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「山王日吉神社」考(2)明治の神仏分離と日吉神社の変遷(古田史学会報七号)へ

東日流外三郡誌は偽書ではない(2)北日本の歴史の再認識を教えるもの 青山兼四郎

古田史学会報 1995年4月26日No.6

「山王日吉神社」考(1)

日吉神社社殿は江戸時代に存在した

京都市  古 賀 達 也

はじめに

 『東日流外三郡誌』の完結を祈念して、秋田孝季らが宝剣額を奉納した山王日吉神社について、偽作論者たちから、同社は明治に建立されたもので、江戸時代(寛政年間)には存 在しなかったという反論が出されている(斎藤隆一「『寛政奉納額』スキャンダル」、田口昌樹「『東日流外三郡誌』騒動再報」、いずれも『季刊邪馬台国』五十五号所収)。その根拠として、寛政年間に同地を訪れた菅江真澄の遊覧記(外浜奇勝)に神社の存在が記されていないことや、明治十一年に相内村民から青森県令に提出された『旧社尊崇之儀ニ付願』の文章が指摘されている。また、地元関係者の「証言」と称して、同神社は社殿・御神体の他は昔から何もなかったとしているが、本稿では山王日吉神社が江戸時代に存在していたこと、同神社に宝剣額を含めは昔から様々な奉納物などが存在していたことを明らかにする。同時に、偽作論者の主張が調査不足による虚偽情報や史料誤読に基づいていることを指摘し批判する。

江戸期史料に見える山王宮

 安政二年に津軽藩が編纂した『安政二乙卯年、神社微細社司由緒、調書上帳』(弘前市、最勝院蔵)には、山王日吉神社の存在が次のように記されている(日吉神社宮司、松橋徳夫氏筆写 資料による)。

金木組 相内村
一、山王宮 一宇
 右草創年月相分不申候得共堂社破損之節は同村中にて再建仕来候
一、本社 栩葺ニ而建坪六尺四面
一、雨覆 板葺ニ而建坪東西一間半
           南北一間貳尺
一、拝殿 板葺ニ而建坪東西貳間南北四間
  (後略)

 このように、津軽藩による史料に山王宮(日吉神社)社殿・拝殿などの存在が記されている。安政二年の編纂であるから、寛政年間のわずか六十年ほど後のことだ。その時点でも、草創年月が分からないとあるのだから、かなり以前から存在していたことを示している。また、堂社破損の時は村で再建したと記されていることから、社殿や拝殿がずっと存続していたことが想像できる。江戸期に同神社が無かったなどという偽作論者の主張は、調査不足というよりも意図的に津軽藩の有名な神社調査記録を無視したとしか思えない。さもなくば、あまりにもお粗末な「調査」ではあるまいか。江戸期の存在の有無を論ずるのであれば、当然真っ先に調べなければならない同時代史料の調査を怠ったのであるから。
 なお、江戸期の神社記録は他にもあるので、引続き調査を進める予定である。 更に付言すれば、現社殿は戦国期の作であるとの調査報告も出されている。

 山の中腹には日吉神社の社殿がある。現在は覆堂に入っている一間堂で戦国期の建造と認められる。
(新野直吉「津軽山王坊の調査概報」、『秋大史学』二九号所収、昭和五十八年。『市浦村史』一巻にも紹介されている。)

 同概報は昭和五十七年に実施された山王坊発掘調査の結果に基づいている。社殿を戦国期の建造と認めた根拠が記されていないため現地での確認が必要であるが、調査概報での指摘であることから、何らかの根拠に基づいたものと思われる。一方、現社殿を明治期のものとする見解もあるので、慎重な調査が必要である。とりあえず、戦国期とする見解が存在することを本稿では紹介しておきたい。社殿建造年代については現地調査の上、後日報告する予定である。(つづく)


 これは会報の 公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一・二集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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