の仕方を教わった。『日本書紀』が正しい。『日本書紀』に合っていたら、「なかなか良いことを言っている。お前正しいことを言っている。」と採用し、合わないものは「おまえ、相手にならん。」と。外国人が間違えた、相手にしない。この方針である。実に単純明快である。
 それで『異称日本伝』の魏志倭人伝を見ました。その『異称日本伝』という本を見ましても、そこにも「邪馬壹国」と書いてある。 ところが、そこに注を書いて加えてある。わが国では、天皇は代々大和(ヤマト)に居られる。合わないのは外国人が間違えた。直したらよろしい。そう書いてある。「壹(イチ)」を「臺(ダイ)」と直してある。「邪馬壹(ヤマイチ)国」では、 いくら松下見林でも 「邪馬臺(ヤマト)」と読みにくい。「壹(イチ)」を「ト」とは読めない。ところが「臺(ダイ)」なら「ト」と違うけれども、同じ「t」音であり、音便が、「ト」と感覚としては読めそうだから、 「壹(イチ)」を「臺(ダイ)」と直した。「邪馬臺(ヤマト)」と読めそうな気がしますから。「邪馬臺(ヤマダイ)」と読んだわけではない。「邪馬臺(ヤマト)」と読んだ。これを見たとき、わたしは「やはり!やばいよ。」と思った。
 なぜならば同じような経験を三十代親鸞研究で経験した。わたしの方は親鸞という人間、歴史上のありのままの姿を知りたい。生きた歴史を知りたい。その一心だった。ところが写本・版本をいろいろ調べていきますと直されている。なぜ直されているかというと、親鸞聖人は教団ではこういう事になっている。それで合わないのは写し間違いに違いない。そう言って変えてしまう。そうすると絶対教団の教義に合う。変えてしまうのだから。しかしそれはその時の教団の教義を、立場を知りたい人間には意味がある。しかしわたしのように、本来鎌倉時代に生きた「一人の人間・親鸞」。そういう人物の、 ありのままを知りたい。それだけの立場で研究しています。それから見てゆくと、それではどうも具合が悪い。これの研究そのものは割合簡単でして、直された字が、元々の直されない元の字だったらどうなるか。江戸時代ではなく、直されないままの鎌倉時代の用法で読めばどうなるか。親鸞の生きた同じ鎌倉時代の用法で読めば どうなるか。鎌倉時代の史料がたくさん有りますから。鎌倉時代の同じ用法を調べて、同じ読み方をすればよろしい。その結果直されない方が良い。そういう問題に次々ぶつかった。例はいろいろありますが。
 それを直し始めたのが大体江戸時代初めの僧侶であり学者です。松下見林も同じ江戸時代の初めで京都に居たお医者さんです。医者さんも僧侶も同じというか、同じインテリ仲間です。同じ穴のムジナというか同じ手法を取る学問の仲間である。それが今言ったような基本となる親鸞聖人の姿をまず決めまして、その立場に合わない写本・版本が出てくれば間違いだから、それを直せばよろしい。そのようなやり方をする。同じようなやり方を松下見林も行なった。わたしはそれは具合が悪いと考える。

 それだけでは不十分ですから、一つの方法を考え検査を行いました。その検査というのは『三国志』の中で「臺(ダイ)」を「壹(イチ)」に間違えた。まずこう考えます。「邪馬臺(ヤマダイ)國」と本来書いてあったのを、誰かが写し間違えをして、「邪馬壹(ヤマイチ)國」となった。「至」と「豆」が入っているだけの違いですから、その程度の違いですから似ているとも言えないこともない。「壹と臺は形が似ている。」と言えないこともないし、間違えたという考え方も出来ないこともない。『三国志』の中で「間違えた。」と考えて検査した。 これは親鸞で私がやった方法ですが非常に簡単なのです。『三国志』の中で「壹(イチ)」という字を全部抜き出して調べてみる。手間はかかりますが、方法としては簡単です。全部抜き出して調べてみた。それを「臺(ダイ)」と間違っているか調べてみたが「臺」になってない。ちょうど恵まれておった。なぜかというと「壹」というのは、ご存知横棒の「一(ひとつ)」という意味である。「臺」というのは盛土のことです。今の見晴らしの良い所という意味で住宅の宣伝に使っている「〜台」という言葉がありますが、同じ見晴らしの良い所である盛土、そこに建てられた宮殿の意味の「臺(ダイ)」です。「臺(ダイ)」は「壹(イチ)」とは全然意味が違っている。これは非常に容易である。何故かというと文章の前後関係を見て、どちらであるかを検査出来るではありませんか。
 これがもし「土の盛土」と「石の盛土」の違いならば、どちらとも取れるし、片方が「一」で、片方が「二」なら、どちらに解釈するか、また問題になる。
 しかし「盛土ないし宮殿」の意味なのか、「一・二」という数字の意味なのかは、文章の前後関係を見れば決まっている。非常に幸せなことに判別が容易です。
 それで「壹(イチ)」という字を全部抜き出して、「臺(ダイ)」という字も抜き出していった。私は正直言って「中には間違えた。」と思われるケースが出てくるのではないかと思っていた。他の学者も「壹」は「臺」の間違いだ。そう言っているし、そういうケースが出てくるのではないかと考えていた。「まあ、しかし納得できない。」と一応調べてみた。自分に納得するためにというのが正確ですが、全部抜き出して調べて見た。ところが調べてみると意外や意外。この両者の間違いであるケースは全く出てこない。
 「臺(ダイ)」と「壹(イチ)」の間違いはゼロ。

 但し例外はある。固有名詞に付いている「壹(イチ)」と「臺(ダイ)」とは区別は難しい。親が付けるのでしょうが、一番賢くなって欲しいとか、長男であるという意味から「壹」を付けたり、近くの山や丘にちなんで「臺」を入れるのでしょうが、本当のことは親に聞かなければ分からない。固有名詞の場合は原則的には分からない。分からないと言うことは、誤りであるとも、ないとも言えない。それは一応除くのが賢明である。
 しかしその他の文章に出てくる中では百%、間違いのケースは見られなかった。意外や意外でしたね。わたしは念のためにやってみただけだ。間違いは有るだろうし、他の学者も全てそう言っていた。そういう先入観があったから、念のため全部抜き出して見た。ところが行った結果は意外や意外。全く間違ったケースはゼロ。全く間違いはなかった。

 さらに副産物があって分かった。大体こういうものは調べるうちに副産物が出ることが多い。「臺(ダイ)」は盛土、そこに建てられた宮殿の意味ですが、更に天子を意味していた。そういう意味で使われていたことが分かった。これは『倭人伝』の中で区別できる。ここは卑弥呼の次の壹與が、魏ではなく後の西晋朝に使いを送って朝貢した記事であり、ここに「因詣臺 因りて臺(ダイ)に詣でる」とある。

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹


 ここの「臺(ダイ)」というのはただの宮殿ではなくて天子のことである。天子と宮殿に詣でたと書いてある。又この用法が『三国志』に、ところどころ出てくる。しかもそれだけではなくて、同じ『三国志』ではありませんが、同じ同時代史料では『魏臺雑訪議、高堂隆選』という史料では「魏臺(ギダイ)」という言葉が出てくる。「魏臺」というのは天子のことである。高堂隆という人物は魏の天子の一の家来・大久保彦左衛門的な御意見番的な人物である。「天子にこう申し上げた。天子はこう答えられた。」 そういう天子と御意見番との両者の対話の記録である。その場合、『魏臺雑訪議』では天子のことを「魏臺(ギダイ)」と呼んでいる。
(編集者追記、この書物はそのものは残っていません。『邪馬一国への道標』角川文庫P147)
 現在でも「殿下」や「殿」と呼んでいるが、「殿」も元は建物であって、それが現在では「殿」も建物ではなく、建物に住んでいる御主人のことをそう呼ぶようになった。「殿下」という言い方も曲折があって、「殿」と呼ぶのは畏れおおい。だから「殿下」という表現で御主人をそう呼んだ。同じ言い方である。「魏臺(ギダイ)」というのは「魏の宮殿」という言い方で、宮殿に住んでいる天子のことを指す。

  『倭人伝』も、そのような言い方であると考えるのがより適切である。「因詣臺 因りて臺(ダイ)に詣でる」とは、壹與が送った使いは宮殿に至った。同じ言い方ですが宮殿に行って、使いが天子に会わなかった。そう取ると話がおかしくなる。使いは天子に会ったと理解するのが当然である。この場合の「臺(ダイ)」も天子の意味に取るのが適切である。
 以上「臺(タイ)」というのは、一字で天子その人を指す言葉である。そういうことが分かった。

 そうなりますと「邪馬臺(ヤマダイ)」を「ヤマト」と読むためには、奈良県の大和(ヤマト)と仮定して、西晋の歴史官僚である陳寿という人が「ト」を表す字は色々ある。諸橋大漢和辞典などを引くと「ト」を表す字はたくさん並んでいる。その場合どれを使っても良い。それをわざわざ他の字を使わず、いきなり天子その人を指すという慣例が確立している「臺(タイ)」という文字を使って表記する。そういう可能性があると思いますか。天子の元の官僚ですよ。官僚は他のことは無視しても、絶対にそのことを忘れることは有り得ない。それをミスしたら大変なことになる。加えて「邪馬」も良い字ではない。「ヤ」は「正邪」の「邪」を使っている。「マ」の「馬」という動物も中国人が尊敬している動物ではない。そういう表音の字を使っているところから見ると、第三の字をわざわざ天子そのものを指す字である「臺(タイ)」という字を使って「ヤマト」と表記することは有り得ない。大いに有り得ないと判断しました。

 「邪馬壹(ヤマイチ)国」が「邪馬臺(ヤマダイ)国」の間違いという考え方は承服できない。

 それを東大の史学雑誌に「邪馬壹国」という題の論文として投稿しました。幸いにこれが採用され掲載されました。これはわたしが古代史に関して公式に発言し関係する発端になった。この問題のだめ押しを申させて頂くと、この問題はその後論争がありました。まもなく東大の現役の教授で、新説を発表しておられた榎一雄氏という学者が読売新聞で「邪馬台国はなかったか!」という面白い題で連載があり、十二回に渡り全文で私の説を批判された。わたしはこれに対し同じく十二回の原稿を送ったのですが、結局編集部の方で十回に縮めて掲載されました。論争致しました。これは『邪馬壹国の論理』(朝日新聞社絶版)に収録されています。京都新聞では、駒沢大学北海道の三木太郎氏と論争を三年間に渡り行いました。これも「古田武彦と古代史を研究する会(略称東京古田会)」という読者の会が編集された『まぼろしの祝詞の誕生』(新泉社)いう本に収録されています。以上内容はいちいち申しませんが、いずれにおいても少なくとも、わたしに納得できる論拠を挙げた反論はありませんでした。

 私を論破するのは非常に簡単です。古田はそう言っているが、お前の見方は浅いよ。『三国志』の一番古い写本・版本を調べまして、この写本・版本には「壹(イチ)」ではなく、ちゃんと「臺(タイ)」と書いてある。お前はそれを見逃しているよ。それを示して頂ければよい。そうすれば反論も何も要らない。それを示せば私は直ぐ 納得する。感謝するほかはない。ところが、わたしがここに示した版本、紹興本・紹煕本・北宋本の前に、「臺(タイ)」と書いてある版本は示されることは全くなかった。そればかりではなく後の版本でも『三国志』の中で「臺(タイ)」と書いてある版本は示されることはなかった。史料事実としては、後にも先にも『三国志』と名乗る版本には「邪馬壹国」しかない。そういうことが改めて確認されただけだ。それでは、わたしは「邪馬壱国」を「邪馬台国」と改めるわけには参りません。「壹(イチ)」を「臺(タイ)」と書いてある事実は確認することは出来ない。

 あるいは、もう一つの方法もないことはない。わが国はやはり天皇家が縄文時代よりずっと中心である。そういう言うと、お聴きになっている皆さんは「何を下らん。」と言われるかも知れないが、現にそういう意見もあったのです。もちろん戦前ですが、考古学会の会長が講演でそういう意見を述べている。
 たとえば第二次世界大戦前、奈良県でイトクの森という所で、考古学者が前方後円墳を調査した。表現が正しくはないが今の概念で言えば前方後円墳、本当は方円墳ですが。その前方部が畑仕事で削られた古墳が出てきた。ところがその下から石棺と縄文時代の遺物が出てきた。明らかに石器・土器しかない墓だった。これは明らかに縄文時代の墓である。神武・綏靖・安寧・懿徳と呼ばれる天皇、その懿徳(イトク)と関係するか分からないが、カタカナで字地名が「イトクの森」。「その前方後円墳の前方部の下から、石器時代の石器・土器が出てきた。そうすると我が皇室は石器時代からずっと中心で、栄えてきたことが分かったのであります。」と、そう一時間以上にわたって記念講演として演説をした時代がある。
 現在の知識から言えば間違いですね。この円墳は陪塚(ばいちょう)と考えられる。前方後円墳の下にある陪塚はない。陪塚は横にある。陪塚とは家来の墓である。それを下に有ると言った。現在の我々の知識水準からは、そう言える。とにかく考古学者がそういう演説をした時代がある。
 皆さんは今更そんなことを思っている方はいないでしょうが、大和の天皇家が、そこまで縄文や弥生からずっと中心で栄えていた。その点は関東であろうと、九州であろうと文明は全て遅れていたのだ。そのような証明をして頂ければ、松下見林の書いたように、昔から大和が中心となる。その証明をしてもらえば、もしそうなら私は考えが足らない。松下見林が正しかったですねと、自分の説をいつでも撤回する。私は「反松下見林の立場」に立って解釈しょうとか、全くそのような立場ではない。
 結局どちらの立場も示されることは全くなかった。
 結局は松下見林がさきほど言ったような理由で、邪馬台国にしたほうが「邪馬臺(ヤマト)」と読むためにそこそこ良いのではないかと、「壹(イチ)」を「臺(ト)」に変えた。わたしから言うと枝葉末節の理由で「臺」にした後説明。いくら後説明をしてみても、歴史上の直接表れた出発点は、先ほど言ったように松下見林のやったような出発点から来ているという事実を誰も消すわけには行かない。わたしの知っている歴史学、世界における悠久普遍の人間の歴史学の立場から見れば、そのような直し方は全く具合が悪い。それを昔の古典ですから、昔の文書には全く誤りがないはずはない。それを古典には全く誤りがないと、古田は言い切っている。そう思いこんでいる、くだらん奴だ。そう言って、ずいぶんお怒りの方がおり、そう言われた時期がある。その件は、わたしには全く関係がない。版本が間違っていたり写本が間違っていたりすることは常にある。親鸞研究ではそれが舞台で、おそらく九十パーセントは間違っていた。わたしは版本や写本に誤りがあるという事は、親鸞研究でそれは百も承知だ。 ただ、それは「誤りが有り得る。」という一般論で、「これが誤りだ。」ということを証明するには手続きを必要とする。わたしのやっていた中世史では手続きが必要だと思っています。だから「臺(ダイ)」と「壹(イチ)」が間違っているということを説明することは出来ない。「邪馬台国」は容認することは出来ない。
 以上のお話が東大の史学雑誌に記載された「邪馬壹国」という 論文の中身です。以上そのことは『邪馬壹国の方法』(駿々堂)ー多元的古代の成立上ーに全文収録されております。
以上わたしが、今言ったお話が「邪馬壹国」論です。「それはおかしいよ。ここは全然筋が通らないよ。」と御指摘下されれば幸いです。いや話としては十分筋が通っている。そう思われて歴史学者や考古学者が邪馬台国と言っているのはおかしい。そう言っていただければ、それも幸いでございます。

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