隋書イ妥*国伝でのイ妥*王・多利思北孤は王であり、天子と自称している。後宮には女性数百人がいた。この時代に来た隋使斐世清は_王と面談したとの記録がある。
書紀では聖徳太子は太子であり、王ではない。天皇は推古であり、女性とされている。通説では多利思北(比)孤を聖徳太子としているが、人物像は全く一致しない。
法隆寺金堂の釈迦三尊光背銘文は、聖徳太子の病気と死去について述べたものとされるが、年号の「法興」、「干食王后」という后名、命日など、いずれも日本書紀の聖徳太子と一致しない。
『古代史をひらく』ー独創の13の扉ー(原書房)
『古代は沈黙せず』(駿々堂)絶版
釈迦三尊の光背銘に、聖徳太子はいなかった(講演集より)
「法華義疏」
の史料批判
イ妥*は人偏に妥。