古田史学会報
1998年 6月10日 No.26

古田史学会報

26号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
事務局 〒602 京都市上京区河原町通今出川下る大黒屋地図店 古賀達也
     電話/FAX 075-251-1571
郵便振込口座 01010-6-30873 古田史学の会


高良玉垂命の末裔 稲員家と三種の神宝 古賀達也

紫外線漂白と天の香具山 古賀達也


地 名 は こ わ い


日進市 洞 田 一 典

 『続日本紀』を調べていて、つぎの記事を見つけました。

「(宝亀元年三月)辛卯の日、葛井(ふじい) 船・津・文・武生(たけふ)・蔵の六氏の男女二百三十人、歌垣に供奉す。その服は並に青ずりの細き布衣を着て紅(くれない)の長き紐を垂る。男女相並び行を分かちておもむろに進む。歌ひて曰く、

 乙女らに男立ち添ひ踏みならす、西の都は万代の宮

と。その歌垣歌ひて曰く、

 淵も瀬も清く爽(さやけ)し博多川、千歳を待ちて澄める川かも

と。歌の曲折毎に、袂(たもと)を挙げて節となす。その余四首並に是れ古詩なり。また煩はしくは載せず。時に五位 より已上(かみつかた)・内舎人(うどねり)及び女嬬(ひめとね)に詔して、亦其の歌垣の中に列す。歌数終はる時、河内の太夫従四位 の上藤原の朝臣雄田麻呂より已下、和舞(やまとまひ)を奏す。六氏の歌垣に人ごとに商布(たに)二千段(むら)綿五百屯(もち)を賜ふ。」

 古田史学にのめり込んでいる私にとって、「西の都」と「博多」を並べられると条件反射的に、「九州王朝の都」となります。右の条は、称徳天皇の七七〇年の記事です。この時期に天皇の目の前で、こんな歌をうたって大丈夫だったんだろうか?と、いらぬ 心配をしてしまいますが、ご褒美がでているところをみれば、お咎めなしだったようです。
  実は、岩波大系本の『古代歌謡』(土橋寛 校注)にもこの歌をのせて、頭注で「河内の由義の宮に行幸し、翌日同地での歌垣である。西の宮は、奈良の都に対して、河内の由義の宮をいう。博多川--大阪府泉北郡伯太村を流れる川。伯太川。河内国安宿郡に伯太彦神社、伯太姫神社がある(神名帳)。」とありました。
もともと、この歌は万葉仮名で書いてあって、これを右のように表現された(今泉忠義訳『訓続日本紀』臨川書店)わけです。つまり、波可多我波→博多川。しかし、博多と書かれたのはお人がわるい。土橋氏のも同じだ。なぜ伯多川じゃないのと、ブツブツいいながら、もう一度、原典= 国史大系『続日本紀』(後編)吉川弘文館をみたら、同じ三月に「丙寅三日)車駕臨博多川以宴遊」とあり、歌垣の辛卯(二八日)より大分前ですが、ここにチャンと博多とありました。申し訳ない!送り仮名のない分、詰まって書かれているので、開いた本の左右のページに三日と二十八日の両方がのっていました。(なお三月三日は曲水の宴)
 オール漢字では読みにくいので、つい訳本に頼ってしまいがちですが、やはり原典に当たるのが大切だと、あらためて感じました。早とちりしましたが、お陰で一とき妄想の世界に遊ぶことができました。やはり、地名はこわい。こわいながらも、−−楽しめる世界です。
(一九九八年四月四日)

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再考 洞田稿の視点

「西 の 都」は ど こ か


京都市 古 賀 達 也

 洞田一典氏より貴重な論稿が届いた。本号に掲載された「地名はこわい」がそれである。『続日本紀』宝亀元年条に記された歌垣に見える「西の都」「博多川」から、これらの歌を九州王朝のものではないかと疑われた。氏は結論を「早とちり」とされたが、こうした視点は貴重と思われた。というのも、私も以前九州王朝歌謡(君が代・海行かば)の調査をしていたとき、この『続日本紀』の歌の存在を知ったのだが、九州王朝関連の歌のようだという感触は得たものの、決め手がなく、判断を保留したという経緯があったからだ。今回、氏の論稿を得て、再度検討を試みた。
 岩波新古典文学大系『続日本紀』の解説では、「西京の由義宮の永遠の繁栄を歌う頌歌」とされているが、由義宮が西京と定められたのは神護景雲三年十月(七六九)のことで、歌垣の前年のことだ。ところが、これらの歌のことを「是れ古詩なり」と記されており、由義宮を西京に定めたために新たに創作された歌ではないことがわかる。すなわち、古くからあった歌を由義宮用に転用したのだ。
 とすれば、この西の都とはどこだろうか。近畿天皇家の都とすれば、大和に対して西にあった都の有力候補は「難波宮」であろう。古くは仁徳天皇の時代に始まり、孝徳・聖武と都がおかれており、その古さといった点からは問題ない。また、歌垣を行った葛井氏ら六氏は百済からの渡来人を先祖としており、その渡来の時期は四〜五世紀と考えられていることからも、このような「古詩」の伝承も可能である。ならば、この歌は難波宮を歌ったものか。どうもそんな感じがしないのだ。
 「西の都は万代の宮」というには、難波宮はいずれも「短命」なのだ。いや、今度こそ「万代の宮」になってほしい、という願いの歌だったという解釈もちょっと苦しい。そうした願いの歌が「古詩」といわれるぐらい伝承されるには、難波宮の連続性は乏しい。もちろんこれは「感じ」に過ぎないので、断定するものではないが、どうもぴったりこないということは理解していただけるだろう。
 それでは、九州王朝の都と考えた場合はどうだろうか。この場合、二つのケースが考えられる。「西の都」という表現が、近畿天皇家から見て、西にある九州王朝の都、たとえば太宰府といった場合。「遠の朝廷」という表現もこれと類似視点(時間・空間)か。もう一つは複数ある九州王朝の都のうち、西に位 置する都をさす場合だ。この場合、この歌は九州王朝内での視点で作られたことを意味する。
 いずれの場合も、糸島博多湾岸にあった都であれば、天孫降臨以来の伝統を持っており「万代の都」という表現はピッタリだ。ただ、後者の場合、西の都に対して、東の都が九州王朝内部になければならない。東の都の候補としてあげられるのが、豊前京都郡ではあるまいか。京都郡に九州王朝の都があったことを決定づける論証や証拠はまだ不十分であるが、奈良時代に入って大きな影響を持っていた宇佐八幡宮の存在などもあり、今後の楽しみなテーマと言えよう。
 前者の場合も可能性としては否定できないが、近畿天皇家内部で九州王朝の都を讃える歌を創作し、伝承されてきたということになり、やや不自然な感じがする。
 以上、縷々考察してきたが、洞田氏が疑われたように、この歌の「西の都」は九州王朝の都とする可能性は少なくないのである。この歌を伝承してきたのが、百済系渡来人の子孫だったことも、九州との関係の深さをうかがえ、今後の検討課題でもあろう。
 最後に、もう一つの歌にある「博多川」の問題だが、最初の歌が九州王朝内の歌であればこの「博多川」も博多湾岸の都を流れていた川となる可能性が高い。もっとも「博多川」という名前の川は河内にも筑前にも現存していないようで、決定的な証拠は不足している。
 『続日本紀』の記事によれば、この二つの他に四首あったが、煩わしいので掲載しなかったとある。案外、他の四首にはそのものすばり九州王朝を意味する歌詞があったかもしれない。さすがに『続日本紀』編者も掲載をはばからざるを得なかったのではあるまいか。
 なお、後代になると平安京などを東西に分けて、それぞれを「西の京」「東の京」とする表記例も出現するので、これを九州王朝の都と考えるのは「早とちり」となるので、用心が必要である。


《会員からのお便り》
前略 古田史学会報二十五号/室伏志畔氏の記事を読んで。
 ……とすると、題名がなぜ『竹取物語』なのか? 原作者の思想が反映していないだろうか?
 竹は筑紫国の筑の竹カンムリであり、かつ『隋書』東夷・[イ妥]国伝が記す竹斯国の一字である。(ツクシではなくチクシとある。)
 ……とすると、『古事記』『日本書紀』は始めから終りまで複数回にわたる国盗り物語の正当化の書であり、『竹取物語』は、その最終の国盗りの完成を表現していることになる。
 他の題名でもよかった筈なのに、「竹取の翁の物語」として伝承されたのには深いワケがあるのでは?(ワッハッハ) 後略
(東京都・黒野正和)

◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』  第六話◇◇◇◇◇◇
   
 レ ン ゲ の 女( 1 )
 −−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−     
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ??
〔前回までの概略〕
 冬の「北の大門」(現ウラジオストク)攻めを敢行した三ツ児の島(現隠岐の島)の王八束(やつか)の息子昼彦は、異母兄淡島に海へ捨てられるが、天国(あまくに)に漂着、その子孫は韓(カラ)へ領土を広げ、彼の地の支配者の一人阿達羅(アトラ)は天竺(現インド)の王女を娶(めと)るまでになる。対岸に栄える出雲の王子須佐之男は、天国に預けられた際知り合った越(こし)の国(現新潟〜福井)の王子武沼河に父を暗殺され、自身、地下水脈へ突き落とされるが、鳥髪一族に救われ、その王女櫛名田と結ばれる。一方、淡島の直系の子孫に当たる羽山戸(はやまと)は、侏儒国(現南四国)の王女月美(つぐみ)と婚約していたが、彼の地への進出を計る出雲軍により、彼女は惨殺されてしまう。

   ◇      ◇
「いかがなされた、御老人?」
 青年は驚いて立ち止まった。
 浜辺を歩いて来たら、白い影が道を塞いでいたのだ。衣服(きもの)は元は、伸び放題の髪や眉や鬚(あごひげ)に劣らず雪のようだったのだろうか、今は穴だらけのボロと化し、ちぎれた裾が萎(しお)れた昆布のように垂れ下がり、日に焼けて逞しかった四肢も一面 、すり傷を負ってひどく皮が剥(む)け、血が吹き出ている。波打際には半壊の小舟が漂着しており、折れた櫂(かい)が流れに弄(もてあそ)ばれていた。きっと老人は、ひの舟に乗ってここへ辿り着いたのだろう。しかし、どこから……?。この有様では賊に襲われたか敵と戦ったに違いないが、最近はどこでも小競合(こぜりあい)の話は聞かない。妻の八上(やがみ)を狙う鬼達には事欠かないが……。
「御老人、手当をして差上げますから、一緒においでなさい。」
 青年は思い切って、相手を抱え起こした。
「ア、ア、何をする……!?」
 老人は弱々しく呻き、抵抗しようとしたが
「御安心下さい。私は刺国大神(さしくにたいしん)の孫で、八千矛(やちほこ。大国主の別 名)と申す者−−妻の家が、すぐ近くにあるのですよ。」
青年は軽々と相手を背負い、歩き出した。
「刺、国……?」
 老人は呟いたが、その名前が不意に今までの記憶を呼び覚ましたとみえ、
「すまんですなア、お手数をかけて……。」
 感涙に咽(むせ)ぶように、広い背中に頭をすりつけた。
「困った時はお互い様です。」
 八千矛青年は首を振り、
「それより、一体どうなさったのですか?お差支えなければ、簡単に訳をお聞かせ下さらぬ か?」
 励ますように問いかけたが、
「わしは、隠岐に住む羽山戸と申す者。須佐に夜襲をかけたのじゃが、返り討ちにされ申した。」
 老人の言葉に、
「では、あなた様は『日栖(ひす)の宮』の大王(おおきみ)……!?」
 一瞬、立ちよどんだ。
 隠岐は対海(つみ=対馬)や一大(いちだい=壱岐)、両児島(ふたごのしま=現福岡県沖の島と小屋島)から成る「天国」発祥の地であり、島前(どうぜん)の「日栖の宮」は大国(おおくに=後の出雲)でも尊敬の的である。が、三ツ児島は以前から大国の須佐一族と仲が悪く、争いを繰り返していた。隠岐の実権は羽山戸の嫡男庭高津日(にわたかつい)が譲り受けていたが、大王羽山戸の勢力は第一線から退いた後も隠然たるものがあった。その大王自ら乗り出して来たのは、長いもつれに今度こそ終止符を打ちたいと思ったのか?。或いは、余程恨みが深いのか?。
 何にせよ、須佐への夜襲(ようち)は失敗した。けれども、羽山戸は諦めまい。回復すれば、新たな戦略を練り始めるだろう。須佐の方も用心を怠るまいし、逆に自分達が急襲(ふいうち)を食わせるかもしれない。羽山戸は、袖すれ合うも多生の縁の論法で、こちらにも援助を依頼するだろうか?。行き倒れの老人を救っただけの積りが、とんでもない事に関わる羽目になってしまったのか……?。
 八千矛の心に悔いが兆した。しかし、今更怪我人を放り出す訳にもいかない。
 更に浜辺を進んで行くと、松林の奥に一塊(ひとかたま)りの家々が見えて来た。薄青い炊事の煙が立ち昇り、家の前後には水汲みでもしているらしい女の姿がチラつき、さざめきが聞こえる。
 八千矛は、門に当る草むらが幾つもの輪に結ばれ、潅木の枝が無造作に折られているのを認めた。今日は客が来ている、と仲間に知らせる合図だ。草の輪の数が、客が何人かを示している。
「まあ、八千矛様−−。」
 明るい声と共に、壷を抱えた娘がレンゲの裳を翻(ひるがえ)して駆け寄って来た。妻の八上だった。
(続く)

    ◇      ◇
〔後記〕
 今回から、舞台は又、出雲へ戻ります。従来で言う「大国主」は、私は人名ではなく、「大国の主」という肩書きとしました。彼の妻八上が、来客があるのを教える為、家の前の草木を折ったり結んだりしたのは、漢字渡来以前の倭人がこうして意志伝達の手段としていた、との中国の史書の記述に従ったものですが、『万葉集』(岩波文庫版)の、

 妹門 去過不得而 草結 風吹解勿 又将顧
(いもがかと ゆきすぎかねて くさむすぶ かぜふきとくな またかえりみむ)
<第十二巻三〇五六番>

 という読み人知らずの相聞歌も、従来解釈されていたように恋人の家の前の草木にラブレターを結び付けたのではなく、ラブレターを表す形に草の葉を結んだのだとしたら、風が吹いて来ないようにと振り返り振り返りしながら道を歩いて行く、という下の句がよりリアルになりますし、又、この歌自体、漢字渡来以前のかなり古い時代に遡る作品の可能性が出て参ります。現代でも日本各地に標縄(しめなわ)その他を結ぶ行事が残っているのは、そういった時代からの「伝統」であり、縄文人の南米渡航が史実なら、インカ帝国の「キープ」(縄文字)も日本から元々は伝えられたのでしょうか……?。 (深津)


『歎異抄』と現代  円熟の息吹き伝える書 古 田 武 彦


和田家資料の広がり 支倉常長と山口与市 原町市 原 廣通


信州の高良社

菊 の 紋 章 と 九 州 王 朝

長野県白馬村 浅野雄二

 緑が濃くなって夏鳥の季節を迎えました。ご無沙汰しております。「和同開珎」については、稲と銭の交換価値に関連し、銅銭と一緒に理論付ける必要があり、「銅銭」の重量 例を調べているところです。
 会報二五号の「高良玉垂命と七支刀」興味深く、何回も読んでいます。と云うのは四月十八日、中山道を歩いていて、以前から気になっていた八幡(やわた)宿(北佐久郡浅科村)の高良社に立寄ったところ、同封写 真のような紋章のある重要文化財の本殿だからです。
 私はこの紋章が気になり、
 1).古田武彦氏の『古代史六〇の証言』を再読したところ、五三「七支刀をもつナゾの五神体・こうやの宮」の「こうやの宮の当主」すなわち玉 垂命が「七五桐」をつけておられ、本殿向かって右の桐の紋は高良天道根尊を祭ったものと思われます。
 2).『長野県文化財めぐり』によれば「古代より東信地方に繁栄していた滋野氏の一族望月氏が…」とあり、大町図書館で『望月氏の歴史と誇り』という本を発見、「系図」「神社」「紋章」の記事から「三ツ柏」も使っていることが分かりました。
 そして系図(分家大草家所蔵のもの)から天道根尊を始祖としており、この名前はさきの古田氏の『古代史六〇の証言』五四「残っていた神々の系図」の中にありました
<編集部注・高良大社蔵『高良記』所収の「系図」>。本殿向かって左側の「三ツ柏」は高良社を祭った望月氏(或は滋野氏)を祭ったものと思われます。
 3).すると中心の菊の紋章は誰を祭ったのでしょうか。平凡社『国民百科辞典』の紋章には「菊と桐は天皇家の私紋であり、鎌倉時代にはじまるといわれ、公式の場合は『日月』の紋が用いられた」とあります。九州王朝の大王(天皇)の紋が「菊」だったのではないでしょうか(近畿天皇家はそれを踏襲した)。中央の祭神は九州王朝の大王(天皇)になった玉 垂命と思われます。

 ご参考になる程のものではありませんが、写真・コピー同封お送りします。

  二伸 古田先生が松本夏季大学第一講に登壇されます。私も聴講したく、今日申込みました。記事同封します。
以上。
<編集部注>松本中日文化センター主催。七月二八日二九日、「古代史の未来」。
会場松本市駅前会館。申込先電話〇二六三-三六-七二二七。受講料、一日二千円。
<写真解説>
長野県北佐久郡浅科村蓬田にある八幡社の高良社社殿。重要文化財(室町中期)

インターネット事務局注記2001.11.30
写真は省略


楕 円 国 家 論 と 幻 想 史 学


大阪府泉南郡 室 伏 志 畔

 わたしは前号でかぐや姫は倭国のラストプリンセスで、その光輝ある血を貰い受けようと大和朝廷(日本国)の成り上がりの大臣が求婚者となって群がったのが、『竹取物語』の背景であったと述べた。しかしその倭国王朝はわれわれのよく知る天(阿毎)王朝ではなく、藤王朝であるという耳慣れない言葉を記した。わたしはこの王朝名に至った経緯について少しく述べたいと思う。
 倭国から日本国(大和朝廷)への転換過程で、その神統譜が天照大神を中心に書き換えられたなら、その神統譜の内に案外、倭国主神は残存しているかもしれないとして考え、私は、前著『伊勢神宮の向こう側』で伊勢神宮の別 宮の中から月読命を掘り出した。しかし天皇制はもうひとつ蕃神として仏教にも片足かけていたことに気づいたわたしは、わが国仏教布教の大功労者として仏教界に君臨する聖徳太子という金看板を掲げた法隆寺もうさん臭く覚え、もうひとつの「明白すぎる神秘」を明らかにすべく『法隆寺の向こう側』を今度書き下ろした。発刊は少しずれて七月となったが、わたしはそこで聖徳太子が『日本書紀』に登場する蘇我・物部戦争とは、いわゆる磐井の乱に始まり白村江の戦いに至る倭国と大和朝廷の深刻な対立の中間決算であるとする幻視を飛ばし、大和朝廷内のコップの中の嵐として処理している通 説に対し、倭国論を大和朝廷史に内的に導入して解こうとした。そして例によって卦を立てて見たところ、その着想はなかなかのものだがたちまち蛆を湧かすとあった。私は勇気づけられる一方、その論が腐らさないために、大和朝廷の息のかかった文献に加え金石文もその指示表出において信用を置かないこととし、まったく文献史学の常識の域外に飛び出し、それら文献の幻想表出の意味を確定することによってそれを読み解く幻想史学の徹底を期した。
 私は何冊かの高名な聖徳太子論に当たったが、それらはこぞって正史『日本書紀』に鼻面 を引き回されていた。わたしは手品師の手際に振り回されている観衆は、『日本書紀』に鼻面 を引き回されている著作者それ自身と異ならないとする観点から、正史を解放すべく、聖徳太子を貨幣と同じ幻想的価値を封じたものとする寺山修司の一筆書きのイメージを下敷きに、聖徳太子はどこかの借り物で、大和史にはいない架空の存在であるとする聖徳太子架空論をもって始めた。しかし、それは法隆寺のもつ意味の分析にとって有効であったが、それ以上となると、空足を踏むしかなくわたしは次の手に困り深い懐疑に陥ったのである。私がようやく立ち上がることがてきたのは、倭国論のさらなる展開なくして私の論の深化もまたありえないとしたときである。しかし博多湾岸を向いたまま石化した趣きのある古田倭国論にそれ以上を望むのは難しく、私は如何にかして倭国を生ける大魔神のごとく動かしたい工作に腐心した。
 思えば倭国は遠い昔から姫彦制を取り、兄弟統治制を取っていたことは中国文献に詳しい。わたしはこれをほぼ同所における姫彦と兄弟の存在を仮定していたのだが、これを別 所における倭国二中心の暗示ではないかと読み替え、倭国楕円国家論を次第に膨らませていったのである。
 博多湾岸にある太宰府に本宮を置く天(阿毎)王朝に対するその東宮としての豊国(現・豊前)の藤王朝の出現はこれまでの古田倭国論を楕円国家論に切り替えるという苦しい模索の中から出現を見たのである。
 太宰府の倭国は大和朝廷のかつてのまたの名であったとして、大和朝廷史に溶解しつつもその名をかすかに留めたが、もうひとつの倭国である豊国東宮はまったく正史からその影を断った。その理由は大和朝廷が継承した王朝は倭国本宮ではなく倭国東宮の藤王朝であったがため、天皇制を最後にものにした藤原氏にとってそれはタブーと化したのである。
 私は『二中歴』の倭京二年(六一九年)の書き込み、「難波天王寺、聖徳造」を食い入るように眺めたのは、摂津の四天王寺の造営は推古即位 前紀の記述からすると五九三年となり、これこそもう一人の聖徳の九州における存在を語るものではないかと見たからである。ところで大芝英雄は『九州の「難波津」発見』(「市民の古代」十二集)は、もう一人の聖徳に至らずとも、もうひとつの難波の発見に至っていたのである。
 新たな打開を求め、昨夏、山崎仁礼男を誘い、もうひとつの難波である豊前に私が跳んだのは、対馬で今に至るも亀卜神事を続けている岩佐教治が信州での「邪馬台国徹底論争」の際、「それはだれの為に行っているのか」という質問に、ためらわず「豊国の大王」と答えた声がふいに記憶の深層から浮かび上がってきたことに重なる。
 国東半島の沖にある比売許曾神社に始まり宇佐神宮を回り、行橋市を中心とする廃寺跡を訪ね、田川市の香春神社に立ち寄り筑前の宮地嶽神社に至ったその旅行については、本紙の二一、二二号で山崎仁礼男が詳しく述べている。
 その中で豊前の国府跡を見て、そこから直線距離にして四、五キロメートルのところにある御所ケ岳神籠石を見るために山に分け入った先に、高いところでは切石を二〇段近く積み上げられた城塞が逃げ城(山城)として営まれていた。その山腹に立って我々は、その本丸はおそらく国府跡にあって、それがあの辺りなら、向こうが三韓の古瓦が出土した椿市廃寺ではないかと指さしていた。
 その前日、別府埠頭で大芝英雄に会い、先の大芝難波論で、倭国は多利思北孤より以前から太宰府に本朝(本宮)を置き、豊国に東朝(東宮)を開いており、実権は東朝がもっていたという瞠目すべき見解について問いただし、その東宮の位 置について尋ねたがところ、大芝英雄は今は忘れられたように叡野山願光寺が立つ椿市廃寺跡近くの別 所を示した。その近くを徘徊した私は国府跡にそれを求めている山崎仁礼男に軍配を上げていた。
 ところで最後に立ち寄った宮地嶽神社が幸運なことに古墳公開日に当たり、その長い羨道深く奥処まで立ち入ることができ、我々はその被葬者を通 説は天武天皇の妃となった尼子娘の父・胸形君徳善とし、古田武彦が多利思北孤としたげであったのに対し、その祭神が、勝村大神(藤の高麿)、息長足比売命(神功皇后)、勝頼大神(藤の助麿)とあるところから、息長足比売命(神功皇后)は後の大和朝廷の付会と考え、勝村、勝頼の二神に注目した。山崎仁礼男はこれこそ倭国の兄弟統治制の残存と考え小躍りし、かつてこの洞窟で西山村光寿斎がくぐつによる十三人立の筑紫舞を見たという証言から、『二中歴』の教到二年(五三二)「舞遊始」の記載から、磐井の乱(継体の乱)の後継王・葛子を示すファックスを送ってきた。わたしはこの葛子をクズコと読むのは大和朝廷の言い方で本当はカツコ、つまり勝子だとしたことによって、宮地嶽古墳の被葬者は、磐井の乱後の倭国復興王朝の始祖となった葛子(勝子)一党の兄弟・勝村、勝頼のものであるという思わざる結論に至った。
 その後、大海人皇子(天武天皇)の東宮大皇弟の分析から、大芝英雄がその東宮は皇太子を意味するのではなく倭国東宮の表示とした画期の論稿に出会い、わたしは聖徳太子もまた東宮聖王と呼ばれていることに気づき、『日本書紀』の東宮の表示を洗って見たところ、東宮(春宮も含む)の表示は十二を数えたが、その表示はなんと継体紀以後に頻出し、それ以前はまったく皆無であることを知った。この発見は、葛子を倭国復興王朝とする先の見解にぴたりと重なり、倭国東宮の出現はこの葛子をもって始まったとするほかないのである。つまり、継体紀以降に倭国は筑前の太宰府と豊前の難波に二中心をおく楕円国家へ変貌したのである。しかし正史は継体紀以後頻出したにちがいないこの倭国東宮の表示を、後に皇太子の意味に回収しようとしたのは、東宮大皇弟(天武天皇)を皇太子(天智天皇)の弟とすることなくして、その後の天皇制はありえなかったからである。かくして四歳年上と伝承される天武の栄えある系図はかき消され天智系図の中に取り込んだのは藤原不比等であった。この天皇制の変質とねじれの詳細について次号に回したい。
 ところで聖徳太子の異名である東宮聖王の意味は、倭国東宮の聖なる王、つまり豊国仏教の興隆の中心者の意味であり、そのまたの名である豊聡耳皇子が豊国の聡い耳と呼ばれる高貴な階級出身の皇子の意味と解するとき、この二つの異名は豊国の倭国東宮を置くとき、矛盾なくぴたりと重なるのである。とするとき、正史『日本書紀』の記す大和の聖徳太子とは倭国東宮の聖徳の付会なら、天武天皇とは白村江の敗戦後の混乱を利用して近江革命王朝を起した天智王朝を倒し、倭国東宮を大和に復活させた天皇とするほかない。
 しかし天武天皇に始まる天皇制構想は、持統天皇死後の不比等の画策の中で、『日本書紀』は天智天皇をもって大和朝廷の開祖とするによってまったくその実質を失い、不比等は母系系譜を利用して天皇を天武系から天智系にひねり、娘・宮子を文武天皇に妻はすことによってついに藤原氏から聖武天皇を出すよう謀り、天武の血脈を引き継ぐかに見えて天武構想とはまったく違う天皇制を創り上げたのである。
 かくして倭国東宮の奥所にあった倭(山跡)の再現として天武構想された大倭(大和)は、いつしかかつてから近畿にあったとする大和観へ変貌し、その結果 は、倭国は大和朝廷のかつてのまたの名として取り込まれ、天武の原郷としての倭国東宮の歴史も王朝名もまったく失われたのである。そしてこの王朝名の紛失は天皇家の姓の紛失と別 ではない。
 一体どこにその光輝ある名は隠されたのであろうかと私が疑ったのは、倭国の主神が伊勢神宮の天照大神を中心とする神社系譜の中に月読神社として収まっていたことに鑑みる。とするなら倭国東宮の王朝名もまた「明白すぎる神秘」の内にあるので、我々はそれを別 のものとして見ているから失われているにちがいないと幻視したとき、そそり立つように厳然としたのは藤原の名であった。
 思えばこの名は、中臣鎌足の死の直前に天智天皇が東宮大皇弟をして大織冠とともにさりげなく与えられたのである。しかし天武が構想したわが国最初の大都は藤原京というのだが、それは持統の即位 した鎌足生誕地の藤井ガ原に因んだものだというが、それこそが後世の正史記述者の天才的な付会ではなかったか。藤原の原には源、はじめの意味があることを知ったことによって、藤原は藤氏の源泉という意味があったのだ。とするとき、近江王朝を潰し倭国東宮を近畿に再興した天武天皇には、今こそ私は藤王朝の源泉に立ったのだとする自負があり、それが都の名となったのは、天武には昔の神々の居ますところが高天原なら、いま現人神の居ますところこそ藤原なのだとするところが、この名にあったからである。わたしは誣妄の言を弄しているのであろうか。実際、藤原氏は自家の家伝を『藤氏家伝』と銘打ったし、わたしが山崎仁礼男とともに、磐井の乱後の倭国復興王朝の祖とした葛子一統の兄弟とした宮地嶽古墳の被葬者の勝村大神、勝頼大神のまたの名は、それぞれ藤の高麿、藤の助麿と呼ばれていたことが、そのことを何よりも立証していたのである。倭国東宮及びそれを継承した天武王朝が藤氏の王朝であったことは、その名を消すことによってその実質を簒奪したその後の大和朝廷にあって、なぜに紫位 の位が尊ばれたかは、藤そのものがそれを指し示していたのである。(H一〇・五・二七)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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