中国の史書は卑弥呼を倭の女王とし、倭国をその後継者として扱っており、だから倭国は九州王朝である。『失われた九州王朝』。
「倭の五王」のとき、武は「開府儀同三司」を自称し、珍のときには既に「使持節都督」を名乗った。中国の制度に精通し、適切な役職を自称したり、申請したりできた。都督となり、「開府」して、「都督府」を作った筈である。
大宰府には「都督府」古址が現存する。記紀に登場しない年号群が「二中歴」など多数の文書や神社の棟札などに現れる。鶴峰戌申は「九州年号」という文書中で見たという。筑紫国造磐井に関する書紀の記事には「裁判の場」を石像で作ったとされ、その石像は現存する。
『古代は輝いていたIII』(朝日文庫)