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古田史学会報
2001年12月12日 No.47
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“カメ”(犬)は「外来語」か

『東日流外三郡誌』偽作説と学問の方法

京都市 古賀達也

  はじめに

 『東日流外三郡誌』に古代津軽弁の一つとして、犬のことを“カメ”というと記されている。現在でも東北地方を中心として残っているこの方言を、幕末の開国にともなって入った外来語であり、古くから津軽で使われていたはずはないとして、このことをもって『東日流外三郡誌』偽作説の根拠の一つとする見解がある。
 本稿ではこうした偽作説に対し、“カメ”は「外来語」ではなく、『東日流外三郡誌』にあるように江戸期以前から使用されていた言葉であることを論証し、あわせて偽作説が共通して持つ、学問の方法の脆弱性について論じる。


    

 『東日流外三郡誌』八幡書店版第五巻に収録されている「方言篇」や「津軽内三郡盛衰之事」に津軽の方言・古語として、子犬や犬のことをカメということが記されている。これに対して、和田家文書偽作論者の斉藤隆一氏は次のように述べる。

 「次の例は笑い話であるが、『東日流外三郡誌』第五巻、二八八頁の「対津軽弁大和弁書」には「カメ(子犬)」とある。同四四五頁にも「(カメ)犬、(チャペ)猫・・・などと余多言葉の遺れるを吾等の古代語と知る人ぞなし」と書かれている。そんなものは誰も古代語とは知らないはずである。なぜならこれは、アメリカ人が犬に向かってcome here と呼んだのを聞いた誤解から、洋犬をカメというようになったのであり、開国までは使われていない語である。」
(斉藤隆一「『東日流誌』についての総合的批判 その2」『季刊邪馬台国』五三号所収)

 犬のことをカメと呼ぶのは、開国以来使われるようになった言わば「外来語」とされたのである(正確には英語の発音と意味の誤解によるもの)。そのような語を古代津軽弁とした『東日流外三郡誌』を笑い話として一笑にふされたのだが、はたして笑い話なのは『東日流外三郡誌』か、それとも斉藤氏の言動なのか、本稿を通じて明らかとなるであろう。
 なお、斉藤氏は「対津軽弁大和弁書」に「カメ(子犬)」と記されているように紹介されているが、それは誤りである。このことが記されている二八八頁は「方言篇」という記事であり、「対津軽弁大和弁書」(二七七〜二七八頁。底本は『東日流外三郡誌・総序篇第壱巻』)とは別の記事である。ささいな間違いではあろうが、偽作論者の諸論には、このような基本史料に対する誤解・誤読が実に多い。甚だしきにいたっては、立論の根拠そのものが誤解・誤読に基づいている場合も少なくない(注1)。一例をあげよう。斉藤氏は先の論文中に『東日流外三郡誌』明治写本の「虫くい」問題について次のように記されている(注2)

 「和田喜八郎氏は、『市浦村資料編上巻』に、昭和五十一年一月吉日付けで『この文献は、三百六十余巻をもって完了し、読み得る事のできる書物は百巻位で、あとは虫にくい荒され、ボロボロである』と書いている。ところが、八幡書店版では、百九十三巻が完全な形で活字化されている。これに対して、古田武彦氏と鎌田武志氏の対談は、
『鎌田 これには虫食いがありますね。
 古田 そう「和田家文書には虫食いがない。だから怪しい」なんて言う人があるけれども、とんでもない』

と、語られているが、ここでも古田氏は論点を誤解している。いったい誰が『和田家文書』と言ったのであろうか。『東日流外三郡誌』の活字版の元本には虫食いがないと言っているのである。」(斉藤隆一氏、前掲論文)

 斉藤氏は『東日流外三郡誌』八幡書店版は完全な形で活字化されているとか、虫食いがないと古田氏を批判されているが、論点はおろか史料事実さえも誤解されているのは斎藤氏の方であった。なぜなら、『東日流外三郡誌』活字本には、市浦村史版を初め北方新社版・八幡書店版も、各所に虫食いや破損による欠字が存在しており、そのことは読めば一目瞭然である。「編集後記」や「凡例」にも欠字の存在を明確に記しているほどだ。
 しかも、わたしがこの事実を二度にわたり論文(「東日流外三郡誌とは」『新・古代学』一集所収。「知的犯罪の構造」『新・古代学』二集所収。新泉社刊)で指摘したが、未だ斉藤氏や偽作論者からは訂正も応答もないままである。
 
 
    

 話をもどそう。『角川外来語辞典』には“カメ”について次のように記されている。

 カメ【英 Come here!】(原義:来い)日本語では“洋犬”。それは、英米人が犬に向かって“来い、来い”と言ったのを、犬の意味に誤解したのに基づく。
 (以下、出典など が明記されているが、略す。古賀)

 他の国語辞典の類にも同様の説明がなされていることから、“カメ”外来語誤解説とも言うべきものが通説の位置を占めているようだ。斉藤氏ら偽作論者はこれら辞典の記述に基づいて、『東日流外三郡誌』の記述を「笑い話」とされたのである。このような“カメ”外来語誤解説は明治時代には早くも辞典『言海』(大槻文彦著)に記されていることから、犬のことを“カメ”と呼ぶ人々が、かなり広範囲に存在したことをうかがわせる。
 
 カメ(名)〔英語、Come.(来よ)ノ誤解〕西洋渡来ノ犬。
 (大槻文彦著『言海』、明治二二年刊)
 明治二二年に刊行された辞典に“カメ”が採録されている事実は興味深い。なぜなら、辞典に採録されるほど、明治時代前半期すでにその語彙がポピュラーに使用されていたことの証拠でもあるからだ。また、石井研堂著『明治事物起源』(明治四一年初版)によれば、明治初期、犬や洋犬のことをカメ(かめ・加免)と記している次の文献が紹介されている。

○『道具くらべ』 明治六年四月
○『撃剣図』   明治六年四月
○『繁昌記』   明治七年
○『繁昌誌』   明治七年

嗷/犬*(ごう)は嗷に口偏なし、下に犬

 なかでも、『繁昌誌』には「嗷/犬*をカメと訓す、今俗カメと呼ぶ、洋犬嗷/犬*なること必せり」とあることが紹介されていることから、「嗷/犬*」(ごう)という字にカメという訓読みが、この時代すでに成立していたことがわかる。ちなみに、「嗷/犬*」という字は諸橋大漢和辞典によれば、「○1いぬ。人心をよく察して役にたつ犬。○2たけ四尺ある大犬。○3猛犬。○4犬の名。」と説明されている。

 ところで、“カメ”の語源は英語で犬を呼ぶときのカムヒアを聞き間違えによる、という説の初見史料だが、管見では文久三年(一八六三)刊の『横浜奇談』のようである(注3)。

「且当地の人など異国の犬をバカメといふ事と心得異犬を見てハカメ〃〃とよぶものあれども左にハあらず 彼方にて都て目下のものを呼まねくの英語にて犬の惣名にハあらずとぞ」(菊下老人『横浜奇談』)

 先に紹介した『明治事物起源』も同書を引用し、「カメの稱は、明治以前の事なり。」と、その語源が明治以前の成立であると述べている。どうやら、“カメ”外来語誤解説は『横浜奇談』のこの記事に基づいているらしいのだが、『横浜奇談』自身も「目下のものを呼まねくの英語にて犬の惣名にハあらずとぞ」と、「とぞ」という表現を使用していることから、当情報は伝聞によっていることがうかがえる。したがって、この記事は当地(横浜)の人々が洋犬を“カメ”と呼んでいることへの解釈を述べているにすぎないのである。そして、この記事から判断できる「事実」は、犬のことを“カメ”と呼んでいる人々が幕末の横浜にいた、という点である。したがって、“カメ”外来語誤解説は『横浜奇談』に記された著者の解釈、あるいは著者が聞いた伝聞を論証抜きで無批判に信用した結果であることが判る。

 このように、通説は論証を経ないまま、辞典類に採用されており、偽作論者もまたそれら辞典類の記述を無批判に採用したのである。もちろん受験用の教養であれば、このレベルで通用もしようが、文献史学における史料批判や学問の方法としては甚だ心許ない立論と方法である。すなわち、論証を経ていない作業仮説(“カメ”外来語誤解説)を別の仮説(『東日流外三郡誌』偽作説)の根拠に使用するという方法は学問上危険なのだ。


    

 それでは、『横浜奇談』に記された“カメ”外来語誤解説が仮説として成立しうるか検討してみよう。
 まず、幕末から明治初期の文献に見える、犬のことを“カメ”と呼ぶ現象が明治の辞典『言海』にまで採用されていることから、かなり広範囲に使用されていると考えざるを得ないが、現在のように情報時代ではなかったこの時代に、しかもすでに「いぬ」という名称が古くから存在定着していたわが国において、この現象が起こりうる可能性は極めて低いのではあるまいか。なぜなら、この現象が起きるためには、次の経過が必要だからだ。

1). ある人物が英米人が犬を呼ぶ「カムヒア」という言葉を洋犬の一般名と勘違いした。

2). その人物はその勘違いに気づかないまま、洋犬のことをカメと呼ぶようになった。

3). その人物のカメという言葉が誤解であることに誰も気づかないまま、多くの人々も洋犬のことをカメと呼ぶように なった。

4). そのことが各地に広がり、明治初期の記事に使用され、明治二二年発行の辞典に採録されるに至った。

5). しかも明治七年以前に、「カメ」という言葉に「嗷/犬*」という漢字までが当てられた。

 以上のようなことが、文久年間から明治初期の数年の間に発生したとは、わたしには考えられないのである。次の事実もわたしのこの疑問を支持する。
方言の分布状況だ。

 犬のことを現在でも“カメ”あるいはそれに類似の呼び方をする地方がある。『日本方言大辞典』(小学館刊)によれば、犬あるいは犬を呼ぶ語としての“カメ”の分布として次の地方をあげている
(なお、同方言辞典も“カメ”外来語誤解説に基づいて解説している)。

(かめ・犬を呼ぶ語) 青森県三戸郡。
(かめかめ・犬を呼ぶ語) 福島県東白川郡、千葉県長尾郡。
(かめ・洋犬) 青森県、山形県東置賜郡・西村山郡、福島県東白川郡、福島市、富山市近在、山梨県南巨摩郡、愛知県。
(かめいぬ) 青森県津軽、宮城県、福島市、千葉県印旛郡・山武郡、徳島県阿波郡、高知県。
(かめえの) 岩手県上閉伊郡。
(かめえん) 岩手県上閉伊郡、富山市近在。
(かめ、かめいぬ・小さい洋犬に似た犬) 青森県三戸郡。

 この他に、島根県鹿足郡では小牛のことをカメと呼ぶことや、福井県大飯郡・三重県阿山郡では狼のことをカメと呼ぶことが記されている。このように、方言としての“カメ”の分布は東日本、中でも東北地方に濃密に分布しているのだが、この事実は“カメ”外来語誤解説では説明困難である。もし外来語誤解説が正しければ、横浜や長崎を中心に分布していなければならないが、事実は全く異なる。この分布状況を、いわゆる文明や文化の「ドーナツ化現象」として説明することも困難だ。なぜなら九州地方や北海道には分布しておらず、北は青森止まりで東北地方に分布が偏っているからである。しかも、小牛や狼のことまで、カメと呼ぶ地方があることも説明できない。すなわち、辞典に記されてはいるが、論証を経ていない通説はやはり成立困難、これが学問としての史料批判の結論である。そしてその結果、斉藤氏が「笑い話」として退けた『東日流外三郡誌』の「カメは古代語」という指摘が再びよみがえって来るのである。


    

 いま一歩論を進めよう。『日本方言大辞典』によれば、狼のことを“おーかめ”と呼ぶ地域があることも記している。次の通りだ。

(おーかめ) 仙台、常陸、尾張宮、京都、青森県津軽、宮城県、秋田県南秋田郡、秋田市、山形県東置賜郡、福島県、栃木県、群馬県勢多郡・佐波郡、埼玉県、千葉県、東京都南多摩郡・八丈島、富山県、福井県、山梨県、岐阜県、静岡県磐田郡、愛知県、三重県、京都府、大阪府、泉北郡、兵庫県、奈良県、和歌山県、島根県、岡山県、広島県、山口県玖珂郡大島、香川県。

 以上のように、こちらは先の“カメ”より分布範囲が広い。しかも、冒頭の四地域については、その根拠とした文献の成立が江戸時代以前に遡るとされている。

○仙台 『浜萩』        一八〇〇年代
○常陸 『新編常陸国誌』  一八三六〜五五年
○尾張宮『宮訛言葉の掃溜』    一八二一年
○京都 『かたこと』       一六五〇年

 また、わたしの調査でも京都府立総合資料館蔵『本草綱目啓蒙』(享和三年〈一八〇三〉刊・文化二年〈一八〇五〉写本)には「狼」のよみとして「オホカミ」「オホカメ」の二例が記されている。これらの史料事実により、江戸時代以前から狼が「オオカメ」とも呼ばれていたことは間違いない。このことから類推すると、犬や狼、あるいは小牛などのある特定の動物、おそらく神聖な動物とされたものに対して、“カメ”“オーカメ”と呼んでいた時間帯と地域が日本列島に存在していたと考えられる。現在の分布状況から考えるならば、その地域は東日本あるいは東北地方を中心としていたか、ある時期に別の勢力の圧迫を受けて現在の東北中心の分布になったと考えてよいのではあるまいか。

 ちなみに、「嗷/犬*」という牛か山羊のような動物が『山海経』に描かれていることが、諸橋大漢和辞典に見える。空想上の動物であろうが、「嗷/犬*」と記され、わが国においては“カメ”と訓じられていたことは、島根県鹿足郡で小牛のことをカメと呼ぶこととの関連からも興味深い。
 更に推測が許されるなら、“カメ”はアイヌ語の「カムイ」と語源が共通している可能性も考えられよう。日本語の成立、あるいは征服・被征服による言葉の変遷とも密接に関わる今後の楽しい検討課題だ。いずれにしても、『東日流外三郡誌』に秋田孝季が記した「古代語」という仮説も当然有力説として検討されなければならないであろう。


  おわりに

 以上、論じてきたように、『東日流外三郡誌』に見える“カメ”(犬)という記事は偽作の根拠とはならず、むしろ検討にあたいする仮説であることがわかった。同時に受験教養と同レベルで文献の真偽が論じられるという、わが国の学問の危うい「現実」にも遭遇しえたのであった。本来、学問研究とは自らの認識や教養と異なる事物に遭遇するところから発展を遂げるのではあるまいか。今日まで世に出た文書が、受験教養や辞典類(通説という一つの仮説)で簡単に論断され、既成の辞典や通説とあわないから偽作、という運命をたどっていなければ幸いである。思えば、津軽の和田家文書も危うくこの運命をたどろうとした。この現実になお慄然とせざるを得ないのである。


(1)偽作論者の犯した和田家文書への誤解・誤読・誤論は、筆者や古田武彦氏、上城誠氏らにより度々指摘されているところである。いずれ機会を得て、それら誤解・誤読・誤論一覧を発表したいと考えている。

(2)松田弘州氏も同様の誤断により、『東日流外三郡誌』偽作説の根拠とされた。「活字になった『東日流外三郡誌』のどこにも、虫食いのために欠字となった部分は見あたらないのだ。」(松田弘州「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」別冊歴史読本『「古志古伝」論争』所収、一九九三年刊)

(3)『横浜奇談』を神奈川県立図書館で閲覧するにあたり、安藤哲朗氏(多元的古代研究会・関東)の御協力を得た。
 ※初出『北奥文化』第十八号(平成九年、北奥文化研究会発行)


カメ(犬)外来語 語源説批判のその後

京都市 古賀達也

 一昨年九月(一九九六)、北海道の会で発表させていただいた、「カメ(犬)外来語語源説批判」を論文にまとめ、五所川原市の郷土誌『北奥文化』に寄稿したのだが、ほとんど全ての国語辞典類が「外来語語源説」を採用しているので、いくつかの出版社に掲載された論文コピーを送付し、検討を依頼してみた。その結末について報告させていただきたい。
 私からの手紙の要旨は次のような点だった。

1). カメ外来語語源説は、同封の論文に示しているように、成立困難であること。

2). 御社の辞典には、「外来語説」に立った説明がなされているので、拙論を検討していただきたい。

3). できれば、拙論に対する批判や感想をいただきたい。

 以上のような内容の手紙を同封して、角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社に送付した(この他の出版社にも今後送付したい)。最初に返答があったのが『外来語辞典』を出している角川書店。次の通りだ。

 時下ますますご清栄のことと存じます。
 とり急ぎお便りいたします。
 当社におきましては、(依頼原稿以外の)お持ち込み原稿等の出版・雑誌掲載ならびに、批評等を行っておりません。ご期待に添えず申し訳ございませんが諒解のほどお願いいたします。
 要件のみでございますが、ご健勝を念じます。 草々
角川書店 書籍第一編集部

 どうやら、「持込み原稿」として扱われたようだ。しかもご丁寧に『北奥文化』コピーも送り返されてきた。いわゆる「持込み原稿」ではない旨記して、再度「辞典編集部」宛に送付したが、その返事はないままである。角川書店には読者の意見を聞く制度(態度)はないようである。拙宅の隣のビルの喫茶店に角川春樹氏が時折みえるそうなので、会ったら一言聞いてみたいものだが、今は角川書店とは無関係なのだろうか。
 やはり世間はこんなものかと、少々ち込んでいたら、相次いで岩波書店広辞苑編集部から返答が来た。少々長くなるが全文紹介する。

 拝啓 晩秋の候、古賀様におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。また、日頃より広辞苑をご愛用いただき、感謝いたします。
 さて、今回は「カメ」についての論文をお送りいただき、ありがとうございました。たいへん興味深く拝読いたしました。御説の中には、「なるほど」と思う部分がいくつもございました。
 やや言い訳がましくなりますが、ご存じの通り、広辞苑では「カメ(幕末・明治初期、英米人が、come here といって犬を呼んだことからいう)洋犬のこと。」と解説しています。このうち語源説の部分については「〜という」で終えており、断定的な言い回しをしておりません。また、「メリケン・カメ」の栞につきましても「『カメや』と勘違いしたのだとか。」と「〜とか。」で終えています(古賀注 岩波文庫に挟んである栞に、カメ外来語語源説を紹介したものがある)。
 論文の中で触れられていますように、「カメ」が「come here」から転じたものであるとする語源説は、古くから広く流布しております。広辞苑としては、「その語源説について断定するだけの確証はないが、広く流布している語源説として紹介する」という立場から、現在のような解説を付しています。
 御説について、軽々に判断することはできませんが、たいへん貴重なご意見と存じます。次版の改訂作業における課題として、「カメ」についての過去の論考とあわせて検討させていただきたく存じます。今後とも、お気付きの点がございましたら、ご指導くださいますようお願い申し上げます。
 取り急ぎ要件のみにて失礼いたします。どうぞこれからも広辞苑をご愛用くださいませ。最後になりましたが、時節柄ご自愛くださいますようお願い申し上げます。

敬具
  一九九七年一一月二〇日
岩波書店辞典部 広辞苑編集部

 さすがは日本を代表する国語辞典の編集部だ。見事な返答に私はますます広辞苑が好きになってしまった。拙論への賛意を表しながらも、しっかりと釈明も行い、検討を約束する。しかも、引続き広辞苑の愛用も促すといった営業的視点と礼儀を兼ね備えた名文ではあるまいか。次回改訂はかなり先のことだろうが、その時拙論が反映されているかどうか、楽しみではある。この岩波からの返答のおかげで、角川による私の不機嫌が一気に吹き飛んでしまったのは言うまでもない。
 次に来たのが小学館である。こちらは、もっと感動的な文面だった。

 拝復 「日本方言大辞典」をご活用くださいまして、ありがとうございます。また、この度は、同書の内容につきまして、貴重なご教示を賜わりましたこと、併せて篤く御礼申し上げます。 さて、ご指摘の「カメ」の語源説についてですが、古賀様のお説を拝読し、たとえ外来語語源説が古くから行われていたとしても、「日本方言大辞典」の中でそれと断定するのは問題があると感じました。少なくとも、この部分を、(犬を呼ぶ語Come here またはCome in からとする説がある)とすべきであったようです。
 わたくしどもは、この辞典の他に「日本国語大辞典」という大型の国語辞典を出版しているのですが、この「カメ」外来語語源説は、そちらで示した語源説をもとに記述したようです。(「日本国語大辞典」の語源説は従来の語源に関する諸説を列記したもので、あくまでも諸説の紹介にとどまり、どの説が正しいかという判断は示していません)そこに掲げた語源説は、「大言海」「明治事物起源」「方言と昔(柳田国男)」ですが、それらが文久3年刊の「横浜奇談」まで遡れるというのは、お説を拝読して今回初めて知りました。「日本国語大辞典」は現在改訂作業を進めておりますので、何らかのかたちで反映させていただく所存でございます。
 最後に、私事で恐縮ですが、わたしは十数年前に一度向日市の古田武彦氏のお宅にお伺いし、長時間に渡ってお説を拝聴したことがあります。(中略)今回、「古田史学の会」の事務局をなさっている古賀様からお手紙を頂戴し、奇縁に驚きました。これも何かのご縁と存じますので、今後ともわたくしどもの辞書につきまして、お気付きのことがございましたら、ぜひまたご教示を賜わりたいと存じます。
 先ずは、御礼かたがたご報告まで。
敬具 一九九七年十一月二十八日
       小学館 国語辞典編集部

 古田先生や古田史学を接点に、様々な分野の人々との出合が生まれるものだ。私はこの幸せに感謝し、その恩を生涯忘れまい。
 さて、最後に届いたのが新潮社だ。

 拝啓
 お手紙とコピー、拝見しました。読んで、お書きになってらっしゃることは尤もだと思いましたし、驚きました。語釈を改めなければならないと思いますので、編者の先生に相談致します。ありがとうございました。また何かお来付きの点がございましたら、ご連絡いただければ幸いに存じます。
 右は取り急ぎ御礼と御連絡まで。
敬具
新潮社 辞典編集部国語辞典係

 簡潔にして要を得た返答だ。残る三省堂からは未だ“なしのつぶて”だが、私のささやかな試みは成功だったと言えよう。いや、予想以上の大成功だ。と同時に、ひとつの学説が世に受け入れられる為には、様々な困難を乗り越え、偶然の助けさえもが必要であることもかいま見た。しかし、一番肝要なこと、それは「真実のみを求め、そして真実に至る」ではあるまいか。その一方で「古田史学の会」が、社会的影響力を強め、古田史学の発展と拡大に貢献できれば本望である。この新しい年が二十一世紀に向けての多元史観の幕開けの年となることを願って、この一文を締めくくりたい。
(一九九八年一月記)

《筆者後記》本稿は一九九八年正月に書いたものだが、発表の機会がないままお蔵入りしていたものである。二一世紀を迎えた本年、こうして発表できたことも何かの縁と思われる。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第七集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜七集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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